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プロパティマネジメント
仲介営業に紹介される賃貸オフィスビル、されないビル
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「仲介営業に紹介される賃貸オフィスビル、されないビル」のタイトルで、2026年1月9日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 第1章:「決まらない賃貸オフィスビル」に共通する“見えない壁” 「条件はそんなに悪くないはずなんだけど、なぜかずっと空いている」 「条件はそんなに悪くないはずなんだけど、なぜかずっと空いている」――こんな“モヤモヤ空室”に悩むオーナーやビル管理会社は、決して少なくない。立地はまずまず、賃料は相場並み、設備もそれなりに整っている。物件情報の数値/図面を見ても、特段の欠点は見当たらない。それなのに、内見案内の問い合わせすら少なく、月日だけが過ぎていく――。まったく無視されているわけではない。データベースにはちゃんと載っているし、物件情報も世の中に出回っている。でも、“紹介されていない”。あるいは、“紹介されても、推されていない”。その背後には、オーナーやビル管理会社の目には見えにくい、けれど確実に存在する“見えない壁”がある。それは、テナントではなく「仲介会社の営業担当」が無意識にその物件を“避けている”こと。もしくは、“推しきれずにスルーしている”という状態だ。 「決まるかどうか」は、仲介営業が握っている どんな物件も、テナントに良し悪しを判断してもらうには、まず誰かがその物件を紹介しなければ話は始まらない。その「誰か」とは、仲介会社の営業担当だ。彼らは日々、膨大な物件情報を捌きながら、「この案件は決まりそうだ」と感じたものに、限られた時間と労力を注ぎ込んでいる。ここで重要なのは、その判断が「この物件は決まりそう」という前向きな直感だけではなく、「これ、紹介したところでどうせ決まらないんじゃないか?」という“微妙な敬遠”にも左右されている、という点だ。この“避け”は、はっきりとダメ出しするものではない。ただ、「ちょっと扱いづらそう」「内見案内しにくそう」といった曖昧な感覚によって、紹介される物件の候補から外されていく。つまり、仲介営業にとって“紹介される物件”かどうか、この暗黙のフィルターを抜けられるかどうかが、実は最初の関門なのだ。ここで振り落とされた物件は、データ検索のリストには載っていたとしても、実際の内見案内の候補としてピックアップされることはなく、知らないうちに、なかったことになってしまっている。 「紹介されない物件」は、空室のブラックホールに落ちる いくら賃料を下げても、いくらトイレをリフォームしても、仲介営業に「紹介されないまま」になっている物件は、永遠に“選ばれない”。この「紹介されない状態」は、テナント募集資料に徴があるわけでもなければ、ビル管理会社のリーシングの月次報告に示されることもない。日常のやりとりのなかでも、問題点として、はっきりと言語化されることはない。だからこそ、オーナーや管理会社にとっては、気づきにくい。けれど、現場の仲介営業は、それを“感覚として”捉えている。──「このビル、ちょっと扱いにくいんだよな」そうした、ささやかな違和感が、紹介されないという個別の出来事として蓄積されていく。それぞれは単発の事象であったとしても、仲介営業の記憶の中で重なり合い、やがて「紹介しづらさ」という空気が、物件にまとわりついていく。明確なNG判断ではなく、いつの間にかみんなの手が伸びなくなっていく。そうなってしまえば、たとえ立地がよくても、物件のスペックが整っていても、紹介されず、内見案内されず、決まらない。“見えないスルー”によって、静かに空室ループに引きずり込まれていく。とはいえ、そのようなメカニズムで「紹介されない物件」があるからといって、それ以外のすべての物件が“積極的に紹介されている”わけではない仲介営業の現場では、「紹介される/されない」の境界線はいつも曖昧だ。ある営業にとっては「まあまあ」な物件が、別の営業には「ちょっと扱いづらい」になる。そしてその差を生み出すのは、物件の仕様や募集条件じゃなくて、ほんの些細な空気感だ。物件情報の図面の見やすさ、写真の印象、ビル管理会社のレスポンスの速度、説明のしやすさ――何気ない要素が、“思い出されやすさ”や“引っかかりやすさ”に影響している。つまり、「紹介される物件」とは、明確な基準で選ばれたものではなく、無数の現場感覚が重なった先に、ゆるやかに“浮かび上がってくる”ものだ。その“紹介される(可能性が高い)物件群”というレイヤーは、誰かが定義したわけでも、リストアップされたわけでもない。けれど、仲介営業たちの頭の中には、確かに存在している。それは、仲介の現場で共有される“空気のような了解”として働いている。このコラムでは、その空気の正体に迫っていく。仲介営業が物件をどう“感じ”、どう“スルーし”、どんなときに“推せなくなる”のか。その“名付けられない違和感”に、実務の現場から静かに向き合っていく。 第2章:仲介営業が“内見案内しづらい”と感じる賃貸オフィスビルの7つの実務ポイント 仲介営業が、物件を「紹介する/しない」を線引きするとき、いちばん先に見ているのは、物件のスペックでも家賃でもない。内見案内時のストレスと段取りの軽さ。ここに引っかかった時点で、その物件は静かに“候補落ち”する。紹介されない理由は、「物件力がない」からじゃない。むしろ、「ビル管理会社の実務対応」のなかに見えてくる。現場の仲介営業が“内見案内したくなる状態”になってるかどうか。答えは、内見案内の最中にちゃんと見えてくる。 ①内見案内の事前対応が遅い 問い合わせしても返事が遅い。もしくは返ってこない。内見案内の調整をお願いしても半日以上音沙汰がない。物件の基本情報を確認したいだけなのに、すぐに折り返しがない。こういう“反応の鈍さ”は、それだけで敬遠される。いまどき、みんなスマホ持ってる。気合があれば、すぐに折り返しくらいできるでしょっていう話。仲介営業の現場はスピード勝負。すぐに動ける物件から優先して紹介されるのが当たり前で、反応が鈍いビル管理会社の物件は、徐々に候補にすら入らなくなっていく。 ② 内見案内のときの対応 最近は、スマートロックやキーボックスを設置して、仲介営業に「勝手に見てきてもらう」スタイルも増えてきた。省力化、効率化ってことなんだろうけど、それって本当に正解なのか?現地に誰もいない内見案内は、印象に残らない。説明もない、伝わらない、記憶に残らない。仲介営業にとっても、テナントにとっても、「ただ見て帰っただけ」になる可能性が高い。ちなみに、当社の管理物件では、原則として、専任のリーシング担当が同道する。鍵を開けるだけじゃない。その場で設備の使い方、ビルの特徴、改修履歴、テナントの動きまで、ちゃんと伝える。内見案内が「場をつくる仕事」になっているかどうか。ここに差が出る。仲介営業にしてみれば、「内見案内しやすい」と感じる物件ってのは、説明のしやすさとセットになってる。だからこそ、「あのビルはちゃんと説明してくれたな」という印象が、あとで推薦されるかどうかを左右する。もちろん、同道が重たく見えたら逆効果。重要なのは、連絡すればすぐ調整できる段取りがあるかどうか。スピード感と“気持ちのいい対応”が整っていれば、同道はむしろ武器になる。 ③エントランスが暗い・入りにくい ビルの構造上どうにもならないケースもあるんだろうけど、仲介営業の感覚ってのは正直で、内見案内の入口で「連れて来づらい」と感じた時点で、そのビルはもう負けてる。だからこそ、エントランスの照明を明るめに設定する、余計な掲示物やよれたマットは外す、視界のノイズを減らす、そういう細かい配慮が効いてくる。大事なのは、「このビル、ちゃんとしてるな」っていう第一印象を、テナントのみならず、仲介営業に持ってもらえるかどうか。たとえ、築古の賃貸オフィスビルだったとしても、“気合い入ってる感”は伝わる。 ④ 執務スペースの室内が暑い/寒い/臭う これ、内見案内の現場で一番冷めるポイントかもしれない。夏はサウナ、冬は冷蔵庫、湿気とタバコの臭いが混ざった室内。内見案内時、執務スペースの室内がそんなだった瞬間、仲介営業もテナントも「うわ……」となる。それだけで、その場で選択肢から消える。でもこれって、内見案内のちょっと前に行って空調をつけておくだけで全然変わる。やるかやらないか。結局、ビル管理会社のリーシング担当の気持ちの問題。 ⑤清掃が甘い 内見案内で見られてるのは執務スペースだけじゃない。エントランスから廊下、給湯室、トイレ、共用部を含めた“内見案内ルート全体”。そこで埃がたまってたり、壁が薄汚れてたり、不要な什器が放置されてたりすると、もうその瞬間に仲介営業の心の中では“ナシ判定”が下る。築古だからこそ、清潔感が勝負になる。同じコストをかけて日常清掃の業務委託をしていたとしても、必要なのは、ちゃんとしておこうという気遣いと日常的な確認。 ⑥物件情報のデータと図面が古い・ズレている・面積が曖昧 物件情報の数値と図面は、仲介営業にとっての“説明の武器”。それが現況と違う、天井高が不明、OAフロアなのかも分からないとなれば、仲介営業はもう紹介しようとは思わない。図面が古いならば、ビル管理会社であれば社内で簡単なCADを使える人はいるでしょうに、頼んで描き直せばいいんじゃないかな。「物件情報の数値と図面が整理されてる」っていうだけで、テナントの仲介営業の印象は変わってくる。 ⑦物件情報の写真が少ない/画角が雑/現況とズレてる 物件情報の写真もまた仲介営業の武器。「これが今の執務スペースの室内です」とちゃんとした写真を見せられるだけでも、テナントの反応はまるで違ってくる。でも、ありがちなのは、外観1枚と暗い室内写真が2枚だけ。しかも、内1枚はピンぼけして、見切れてて、現況とズレてる、そんな状態だったりする。仲介営業は、そういう物件を紹介する物件の候補には入れない。ただそれだけのこと。現況を反映した明るめの写真が数枚あれば十分。新築やリノベ物件なら、プロに撮ってもらってもいい。まじで、それだけで印象が変わってくる。 ビル管理会社が“リーシング対応に慣れてるかどうか”がすべてを決める ここまで挙げた7つの要因、全部突き詰めると、ビル管理会社が「仲介営業の現場感」を分かってるかどうか、って話になる。・問い合わせにすぐ返す・内見案内をスムーズに段取りできる・あらかじめ空調を回しておく・清掃に気を配る・物件情報の数値/図面や写真をちゃんとアップデートして渡せる不思議な気もするが、いずれも、物件のスペックじゃなくて。段取りの話だ。でも仲介営業から見れば、それがすべて。紹介される物件になるか、候補にすら入らないか。その分かれ目は、意外とこういう“地味だけど重要なこと”にある。 第3章:「紹介される物件」には、“内見案内のイメージが湧く”空気がある 「この物件、いけそうか?」で仲介営業は動いている 仲介営業は、物件のスペックを一つひとつ冷静に比較検討してから紹介を決めているわけではない。現場ではもっと直感的に、「今回の案件でこの物件、いけそうか?」という感覚で動いている。そこにあるのは、「勝てそうな空気感」があるかどうか──つまり、仲介営業が“無理なく動けるイメージ”を持てるかどうかが、紹介されるか否かの分かれ目になる。 物件のスペックは“最低限の通過点”それ以上ではない 築年数、空調方式、トイレの仕様、共用部のデザイン──これらを含めた物件のスペックは、仲介営業にとって「見ておくべき前提条件」ではあるが、紹介されるか否かの決定打にはならない。実際、築30年を超えていても即決される物件はあるし、逆に築浅であっても、内見案内すら敬遠される物件もある。その差を分けているのは、「内見案内に踏み切れるかどうか」という仲介営業側の心理的なハードルだ。同じエリア、同じ坪数、同じ賃料水準の物件が3つあったとしても、仲介営業が案内するのは、“無理なく動ける方”である。 仲介営業は、“決まらない内見案内”を最も嫌う 仲介営業にとっての最大のリスクは、「決まらない内見案内」に時間と手間をかけてしまうこと。だからこそ、少しでも不安要素がある物件は、無意識に避けられていく。たとえば以下のような経験があると、その物件については、以降、なんとなく避けられてしまうことになる・内見案内の段取りが面倒(ビル管理会社の連絡が遅い・返信が曖昧)・物件情報の数値や図面と実際の現地にギャップがある・共用部など、現地での印象が説明しづらい・過去に提案したが、決まらなかったことがあるそうした小さな“引っかかり”が重なると、対象物件は仲介営業の記憶のなかで「いけそうにない」として扱われるようになっていく。 空室の原因は、“紹介されないこと”にある場合もある 空室が長引くと、つい「賃料が高いのか?」「設備が古いのか?」と、物件側の条件に原因を探しがちだ。けれど実際には、仲介営業の側で「紹介する対象に入りにくくなっている」ことこそが、最大のボトルネックになっているケースも多い。しかも、空室が長期化しているという事実そのものが、営業にとって説明しにくい要素になり、「今回もやめておこうか」という静かなスルーを誘発する。その結果、また空室が続く──という悪循環に陥ってしまう。 空室対策は、“紹介されやすい状態”を整えることから始まる 本当の空室対策は、物件のスペックをいじることでも、過剰な演出をすることでもない。まず必要なのは、「紹介しやすい状態」を地道に整えることだ。たとえば以下のような準備があると、仲介営業はぐっと動きやすくなる・数値・図面・写真などの物件情報が正確に揃っている・現地の状態が安定している(照明、空調、清掃など)・ビル管理会社のレスポンスが早く、やり取りにストレスがない・「この物件、こういう人なら合うかも」と説明しやすい特徴がある仲介営業が「これは勝てそうだ」「案内のイメージが湧く」と感じた瞬間、その物件は、自然と“紹介される物件”に引き上げられていく。そして、そこに乗れなければ、テナントに選ばれる以前の段階で、勝負は終わってしまう。 第4章:「内見案内される物件」には、気配りとテンポがある 「紹介されない理由」を潰すだけでは、紹介される物件にはならない 多くのビルオーナーやビル管理会社が空室対策としてまず手をつけるのが、共用部の清掃や物件写真の撮り直し、図面やスペック表の更新といった「基本的な整備」だ。それ自体は間違っていない。だが、それだけで仲介営業の記憶に残る“紹介される物件”になれるかというと、話は別だ。仲介営業が本当に内見案内したくなるのは、「このビル、気が利いてるな」と感じたときだ。その評価を左右するのは、紙の上の物件のスペックではなく、内見案内の現場で体験する“動きやすさ”の感触だ。この章では、その感触を生む「内見案内設計のセンス」について掘り下げていく。 「清掃されている」だけでは、必ずしも「ちゃんとしている」とは思われない たとえば、共用部を清掃しておくこと。確かに重要だ。だが、それは“やってあって当然”の話だ。仲介営業が評価しているのは、さらにその先──「あと一歩、気が利いているかどうか」である。たとえば・内見案内前に十分な時間をかけて空調を回し、暑さやニオイを感じさせない・エントランス清掃のタイミングを調整し、余計なものが視界に入らない空間を整える・エレベーターのカゴを1階に戻しておき、スムーズに内見階へ移動できるようにする・ビル管理会社のリーシング担当が玄関で出迎え、すぐに内見が始められる体制にしておくこうした細やかな配慮の積み重ねが、仲介営業に「このビル、内見案内しやすいな」という安心感を残す。これは、築年数でもリノベーションの有無でもなく、内見案内において「現場の気配り」でつくられる感触だ。この気配りは、単なるマニュアル対応でもなく、一方的な営為でもない。仲介営業との間にある、言葉にもならない阿吽の呼吸のようなやりとり――互いの動きや感覚に呼応しながら整えていく、繊細なコミュニケーションの積み重ねである。 “スムーズに終わる内見案内”が、次の紹介を引き寄せる 仲介営業にとってもっとも重要なのは、「内見案内がスムーズに終わるかどうか」だ。1日に複数の物件を回る営業にとって、段取りの読みやすさ・所要時間の予測しやすさは重要な評価軸となる。たとえば・ビル管理会社との連絡がスムーズで、返答も的確・現地に着けばすぐ内見案内が始められ、無駄なく説明できる・所要時間の見通しが立ちやすく、次の予定にも響かないこうしたテンポの良い内見案内は、仲介営業の中に「またこのビル使いたい」という記憶を残す。つまり、“スムーズな現場体験”が、「紹介される物件」の記憶を形成していく。 「説明しやすさ」は、仲介営業にとって最大の安心材料になる 整えられた物件情報(図面・写真・スペック表)は、ただテナントに渡す資料ということだけではない。仲介営業がテナントに説明するときに立つ“言葉の足場”であり、その安定感があるかどうかが、紹介に踏み切れるかの判断基準になる。たとえば・「天井高2,600ありますよ」・「このフロア、士業が入っていて静かです」・「トイレは去年リニューアル済みで照明もLEDです」これらが自然に口をついて出るように整っていれば、仲介営業は安心して内見案内できる。さらに、現地でビル管理会社のリーシング担当がその場で補足できれば、仲介営業は“さらに動きやすく”なる。重要なのは、「どんな風に説明されたいか」まで見越して整えてあること。それが、“説明しやすいビル”と評価される分岐点になる。 「仲介営業の動線」から逆算して設計する 結局のところ、空室が埋まるかどうかの入り口は、「紹介されるかどうか」だ。そしてその鍵を握っているのは、テナントではなく仲介営業だ。だからこそ、すべての整備と準備は「仲介営業の動線」から逆算して考えるべきだ。仲介営業の動きは1.物件情報を見て候補に入れる2.内見案内の段取りを組む3.現地で内見案内し4.内見案内後に説明を補足し5.テナントの反応を踏まえて再提案するこの流れが“つっかえずに流れる”ビルこそが、紹介される。そのために必要なのは、物件のスペックの高さではなく、「段取りと現場の整え方」だ。 空室を埋める前に、“内見案内される条件”を整える 空室が出たとき、すぐにリノベや賃料調整に走る必要はない。その前に問うべきは、「このビル、仲介営業に紹介されているか?」ということだ。仲介営業にとって・“動きやすい”ビルか・“面倒くさい”ビルかこの分岐は、たった数秒のテンポとわずかな段取りの差で決まってくる。だが、そのわずかな差を丁寧に積み上げている物件だけが、現実に“次も紹介される”物件になっている。空室対策の成否は、すでに内見案内の現場で決まっている。 第5章:「決まるビル」とは、仲介営業が“最後に推せる”ビル 「テナントが選ぶ」のではなく、「仲介営業が選ばせている」 テナントが最終的に契約するのは、内見案内された複数の物件のうち、たった1件だけ。だが、その選定を誰がどう後押ししたか──そこを見落としてはいけない。内見案内が終わると、営業担当は必ず聞く。「どうでしたか?」と。返ってくるのはたいてい、曖昧な反応だ。・「まあまあ良かったです」・「他の物件も見てみたいですね」この曖昧なやりとりの裏で、営業担当はすでに判断している。「このビル、決め打ちしていいか?それともやめておくべきか?」この“静かな線引き”が、提案の流れを決めている。つまり、「決まるビル」とは、仲介営業が「選ばせたい」と思ったビルだ。 「推せるか/推せないか」は、自分の仕事のリスクで決まっている 仲介営業がビルを“推す”とき、そこには「この案件、自分が責任を持てるか?」という明確な判断がある。判断の基準はシンプルだ。「あとで面倒にならなそうか?」という一点。たとえば以下のような要素が揃っていると、営業は安心して提案できる・ビル管理会社の対応が的確で速い(質問に即答できる)・内見案内の段取りがスムーズで、現地での補足も破綻がない・物件情報(図面・写真・数値)の精度が高く、現況と整合性がとれている・物件のスペックが明記されていて、テナントの質問にも即答できる・入居後にトラブルになりそうな要因が見当たらない(過去のクレーム事例も少ない)これらは、すべて「自分の仕事にリスクが跳ね返ってこない」ことを確信できる材料であり、“推せるかどうか”は、それをどこまで仲介営業が肌で感じられるかで決まる。 「わからない」は、最大のブレーキ 仲介営業にとっての“ちゃんとしてるビル”とは、「スムーズに説明できるビル」のことだ。逆に言えば、説明に詰まりが出た瞬間に「推せない」側へ傾く。たとえば・物件情報の数値/図面と現地にズレがある・物件のスペック資料に載っていない仕様がある・「この点ってどうなってます?」とテナントに聞かれて、物件情報を見ても、回答しようがない。・「あとでビル管理会社に聞いておきますね」が何度も出てくるこうした些細な「わからなさ」の積み重ねが、仲介営業の判断を鈍らせる。「何かあったらまずいな」という不安が勝った時点で、そのビルは“提案候補”から外れる。 最後の一押しが“自然に出る”ビルだけが残る 最終的にテナントが意思決定をする場面で、「ここで決めませんか?」という一言が自然に出せるかどうか。そこには、仲介営業の中で、確信が育っている必要がある。・ビル管理会社の対応に不安がない・入居後のトラブルやクレームが想定しにくい・提案後、フォローの必要があまりなさそうこれらの「先が読める」「リスクが低い」という安心感が、仲介営業の背中を押す。だから、“決まるビル”には、必ず「安心して推せる空気」が流れている。 第6章:仲介営業の“つま先”が止まるビル ──「内見案内されない理由」は、スペックではなく“足もと”にある 「なんとなく違う」──物件は“頭”ではなく“足”で選ばれている 「今回はやめておきましょうか」「この物件、ちょっと違う気がするんですよね」仲介営業が内見で物件を訪れたとき、物件資料を見返すわけでもなく、募集条件を詳細に比較するでもなく、その場の“空気”を感じ取って、すっと引き返すことがある。その判断は、頭ではなく身体――もっと言えば、「足」がしている。・なんか足取りが重い・立っていて落ち着かない・暑い、臭い、声が響く・どこをどう説明していいかわからない物件情報の数値/図面にもスペック表にも書かれていない、言語化しにくい情報。だがその微細な“ノイズ”が、「この物件はやめようかな」と営業の“つま先”を止めてしまう。 「違和感」とは、理屈よりも先に反応している身体のセンサー たとえば──・エントランスの空気がもたついている・共用部に、空室のよどみが漂っている・ドアノブの手触りが異様に古い・声が反響して落ち着かない「・ここを見せよう」と思える軸がないこうした要素は、必ずしもテナント本人が認識するとは限らない。でも、仲介営業がその空間でうまく動けないと、「やめておこう」という判断が生まれる。「このビル、図面で見たときは良かったんだけど、内見してみるとちょっと違いましたね」──テナントがそう言うとき、その“ちょっと違う”の正体は、仲介営業と共有された言語化されない違和感なのだ。 「ノイズがないこと」が、物件を自然に“通過”させる では、仲介営業がスムーズに案内できる物件には、何があるのか?実は、目立った魅力や演出があるわけではない。むしろ、「邪魔をしない」「拒否されない」状態があるだけだ。たとえば・暑くない/寒くない・臭くない・暗くない・動線に迷わない・共用部に気まずさがないこうした「ノイズのなさ」は、いわば“マイナスの排除”にすぎない。でも、それこそが仲介営業の足どりを軽くし、説明のテンポを崩さず、自然に内見案内ルートを組み立てられる鍵になる。 「選ばれるビル」は、拒否されなかった物件なのかもしれない 成約に至るビルが、必ずしも魅力的とは限らない。仲介営業が止まらず、テナントが違和感なく進んでいった結果、「ここで決めましょうか」と静かに決まることがある。つまり勝負を分けているのは、“推せる魅力”ではなく、“拒否される違和感”がなかったかどうかだ。仲介営業が立ち止まらず、説明が詰まらず、つま先が止まらない状態で動けた物件。それが「決まるビル」の共通点である。必要なのは、「整っている」こと。その整いは、仲介営業の身体が反応しない“静かな正常さ”のことだ。言い換えれば、物件が仲介営業という回路にスムーズに接続される条件が、きちんと揃っているということ。それだけで、紹介も、内見案内も、提案も、流れるように動き出すのだ。 第7章:その賃貸オフィスビルは、“紹介される物件”として認識されているか? ──仲介営業の「世界」からこぼれ落ちた物件たち 「スペックは悪くないのに、なぜか決まらない」 物件情報の数値/図面を見れば、特に大きな欠点は見当たらない。立地も悪くない。賃料も相場通り。設備も古すぎるわけじゃない。──それなのに、内見案内も入らず、問い合わせも続かず、いつまで経っても空室が埋まらない。オーナーやビル管理会社にしてみれば、「なぜ決まらないのか、まったく分からない」と首をかしげるしかない。だが、仲介営業の側から見ると、そうした物件にはある“距離感”が生まれている。それは、物理的な距離ではなく、“紹介される世界”から心理的にこぼれてしまっている物件という距離感だ。 仲介営業の中にある、“紹介される物件”という幻想 仲介営業は、毎日何十、何百という物件情報に目を通している。だが、そのすべてを一物件ずつ比較検討している時間はない。仲介営業の判断は、データ、数値による評価というより、「扱える気がするか/しないか」という感覚で下されている部分が大きい。・「このエリアの物件は大体スムーズに進む」・「このビル管理会社は、現況とのズレが少ない」・「このシリーズの物件は、内見案内しやすい」こうした“感覚的な地図”は、営業個人の経験に加え、同僚や業者間の会話、成功体験・失敗体験の共有のなかで、共有知のようなかたちで形づくられている。つまり、営業担当の頭の中には、「紹介していい(紹介できる)物件」のイメージが、幻想として漂っている。その幻想に映り込めない物件は、物件のスペックに見るべきポイントがあったとしても“存在しないも同然”になってしまう。 「物件情報がある」≠「紹介の対象になっている」 物件情報が届いている、ポータルに掲載されている、メールで案内された――それは物件の情報が“存在している”というだけにすぎない。仲介営業の頭の中で「内見案内候補」として浮上してこなければ、その物件は紹介されない。たとえば、ビル管理会社のリーシング担当が、仲介営業に対してアプローチをしたとしても・物件情報の数値/図面を送ってもスルーされる・内見調整の提案をしても、後回しにされる・現地案内をしても「また今度」と流されるこうして、物件は静かに仲介営業の思考の“視界の外”へと押し出されていく。これは、テナントに「選ばれなかった」物件ではない。「そもそも選ばれてすらいない」紹介されていない物件である。 「紹介される物件」から、こぼれていく過程 仲介営業の中で「紹介される物件」として認識されるには、小さな記憶の積み重ねが必要だ。逆に、その信頼が損なわれるのも、一つひとつの些細な体験から始まる。・現地と物件情報の写真が微妙にズレていた・ビル管理会社との連絡がちょっとかみ合わなかった・内見案内時に少し説明が詰まった・テナントから不満が出たことがある・過去の案件で、何となくスムーズに進まなかったこうした断片的な違和感が、やがて「なんとなく扱いづらいビル」の印象となって蓄積する。さらにやっかいなのは、それが個々のビルだけにとどまらず、ビル管理会社の名前や物件ブランドごとに“印象の連鎖”が起こることだ。いつの間にか「この管理会社の物件、なんかやりづらいんだよな」と、無意識に敬遠されるようになっていく。 選ばれないのではなく、「認識されていない」状態 ここが重要なポイントだ。紹介されないビルは、「選ばれなかった」のではない。“選ばれる以前に、見えていない”のである。・物件のスペックは整っている・募集条件も妥当・物件情報の数値/図面も写真も更新されている──にもかかわらず、案件が動かないのは、その物件が仲介営業の中にある「紹介できる物件」の幻想に映っていないからだ。これは、テナントに「評価されなかった」という問題ではない。そもそも“見えていない、視界に入っていない”という問題なのだ。 空室対策は、「紹介の風景」に再び入り込むことから始まる 空室が埋まるビルは、必ずしもスペックで勝っているわけではない。ただ――紹介されている。それだけだ。物件情報が共有され、案内が組まれ、内見が実施され、候補に上がる。つまり、「紹介される物件」として、日々の営業プロセスの中に位置づけられている。だから空室対策として、・物件情報の図面を更新して、磨くこと・物件情報の写真を演出すること・募集条件を調整することこれらはもちろん有効な手段だ。だがそれらよりも先に、本質的にテコ入れすべきは、「紹介という現実」の中に、再びそのビルを映り込ませることにある。 「紹介される幻想」に、もう一度参加すること 仲介営業は、毎日物件情報を見て、扱っている。そのなかで、誰に言われるわけでもなく、いつしか「紹介していい物件とは何か」という暗黙の了解が形成されていく。それは、誰かが明示的に選んでいるわけではない。でも確かに、「扱える物件の気配」は滲み出ている。・メール対応の早さ・質問への回答の正確さ・現地の内見案内のスムーズさ・雰囲気のノイズの少なさ・物件資料の写真・図面の見やすさそうした小さなやり取りの積み重ねが、「あのビルなら紹介できそうだ」という幻想を静かに育てていく。そしてこの幻想の中に、物件がもう一度参加できたとき、はじめて“空室が埋ま”っていく。 勝負は、「物件のスペック」や「募集条件」だけじゃなく「意識の中に存在しているか」 空室を抱えるビルが、まず意識すべきは、「リノベーションをした方が」「募集条件を合わせた方が」についての検討はさておいて、問うべきは、「このビルは、いま仲介営業の頭の中に存在しているか?」ということだ。わずかな違和感の解消、説明のしやすさ、内見案内のテンポ感、応対の信頼感――そうした繊細な相互作用のなかで、物件は徐々に「紹介される風景」に滲み出していく。このプロセスは、いわば共同幻想の境界線を少しずつ湿らせる作業に近い。乾いて離れてしまったビルを、じりじりと“中”へ引き戻す営みだ。空室対策とは、募集条件調整、リノベーションだけじゃない。「紹介される物件」として、現実のなかにもう一度浮上できるかどうか。その一点にかかっている。 最終章:賃貸オフィスビルは“扱われる”ことで、息を吹き返す ──「紹介される」という現実に、もう一度つながるために いま、賃貸オフィスビルの空室に悩んでいるオーナーの中には、募集条件を見直して。リノベーションも手掛けて、あとは運かタイミングの問題だと感じている人も少なくないかもしれない。だが、本当に問い直すべきなのは、そういった「建物そのもの」なり「条件」ではなくて、そのビルがいま――仲介営業の“日常の風景”に、ちゃんと存在しているかどうかだ。 賃貸オフィスビルは、「紹介される物件」という“流通”の中で初めて存在する どれだけ良い条件で募集を出しても、仲介営業の意識にのぼらなければ、その物件は紹介されない。 紹介されなければ、案内もなく、提案もされず、選ばれることもない。賃貸オフィスビルの情報サイトに掲載されていようと、物件の写真が綺麗だろうと、「流れていない川」に浮かぶだけの存在になってしまう。この現実は残酷だが、正確でもある。空室が埋まるビルと、いつまでも決まらないビルとの差は、仲介営業に扱われて、「紹介される」かどうか、まさに、そこなのだ。 共同幻想は、意図的にはつくれない。けれど、整え、育てることはできる 仲介営業が「あの物件なら扱える」と感じるとき、そこに誰かの指示やルールがあるわけではない。それは、日々のやりとりのテンポ、空間の印象、説明のしやすさ、対応の正確さといった、無数の断片的な経験のなかから、じわじわとにじみ出てくる“気配”のようなものだ。この気配は、強引につくることはできない。だが、整えることはできる。たとえば、不自然な間取りにちょっとした内見案内の導線を足すこと。質問への回答を翌日に回していた内容を、当日中に返すこと。どれも地味だが、そうした小さな対応の積み重ねが、仲介営業の身体と意識の中に「この物件、扱いやすいかもしれない」という感覚を、確実に残していく。そして、その“感覚”が一人だけでなく、複数の仲介営業のあいだで、なんとなく共有され、なんとなく語られ、なんとなく思い出されるようになったとき――それはもう、“共同幻想”として立ち上がっている。誰かがつくるものではない。だが、確かに「そこにある」と皆が思い始める。その幻想の中に入り込めた物件だけが、「紹介されるビル」として再び現実に浮かび上がってくるのだ。 空室対策とは、「存在を取り戻す」ための運用である いったん、仲介営業の記憶からこぼれ落ちたビルを、もう一度“紹介の風景”に戻すには、それなりの時間と丁寧な対応・運用が必要になる。だが、それらの努力によってビルが再び扱われはじめた瞬間、空気は確実に変わる。物件のスペックや募集条件で他を圧倒できないとしても、仲介営業の動線の中に入り、意識にのぼり、身体が自然と動くようになったとき、そのビルは再び“紹介される可能性のある場所”に浮上している。空室対策とは、物件のスペックなり、募集条件の調整だけじゃなくて、仲介営業の記憶への再接続だ。「紹介される物件」という共同幻想に、もう一度接続されるための地道な回復プロセスなのだ。 終わりに:あなたのビルは、もう一度“扱われる側”に戻れるか? いま、この瞬間にも、無数のビルが「存在していない」ものとして日々の営業活動をすり抜けていく。紹介されないビルには、永遠に声がかからない。だからこそ問いたい。そのビルは、いま誰の現場に“存在している”か?いま、誰の手によって“扱われている”か?空室を埋めるとは、誰かの記憶に、身体に、日常に――もう一度“戻る”ことなのだ。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月9日執筆2026年01月09日 -
ビルメンテナンス
築古の賃貸オフィスビルにおける“水回りの整え方”再考―どこを、どう整えるか―
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古の賃貸オフィスビルにおける“水回りの整え方”再考―どこを、どう整えるか」のタイトルで、2026年1月8日に執筆しています。少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 はじめに 「内見はトイレで決まる」という言葉を、築古賃貸オフィスビルのビル管理会社の担当者なら一度は耳にしたことがあるだろう。正直に言えば、賃貸オフィスを選ぶ企業がトイレや給湯室といった水回り設備を、なぜそこまで重視するのか、と思った経験もあるのではないだろうか。しかし、現場の実情は驚くほどシンプルだ。「立地は申し分ない、坪単価も魅力的、レイアウトも悪くない。でも、水回りがちょっと…」築30年以上の賃貸オフィスビルを案内するリーシング営業担当者から、このような声が後を絶たない。内見に来た企業の担当者が眉をひそめる瞬間を見逃さず、その後の意思決定に大きな影響を与えているのが「水回りの第一印象」なのである。 オーナーにとって水回りは、どちらかと言えばコストや手間ばかりが目につく箇所という印象だ。老朽化した便器、独特の空気感、薄暗く古びた給湯室……日常的な清掃の手間や、突発的な不具合対応の煩雑さに、頭を悩ませることも少なくない。だが、こうした「なんとなくどんよりした」水回り空間は、内見者にとってもまた、ビル全体の印象を静かに下げる要因となっている。そしてその場面で、多くの内見者が無意識に求めているのは、派手な演出や高級感ではない。重要なのは、視覚的・感覚的に、瞬時に不快感がないと判断できる状態――つまり「機能的清潔感」である。空間の用途に対して、無理のないかたちで整備されていて、使うことに何のストレスもない。そのように整えるだけで、水回りは印象を下げない空間として機能する。本コラムでは、築古の賃貸オフィスビルにおける水回り――とりわけ、トイレと給湯室に焦点をあてる。単なる老朽化設備としてではなく、整え方そのものがビルの信頼性を左右する空間として捉え直し、実務の視点から考える。以下の観点を通して、水回り整備の本質に迫っていくなぜ、今あらためて水回りが問われるのか?単なるリフォームの検討で見落とされがちな、整備と対応体制の設計とは?「どこを、どこまで整えるか」を判断する基準は、どう持つべきか?テナントにとって、水回りは日常的に使われる場所でありながら、最も素の状態があらわれる空間でもある。整っていて当然と思われている空間がゆえに、ほんの少し乱れているだけで、「このビル、大丈夫かな」という印象に変わってしまう。逆に言えば、派手な演出ではなく、考え抜かれた整え方ができているかどうか――そこにこそ、築古の賃貸オフィスビルの実力がにじみ出る。設備を入れ替えるかどうかよりも、その整備方針をどう考え、どう現場に落とし込んでいるか。「水回りで決まる」とは、そうした実務の積み重ねと正面から向き合うことなのかもしれない。このコラムでは、その具体的な視点と整備の考え方を、整理していく。 第1章:水回り設備が築古の賃貸オフィスビルの意思決定を左右する理由 「立地・坪単価・広さ」だけでは決まらない 築古の賃貸オフィスビルのオーナーにとって、テナントに選ばれるか否かは死活問題だ。そのため、多くの場合、オーナーは立地条件や坪単価の競争力、または内装の見栄えといったポイントに注力しがちである。実際、マーケットにおいてこれらが重要なファクターであることに異論を唱える人はほとんどいないだろう。しかし、実務的には「条件はすべてクリアしているはずなのに、なぜか決まらない」というケースが少なくない。その際、営業担当者や管理会社が現場で頻繁に遭遇する落とし穴が、水回りである。特にトイレと給湯室は、物件内見時のわずか数秒でテナントの判断を左右してしまう。 内見担当者が水回りに「過敏な反応」を示す理由 では、なぜテナント企業の担当者は、わずかな内見時間でそれほどまでに水回りの印象を重視するのだろうか?その理由は心理学的・行動経済学的な視点からも説明できる。人間は本能的に、衛生面での嫌悪感を強く持っている。清潔さや衛生状態に関する直感は、生存本能に根ざした深い心理的反応であり、ロジカルな意思決定よりもはるかに瞬間的かつ感情的なレベルで行われてしまうのである。トイレや給湯室のくすんで、古ぼけた感じが与える直感的な嫌悪感は、その後に見る部屋や設備がいかに優れていても、簡単には払拭できない負の印象を生んでしまう。内見後に意思決定プロセスが進むにつれて、担当者の頭の中には「トイレが古い・キレイではない」という負のイメージが無意識に残り続ける。つまり、築古の賃貸オフィスビルの内見では、水回りの印象が決定的な影響を与える瞬間が存在するのである。 意思決定プロセスにおける「瞬間的判断」の力 テナント企業が物件を選ぶプロセスは、必ずしも論理的かつ合理的な判断だけで成り立つわけではない。むしろ、「直感的判断(First Impression)」によって方向性がある程度固まり、その後、合理的にその判断を補強する情報を探す、というプロセスで決定される場合が多い。実際のテナント意思決定においても、内見後の社内会議などで物件評価が行われる際、「何となくトイレがキレイではなかった」という理由は明確なマイナス材料となり、後に「管理体制が不安」「社員の不満につながる」などの合理的理由付けがされるケースが多い。これは行動経済学で言うところの「後知恵バイアス(Hindsight Bias)」とも関連している。人間は直感的に嫌悪感を感じた後、その感覚を正当化するために論理的な理由を後付けする傾向がある。水回りのネガティブな印象は、こうした心理的バイアスによって簡単に強化され、意思決定を覆すほどの力を持ってしまうのである。 築古の賃貸オフィスビルが抱える水回りの構造的課題 築古の賃貸オフィスビルにおいて、内見時の印象形成で最も弱さが出やすいのが水回りだ。築年数を重ねるにつれて、配管設備の老朽化、給排水性能の低下、防水処理の劣化、そして湿気による影響など、構造的な問題が次々と表面化してくる。多くのオーナー/管理会社は、表面的なリフォームで対応しようとするが、大抵の場合、これらの問題は表面的な対処法では解決しない。築古の賃貸オフィスビルにおいて効果をもたらす水回りの改善とは、「瞬間的に感じられる清潔感」=「機能的清潔感」を追求することである。 「機能的清潔感」という視点の導入 築古の賃貸オフィスビルの水回りをどう整えるか――これは、表面的なキレイさを演出することとは少し違う。本コラムで扱う「機能的清潔感」とは、テナントにとって「使ううえで不安や嫌悪を感じない状態」を、過度な投資を伴わずに実現する整備のあり方である。便器やシンクの形状が多少古くても、床や排水口まわりが適切に清掃され、違和感なく使える状態に保たれていれば、内見者はそこで判断を止めてくれる。逆に、見た目を取り繕っても、日常的な清掃・管理が甘ければ、「このビルは大丈夫だろうか?」という不信感につながってしまう。 水回りがきちんと整っていると、それだけで信頼感が生まれる。つまり、「この空間はきちんと扱われている」という印象が、無意識のうちに伝わってくるからだ。そして、人は目に見える部分が整っていれば、見えない部分もきちんと管理されているはずだと感じるものだから。今後の章では、そうした「機能的清潔感」をどう実務に落とし込むか――その際、どこまでをやるべきで、どこからはやらなくてよいのか。現場感のある判断のヒントを、できるだけ具体的に整理していく。 第2章:「機能的清潔感」とは何か―表層的なリフォームからの脱却 「キレイに見せる」と「清潔感」は違う 築古の賃貸オフィスビルのオーナー/管理会社が陥りがちな失敗の典型が、表面的な装飾や部分的な見た目のリフォームだけで内見評価を改善しようとすることだ。例えば、古いトイレの壁紙を明るい色に変えたり、手洗い周りにデザイン性の高い照明やアートパネルを設置したりするなどの方法がよく見られる。確かに、内見時の第一印象としては一見「オシャレ」「キレイ」という評価を得る場合もあるかもしれない。しかし、こうした改善策の多くは、内見後の意思決定を好転させることにはつながりにくい。テナント企業が重視する「清潔感」とは、整えた美観にではなく、「日常的に問題なく使えるという安心感」と共にあって、毎日の「適切な維持管理」によって保たれるものだからだ。見た目だけ整えても、日々の清掃や、トラブル時の迅速な対応力がなければ、テナント側はそのことを敏感に感じ取り、逆に「作られた清潔感」に違和感を覚えるようになる。 表層的な改善が心理的に逆効果となる理由 実務的に重要なのは、内見時の第一印象が持続する「深い納得感」を持っていることだ。人間の認知プロセスは、初見の印象が後の評価を強く方向付ける傾向にあるが、同時に「本質的でない装飾」には非常に敏感である。心理学において「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」と呼ばれる状態がある。これは、見た目の印象(キレイ)と実際の状態(古い・使いづらい)にギャップがある場合、そのギャップ自体が不快感を増幅させるという現象である。トイレや給湯室において表面的な改善を施しても、日常清掃や管理体制がおざなりになっていると、この「認知的不協和」が生じ、内見時にマイナスの心理状態をかえって増幅させてしまうリスクが高まるのだ。 「機能的清潔感」という視点の重要性 このコラムで提唱する「機能的清潔感」とは、「日常的な維持管理によって自然に保たれる、実務的かつ現実的な清潔感」のことを指す。それは、表面的な外観を取り繕うことで生まれるものではなく、実務的に言えば、以下のような「管理やメンテナンスがしやすい状態」をつくることを意味している。 ・日常的に問題が起こらないよう、清掃、管理が行き届いている・トラブルが発生した場合でも、迅速かつスムーズな対応ができる体制が整備されているこのように、「機能的清潔感」とは単に表面的にキレイに見せることではなく、日々の清掃、管理とトラブル対応の仕組みまで含めて整備された状態を指すのである。 第3章:築古ビルの水回りは「対応力」で決まる―トイレと給湯室の実務評価軸 「古い=汚い」と思われないために必要なこと 築古の賃貸オフィスビルでは、水回り、とりわけトイレに対する内見者の目は厳しい。一方で、給湯室はあまり目立たない存在ではあるが、「日常的に使われる場所」として、整っていて当然とみなされやすい。つまり、見られ方に違いはあっても、いずれも同じ基準で判断されている。きちんと清掃されているか、そしてトラブル時にすぐ対応できる体制があるか。水回りの評価を左右するのは、この管理の姿勢に尽きる。本章では、築古の賃貸オフィスビルにおける水回りの評価を大きく左右する実務的な対応力について、具体的な視点で整理していく。 ①清掃体制が整っていれば、水回りは嫌われない 内見時に、もし万が一、水回りで「臭いが気になった」「床が汚れていた」と感じたとしたら、後から、なにをしたとしても、その印象を拭うことは難しい。だが、適切な清掃体制と頻度が確保されていれば、そもそも問題は起こり得ない。実務的な現場感覚から言えば、トイレや給湯室の不具合の多くは、清掃不足に起因する。築年数が半世紀を過ぎた飲食雑居ビルじゃあるまいし、排水トラップが正常に機能していれば、下水の臭いが逆流することはまずない。施設面の不備で臭いが問題になることはあり得ない。トイレの便器や床、洗面周り、給湯室のシンクの汚れ・水アカが目につくとしたら、100%、日常清掃の不徹底を意味するだけである。したがって、「古いから清潔に見えない」のではなく、「清掃が足りていないから不潔に見える」という認識が重要だ。 実務ポイント・日次・週次での清掃範囲と手順の明確化(壁・床・便器・シンクまわり等)・清掃チェックリストの導入と巡回点検の仕組み化・内見前のスポット清掃(最低でも床・手洗い・便器・シンク周辺) ②詰まり・水漏れ等のトラブルへの即応体制が信頼につながる 築古の賃貸オフィスビルでの水回りトラブルのあるあるが、トイレの詰まりと、給湯室を含む水漏れだ。どちらも「いつか起きるもの」として、起きた際にいかにスムーズに対応できるかが、テナント満足度に直結する。 トイレの詰まりの実態詰まりの原因は、便器の問題ではなく、配管内部に長年蓄積した尿石などによる通水断面の狭まりが多い。とくに築古の賃貸オフィスビルでは、配管自体の経年劣化も相まって、詰まりやすい傾向がある。対応としては、次のような段階的対応が現場では一般的だ:一次対応:ビル管理会社の社員が、ラバーカップ(すっぽん)で解消できるかを確認二次対応:業者を手配し、薬剤やトーラー(ワイヤー)での貫通作業。更に、対応をエスカレートする必要がある場合のみ、高圧洗浄を実施便器を交換したとしても、配管がそのままなら再発は避けられない。詰まり対策は日常管理+トラブル即応体制の整備が基本である。水漏れトラブルへの備え水漏れの主因は、トイレ、給湯室に共通しているが、配管接続部のパッキン劣化によるもの。数百円~数千円程度の部材交換で対応可能なケースが大半だ。だが、対応が遅れると下階への漏水など大きな損失に発展するリスクがあるため、初期対応力と業者との連携体制が鍵になる。実務ポイント:・ビル管理会社の社員が一次対応(ラバーカップ/止水確認)を担える体制整備・トラブル発生時の連絡・対応フローを掲示・マニュアル化・提携業者と「即日対応」の関係性を構築しておく ③設備更新は「印象を変える切り札」として戦略的に使う 便器・洗面台・シンクなど水回りの設備更新、内装素材の更新は、「劇的に印象を変える手段」である。ただし、これは清掃とトラブル対応という管理体制の基盤が整った上で初めて効果を発揮する。更新の判断基準は、「清掃しても古さの印象が払拭できないか」に尽きる。古いピンクの便器、黄ばみの取れない洗面台、曇ったままのシンクなど、清掃ではどうしようもない状態のとき、更新=印象刷新という意味で効果を発揮することがありえる。空室募集の内見での第一印象を重視する場合や、バリューアップの一環として賃料水準を引き上げようとするのであれば、そうした水回りの刷新は象徴的なサインとして効果的である。ただし、そうした設備更新はあくまで最後の一手として冷静に判断するべきである。 ✦ミニコラム オフィスの「水回り」は、共用部でありながら、もっとも“個人的な”場所かもしれない トイレや給湯室は、あくまで共用部の一部として、ビル側が用意し、管理する空間である。区画ごとに間仕切られた専用部のオフィスとは異なり、それ自体が賃貸契約上でも専用部とは扱いが区別されている。 ところが、そうした制度上の取り扱いとは裏腹に、実際のオフィスで働くテナント従業員にとって、この水回り空間は、 極めて“個人的”な意味を持つ場所なっている。トイレは、業務の緊張から一時的に離れられる、数少ない“孤独な空間”だ。 同僚との会話も、視線のやり取りも、意識しなくて済む。 個室の扉を閉じるあの数分だけは、自分の時間に戻れる。 それが共用部であることなど、日々の使用者にとっては関係ない。 給湯室は、もう少し開かれた、しかしやはりオフィスの “本線”とは少し離れた場所である。 マグカップをすすぐ音、ポットの湯気、漂うコーヒーの香り。 ここでは、たとえば別部署の社員とたまたま会って交わす一言が、業務とは関係のない雑談になったりする。 「ここ、寒いですよね」とか、「あの会議長かったですね」とか。 その会話は、Slackにも議事録にも残らないが、たしかに職場の空気をつくっている。 つまり、給湯室はオフィスの“余白”として、人間関係のバッファを育てている空間とも言える。 こうした水回りの空間性は、オーナー/管理会社側が直接コントロールできるものではない。 だが一方で、その空間が整っているか、整っていないか――それだけで、テナントの従業員が感じる「職場としての快適さ」には差が出てしまう。 「汚れていないこと」「トラブルが起きてもすぐ直ること」は、実務的な信頼の土台だ。 だが、それだけではない。 この空間の持つ“個人的な時間”や“非言語的な関係性”への理解があるかどうかは、実はビルというハードの整備を超えて、ソフトな評価軸として作用しているのかもしれない。 第4章:「どこまで整えるべきか」――築古の賃貸オフィスビルの水回り改善における実務的判断軸 「水回りをきれいにすれば、決まるのか?」 築古の賃貸オフィスビルの空室が長期化しているとき、オーナー/管理担当者のあいだでよく話題に上るのが「水回りの刷新」である。「トイレを新しくすれば印象が変わるのではないか」「給湯室を改装したら空室が埋まるかもしれない」――こうした相談を受ける機会は少なくない。たしかに、水回りは日常的に使われ、かつ印象に直結する空間だ。そこに手を入れることで反応が変わることもあるだろう。しかし実際には、「整っていなくても決まる」こともあれば、「整えても決まらない」こともある。つまり、水回りの整備にはやるべきこととやらなくていいことの線引きが必要であり、その判断を誤ると、投下コスト倒れに終わる危険もある。この章では、築古の賃貸オフィスビルにおける水回り改善について、何をどこまで整えるべきかという判断の順序と軸を整理する。 清掃とトラブル対応こそが「やるべきこと」 水回りに関して、まず確認すべきは「清掃が行き届いているか」「トラブル時の対応が整っているか」である。この2点は、整備の基本であると同時に、評価の前提条件でもある。言い換えれば、どれだけ設備が新しくても、清掃が甘ければ意味はなく、対応が遅ければ信頼は得られない。逆に、多少古くても、「整っている印象」が生まれているならば、更新せずとも十分に評価されうる。水回りに関しては、この基本動作だけで印象が改善する余地が大いにあることを、まず押さえておくべきだ。 設備更新は「整え方の最後の一手」として冷静に判断する 一方で、設備更新が避けられないケースもたしかに存在する。清掃しても取れない黄ばみや水垢、明らかに古さが目立つ陶器の色味や金物の劣化など――こうした状況では、「整っている」という評価自体が成立しないこともある。特に以下のような状態であれば、更新を検討する意味が出てくる:・ピンクやアイボリーの古い便器・洗面台が視覚的に目を引く・鏡や流し台がくすみ、どう清掃しても古びた感じが残る・清掃や補修では印象が改善しないと、現場でも判断されているこうしたケースでは、設備更新=印象刷新の切り札として機能する可能性がある。ただしそれも、日常の清掃・点検・対応体制が整っていることを前提とした話であり、それなしに改修だけを行っても、効果は、ほとんど望めない。 「設備更新すれば埋まる」とは限らないという現実 ここで重要なのは、設備更新をしたとしても、テナントが埋まらない物件が現実に存在するという事実だ。テナントがなかなか決まらない状況に焦ったオーナーが、打開策として水回りに手を入れる――そんな場面は少なくない。だが、その結果として劇的に反応が変わるかといえば、そうとは限らない。そもそも、テナントの判断軸は水回りだけにあるわけではない。更新に踏み切るなら、どこをどう整えるのかという方針を明確にし、戦略的に取り組むべきだ。 設備更新の資金負担と“踏み切るか”の判断材料 以下は、設備更新を検討する際の概算支出額の目安である。これを参考に、「費用をかけるに見合うだけの判断ができているか」を自問しておくべきだ。※以下は、当社が手掛けた場合、オフィス用途としては最高級のブランド・イメージを確立せんと改装した場合の目安であり、個別条件によって変動あり。 項目概算費用(税抜)備考便器の交換(1基)40〜50万円撤去・廃材処分含む洗面台の交換(1台)30〜40万円特注デザイン仕様(配管接続・鏡含む場合は上昇)流し台の交換(給湯室・1台)50〜70万円特注デザイン仕様(既存撤去・壁面補修あり)内装改修(床・壁・天井)5〜10万円/坪材質・範囲により変動 このように、「印象を変えるための更新投資」を行うにはそれなりの資金負担を伴う。期待された効果がリーシング等において目に見えて発揮されなかった場合等、これらの投資支出の回収において不確実性を伴うことについては常に留意が必要である。だからこそ、踏み切るかどうかは、状況を見極め、反応を観察しながら慎重に判断するべき領域である。 まとめ:築古の賃貸オフィスビルの水回り整備は、「順番」を間違えないこと 築古の賃貸オフィスビルにおいて、水回りはたしかにテナントの印象に影響を与える空間だ。ただし、それは「見映えがいいかどうか」ではなく、清潔に保たれ、日常的にきちんと機能しているかどうか――つまり機能的清潔感によって評価される。だからこそ、清掃や簡易な補修といった基本的な整備対応が不十分なまま、いきなり設備更新に踏み切っても、本質的な改善にはつながらない。まずは、今ある人員や管理体制の中で、どこまで整えられるのかを突き詰めるべきだ。それでもなお、「自分たちの整え方として更新が必要だ」と判断できるかどうか――そこが、次の一手を決める本質である。設備更新は、印象を上げるための手段ではあっても、それだけが目的ではない。整える順番を間違えないこと。そこにこそ、築古の賃貸オフィスビル運営のリアリティと戦略が宿る。 第5章:「整っている」ことの次へ―水回り整備に“判断の軸”はあるか? 「清掃してきちんとしている」だけでは足りない時代に 今どき、築古の賃貸オフィスビルであっても、トイレや給湯室の手入れがまったく手入れされていないような物件はほとんど見られない。きちんと定期清掃が入り、基本的な日常管理がされていれば、表面的な汚れや破損は一定水準で抑えられている。水回り整備の評価ポイントは、「やってあるかどうか」ではありえなくて、「どう整えているか」という側面へと移ってきている。ただし、この「どう整えているか」という視点は、単なる清掃のオペレーション・レベルを意味するものではない。清掃や日常管理に始まり、修繕、さらには設備更新まで含めて、どこを・どの水準まで整えるのか、そしてどのタイミングで更新に踏み切るのか――こうした水回り整備に対する考え方や判断の積み重ねが、最終的には物件全体の印象としてテナントに伝わっていく。大切なのは、いま目の前の水回りが「整っているか」ではなく、「どんな方針で整えているのか」。その違いが、築古の賃貸オフィスビルにおいて選ばれる理由になる可能性は、たしかに存在している。 「整備の水準」ではなく、「整備の設計思想」が印象を決める たとえば、トイレの床材が傷んできたときに、それを張り替えるべきか、清掃で様子を見るか。便器の形状が古くなってきたが、まだ機能的には問題がないとき、更新すべきかどうか。給湯室の流し台がくすんできたが、使える状態ではある場合、それをどう判断するのか。こうした場面では、「整っている/いない」という二択では答えが出ない。大切なのは、それらの判断に一貫した考え方や優先順位があるかどうかである。 ・どこにコストをかけ、どこを割り切るのか・何を維持の対象とし、何を更新の対象とするのか・整備の方針は、物件全体の印象とどう連動しているのかこうした設計思想があれば、水回りの整え方は判断の積み重ねとして明確になってくる。そしてその積み重ねは、テナントの受ける印象にも、静かににじみ出ていく。 整備の判断が「場当たり」になっていないか? 築古の賃貸オフィスビルの水回り整備において最も避けたいのは、方針のない場当たりの対応である。たとえば・便器が割れたから、そこだけ最新型に交換・クレームが出たから、特定の箇所だけ照明をLED化・担当者が替わったから、内装テイストが急に変わった個別の判断としてはどれも妥当性があると言えるかもしれない。だが、こうした整備が全体として「何を目指しているのか」が見えない場合、結果として雑然とした印象に流れていくリスクがある。そして、そうした整え方の不一致や整備のちぐはぐさは、テナント側に無意識の違和感として伝わってしまう。「ちゃんと整えようとしている」感覚が持てない空間に、テナントが従業員を安心して送り込めるはずがない。 整え方に「方針」があるビルは、印象がブレない 整え方に「方針」があるビルは、印象がブレない評価の高い築古の賃貸オフィスビルでは、水回りの整備ひとつ取っても、運営の中に一貫した方針が感じられる。たとえば、次のような姿勢が典型的だ。 ・設備の交換までは行わないが、清掃と軽微な補修は徹底する・更新を行う際は、色や素材、意匠を他の空間と調和させる・派手な演出は避けるが、放置感や使いづらさは決して残さないこうしたどこまで手を入れるかという線引きが明確に設計されている物件は、内見者や入居者の目にも「印象がブレない」と映る。そして何より、「このビルは、きちんと考えて運営されている」と感じさせる空気がにじむ。それは、設備が新しいかどうか、デザインが凝っているかどうかといった表面的な話とは、まったく別の次元の信頼感だ。 まとめ:「整っている」は、あくまで手段である 水回りを整えるという行為は、それ自体が目的ではない。本来は、テナントに不快感を与えず、安心して使ってもらうための手段である。だからこそ重要なのは、「何のために整えるのか」を言語化できていること。そして、その目的に照らして、一つひとつの判断が組み立てられていること――。これが、「整え方に判断の軸がある状態」だと言える。整え方に一貫性があるかどうか。その違いは、最終的に「このビルに入って大丈夫かどうか」という、テナント側の根本的な信頼判断に影響してくる。つまり、「水回りで勝てるかどうか」とは、単に見た目を整える話ではない。“整える”という行為に、筋が通っているかどうか――その姿勢そのものが問われている。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月8日執筆2026年01月08日 -
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それでも、私は“このビル”を持ち続ける ―賃貸オフィスビル・オーナー千人の本音から見えてきた現実と
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「それでも、私は“このビル”を持ち続ける―賃貸オフィスビル・オーナー千人の本音から見えてきた現実と」のタイトルで、2026年1月7日に執筆しています。少しでも、皆さんに新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 はじめに 「この賃貸オフィスビルって、あと何年もつのか」「もう売るべきなんじゃないか」「でも、手放したら何が残る?」築年数が30年を超えた賃貸オフィスビルや店舗ビルを運営するビルオーナーたち。彼らは今、「なんとなく続けてきた」経営の、その先にある現実と向き合わされている。賃貸オフィス市場の空室率が改善したと言われても、帳簿に残るのは増え続ける支出。リニューアルすれば良い、設備を更新すれば良い――それが正論だとわかっていても、「そこに踏み出せない理由」が山ほどあるのが本音だろう。本コラムは、最近の賃貸オフィスビル・オーナーの動向に関する調査を紹介した記事を見ながら、そうしたビルオーナーたちのリアルな感覚と、そこに潜む“決断の論理”をひもとくことを目的としている。数字の裏にある葛藤。言葉にされないまま続けられているビル経営。その「静かな選択」を、私たちはもっと真剣に読み解くべきではないだろうか。 第1章:賃貸オフィスビル・オーナーの“顔”が変わらない理由―なぜ60代以上が過半数なのか。事業継承の現実と、“持ち続ける”という選択の背景 千人を超えるビルオーナーを対象にした調査によると、経営者の約6割が60歳以上という結果が示された。この数字だけを見ると、「不動産オーナーの高齢化が進んでいる」といった、よくある表面的な解釈にとどまりがちだ。しかし、より本質的な問いは別にある。それは――「なぜ、その不動産は若い世代に引き継がれていないのか?」という問題だ。単なるビルのオーナーが歳を取って、年齢分布がシフトしたという話ではなく、「継承されない構造」がそこにあるのだとすれば、これは今後の賃貸オフィスビル市場にとっても無視できないサインである。 「たった1棟」の重さ 調査によると、全体の6割のオーナーは「1〜2棟」しかビルを持っていない。その中でも、主要ビルの延床面積は1,000坪未満が約7割、築年数は33年以上が約半数を占めていた。つまり、いわゆる“中小型の築古ビル”を少数所有しているオーナーが、全体の多数派を形成しているのである。地元で父の代から続く賃貸オフィスビルを1棟あるいは2棟、相続して、というような。そうした“零細かつ個人経営的な賃貸オフィスビル事業”が、実は東京の都市経済のベースを静かに支えているということは、あまり語られてこなかった。そしてこの構図の中には、「小規模だからこそ、次の世代に引き継ぎにくい」という側面も浮かび上がってくる。たとえば5棟10棟と複数のビルを保有する法人オーナーであれば、ビル管理業務を専門の管理会社に任せたりもできるし、事業承継にあたっても、ポートフォリオの組み替えや一部売却など、いくつかのがあり得る。しかし、ビル1棟2棟しか持たないオーナーの場合、その運営は「事業」としての合理性よりも、「家族の財産として維持されるもの」として扱われがちだ。家業の一部として、生活と直結するかたちで個人が担っており、意思決定も情緒的・保守的になりやすい。経営というより、“生活の延長線上で背負う資産”といった方が近いだろう。そして当然ながら、資産規模が小さいほど、失敗は許されない。投資判断は慎重になり、収益のブレには神経質にならざるを得ない。その慎重さが、知らず知らずのうちに「誰かに継がせる」という選択肢に、無意識にブレーキをかけていく。 「継がせたい」のに、継がせられない―現場にある静かな断絶 相続を見据えて不動産を持ち続けることは、いまや珍しくない、というか王道の資産運用戦略だ。賃貸オフィスビルであれば、毎月の賃料収入を得ながらも、相続時の評価額は一定程度圧縮される。現金で保有して相続させるよりも税務上は有利で、「子どもに有利に残すために、賃貸オフィスビルを運営し続けている」という高齢オーナーを、現場ではよく見かける。しかしその一方で、「相続させた後、息子や娘がこの賃貸オフィスビルの運営を引き継ぐのかどうかは、正直わからない」と語る声も少なくない。調査結果としては表に出てこない部分だが、実務の現場では、“継がせたいという親の気持ち”と、“継ぎたくないという子の本音”が、噛み合わないまま空中に浮いているケースが多いようにも見受けられる。それも無理はない。オーナー自身が日々の経営の中で、「こんなに気を遣って、頑張って、それでも、今後、ビジネスとして伸びていくこともないし、報われることを実感し難い仕事を、子どもにやらせたいか?」と自問してしまうのだ。ある種の“やらせたくなさ”が、オーナー自身の内側からにじみ出てくる。 現時点での賃貸オフィスビル経営は、必ずしも“悪い”状況ではない。ただし、じわじわと増えていく支出。強まる「身を削っている」という実感。これらは無視できないリアリティだ。中小規模のビル経営は、単に管理会社に任せておけばいいようなシンプルな商売ではない。 ・修繕のタイミングをどう見極めるか・設備更新の必要性と費用の兼ね合い・テナントとのトラブル対応、賃料交渉の方針・法務・税務にかかわるリスク判断 これらすべての決定が、最終的にはオーナー個人に委ねられる。たとえ実務を管理会社に任せていたとしても、プリンシパル=エ―ジェント問題を無視できない以上、丸投げはできない。利害がズレれば、対応の質もズレていく。しかも、それらの判断はマニュアルでは対応できない「個別対応」の連続だ。数字だけでは測れない“現場の空気”や“相手の温度感”を読み取る力。地域との関係性、長年の経験値。そういった、マニュアル化できないノウハウを以てこそ、賃貸オフィスビルオーナーんとか維持している実態だ。 だからこそ、いまのオーナー世代は思ってしまう――「これは自分で終わらせるしかないかもしれない」と。それは、単に子どもを頼れないという悲観ではない。むしろ、「面倒をかけたくない」という優しさと、「誰かに任せるには重すぎる」という冷静な現実認識が交錯した、切実な判断なのだ。 続ける理由は、「辞められない」のではなく「辞めにくい」から 都心部であれば、築古であったとしても立地によっては十分に収益が出ている。また、たとえ、駅から多少距離があったとしても、「売ろうと思えば売れる」。それでも、多くのオーナーは売らない。それは、「苦労しているのに、辞められない」ということでもなく、“儲かっているからこそ、辞めにくい”という理屈である。売ってしまえば、まとまった現金は入る。だがその後の相続税対策は難しくなり、現金の再投資先にも頭を悩ませることになる。 それならば――・安定的に賃料収入が入る・含み益がある・相続評価を抑えられるこうした理由から、「このまま持っていた方が合理的だ」となる。これはまさに冷静な計算に基づいた“持ち続ける選択”なのだ。 だが、だからといって楽ではない。築年数が進めば、建物の老朽化とともに「大規模修繕か、建替えか」の判断が求められる。テナントの立退き、行政との調整、資金調達、相続人の合意、金融機関の査定…。ビル経営の「終わらせ方」は、“始め方”よりもずっと複雑で、ずっと重い。しかもその“正しい出口”が、いつ、どこに、どの条件で現れるのかは誰にもわからない。ゆえに、こう考えるオーナーが多くなる。「まだ回ってるうちは、自分の手元でやっておいたほうが安全だ」この姿勢は決して後ろ向きではない。それは、“なんとなく続けている”のではなく、“責任ある選択として、持ち続けている”という現代のビルオーナー像である。このあと第2章では、「業況は回復した」とされながらも、多くのオーナーが感じている“違和感”――数字と感覚のズレに踏み込んでいく。 “儲かっているから辞めにくい”というリアル 築年数が古くなっていても、都心部の立地であれば、賃貸オフィスビルは今なお十分な収益を上げている。仮に駅から少し距離があるとしても、「売ろうと思えば売れる」物件は少なくない。それでも、多くのオーナーは売却に踏み切らない。そこにあるのは、「苦労しているのに辞められない」という後ろ向きな事情ではなく、“儲かっているからこそ、辞めにくい”という、きわめて合理的な構造だ。たしかに、売却すればまとまった現金は手に入る。だがその瞬間から、相続税対策が一気に難しくなる。さらに、その現金をどう再投資するかという、新たな悩みも生まれる。 だからこそ、多くのオーナーはこう判断する。・安定的な賃料収入がある・含み益がある・相続評価を抑えられるこれらを踏まえれば、「このまま持ち続けたほうが合理的だ」という結論に至る。これは、“なんとなく続けている”のではない。冷静な計算に基づいた、責任ある選択だ。 ただし、だからといって楽ではない。築年数が進めば、建物の老朽化は避けられず、いずれ「大規模修繕か、それとも建替えか」という重い判断に向き合わなければならない。そのときには、テナントの立退き交渉、行政との調整、資金調達、相続人間の合意形成、金融機関による資産査定――さまざまな要素が絡み合い、“終わらせ方”は、始めるときよりもずっと複雑で、ずっと重い。しかも、その“正しい出口”が、いつ・どこで・どんな条件で現れるかは、誰にも分からない。だからオーナーはこう考えるようになる。「まだ回っているうちは、自分の手元でやっておいた方が安全だ」これは決して後ろ向きな姿勢ではない。むしろ、“今はまだ出口ではない”と判断した上で、責任を持って続けているという、現代の賃貸オフィスビル・オーナーのリアルな在り方である。次章では、「業況は回復した」とされる一方で、多くのオーナーが抱えている“ある違和感”――数字の好転と、実感の乖離に踏み込み、そのギャップの正体を明らかにしていく。 第2章:業況は“回復”した。でも、なぜこんなに不安なのか―「収入が増えた」3割強vs「支出が増えた」3分の2弱。見かけ上の好調と実態のズレ 「ビル経営、今どうですか?」そう聞かれたとき、「まぁ、悪くはないですよ」と答えるオーナーは意外と多い。実際、調査では6割強のオーナーが「業況が良い」「やや良い」と答えている。この数字だけを見れば、回復基調にあるように映る。しかし、その言葉の裏には、どこか言い切れないニュアンスが漂っている。たしかに「悪くはない」のかもしれない。けれど、なぜか皆が口をそろえて「でもこの先はわからない」と言う。この“好調のはずなのに、不安が拭えない”という違和感の正体は何なのだろうか。 収入はそこまで上がっていない、むしろ「維持しているだけ」 「業況が良い」という回答の背景を見ていくと、「収入が増えた」と答えたのは、全体の3人に1人程度。残りの多くは、「変わらない(約3割)」「減った」「わからない」と答えており、自分の収入の伸びを実感できている層は限定的だ。それでもなお「業況は良い」と答えるのはなぜか。おそらくそこには、「悪くなっていないことが、むしろ良い」と感じている心理的構造がある。つまり、“期待値がすでに下がっている”のである。コロナ禍で空室が一気に増え、「このまま沈むかもしれない」と思っていたあの時期と比べれば、確かに今は落ち着いている。実際に、空室が減り、募集も徐々に動いているという実感が戻ってきているオーナーも多い。だが、それはあくまで「元に戻った」だけの話であって、「前より良くなった」わけではないってことなのかもしれない。それなのに、「良くなったような気がする」。この心理的なズレが、表面的な好調感を生み出しているのではなかろうか。 支出は容赦なく増える。「収入は横這い、コストだけが増加」 さらに深刻なのは、支出の増加である。調査では、支出が「増加した」と答えたオーナーは全体の3分の2にものぼる。この割合は、「体感的に多い」というレベルではなく、明確に構造的な問題になりつつあることを示している。 特に増加が目立つのは以下の項目・公租公課(固定資産税など):約半数が「増加」・水道光熱費:3分の2が「増加」・修繕費・資本的支出:3分の2が「増加」ここで注目すべきは、これらのコストが「価値向上」のための投資ではなく、「現状維持」のための出費であるという点だ。 つまり、何かを改善するためではなく、“悪くならないように守る”ためにコストをかけている。しかも、インフレやエネルギー価格の上昇、人件費の高騰といった外的要因は、ビル経営とは無関係にやってくる。そうした“外圧的コスト”に対し、テナントに対して、賃料や管理費を引き上げて、即座に転嫁できるわけがない。結果的に、「実入りは据え置き、コストだけが上がっていく」構造ができあがっている。 「持ち出し前提」の時代へ あるオーナーはこう語っていた。「毎年、建物が歳を取る。何もしなければ老朽化する。でも何かするには金がかかる。そして、何をしても収入は増えない」この言葉は、まさに現代の築古の賃貸オフィスビル経営の縮図である。 実際の現場では、こうした出費が繰り返されている・電気料金の上昇することを踏まえた、エネルギー効率性向上を見据えた空調設備の更新・蛍光灯は間もなく製造中止になるので、照明器具のLED化は待ったなし・水漏れへの緊急対応としての防水補修どれも「必要な支出」であることは間違いない。だが、どれも「収益を直接押し上げる支出」ではない。むしろ、「収益を維持するための費用」と言った方が近い。つまり、持ち出しが前提の経営が常態化しているのだ。 “好調”とは、「想定よりマシだった」という感覚 結局、「業況は良い」と感じている理由は、「想定していたよりはマシだった」という安心感に根ざしている。コロナ禍という偶発的な悪化フェーズを経た今、「落ち着いている」「前よりまし」という相対的なポジティブ感がにじみ出ているだけとも言える。だが、これはあくまで“比較の問題”であって、“絶対的な安心感”にはつながっていない。むしろ、日常が戻ったことで、「次に本当に必要な打ち手をどうするか」が正面から問われ始めている。オーナーたちは薄々気づいているのだ。「このままでは、またすぐ限界が来る」と。だからこそ、“好調”という言葉にどこか戸惑いが残る。次章では、そうした不安の正体に一歩踏み込む。なぜ多くのオーナーが“価値向上の施策”に踏み出せないのか。改善が進まないのではなく、「進められない理由」があるとすれば――それはいったい何なのか。 第3章:ビルを整えられない理由 ―なぜ価値向上の手が止まるのか。「やらない」のではなく「やれない」実情。多くの賃貸オフィスビル・オーナーにとって、「整える」「手を入れる」「価値を高める」といった言葉は、常に頭の片隅にあるはずだ。 老朽化が進むにつれ、どこかのタイミングで何らかの手を打たなければならない――そう感じている人は決して少なくない。しかし現実には、その“手”が止まっている。思ってはいても、踏み出せない。調査結果を見ても、その実態は明らかだ。 専用部について「特に何もしていない」と答えたオーナーは全体の6割。共用部においても「特になし」が5割弱。 つまり、半数以上の賃貸オフィスビルで価値向上に向けた施策が未着手のままということになる。これは、単なる怠慢なり、放置ではない。むしろ、「やりたくても、やれない」オーナーの心理的な葛藤と、合理的判断の積み重ねにほかならない。 まず立ちはだかる「投資コスト」 施策が進まない最大の理由は、やはり「お金がかかる」ことである。調査でも、「多額の投資が必要となる」と回答したオーナーが最も多く、全体の5割強にのぼった。これは、当然の反応である。たとえば、空調設備の更新、照明のLED化、エントランスのリノベーション、屋上の防水工事など。いずれも、それなりの規模の工事であり、数百万円から1千万円越え、場合によっては数千万円規模の出費となる。しかもその投資が収益増加に結びついて、資金が回収できるかどうかが見通せないという問題がある。「費用対効果が見込めない」「わからない」と答えたオーナーも4割弱。さらに調査の結果を読み解くと、「建物の寿命が近い」として判断を保留している層も3分の1に達している。つまり、オーナーが直面しているのは“三重苦”である。・お金をかけるには勇気が要る(コストが重い)・成果が見通せないから踏み切れない(リターンが不確実)・そもそも、ビル自体、あと何年使えるかもわからない(老朽化と寿命の問題)この三重苦が、「整えたい」という気持ちにブレーキをかけて、「整えられない理由」の根底にある。 「正しい打ち手」は、コストだけが“見える化”されている 近年、ESG、ZEB、DX――こうしたキーワードがメディアや業界紙に溢れ、賃貸オフィスビル経営において「整えるべき」課題が目白押しである。だが、こうした論調に接するたび、オーナーの頭にまず浮かぶのは「いくらかかるのか」という現実的な問いだ。そして、問題は、その問いに対して「かけた金額は分かるが、得られる効果はよく分からない」という点にある。たとえば、ある空調設備を最新機種に更新しても、テナントがつくかどうかは別問題。エントランスの床材を高級にしたから賃料を上げられるか?そうした問いに対して、確実な“見返り”を示すことはほとんどできない。調査でも、「施策をやってみてよかった」「空室が埋まった」といった“確かな手応え”をもって語られる事例はごくわずかにとどまっていた。「支出は確定しているのに、効果は不確定なまま」。この非対称性が、オーナーの判断をためらわせる原因となっている。 実は“試してみたけど反応がなかった”層もいる さらに現場では、「一度整えてみたが、ほとんど反応がなかった」というオーナーも少なくない。たとえば――エントランスの壁紙を張り替えた。照明をLED化した。外構の一部をちょっといじってみた。けれど、いざ募集をかけてみても、空室は埋まらない。内見の反応も、仲介業者の評価も変わらない。そして、こう思ってしまう。「結局、手を入れても意味がないんじゃないか」このような小さな失望体験が積み重なり、次の一手を止めてしまう。「改善しても報われない」。そんな諦めが、静かにオーナー心理に根を下ろしていく。 “ビルの性格”は変えられない 築古の賃貸オフィスビルには、それぞれに“性格”がある。天井が低い。柱が太い。給排水の配管経路が限られている。窓面が少ない。それらのビルの性格に加えて、駅からの距離が中途半端……。オーナー自身が、物件を誰よりもよく理解しているからこそ、こうした限界を日々実感している。そして多くの場合、「この“性格”を抜本的に変えるとしたら、建替えるしかない」ことを知っている。調査でも、「建物の物理的な寿命」が価値向上の支障要因として3割強のオーナーに挙げられている。言い換えれば、「限界があることを、誰よりもわかっているから、整えない」という選択もまた、実に理にかなったものなのだ。 だからこそ、“整え方”を問い直すべきとき 価値向上といえば、大規模なリノベーションやフルスペックの改修が連想されがちだ。だが、本当に今求められているのは、「整え方そのものの再定義」である。・どこにお金をかけるべきか・どこはあえて手を入れず、現状のままにしておくべきか・どの順番で施策を打つか・効果をどう検証し、継続するかどうかをどう判断するかこうした視点を持たないまま、“なんとなくリニューアルする”という姿勢は、むしろ危うい。整えるという行為には、戦略と感性、そして割り切りと判断軸が不可欠である。 次章では、そうした判断を支える「静かに整える」実践例に目を向けていく。それは、必ずしも“映える改修”ではない。維持管理の見直し、“できるところから始める”という実務的なアプローチ。その先にある「続けるための火種」を、見つめ直す。 第4章:それでも、ビルを整えてみた ――リノベーションは“投資”ではなく、“段取り”かもしれない築年数が進んだ賃貸オフィスビルを「整える」ことの難しさは、多くのオーナーがすでに理解している。資金、タイミング、入居状況、将来の建て替え可能性、そして手間。それらを天秤にかければ、「いま無理に動く必要はない」と結論づけるのは、ごく自然な判断だ。 それでも、実際には一部のオーナーたちが、静かに、そして現実的に“整えはじめて”いる。それは大きな改修や派手な演出ではない。数千万円の投資を一気に行ったわけでもない。むしろ、「この状況下で、自分のビルにいま本当に必要な整え方とは何か?」を丁寧に問い直しながら、できるところから、計画的に、段取りとして進めているのだ。 目立たないけれど、確実に効く――共用部の最小リノベ たとえば、築30年を超える中規模ビルで、「共用トイレと給湯室」だけをリノベーションした事例がある。専有部には手を加えず、募集条件も大きくは変えなかった。にもかかわらず、施工後すぐに新たなテナントが決まり、賃料収入が増加したので、投資額600万円に対し、8ヶ月ほどで回収できる算出が成り立った。この改修が成功したポイントは、「映える」見た目の演出ではなく、使い勝手と清潔感の両立に注力した点にある。・LED照明とミラーで明るさと奥行きを演出・掃除しやすく汚れが目立たない床材を採用・女性用洗面台への細やかな配慮・統一感のある照明と素材選定で、給湯室にも清潔感を付加どれも派手さはないが、「ここなら安心して借りられる」と感じさせるには十分な“整え”だったという評価ができよう。 一括改修よりも、「構造の整理」と「順序の明快さ」 別の事例では、五反田にあるビルで5フロアとエントランスホールを一括で改修したケースがある。一見、大規模なリニューアルに見えるが、随所にコストを抑える工夫がなされていた。・エントランスには白漆喰を使い、光と建具で“上質感”を演出・床や天井は既存を活かして再利用・水回りはステンレス製で、耐久性と清掃性を重視・ガラス建具によって視覚的な抜け感をつくり、面積以上の開放感を実現費用は5,000万円台半ばと大きいが、当時は5フロア分の空室があり、「一度に整える」判断には十分な合理性があった。この事例で注目すべきは、「何を変え、何を残すか」の線引きが極めて明確だった点だ。・すべてを変える必要はない・だが、手を入れるところには徹底的に注力する・判断基準は「それが入居につながるかどうか」の一点に集約されているリノベーションに「正解」はない。しかし重要なのは、行き当たりばったりではなく、“筋の通った構想”として整えることである。 リノベは「投資」ではなく、「関係の再設計」である よくある誤解に、「リノベ=投資」という思い込みがある。もちローン、費用が発生する以上は投資であることに違いない。しかし、実際に起きていることは、「物件との関係を再設計する作業」に近い。・現在の入居者に、自分のビルはどう映っているか?・内見者が最初に気にするポイントはどこか?・なぜ空室が長引いているのか、根本原因は何か?こうした“関係性の棚卸し”を抜きにしてリノベに踏み切っても、効果は限定的で、むしろ的外れな結果に終わることも多い。リノベは、物件そのものの再評価であり、オーナーとビル、そして入居者との関係を再構築するためのプロセスでもあるのだ。 少しだけ整えて、反応を見るという戦略 何千万円もかけなくても、打てる手はある。たとえば――・照明の色温度を変更、調整して、雰囲気を一新する・トイレの壁紙だけを張り替える・EVホールに案内サインを追加する・給湯室の古いカーテンを撤去して、スッキリと見せるこうした“細かく、静かな整え”でも、内見者の印象やテナントの動きが変わることがある。もちローン、劇的な成果がすぐに現れるわけではない。だが、「試してみたこと」「小さくても結果が出たこと」が、次の一手を考えるための大事な足がかりになる。整えることはゴールではない。整えた先に出てくる“反応”こそが、次の展開を導くヒントになるのだ。 次章(第5章)では、「では、その整えた先に何があるのか?」を見ていく。売却ではなく“持ち続ける”という選択をとったオーナーたちは、いま何を見ているのか。「諦めではない継続」の背景にある論理と感覚を、さらに深く掘り下げていく。 第5章:売らない理由、そして“持ち続ける”という決断 ―「もう、十分だ」と言える日が来るまで。築古の賃貸オフィスビルを前にしたオーナーたちは、迷っていないわけではない。修繕は増える。空室も続く。手間はかかるし、周囲からは「もう売ればいいじゃないか」と言われる。それでも、多くのオーナーは「持ち続ける」という選択をしている。合理的に見えないかもしれないこの判断には、感情だけではない、いくつかの“ロジック”が存在する。 「出口がない」のではなく、「出口を選ばない」 「売るに売れない」と言われるが、実際にはそうでもない。都心のビルなら、買い手はいる。価格もそこまで悪くない。にもかかわらず、なぜ手放さないのか?答えはシンプルだ。売っても残らないからだ。売却益が出ても、そこから税金を引き、ローンがあれば返済し、管理法人を整理して……と手続きを終えた頃には、「あれ?こんなもんか」となる。それなら、“毎年少しずつでも入ってくる”方を選ぶ。自分で管理すれば、経費で落とせるし、相続税評価も圧縮できる。要するに、オーナーは「辞めないこと」が最もローリスクな運営であることを、知っているのだ。 「継がせたくない」は、“やめたい”とは違う 後継者がいない、という声もよく聞く。しかし、それは「継がせたくない」のであって、必ずしも「辞めたい」という気持ちとは一致しない。・・この大変さを子どもに味わわせたくない・・24時間365日の気疲れを引き継がせたくない・・テナントとのやりとりは人格勝負。それを人に任せるのは難しいこうした心理の裏側には、“まだ自分がやった方がマシだ”という判断がある。言い換えれば、ビルを手放す覚悟より、続ける忍耐の方が軽いという状況なのだ。 “辞めどき”は、利益で決まらない どこまでやったら、このビルを卒業できるのか。どこまで頑張ったら、「もう十分」と言えるのか。これは、利益率や満室率では測れない感覚の話だ。 例えば――・・すべての空室に、想定していたテナントが入った・・入居者との関係が落ち着き、やるべきことが明確になった・・自分のやりたかった改修が一通り終わったそういう「納得のプロセス」を通ったときに、オーナーはようやく「もう手放してもいいかもしれない」と思える。この意味で、“辞めどき”とは、単なるタイミングではなく、「自分なりにちゃんと着地した」と思える状態なのだ。 “資産”から“生活の一部”へ 築古ビルを長年持ち続けたオーナーにとって、それはもはや単なる不動産ではない。「所有している」以上に、「暮らしてきた」という実感がある。毎月の家賃振込、電球交換の手配、設備更新の見積もり、退去連絡の処理。ビルの呼吸に合わせて暮らしてきた日々が、いつの間にか“生活の一部”になっている。だからこそ、売るという判断には、資産としての合理性以上の迷いが生まれる。たとえ数字で見れば十分に“売りどき”であっても、手放すということは、「これまでの自分の営みをひと区切りつけること」と重なるからだ。それは、単なる資産整理ではない。それは、「自分の一部を、そっと閉じる」ような行為なのだ。 最後に ――問いは、まだ終わっていないこのコラムのタイトルは「それでも、私は“このビル”を持ち続ける」だった。だが、もしかしたら本当に言いたかったのは、こうかもしれない。「私は“まだ”このビルを持ち続けている」この「まだ」には、希望も、不安も、未練も、意地も、すべてが含まれている。決して楽な選択ではないけれど、決して間違った選択でもない。築古の賃貸オフィスビルは、単なる不動産ではない。長く続けてきた人にしかわからない“もうひとつの価値”がある。そしてその価値は、これからの都市の中で、静かに再評価されていくはずだ。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月7日執筆2026年01月07日 -
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「共益費=管理費」の適正ラインはどこにある?──築古オフィスビルの現実的な「共益費=管理費」の設計戦略
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「「共益費=管理費」の適正ラインはどこにある?――築古の賃貸オフィスビルの現実的な「共益費=管理費」の設計戦略」のタイトルで、2026年1月6日に執筆しています。少しでも、皆さんにお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:そもそも「共益費=管理費」とは何なのか?第2章:「賃料+共益費(管理費)」で決まる“総額の整合感”第3章:築古ビルだからこそ問われる共益費(管理費)の見せ方第4章:「共益費(管理費)の適正ライン」をどう設計するか第5章:説明責任はどう考えるべきか――「聞かれたら答える」の落とし穴第6章:「納得される共益費(管理費)」は、どうやって成立しているのか第7章:「気にされない共益費(管理費)」を支える、管理・運営側の整え方第8章:共益費(管理費)という“あいまいな費目”を、どう戦略的に扱うか はじめに はじめに―「なんとなく払っている費用」への違和感管理費、あるいは共益費。その名称がどうであれ、テナントから見れば「家賃とは別に請求される、なんとなく払っている金額」であることに変わりはない。請求書の明細に並ぶ「3,500円/坪」といった数字を、深く追求するテナントは実はそれほど多くない。だが、「なんとなく納得して払っている」だけに、その内訳が曖昧だったり、建物の状態との釣り合いが取れていないと感じられた瞬間、不満や交渉の火種になる。この構造は、実は飲食店における“チャージ料”や“サービス料”と似ている。テーブルにつくだけで数百円を取られたり、接客とは無関係に一定の料率で上乗せされたりする料金――「このサービス料って、何の対価なの?」と感じたことがある方も少なくないだろう。にもかかわらず、私たちは多くの場合、それらを“慣習”として受け入れている「共益費=管理費」もまた、実費とは必ずしも一致せず、説明責任も明確に果たされないまま“相場価格”として提示されるのが現実だ。特に、築30年を超える中小規模の賃貸オフィスビルでは、共用部の設備やサービス水準が最新ビルに比べて見劣りする中で、「この金額は妥当なのか?」という疑問が浮かびやすい。しかし、だからといって、原価に忠実な金額設計が求められているわけではない。むしろ求められているのは、「このくらいなら、まあ妥当だろう」と思わせる価格の“整合感”である。見えるサービス、わかりやすい運営、そして他の物件との“総額比較”の中で浮かび上がる、「共益費=管理費」の適正水準。その現実的な考え方を、本コラムでは紐解いていきたい。。 第1章:そもそも「共益費=管理費」とは何なのか? 賃貸オフィスビルにおける「共益費」あるいは「管理費」は、ビル運営において当然のように徴収されている費用だが、その意味合いや実務運用は、実のところ曖昧なまま定着している。物件の概要資料にも「賃料:○○円/坪」「共益費/管理費:△△円/坪」と分けて記載されるのが通例だが、これを「共益費=共用部分の維持費」「管理費=管理会社の業務報酬」と区別して説明できるケースは少ない。現実には、この二つはほぼ同義として扱われている。 歴史的には別物だった「共益費」と「管理費」 本来、共益費は「共用部分に関わる実費的な支出の按分」、すなわち廊下・トイレ・給湯室・エレベーターといった共用スペースの清掃や電気、水道、警備などにかかる費用を、入居者で割り勘する形で徴収する仕組みだった。一方、管理費は「ビル全体の管理業務にかかる人的コストやシステム費用」、つまり建物を運営する管理会社によるPM・BM業務に対する対価という位置づけで、共益費とは別に設計されるべきものだった。しかし、この区別は現場レベルでは徐々に形骸化し、特に中小規模の賃貸オフィスビルでは「細かく分けることに意味がない」という判断から、管理費と共益費を一本化して「共益費」という呼称に集約してしまうケースが一般化した。逆に「管理費」という表現を使っていても、それが実質的には共用部維持費であることもある。つまり、今日の実務においては、両者の名称は機能的な違いよりも、言葉の選好や慣習によって使い分けられているだけであり、意味内容としてはほぼ等価になっていると見なして差し支えない。 テナントにとっての「共益費=管理費」は、“説明されない価格” こうした混同は、テナント側の受け止め方にも影響している。多くのテナントは、「共益費=管理費が何のために使われているのか」という説明を受けることなく、「とりあえず請求されている費用」として納得するか、「よくわからないけど払うもの」として受け流す。これは、飲食店での“テーブルチャージ”や“サービス料”と同じ構造だ。客側は、「このチャージの中に、何が含まれているのか?」とは通常問わず、むしろ“チャージが取られる店”か“そうでない店”かという店ごとの慣習の差で受け止めている。同様に、テナントも「共益費=管理費がかかる物件」か「賃料に込みの物件」か、そして「その合計額で割に合うかどうか」という判断をしているに過ぎない。内訳や原価よりも、“見える価値”と“総額水準”の整合感が、「共益費=管理費」の妥当性を左右するのが実態である。 第2章:「賃料+共益費(管理費)」で決まる“総額の整合感” 共益費(管理費)の金額設定にあたって、多くのオーナー/ビル管理会社が見落としがちなのが、「テナントは、共益費(管理費)単体ではなく“賃料との合計額”で物件を判断している」という事実である。つまり、「賃料〇円+共益費△円」という2本立ての価格設定であっても、実際の比較検討の現場では、「合計でいくらになるか」が重要であり、共益費はあくまで“総額バランス”の一要素として受け止められている。 共益費(管理費)は“見せ方”の問題でしかない テナントが賃貸オフィスビルを比較検討するとき、賃料と共益費(管理費)の合計(=賃菅:ちんかん)ベースで「坪単価11,500円の物件」として他物件と横並びにされる。そこに、共益費(管理費)が3,500円であろうと4,500円であろうと、テナントにとっては「全体として割に合うかどうか」の一点が重要であり、共益費(管理費)という区分そのものにはあまりこだわりがない。したがって、共益費(管理費)をいくらにするかは、「原価がどうか」「慣習としていくらか」よりも、「最終的な総額がどう見えるか」という“見せ方の整合性”によって決められるべきだといえる。 「共益費(管理費)ゼロ」や「賃料込み表記」が選ばれる背景 実際、一部のリーシングの現場では、共益費(管理費)を設定せず、「賃料に込み」で提示するケースも増えている。これは、価格のわかりやすさを重視し、「説明責任」を省略する意図もある。とりわけ、築古・中小規模の賃貸オフィスビルでは、「管理費を取っているのに、設備が古いのでは?」というネガティブな印象を回避するため、最初から一本化して“賃料のみ”で勝負するスタイルが有効に機能することもある。こうした価格構造の変化は、賃貸オフィスビル市場において「共益費=管理費」が機能的な意味よりも、心理的な意味――すなわち“値ごろ感”や“信頼感”を演出する部品になっていることを示している。 「相場感」との整合がすべて 結局のところ、テナントが物件に対して「高い」「妥当」「割安」と感じるのは、個別の内訳ではなく、その物件の「総額水準」と、競合物件との相対比較によって決まる。たとえ共益費(管理費)が3,500円であっても、近隣の似たような物件が「賃料+管理費で11,000円」なのに、自物件が12,000円になっていれば、それだけで“割高”という印象がつく。逆に、築古でも共用部がきれいに整備されていて、エントランスや設備の使用感が良好であれば、「管理費込みで11,800円」でも“割安感”が出ることはある。つまり、共益費(管理費)の金額設定は、“市場との整合感”という一種の演出設計に他ならない。賃料をいじるのか、共益費(管理費)を動かすのか――という議論ではなく、最終的にどの水準に「着地させたいのか」から逆算して設計することが、本質的な戦略といえる。 第3章:築古ビルだからこそ問われる共益費(管理費)の見せ方 築30年を超える中小規模の賃貸オフィスビルにおいて、共益費(管理費)という費用項目が与える印象は、ビルの価値そのものに対するテナントの認識と密接に結びついている。新築・大規模の賃貸オフィスビルであれば、共用部のグレードや設備仕様の高さによって自然と「それなりの共益費(管理費)がかかるのは当然だろう」と納得が得られやすい。しかし、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの場合、共益費(管理費)の金額に対して「この状態で本当にこの金額なのか?」という疑念を抱かれるリスクは決して小さくない。そのため、築古の賃貸オフィスビルにおいては、共益費(管理費)の“中身”を詳細に説明するのではなく、説明しなくても違和感を持たれない状態を維持することのほうが重要である。本章では、そうした“見せ方”の具体的ポイントを整理していく。 説明をしない前提で、納得を成立させる 共益費(管理費)の内容について詳しく説明する機会は、通常ほとんどない。にもかかわらず、テナントの側で「なんとなく払っている」ことに納得感が生まれているのは、物件の状態が“それなりに整っている”という印象を裏切っていないからだ。このとき求められるのは、特別な演出や明示的なアピールではない。あくまで、日常的な管理の中で、“荒れていない状態”が安定して保たれていることが重要になる。たとえば共用部の壁面に掲示物が乱立していたりしないので、共用部が視覚的に整然としている共用部の床の掃除はきちんとされており、照明の色調や照度にムラがないテナントの来訪者から「なんとなく、きちんとしている」と思われる空間感覚が保たれているこうした要素が“現れている状態”において、空間の印象が共益費(管理費)に対する納得感を静かに支える構造になっている。 掲示をしない運営でも、情報は過不足なく伝える 掲示板による案内や点検情報の貼り出しは、視覚的にわかりやすい一方で、空間を煩雑に見せてしまうリスクがある。当社では掲示物による情報提供を行わず、必要な情報はすべてメールでテナントに送付している。これは、空間としての静けさや整理された印象を優先する判断によるものだ。点検や修繕がある場合、メールでの通知を原則としているが、停電等、業務への影響が大きい場合は個別連絡(電話)で補足することで、“気づいたら工事が始まっていた”といった不信感を未然に防ぐ対応も合わせて徹底している。このように、“知らせるべき情報は過不足なく届けるが、空間には余計な痕跡を残さない”という運営方針は、掲示板での情報共有よりも、確実性が高く、有効である。このような実質的な管理責任をまっとうする姿勢は、共益費(管理費)の納得形成において重要な意味がある。 「よく分からないけど、きちんとしている」こという評価が理想 共益費(管理費)というのは、「こういう内容なら払います」と事前に明確に合意される性質のものではない。むしろ、入居後の体験の中で、「特に不満がない」「支障がない」という印象が続いていれば、それがそのまま納得の形として定着していく。そのために必要なのは、「高品質な管理」ではなく、“気になるポイントがない”という低刺激の状態である。特別な加点はなくてもいいマイナス評価につながる要素が見当たらないこと見慣れた共用部に不安や違和感が生まれないことこうした状態が続いていれば、共益費(管理費)に対して追加的な説明や根拠提示を求められることはない。築古の賃貸オフィスビルにおいては、「よくわからないけど、まぁ妥当だろう」と思われる状態こそが、最も安定した共益費(管理費)運用の形である。 第4章:「共益費(管理費)の適正ライン」をどう設計するか 築古オフィスビルにおいて、共益費(管理費)費が「高い」「安い」と判断されるかどうかは、管理原価や業務内容の実体というよりも、その価格が“相場の感覚”と合っているかどうかにかかっている。どんなに細かく積算しても、金額に対する納得感が伴わなければ、テナントには響かない。逆に、多少の曖昧さがあっても、「まあ、そんなものだろう」と思われれば、それで成立するのが共益費(管理費)の実務的リアリティである。では、その“相場の感覚”とは何か。ここでは、共益費(管理費)の適正ラインを見極めるうえで押さえておくべき、現実的な考え方を整理していく。 原価ではなく、“賃菅”での整合を重視する 共益費(管理費)単体で価値評価されることは、実はほとんどない。テナントが重視するのは、「賃料+共益費(管理費)」=“賃菅(ちんかん)”ベースでの総額比較である。たとえば、賃料が8,000円/坪で、共益費(管理費)が3,500円/坪であれば、実質的には「坪11,500円の物件」として評価されているということだ。このとき、周辺エリアの競合物件が「賃料7,500円+共益費(管理費)3,000円=10,500円」といった水準で出ていれば、自ビルの「賃菅」が割高に見える可能性がある。一方で、築年数や設備、立地の違いから、多少の価格差があっても「その価値はある」と思われるケースもある。つまり、「共益費(管理費)の適正ライン」とは、「共益費(管理費)」という単独価格の妥当性ではなく、総額の中での“バランス感”として設計されるべきであり、「原価」よりも「市場との整合感」を基準にすべきである。 相場と“見た目”の距離を測る 実務上、「適正な共益費(管理費)はいくらか?」という問いに明確な答えを出すのは難しい。なぜなら、共益費(管理費)の設定は、同じエリア・同じ築年数の賃貸オフィスビルでも、運営体制やリーシング方針によってばらつきがあるからだ。そのため、自ビルの共益費(管理費)が適正かどうかを判断する際は、次の2点をセットで見ておくとよい①周辺の築年数・規模・仕様が近いビルの“賃菅相場”と比較し、突出していないか②その金額に対して、“見た目”として納得感のある運営状態が保たれているか要するに、「このビルで、月額11,500円/坪は高くないか?」と問われたときに、現場で感じられる印象がそれを支える状況になっていれば、それは適正と言える。逆に、「どこを見ても劣化が目立ち、特にサービス感もない」となれば、それはたとえ価格が平均的でも“高く見える”。この「額面の数字」ではなく、「金額に対してテナントが抱く印象、値ごろ感」が、築古の賃貸オフィスビルにおける共益費(管理費)の妥当性を左右している。 賃料と共益費(管理費)の“比率”にも注意 近年、一部のオフィスでは、共益費(管理費)を高めに設定して賃料を抑える「共益費(管理費)積極型」の料金設計が見られる。これは、表面上の賃料を安く見せたい場合や、リーシング戦略上の見せ方として用いられる手法だ。ただし、あまりに共益費(管理費)が突出して高いと、「実態のわからない金額」に対する警戒感を招く。特に築古ビルでは、共益費(管理費)が賃料の40〜50%以上になるような設定は、「中身を聞きたくなる水準」に達してしまう可能性がある。そのため、価格構成を見直す際は、「賃料と共益費(管理費)の比率」も、見た目の印象として意識しておくとよい。同じ賃菅総額でも、比率が極端であれば不自然さが生じる。 “安すぎる”ことのリスクもある 意外かもしれないが、共益費(管理費)が安すぎることも問題になることがある。テナント側が「こんな価格で、本当にきちんと管理されているのか?」と不安を抱くことがあるからだ。特に、雑居ビルや管理状況のバラつきが大きい築古ビル群の中では、価格があまりに低いと、かえって“何かをしていないのではないか”という疑念につながる。つまり、適正な共益費(管理費)の水準とは、相場と合っていることに加えて、「やるべきことをやっていると思わせる」価格帯である必要がある。安さを前面に出すよりも、「それなりの管理がされていると思われる価格」を維持することが、結果的に信頼の維持につながる。 第5章:説明責任はどう考えるべきか――「聞かれたら答える」の落とし穴 共益費(管理費)という費目は、あいまいである。原価積算に基づく価格設定がなされているわけでもなく、項目ごとの使途が明示されているわけでもない。にもかかわらず、「これはいったい何に使われているのか?」という疑問を、ある日ふとテナントから投げかけられることがある。このような問いに対して、どこまで答えるべきか。あるいは、そもそも答えられる前提があるのか。本章では、「共益費(管理費)の説明責任」に対する実務的な構え方と、対応の基本原則を整理していく。 共益費(管理費)に“原価の積み上げ”は存在しない そもそも、共益費(管理費)というのは本来、「賃貸オフィスビルの共用部にかかる費用をテナントで按分する」ことを目的として設計されていたはず。照明や清掃、水道、エレベーター、消防点検、警備など、共用部の維持に必要な支出を、利用面積に応じて公平に分担する――これが、共益費(管理費)の基本的な考え方だった。しかし現在、賃貸オフィスビルの管理実務において、こうした実費按分の仕組みはほぼ形骸化している。実際には、共益費(管理費)は「月額3,000円/坪」「3,500円/坪」といった定額制で設定され、原価と連動しない“定型項目”として扱われている。そのため、「この共益費(管理費)は何に使われているのか?」と問われたとしても、原理的に「これとこれに使っています」と明確に答えることはできない。実費精算ではなく、包括的な管理・運営費用として広くテナント全体から徴収しているという性格があるからだ。 「一部を答える」は、むしろ疑念のきっかけになる この点を理解せず、「清掃や点検などに使っています」と答えてしまうと、逆に次のような疑念を誘発することがある。「それ以外は何に使っているのか?」「点検と言っても、実際には何をどこまでやっているのか?」「それにしては高くないか?」つまり、「答えること」が信頼構築に直結するわけではない。むしろ、説明によって疑問が増えてしまう構造があることを、オーナー/ビル管理会社は理解しておく必要がある。 対応の基本姿勢は「包括性と公平性」を示すこと 実務上の対応としては、詳細に踏み込むのではなく、共益費(管理費)の基本的な性格を“ブレずに、丁寧に”伝えることがもっとも効果的である。「『共益費(管理費)』は、共用部の維持や設備点検、清掃、緊急時の対応を含め、賃貸オフィスビル全体の管理を安定的に行うための包括的な費用として、定額でご負担いただいております。すべてのテナントに公平に適用しており、エリアの賃貸水準との整合性もふまえて設定しております。」このように、細かい中身を“答えない”のではなく、“構造として丁寧に説明する”ことが、現場での納得感につながる。 質問のきっかけは、“運営上のズレ”にあることが多い 実際に共益費(管理費)についての問い合わせが発生する場面は、往々にして何らかの“小さな違和感”がテナントに生じた後である。価格そのものへの関心というよりは、管理の不備や情報伝達のミスが引き金になることが多い。たとえば設備の不具合が放置されたままになっている予定されていた点検の連絡が来ていなかった清掃品質に波があり、汚れが目立つ日があるトラブル対応が遅れ、連絡も不足していたこうした場面で、「そういえば共益費(管理費)って、何に使われているのか?」という問いが自然と湧いてくる。つまり、共益費(管理費)の説明対応は、価格や中身の話ではなく、管理・運営上の不整合への反応として出てくるものであり、日常運営の精度がそのまま“共益費(管理費)の疑問発生率”を左右する。 「聞かれない状態」を維持するほうが本質的 だからこそ、説明の準備よりも、そもそも説明を求められない状態をどう維持するかに注力すべきである。すでに本コラムで述べてきた通り、共益費(管理費)は“整っている状態”が維持されていれば、テナントの関心には上らない。説明されなくても、困っていないことが、最大の納得要因になる。つまり、「『共益費(管理費)』について問い合わせが来ない」というのは、説明が要らないほど信頼されている状態を意味している。この状態が保たれていれば、詳細を語らずとも、価格は成立し続ける。 最低限の「定型回答」は用意しておく とはいえ、万が一の問い合わせに備えて、社内での統一的な回答文言を準備しておくことは必要である。現場での対応が属人的にならず、どの担当者でも一定水準の返答ができるよう、以下のような文言を共有しておくとよい「『共益費(管理費)』は、建物の共用部にかかる管理業務(清掃・点検・巡回・緊急対応など)を含む、建物全体の維持費用を広くカバーする定額制の費目として設定されています。個別の実費精算ではなく、すべてのテナント様に公平な形でご負担いただいております。」このような文言をあらかじめ用意しておけば、担当者ひとりひとりが過度に構える必要もなく、冷静に対応できる。 第6章:「納得される共益費(管理費)」は、どうやって成立しているのか 築古の賃貸オフィスビルにおいて、共益費(管理費)という項目がテナントから特に問題視されずに受け入れられている状態――それは、実は非常に高度な“無風の成果”である。その納得は、説明によって得られているわけではなく、日々の運営の中で自然と蓄積された信頼感によって成り立っている。この章では、テナントにとって「気にならない費用」として共益費(管理費)が成立するために、どのような要素が“感覚(知覚)レベル”で機能しているのかを考察していく。 共益費(管理費)は、「感覚としての整合」が成立しているときに、はじめて納得される テナントが共益費(管理費)を「妥当だ」と感じるとき、それは金額に対する明確な計算根拠や明示的なサービス内容があるからということで、ロジカルに導き出すものではない。むしろ、「この物件の状態と、月額●●円/坪という水準が釣り合っているかどうか」、「違和感がない」という言語化されない感覚的な整合感によって、妥当性が判断されている。この感覚は、いわゆる「勘」や「雰囲気」といった曖昧なものではなく、もっと根本的に、人が日常を生きるなかで得ている連続的な知覚の整合性に支えられている。たとえば、フロアに足を踏み入れたとき、照明の明るさや反射の具合に不安がなく、床の素材に段差や浮きがなく、空調の風が極端に強くも弱くもなく――「何も引っかからないままに、そこにいられる」こと。スピノザが述べたように、感覚(知覚)とは心と身体を分けることなく、「存在の様態として感受される経験」であるとすれば、共益費(管理費)への納得感もまさに、論理を超えた身体性と整合する感覚の中にある。それは、「頭で理解する」のではなく、「全体として受け止めている」状態であり、非言語的に“調和している”と感じることそのものが納得を生んでいる。 「特に問題がない」という体験の蓄積こそが、共益費(管理費)を成立させている この整合する感覚は、単発的事象としは成立しえない。たまたま清掃が行き届いていた日、偶然トラブルがなかった一週間というだけでは生まれえない。むしろ、「何も起きなかった」「いつも通りだった」という、継続した時間の経過の中でしか形成されない体験の蓄積である。ここで重要なのは、“何かがある”ことではなく、“何も気にならない”状態が続いていることそのものが、無言の評価になっているということだ。テナントは、いちいち清掃頻度や点検内容をチェックしているわけではない。それでも、以下のような状況が“当然のように続いている”とき、共益費(管理費)への疑問は起きない。フロア内の空気環境に違和感がない(風の吹き出し音や温度ムラが気にならない)エレベーターがいつもスムーズに動いている共用部の照明が統一され、光のちらつきや色ムラが生じていない廊下や壁面の傷や補修跡が端正に処理されており、清潔感が保たれているトイレや給湯室の備品が切れていたことがないつまり、「納得される共益費(管理費)」とは、個別の出来事や項目に分解できるものではなく、“何も引っかからないという知覚が、連続的に更新されている状態”にほかならない。逆に言うと、小さな不整合が積み重なると、テナント側の心理的な違和感が募り、「共益費(管理費)の内容がよく分からない」「説明してほしい」という声につながるということである。 「何も言われない」ことは、最高のフィードバックである “何も引っかからないという知覚が、連続的に更新されている状態”である限り、共益費(管理費)について、テナントから、不満なり、なにがしかのコメントが寄せられることは少ない。しかし、それ以上に重要なのは、何も言われないまま、更新が行われ、請求が滞りなく処理されていくという事実である。これは、管理運営としての成果が「可視化されていない」からといって、無視されているわけではない。むしろ、「言われない状態が、最も深く肯定されている状態」であるとも言える。それは、「何がいくらかかったのか」といった分解可能な根拠ではなく、「この金額なら特に文句はない」という身体的・経験的納得によって支えられている。この納得は、ロジックではなく、整合する知覚として、感覚のなかに棲みついている。 共益費(管理費)の価値は、「いつも通り」の中に潜んでいる “いつも通り”という言葉には、形式としての繰り返し以上の意味がある。そこには、違和感のない時間が積み重ねられてきた結果としての“自然さ”があり、それが共益費(管理費)の妥当性を静かに保証している。共益費(管理費)が成立するとは、価格と項目の合理的な整合がとれているという意味ではない。それは、日々の体験が言葉になることなく、「問題がなかった」と身体的に記憶されているということだ。この、語られない納得の構造こそが、築古ビルにおける“気にされない価格”をつくり出している。 第7章:「気にされない共益費(管理費)」を支える、管理・運営側の整え方 前章で述べたとおり、共益費(管理費)はその内容が説明されることなく、また、分析的に評価されることもないまま、「納得されている状態」が自然に成立している。この構造を支えているのは、個々の管理業務のパフォーマンスを包括して、全体として“気にならない状態”が持続していることにある。本章では、そうした「気にされない共益費(管理費)」を成り立たせている、管理・運営側の視点と具体的な整え方について掘り下げていく。 「質を上げる」のではなく、「ばらつきを抑える」 共益費(管理費)の納得感は、特別なサービスの追加によって得られるものではない。むしろ、築古の賃貸オフィスビル管理においては、狙った演出よりも、“日々の業務がいつも通り行われている”ことの一貫性のほうが重要である。たとえば:清掃の仕上がりに日によってムラがない照明器具/給湯設備の修繕対応に、担当者による差が出ない巡回頻度や点検の実施タイミングが、安定しているこうした“小さなばらつきの不在”こそが、テナントの不信感を未然に防ぎ、共益費(管理費)を価格として成立させている。“いつもそれなりに整っている”という一貫性のある管理が、テナントの心理的な安心感を生み、結果として共益費(管理費)への無関心=納得という状態につながっている。 「気づかれない変化」をどう設計するか 築古の賃貸オフィスビル管理において、設備の老朽化や外注業者の契約更新、仕様変更など、どうしても管理・運営の内容に変化が生じるタイミングがある。しかし、この“変化”が意識されてしまうと、それまで成立していた“気にならない状態”が揺らぎ、テナントの納得感を損なう引き金になり得る。たとえば:清掃業者の交代で、床の仕上がりや匂いがわずかに変わる巡回頻度を週5日から週3日に変えた結果、対応の遅れが出始める点検後の養生撤去や張り紙が雑になり、管理体制に疑念を抱かれる個々の更新・変更そのものは不可避であり避けがたいケースも多かろう。重要なのは、“更新・変更されたことが意識されない”ように、調整の過程をなめらかに運営できているかどうかである。この“段差のない更新・変更”ができることこそが、実務的な共益費(管理費)運用の鍵を握る。 違和感を「未然に察知する」姿勢・体制づくり 「共益費(管理費)が高いのでは?」という疑問は、突発的に出てくるのではない。多くの場合、日常の管理・運営のどこかで「これはおかしい」と思わせる出来事が蓄積した結果として現れる。だからこそ、“何かが起きてから動く”のではなく、“起きそうなことに事前に気づく”ための姿勢・体制づくりが重要になる。現場スタッフが「いつもと違う」と感じる感度を持てるようにしておく巡回時に設備や共用部の変化を“形式的チェック”で終わらせない清掃・補修・警備などの業者報告を、形だけでなく“内容ベース”で確認するこれは、点検の回数を増やすことではない。“静かな異変”に先に気づく視点、違和感への感度を、現場の運営の中に織り込んでいく姿勢であり、管理・運営力の問題である。 言葉にならない運営が、「価格をいじらずに信頼を保つ」 共益費(管理費)という費目は、一度設定されると、そう簡単に見直したり変更したりできるものではない。しかも、共益費(管理費)は、説明すればするほど納得されるとは限らない。むしろ、説明の過程で新たな疑問が生まれたり、「だったらこれはどうなんだ」と別の指摘につながったりすることも少なくない。その構造を踏まえれば、共益費(管理費)とは「語られないまま、納得されている」状態が、最も安定した形だと言える。この納得感を長く保ち続けるために、ビル管理会社として、また現場の担当者が行っているのは、目立つ改善策や大胆な改革ではない。 むしろ、誰からも注目されることのない部分での微調整や観察――つまり、“何も起きていない”状態を裏で静かに維持し続ける日常の調律である。たとえば、清掃ルートの見直し、備品補充のタイミングの最適化、共用部の照度や温湿度への反応、業者とのコミュニケーションの質のコントロール。それらはテナントに意識されることのない小さな判断の積み重ねだが、「この賃貸オフィスビルはちゃんとしている」という印象を、静かに支える要素になっている。特別なことはしない。ただ、特に問題が起きないように“細部を微調整し続ける”。この“見えない調律”こそが、共益費(管理費)という曖昧な価格を、動かすことなく崩さずに成立させるための、実務的かつ職人的な技術なのだ。 第8章:共益費(管理費)という“あいまいな費目”を、どう戦略的に扱うか ここまで見てきたように、築古の賃貸オフィスビルにおいて共益費(管理費)という費目は、説明のしやすさや計算の明快さを欠いた、ある意味では“語りにくい価格”である。何にいくらかかっているのかを項目立てて語ることは難しく、相場水準との整合や納得感の形成も、数字よりも「違和感のなさ」「日々の整い」といった感覚的な要素に依存している。一見すれば、それは経営上の不確実性や不安定さにつながる弱点のようにも思える。だが、本コラムで見てきたとおり、この“あいまいさ”こそが、実は共益費(管理費)を柔軟に設計し、運営の安定を支えるための余地を与えている。そして、この性質を正しく理解すれば、共益費(管理費)は、単なるコスト回収のラインとしてではなく、むしろ「このビルはきちんと整っている」という印象を静かに維持する、信頼形成の装置として戦略的に設計されるべきものとして位置付けることができる。 共益費(管理費)は「収支説明」ではなく、「納得感の設計」である 共益費(管理費)を「管理コストの按分」や「実費の積算」として捉えると、どうしても説明責任と原価の開示が重くのしかかる。だが現実には、共益費(管理費)はそうした原価連動の費目ではなく、あらかじめ設定された“一定の金額で、整っている状態を保つ”という実務運用のための外枠=静かな枠組みである。共益費(管理費)は、状況に応じて上下させる「可変パーツ」ではなく、「この範囲で整え続ける」という枠組み=前提条件として設定されるものだ。オーナー/ビル管理会社が求められるのは、その価格が“問われない”状態を、日常業務でどう維持し続けるかという視点である。 「疑問が出ない」ことこそ、最大の肯定 共益費(管理費)の扱いで最も避けるべきなのは、「この費用は何に使われているのか?」という問いが浮かび上がる状態だ。この問いは、費用対効果に対する不信の兆候であり、運営のどこかでズレやばらつきが発生しているサインである。だからこそ、「説明がなくても、気にならない」こと――すなわち、価格と状態が“暗黙の了解”として成立している状態を目指すことが、もっとも現実的で有効な共益費(管理費)運営のあり方である。 あいまいさを支える日常の調律 築古の賃貸オフィスビル管理において、共益費(管理費)は「何も言われない価格」であることが理想だ。その実現のためには、あらかじめ設定された一定の価格の外枠の下、テナントとの適切な距離感を保ちながら、印象を乱さず、整え続ける―そのための静かな調律を、日々の業務のなかで積み重ねていくしかない。それは、設備更新や新サービスの導入のような「目に見える改善」とは異なる、見えないところで印象を支える静かな実務力である。 おわりに 共益費(管理費)は、確かにあいまいな費目である。だが、そのあいまいさを“悪くないかたちで維持できている”ということ自体が、管理の質そのものを表している。共益費(管理費)のような費目においては、“わかりやすい説明”が誠実さの形とは限らない。問われずとも納得されている状態を維持することもまた、一つの誠実な姿勢といえる。語られずとも受け入れられているものを、丁寧に保ち続けるという態度――それこそが、築古ビルにおける共益費(管理費)運用の本質であり、オーナー/ビル管理会社が持つべき、もっとも実践的で静かな戦略なのかもしれない。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月6日執筆2026年01月06日 -
プロパティマネジメント
築古オフィスビルは、なぜ“残る”のか?─東京の再開発と資本能率性の盲点
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルは、なぜ“残る”のか?─東京の再開発と資本能率性の盲点」のタイトルで、2026年1月5日に執筆しています。 少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに──賃貸オフィスビルは、どこまで「場所」で儲かるのか?第1章:資本主義が見落としてきた「場所の特殊性」第2章:「東京」という局所性が築古の賃貸オフィスビルを延命させてきた第3章:「ストック市場」と「フロー市場」の構造的矛盾が築古の賃貸オフィスビルを揺さぶる第4章:ファンド資本主義の隙間で生き延びる、築古の賃貸オフィスビル第5章:ズレを引き受ける空間としての築古の賃貸オフィスビル―資本主義の“余白”に生きる最終章:都市の綻びに宿るもの──築古の賃貸オフィスビルという生存装置 はじめに──賃貸オフィスビルは、どこまで「場所」で儲かるのか? 賃貸オフィスビルの経営って、よく考えてみると、ちょっと不思議なビジネスだと思いませんか。やっていることは、シンプルです。土地の上にオフィスビルを建てる。できるだけ良いビルを建てる。そして、そのビルのオフィス空間をテナントに貸して、賃料という“場所代”をもらう。基本的には、それだけ。でもこの仕組みは、何十年も変わらずに機能し続けています。いったい、賃貸オフィスビルという事業の成立において、「場所」が持つ力は、どこまで大きいのでしょうか。少し立ち止まってみると、これは資本主義にとって、なかなか解けない問いでもあります。市場経済の原則では、すべてのモノやサービスは、需要と供給によってフラットに評価されるべきだとされます。リンゴも、パソコンも、オフィスも、同じルールで価格が決まるはず。けれども、「土地」だけは、どうしてもそうならない。 特に東京を見れば明らかです。日本中にこれだけ広い国土があるのに、経済活動は異様なまでに一極集中し、限られた土地にだけ極端な価値が宿る。そして、ほんの少し郊外に外れただけで、オフィスの賃料や土地の評価は大きく変わってしまう。この局所的な偏りは、「市場の公平な価値付け」では説明しきれません。 むしろ、賃貸オフィスビルというビジネスの根底には、「資本主義がうまく扱えない特殊性」、言い換えれば、「資本主義の外側に残された価値」が、じわりと作用しているのかもしれません。実際、東京の賃貸オフィス市場は現在、空室率の改善、賃料水準の上昇など、いわば「好調」に見える状況にあります。ですが、そうした表面的な回復基調の裏で、築古の賃貸オフィスビルには、別の現実が静かに忍び寄っています。売買価格(=ストックの価値)は上昇を続ける一方で、築古物件の賃料収入(=フロー)は頭打ちに近づいており、「この価格に見合うだけの収益が、本当に得られるのか?」という根本的な矛盾が、じわじわと表面化し始めているのです。もしこの矛盾が臨界点を超えたとき、「築古の賃貸オフィスビルはもう成り立たない」という未来がやってくるのかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?賃貸オフィスビルが築古になっても、場所としての価値が失われるとは限りません。むしろ、建物の効用や資本の論理では説明しきれない「場所のちから」が、そこに静かに息づいているとすれば──それは、築古の賃貸オフィスビルが“まだ使える”というだけの話ではなく、「資本主義という仕組みそのものに潜むズレ」を映し出す、ひとつの鏡なのかもしれません。ちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、大丈夫です。このコラムでは、賃貸オフィスビルが収益を生むうえで、「場所の価値」がどのように作用してきたのかを改めて見つめ直しながら、築古の賃貸オフィスビルの価値をどう再発見し、どう延命していけるのか──その実務と思想の両面から、現実的に考えていきたいと思います。それでは、一緒にその謎を解きに行きましょう。 第1章:資本主義が見落としてきた「場所の特殊性」 市場という仕組みは、そもそもすべての財やサービスを、フラットなルールで交換する場として設計されています。リンゴでも、自動車でも、オフィス空間であったとしても、価格は需給のバランスで決まり、効率のいいものが選ばれて残り、そうでないものは淘汰されていく。そうした新陳代謝によって、資本主義は成長していく──そんな理屈です。 でも、そのロジックに、ぴったり当てはまらない存在がある。それが「場所」、土地や空間です。場所には、モノやサービスにはない「偏り」があります。たとえば、品川駅前の一等地を、青森とか地方都市に“引っ越し”させることはできないし、希少性のある立地は、それだけで特別な価値を持ってしまう。 資本主義の教科書的なロジックに照らせば、こうした“動かせない偏り”は、むしろ制度の歪みとして扱われることが多かった。実際、古典派経済学のリカードは、土地の生産性の差から生まれる「差額」が地代の根拠になると説明しました。つまり、土地はそもそも他の財と同じ市場原理では扱いきれない、特権的な利潤構造を内包しているのです。 そして、いまの東京の賃貸オフィス市場を見渡してみれば、その理論が、思いのほか“生々しいかたち”で現実化していることがわかります。たとえば、千代田・中央・港といった都心3区にある築古の賃貸オフィスビル。築年数が30年を超えて、設備も最新水準とは言いがたい―にもかかわらず、意外に高い賃料水準でテナントが入っているケースは少なくありません。それは、いわゆる「ビル性能」をもとにした市場の効率的な価格形成から、明らかにズレています。このズレこそが、「場所の力」が働いている証です。 企業にとって“立地”とは、単に駅からの距離だけを意味するものではありません。顧客や取引先との心理的な距離感、従業員が“この場所”で働いていることの満足度、そして「このエリアにオフィスを構えている」ということ自体が持つ信用やブランディング効果──そうした複数の価値が複合的に絡み合い、“場所”という一点に集約されます。これらは、坪単価やスペック比較では可視化しにくい、「非数値的な便益」です。にもかかわらず、実際の入居判断には決定的な影響を与えています。「築古だけど、ここにあるから選ばれる」──この構図を見過ごすと、立地が支えるビル価値の実態を読み誤ることになります。 ただし、そうした「場所の特殊性」も、いつまでも続く保証はありません。テレワークの普及、業態の変化、都市計画の転換、人口動態の変化……社会が変われば、場所の“特別さ”もまた変容していきます。築古の賃貸オフィスビルが、いま直面している不安定性は、まさにこの「場所の価値」が、時代の中で揺らぎ始めていることに発するのかもしれません。 言い換えれば、築古の賃貸オフィスビルが生き残っていくに際して問われているのは、設備更新やリノベーション等に対する投資判断だけではなく、資本主義の中でうまく扱い切れなかった「場所の特殊性」とどう付き合い直すかという、根本的な課題なのです。この「資本主義が見落としてきた価値」に、どんなヒントがあるのか?次章では、もう少し具体的に、「東京」という空間を起点に考えてみたいと思います。 第2章:「東京」という局所性が築古の賃貸オフィスビルを延命させてきた 前章では、土地や空間といった「場所」が持つ特殊な価値が、市場原理に基づく資本主義の枠組みでは十分に扱いきれないことを論じました。築古の賃貸オフィスビルが、「東京」という局所性を背景に価値を保ち続けているのも、その延長線上にあります。ここでは、もう少し具体的に「東京」という都市そのものにフォーカスし、その局所性が築古ビルの延命にどう作用してきたのかを掘り下げてみます。あわせて、その局所性に限界が訪れたとき、どのような変化が起きうるのかも想像してみたいと思います。 「東京」という都市が築いた、特別な立地価値 東京の賃貸オフィスビル市場が、日本全国の中でも飛び抜けた特別な存在であることは、誰もが認めるところです。高い賃料水準、集中的なオフィス需要、交通や商業機能の圧倒的集積。それらは東京という都市が時間をかけて積み上げてきたものです。思い返せば、東京は戦後の空襲で一面の焼け野原となった場所でした。そこからの復興期、高度経済成長、バブル経済、そして現在に至るまで、政治・経済・文化の機能が意図的に集中され、「特別な立地価値」をもつ都市へと成長してきたのです。政府機関の集積、大企業の本社機能、金融市場、情報発信拠点としての役割がすべて東京に集められた結果、地方都市では実現できない経済的優位性が形成されました。こうした構造の中で、築古の賃貸オフィスビルもまた、立地という「場所の力」を借りて価値を保ち続けてきました。多少古くても、設備が劣っていても、「東京のど真ん中」にあるという理由だけで、「信頼できる立地」として認められ、一定のテナント需要が保証されていたのです。 局所性に永続性はあるのか? しかし、この「局所性の恩恵」も永続するとは限りません。東京の賃貸オフィス市場は長らく順調に推移してきましたが、すでにその構造に小さな揺らぎが見え始めています。示唆的なのが、アメリカの動向です。ニューヨークやシリコンバレーといった超高地価の都市圏から、企業や若年層がテキサス州のオースティン、ヒューストンへと移動するケースが増えています。背景には、地価の高騰による生活・事業コストの上昇と、それに見合わない経済的リターンへの不満があると言われます。このような現象は、経済活動が特定の場所に過度に集中した結果、「バランスを取り戻す力」が市場から自然に生まれることを示唆しています。立地の特別性が限界まで膨らみ、フロー(賃料)とストック(不動産価格)のバランスが崩れたとき、人や資本は新たな場所へと移動していくのです。出典:CBRE「U.S. Office Market Outlook」U.S. Census Bureau(都市圏別人口統計)Reuters(企業動向に関する報道) 東京でも「変化の力」は動き出している もしも東京がもっと狭い都市で、賃貸オフィスビルの供給余力も小さく、飽和していたとしたら、こうした移動はすでに起きていたかもしれません。けれども、東京は広大で、かつ日本社会の中枢機能が過度に集中しているため、「変化の力」が顕在化するには時間がかかっていると言えるのかもしれません。それでも、近年ではテレワークの浸透や働き方の多様化に伴い、東京の一極集中に対する限界を、多くの企業が少しずつ感じ始めています。都心にオフィスを持つことのメリットが、以前ほど絶対的ではなくなってきている──そうした認識が広まりつつあるようにも感じられます。一部の企業では、非中枢機能を郊外や地方都市に分散し、サテライトオフィスを設けるなど、拠点構成の見直しが始まっています。都心に本社を置き続けるという大きな流れは維持されているものの、「立地の特別性」が相対化される兆しが出てきているのは確かです。 「東京である」だけでは守りきれない価値 だからこそ、築古の賃貸オフィスビルに求められるのは、「東京にあるから価値がある」という発想をいったん疑ってみることです。これからの時代、「東京の立地性」だけに依存した延命戦略は、いずれ限界を迎えるかもしれません。むしろ、「このエリアだからこそできる」「この物件ならではの魅力がある」といった、より具体的で身体性のある価値づけこそが求められるのではないでしょうか。築古ビルの延命において、「場所の力」を過信せず、「場所との付き合い方」をアップデートしていく──その視点が、これからの局所性戦略の核心となるはずです。 ただし、ここでひとつ立ち止まって考えたいのは、「場所の価値」が際立てば際立つほど、それが資本の論理によって“商品”として過剰に評価されてしまうリスクがある、という点です。実際、不動産市場では立地の希少性が評価されるあまり、実態の収益力と乖離した価格形成が進みつつあります。築古の賃貸オフィスビルがもつ「場所の特殊性」は、価値を支える一方で、ファンド資本主義の射程にも取り込まれやすい──。このねじれた構造のなかで、いま何が起きているのか?次章では、「ストック」と「フロー」という二つの市場のズレに注目しながら、築古の賃貸オフィスビルを取り巻く資本主義的矛盾の正体を掘り下げてみたいと思います。 第3章:「ストック市場」と「フロー市場」の構造的矛盾が築古の賃貸オフィスビルを揺さぶる 土地や空間という資源は、本来、資本主義の市場原理が苦手としている「局所的で代替不可能なもの」です。再生産も流通も不可能な「一回性のモノ」である土地は、理論上のフラットな市場とは相性が悪く、その意味では資本主義の“外側”に置かれていたはずでした。ところが、資本主義が成熟し、「ファンド資本主義」とでも呼ぶべき段階に突入すると、この本来“外側”にあったはずの土地・不動産も、資本運動の射程に組み込まれていきます。まさにその点に、築古の賃貸オフィスビルが直面している最大の構造的課題が潜んでいます。 ファンド資本主義が生み出す「資産価格の膨張」 資本主義の仕組みを考えるうえで、少し歴史をさかのぼってみましょう。資本主義が本格化する前──とくに農業を基盤とした封建社会では、土地を耕して得た“余剰”は、領主のもとへ「年貢」や「地代」として吸い上げられていました。この時代の土地は、作物をつくるための生産手段であると同時に、「余剰を吸い取る装置」でもあったのです。現代の不動産賃料も、ある意味ではこの構造の延長にあります。借り手が稼いだ利益の一部が、賃料というかたちで貸し手に吸い上げられていく。その意味で、家賃や地代は、資本主義の「自由競争と価値創造」という原則から見ると、やや異質なしくみ──言うなれば、“封建制のなごり”とも言えます。こうした視点で見ると、GAFAのような巨大IT企業がつくったプラットフォームに、私たちユーザーが自覚のないまま“地代”を払っている構図──いわゆる「テクノ封建制」──もまた、封建的な支配構造の現代版と考えられるかもしれません。土地ではなく、デジタル空間が“場所”になり、そこにいること自体がコストを生む。つまり、時代が変わっても、「場を支配する者が利益を得る」という構造は、かたちを変えて生き残っているのです。 一方で、産業資本主義が成熟していくと、企業が利益として蓄積する資金量は、実際の製造・販売に必要な投資額を上回るようになります。銀行はその余剰資本の受け皿となって産業に貸付を行い、生産効率を高める装置として機能しましたが、余剰資本の膨張とともに、やがて投資先の選別が困難になり、資本は生産と乖離しながら「自己増殖する資本」へと変質していきます。このとき登場するのが「ファンド資本主義」です。株式や債券といった金融商品だけでなく、金(ゴールド)、さらには、土地や不動産のような、本来は資本主義の周縁にある資産にまで、ファンドの資金が雪崩れ込むようになったのです。その典型が1980年代後半の日本のバブル経済であり、あるいは、近年の世界的な超金融緩和のなかでの不動産価格の上昇です。こうして土地や建物の価格は、もはや実用価値では説明のつかない水準にまで引き上げられていきます。当然ながら、その先に蓋然性を以て予見されるのは、バブルとその崩壊という“いつか来た道”です。中央銀行が金融政策でその振幅を制御しようとはしていますが、将来にわたって「完全に抑えられる」のかは不透明と言えるでしょう。 賃貸オフィスにおける「ストック」と「フロー」のズレ こうしたファンド資本主義の影響を最も強く受けている分野の一つが、不動産市場です。東京都内の賃貸オフィスビル市場では、特に売買価格(ストック)は上昇を続けています。ファンドを含む外資、地方の事業会社、中堅の不動産会社などが、収益還元可能な水準を超えた価格でも取得を試み、市場の売買価格はじりじりと切り上がっています。しかし、その一方で、オフィス賃料(フロー)には明確な上限があります。テナントが支払う賃料は、自らの事業によって得られる利益の範囲内に制約されており、それを超える賃料を支払えば、たちまち事業は成立しなくなります。つまり、賃貸オフィスビルのフロー収入は、ファンド資本主義が描く“理想的な収益曲線”ではなく、企業活動の実態や経済の基礎体力という“現実”に律されているのです。この現実とは、極めて当たり前で、しかし忘れられがちな制約です。どれだけストック価値(ビル価格)が市場で高騰しても、それを支えるフロー(賃料収入)が企業活動の実態と乖離すれば、その矛盾はいずれ顕在化します。 築古の賃貸オフィスビルが最前線で受ける“歪み” この矛盾の最前線にあるのが、築古・中小規模の賃貸オフィスビルです。老朽化によってスペックが陳腐化し、天井高や設備仕様に限界がある物件は、たとえ需要があっても賃料単価を上げにくいという現実があります。一方で、都心立地や希少性、将来的な再開発余地などが評価されることで、売買市場(ストック)においては、投資家によって高値で取得されるケースが後を絶ちません。すると、その物件が生むフロー収益と、投資額との間に大きなギャップが生まれる。いわゆる「この賃料水準で本当にこの価格を回収できるのか?」という根本的なズレが表面化してきます。そして問題は、その“ズレ”が単なる投資収益の低下にとどまらない点にあります。期待したキャッシュフローが得られない状況が続けば、オーナーはビルの維持管理や設備更新にコストをかけづらくなり、やがて最低限の管理すら行き届かなくなる可能性がある。空調が壊れたまま、共用部が古びたまま放置される──そんな状態になれば、当然テナント満足度は低下し、結果として空室が増える。つまり、フローとストックの矛盾が、ビルの品質劣化→テナント離れ→稼働率低下という悪循環を引き起こす構造になっているのです。加えて、築古・中小規模の賃貸オフィスビルに入居するテナントは、費用感に対して極めてシビアな企業や個人が多い傾向にあります。したがって、設備やサービスを向上させて賃料を引き上げる余地は限られており、フローの上振れで矛盾を吸収することも難しいというのが実態です。 この矛盾にどう向き合うか こうした構造的な矛盾に対して、オーナーやビル管理会社が個別の努力で抜本的な解決を図るのは、現実的にはきわめて困難です。どれだけ内装を整備し、どれだけ入居条件を工夫したとしても、テナントが実際に支払える賃料には明確な上限があります。つまり、築古の賃貸オフィスビルにおいて収益力を根本から押し上げようとしても、それを受け止められる「市場の許容範囲」自体が限られているのです。 だからこそ重要なのは、この矛盾が構造的なものであり、避けがたい現実として存在していることを、まずは率直に受け止めることです。そのうえで、築古の賃貸オフィスビルの現場において、いま何が可能で、何を諦めざるを得ないのか──限られた条件の中で、どこまで手をかけ、どこで割り切るのかを見極める姿勢が求められます。次章では、こうした制約を前提としたうえで、それでもなお現場で実行可能な「現実的な選択肢」について掘り下げていきたいと思います。 第4章:ファンド資本主義の隙間で生き延びる、築古の賃貸オフィスビル ファンド資本主義が不動産市場を席巻する現在、築古の賃貸オフィスビルは、どのようにしてその居場所を保ち、生き延びていくことができるのでしょうか。 仮定として、もし都市の開発や不動産市場の取引が、摩擦ゼロの条件で進むと仮定すれば、非効率な建物はすべて再開発されてしまうことになるので、古びた中小規模の賃貸オフィスビルはとうに姿を消しているはずだ。だが、現実はそうはなっていません。都市の再開発には、さまざまな制約がつきまとっています。権利関係、法制度、施工リソース、建築コスト──それらはすべて、資本の論理による一斉再開発を現実から遠ざけています。さらに言えば、仮にそうした制約をクリアできたとしても、そこに投下される巨額の資本が、本当に都市の経済活動とバランスするのかという根本的な問いが残っています。ファンド資本主義のプレイヤーたちが「この市場はすでに過熱している」と一斉に判断した瞬間、開発プロジェクトの価値評価は、チューリップ・バブルや南海泡沫のように一気に崩れる可能性すらあります。要するに、この矛盾はどこかで“解消”されることはない。むしろ、整理されきれない余白が都市の随所に残ることで、逆説的に全体のバランスが保たれていると言えるでしょう。都市とは、“ノイズ”や“隙間”を含んだまま機能する構造体なのだ。言い換えれば、再開発され尽くさないことこそが、都市の延命条件であるとも言えます。 さらに、不動産市場では、売買価格(ストック)と賃料収益(フロー)との間に構造的なギャップが生じています。にもかかわらず、築古の賃貸オフィスビルが完全に淘汰されないのは、それが「ファンド資本主義の本流(メインストリーム)からわずかにズレた場所」にあるからではないでしょうか。 この“ズレ”は、単なる不完全性ではなく、「価値の余白」としての可能性を持っています。築古の賃貸オフィスビルのサバイバル戦略とは、必ずしも、新たな投資価値を創出することではありません。むしろ、資本の加速運動から少し距離を取った“非‐資本主義的空間”として、ひっそりと、しかし確かに機能し続けることにあります。それは、都市のなかに点在する“逃げ場”としての役割でもあります。制度や秩序が支配する空間とは異なる、もうひとつの場。哲学者ミシェル・フーコーは、そうした空間を「ヘテロトピア(異空間)」と呼びました。都市の秩序が張り詰めるなかで、そこから一歩引いた“別のリズム”を許容する場所──まさに築古の賃貸オフィスビルは、そうしたヘテロトピア的視点を体現しているのかもしれません。以下では、そうした「ヘテロトピア的な築古ビル」が持つ5つの特殊性について見ていきたいと思います。 特殊性①:小さな局所性が息づく 丸の内や六本木といったランドマーク型の街だけが、東京ではない。神田、日本橋、新橋といった街には、顔のある空気と時間の蓄積がある。築古ビルは、そうした“顔のある街”の一部として存在できる。たとえば神田なら、利便性や賃料の手頃さに加えて、気取らない街並みや老舗の蕎麦屋がオフィス空間に“生活の温度”を添えてくれる。これは大規模再開発エリアでは決して得られない質感だ。ファンド資本主義がスルーしていく細部の価値。それこそが、築古ビルにとってのアイデンティティになり得る。 特殊性②:小ささゆえの即応性と柔軟性 小さなビルは、速く動ける。テナントのニーズに合わせて柔軟に内装や設備を調整できること、対応が早いこと、融通がきくこと──これは大規模ビルには真似できない築古ビルの持ち味だ。今後、オフィスの在り方が流動化し、プロジェクト単位での利用やハイブリッドワークが広がるなかで、この“サイズ感”の良さは好まれる場面が増えている。要するに、小さいことによって「逃げ場」としての機動性を確保し得るのである。 特殊性③:資本の視線から距離を取った空間設計 築古ビルには、使い手の想像力を許容する“余白”がある。派手な演出ではなく、削ぎ落とされた素地。意図的なマーケティングの文脈から離れ、素朴で静かな空間が立ち上がる。たとえば、自然光の入り方を活かしたミニマルな内装や、素材そのものの質感を大切にする設計。そうした空間は、“見せる”ではなく“避ける”ための場所として機能する。資本の視線から少し距離を置く──そのことが、特定の感受性を持ったユーザーにとっては、むしろ信頼できる選択肢となる。 特殊性④:地域の物語を内包した“空間の記憶” 築古ビルには、時間の痕跡が残る。建物そのものが持つ歴史、街とともに歩んできた記憶、そこにあった営み。こうした要素は、新築ではゼロから構築しなければならないが、築古ビルには自然と宿っている。神田や日本橋の周辺の立地において、こうしたストーリーの存在は、物件選びの“最後の一押し”になり得る。過剰な演出を排し、静かな背景を持つこと。それは、地域とともにあるという信頼の証でもある。 特殊性⑤:非中心ネットワークの“点”としての接続性 都市構造がセントリック(中央集権的)からリゾーム(分散接続的)へと変化していく中で、小さな築古ビルはネットワークの“ノード”として機能する可能性を持つ。本社が都心にあっても、郊外や地方に拠点を持つ企業にとって、アクセスしやすく柔軟なサテライト拠点としての価値がある。移動型ワーク、多拠点居住、二拠点ビジネス──そうした流動的な活動にとって、「点としての空間」はかけがえのないピースとなる。 築古の賃貸オフィスビルが持つ可能性は、その“弱さ”、周辺特有のマイノリティ性、のなかにこそあります。ファンド資本主義のメインストリームから少し離れたその場所で、無理せず、過剰に抗わず、しかし確かに息づいています。都市の“端っこ”で生き延びる。そこには、派手さではなく、地に足のついたサバイバルのリアリティがあります。そして、それこそが、築古の賃貸オフィスビルが持つ唯一無二の“希望”ではないでしょうか。 第5章:ズレを引き受ける空間としての築古の賃貸オフィスビル―資本主義の“余白”に生きる 大規模な再開発が進む東京の都市空間。八重洲、日本橋、高輪ゲートウェイ、田町といったエリアでは、デベロッパーが主導し、ファンド資本を背景とした巨大プロジェクトが次々と展開され、地上40階超の超高層オフィスビルが都市の景観と機能を塗り替えつつあります。しかし、そうした「表通りのランドマーク」を一本裏に入るだけで、築年数を重ねた中小規模の賃貸オフィスビルが、静かに、しかし確かに生き残っている光景に出会います。これらの築古ビル群は、資本主義が描く都市の最適化構造にとっては、どこか“異物”のような存在です。最新の設備にも、設計上の効率性にも適合していません。それでもなお、完全に淘汰されることもなく、むしろ「最適化の網から外れた場所」に、頑なにとどまり続けています。 都市の「再開発されなさ」が示す、摩擦のリアル ある特定の築古の賃貸オフィスビルが再開発されずに残っていることに、絶対的な必然性があるわけではありません。相続、権利調整、法制度、工事コスト、近隣対応──そうした動かしがたい事情が複雑に絡み合い、結果として「動かしづらい存在」となり、偶発的に、そのまま都市の中に留まり続けているのです。完全に合理化された都市とは、イマジナリーな概念にすぎません。すべてが最適化され、資本が無駄なく配分され、スペックが標準化された社会は、理論上は正しく、美しいかもしれない。けれど、現実としてはきわめて脆弱です。揺らぎも、逃げ場もない都市は、ひとたび想定外の事態が起これば、一気に臨界点を超えてしまいかねないのです。すべての結論が出揃った都市では、新しい物語はもう始まり得ないのです。だからこそ、都市のどこかに「ズレ」があり続けること―それこそが、現実を実体として成立させるための前提なのです。築古の賃貸オフィスビルは、そのズレを物理的にとどめておく装置として、いまも都市のなかに存在し続けています。 “ズレ”が開く、生き残りの空間 収益性が低く、維持費は重く、今後の改修にも多くの課題が残る、けれど、それでも築古の賃貸オフィスビルが都市から必要とされているのは、そこに「数字に映らない需要」が息づいているからです。たとえば、歴史ある中堅企業、予算に限りがあるスタートアップ、短期利用のプロジェクトチーム、クリエイティブを仕事にする個人事業者──彼らが求めているのは、必ずしも最新スペックでも、充実した設備でもなく、「今、ここで、使える」場所なのです。大規模開発された賃貸オフィスビルでは吸収しきれない、目立たないけれど圧倒的に多数派である中小企業のニーズ。その流動的で多様な需要を、静かに、しかし確実に受け止めているのが、都市の“谷間”に点在する築古の賃貸オフィスビルです。つまり、築古の賃貸オフィスビルとは「なくなっても困らない存在」などではまったくなく、「なくなっていくと都市の基盤が静かに崩れ始める」存在なのです。 観察される構造としての“リゾーム” 築古の賃貸オフィスビルは、どれもが事情を異にし、個別に存在しています。オーナーがいて、管理会社がいて、テナントがいて、入居には仲介会社が関わる──このエコシステムは、あくまでも自然発生的であり、あらかじめ構築されたネットワークというより、それぞれの現場ごとにバラバラに動いているようにも見えます。しかし実際には、築古の賃貸オフィスビルを複数管理している私たちのようなビル管理会社の立場からは、ある特定の価格帯・スペック帯の中で、テナントがビルを“回遊”している構図が、仄かに見えてきます。それは成長とともに広いオフィスへと移動することもあれば、事業縮小により狭い空間へと移ることもある。予測不能でアドホックなこの動きは、事前に計画して意図されたものではないにせよ、確かなリズムをもって都市に存在しているのです。そこには、計画性も連携もない。けれど、都市の構造的なズレが生み出す“予期せぬ接続”が、非公式な回路として静かに機能している。その様相は、あえて言えば「リゾーム的構造が幻視される」とでも言えるでしょう。リゾームとは、戦略的に設計されるものではなく、ズレの中から偶発的に浮かび上がる構造なのです。 都市というシステムのバッファ領域として 築古の中小規模の賃貸オフィスビルは、都市空間のなかで「バッファ」としての役割を果たしています。ここでいうバッファとは、都市経済の表層に現れるメインの活動を直接的に支えるのではなく、その周囲で発生する余剰や不確定性、変動要因を吸収・緩和する“緩衝地帯”のような存在です。都市の経済活動は、常に明確な方向性をもって動いているわけではありません。起業や撤退、拡張や縮小、転居や仮住まいなど、企業や個人の判断は流動的で、計画と現実のあいだには常にズレがあって、「決まっていない」「つなぎ」「様子見」といった判断が日常的に含まれています。こうした曖昧で一時的なニーズに寄り添って、仮の拠点、つなぎの場所、あるいは撤退までの一時的な逃げ場として、築古の賃貸オフィスビルは使われていくことになります。これらの動きは、大規模できちんとした賃貸オフィスビルでは受け止めることは難しいかもしれません。築古の賃貸オフィスビルは、その柔軟さ、手頃さ、規模感によって、都市に生まれる未決定な状態を受容する受け皿となっているのです。A面ではないB面のニーズ、あるいは一時的な商流や拠点の動きに対応できる場所──そうした「定まらないもの」に都市が対応して、動的に機能し続けられているのは、まさに築古の賃貸オフィスビルのような“余白”がそこにあるからなのです。 「ズレ」が残ることで、都市は生き延びている もし都市空間のすべてが最適化され、スペックや収益性だけで評価され、資本の論理に沿って整然と配置されていたなら──それは、効率性の観点からは理想的に見えるかもしれません。しかし、そのような都市は、ほんのわずかな揺らぎにも対応できない、極端に脆いシステムになりかねません。実際の都市には、常に予定外の動きや計画されていない選択が存在します。制度の枠を越えるような人々の営み、企業の突発的な撤退や拡張といった変化は、予期せぬかたちで日々生じています。こうした揺らぎやノイズを、都市のシステムは完全に管理することができません。むしろ、都市で活動する人間や企業そのものが、システムにとっての“外部性”として立ち現れる──そうしたパラドキシカルな状況が、都市という場の本質にはあります。すべてが設計通りに整えられた都市では、計画外の事態が生じた瞬間に、逃げ場はなくなります。都市空間に曖昧に存在しているのが、築古の賃貸オフィスビルです。こうしたビルは、あらかじめ意図された機能ではなく、都市のシステムのスキ間に偶発的に生じた“誤差”であり、“ズレ”なのです。このズレが、その“ゆるさ”によって、外部性による突発的な揺らぎやノイズ──人間や企業の思わぬ動き──を吸収し、局所的な不均衡があっても全体の崩壊を防ぐクッションの役割を果たしているのです。それはまるで、生物における「免疫機能」のようです。都市というシステムが長期的に持続するためには、外部性を完全に排除するのではなく、一部を受け入れ、内側で折り合いをつけていく柔軟性が求められます。つまり、「予測不能な揺らぎを受け止める余地」を空間として持ち続けること──それが都市における“免疫”として機能しうるのです。築古の賃貸オフィスビルは、資本主義の都市設計においては“誤差”や“失敗作”として片付けられてしまうことがあるかもしれません。けれど、この誤差/ズレをあえて許容できる都市だけが、突発的な変化にも耐え、しなやかに立ち直ることができるのです。すべての結論が出尽くし、隙のない構造でできあがった都市には、新たな物語はもはや生まれません。だからこそ、“ズレ”がどこかに残り続けること──それは、単なる老朽や未整備ではなく、都市が都市としての物語を紡ぎ続けるための、根源的な生命線なのです。 最終章:都市の綻びに宿るもの──築古の賃貸オフィスビルという生存装置 都市とは、思い通りにならない場所だ。成長には摩耗がともない、整理すればはみ出し、再開発を進めれば、かならずどこかに歪みが残ります。完全に整った都市など存在しないし、存在するはずもない。人が生きる限り、そこには常に“揺らぎ”が生じます。だからこそ、都市は生きていられるのです。築古の中小型賃貸オフィスビルとは、そうした“揺らぎ”が都市のシステムの中に累積し、結果的に“誤差”として浮かび上がった綻びです。資本が期待する利回りに届かず、再開発の輪からも外れ、建築的にも制度的にも「今の正解」からは大きくはみ出しています。けれど、その不完全さゆえに、都市の中で「揺らぎを受け止める場所」として機能し続けているのです。 都市の計画は合理性で描かれていても、そこで暮らす人間の動きは決して合理だけでは説明できません。制度からはみ出す暮らし、採算に合わない動き、予測不可能な変化。その一つひとつが、都市という巨大なシステムにとっては“外部性”であり、“ノイズ”となります。けれど、そのノイズをすべて排除してしまえば、都市は均衡を失い、壊れやすくなるのです。すべてが最適化された都市では、予定外が起きた瞬間、逃げ道がなくなるのです。築古の賃貸オフィスビルは、その逃げ道として、計算外の外部性やノイズを受け止めるためのバッファとして、都市の片隅にとどまり続けています。そして、こうした誤差の累積は、やがて都市構造の中に“ズレ”を生みます。明示的な意図ではなく、結果として残された隙間。見えない構造線の軋み。きっちり閉じられなかった接合部のにじみ。その“ズレ”こそが、都市のシステムにとっての免疫として機能します。このズレは、都市にとって、欠陥ではありません。むしろその綻びがあることで、都市は柔軟に揺らぎを吸収し、突発的な変化を受け流し、耐える構造を保つことができるのです。正解や完成に向かわないものが、あえて整えられないまま、局所的に「なんとなく」存在し続ける。それは都市にとって、人間的な空間を残すための最後の余白です。 「今ここで、なんとなく機能している」。それは、一時的かつ局所的で、かつ曖昧な状態かもしれません。けれど、その“いびつな”状態があることで、都市は壊れずに済んでいます。完璧でないものが、完璧であろうとする都市全体を、結果的に支えている──このパラドクスを、私たちは見過ごすべきではありません。築古の賃貸オフィスビルとは、いわば「都市が過去からこぼし続けてきた誤差が堆積した空間」なのです。そこでは、計算ではなく、観察が求められています。戦略ではなく、応答が要請される。整えすぎないこと、完成させすぎないこと。つまりは、「それでもなお、人が躊躇いながらも、息をして生きている空間」を、都市のどこかに残しておくこと。その静かな在り方が、今日の都市のバランスを、知らず知らずのうちに守っているのです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月5日執筆2026年01月05日 -
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ビル分譲ガイド2 初心者のための投資チェックリスト完全解説
皆さま、こんにちは。株式会社スペースライブラリの羽部です。今回は「ビル分譲ガイド 不動産投資商品の選び方」に引き続いてお送りします。「ビル分譲ガイド2 初心者のための投資チェックリスト完全解説」のタイトルで、2025年12月25日に執筆しています。少しでも、皆さまのお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 以下では、ビル分譲ガイド 不動産投資商品の選び方 第5章の不動産投資チェックリストで例示した各STEPについて、「不動産投資初心者がどのように理解・判断していけばいいのか」という視点から、専門用語の解説や具体的な判断基準、考え方の流れを詳細にまとめています。投資初心者の方が各項目をどのようにクリアしていくか、一つずつ押さえてみてください。 目次STEP1【投資目的の明確化】STEP2【物件種類・権利形態の選定】STEP3【エリア・立地の選定】STEP4【物件現地調査・物理的確認】STEP5【収益性分析】STEP6【法務・権利関係の確認】STEP7【資金調達・融資の検討】STEP8【管理運営体制の確認】STEP9【出口戦略(売却時)の確認】STEP10【総合的な最終投資判断】まとめ(不動産投資初心者向けアクションステップ) STEP1【投資目的の明確化】 1.1投資目的を設定 インカムゲイン狙い・「インカムゲイン」とは定期収入であり、賃貸不動産であれば賃貸収入から賃貸管理原価等を控除した賃貸収益を意味する。・「家賃収入」などの定期的な収入を得て、毎月のキャッシュフローを確保したい場合。・毎月のキャッシュフローを積み立てて将来的な老後資金を作る、不動産投資を副業としてサラリーマン収入+副収入を得るなどの場合。・次項のキャピタルゲインを得る場合でも一定のインカムゲインを得ることができる不動産があるため、主たる目的または得られる収益を鑑みて表現する。・賃貸収入増加を目指し、適宜、必要な改修などの投資を行う場合がある。・会計処理として賃貸事業用不動産とするのが通例。キャピタルゲイン狙い・物件を購入→価格上昇後に売却→売却益を狙うスタンス。・景気やエリアの需要によっては大きな利益を得る可能性もあるが、リスクも高い。・前項のインカムゲインを得られる場合でも、賃貸条件として定期借家とするなどインカムゲイン狙いの物件とは運用方法が異なる場合がある。・必要不可欠な部分以外は物件に投資しないで維持を抑える場合もあれば、逆に不動産評価を高めるために大規模な投資をして販売価格増加を目指す場合もある。・会計処理として販売用不動産とするのが通例。節税・相続対策・不動産所有に伴う減価償却などで所得税を抑える、相続時の評価減を狙う、など。・減価償却は賃貸事業用不動産を対象とするため、インカムゲイン狙いと類似の運営となる。・相続対策として相続税評価ルールを踏まえた不動産を選択する場合がある。初心者が判断するコツ:・「いつまでに、どのくらいの収入を得たいか?」を具体的な数値で考える(例:「5年後に月10万円の家賃収入が欲しい」など)。・ネットや本で見かける「節税対策」だけに飛びつかず、本当に節税が必要な所得状況や相続規模かを税理士など専門家にも確認する。・キャピタルゲイン狙いとする場合でも不動産市況によっては希望する時期に希望する価格での売却が困難となり、投資計画が達成できない場合もあり得るので、複数のシナリオを想定のうえ計画内容を検討する。 1.2投資期間の設定 短期投資(1~3年)・転売(キャピタルゲイン)目的が多い。初心者が短期で成功させるにはハードルが高め。・不動産市場は金融市場に比較して価格変動に爬行性があるうえ、取引成立に時間がかかる点に留意が必要。中期投資(3~10年)・比較的スタンダード。ある程度の賃料収入を得つつ、数年後に売却する。・不動産売却時の保有期間は5年を境に短期譲渡と長期譲渡に区分されるので、中期投資計画であっても、税務的な差異があるかについての確認を行う。長期投資(10年以上)・安定的なインカムゲインや相続対策がメイン。修繕費用など長期的な視点が必要。・建物に対する知識も必要なので、投資期間を通じて投資家自らが知見を蓄積するなど積極的に不動産に関与することが成功につながる。初心者が判断するコツ:・まずは自己資金でどのような投資ができるかを検討する。もし、既にローンがある場合、ローン返済計画と合わせて検討する。・投資金額に大きな幅がある投資商品であり、融資を活用すると投資対象の幅が拡がる。その場合、既存のローンを含む返済計画を検討する。・転勤や子どもの進学、親の介護など、ライフイベントに合った投資期間を想定する。特に投資期間中で最もキャッシュフローが厳しいタイミングがいつで、どのような資金繰りとなるかを検討する。・不動産は個々の物件による差異だけでなく、価格設定次第で流動性が異なる(売り易さが変わる)ため不動産市況が過熱傾向にあっても、過剰な期待は避ける。逆に不動産市況が厳しい状況にあった場合の価格見直しについても過剰なものとならないよう注意する。・利益確定の売却を想定する場合、売却で得られた資金を運用する場合の利回りと保有を継続した場合の利回りを比較する。 1.3投資許容リスク(安定重視or高利回り重視) 安定重視・一等地オフィスビルなど。利回りは低め。オフィスビルは修繕費用がかかるが計画的に対応可能。不動産運営能力が求められるため、プロパティマネジメント会社などへの委託も検討の余地あり。賃料水準は相場に連動して上下する。・大手管理会社のサブリース物件。利回りは低め。サブリース物件は賃料減額リスクに配慮する。売主がそのままサブリースする場合は高額売却を目指して相場以上のサブリース賃料で借り上げていないか注意が必要。バランス重視・賃貸住宅1棟。比較的稼働率が安定する都心ファミリー物件などは単身用1ルームマンションに比較して入退去が少ない。但し退去タイミングにより次の引っ越しシーズンまで空室が継続することもあるので注意が必要。賃料水準は長期的には逓減傾向となることが通例。高利回り狙い・郊外・築古など、空室リスクが高い物件を安く買い、賃貸収益向上やリノベで価値UPを狙う。・競売・公売物件等も対象とする。・短期売却が成功すれば高利回りとなる。売却期間を短縮する方策として価格を下げる例が見られ、収益を確保できない可能性もある。短期売却を前提とした資金計画はリスクが高い。 初心者が判断するコツ:・自分の家計(年収・貯蓄・ローン残高など)と相談して、空室が出ても耐えられるかを試算する。・賃貸住宅では退去時の原状回復費用負担割合に注意が必要であり、すぐに次テナントが決まってもキャッシュフローが滞る場合がある。・築古の建物は大規模な修繕工事が発生すると資金調達が困難となる可能性がある。・まずは安定重視を選ぶ初心者が多い。不動産投資に関する情報も賃貸住宅を対象としたものが多く、競争相手も多くなる傾向がある。 1.4投資予算(自己資金・借入可能額) 自己資金・預貯金や金融資産のうち、どれくらいを投資に回せるか。緊急用の生活資金は残す。また修繕費や空室期間のキャッシュフローを維持するための予備費も検討する。借入可能額・金融機関に事前相談し、自分の信用力(年収、勤務先、資産状況)でどの程度融資が受けられるかを把握。初心者が判断するコツ:・物件価格のフルローンはリスクが大きいので、頭金として1~2割は入れるのが一般的。市場性の高い不動産であればフルローンが提供される可能性もあるが、競争力のない不動産にフルローンが提供される場合、将来の破綻リスクが高まる。(例:かぼちゃの馬車)・売却時に必要な経費についても想定する。・銀行に打診したり、住宅ローンと比較検討したりして融資条件を確認する。 STEP2【物件種類・権利形態の選定】 2.1投資金額に適した物件種類を選定 小口化商品(クラウドファンディング等)・10万円~投資できる商品。初心者でも手軽に始められるが、運営会社の信頼性が大事。不動産投資というより投資対象資産が不動産の金融商品という側面がある。そのため実物不動産と比較すれば流動性は高い。区分所有マンション・区分オフィス・500万円~数千万円程度の物件が多い。管理は管理組合が担い、比較的手間が少ない。管理費や修繕積立金などの増額など、管理組合の運営リスクが収益に影響する場合がある。区分オフィスは一般的でなく対象物件が少ないため運営会社の実績を確認する必要がある。一戸建て・中古であれば数百万円からでも投資物件がある。入居者が決定すれば所有者の管理する手間は比較的少なく、修繕が必要な場合に対応することで足りることもある。空室状態では収入が一切なく、借入があると資金繰りが大幅に悪化するリスクがある。1棟アパート・ビル・立地次第であるが、概ね1億円以上など大きな予算が必要。自主管理・委託管理の選択、修繕計画など検討項目も増え、投資家側での知見や業務も必要となる。初心者が判断するコツ:・自己資金やローン可能額をもとに、自分が持てる金額からアタリを付ける。・物件により市場での売却の難易度が異なる。流動性の高い不動産とは売却に出せば購入希望者が多く存在して、金融機関の融資など受けやすいなどのメリットがある物件を指す。逆に流動性の低い場合は、購入希望者が少なく、長期間市場に出さないと売却が難しい物件を指す。これは価格面で規定される場合、すなわち同じ物件であっても市場水準より高い価格ではいつになっても売れないようなパターンと、物件そのものの問題で価格が0であっても(物件によっては購入すると条件次第では金銭がもらえる場合もある)えんえんと売れないパターンがある。市場環境が変わらなければ、購入時の状況が売却時にも現出する可能性があるので、自身が購入するときにはどの程度、売却活動されていたか、期間や価格の変動を把握しておくことは、売却時の参考にもなる。・いきなり1棟ビルはハードルが高いので、まずは区分マンションなどから不動産投資に参入する投資家が多い。・自身で判断をしたい場合、価格帯が低い土地建物所有の一戸建て住宅は取り組みやすい。但し、郊外や地方にある築年の経過した木造一戸建て住宅は資産価値が低く、ローンによる資金調達が困難となる場合もあり、自己資金での投資が主体となる。 2.2投資目的に合致する物件種別(居住用・商業用・事務所用など) 居住用(マンション・アパート・戸建)・空室リスクが低いが、利回りは中程度。但し、戸建住宅は入居期間が長期となる可能性があるが、退去後、次テナント成約まで時間がかかる場合がある。オフィス・店舗・景気動向によるリスクがある一方、賃料単価が高く利回り高め。初心者が判断するコツ:・賃貸需要が安定しているのは居住用(単身向けワンルームやファミリー向けマンションなど)。賃料水準は長期的に下がる傾向。・商業用はテナントが見つからないと収益がゼロになるリスクがある。更にビルであれば入居者がいなくても管理コストは発生するため、収益はマイナスとなる。賃料水準は相場に応じて上下する傾向。 2.3権利形態(所有権・借地権・底地など)の確認 所有権・通常の不動産取得で、土地と建物を完全に自分のものにできる。借地権・土地は地主、建物は投資家が所有。地主とのやりとりや建替え制限あり。底地・土地を所有するが、上物は借地権者が利用。地代は低いが相続税評価は抑えられる。初心者が判断するコツ:・分かりやすいのは「所有権」。借地や底地は地主との交渉など専門的知識が必要。・節税やリスク分散目的で借地・底地を選ぶなら、必ず専門家に相談する。・不動産を購入する場合、検討時点の登記事項証明書に登記されている情報を必ず確認する必要がある。登記されている権利に応じ、通常と異なる権利が登記されている場合、その影響について正確に把握する必要がある。 STEP3【エリア・立地の選定】 3.1地域区分(都心・近郊・地方都市・郊外等) ・都心ほど物件価格が高く、利回りは低くなる傾向。・地方都市や郊外は利回りが高いが、人口減少や空室リスクも大きい。・不動産の流動性は地価水準に比例する。初心者が判断するコツ:・将来的に人口が減りにくい地域(政令指定都市、大学が多い街など)が安定しやすい。・まずは身近な居住地や職場周辺で相場観をつかむのも良い。但し、認知の歪みで身近にある不動産を客観的に評価できない場合もあるので、第三者意見と比較して自身の判断の客観性を確認する必要がある。 3.2立地特性チェック ・交通利便性:駅からの徒歩分数・バス便の有無・商圏人口:周辺の商業施設や大学、工場など・行政施策:再開発予定や都市計画を確認初心者が判断するコツ:・「駅徒歩10分以内」の物件が人気で賃貸需要も高い。遠すぎると家賃を下げざるを得ない。・市役所や自治体HPの「都市計画」や「人口ビジョン」を参考にする。・ハザードマップで土地にかかわるリスクを把握する。 3.3周辺環境チェック(競合物件、将来の再開発等) ・競合物件:同エリア内に似た条件の物件が多いと家賃下落リスク。・嫌悪施設:近隣に墓地、ごみ処理場、暴力団事務所、騒音施設などがあるか。・再開発計画:大規模商業施設や新駅建設予定があると資産価値向上の可能性。初心者が判断するコツ:・Googleマップや現地視察で周囲を歩き回り、生活環境や治安を体感する。・地元の不動産会社から再開発情報を聞き出すと良い。・詳細は後述しますが、実際に自分自身で現地を下見することです。現地を見ないで不動産を購入するのは極めて危険です。初心者は絶対避けてください。また以前に行ったことがあるから大丈夫、というのも間違いのもとです。何らかの変化が生じて、それが原因で売却される状況になった可能性もあります。物件を紹介した不動産仲介会社に確認することは可能ですが、必ずしも正確な情報が得られるとは限らないことに留意してください。 STEP4【物件現地調査・物理的確認】 4.1築年数・構造 ・RC造(鉄筋コンクリート造):耐久性が高く、賃料が安定することが多い。築年数によっては大規模修繕必要。・S造(鉄骨造):RCより軽く、建築費用も比較的安いが、耐久年数や耐火性能を要確認。・木造:安価だが、耐久性や火災リスクに注意。初心者が判断するコツ:・ローン審査で「築年数制限」があり、築古だと融資期間が短くなる場合がある。・「築25年以内」など一定の基準を自分の指針にすると判断しやすい。・建物の構造で減価償却期間が異なります。減価償却期間は建物の経済耐用期間という側面もありますので、長期運営を計画する場合や銀行融資を受ける場合にも影響があるため、必ず確認してください。 4.2建物の状態(劣化・修繕履歴) ・劣化の有無:外壁のひび割れ、屋上防水の劣化、配管のサビ、雨漏りなど。・修繕履歴:いつ・どこを・いくらかけて修繕したかの記録。管理組合がしっかりしていれば履歴が保存されている。初心者が判断するコツ:・ホームインスペクション(建物診断)やエンジニアリングレポートなどを専門家に依頼して、素人には分からない欠陥をチェックしてもらう。・ホームインスペクションを依頼する場合、住宅診断士など国家資格者でない人間の検査は割安かもしれないが、一級建築士などの国家資格者に依頼した方が間違いは少ない。対象不動産の価格帯に応じて適宜使い分けを検討しても良い。・購入後に高額な修繕費がかかると利回りが大きく下がるため、事前に確認が必須。重要な事実を告知しない場合など、法律上のルールで対応できる場合もあるので売買契約書の内容は専門的な知識を有し、クライアントの利益を確保する仲介窓口を利用することが望ましい。契約書を弁護士にチェックしてもらう(リーガルチェック)場合もあるが、不動産取引実務に長けた弁護士でないと適切な対応は難しい。 4.3設備状況(水回り・空調・防犯・防災など) ・水回り:キッチン・浴室・トイレの老朽化状況、給排水管の劣化。配管は露出していないため目視調査では不具合の把握は困難な場合がある。・空調・電気:エアコンの台数や老朽度、電気容量がテナントニーズを満たすか。・防犯・防災:オートロックや防犯カメラ、防火設備(スプリンクラー等)の有無。初心者が判断するコツ:・入居者目線で「住みたくなるか・借りたくなるか」を想像し、最新設備かどうかをチェック。・一定期間(できれば竣工からすべて)の修繕履歴を提出して頂き、対応内容を確認することで問題点を把握することができる。修繕履歴がない場合、しっかりとした検査が必要となる。 4.4建築基準法の観点からのチェック 賃貸借用途・現在の貸室用途と検査済証を取得した時点との比較を行う。用途が異なる場合、現時点の建築基準法に合致するか、途中で用途変更届をしているかなどを確認。管理報告書・建築基準法に合致しない場合、管理報告書にその旨が記載されている場合がある。例えばエレベーター設備の既存不適格などは多く見られる。そのまま使用不可ではないが、既存適格とするための修繕費用は多大な出費となる場合もあるので注意が必要。初心者が判断するコツ:・信頼できる仲介会社の営業担当者に物件の調査を依頼する。宅地建物取引士の資格を有する担当者や長い経験を有する担当者であれば様々なリスクを把握しているので、建築基準法に合致しない場合でも投資対象としての妥当性についてある程度の意見を述べることはできる可能性があるので、その意見をもとに自身で調査する必要があります。・専門家に調査を依頼して、建物が建築基準法に合致するかをチェックしてもらう。検査実務に精通した一級建築士の資格者が望ましい。 4.5耐震性のチェック(新耐震・旧耐震) 新耐震基準(1981年(昭和56年)6月以降の確認申請物件)・地震対策を強化した基準。金融機関融資も通りやすい。旧耐震基準・耐震診断や補強工事の必要が出る場合がある。初心者が判断するコツ:・原則として新耐震基準物件が望ましい。旧耐震は安く買えるメリットとリスクを比較し、専門家に相談を。・旧耐震建物は耐震改修することも技術的には可能であるが、既存賃借人がいる場合は工事が困難であるなど、既存貸室の使い勝手が悪くなるので改修が困難となる場合もあり注意が必要。 4.6アスベスト調査 ・石綿障害予防規則で、改修・解体工事前にアスベスト含有の有無調査が必要。アスベスト調査には費用がかかる。・築古のビルはアスベスト含有リスクがある。初心者が判断するコツ:・すぐに大規模工事の予定がない場合でも、将来的に撤去費用がかかる可能性がある点は認識しておく。・解体を伴う改修工事を行う場合、アスベスト調査を行う義務が規定されており、アスベスト調査を実施した場合は調査結果を保管しておくことが望ましい。 STEP5【収益性分析】 5.1表面利回り ・計算式:年間家賃収入÷購入価格×100(%)・あくまで物件比較時の目安であり、諸経費は含まれない。 5.2実質利回り ・計算式:(年間家賃収入-諸経費)÷(購入価格+購入時諸費用)×100(%)・管理費、修繕積立金、固定資産税などを考慮した実質的な収益率。初心者が判断するコツ:・最初は「表面利回り」に惑わされがちだが、実質利回りを重視。・税金や管理費用を差し引いた手残りがどれくらいかを計算するのが大事。 5.3空室率・周辺の賃貸相場 ・空室率:地域や物件管理の良否で大きく変わる。・賃貸相場:同エリア・同築年・同設備の物件との比較が必須。初心者が判断するコツ:・不動産ポータルサイトや地元仲介業者から相場をリサーチし、想定家賃が適正かチェックする。・保守的に「空室率10%~20%」を見込んでおくとリスクに備えやすい。 5.4収支シミュレーション ・キャッシュフロー計算:(家賃収入-ローン返済-諸経費)・将来の修繕費や設備交換費なども考慮。初心者が判断するコツ:・シミュレーションには「家賃下落」「金利上昇」のリスクも織り込む。・不動産会社の作るシミュレーションは楽観的な数字になりやすいので、自分で厳しめに計算する。 STEP6【法務・権利関係の確認】 6.1登記事項証明書(登記簿謄本)の確認 ・建物の表題部:売却対象と合致するか。床面積など数量を含め確認が必要。・権利部(甲区)に記載されている事項(所有権に関する事項)にある権利者:売主が本当に所有者か。所有者でない場合、どのような立場であるか。・権利部(乙区)に記載されている事項(所有権以外の権利に関する事項)にある抵当権など:既に担保に入っている場合、抹消手続きはどうなるか。初心者が判断するコツ:・司法書士や仲介会社が通常は調査するが、自分でも法務局で取り寄せ可能。・気になる点は購入前に必ず質問し、あいまいにしない。 6.2検査済証 ・建物の建築確認、検査済証。初心者が判断するコツ:・初心者は検査済証のない物件は融資や売却時に手間がかかる場合があるので注意が必要。 6.3法令制限(用途地域・建ぺい率・容積率・高さ制限) ・用途地域:住居系、商業系、工業系で建築可能な用途が違う。・建ぺい率・容積率:建物を増改築する際に制限がかかる。初心者が判断するコツ:・将来リノベや増築でバリューアップを狙うなら、容積率に余裕があるかをチェック。・1棟ビルの場合、エンジニアリングレポートを取得し、網羅的な調査があれば参考になる。 6.4賃貸借契約書・管理委託契約書の内容 ・既存テナントがいる場合:契約条件、賃料改定の可否、敷金の引き継ぎ方法など。・管理委託契約:管理料率、解約時の条件。初心者が判断するコツ:・オーナーチェンジ物件の場合は、既存テナントとの契約内容に拘束される。・弁護士や仲介業者に細かい条文を確認する。 6.5借地権・底地の場合の地主・借地人との関係 ・借地契約の期限や更新料、地代の増減条件など。初心者が判断するコツ:・初心者にはハードルが高いため、可能であれば避けるか、専門家の意見を確認し、安全な取引となるようにする。 STEP7【資金調達・融資の検討】 7.1金融機関の融資評価額 ・物件評価額vs購入価格。・銀行によっては独自の評価方法があり、想定より融資額が下がることも。初心者が判断するコツ:・複数の銀行・金融機関に打診し、金利・融資期間・担保条件を比較する。・金融機関は様々な種類があり、融資取扱い対象となる不動産はそれぞれ異なることがある。・担保価値の高い物件は金利優遇などを受けられる可能性がある。・与信が高い借主は金利優遇などを受けられる可能性がある。取引がない場合、自己資金の割合が高いことも信用につながる。・不動産金融の世界では、金融環境・物件・借主与信など様々な要因によるがLTV(※)は70%以下を目安とし、30%以上を自己資金または出資金から賄うことが通例。初心者もあまり借入比率を追求するのでなく、妥当な水準で資金調達ができない場合は、何らかのリスクが生じた場合のキャッシュフローに懸念が生じるので、無理をしないほうが良い。※LTV:Loan To Value(不動産の評価額・取得価格に占める借入金の割合) 7.2自己資金と融資のバランス ・頭金が多いほど、毎月返済額を抑えられキャッシュフローが安定しやすい。・フルローンは利益率を高める可能性もあるが、リスクが大きい。初心者が判断するコツ:・「万一家賃が半分になっても返済に困らないか?」をシミュレート。・総資産の大半を投資に回すのではなく、緊急資金は必ず残す。 7.3金利変動リスク・繰上げ返済条件 ・変動金利だと金利上昇で返済額が増えるリスク。・繰上げ返済に手数料がかかる場合もある。初心者が判断するコツ:・短期決戦で売却するなら変動金利もアリだが、長期保有なら固定金利を検討して安定を図る。・売却時の収益計算には繰上げ返済時の手数料等を含めて計算する。 STEP8【管理運営体制の確認】 8.1管理メンテナンス会社の有無・業務委託料 ・管理メンテナンス業務委託:清掃、設備管理、管理窓口を専門業者に任せるのか。・委託料相場:物件の設備、用途により異なる。初心者が判断するコツ:・管理メンテナンスは業務委託必須。近隣在住でも初心者は対応できないことが多いので、自主管理を目指す場合でも、自身で対応できるようになるまでビルメンテナンス業務は管理メンテナンス会社に委託して自身の知識習得や対応体制構築に努める。 8.2運営管理会社の有無・手数料 ・賃貸管理委託:賃貸管理(家賃回収、クレーム対応、退去時清算など)をプロに任せるのか。・運営管理委託:プロパティマネジメント業務として、賃貸管理だけでなく、テナント募集から物件全般の運営管理まで不動産の運営すべてを専門会社に任せるのか。更にサブリース(一括借上げ)まで任せるのか。・賃貸管理手数料相場:月の家賃収入の5%~10%程度が多い。・運営管理手数料相場:月の家賃収入の5%~20%程度が多い。初心者が判断するコツ:・遠方物件は管理会社必須。近隣在住でも初心者は基本的に委託したほうが安心。・管理会社は様々な特徴があり、得意分野も異なるうえ、営業エリアもあるのでしっかり選定することが望ましい。 8.3管理会社の実績・対応力 ・実績:管理戸数、地元での評価など。・対応力:入居者募集力、トラブル時の迅速対応が重要。初心者が判断するコツ:・地元密着の管理会社が空室対策や地域事情に詳しい。大手はブランド力や営業力が強い。・組織体制がしっかりしている会社は管理業務の原価として人件費が大半なので、それに見合った形で手数料が高い。・口コミや実際の管理物件の状態を見て判断すると良い。・募集看板が多い業者が必ずしもテナントリーシング能力があるとは限らない。募集のやり方は条件の決め方を確認して、考え方に納得できる業者が望ましい。・特定の物件のみの成約を目指す利益相反を指摘する解説があり、注意は必要であるが、入居者募集時に物件を紹介しているのか、報告書で確認すればそのような行為をする管理会社は一般的でないことは理解できると思われる。 8.4維持管理・修繕計画の体制 ・日常管理体制:劣化が進んでから対応すると大幅なコストがかかるので、充実した日常管理で建物維持に努めることが、テナント満足度向上にもつながり良好な運営となる場合が多い。・長期修繕計画:分譲マンションなら管理組合が計画しているかどうか。内容が合理的か。初心者であれば第三者意見も確認する。・一棟物件:所有者自身で積立を行うか、管理会社と計画を立てるか。1棟利用テナントが入居した場合、管理をどちらが行うか。テナント自主管理は建物劣化が進む懸念があるので管理仕様を所有者が決めて、その通りの運用となっているかを常にチェックするか、所有者が行い、テナントから管理費・共益費を取得するかを検討する。初心者が判断するコツ:・将来の大規模修繕(外壁塗装・屋上防水など)に備えて毎月のキャッシュフローから積立する習慣を付ける。・予防保全的な対応が合理的であるかを確認する。過剰な管理仕様は収益に悪影響となる。 STEP9【出口戦略(売却時)の確認】 9.1流動性の高さ ・都心物件や駅近は売却しやすく、価格も安定。・郊外や地方は売りに出しても買い手がつかず、値下げが必要なケースがある。・特殊な物件は立地が悪くなくても運営が難しい場合もあり、立地に合致した標準的用途(住居、オフィス、店舗など)の方が検討者は多い。 9.2過去売却事例の確認 ・不動産ポータルサイト、REINS(不動産流通標準情報システム)や不動産会社の成約事例を参照する。・不動産鑑定を利用する。・いつ頃、どのくらいの募集期間で、いくらで売却に出し、実際にいくらで売れたかを確認。(すべての情報が確認できるとは限らない、むしろ、いつ頃、いくらで売却に出していて売れたようだ、という情報しか得られないことも多い)・詳細の情報を知りたい場合、売買が行われてからしばらく経っていれば、建物の登記事項証明書を取得することで買主や融資有無など追加の情報が得られる場合がある。売買契約直後は登記完了していないため取得できないこともある。 9.3売却タイミングと投資期間 ・マーケットが加熱している時期に売れば高く売れるが、タイミングは読みにくい。・税制上、保有5年超で譲渡税率が下がる(長期譲渡)などの優遇がある。初心者が判断するコツ:・「投資開始時点で10年後に売却する」など方針を立てつつ、状況によって柔軟に変える。・不動産仲介会社や投資家向けのオンラインコミュニティで市況をリサーチ。・トータルで収益を確保できている場合、収益を確定するという意味で売却を進めることも意味はある。但し、売却で得られた資金をどのように活用するか、市場が過熱気味で予想より高く売れた、ということは、自身が新たに購入しようとした場合も予想より高い物件しかないので、将来の値下がりリスクを負う懸念もある点に留意し、市場状況を確認したうえで判断する。但し、そのような状況になると客観的に市場を見ることができなくなる場合もあるので、それまでに信頼できるセカンドオピニオン依頼先を確保しておく。 STEP10【総合的な最終投資判断】 10.1投資目的に対する総合評価 ・STEP1で立てた目標と、STEP2~9で集めた情報を突き合わせて、実現可能性を確認。 10.2リスクとリターンのバランス評価 ・空室や修繕費といったリスクと、家賃収入や売却益を見込んだリターン。・最悪の場合(地震、経済不況、金利上昇)にも備えられるか。 10.3専門家の意見を得る ・税理士:税金・相続対策。・不動産鑑定士:物件の客観的評価。・建築士・ホームインスペクター:建物の品質や耐震診断。初心者が判断するコツ:・不動産仲介会社の言うことを鵜呑みにせず、セカンドオピニオンを持つと安心。・全項目をクリアした上で納得できるプランなら初めて買付を入れる。 まとめ(不動産投資初心者向けアクションステップ) 1.不動産用語の理解・不動産投資の広告・資料に使われている用語など、基本ワードの意味を把握する。可能であれば具体的な相場観・水準などをおさえ、どうしてその水準なのかを理解する。いったんおさえた数値であっても、市況の変化に応じて変わるので、適宜、必要に応じて専門家へ確認する。2.小さく始める・いきなり大きな物件よりも、まずは少額投資や区分所有など手が届く範囲で実践すると学びやすい。物件の立地や種別として特殊なものより、身近なものから選択した方が身につきやすい。もしくは本稿の範囲外であるが、不動産会社への投資、という観点から自身が興味ある事業を行う上場不動産会社株式に投資することを通じて業務理解が進む可能性もある。3.複数の専門家・銀行と連携・不動産会社だけでなく、税理士、弁護士、金融機関、管理会社を複数あたって比較する。但し、不動産関連企業であれ、専門家であれ、それぞれ得意分野がある。その観点で各専門家の特徴を把握し、状況に応じた使い分けをする場合もある。4.必ず現地視察・ネット情報だけに頼らず、自分の目で周辺環境や建物状況を確認。また割安な物件と感じた場合、競合物件も実際に見ることで、割安な理由がどこにあるのか発見できないか、確認してみる。理由もなしに安い物件は存在しないという認識は常に忘れない。5.保守的な収支シミュレーション・空室リスクや修繕費、金利上昇など悲観的シナリオも想定して、キャッシュフローの破綻が生じないか、自身の予算をオーバーしないかをチェック。こうしたステップを踏むことで、不動産投資初心者であっても専門的な切り口で確認事項を一つずつクリアしながら、納得度の高い投資判断を下せるはずです。焦らず、慎重かつ着実に情報収集と分析を行いましょう。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ代表取締役 羽部 浩志 1991年東京大学経済学部卒業 ビルディング不動産株式会社入社後、不動産仲介営業に携わる 1999年サブリース株式会社に転籍し、プロパティマネジメント業務に携わる 2022年サブリース株式会社代表取締役就任(現職) ライフワークはすぐれた空間作り 2025年12月25日執筆2025年12月25日 -
プロパティマネジメント
築古の賃貸オフィスビルのもうひとつのサステナビリティ――ESGの“外側”で考える、都市と個人オーナーが生き残る条件
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古の賃貸オフィスビルのもうひとつのサステナビリティ――ESGの“外側”で考える、都市と個人オーナーが生き残る条件」というタイトルで、2025年12月24日に執筆しています。少しでも、皆さんのお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに:ESGの“外側”にある、もうひとつのサステナビリティ第1章:ESGだけじゃない、“もうひとつのサステナビリティ”とは?第2章:中小規模の賃貸オフィスビルだからこそ生み出せる「都市の曖昧な魅力」とは?第3章:“地味な運営術”が築古の賃貸オフィスビルを支える第4章:個人オーナーが「持続可能」な賃貸オフィスビル経営を続けるための戦略第5章:個人オーナーが抱える“リアルな悩み”と東京の賃貸オフィス市場の未来 はじめに:ESGの“外側”にある、もうひとつのサステナビリティ 最近、「環境」「持続可能性」といったキーワードを耳にしない日はない。特に、不動産業界では、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資やグリーンビルディング認証が注目を浴び、大規模なオフィスビルを中心に、環境性能やサステナビリティ基準を満たす建築や設備への投資が盛り上がっている。しかし、その華やかなトレンドの外側で、多くの築古の中小規模ビルの個人オーナーは、やや距離感を感じているのではないだろうか。「ESG投資や認証取得は、大企業や大規模ビル向けの話だろう」「そもそも、大規模な設備投資をする資金的余裕はない」築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーにとっては、日々の賃料収入から必要な設備更新を何とかやりくりしているのが現実だ。当然、もしできるのであれば環境配慮型の最新設備に更新したいという気持ちはなくはないが、そんな余裕はない。賃料の引き上げ自体、難しいし、そもそも空室リスクが常に背後に迫っている状況では、資金を投下して、環境基準を追いかける余裕はないのだ。しかし、ここではっきりさせたいことがある。それは、中小規模の賃貸オフィスビルの個人オーナーが取り組むべき「サステナビリティ」とは、ESG投資や環境認証とはまったく違うということだ。中小規模の賃貸オフィスビルの本当のサステナビリティは、「今ある建物を、無理なく維持し、適度に手入れをし、できるだけ長く利用し続けること」にある。優先されるべきは環境配慮型の設備投資などではなく、「いかに少ない資金で必要最低限の品質を保つ工夫を重ねるか」「空室率を可能な限り低く抑え、安定したキャッシュフローを維持するか」だ。こうした地味な努力を地道に積み重ねることこそが、賃貸オフィスビル経営自体を持続可能(サステナブル)なものにし、その結果として、自然と地球環境にも貢献する真の意味でのサステナビリティを実現するのである。そして、こうしたビルが都市の中に残り続けることには、社会的にも大きな意味がある。都心の大型再開発地区の最新鋭ビルが建ち並ぶオフィス街は華やかだが、そこだけで都市が成り立っているわけではない。昔からの中堅中小企業、ベンチャー、スタートアップが都心で活動し続けるためには、リーズナブルで柔軟な賃貸オフィス・スペースを提供する築古・中小規模の賃貸オフィスビルの存在が欠かせない。これらの築古ビルが都市に点在することで、多様な規模や業態の企業が混在し、互いに交流し、社会のなかで広くイノベーションが生まれる場が形成される。もし、こうした築古・中小規模の賃貸オフィスビルがなくなり、都市が「ピカピカな再開発エリア」と「衰退したエリア」へと二極化してしまえば、都市そのものの活力は失われるだろう。築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーが「無理なく続ける」こと、それ自体が都市にとっても重要な「もうひとつのサステナビリティ」を支えているのだ。本コラムでは、いま注目される華やかなESGの議論から少し距離を置き、築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーが現実的に取れる、地味だけど本質的なサステナビリティ戦略を具体的に紹介していきたい。 第1章:ESGだけじゃない、“もうひとつのサステナビリティ”とは? 「ESG」や「サステナビリティ」という言葉を聞くと、多くの人は、ガバナンス報告書を公表しているような大企業がテナントとして入居している新築の大規模オフィスビルが取得するグリーンビル認証、あるいは省エネ設備の導入や再生可能エネルギー活用といった華々しい取り組みをイメージするかもしれない。確かに、東京都心の新築オフィスビルでは、環境性能を高めるために屋上緑化や太陽光発電、節水システム、BEMS(ビルエネルギーマネジメントシステム)の導入が当たり前になりつつあり、大手デベロッパーの開発する大規模な賃貸オフィスビルは競うように高度な環境認証を取得している。こうした環境認証の取得やエネルギー効率の改善は、もちろん、地球環境的に重要な取り組みであることは言うまでもない。しかし、中小規模の築古オフィスビルの個人オーナーにとって、最新鋭の省エネ設備を導入したり、グリーンビルディング認証を取得するために必要な改修を行うことは、あまり現実的とは言えない。「環境や社会のために何かをしたい気持ちはあるけれど、正直そこまでの投資は難しい」――これが、多くの中小規模の賃貸オフィスビルの個人オーナーの率直な思いではないだろうか。一方で、中小規模の賃貸オフィスビルが果たしている役割として、実は単に「古いままで維持され続けていること」そのものに大きな社会的価値がある。なぜなら、古いビルを丁寧にメンテナンスして長く使い続けること自体が、環境的・社会的な持続可能性を担保しているからだ。例えば、1981年の新耐震基準導入以前に建てられた賃貸オフィスビルが、耐震改修や適度な設備更新をしながらも現役で稼働し続けているとする。仮にこのオフィスビルを解体・新築すると考えると、解体時に大量の産業廃棄物が発生し、新築時には莫大な資源やエネルギーが必要になる。一方、適切なメンテナンスと小規模な更新で古いオフィスビルを維持すれば、こうした環境負荷を大幅に削減できる。また、こうした「慎ましい維持管理」は、ビル経営的にも持続可能だ。大きな負債を抱えてまで大規模リノベーションを行えば、予想外の景気後退や賃料相場の低迷によりキャッシュフローが厳しくなったとしたら、最悪の場合、物件を手放さざるを得ないというリスクに直面する。築古・中小規模の賃貸オフィスビルが目指すべき「サステナビリティ」は、環境型の設備投資や認証取得に依存するものではなく、「無理のない範囲で維持し続けること」それ自体にある。それは、「賃貸オフィスビルの個人オーナー自身が疲弊しない運営」を実現することでもある。具体的に言えば、「どこまでお金を使わず、最小限の投資でテナント満足度を維持できるか」「賃料をなるべく下げないで、空室を長期化させずにキャッシュフローを維持できるか」を意識した運営だ。地味な話だが、例えば、日々の清掃の徹底や、共用部の小さな改修をタイミングよく実施することで、テナントの退去率を下げられるならば、それこそが現実的な「持続可能性」の実践となる。さらに、設備の修繕や更新を必要最低限に抑えつつ、「使えるものは長く使い、設備更新はギリギリまで引き延ばす」といった運営・管理スタイルが、結果的には廃棄物や資源消費の削減にもつながる。このようなもうひとつのサステナビリティは、巷間に喧伝されるSDGs/ESGのような華々しい取り組みとは対照的で、表面的には目立ちにくいかもしれない。しかし、築古・中小規模の賃貸オフィスビルを所有する個人オーナーがこうした堅実な経営を続けていくことが、結果として都市に不可欠な多様性を守り、無理のない経済性を保ちながら環境負荷を抑えることにも貢献しているのだ。都市全体で見れば、こうした中小規模の賃貸オフィスビル群が担う「静かな持続可能性」こそが、東京という巨大な都市の「真の持続可能性」を支えているとも言えるだろう。 第2章:中小規模の賃貸オフィスビルだからこそ生み出せる「都市の曖昧な魅力」とは? 東京都心を歩いていると、大規模再開発エリアに建つ新築の高層オフィスビル群が目立っている一方で、古くて規模がそこまで大きくない賃貸オフィスビルも数多く存在している。これらの築古・中小規模の賃貸オフィスビルが東京の都心部で果たしている役割は何なのだろうか。 曖昧さが「多様性」を生み出す 賃貸オフィス市場において、一般に「大規模なハイグレードビル」と「築古・中小規模ビル」とに二極化していると言えよう。最新設備を備え、グレード感のある大規模ビルは、大企業や外資系企業などの一定の経済力やブランド力のあるテナントを惹きつける。一方、築古の中小規模ビルは設備面でやや見劣りするかもしれないが、比較的手頃な賃料と立地の良さを背景に、多様な業種や規模の小さいテナントを引きつけている。東京都心においては、この両者が都市空間の中で明確に線引きされて、区分されず、曖昧に混在していることこそが、都市の「多様性」を生む基盤となっている。大企業だけが集積した高級ビジネス街だけでも、中小零細企業だけの古びた街でも、都市の活力は生まれにくい。双方が隣り合い、混在することで初めて、刺激的でダイナミックな交流が促される。 「境目」のない都市空間の価値 築古の賃貸オフィスビルが担う役割の一つは、この都市空間の曖昧さを維持することだ。新しい建物と古い建物が入り混じり、大企業と中堅中小企業、スタートアップ企業やクリエイティブな個人事業主たちが同じ地域を拠点とすることで、多様な交流やコラボレーションが自然発生する。都心の再開発が進み、どこにでもあるようなピカピカの街だけになってしまったら、こうした自然な交流や偶然の出会いは大幅に減ってしまう。築古・中小規模の賃貸オフィスビル群があるからこそ、都心には予測不能な魅力が残り、イノベーションや新しい事業の種が生まれる可能性が保たれる。 中小規模の賃貸オフィスビルと都市の持続可能性 近年、ESG投資やサステナビリティといったキーワードが盛んに取り上げられる。賃貸オフィスビル市場においても、大規模な再開発エリアでは最先端の環境性能が強調される。しかし、その一方で、築古・中小規模の賃貸オフィスビルを長く使い続けるという、もう一つの「持続可能性」も考えなければならない。再開発による建替えや大規模リノベーションを何度も繰り返すには、多額の投資が必要であり、都市全体の環境負荷も大きい。それよりも、できる限りコストを抑え、現存する建物を無理なく持続的に活用することのほうが、長期的に都市環境や社会経済システムの安定性を保つうえでは有効であることも少なくない。こうした中小規模の賃貸オフィスビルの持続可能な運営が可能になれば、個人オーナーの経営負担も減り、都市の多様な空間が失われずに済む。結果として、都市全体の持続可能性にも寄与することになる。 個人オーナーの「持続可能性」も重要 都市の多様性を維持するためには、築古・中小規模の賃貸オフィスビルを運営する個人オーナー自身が経済的に持続可能であることも重要だ。ビル経営が苦しくなってしまい、建物を売却せざるを得なくなれば、都心はまた一段と画一化が進んでしまう。そのためにも、築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーが無理のないビル経営を続けられるよう、ビル管理会社による現実的な視点でのPM・BMサービス、合理的で実効性のあるリノベーション提案、さらには賃貸オフィスビル市場の変化に対応したリーシング戦略などが必要となる。決して派手な手法ではなく、またすぐに大きな収益改善が見込めるわけでもないが、日々の運営で「小さな改善」を地道に重ねることで、築古の賃貸オフィスビルの魅力が保たれ、個人オーナー自身の経営も持続可能になる。その結果として、都市が本来持つべき多様な魅力や活力が維持されるのだ。 第3章:“地味な運営術”が築古の賃貸オフィスビルを支える 中小規模の築古賃貸オフィスビルが、都市の曖昧な多様性や魅力を生み出し、東京の都市空間そのものの持続可能性にも寄与していることを、ここまで述べてきた。その一方、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの管理・運営において、日々支えている具体的な運営術を、現場での実務経験をもとに整理していきたい。大きな投資や抜本的なリノベーションではなく、小さな積み重ねを続けていくことで、テナント満足度を維持し、結果として経営の安定化を実現できる。そんな「地味な運営術」の実務的ヒントをご紹介したい。 (1)効率的で品質を落とさない管理業務の実践 賃貸オフィスビルの管理において重要なのは、「管理・運営コストの効率化」だ。ただしこれは、「単に管理費用を削る」という意味ではなく、「無駄を徹底的に排除し、品質を維持しながらコストを合理化する」ことである。巡回点検の頻度や項目を最適化し、IoTを活用した遠隔モニタリングの適用可能性も検討して、人的リソースを有効活用する。これにより、人件費その他の費用の最適化を進め、個人オーナーが負担する管理・運営コストを抑えている。清掃品質が築古ビルを救う「基本」の威力築古の賃貸オフィスビルの現場で実感するのは、清掃品質が持つ大きな効果である。設備の老朽化を補うのは大変だ。その一方、日常清掃の徹底で共用部の印象を改善するのは、日常的なビル管理の延長で対応可能である。共用トイレや給湯室は特に重要だ。清掃頻度や手順を細かくマニュアル化し、現場スタッフと徹底的に共有することで、テナントが日々感じる清潔感を維持している。また、清掃スタッフからの「現場の異変や細かな不具合」の情報を迅速に収集し、小さな問題が大きくなる前に対処できる体制を敷いている。 (2)ピンポイントの修繕・更新でテナント満足度を向上 築古の賃貸オフィスビルでは、大規模な設備更新や全面的なリノベーションは、そうそう実施できない。そこで重要になるのが「小規模かつ効果的な修繕」の積み重ねだ。エントランスやエレベーターホールなど、テナントや内覧客が頻繁に目にする部分に限定して、小さな補修や部分的なリニューアルを計画的に実施する。例えば、壁や床の部分補修、共用トイレの設備更新、備品交換などを定期的に行うことで、低コストでもテナントの満足度を保つことが可能だ。「照明の明るさ」は築古ビルの印象改善に不可欠特に共用部の照明については、単なるLED化にとどまらず、「常に明るく清潔な印象を与える」設定を心がけている。照明を最大限明るく保つことで、築古の賃貸オフィスビルの古びた印象をカバーし、明るく印象のよい空間演出を実現している。また、LED照明の導入自体、省エネとランニングコストの削減という実質的メリットも併せ持ち、長期的なランニング費用の低減効果も期待できる。 (3)市場データを活用したリーシングでキャッシュフローを守る テナント入れ替え時のキャッシュフロー管理において最も重要なのは、「空室期間を最短にし、より条件のよいテナントに迅速に入居してもらうこと」である。当社では、その実現のために、独自に収集・分析している賃貸オフィスの市場データも活用して、戦略的で機動的なリーシング活動を展開している。具体的には、テナント退去の意思が明確になった段階から、市場データに即した最適な賃料水準を設定し、ターゲットとなるテナント層を早期に特定する。このプロセスを経ることで、退去後すぐにリーシング活動を開始でき、タイムロスなく次のテナント候補にアプローチできる体制が整っている。さらに、市場データの収集と分析において、エリアごとのトレンドや競合物件のリーシング状況を詳細に把握することもカバーしており、リーシング活動そのものにも活用している。また、原状回復工事についても迅速な手配・施工管理体制を確立し、リーシング活動との連動性を高めている。退去後の空室期間を最小限に抑えながら、新たなテナントに最適なタイミングで入居してもらえる状態を常に維持している。このような迅速かつ的確なリーシング活動の積み重ねが、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの安定したキャッシュフローを支え、経営の持続可能性を確保するための戦略的な要となっているのだ。 第4章:個人オーナーが「持続可能」な賃貸オフィスビル経営を続けるための戦略 これまでの章では、日常的な管理運営における具体的なノウハウや工夫について述べてきた。しかし、実際の築古・賃貸オフィスビルの経営においては、日々の運営改善だけでなく、より規模の大きい適切な設備投資やリノベーション、さらには出口戦略の可能性までを視野に入れる必要がある。本章では、これらを包括的に捉え、「個人オーナーが無理なく持続可能な経営を実現するための現実的な戦略」を提示していきたい。 (1)設備投資やリノベーションにおける「現実的な判断基準」 賃貸オフィスビルの経営において、設備の更新やリノベーションは避けて通れない課題である。ただし、築古ビルの場合、大規模な全面改修や設備一新を計画すると、財務的な負担が非常に大きくなり、回収期間も長期化しやすい。そこで、重要となるのが「目的の明確化」と「投資効果の現実的シミュレーション」だ。例えば、「空室対策」「賃料の維持や微増」「競合物件との差別化」など、改善の目的を明確に定めた上で、実際の賃貸オフィスの市場の状況に基づいた投資回収のシミュレーションを行う。大規模なリノベーションに比べて、小規模な設備更新や共用部リフレッシュなど、投資効果が早期に現れ、テナント満足度向上に直結しやすい分野に絞り込むことが現実的である。また、一度に大きな投資をするのではなく、工事の規模やタイミングを分散させることで財務上の負担を抑えつつ、常にテナントに良い印象を与え続けることが可能になる。 (2)効率化された「ビル管理」の実践と重要性の再確認 日常的なビル管理の重要性については前章で詳しく説明したが、投資戦略を成功させるためにも、管理体制の効率化が不可欠である。設備点検や清掃業務、法定点検といった日常的な業務に無駄があると、その分のコストが投資余力を圧迫してしまう。個人オーナーとビル管理会社との日常的なコミュニケーションを通じて、不要な作業や効率の悪い業務を洗い出し、常に「品質を落とさない範囲でコストをコントロールする」姿勢を保ちたい。こうした効率化は、結果として投資の余力を生み出し、より効果的な設備更新やテナント満足度向上につながる改善に回すことが可能となる。 (3)築古の賃貸オフィスビルだからこそ可能な「ブランディング戦略」の効果 築古の賃貸オフィスビルには、新築のハイグレードオフィスにはない魅力があることを再認識することも重要である。歴史性、地域との連続性、趣のある建築スタイルといった要素は、一定のテナント層には大きな訴求力となる。特に、中堅・中小企業、スタートアップ企業やクリエイティブ業界のテナントにとっては、「古いけれど味わいのある空間」そのものが価値であり、それが物件選択の理由にもなる。これらの魅力を明確に打ち出し、マーケティングやリーシング活動に活用することで、競争力を維持し、市場の変動に強いポジションを確保することができる。 (4)リアルな市場データを活かした「適正な賃料設定」とリーシング戦略 賃料設定は築古の賃貸オフィスビル経営のなかでも特にセンシティブな課題である。賃料を高く設定すればテナント離れや空室期間の長期化リスクが生じ、逆に低すぎる設定は収益性を大きく損なう。ここで最も重要なのは「リアルな市場感覚」だ。PMサービスの一環としてリーシング戦略を実施するにあたって、単なる仲介会社からの伝聞にとどまらない、現場のリアルな情報を基にした賃料設定を心掛けている。近隣物件の成約賃料、テナント内覧時の反応、競合物件の具体的な特徴などを細かく分析し、個人オーナーにリアルタイムで共有している。こうした具体的かつ客観的な情報を踏まえることで、現実的で納得性のある賃料設定が可能になる。さらに、フリーレントなどの条件緩和を行う前に、その必要性を再確認し、テナントとの交渉においても根拠をもって交渉できる環境を整えている。 (5)「出口戦略」を視野に入れつつ、長期視点で資産価値を維持する 築古の賃貸オフィスビルを持続的に経営するためには、最終的な出口戦略――すなわち、売却という選択肢を常に意識しておくことも現実的である。ただし、短期的な転売益だけを狙った投資や改修は、かえってリスクを高める可能性もある。現実的な出口戦略とは、「いつでも売却できる魅力ある状態を日々維持する」ことにある。日々の小さな改善、無理のない設備更新、リアルな市場感覚に基づく賃料設定が安定したNOIを生み出し、その結果、売却時の評価額の向上にもつながる。東京の収益不動産マーケットは、国内外のファンドの参入などにより一時的な価格高騰が発生することもあるが、その波に一喜一憂せず、安定的に魅力を維持し続ける運営姿勢こそが、長期的な持続可能性を実現するための最善の道である。 おわりに――全体を通じて持続可能性を追求する 以上に見てきたように、築古の賃貸オフィスビルの経営に求められるのは、「現実的で着実な戦略の積み重ね」である。設備投資の規模を冷静に見極め、日々の管理コストを効率化し、リアルな市場データを活用して適正な賃料設定を行い、常に出口戦略を意識する――。これらを総合的に実践することで、個人オーナーが無理なく築古の賃貸オフィスビルを持ち続け、東京の都市空間における貴重な役割を果たしていけるのだ。 第5章:個人オーナーが抱える“リアルな悩み”と東京の賃貸オフィス市場の未来 はじめに――変わりゆく東京の風景のなかで 東京の街並みは、絶え間なく姿を変えている。新築時には最新の設備を備え、輝きを放っていたビルも、いつしか年月を経て「築古」の仲間入りをする。東京で賃貸オフィスビルを所有し経営することは、そうした変化にさらされ続ける曖昧で不安定な立ち位置を背負うことでもある。1980年代後半から2000年代初頭にかけて、個人オーナーや個人経営の会社が、信託銀行等、金融機関の支援を受けて賃貸オフィスビル経営を始められた時代があった。都心に土地を持つ個人オーナーたちは、当時こんな未来を夢見ていたはずだ。「しっかりしたビルを建ててテナントを集めれば、安定した家賃収入が入ってくる。それを元手にローンを着実に返済し、ゆくゆくは安心して相続できる資産を残そう――」当時の計画通りならば、15年くらいで資金回収は可能だったかもしれない。しかし現実は違った。2000年代以降、マーケットは予測を超えて揺れ動き続けた。「2003年問題」、リーマン・ショック、東日本大震災、そして新型コロナウイルスの感染拡大――約10年に1度以上のペースで訪れた外部ショックのたびに、空室率は上昇し、収入計画は狂うのではないかという危機的な状況。「本来なら15年程度で返済できるはずだったローンが、気づけば30年を超えて引きずっている……」こうした不安を抱えながら経営を続ける個人オーナーは、決して少なくない。2025年現在、大手デベロッパーによる大規模再開発が都内各所で進み、国内外の私募ファンドやREITなどの投資家がマーケットを動かしている。東京都心の賃貸オフィス市場は、ますます高度化・複雑化し、そのなかで個人オーナーが経営を持続する難しさは増すばかりだ。本章では、個人オーナーが抱えるリアルな悩みを深掘りしながら、東京の都市空間が向かう未来と、そこでの個人オーナーのあり方を考えていきたい。 (1)個人オーナーが「築古の賃貸オフィスビル」を持ち続けるリアルな困難さ 多くの個人オーナーは、賃貸オフィスビルの建設資金を銀行など金融機関からの借り入れでまかなっている。仮に、2000年代初頭に建築資金の6割を銀行融資で調達し、都心の一等地に中小規模の賃貸ビルを建てたと仮定して、安定したテナント収入を前提とした返済計画が予定通り進んだ事例はまれである。平時であっても、競合物件とのリーシング競争に苦労し、適正賃料の設定や空室対策で悩む日々が続く。そこに2003年問題、リーマン・ショック、東日本大震災のような突発的で予測不能な事態が起これば、物件によっては、空室が増え、キャッシュフローが滞り、元本返済が厳しくなってしまう。銀行に元本返済の繰り延べを相談し、了承を得ることもある。しかし、そうした措置をとったとしても借入元金が消えるわけではなく、返済期間が伸びれば利息の負担がかさむことになる。こうした綱渡りのような資金繰りを長年続けること自体が、個人オーナーにとって精神的にも財務的にも重い負担となりかねない。 (2)設備更新のタイミングが迫ったときのジレンマ 賃貸オフィスビル経営において避けて通れないのが、設備更新だ。築20年〜30年を経過すると、空調設備や給排水設備、エレベーターなどの更新が必要になる。しかし、これらの設備を一気に全面更新するための資金を、自己資金のみで準備できる個人オーナーは多くない。さらに、銀行をはじめ金融機関は、かつてとは異なり、不動産への追加融資には慎重姿勢だ。仮に設備を一気に更新したとしても、それが賃料上昇に結びつく保証もなく、資金回収には相応のリスクがあると判断されると、どうしても融資の可否、融資金額に影響する。結果として、多くの個人オーナーは「できるだけ投資額を抑え、小規模な更新工事を繰り返しながらテナント満足度を最低限維持する」という現状維持の選択を取らざるを得ないのが現実である。 (3)不動産・金融市場の構造変化がもたらす経営の難しさ 不動産・金融市場自体が、かつてとは構造的に変化していることも個人オーナーには大きなプレッシャーになっている。かつて、個人オーナーによる不動産経営は、金融機関による柔軟なサポートに支えられていた。銀行は、個人オーナーの資産状況や経営方針を理解したうえで、長期的な視点で返済計画を共に考え、持続的な関係を築いていた。しかし、近年の金融環境は大きく変化している。BIS規制の強化や金融庁によるリスク管理の厳格化が進むにつれ、銀行はより安全性の高い短期的な融資や保守的な返済計画を重視するようになり、個人オーナーへの長期的かつ柔軟な支援は、もはや期待できなくなってしまった。銀行の支援姿勢は「長期的な安定」から、「短期的な安全性」へと明確にシフトしたのである。これは個人オーナーだけの問題ではない。大手の不動産デベロッパーでさえ、株主市場や投資家からの資本効率性を求める圧力を受けて、長期保有を前提とした物件の開発を避ける傾向が強まっている。多くのプレイヤーは、竣工後まもなく私募ファンドやREITに売却し、迅速に投資を回収する「イグジット戦略」を採るようになった。このように不動産市場そのものが短期志向に傾斜するなかで、中小規模のビルを長期的な視野で保有し、安定した賃貸経営を維持したいと考える個人オーナーにとっては、きわめて厳しい環境となっている。「じっくりと資産を維持し、次の世代に引き継ぐ」という経営の余地が、急速に失われつつあるのだ。 (4)東京という都市の持続可能性における個人オーナーの重要性 その一方で、東京という街が持つ本当の魅力を考えるとき、個人オーナーが所有する築古の賃貸オフィスビルの存在意義は、決して小さくない。東京の魅力は、最新の再開発地区に象徴されるピカピカの街並みだけにあるわけではない。古いビルと新しいビルが絶妙に混ざり合い、それぞれが多様なテナントを呼び込むことで、独特な都市の個性や活力が生まれている。築古の賃貸オフィスビルが提供する手頃な賃料や自由度の高さがあるからこそ、昔からの中堅企業、個性的なショップや新興企業、クリエイティブな人々が東京の中心に集まり、結果として都市そのものが多様で魅力的な空間となっているのだ。こうした東京の都市的多様性を支えているのが、まさに個人オーナーの地味ながらも堅実な賃貸オフィスビル経営である。個人オーナーが安定的にビル経営を続けられる仕組みや環境を整えることは、東京の持続可能性を守る上でも極めて重要であると言えるだろう。 おわりに――夕暮れの東京で、個人オーナーが静かに選ぶ未来 夕暮れどき、高層ビルの影が伸び、オレンジ色に染まる東京の街を眺めながら、個人オーナーは日々「持ち続けるか、手放すか」という重い問いに直面している。短期的な利益追求が主流となった賃貸オフィス市場環境の中で、築古の賃貸オフィスビルを持ち続けることには勇気が必要だ。私たちはそんな個人オーナーの悩みに対して、実務的な知見や具体的な運営ノウハウを提供しながら寄り添い、無理のない経営を共に支えていきたい。築古の賃貸オフィスビルを所有し続ける個人オーナーの地道な取り組みこそが、結果的に東京という都市の持続可能な未来を描くための重要な鍵となることを、私たちは信じている。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月24日執筆2025年12月24日 -
ビルリノベーション
その天井、どう見せる?築古オフィスの空間印象を変える設計戦略 後編:実践編
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「その天井、どう見せる?築古オフィスの空間印象を変える設計戦略 後編:実践編」のタイトルで、2025年12月23日に執筆しています。前編に引き続いて、今回、後編をお送りします。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次前編の要点をひと息で第6章:築古ビル梁下2.3mを救うリノベ課題と5つの打ち手――築古オフィスの「天井戦略」を再設計する第7章:“高さ”を働き方・ウェルビーイングでどう活かすか第8章:総括――“頭上の境界”を資産に変える3つの視点 前編の要点をひと息で 前編では、六尺の町家から3mハイスタッドの超高層まで─天井が映し出してきた歴史・技術・心理のドラマを辿りました。日本の天井高は六尺の江戸町家から、八尺団地、そして3mハイスタッドへ―高さは合理と憧れの間で揺れ、いまや賃料とブランドを決める「頭上資産」になりました。とはいえ市場の半数を占める築40年ストックは梁下2.3m。 後編〈実践編〉へ――“変えられない高さ”を武器にする視点を切り替える ここからは舞台を図面と見積書の世界に移し、「梁下2.3m」をどう資産に変えるかを具体策で掘り下げます。天井が低いからといって、ビルの価値まで低くなるわけではない。変えられない寸法を、設計と意味づけで超える。それではページをめくり、後編:実践編へ。後編は、第6章:築古オフィスの「天井戦略」を再設計するから始まります。高さは稼ぐのではなく、設計するという新しい常識を、現場目線でひも解いていきましょう。 第6章:築古ビル梁下2.3mを救うリノベ課題と5つの打ち手――築古オフィスの「天井戦略」を再設計する 6-1.なぜ「天井」が勝負を分けるのか? 築古のオフィスビルを活用していく上で、「天井の高さが低い」という問題は、決して見逃せない要素のひとつです。それは単なる設計の古さや見た目の印象にとどまらず、テナントの第一印象や、執務空間としての快適性、さらにはリーシングのスピードや賃料水準にも間接的な影響を及ぼす要素だからです。 ■築古ビルに多い「梁下2.4m」の現実とくに、築30年以上が経過した中小規模オフィスビルでは、梁下で実測2.3~2.5m前後の天井高となっている物件が非常に多く見受けられます。図面上では「天井高2.5m」と記載されていても、実際には梁が張り出しているため、スペースの多くは「梁下2.4mの制約を受けた空間」として使われていることになります。この数値は、現代の感覚からすれば「やや低い」と感じる高さです。とくに内見時や、外部来訪者がエントランスから入室した瞬間に感じる「圧迫感」は、空間の印象を左右する決定的な要素となり得ます。 ■なぜ、こうした“低い天井”が生まれたのか?この背景には、建築技術の進歩や社会の変化だけでなく、かつての都市計画や設計思想が大きく関係しています。かつてのオフィスビルでは、・建築基準法による高さ制限(絶対高さ・斜線制限)が厳しく、・その中でできるだけフロア数を確保するために、1フロアあたりの階高を抑える設計が多く採用されました。・さらに、空調ダクトや照明器具を天井裏に納める「二重天井方式」が標準化されたことで、天井裏の懐として20~30センチ程度が常に削られる構造が一般化しました。つまり、現在の築古ビルの低い天井は、当時としては合理的な設計判断であり、建物そのものの欠陥というわけではありません。しかしながら、現代のオフィス利用者が求める快適性・開放感の水準から見ると、そのままでは選ばれにくい空間となりつつあることもまた事実です。 ■「天井高」は、操作可能な空間要素であるここで重要なのは、たとえ天井の高さが物理的に限定されていたとしても、設計や演出の工夫によって高く感じさせることは十分に可能だという点です。空間の「体感的な高さ」は、単に物理寸法だけで決まるものではありません。人間の視線の抜け方、天井と照明との関係性、用途ごとの意味づけなど、複数の要素が組み合わさることで、「高さの感じ方」は大きく変わっていきます。空間の印象を構成する3つの要素 要素内容実務上の工夫の可能性物理的な高さ天井板の撤去や勾配加工によって、天井そのものの高さを上げる条件付きで可能(梁・配管・法規次第)視線の抜け・奥行き感折上げ・勾配天井や照明演出で、視線の“逃げ”をつくる高コスパで有効心理的な意味づけ低い空間=集中、高い空間=開放といったゾーニング効果実践的で即導入可能 6-2.空間の重さを軽くする――折上げ・勾配天井の実践力 「このオフィス、なんだか低くて重たい」。築古ビルの現場でよく聞かれる第一印象のひとつです。「天井が低い」と感じる原因は、実は天井高そのものよりも、空間の平坦さや閉塞感にあることが少なくありません。そこで検討に値するのが、天井面の一部を持ち上げてしまうという発想です。天井の仕上げ材(ボード・下地)を加工し、スパンの中央や導線上だけ天井を高く演出することで、全体の印象を大きく変えることが可能です。この方法は、構造体(梁・スラブ)には手を加えず、非構造部分だけを加工する軽量な改修であるため、技術的ハードルは低め、それでいて改修による体感効果も見込めるという意味で、築古ビルにおいても、「検討テーブルに載せる価値がある」施策といえます。■折上げ天井とは何か?勾配天井との違いと関係性「折上げ天井」とは、天井面の一部を周囲より高く仕上げる設計手法の総称です。ホテルや会議室などでよく見られる、「天井の中央だけがふわっと高くなっている」意匠といえば、イメージしやすいかもしれません。この折上げ天井には、大きく分けて2つのバリエーションがあります。 タイプ特徴視覚効果フラット型中央部を水平に持ち上げる明瞭な段差による重厚感勾配型中央部に向かって傾斜(スロープ)をつけて高くする視線を導く“抜け感”と動き 現在、オフィス空間で主流となっているのは、この「勾配型の折上げ天井」です。中心に向かってゆるやかに天井を高くしていく構成は、圧迫感を和らげる効果が高く、構造体を避けながら施工できる可能性が高いという利点があります。■なぜ「勾配型の折上げ」が築古ビルに適しているのか?築古の中小オフィスビルでは、梁(はり)と梁の間隔が限られており、天井をまるごと持ち上げるような大胆な改修は困難です。そこで、梁間の1スパンだけを使い、その中に勾配構造の天井を組むことで、空間の一部に抜けと奥行きをつくり出すことができます。この手法は、構造体に手を加える必要がなく、かつ改修範囲が限定的で済む可能性が高く、技術的に実現性は高いと考えられます。■施工断面イメージ図下図は、折上げ天井のフラット型と勾配型の違いを断面で示したものです。 ※図はイメージです ■導入事例の多い3つの配置パターン 配置箇所狙い実績上の採用率エントランス直後来訪者の第一印象を大きく改善約70%執務エリア中央通路島型デスク配置でも圧迫感を緩和約45%コラボ・ラウンジスペースABWの“象徴空間”としての演出約55% このように、全体ではなく一部だけに施すことで、空間のリズムと緩急を生み出し、天井の低さを逆に活かすことが可能となります。■改修内容と実務的な工夫施工内容は以下の通りです(梁間6m×奥行6mの1スパン想定)1.既存スラブの調査・鉄筋探査2.鉄筋探査→直交方向の主筋を避け、幅900mm×梁間いっぱいを開口3.斫り・補強鋼材溶接で180mm持ち上げ4.中央部を180mm程度まで持ち上げるLGS(軽量鉄骨下地)構成の勾配天井5.仕上げ材:石膏ボード二重貼り+防火塗装(準耐火45分)6.折上げ部の内周にLED間接照明(3,500K)を設置7.天井内の配線・ダクトを再ルーティングし、薄型設備に切替■費用・工期・効果のバランスを検証折上げ・勾配天井の改修は、構造体に手を加えずに空間の印象を変えることができるので、築古中小ビルにおいて実現可能な打ち手です。では、その費用・工期・効果のバランスについて検証してみます。まず費用については、折上げ部そのものの施工費(直接工事費)としては、天井板の開口・補強、軽鉄構造下地・石膏ボードの仕上げ、LED照明設置込みで、1㎡あたり30,000円(税別)が目安となります。ただし、実際の発注時には、これに設計・監理費、仮設・養生、諸経費などを含めたオールイン費用としての見積もりが必要になります。その場合、工事対象面積1㎡あたりで約70,000円程度が想定されます。もちろん、当該折上げ工事に伴い、空調設備が影響を受ける可能性も想定され、その場合、さらにコストは嵩みます。工期は1スパン(梁間6m×奥行6m想定)あたり約2週間程度。施工範囲が限定的で済み、既存設備の配置やダクト経路をうまく活かすことができれば、費用・工程ともに調整が可能となります。改修効果としては、物理的には梁下から最大+180mm程度の折上げが可能であり、間接照明の組み合わせなども含めると、体感的には+200~300mmの高さ改善効果が得られます。これは数値以上に、空間の抜け感・明るさ・心理的な開放感といった点で影響を与えることが見込まれます。構造体(梁やスラブ)を一切いじらずに済むので、テナント入居中のまま施工できる可能性があり、運用への影響を最小限に抑えながら、実行可能な改修策と考えられます。ただし、原状回復工事と比べても工事単価は嵩むので、どこまで、「抜け感」を買うのか判断は難しいところです。■「高さの設計」ではなく、「印象の設計」へこの折上げ・勾配天井の手法は、単に天井を高くするというより、どの空間をどう見せたいかという視覚戦略を取り入れることに意味があります。物理的な制約を正面から突破するのではなく、使い方・見せ方で空間価値を高める。そうしたアプローチが、築古中小ビルにおける天井戦略の積極的な施策として、現実的に検討俎上に載せることができます。次の節(6-3)では、逆に「低さ」を活かす発想――包まれ感を意図的にデザインに取り込む集中ブース戦略をご紹介します。 エレベーターホールの折上げイメージ画像 6-3.低さを「こもり感」に変える――集中ブース戦略 築古ビルにおける最大の制約のひとつが、梁下2.3m前後の動かせない低さです。これを無理に高く見せようとすると、逆に不自然な仕上がりになってしまったり、施工コストが過大になってしまったりするケースも少なくありません。では、その「低さ」を、短所ではなく、あえて活かす方法はないのでしょうか。答えのひとつが、こもり感を意図的にデザインする集中ブース戦略です。■低い=悪ではない。「集中空間」ではむしろ武器になる近年の働き方においては、「高くて開放的な空間=正義」とは限りません。たとえば、次のようなケースでは、あえて包まれる空間の方が機能的であることがわかってきています。・ノイズや視線から遮断された、集中作業用の小空間・一時的に深く考え込むための、静かな場所・過度に開放的な空間では、気が散ってしまうという従業員の声実際、業務の内容(=Activity)に応じて、働く場所・環境を自分で選ぶという考え方のABW(Activity-Based Working)型オフィスを導入している企業では、全体の15~20%程度の席を「集中作業専用」に設計しており、その多くが、天井高2.2~2.4mのやや低めの空間として設計されているのが実情です。■集中ブースにおける設計寸法の目安 項目推奨寸法実務的根拠天井高2.2~2.3m程度着座姿勢で頭上600mm以上を確保しつつ、包まれ感を演出面積4~6㎡/席机幅1,400mm+袖ワゴン+着席動作の余裕設置比率総席数の15~20%ABW型オフィスでの集中:協働の推奨バランス1:4 このように、ブース空間は「狭すぎず、広すぎず」のバランスが求められます。少し低く、少し狭くすることで、心理的に集中力が高まりやすい環境がつくれるのです。■内装マテリアルのポイント集中ブースを設計する際は、単に区切るだけでなく、音・光・素材による演出が重要です。 要素推奨仕様意図天井吸音ルーバー(木質・厚30mm)静けさと質感の両立壁グラスウール充填+突板パネル(NRC0.65以上)吸音・音漏れ防止照明ダウンライト(2,700K/250lx)+机上タスクライト(600lx)落ち着きと集中の両立床ループパイルカーペット(NRC0.20)足音や残響の抑制 このように、低天井だからこそ整えることで機能する空間に仕上げることが可能です。■実証データ:集中力が“可視化”された東京都内の実証オフィス(約200席規模)で、集中ブース導入前後の変化を測定した結果が以下です。 指標改修前改修後(平均6ヶ月)変化自己評価スコア(5段階)3.14.2+1.1ptエラー率(伝票処理)2.4%1.9%-0.5ptブース滞在シェア8%18%+10pt 集中タスクの定着やエラー低減といった効果が、数字としても示されています。■コスト感と施工上の工夫 項目内容改修コスト約450,000~550,000円/席(間仕切り・吸音材・家具含む)設計の工夫ブース天井を「点検開閉式」にすることで、上階テナントの排煙改修などにも対応しやすくなる なお、スケルトン化によって削減した天井工事費を低さを活かす装置に再投資するという考え方も、資金計画上の説得材料になります。■「開放」だけが正義ではない時代へ近年のオフィス設計は、ただ明るく広くするだけでは支持されにくくなっています。むしろ、場面ごとに異なる集中・協働の質をどう演出できるかが問われています。「低い」ことが制約である時代から、「低さにも意味がある」と捉え直せる時代へ――。集中ブース戦略は、築古ビルの限界を逆手に取った、ポジティブな空間戦略といえるでしょう。 6-4.“高くできない時代”の天井設計とは? 築古オフィスビルにおける「天井の低さ」は、構造的な制約であり、避けて通れない前提条件です。どうにかならないかと、あれこれ調べてみると、「スラブを抜いてしまおう」とか、「床吹き出し空調を導入すれば、天井のダクトが減らせる」といった案が出てきます。もっともらしくそうした提案の説明でお茶を濁すことも考えました。しかし、現実的にはどうでしょうか。スラブを抜くには構造の補強や上下階の調整が必要になり、床吹き出し空調も、全館空調の更新や床下の再設計を前提とした大がかりなプロジェクトになります。検討プロセスの詳細は省略しますが、正直に言えば、これらはほとんどの築古中小ビルにとって「非現実的な選択肢」と言わざるを得ません。では、「高さが変えられない」のであれば、いったい何を変えるべきなのでしょうか。■本質は、“高さそのもの”ではない第6章の冒頭でも触れたとおり、空間の「体感的な高さ」は、物理的な寸法だけで決まるものではありません。・視線の誘導(どこに抜けをつくるか)・空間の意味づけ(開放ゾーンか、集中ゾーンか)・照明や素材の演出(後退や包まれといった錯覚)こうした設計的要素の組み合わせによって、人は空間の高さを「感じている」のであって、必ずしも梁下寸法そのものに反応しているわけではないのです。■物理的な改修が難しいからこそ、“見せ方と使い方”が決め手になる本章では、「高さ」をめぐる現実的な打ち手として、次の2つをご紹介しました。・第6-2:折上げ・勾配天井による抜けの演出→一部スパンを高く見せることで、空間全体の印象を軽くする・第6-3:集中ブースによるこもりの演出→低さを逆手に取り、包まれる空間として意味を与えるこれらはいずれも、梁下2.3~2.4m台という制約の中で成立する、現実的な戦略です。そしてこの2つは、対立するものではありません。むしろ、空間に緩急を与える両輪として機能します。すべてを高くするのではなく、高く見せる場所と低く使う場所を明確に使い分けることで、空間にリズムが生まれ、奥行きと快適性が共存するオフィスが生まれるのです。■高さの設計から、「使い方の設計」へかつての空間デザインでは、「何センチ上げるか」という物理的な高さの操作が議論の中心でした。しかし、上げられない空間を前にした今、問われるのは、高さそのものではなく、その使い分けをどう設計するかという発想です。たとえば――・エントランスを抜けた瞬間、折上げ天井で空間の始まりを演出する・執務エリアは全体を均質に保ちつつ、中央通路だけ勾配で視線の逃げをつくる・一角の集中ブースでは、梁下2.3mの低さを安心感に変える包まれ空間として意味づけるこのように、変えられない高さを前提として活かせる設計者こそが、築古ビルの空間に新たな価値を吹き込むことができるのです。■読者への提案:「高さがないから、諦める」時代は、もう終わったかつては、天井の低さは「マイナス評価」の理由でした。けれど、これからは違います。高さとは、稼ぐものではなく、設計するもの。構造的に動かせない空間においても、“どう見せるか”“どう使うか”の工夫によって、寸法以上の印象を与えることは十分に可能です。その空間は、「低い」からダメなのではなく、「見せ方」と「意味づけ」を通じて、その低さにしかできないことを語れる空間になる。そう言える設計こそが、築古オフィスビルに求められる、次の時代の天井戦略なのではないでしょうか。 第7章:“高さ”を働き方・ウェルビーイングでどう活かすか ―働き方改革とウェルビーイング:高さは“思考モード”を切り替えるスイッチ 2章でも紹介しましたが、オフィスの天井高が与える心理的影響について、心理学や環境行動学の研究では『カテドラル効果(Cathedral Effect)』と呼ばれる概念が知られています。これは、「天井高が高い空間では人間の発散的な思考が促され、低い空間では集中力や細部への注意力が高まる」という心理的効果を指します。たとえば、天井が高い教会(カテドラル)のような空間では、人間は自然と視野を広げ、自由で抽象的なアイデアを思いつきやすくなります。一方、洞窟や茶室のように天井の低い空間では、「包まれ感」や「守られている感覚」が強まり、緻密な作業や集中が必要なタスクに没頭しやすくなります。こうした心理的効果を活かし、オフィス空間の天井高を調整することで、働く人の思考モードや感情を意図的に切り替えることが可能です。ただし、実務上すべてのオフィスビルの空間で実天井高3mに向けて2.8mを確保することは現実的ではありません。そこで重要になるのが、「高さそのもの」ではなく「高さをどう感じさせるか」という視覚的・心理的設計です。以下の表は、この心理的背景を踏まえた推奨空間設計をまとめています。以下の天井高は「体感的高さ」「知覚による演出」を含めた設計目標です。すべての実天井高の物理的寸法を前提としているわけではありません。 シーン推奨体感天井高ねらい演出のコツコラボラウンジ/アイデアソン体感2.8m相当発散的議論・ブランディング天井をスケルトンにし、間接照明で上部を照らすことで視覚的な「無限感」を作る集中ブース/経理・法務2.4m前後作業・緻密思考折下げ天井や吸音材で「包まれ感」を演出し、心理的な安心感・集中感を高めるエントランス→執務エリア段階的に300mm心理プロローグ(ケーン効果)天井を徐々に下げることで、心理的に落ち着きを誘発し、自然と足を止めさせブランド・ロゴなどへ視線を誘導する会議室(対外プレゼン)可変照明で2.4↔2.8m錯覚緊張→解放のドラマを演出天井周囲に間接照明を配置し、質疑応答のタイミングで照度を変化させることで、心理的に緊張感→解放感を演出する 設計・演出の具体的なコツとしては、次のポイントがあります。・段差・折上げでメリハリをつけます・照明グラデーションを活用します・上部を明るくし、天井面に梁影を見せないことで知覚天井高が実際より150mm~200mm高く感じられます・音環境をセットで調整します・高天井エリアは吸音パネルを使い残響を調整。低天井エリアでは静かになり過ぎることを防ぐためBGMやホワイトノイズを活用し、快適な集中状態を維持こうした心理的効果を活かし、「高さ」を空間の演出要素として捉えることで、働く人の思考モードや感情の切り替えを“設計”できるようになります。 第8章:総括――“頭上の境界”を資産に変える3つの視点 あなたのビルの天井高は、「歴史・技術・心理」という3枚のレンズで評価されます 天井高の価値は、「高いか低いか」という単純な尺度だけでは語れません。それがどのような設計思想のもとに生まれたものか、現代の技術でどこまで再編集できるか、そしてその空間が人の思考と行動にどんな影響を与えるか――これらを踏まえたうえで、「高さ」をどう語り、どう回収し、どう持続させるかが問われる時代に入っています。(1)歴史――「八尺=2.4m」の呪縛を理解し、越える・江戸の六尺(1.8m)から、昭和の八尺(2.4m)へ。・2.4mという寸法は、モジュールと耐震の“折衷点”に過ぎず、絶対的基準ではない。・天井高が低いビルでも、「折上げ+演出」で体感的に+300~400mmの“抜け”をつくる余地は残されています。歴史的な制約を、空間演出の原材料に変える――それが築古ビルの高さ戦略の原点です。(2)技術――“天井裏から空間内へ”見せ方を切り替える・かつての「天井裏の整理」は、スケルトン化や床吹出し空調など大規模・全体改修を前提とした手法でした。・しかし現実には、既存ビルの設備・構造・消防要件が足かせとなり、適用できる例はごく一部に限られます。そこで今注目すべきは、「構造を変える」のではなく、見せ方で知覚を変えるというアプローチです。 手法投資目安効果折上げ・勾配天井約65,000~75,000円/㎡(原状回復控除後)体感+200~300mmの開放感集中ブース約450,000~550,000円/席「包まれ感」を演出し、集中度と満足度を向上 高さを稼ぐ時代から、高さを設計する時代へ。(3)心理――高さは思考モードをスイッチする・「高い空間」は発散・創造を促し、・「低い空間」は没入・緻密な思考を支える。このカテドラル効果は、実天井ではなく体感的な高さによっても発揮されることが、心理学・環境行動学の知見から明らかになっています。実務では、以下のような構成が有効です。 空間推奨演出効果コラボ・ラウンジ折上げ+照明で体感2.8m相当発散・共創・ブランディングに強い空間体験集中ブース包まれた構成で実2.3~2.4m安心・没入・エラー削減を実現通路・導線段差設計で緩急を演出奥行き・静けさ・ブランド印象強化 天井の高さは、物理寸法だけではなく、「心理的な温度差」を設計する素材にもなります。5つのアクションチェックリスト①現状把握:梁せい・天井裏厚・防火区画を図面と実測で可視化②目標設定:「全体体感2.8m」ではなく、「スパン単位での体感アップ」か「用途別ゾーニング」で現実的に設定③演出シナリオ検討:・A=間接照明+色彩で錯覚づくり・B=折上げ/集中ブースで用途ゾーン演出④消防協議の先行確認:排煙ルート・天井材種別・点検口条件などを早期に整理⑤語れるストーリーに落とす:改修の理由・背景をテナントと共有していく 終わりに――“頭上の境界”は、動かなくても変えられる 吉田兼好が「天井高きは冬寒く、燈(ともしび)暗し」と書いた14世紀。オーソン・ウェルズが布1枚の張りぼて天井で観客を圧倒した1941年。そして、LEDと心理設計で体感天井を再構成する2025年。天井は、いつの時代も技術と価値観の交差点でした。築古ビルを所有するあなたが、次の物語を語る番です。壊すか、残すか――ではなく、「どの高さで、どんな体験と収益を同時に創るか」を再定義しましょう。頭上の数十センチは、働く人の思考を変え、そして都市の活力を変える力を秘めています。さあ、“天井”という静かな主役に、新しい役割を与える時です。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月23日執筆2025年12月23日 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ビルメンテナンス
原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質」のタイトルで、2025年12月22日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果” はじめに 原状回復工事は、舞台のバラシに似ている――そんな言葉を聞いたことがあります。舞台が終わり、観客が去ったあと、照明が落ちた空間で、誰にも注目されないまま、解体と撤収が静かに進んでいく。原状回復工事もまた、テナントの退去にともない、さして記憶にも残らない工程として、淡々と実施されていきます。テナントの退去は、ある日突然決まるものではありません。オフィス移転の意思決定には、その会社の将来的な事業戦略、組織再編、予算方針といった中長期的なテーマが絡みます。実際、多くの企業では、解約通知の6か月前よりもさらに前から、・今の賃料や条件が見合っているか・会社の今後はどうなっていくのか、オフィスの面積を拡大・縮小すべきか・リモートワークや再編成の影響にどう対応するかといった議論が、水面下でスタートしています。この段階では、契約更新の条件交渉や解約の可能性を含めた複数の選択肢が検討されており、まだテナント側の意思が確定していないことも少なくありません。そしてある時、テナントから「解約通知」が正式に届きます。ここから先は一転して、定められた工程に沿って退去対応がスタートします。原状回復工事の範囲は契約条項で明示されており、多くの場合、オーナー側が主導して、実務的にはビル管理会社が差配して、工事を手配し、テナントの保証金で精算を行う仕組みなので、揉める要素はほとんどなく、粛々と処理が進んでいきます。ただ、そこには時折、ほんのわずかな温度差のようなものが残ります。「払いますけど……高い気がしますね」「まあ、仕方ないです。すでに移転先のこと考えてるんで」誰も声を荒げることはありませんし、トラブルにもなりません。それでも、ごくまれにそうした言葉が交わされることがあります。仕組みは整い、運用は安定している。工事もきちんと実施され、請求も適正に処理されている。それでも、なぜ原状回復工事は「高く感じられやすい仕事」になっているのでしょうか。本コラムでは、原状回復工事という業務が担う静かな仕上げのプロセスを、仕組み、運用、そして心理の観点から整理しながら、「問題は起きていないのに、すこしだけ納得されにくい」という構造を、様々な視点から読み解いてみたいと思います。 第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由 1-1.まず土俵をそろえる──原状回復工事は契約で決まる 賃貸オフィスビルにおける原状回復工事の取り扱いについては、業界標準の契約書ひな形(日本ビルヂング協会連合会)が存在し、実務上も広く参照されています。そこでは、以下のように、工事の主体や費用負担、範囲、精算方法などが体系的に整理されています。・工事主体:オーナーの指定業者(通常はビル管理会社が差配)・費用負担:テナント(借主)負担。・原状回復工事の範囲:テナントが設置した造作・設備・備品の撤去、汚損・損傷箇所の修復、壁・天井・床仕上材の塗装・貼替え等が明示されている。・精算方法:テナント(借主)が差し入れた敷金により精算され、不足があれば追加請求される。このように、退去にあたっての原状回復工事の範囲や進め方、そして費用の精算方法は、賃貸借契約書の段階で明確に定められており、「退去確定後に原状回復工事を巡って揉めることは稀」というのが、現代の賃貸オフィスビル市場における実務の標準です。日本ビルヂング協会連合会の発表しているオフィスビル標準賃貸借契約第8条(敷金)敷金の額は、契約要項記載のとおりとし、乙は、契約締結と同時に、甲に預託するものとする。(中略)6.本契約が終了したときは、乙が本契約に基づく原状回復工事義務を履行し本物件の明渡しを完了した後、乙の甲に対する本契約に基づく債務その他の一切の債務に充当した後の敷金の残額を、甲は乙に返還するものとする。第24条(明渡し)賃貸借期間の満了、解約、解除その他の事由により、本契約が終了したときは、乙は、次の各号の定めるところにより、本物件を明渡すものとする。一.乙は、乙の費用により新設又は付加した諸造作、設備等及び乙所有の備品等を乙の費用負担により撤去するとともに、乙による本物件の変更箇所及び汚損、損傷箇所を修復し、壁・天井・床仕上材の塗装、貼替を行った上で本物件を引渡当初の原状に復して甲に明渡す。二.前号の原状回復工事は、甲又は甲の指定する者が実施し、その費用は乙が負担する。 1-2.工事費用が継続的に上昇傾向──データで読む10年曲線 ただし、前項で説明した整理が行われているにもかかわらず、近年、実務現場では「原状回復工事費が高い」という不満が感じられるケースが目立つようになっています。その最大の要因は、工事費用の上昇です。建設物価調査会が公表している「内装仕上げ工事費指数」によれば、2015年から2025年にかけて、この指数は約35%上昇しています。つまり、同じような内容の内装工事であっても、10年前と比べて3割以上の費用増が生じているということです。この背景には、複数の要因が重なっています。第一に、資材価格の高騰です。石膏ボードや合板、軽量形鋼といった内装の基礎資材は、円安や国産材の供給減などの影響を受けて、過去10年で2~4割の値上げが続いています。第二に、人件費の上昇です。職人の高齢化と新規入職者の不足により、内装仕上げに従事する技能労働者は慢性的に不足し、その結果として、実勢賃金は約20~25%上昇しています。第三に、短納期対応によるコスト増です。オフィス移転のスケジュールが年々タイトになっており、工期が4~5週間と短縮されるなかで、夜間や週末の工事、追加人員の投入が必要となり、これがコストを押し上げる要因となっています。仕上げ工事費指数(建設物価調査会)は2015→2025で+35% 1-3.保証金漸減──原状回復工事費用が精算しきれない こうした工事費用の上昇と並行して、もう一つ大きな構造変化が起きています。それが、テナントが差し入れる保証金(敷金)の水準の低下です。かつて、オフィスビルの契約における保証金は「家賃6か月分」が一般的な相場とされていました。しかし足元では、4~5か月が実務上の平均に近づいており、家賃3か月+償却費1か月負担といった条件も珍しくなくなってきています。この背景には、2020年から2022年にかけてのコロナ禍による空室率の急上昇があります。ビルオーナー側は空室を埋めるため、初期コストを抑えた条件提示を行い、保証金の水準を引き下げました。一方で、テナント側にも資金効率や会計上の観点から、保証金額の圧縮を求めるニーズが強く、両者の思惑が一致するかたちで、保証金の慣行水準は切り下がってきたのです。そして、原状回復工事費用が上昇する一方で、保証金が縮小すれば、当然ながら、敷金で全額を精算できないケースが増えてきます。追加請求は、いまや例外ではなく、むしろ日常的な対応となりつつあります。 1-4.退去テナントの総務もヒマじゃない──入居対応で手一杯 さらに近年、テナントの移転業務を担う総務部門の意識にも変化が見られます。CBREが実施した「JapanOfficeOccupierSurvey」によれば、「移転時に最も時間を割くタスク」として、・2017年:入居対応58%/原状回復工事42%・2024年:入居対応6%/原状回復工事19%というように、明らかに原状回復工事への関心・工数投入が減ってきています。背景としては、新しいオフィスでの勤務環境が高度化していることが挙げられます。ABW(アクティビティ・ベースド・ワーキング)やハイブリッド勤務への対応、ICTインフラ整備、ウェルビーイング配慮設計など、入居時に調整すべき要素が急増しています。結果として、総務は情シス、HR、ESG、BCPなど社内外の多様な関係者と連携しながら入居工事を進めることになり、その対応に追われています。一方、原状回復工事は契約上の義務として「オーナー指定業者が行う」「費用は借主が負担」と定型化されており、スケジュールや仕様について交渉や判断を求められる場面がほとんどありません。そのため、退去テナントから見ると、原状回復工事は「金額だけ確認して終わる」性格のタスクとして扱われがちです。こうした制度的な枠組みやコスト構造の変化を踏まえた上で、次章では、実際に現場でどのように原状回復工事が進められているのか、その段取りの中身に目を向けてみたいと思います。 第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ 原状回復工事について、退去テナントがちょっと高いかなって感じられることがあったとしても、実際の現場でトラブルに発展することはほとんどありません。原状回復工事は、賃貸借契約に定められた基本的な権利・義務関係を土台にしつつ、社内ルールや業者対応の標準手順を通じて、工程全体が安定的に運用されています。つまり、「契約が枠を決め、ルールが運び方を整え、工程がそれを実行する」という構造がきちんと組まれているからこそ、原状回復は揉めないようになっているのです。本章では、原状回復工事がどのようにして“揉めない”“滞らない”、そして、“記憶に残らない”ほど自然に運用されているのか──その舞台裏を、工程・判断・対応の流れに沿って整理していきます。解約通知から退去、工事の完了、そして請求まで――一連の段取りが確実に積み重ねていくからこそ、現場には混乱がなく、退去したテナントの後、次の入居テナントを迎える準備へと自然につながっていくのです。 2-1.解約通知から段取りは始まっている 賃貸借契約においては、退去の6か月前までに解約の通知を行うことが原則として定められています。この通知が届いた段階で、ビル側の原状回復に向けた準備はすぐに動き出します。まず管理状態を把握し、原状回復工事の対象範囲を正確に整理するためのプロセスです。貸室を標準仕様に戻すためには、どの部分にどれだけの工事が必要かを明確にする必要があり、そのための前提となる調査です。当社は、現地確認を実施します。これは、入居時およびそれ以降にテナントが実施した工事の履歴をもとに、現在の内装や設備の状況を確認した上で工事項目を洗い出し、工事ボリュームを把握しておくことは、正確な見積作成のためにも不可欠な工程です。適切な初動をとることで、退去までの限られた時間の中でも、工程を滞りなく進めることが可能になります。 2-2.“壊す”のではなく“整える”ための工事 原状回復工事とは、単に「造作を壊して元に戻す」作業ではありません。その本質は、貸室を次のテナント募集や内見に耐えうる状態へと整えることにあります。あえて言えば、「使われた痕跡をきちんと整える」ことに近い仕事です。原状回復工事の主な内容は、以下のとおりです。・壁クロスの貼替え・床カーペットの張替え・天井の塗装(破損がある場合はボードの貼替えも含む)・ブラインドボックスや鉄部の塗装補修・専用部の二次配線(電気・LAN・電話線等)の撤去・機械警備カードの更新・鍵の撤去・火災報知器の撤去・照明管球の交換・照明器具、空調設備、サッシ・ガラスの清掃、およびテナント持込備品の廃棄処分これらのうち、壁クロス・床カーペットの貼替え、天井仕上げの補修などは、どの退去案件でも必ず実施される工事です。そこに加えて、テナントが独自に手を加えた箇所や、現場確認の際に見つかった破損・劣化の状況をもとに、追加で必要な補修項目の有無を判断し、最終的な工事内容とボリュームが確定されます。なお、空調や照明器具の更新工事は原則として原状回復の対象外ですが、照明のLED化などを同時に行うケースもあります。その場合は、原状回復に合わせて実施する貸主都合の更新工事として扱われます。いずれにしても、最終的に目指すべき状態は、「不要なものが一切残っておらず、使われた痕跡を感じさせない空間」。それが、原状回復工事における完成形です。 2-3.テナントの独自造作も、定められた手順に従って粛々と処理される 退去するテナントが会議室や間仕切りなどの独自造作を施していた場合、原則としてそれらは原状回復工事において撤去対象となります。ただし、次のテナント募集時に会議室や間仕切りといった造作が一般的に利用価値が高く、次テナントの募集条件の魅力度を上げられると判断された場合には、造作を残置・引き継ぐこともあります。もっとも、こうした判断が現場ごとにアドホックに行われているわけではありません。実務の運用としては、あらかじめ定められた契約条項と社内ルールに則って、整然かつ一貫性のある形で処理されています。たとえば、テナントとの契約書には、「貸室内又は本建物内に借主の費用をもって設置した諸造作・設備等の買取りを貸主に請求できない」と明記されています。また、残置された備品等の取扱いも含めて、それらの最終的な処分判断はすべてオーナー側・管理会社側の裁量に基づいて行われることが前提となっています。仮に一部の造作を残す場合であっても、それらは明確に「原状回復工事の対象外」として整理され、他の工事対象と混同されることはありません。こうした線引きは、現地確認の初期段階において明確に定められるため、工事工程の中で現場が混乱するようなことはほとんど発生しません。住宅における原状回復では、借主が設置した造作に関して「造作買取請求権」(借地借家法第33条)の適用可否をめぐり、判断が分かれることも多く、グレーゾーンになりがちな領域です。しかし、賃貸オフィスビルにおいては、この点も含めて契約上の取り決めや運用ルールが明確に整備されており、実務ではトラブルの火種にならないよう、あらかじめ制御されています。 2-4.トラブルのない原状回復工事には、理由がある 賃貸オフィスビルにおける原状回復工事は、テナントとの間でトラブルになることが非常に少ない領域です。それは偶然ではなく、契約条件の明確さと、実務フローがしっかり整備されていて、計画的に運用されていることによるものです。たとえば、実務上の典型的な進行フローは以下のとおりです。・解約通知を受けたら、すぐに現地確認を実施→工事対象範囲や造作の有無を確認し、契約内容と照合する・遅くとも退去の3か月前までに工事見積を提示→テナントが工事内容を確認し、保証金での精算の想定も可能になる・原状回復工事は、退去の約1.5か月前から着工→通常業務に支障が出ないよう、スケジュールを調整・工期はおおよそ1か月程度を想定→見積時点で工期も明示され、工程に余裕を持たせてある・すべての工事は「入居期間内」に完了することが契約条項に明記されている→工事遅延による賃料発生や、明渡し遅延リスクを未然に排除このように、解約通知から明渡しまでの間に何を・いつまでに・誰が・どのように行うかが契約と実務の両面で明文化・定型化されているため、不要なやりとりや感情的な齟齬が起きる余地はごく限られています。原状回復工事というのは、「目立たないが正確な仕事」の代表格とも言える分野です。だからこそ、現場では特別に目立つこともなく、静かに淡々と進められるわけですが、その背後には、積み上げられた実務の知見と、精緻な段取り設計があります。関係者から信頼を得ているのは、こうした整っている実務の蓄積があるからにほかなりません。 第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる 原状回復工事は、契約に基づいた枠組みのなか、手順も定型化されている業務であり、工程や費用もあらかじめ整理された仕組みの中で進行します。工事内容は一定の基準に照らして判断され、過去事例も踏まえて、施工業者の見積に基づいて、退去テナント向けの見積が作成されるため、費用設定においても大きな逸脱は起きません。それにもかかわらず、退去テナントからは時折こんな声が漏れることがあります。「……ちょっと高かった気もしますけど、もう済んだことですしね。」工事の内容に誤りはなく、費用も契約に基づいた正当なもの。それでも、「納得できない」というほどではないものの、「少し引っかかる」といった微妙な価格印象のズレが生じることは、決して珍しいことではありません。この章では、そうした印象のズレがなぜ起こるのかを、「契約」や「請求根拠」といった形式論に留まらず、テナントとオーナーそれぞれの立場や時間感覚の違いに注目しながら、整理していきます。 3-1.退去時に見ているものが違う テナントが退去を決断する背景には、事業拡大、レイアウト変更、本社移転など、前向きな戦略判断があることが多く、退去は未来志向の変化として位置づけられます。退去が近づくと、退去テナントの総務や移転担当者は、新拠点での内装工事やICT移設、什器の発注、社内周知など、膨大な実務タスクに追われていきます。その中で、旧オフィスの原状回復はもう終わる場所としての扱いになり、どうしても優先順位が下がりがちです。一方で、オーナーや管理会社にとって退去は「次の募集開始に向けたスタート」です。通知を受けた時点から現地確認、見積、工事手配、空室期間の調整など、逆算思考で業務が動き出します。原状回復工事もその一環として、滞りなく遂行されなければなりません。つまり、テナントは次を見る、オーナーは現場に戻すというように、目を向けている方向がそもそも違うのです。この視点の違いこそが、原状回復費用に対する感覚のズレを生みやすくする最大の要因です。 3-2.コストを「見慣れている」か、「突然向き合うか」 近年、原状回復工事の単価はじわじわと上昇しています。資材価格の高騰、人件費の上昇、工期短縮要請への対応といった要因が複合的に影響しており、これはオーナーやビル管理会社にとっては日常的に把握されている変化です。しかし、退去テナントが原状回復工事に接するのは、たいてい数年に一度。テナントの総務担当者が数年前の移転時に把握していた坪単価と、現在の見積金額に差がある場合、その間の値上がり事情を知らないまま突然の値上げと感じてしまうことが多いのです。つまり、印象のズレは「説明が足りないから」ではなく、退去テナントがそもそも構えていなかったことに起因するケースが大半なのです。 3-3.ズレがあっても、整った仕事は揺るがない このような印象の違いは、あくまで感覚的なものであり、契約的な正当性や施工品質の評価とは別の次元にあります。どれだけ丁寧に対応し、見積も透明に提示し、工程を正確に遂行しても、「少し高い気がした」と思われてしまうことはある。それは、説明のミスではなく、当事者の立ち位置の違いが自然と生む、温度差のようなものです。したがって、無理にその印象を打ち消そうとするよりも、あらかじめそのギャップが存在しうることを前提に、業務の精度と透明性を保ち続けることのほうが、よほど現実的で効果的です。 小結 原状回復工事の費用が「高く感じられる」ことがあるのは、見積ロジックや契約内容の問題ではなく、テナントとオーナーがいつ・何に向き合っているかの違いに由来する、感覚のズレです。この印象を完全に排除することはできません。しかし、だからこそ、業務そのものを丁寧に、正確に、あらかじめ整えておくことが、最終的に「信頼される現場」となるためのもっとも確かな道筋なのです。 第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度 原状回復工事は、工程としては明確で、運用としても安定しています。それでも、退去したテナントの印象には、ときおり「ちょっと高かったかもしれない」「もう少し説明がほしかった」といった言葉が残ることがあります。しかし、そうした印象があったとしても、原状回復工事が大きなトラブルに発展することは、実務上ほとんどありません。むしろ、きちんと完了し、きちんと請求され、何ごともなかったかのように終わっていく――この静けさこそが、この業務の完成されたかたちとも言えるのではないでしょうか。本章では、原状回復工事がなぜ「揉めないのか」、そして「印象に残らないまま完了していくのか」を、運用実態をもとに読み解いていきます。 4-1.“いつ何をするか”が決まっている 原状回復工事の工程は、賃貸借契約に基づいて、6か月前の解約通知を起点に始まります。解約通知を受けたビル管理会社は、テナントの窓口であるPM(プロパティマネジメント)とBM(ビルマネジメント)の工事担当が現地を確認し、入居工事および過去のテナント工事の資料と照合しながら、撤去すべき造作や補修箇所、原状回復工事の対象範囲を整理していきます。当該現地調査の確認内容に基づいて、工事の担当業者に確認を取りながら、退去テナント宛てに見積を作成します。この現地確認作業は、遅くとも退去の3か月前までには完了するようスケジューリングされています。作成された見積書(明細付き)は、退去テナントに提示されます。その後、ビル管理会社から退去テナントに対して「工事をいつから開始するか」が通知され、それまでに退去を完了してもらうという段取りになります。テナントとの賃貸借契約には「契約期間中に原状回復工事を完了すること」が明記されており、工程がこの流れから逸れることはほとんどありません。ちなみに、原状回復工事の工期はおおむね1か月。通常、退去時期は解約の1.5か月前に設定されます。こうした流れは物件ごとに若干の差はあるものの、現地調査、見積、業者手配、退去スケジュール設定等、工程の詰め方が毎回同様に組み立てられており、非常に安定した実務運用となっています。 4-2.“確認されないことを前提としているかのように、流れていく” 原状回復工事の見積が退去テナントで細かく確認されることは、実務上ほとんどありません。これは「説明が足りない」からでも、「透明性がない」からでもありません。単純に、退去テナント側――とくに総務や移転担当者――が、退去の時期にそこまで手が回らない状況にあるからです。退去の時期には、新オフィスでの入居工事が佳境を迎えており、ICT環境の整備、電話回線の移設、什器やレイアウトの調整、契約書まわりの最終調整など、目の前の業務に時間も意識も吸い取られています。原状回復工事の見積書は、退去テナントに届いたらそのまま了承され、工事が粛々と実施されます。工事完了後の立ち会い確認は省略されることが多く、結果的にそのまま請求フェーズに移行し、処理されていく傾向にあります。つまり、工程全体が、確認されないまま進んでも滞らない程度によくできているからこそ、安定した運用が成立しているのです。たとえば次のような実務体制が、それを支えています。・見積書は、よく見てみると、「主要工事項目・小計・消費税」の3階層構成で整えられており、造作など特異な項目も別立てとなって整備されている・現地調査と見積作成の流れが定型化されており、工程管理のルールも明確・着工日・退去日・請求タイミングが、すべて「運用としての流れ」の中に組み込まれている 4-3.印象を変えるのは、説明ではなく結果 原状回復工事に関して、テナントから「少し高い気がした」「内容をよく見られなかった」といった声が出ることはあります。ただし、そうした印象は、問題がなければすぐに忘れられます。工事は予定どおり完了し、請求・精算も適正に行われ、現場に混乱は残りません。そして、完了時に何も言われないこと、見積書や請求書に対して問い合わせが発生しないこと――それこそが、原状回復工事における最大の成果といえるのではないでしょうか。工事の仕上がりが整い、精算が一発で済み、テナントからの後追いもない。関係者すべてが、あらかじめ「もう終わったこと」であるかのように前に進んでいく。そんな状況だからこそ、「ちょっと高かったかもしれない」という一言は、それ以上の意味を持ちません。原状回復工事という仕事の価値は、きちんとやっていることを、粛々と積み上げていくことで伝わっていくものだと思います。 第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果” 原状回復工事は、内装デザインや演出性を伴う入居工事とは異なり、テナントの記憶に強く残るような場面があまりありません。退去が完了し、請求が済み、話題にもならないまま静かに終わっていく――そんな「印象に残らない仕事」として位置づけられることが少なくありません。しかし、その印象に残らないという事実こそ、トラブルが起きず、工程も崩れず、業務が正しく仕上がった証でもあります。この章では、原状回復工事という業務が持つ「目立たないが確かな価値」について、あらためて見つめ直してみたいと思います。 5-1.“何も起きなかった”という完成度 原状回復工事に関して、退去したテナントから問い合わせや指摘を受けることは、実際にはほとんどありません。それは、説明の巧拙によるものではなく、そもそも問い合わせを要するような問題が生じていないからです。工事内容は現地確認に基づいて整理され、見積書として提示されます。着工日も事前に案内され、スケジュールに沿って淡々と進行。完了後に特別な立ち会いや追加連絡がなくても、予定どおりに工事が終わり、請求が精算されていく。こうした一連の流れが滞りなく完了しているという事実こそが、業務の完成度を何より雄弁に物語っています。つまり、原状回復工事における「理想的な成果」とは、何も問題が起きなかったという状態そのものなのです。 5-2.“印象を残さない”という、もうひとつの誠実さ 退去テナントにとって、原状回復工事はすでに「完了していく話」であり、会社としても次のオフィス運用へと意識が向かっています。移転準備に追われる総務担当にとって、もはや過去の拠点に時間をかける余裕はありません。こうした状況下で、ビル管理会社側があえて踏み込んだ説明や詳細な対応をすることは、退去テナントも特段求めていません。むしろ、工程どおりの着実な進行と淡々とした精算処理が、自然な納得感を生んでいるのです。「細かくは覚えていないけれど、請求はきちんとしていた」「特に話題にはならなかったけど、何も問題なかった」そうした記憶に残らない納得のかたちは、不満ではなく、成熟した対応への無言の肯定と言えるのではないでしょうか。 5-3.“淡々と、正確に”が積み上げるもの 原状回復工事という業務を下支えしているのは、派手な演出や目立つ成果ではなく、段取りと精度の蓄積です。以下のような一連の流れが、抜けなく、乱れなく実行されることが、信頼の基盤をつくっています。・解約通知を起点とした逆算型の工事スケジュール・現地調査に基づいた明確な工事項目と見積書の提示・ビル管理会社による施工調整と連絡の継続性・工期の遵守と、期日までに完了する精算処理これらすべてが、「揉めない」「引きずらない」「残らない」退去処理を支えており、退去テナントから特に感謝されることはなくとも、“信頼の空白が残らない”という状態を静かに実現しています。目立たなくても、確かに仕事はなされている。その「静かな信頼の積み重ね」こそが、原状回復工事という業務が持つ本質的な価値ではないでしょうか。 終章のことば 本コラムの冒頭で、原状回復工事を「舞台のバラシ」にたとえました。演者が去り、客席が静まり、舞台が何も語らないままリセットされていく――。誰も見ていないようでいて、確かに価値が残されていく、そんな仕事です。原状回復工事とは、記憶には残らないけれど、間違いなく信頼を残していく仕上げの仕事。この静けさの中にこそ、賃貸オフィスビルの運営における、真のプロフェッショナリズムが宿っているのかもしれません。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月22日執筆2025年12月22日 -
プロパティマネジメント
『契約更新時の賃料アップ交渉術|テナントの納得を引き出す秘訣』
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「契約更新時の賃料アップ交渉術|テナントの納得を引き出す秘訣」のタイトルで、2025年12月19日に執筆しています。少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに:賃料アップ交渉は難しいのか?第1章:なぜテナントは賃料アップを拒否するのか?(心理分析)第2章:「市場環境」を味方にする交渉術第3章:「自然な賃料アップ」を実現する日頃の取り組み第4章:「予告」と「段階的アップ」という交渉テクニック第5章:「関係性維持」を重視したコミュニケーション術第6章:実践ケーススタディで学ぶ「賃料アップ交渉」第7章:チェックリストで見る「賃料アップ交渉」成功要件おわりに:賃料アップ交渉を「怖がらずに向き合える」ために はじめに:賃料アップ交渉は難しいのか? 賃貸オフィスビルのオーナー/管理会社にとって、「契約更新時の賃料アップ」は、頭の痛い問題のひとつです。東京のオフィスマーケットは、空室率の変動、景気の動向、周辺相場の変化など、さまざまな要因に左右されます。とりわけ築年数が経過したビルや中小規模の賃貸物件では、値上げを切り出した途端に、テナントが「退去」をちらつかせるケースも珍しくありません。こうした場面に直面すると、特に担当ベースでは「賃料を上げたいが、テナントの退去リスクが怖くて交渉に踏み込めない」というジレンマに陥りがちです。しかし、果たして本当に賃料アップは、それほどリスクの高い交渉なのでしょうか?実際の現場では、「値上げ=即退去」という構図が常に成立するわけではありません。むしろ、市場より割安な水準の賃料で安易に妥協して更新してしまうことで、その賃貸オフィスビルの資産価値を自ら毀損することになる、という側面も見逃せません。だからこそ、客観的な視点を持ち、冷静に交渉を設計し、テナントに納得感を与えながら、退去を招くことなく契約を維持しつつ、適正な賃料水準への調整を実現していく。そのための現実的なアプローチを、本コラムでは取り上げたいと思います。 「値上げ=退去」の誤解を払拭する交渉術とは? 本コラムの目的は、単に「値上げを成功させるテクニック」を伝えることではありません。むしろ、テナント側の心理を深く理解し、交渉のタイミング、客観的データ活用、合理的な説明方法など、実務の現場で使えるリアルな交渉術を整理して提供することです。交渉術のベースになるのは、「客観性」「合理性」「フェアネス(公平性)」という3つの視点です。これらを押さえることで、テナント側が「納得できる値上げ交渉」を進めることが可能になります。これから述べる章立てを通じて、実際に成功した事例、心理学的アプローチ、市場相場の活用法、そして実務でのコミュニケーション方法まで具体的に解説します。賃料アップ交渉は、やり方次第で「テナントの不満を高めるリスク」にも、「テナントからの信頼を得るチャンス」にもなり得るものです。このコラムを読んでいただくことで、現実的で効果的な交渉手法を身につけ、自信を持ってテナントとの契約更新交渉に臨んでいただければ幸いです。それでは次章から、具体的な内容を順に見ていきましょう。 第1章:なぜテナントは賃料アップを拒否するのか?(心理分析) 賃料アップを嫌がるテナントの心理とは? 賃料アップ交渉の場で、テナント企業の担当者が真っ先に考えるのは「コスト増による損失感」です。特に中小規模のオフィスビルに入居する企業は、大手企業ほど潤沢な経営資源を持たない場合が多く、少しの値上げであっても「コスト圧迫」として敏感に反応します。実際にはわずかな金額の差であったとしても、心理的にはそれ以上の抵抗感を生じてしまうものです。この背景には、「プロスペクト理論」と呼ばれる行動経済学の重要な考え方があります。人は利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛の方を約2倍強く感じると言われています。たとえば、テナントが年間500万円の賃料を支払っているとして、年間20万円(月額約1万6千円)の値上げを求められた場合、金額としては全体の4%ほどに過ぎません。しかしテナント側は、この「年間20万円の支出増」を実際以上に重く感じ、心理的な抵抗感が生まれるのです。 テナントの心理的抵抗を和らげるポイントとは? では、このような心理的抵抗を少しでも軽減するには、どのような対応が効果的でしょうか。ポイントは以下の3つに集約されます。①「値上げの根拠」を明確に示すテナントが最も嫌うのは、値上げが「根拠がない」「納得できない」と感じることです。「周辺相場が上がっている」「継続的に設備投資をしている」など、テナントが納得できる「具体的で客観的な根拠」を示すことが、心理的抵抗感を大きく和らげます。②「納得感」を重視し、唐突感を避ける値上げを突然突きつけられると、テナント側の抵抗感は倍増します。そのため、更新時期の前段階から一定期間の予告をし、心理的な準備期間を与えることで、テナントは感情的な拒否感を軽減できます。例えば、契約更新の半年~3か月前に「次回更新時には市場相場に基づき若干の調整を予定しています」と伝えておくだけでも、テナント側は心の準備を行うことができます。③「協議の結果、譲歩を引き出した」と感じさせることで、テナントに“心理的コントロール感”を与えるテナントが「一方的に値上げを押し付けられた」と感じると、その瞬間に強い拒否反応が生まれます。そこで有効なのが、テナント側に「選択肢があった」「協議の中で自分たちが一定の譲歩を引き出した」と感じさせる工夫です。これは、交渉の主導権を完全に奪うのではなく、一定の“心理的コントロール感”をテナントに持たせるというアプローチです。詳しくは後ほど、説明しますが、たとえば以下のような提示が考えられます。・「周辺相場と比べて控えめな上昇幅にとどめている」・「賃料引き上げの適用を半年後に繰り延べる」・「段階的にアップしていく選択肢を用意している」こうした選択肢を事前に用意し、「ご相談の結果、この範囲で調整できるご提案です」と伝えることで、テナント側は「交渉の中で譲歩を勝ち取った」と自然に感じるようになります。結果として、値上げに対する抵抗感や損失感が和らぎ、「押し付けられた」というネガティブな印象を抑えることができます。 テナントの心理を踏まえた交渉が「成功の第一歩」 テナントが賃料アップを嫌がる理由は、決して単なる金銭的負担だけではありません。心理的な抵抗感や「理不尽さ」「一方的である」という印象が大きな原因となっています。したがって、テナントの心理をしっかり把握し、具体的な根拠を提示しつつ、段階的な告知や選択肢提示による納得感の演出が賃料アップ交渉成功の鍵です。次章からは、具体的にどのように客観的データを交渉に使えば効果的か、具体的なテクニックや事例を解説していきます。 第2章:「市場環境」を味方にする交渉術 賃料アップ交渉の成否を分ける鍵のひとつは、客観的な市場環境データを上手に使えるかどうかです。特に築30年前後の中小型のグレードがさほど高くない賃貸オフィスビルの場合、テナント側から「なぜ値上げするのか?」という明確な根拠を求められることが少なくありません。その際、感覚的な説明ではなく、市場の具体的な数字や指標を提示できると、テナントも納得しやすくなります。本章では、東京の主要5区(千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区)の築古・中小型・賃貸オフィスビルを想定し、客観的な市場データを活用した賃料交渉のポイントをご紹介します。 ①市場賃料相場データの効果的な使い方 賃料交渉で特に説得力があるのは、市場相場との比較です。まず、対象ビルと同じエリア、規模、築年帯の物件の賃料相場を把握するところからスタートします。例えば、『三幸エステート』のオフィスマーケットレポート(2025年第1四半期)によると、東京の主要5区における築30年程度・Cグレード以下のビルは、市場平均賃料が直近四半期で約4.5%上昇し、坪単価で約18,924円に達しています。特に2024年後半から需給が逼迫し、明確な上昇トレンドが続いています。さらに、『日経新聞』がオフィス仲介大手4社への聞き取り調査を基にまとめたデータによると、以下のエリアの既存ビルの募集賃料は前年と比較して上昇しています。 エリア既存ビル坪単価前年同期比(騰落率)市場コメント神田駅周辺11,000~33,000円△(5%未満の上昇)需要が回復し空室が少ない水道橋・飯田橋・市ヶ谷9,000~35,000円△△△(10%以上の上昇)空室面積が少ない。新築への移転例も八重洲・京橋・日本橋11,000~55,000円△△△(10%以上の上昇)既存ビルの募集が減少、強気の賃料設定八丁堀・茅場町10,000~33,000円△△△(10%以上の上昇)空室消化が進展、需給が引き締まる傾向 当社の場合、公表されている数値に、独自の調査で補足した上で、データを取りまとめています。このように、市場データを提示する際には、「当ビルと同じような既存物件」の相場感を具体的に示すことで、賃料アップの説得力が増します。 ②客観的指標を交渉材料として示すタイミングとテクニック 市場データを示すのに適したタイミングは、契約更新の約半年前です。更新の直前に提示するのではなく、テナント側が予算的に準備をするための時間的余裕を持てるように配慮すると、交渉がスムーズに進みます。また、データ提示時には、いきなり数値を伝えるのではなく、以下のようなストーリー仕立てで説明すると効果的です。「最近、当エリア全体の需給状況が引き締まっています。特に近隣エリアでは、既存ビルの募集賃料が前年と比べて10%以上も上昇していることが報告されています。例えば八重洲・京橋・日本橋エリアでは既存ビルの募集が減少し、賃料が大幅に上昇しています。幸いにも、現在の当ビルの賃料は相場に比べて割安な状態でご提供していますが、市場環境との乖離を適正な範囲内に保つためにも、今回の改定をお願いしたいと思います。」このような丁寧な状況説明の後にデータを示すことで、テナント側が「単なる値上げ」ではなく、「妥当な価格調整」と感じられるようになります。 ③「値上げの根拠」の示し方と事例紹介 賃料交渉では、「なぜ値上げをするのか?」という根拠が最も重要になります。特に築古ビルのテナントからは、「古いのになぜ値上げなのか?」という疑問が出ることも少なくありません。その際に、「市場環境」を中心に客観的な根拠を示すことが有効です。実際の交渉成功事例をご紹介します。東京都中央区(八丁堀)の築約30年のCグレードビルのオーナーは、テナント企業との契約更新交渉に際し、「市場環境を根拠とした交渉」を実践しました。オーナーは日経新聞のデータを使い、「八丁堀エリアでは既存ビルの募集賃料が前年より10%以上上昇している」と提示しました。さらに、三幸エステートのレポートを併用し、「同エリアの空室率が約3%まで低下し、需給が非常に逼迫している」と説明しました。テナント側はこの明確なデータによる説明に対して、「社内稟議を通しやすい明確な根拠が示された」として、値上げを受け入れました。このように、客観的な市場環境データを明確に示すことができれば、テナントも社内で説得がしやすくなり、交渉がスムーズに進むケースが増えます。市場データを味方につけることができれば、オーナー/ビル管理会社はテナントの理解を得やすく、賃料アップを円滑に進められるようになります。客観的な数字を示した説得力ある交渉術を使い、「値上げ=退去」というテナントのマインド・セットを修正していきましょう。 第3章:「自然な賃料アップ」を実現する日頃の取り組み 築30年前後の中小型の賃貸オフィスビルにおいては、日頃から価値を保つための細かな取り組みを淡々と続けることが欠かせません。こうした「日常的な小さな取り組み」が自然に積み重なることで、結果としてビルの価値が維持され、相場に見合った賃料を無理なく得られるようになります。本章では、この緩やかで自然なロジックに基づいた、賃料アップの土台となる日常的な実務について整理していきます。 ①日常的な小さな取り組みが、緩やかに価値を維持する 築古の賃貸オフィスビルにおいて重要なのは、長期修繕計画に基づく大規模な改修・設備更新だけではありません。むしろ、日頃の地道で細かな改善や管理を、ブレずに積み重ねていくことのほうが、テナントにとって“実感”として伝わりやすいものです。たとえば、以下のような日常対応が挙げられます。・老朽化が見え始めた箇所を放置せず、軽微なうちに対応する・日常的な清掃や小修繕を確実に行う・設備の簡易なメンテナンスを定期的に実施するこうした取り組みを日常的に続けることで、「築年数のわりに古さを感じさせない」「どことなく居心地がよい」という自然な評価につながります。その結果、テナント側にも「このビルであれば、この賃料は妥当」と感じてもらえる状態が、少しずつ形成されていきます。 ②賃料アップ交渉は、市場との「自然な調整」に過ぎない 賃料アップ交渉とは、契約更新を利用してテナントに値上げを納得させる“説得”のプロセスではありません。ビルの価値が適切に維持されていれば、交渉自体も単なる「市場相場に合わせた調整」という、極めて自然なやりとりになります。実際の交渉でも、以下のようなシンプルな言葉で十分です:「周辺市場の賃料が上昇していますので、今回の契約更新では市場水準に合わせて適正に調整させていただきます。」テナント側も、日常の利用を通じて感じているビルの印象と、提示された賃料とを照らし合わせ、「そのくらいなら妥当」と自然に納得できる範囲であれば、交渉が無理なく成立する可能性が高まります。 ③「自然な納得」を生むコミュニケーションの姿勢 賃料交渉の場面で、オーナー/ビル管理会社が特別なアピールを試みる必要はありません。むしろ、日頃の管理業務において、誠実で丁寧な対応を積み重ねることこそが、ビルに対する信頼感を育てる土台となります。そうした日常的な信頼の積み重ねが、「このビルであれば、この賃料でも納得できる」という自然な感覚を、テナントの中に育んでいくのです。理想は、「言葉で説明せずとも、日々のやりとりの中で伝わっている状態」です。ビルの手入れが行き届いていること、トラブルがあったときの対応が早いこと、日常のコミュニケーションが誠実であること――。こうした積み重ねが、テナントとの信頼関係の基盤になります。 【この章のまとめ】 築古の中小型・賃貸オフィスビルであっても、日頃の地道な管理や小さな改善の積み重ねによって、ビルの価値は自然と保たれていきます。そしてその積み重ねが、テナントにとっての「納得できる賃料」の土台になります。賃料アップ交渉をオーナー都合の押し付けではなく、価値の維持と適正な相場調整の延長線上で、自然と成立するものとして捉えていく。そんなスタンスが、テナントとの健全な関係を保ちながら、長期的な安定経営を実現する鍵になるのではないでしょうか。 第4章:「予告」と「段階的アップ」という交渉テクニック 賃料の改定交渉をスムーズに進めるためには、「伝え方」や「提示方法」に工夫が必要です。特に、賃料アップを一度に大きく提示すると、テナントが心理的抵抗を感じやすくなります。テナント側の「抵抗感」を和らげ、賃料改定を自然に受け入れやすくするためには、「予告」と「段階的アップ」という二つの交渉テクニックが非常に効果的です。本章では、これらの交渉テクニックを具体的に解説し、賃料交渉の実践的なポイントを紹介します。 ①急な値上げ提示を避ける「予告」の重要性 賃料改定をテナントに提示するときに、避けるべきなのは「突然、大幅な値上げを伝えること」です。人間は予期しない変化に対して大きな抵抗感を持つため、突然の提示は交渉を難しくするだけです。そこで重要になるのが、「予告」というテクニックです。予告は、賃料改定の数か月前(理想的には6か月~1年前)に「市場の状況を踏まえて、次回の更新時には賃料を見直しさせていただく可能性があります」と伝えておくことです。こうすることで、テナントは事前に賃料改定の心積もりができ、社内で予算を調整したり、意思決定の準備を整えたりする余裕を持つことができます。突然提示するのではなく、徐々に情報を開示していくことで、交渉の心理的なハードルを下げることができます。 ②テナントが受け入れやすい「段階的アップ」の手法 一度に大きく賃料を上げるより、段階的に賃料をアップさせる方がテナントにとって受け入れやすくなります。特に、市場との乖離が大きく、一度に大きな賃料改定が必要になるケースでは、段階的アップが非常に有効です。具体的には、以下のような方法が挙げられます。例1:「二段階アップ」:「一定期間猶予後のアップ」・契約更新時に半分の上昇幅で提示し、次回の更新時に残りの半分を調整。・例えば、市場相場との差が坪3,000円なら、次回更新時に1,500円アップし、翌年にさらに1,500円アップを行う。例2:「一定期間猶予後のアップ」・契約更新時には現在の賃料を維持し、一定期間(半年や1年)の猶予期間を設け、その後に相場に調整する。・テナントは予算調整の猶予ができるため、心理的抵抗が少なくなります。段階的アップは、テナント側に「時間的余裕」を与えることで心理的な負担感を軽減し、賃料改定の受け入れをスムーズにします。 ③心理的テクニック:「アンカリング効果」を上手に活用する 賃料交渉において非常に有効な心理テクニックに「アンカリング効果」があります。アンカリングとは、「最初に提示された数字が基準となり、その後の判断に強く影響する」という心理現象です。交渉での具体的な活用例は以下の通りです。・最初に「市場相場との差額」を大きく提示し、最終的な交渉ではその差額をやや緩める。・例えば、最初に「市場との差が坪4,000円ほど開いています」と伝え、最終的な提示では3,000円のアップで交渉を進めると、テナントは「当初より1,000円安くなった」と感じ、受け入れやすくなります。また、段階的アップの提示でもアンカリング効果を応用できます。・例えば「本来であれば今回の更新で一気に坪3,000円の値上げをお願いしたいところですが、今回は半額の1,500円の値上げにとどめ、残りは来年度の更新時に調整させていただきます。」と伝えることで、テナントに心理的な「得をした感覚」を与えやすくなります。こうした心理的テクニックを交渉プロセスに自然に組み込むことで、テナント側の受け入れ意識を高め、賃料アップ交渉を成功させやすくなります。 第5章:「関係性維持」を重視したコミュニケーション術 賃料交渉を成功させる上で最も重要な要素の一つは、テナントとの良好な「関係性」を維持することです。ビル管理会社がどれだけ客観的な市場データを持っていても、普段からのコミュニケーションに難があると、交渉時にテナントは値上げ要請を「対立」と受け取り、受け入れに抵抗を感じるようになります。しかし、「良好な関係性」とは、際限なく、テナントとの距離感を詰めていくことでも、コミュニケーションの頻度を高めることでもありません。「自然で程よい距離感を保ちつつ、日常的なコミュニケーションがごく自然に行われている状態」を指します。本章では、この「自然な関係性」の中で行う賃料交渉術について解説します。 ①テナントとの「自然な関係性」を築くための基本姿勢 良好な関係性とは、テナントに媚びることではありません。親密さを追い求めるのではなく、「自然体で、お互いに一定の距離感を保ちながら信頼感を維持できている」という状態です。具体的には、次のようなポイントを意識します。・普段から、事務的でも丁寧で適切な対応を心掛ける。・テナントから相談があった場合には迅速かつ的確に対応する。・こちらから積極的にコミュニケーションを取るというより、テナントが何か困ったときや要望があるときにスムーズに相談できる関係を作っておく。このように自然体で程よい距離感の関係性を築いておくことで、賃料アップ交渉時の対話が自然な「調整」へとつながります。 ②賃料交渉前に行うべき準備(コミュニケーション施策) 賃料交渉に臨む前には、あらかじめテナントの経営状況や社内事情をある程度把握しておくことが理想です。基礎的な情報としては、帝国データバンクのレポートなどのレファレンス情報に目を通し、上場企業であればIR資料なども確認しておくのが基本です。ただし、特別な調査を行ったり、あからさまな聞き取りをするのではなく、こうした情報は日常的なコミュニケーションの延長で、自然に把握できる状態をつくっておくことが望ましいでしょう。例えば、次のような機会を活用して、自然にテナントの状況を把握します。・日常的な施設点検や管理対応時に、テナント担当者と軽く会話をする。・「何か最近お困りのことはありませんか?」など、管理上の相談ごとをきっかけに、自然にテナント側の近況を聞く。このような自然なコミュニケーションを通じて、テナントの社内状況や業績傾向、移転検討の有無などがそれとなく見えてくることがあります。こうした情報を把握できていると、交渉時における適切なタイミングや伝え方のヒントになります。 ③交渉を「対立」から「自然な調整」へと転換する会話術 交渉時の言葉の選び方や表現の仕方によって、テナントが抱く印象は大きく変わります。ここで重要なのは、交渉を「対立」や「駆け引き」ではなく、「市場に基づく自然な調整」としてテナントに感じてもらうことです。そのためには以下のような表現が効果的です。・「賃料を値上げさせていただきます」ではなく、「市場の状況に合わせて、賃料を適正な水準に調整させていただきます。」・「値上げを受け入れてほしい」という要求調ではなく、「市場とのバランスを考えて、このくらいの水準が妥当ではないかと思いますが、いかがでしょうか?」という協調型の提案調にします。・テナントの抵抗感が強い場合は、「無理なご負担にならない範囲で調整したいと考えていますので、一緒に妥当なラインを探りましょう。」など、あくまで「調整・相談」のスタンスを維持します。このように会話を進めることで、交渉が「対立」ではなく「自然な調整」に近づき、テナント側の心理的抵抗も軽減されます。 第6章:実践ケーススタディで学ぶ「賃料アップ交渉」 本章では、築古・中小型の賃貸オフィスビルにおいて実際に行われた賃料アップ交渉の成功・失敗事例をケーススタディとして取り上げます。各ケースから、どのような交渉の進め方が有効で、逆にどんな対応が失敗につながったのかを具体的に分析し、実務的な改善ポイントを明確にします。 【ケース1:成功事例】「市場データ」と「段階的アップ」の組み合わせが功を奏した例 概要東京都中央区(八丁堀)の築32年・延床約150坪の賃貸オフィスビルで、更新時に坪当たり3,000円の賃料アップを目指した事例です。交渉プロセスビル管理会社は契約更新の約1年前から「賃料の見直し可能性」をテナント企業(材料系商社、従業員数約50名)に対して緩やかに予告しました。そして更新の半年前に、三幸エステートのレポートに加えて、当社独自に調査した市場データ(同エリア既存ビルの賃料が前年比10%以上上昇)を提示しました。一方で、テナント側の担当者が「一度に坪3,000円の値上げは社内稟議が通りにくい」と懸念を示したため、ビル管理会社は「段階的アップ(初年度1,500円アップ、その翌年にさらに1,500円アップ)」の妥協案を提案しました。結果テナント側は「市場状況を客観的に理解できたこと」と「段階的アップで社内説明が容易になった」ことを評価し、この妥協案を受け入れました。成功要因と改善ポイント【成功要因】・市場データを早期から提示し、納得感を形成したこと。・段階的アップによりテナント側の心理的抵抗を和らげたこと。【改善ポイント】・予告の段階で具体的な金額まで踏み込めば、さらに交渉の時間を短縮できた可能性あり。 【ケース2:成功事例】「自然な関係性」が交渉を円滑に進めた例 概要東京都千代田区(神田)の築30年・約200坪の賃貸オフィスビルで、更新時に坪2,000円の値上げを提示したケースです。交渉プロセスこのビルの管理担当者は、日頃から過度に親密なコミュニケーションは取らず、しかし設備の不具合対応などの要望には迅速かつ的確に対応していました。交渉においても、値上げ理由を淡々と「市場動向に基づく適正賃料への調整」として提示しました。テナント企業(専門サービス業、従業員数30名)も、市場環境を理解した上で比較的容易に了承しました。結果ほとんど抵抗感なく値上げを受け入れてもらうことに成功しました。成功要因と改善ポイント【成功要因】・日常の自然で適切な対応によりテナントとの信頼関係が築かれていた。・値上げを「特別なもの」とせず、自然な調整として淡々と提示したことでテナント側がスムーズに納得できた。【改善ポイント】・テナント側から「もう少し事前に細かな資料があると社内調整がさらに容易になる」との声があり、提示資料の充実はさらなる改善点。 【ケース3:失敗事例】「急な値上げ提示」が抵抗感を生み、交渉が決裂した例 概要東京都港区(芝・三田)の築約28年・約100坪の賃貸オフィスビルで、更新時に市場環境に伴う値上げ(坪2,500円アップ)を提示したものの、テナントから拒否され、交渉が決裂したケースです。交渉プロセスビル管理会社がテナント(貿易関連企業、従業員数約40名)に値上げを提示したのは契約更新のわずか2か月前でした。日常的にコミュニケーションも希薄であったため、テナント側は唐突感を強く感じました。ビル管理会社は市場環境の説明をしましたが、テナント企業は予算調整が間に合わず、「急な提示で対応が難しい」として値上げを拒否。双方折り合わず、結局テナントは退去を決定しました。失敗要因と改善ポイント【失敗要因】・値上げの予告をせず、直前での突然の提示となった。・普段のコミュニケーションが不足し、テナント側の事情を理解できていなかった。【改善ポイント】・早い段階(半年~1年前)での予告を徹底すべきだった。・日頃から最低限のコミュニケーションを確保しておくことで、テナントの状況を把握できていれば別のアプローチが可能だった。 第7章:チェックリストで見る「賃料アップ交渉」成功要件 賃料アップの交渉は、テクニックだけでなく「段取り」と「準備」で8割が決まるとも言えます。築古・中小型の賃貸オフィスビルにおいては、交渉の複雑さを最小限にとどめ、必要な準備を一つずつ丁寧に進めることが、交渉を円滑にし、無理なく賃料改定を実現するための王道です。本章では、これまでの実務ポイントを整理し、交渉に向けた準備・提示・フォローの3ステップに分けたチェックリストとしてご紹介します。実際の交渉に臨む前の確認用ツールとして活用してください。 ステップ①:交渉前の準備チェックリスト 項目確認内容市場相場の把握対象ビルと同規模・同築年帯の周辺ビルの賃料相場を調査したかテナント事情の把握テナント企業の業況・直近の在籍人数・社内体制・キーマンなどを把握しているか予告の有無賃料改定の可能性を、テナントに数か月前から伝えているか社内稟議への配慮テナントが社内で稟議を通しやすくなる資料や説明方法を用意したか適正な金額設定市場と対象ビルの状態を踏まえた無理のない上げ幅を設定しているか ステップ②:提示時のポイント確認リスト 項目確認内容タイミング契約更新の少なくとも3か月前には正式に提示しているか表現のトーン「一方的なお願い」ではなく「適正な調整」として落ち着いたトーンで伝えているか資料の整備市場賃料の根拠資料(相場表、エリアデータなど)を添えているか段階的提案一度に大きく上げず、段階的アップ案を用意しているか余地の確保一定の交渉幅(条件の緩和余地)をあらかじめ確保しているかテナントの反応への備え想定される反応(予算懸念・納得感不足など)に対して備えているか ステップ③:交渉後のフォロー体制確認リスト 項目確認内容文書での記録交渉内容と合意事項をメール/書面で明確に残しているか社内共有ビル管理会社・オーナー間での情報共有と方針統一ができているか次回交渉への布石次回の更新交渉を見据えた情報蓄積・フィードバックが整理されているかテナント満足度の観察交渉後のテナント対応(問い合わせ内容や態度変化など)を観察しているか改善点の洗い出し今回の交渉での反省点・改善点を次回に向けて記録しているか 【この章のポイントまとめ】 ●賃料交渉は、交渉時のトーク力よりも「準備と段取り」が勝負を決める。●市場データ・テナント事情・伝え方の整備など、各フェーズで確認すべきポイントを事前に洗い出すことで、交渉の精度が高まる。●一度の交渉で終わらせず、次回に向けた観察と記録を残すことが、長期的な安定収益につながる。このチェックリストを活用しながら、対象ビルの状況やテナントの関係性に合わせた賃料交渉を、実務的かつ丁寧に進めていきましょう。価格調整という行為を「対立」ではなく、「管理業務の一環」として、淡々と誠実に行える体制づくりが、結果的に安定経営につながります。 おわりに:賃料アップ交渉を「怖がらずに向き合える」ために 築古・中小型の賃貸オフィスビルにおける賃料アップ交渉は、一見ハードルが高そうに見えるかもしれません。ですが、事前に正しく準備し、伝えるべきことを丁寧に伝えることによって、粛々と対応していくべきビル管理業務のひとつです。実際、テナント側にとっても、周辺の相場が上昇していることや、ビルの維持管理にきちんと取り組んでいることが日頃から伝わっていれば、必ずしも強い抵抗を示すわけではありません。むしろ、「現状維持が当たり前」という意識にとらわれて過剰に慎重になりすぎることで、市場との乖離が進み、次回以降の調整がかえって難しくなることもあります。本コラムで取り上げた通り、賃料アップ交渉を成功させるための鍵は、特別な交渉術ではなく、以下のような現実的で地に足のついた取り組みにあります:・周辺の市場データを活用し、「値上げ」ではなく「適正化」として位置づけること・築古の中小規模のビルであっても、日頃から価値を維持し、「特別なアピール」をせずとも納得される状態を整えておくこと・「段階的アップ」や「事前予告」など、テナントの心理的抵抗を和らげる工夫を組み込むこと・過度に踏み込みすぎず、かといって距離を置きすぎない、「自然体の関係性」を日々積み重ねていくことつまり、賃料アップ交渉とは、「嫌がられる行為」ではなく、ビルの価値を適正に保ち、テナントと健全な関係を続けるための必要な調整プロセスなのです。そこに求められるのは、感情的な駆け引きや過度な演出ではなく、冷静な準備と実務的な対応力、そして日常的な信頼の積み重ねです。賃料アップ交渉を「リスク」ではなく「前向きな見直し」と捉え、無理のない形で実施していけるオーナー/ビル管理会社こそが、長期的に安定した賃貸経営を実現していくことができる――本コラムが、その一歩を踏み出すためのヒントとなれば幸いです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月19日執筆2025年12月19日 -
ビルメンテナンス
築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:後編
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:後編」のタイトルで、2025年12月18日に執筆しています。「築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:前編」に引き続いて、今回、後編をお送りします。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに5.外注先マネジメントと「責任分界点」の設定6.予防保全を「データドリブン」で最適化する7.ケーススタディ:実際のクレーム対応から学ぶ8.すぐに使えるチェックリスト&テンプレート集9.現場知を組織知に──マニュアルと教育体制の整備最終章 はじめに 築30年を超えるビルでは、空調・給排水・電気・昇降機といったライフライン系設備の故障頻度が急激に高まります。実際に不動産管理会社200名への調査では「故障が多い設備」のトップがエアコン36%、次いで給湯器30%、水道25.5%と“水と空気”を支えるインフラが上位を独占しました。出典:GMO賃貸DX編集部による独自アンケート「故障が多いと思う設備」(2021年/不動産管理業従事者200名対象)こうしたトラブルはテナントの事業継続と満足度に直結します。夏場の空調停止は室温の上昇だけでなく熱中症リスクを招き、エレベーターの長期停止は高層階テナントの移転検討を誘発しかねません。ビル管理会社の調査でも「故障・トラブルへの対応の速さ」は5点満点中4.2と評価が高く、迅速対応が信頼維持の生命線であることが裏付けられています。出典:平成ビルディング「お客さま満足度調査2024年度」経営面への影響も深刻です。ザイマックス総研のオーナー調査では「築古に伴う修繕費の増加」を不安視する声が72%で最多となり、「賃料下落64%」「空室増加62%」を大きく上回りました。さらに2024年調査では、66%のオーナーが「支出が増えた」と回答し、修繕費・資本的支出については6割超が増加を実感しています。資材高騰と人件費上昇が重なれば、突発的な故障対応がキャッシュフローを一気に圧迫するリスクは無視できません。出典:ザイマックス総研「ビルオーナーの実態調査2025①」本コラムでは、こうした“築古オフィスビルの宿命”とも言える設備クレームを〈発生源×緊急度〉で整理し、原因究明からテナント・コミュニケーション、応急処置と恒久改修の費用対効果、外注先マネジメント、データドリブンな予防保全までを体系的に解説します。読み終えたときには・優先順位の誤りを防ぐ判断軸・テナント満足度と修繕コストを同時に最適化する実務ノウハウ・老朽設備を抱えたままでも“選ばれるビル”を維持する戦略的視点を手に入れられるはずです。前編では、「いざという時どう動くか」に焦点を当てて、設備トラブルの初動対応や判断基準、テナント対応の基本などを整理してきました。後編は、そこから一歩進んで「その対応力をどう支えるか」に目を向けていきます。第5章からは、外注先との役割分担の整理、予防保全の考え方、情報の見える化、マニュアル整備といった、実務の仕組みづくりにフォーカスしていきます。 5.外注先マネジメントと「責任分界点」の設定 設備クレーム対応を円滑に進めるためには、ビル管理会社や設備専門業者などの外注先との連携体制を整えることが欠かせません。ところが実際の現場では、「どこまでを管理会社が対応し、どこからを外注先の専門業者に任せるのか」が曖昧になっていることも少なくありません。その結果として、対応の遅れ・二重手配・責任のなすり合いといったトラブルが起きることも。本章では、こうした行き違いを防ぎ、外注先と信頼ある連携関係を築くための実務上の工夫と整理方法を解説します。 (1)なぜ「責任分界点」の明確化が必要か? 責任分界点とは、ビルの設備トラブルが起きた際に「どこまでが自社(ビル管理者)の責任」で、「どこからが外注業者の責任か」を明確に示した境界線のことです。例えば、エレベーターの故障対応を例にとると、●管理会社の責任範囲トラブル発生の受付、一次対応(状況確認、利用停止措置、テナントへの周知)●外注先の専門業者の責任範囲技術的な原因究明、修理作業、部品交換などの二次対応というように、業務の切り分けをあらかじめ決めておきます。この線引きを曖昧にしたままだと、「管理会社は外注業者任せ」「外注業者は管理会社待ち」という無駄な待ち時間が発生し、初動が大幅に遅れるリスクがあります。責任分界点を明確に設定しておけば、トラブル発生時に迷わず役割分担ができ、迅速な対応が可能になります。 (2)実務で役立つ責任分界点の具体例 実際の現場では、以下のように責任分界点を設定するとスムーズです。 設備カテゴリ管理会社(自社)の責任範囲外注業者の責任範囲空調設備初動確認・運転再起動・冷暖房仮設機手配冷媒補充、部品交換、恒久修理給排水設備一次止水措置・漏水状況確認・被害拡大防止配管補修・バルブ交換・ポンプの修理交換電気設備ブレーカー復旧・応急的な仮設配線配電盤改修・漏電箇所特定と修理昇降機設備停止措置・利用者誘導・状況確認閉じ込め救出作業・点検修理・部品交換ICT設備再起動・通信会社への一次連絡配線修理・機器の交換・通信障害の根本調査 このような表を管理室や共有フォルダに掲示・保存し、定期的に見直すことで、初任担当者でも迷わず対応できる体制が整います。また、外注先との契約書や仕様書に明記することまではできなくても、「運用上の目安」として合意しておくことで、現場の混乱を抑えることができます。 (3)外注業者との“期待値のすり合わせ”をしておく 中小規模の築古ビルでは、対応時間や復旧スピードを数値で規定するSLAのような契約を明確に交わすケースは多くありません。それでも、「緊急時はどのくらいで来てもらえるか」「夜間・休日の対応体制はどうなっているか」といった基本的な期待値を、日頃から言葉で共有しておくことがとても重要です。たとえば、下記のようなポイントを口頭やメールで確認・整理しておくと、トラブル時に判断が早くなります。・「原則○時間以内には到着できるか?」・「夜間・休日でもつながる連絡先はあるか?」・「応急処置で済むケースと、恒久修理が必要なケースの切り分け方法」・「修理の可否が現場で即断できるか、メーカー確認が必要か」こうした内容を簡単な備忘録や共有メモとして残しておくだけでも、属人化のリスクが減り、判断スピードが上がります。 まとめ:「責任の見える化」がチーム対応力を高める 外注先とのマネジメントで最も大切なのは、「お互いが何をどこまでやるか」の線引きを、暗黙の了解にしないことです。築古ビルだからこそ、人任せにしない“仕組みとしての対応力”が求められるのです。次章では、こうした対応力を日常的に高めていくための、「予防保全とデータの活用」について詳しく掘り下げていきます。 6.予防保全を「データドリブン」で最適化する 築古オフィスビルにおける設備トラブルは、対応の「速さ」だけでなく、「そもそも未然に防げるかどうか」が大きな差になります。突発的な故障や緊急対応が頻発すると、テナント満足度や更新率に影響が出るだけでなく、修繕費の平準化も難しくなります。こうした背景から、近年ではBEMS(ビルエネルギー管理システム)やIoTセンサーを活用した“予兆保全”という考え方が注目されています。こうした技術的手法が今後の保全手段として有効な可能性があると考え、当社においても検討中です。ここでは代表的な仕組みと実務的な検討視点をご紹介します。 (1)IoTによる予兆保全:トラブルを“起きる前”に見つける IoT機器を活用した予防保全では、空調やポンプ、昇降機といった設備に後付けでセンサーを取り付け、稼働データ(温度、振動、電流など)を常時取得・蓄積。異常傾向が検知されると、早期対応が可能になるという考え方です。代表的な技術サービス例(メーカー事例に基づく):・空調機器:冷媒圧力や電流値の変化を監視し、コンプレッサー故障前に検知・給水ポンプ/モーター:振動センサーで異常振動を把握、部品の摩耗を推定・昇降機制御部:モーターの電流パターンや制御系の応答遅れから不具合の兆候を検知こうした仕組みが構築されていれば、実際に停止・故障が起きる前に「計画停止・早期対応」が可能になり、緊急対応のコストや手間を抑えられるとされています。 (2)BEMSの活用と保全KPIの考え方 BEMSは本来、電気・空調などのエネルギー使用を把握・管理するための仕組みですが、そのログデータは予兆保全にも応用可能です。実際に一部の大規模ビルでは、AIで異常挙動を解析し、機器の負荷や性能低下を早期に抽出するシステムが運用されています。参考事例(大林組などの公表資料より):・空調の電力消費パターンから冷却塔ファンの不具合兆候を検出・フィルター詰まりを推定し、性能低下前に清掃・長期データから設備の異常傾向を「スコア化」して運用判断当社ではこうしたBEMS運用やAI解析体制は導入していませんが、中長期的に省エネと安定稼働を両立させる方策として、こうした先進事例に学ぶ姿勢は持っておくべきと考えています。 (3)KPI管理という視点(考え方の参考) 予防保全の効果を“なんとなくの印象”ではなく、数値で検証・改善につなげる手法として、KPI(重要業績指標)の設定があります。以下は一般的に使われるKPIの一例です。 KPI項目意義改善の指標例設備稼働率(アップタイム)稼働の安定性計画停止の活用で稼働率99%以上へ故障/クレーム件数再発予防空調系のクレーム件数が半減平均修理時間(MTTR)対応スピード初動連絡や部品備蓄で短縮維持コスト/設備コスト平準化緊急出動費が減り、年次計画化へテナント満足度(設備面)更新率に直結定期点検と早期対応で不満率低下 現状ではここまでの数値管理をシステム化していませんが、今後の設備管理体制の改善を考える際の“参考軸”として有用な考え方です。 (4)導入のハードルと段階的な対応策 もちろん、こうした仕組みをすぐに取り入れられるわけではありません。そこには築古物件ならではの“導入障壁”も存在しています。以下ではそれらの課題と、現場で可能な現実的なアプローチについて見ていきます。❶築古オフィスビル特有のハードル①既設設備にセンサーが付いていない築古オフィスビルの多くは、設計当初からIoTやセンサー実装を想定しておらず、運転データを取得する機構そのものがありません。例)空調機に電流計がない、ポンプに温度計がない、エレベーターにモニタリング端末がついていない、など。②BEMSが導入されておらず、ログが一切蓄積されていないBEMSは省エネ観点で導入されるケースが多く、築古オフィスビルでは未導入が一般的。したがって、「どの設備がいつ、どれくらい動いていたか」という情報が残っていない状態です。③データ分析スキルが現場にない/管理会社が対応できないたとえセンサーを導入しても、「そのデータを誰が見て、どう判断するのか」が曖昧だと、システムが“宝の持ち腐れ”になります。とくに中小規模の管理現場では、読み解き・活用の人材が不在という課題があります。④導入コストや予算確保のハードルオーナーが費用対効果に懐疑的だったり、既に限られた修繕予算が割り当てられていたりすると、“実績がないと稟議が通らない”という悪循環に陥りがちです。❷現実的な解決アプローチ:小さく始めて成果を見せるこれらの課題に対しては、「すべてを一気にやろう」とせず、小さな実装→効果検証→段階的拡大というステップで取り組むことが重要です。●後付けセンサーの活用「センサーがないなら、後付けする」というのが最もシンプルな解決策です。現在は、既存設備に簡単に取り付けられる後付け型IoTセンサーが充実しており、数万円レベルから導入可能です。例:・電流センサー:空調機やポンプの過負荷を検知・温度・振動センサー:ポンプ・モーター・昇降機の劣化予兆を検知・水漏れセンサー:給排水設備周辺に設置し、漏水時に通知・エレベーターのドア開閉回数センサー:異常挙動の兆候を検出センサーは電源不要なバッテリー式や、無線通信型もあり、配線工事が困難な築古オフィスビルでも対応可能です。●異常兆候がある機器だけにクラウド遠隔監視サービスの限定的な導入センサーで取得したデータを可視化・アラート管理するには、月額制のSaaS型クラウド監視ツールが便利です。これは、専門業者がデータを常時モニターしてくれるため、管理会社側の人手や分析スキルが不足していても運用可能です。例:・空調の稼働ログに異常あり→異常をメール通知→管理者が判断or修理手配・監視データはレポート化され、KPIや予防保全履歴としてエビデンス化される導入初期は月額数万円で始められ、緊急対応件数が減ることで中長期的には修繕コストの平準化につながるケースも多いです。●段階導入+トライアルから始める「いきなり全館導入」ではなく、まずはトラブルが頻発している設備や、リスクが高い設備に絞って始めるのが現実的です。ステップ例:①空調機2台だけに電流センサー+クラウド監視を導入②月次レポートで負荷変動や故障兆候を確認③効果を確認したらポンプ・昇降機へ拡大このように、「一部から試す」「成果を見せて広げる」という戦略ならば、現場の負担を最小限に抑えつつ、「やってみて分かること」、「改善すべきこと」を共有しながら検討しつつ進めることができます。 まとめ:「まずは情報収集と選択肢の整理から」 予兆保全の技術や仕組みは、現時点では多くの中小規模・築古ビルにとって、“現実味が薄い”と感じられる場面も少なくありません。しかし一方で、「突発トラブルが減ることで、対応がしやすくなる」「クレームが起きにくくなる」といった効果が期待できる仕組みであることも事実です。今すぐ導入を進める段階ではないとしても、・こうした仕組みがどのように機能するのか・同規模他社ではどのように検討・活用されているのか・自社で取り入れるなら、どこから始めるのが現実的かといった観点で情報を整理し、導入の優先順位を検討しておくことは、将来的な判断や業務改善の下地になります。実際、「データで察知し、先手を打つ」という予防的アプローチが機能すれば、・緊急対応の発生頻度が減り、・テナントの安心感が高まり、・修繕費の見通しも立てやすくなり、・担当者も“後追い対応”ではなく、“戦略的な運用”に時間を使えるようになります。情報を持ち、いつでも動ける状態をつくっておくこと。それ自体が、築古ビルにおける「予防保全力」の第一歩だといえるでしょう。 7.ケーススタディ:実際のクレーム対応から学ぶ 設備クレームの実務対応には、マニュアル化されたフローだけでは対応しきれない現場特有の判断力と対応力が求められます。本章では、築古オフィスビルで実際に発生した設備トラブルの中から典型的な3ケースを取り上げ、・発生の背景・初動対応の工夫・恒久的な対策そこから得られた教訓を詳細に解説します。 Case1:空調停止がテナント移転リスクに発展 状況:築30年を超えるオフィスビルにおいて、8月の猛暑日にビル東側フロアの空調機が故障。室温が35度近くまで上昇し、テナント社員から「暑くて業務ができない」とのクレームが集中。原因は老朽化した空調機のコンプレッサーの停止でした。初動対応:管理スタッフはすぐに現場を巡回して謝罪し、スポットクーラーや扇風機を緊急手配。並行して保守業者を手配し、到着後の点検でコンプレッサー故障と確定。即日中に仮設の代替冷房を設置し、テナントには「夕方までに一時復旧を目指します」と報告・実行。恒久対策:翌週末に本格的な部品交換を実施し、恒久復旧。テナントには「今後は同型空調機も含めて順次更新していく」との説明を行い、信頼回復を図った。教訓:真夏の空調停止は最も緊急度・重要度の高いトラブルのひとつであり、対応の遅れはテナントの退去リスクに直結する。本件では、迅速な応急処置とテナントへの丁寧な説明により、最悪の事態は回避できたが、老朽化の兆候を放置していたことが根本原因であり、季節前点検と消耗部品の先行更新の重要性が浮き彫りとなった。 Case2:ガス漏れと安全対応 状況:築40年の雑居ビルに入居する飲食店より、「厨房でガス臭がする」との通報。営業中に発生したため、火災や中毒への不安が拡がった。現場確認により、厨房のガス配管からの微小な漏洩が確認された。初動対応:管理会社は即時出動し、ガスの元栓を閉めて避難誘導を実施。ガス会社の緊急対応班を呼び、30分以内に現場到着。漏洩箇所は接続部の腐食であると判明し、即日配管交換を実施。該当店舗はその夜の営業を休止。恒久対策:ビル全体でガス配管の総点検を実施。接続部品の交換とあわせて、ガス漏れ警報器の追加設置を行い、さらにテナント向けガス使用マニュアルと啓発資料を配布。教訓:人的被害こそ回避できたものの、ガス漏れは人命リスクを伴う重大インシデント。老朽化したインフラに対する計画的な予防保全と、テナントとの情報共有・教育体制の整備が求められる。また、通報→出動→遮断の初動が迅速だったことで、被害を最小限に抑えられた好事例でもある。 Case3:エレベーター停止・閉じ込めによる業務影響 状況:築35年の8階建てビルで、営業中にエレベーターが突然停止。乗客が閉じ込められる事故が発生し、複数テナントから「業務に支障が出ている」「荷物搬送ができない」との苦情が集中。原因は制御基板の故障だったが、交換部品の入手に数日を要した。初動対応:管理会社は保守業者へ即連絡。技術者が到着し、乗客の救出に成功(閉じ込め時間:約20分)。その後、修理には数日を要することが判明したため、「復旧見込み:◯日予定」と書面掲示とメール通知で周知。管理会社は各テナントに対し荷物搬送や接客対応の代替支援を実施。恒久対策:同形式のエレベーター制御盤を全棟調査し、交換部品の事前確保・代替輸送手段の確保(荷物用昇降機や非常階段の改善)をマニュアルに反映。保守契約についても、24時間対応の契約内容への見直しを検討中。教訓:エレベーターは“止まってはいけない設備”の代表格。復旧見込みの明示や、定期点検だけでなく「事前備品確保」や「代替動線設計」などのBCP的視点が必要。また、テナントからの「営業補償」や「賃料減額」要請に発展するリスクを考慮し、法的・契約的整理も今後の課題。 総まとめ:3つのケースが教えてくれるもの これらのケーススタディは、以下の共通した実務的示唆を与えてくれます。 教訓解説初動対応の迅速性状況確認・一次遮断・専門業者手配・テナント説明をいかに早く行えるかが信頼維持の分水嶺になるテナントとの継続的コミュニケーション見通し・進捗・再発防止策の3点をセットで説明し、誠実な姿勢を見せることが、心理的不満の抑制につながる予防保全の重要性老朽化した設備はいつか必ず“壊れる”。事前更新とトラブル傾向のデータ管理こそが最も効果的なリスク対応マニュアル・BCP体制の整備クレーム対応のたびにノウハウを蓄積し、手順化することで、組織的対応力が向上する 8.すぐに使えるチェックリスト&テンプレート集 設備クレーム対応を確実・効率的に行うためには、現場でそのまま使えるチェックリストやテンプレートの整備が欠かせません。属人化しがちな対応を「誰がやっても一定の品質で回せる」ように標準化することで、対応漏れの防止、初動の迅速化、組織全体の対応力強化につながります。この章では、実際のビル管理現場で即活用できる代表的なツールとその運用法、さらに導入のメリットや更新のコツまで解説します。 (1)日常点検チェックリスト──“気付き”がトラブルを未然に防ぐ 築古オフィスビルにおいては、「異常が起きてから対応する」のではなく、「小さな異変に早く気付く」ことが重要です。そのためには、項目が網羅されたチェックリストを活用し、定期的に点検・記録する仕組みが不可欠です。チェックリスト例(空調設備):・異音・異臭がしないか・フィルターの目詰まりがないか・吹出口に風量のムラがないか・冷媒配管に霜・結露が見られないか・コントローラーの誤表示がないか運用ポイント:・最低月1回は記録を残す・異常が見つかった項目には「対応要否」も記載・写真添付可能なスマホアプリやExcel化で共有性を高める日々のルーティン点検をチェックリスト化して習慣にすることで、重大トラブルの予兆を早期に発見できます。 (2)クレーム受付シート──誰でも正確なヒアリングができる 夜間や休日にトラブル連絡が入った場合、電話を受けたのが警備員や当直者など非専門職であることも多く、聞き漏れ・記録漏れが課題になります。その解決策が、「聞くべき項目を並べた受付シート」です。 記載項目例:項目内容発生日時〇年〇月〇日〇時〇分発生場所〇階〇号室/共用部(例:男子トイレ)内容概要「空調が効かない」「異臭がする」などテナント希望対応「すぐ見てほしい」「明日対応でOK」など通報者名・連絡先社員名・携帯番号など現場の安全性ガス漏れ/水漏れ/感電リスクの有無確認 クレーム受付シートがあれば、非専門の担当でも確実に必要情報を取得でき、後工程の引き継ぎもスムーズです。 (3)緊急対応フローチャート──初動の混乱をなくす「地図」 クレーム発生時に「まず何を確認するか」「誰に連絡するか」が明確になっていないと、初動が遅れ、被害が拡大するおそれがあります。そうした場面では視覚的に分かりやすい「フローチャート形式の初動マニュアル」が有効です。例:漏水発生時の初動対応フロー①現場で安全確認(感電・階下漏水等の危険)↓②止水弁の閉鎖→応急措置(バケツ設置・タオル巻き)↓③テナントへ一次連絡+状況説明(いつ対応予定か)↓④業者へ連絡・到着予定確認↓⑤写真撮影・受付シート記入→管理会社・オーナーへ報告このように、「どんなときに、誰が、何をするか」がひと目で分かる構成にすることで、現場の不安を軽減できます。 (4)事後報告書テンプレート──「説明責任」を果たすために クレーム対応が終わった後に、オーナーやテナントへ経緯・原因・対策を報告する必要があります。フォーマットが統一されていれば、報告品質のバラつきもなくなります。標準構成:【概要】発生日時・場所・事象の要約【原因】点検・修理結果を踏まえた分析(写真付きが望ましい)【初動対応】応急処置や現場での判断・連絡履歴【恒久対策】今後の対応・再発防止策【周知状況】テナント/オーナー/関係業者への説明有無と手段【添付資料】写真・点検票・業者報告書などこの報告書は社内レビュー用(技術的詳細含む)と、社外共有用(簡潔な文体・平易な表現)で分けて用意しておくと便利です。 (5)年間予防保全スケジュール──“壊れる前”に計画的対応を 突発トラブルの多くは、「いつかやろう」と後回しにしていた予防点検・改修を逃した結果です。それを防ぐには、あらかじめ設備ごとの保全スケジュールを立て、年単位で管理することが有効です。 年間スケジュール例:月保全項目内容担当4月空調設備の試運転夏季稼働前点検管理会社+空調業者6月給排水設備点検水漏れ・ポンプ圧チェック配管業者9月照明器具・非常灯交換老朽LED更新電気業者11月エレベーター保守制御基板チェック・潤滑昇降機メーカー通年巡回点検チェックリスト対応日常管理 このようにスケジュールを事前に組むことで、「忙しくてできなかった」という属人的な抜けを防ぎます。 (6)テンプレート活用のメリットと運用のコツ 導入のメリット:対応漏れの防止:誰がやっても必要な項目をカバー初動スピードの向上:判断に迷わず、行動が早くなる説明責任の確保:記録が残ることで報告対応も万全品質の平準化:経験の浅いスタッフでも一定水準の対応が可能実務運用のコツ:現場で実際に使ってみて、使い勝手を確認定期的にアップデート(毎回の対応後に「次に活かす」工夫を追記)紙・Excel・クラウドのハイブリッドで共有新人教育に活用し、OJT+テンプレで戦力化を早める まとめ:チェックリストとテンプレートは“実務知の結晶” 築古オフィスビルの設備管理は、人に依存せず、対応の質を組織的に担保する仕組みが求められます。チェックリストやテンプレートはその最たるものであり、日々の点検から緊急対応・再発防止までを一貫して支える実務ツールです。・見逃しをなくす・行動を標準化する・対応を見える化するこの3つの効果を最大限に活かすことで、築古オフィスビルの“クレームに強い現場”づくりが実現します。 9.現場知を組織知に──マニュアルと教育体制の整備 築古オフィスビルの設備クレーム対応は、どうしても属人的になりがちです。「●●さんがいたから対応できた」「あの人がいなければ判断できなかった」──。このような状態では、担当者の異動や外注先の変更などで対応力が著しく低下するリスクがあります。だからこそ、これまで見てきた実践ノウハウやツールをマニュアル化し、組織全体で共有できる仕組み=“組織知”として定着させることが不可欠です。 (1)クレーム対応マニュアルの整備──“経験則”を“再現可能な手順”に マニュアル化の第一歩は、「現場で実際に行われている対応フローを可視化すること」です。たとえば、空調トラブル対応であれば、以下のような構成で整理できます。構成例:「空調トラブル発生時の対応マニュアル」【初動対応】・受付内容の確認項目(気温・範囲・時間帯など)・テナント第一報フォーマット・初期確認・仮対応手順(換気・スポットクーラー等)【技術対応】・業者連絡先・契約内容の整理(緊急対応の可否)・点検依頼書・履歴の記録様式・仮復旧策とその判断基準【事後対応】・復旧完了報告テンプレート(社内・テナント別)・写真の撮り方・文書への添付ルール・再発防止策の検討フロー(5Why分析等)このように一連の対応プロセスを「誰でも」「迷わず」「漏れなく」再現できる形に整備することが、現場力の底上げにつながります。 (2)ローカルナレッジを活かす──“設備ごとの個性”を記録に残す 築古オフィスビルでは、各設備に現場特有のクセや注意点(=ローカルナレッジ)があるのが常です。・「ここのボイラーは冬場の立ち上がりが遅い」・「東側フロアは日当たりで温度ムラが出やすい」・「3階の給水ポンプだけ異音が出やすい」こうした情報は経験者の頭の中にあるだけでは、“暗黙知”のままで再現性がなく、離職と同時に消えてしまいます。✅対応策:・設備ごとの“注意点メモ”を台帳に一元管理・月次会議やインシデントレビューで「今回の学び」を共有・トラブル発生→報告書作成→マニュアルへの反映というPDCAサイクルを明文化地味な蓄積ですが、これが“このビルに詳しい人がいなくても回る”状態を作る鍵になります。 (3)教育体制の整備──「OJT任せ」からの脱却 現場教育が先輩のOJT頼みになっていると、対応レベルは属人化し、質もバラつきます。そこで、あらかじめ定型化された教育カリキュラムを整備することが重要です。 時間内容備考1日目午前築古オフィスビルの設備構成と代表的トラブル講義+点検動画視聴1日目午後チェックリスト実習実地巡回形式2日目午前緊急対応フローと通報訓練ロールプレイ方式2日目午後クレーム報告書の書き方実例を使った演習3日目ケーススタディ発表グループ討議+改善提案 また、年1回の振り返り研修や、テンプレート更新の共有会などを通じて、現場と本部・外注先が同じ温度感を持てるようにすることも大切です。 (4)ナレッジを「更新可能な形」で残す せっかく作ったマニュアルも、1年放置すれば陳腐化してしまいます。・使用中止された設備・廃番になった部品・新しい業者や契約先への変更・法改正による対応義務の変化こうした変更をタイムリーに反映できる体制=ナレッジマネジメント体制が必要です。更新を滞らせないコツ:・担当者を“更新責任者”として指定・毎月のクレーム件数報告と一緒に「テンプレ更新要否」の確認欄を設ける・マニュアル管理用のGoogleDriveやNotionなどのクラウド運用を基本とする「実際の現場で使えるナレッジ」を「誰でも、いつでも取り出せる形」に整えることで、管理品質のばらつきを防ぎ、長期的な運営安定につながります。 まとめ:仕組みで人を支え、知見を積み重ねる 築古オフィスビルのクレーム対応は、知識・経験・対応力のすべてが問われる難しい領域です。だからこそ、そのノウハウを属人化させず、組織で共有し、更新できる仕組みが必要です。●マニュアル化=誰でも再現できる対応力●ナレッジ蓄積=設備特有のクセを共有●教育体制=OJTだけに頼らない人材育成●定期更新=マニュアルを“死蔵”させない工夫この4つを備えた管理体制を築けば、築古オフィスビルでも安定した品質でクレームを抑止・対応できる現場が実現します。 最終章 本コラムでは、築古オフィスビルにおける設備クレーム対応を「単なるトラブル対応」ではなく、テナント満足度と資産価値を守る“経営戦略”として捉える視点から、全9章にわたって実務的な方法論を整理してきました。最終章では、ここまでの議論を振り返りながら、築古オフィスビル管理者・オーナーが実践すべき本質的な考え方を再整理します。 (1)設備クレームは“見えない価値”の喪失につながる 設備クレームが発生すると、目に見える修繕費用だけでなく、・テナントの業務機会損失・担当者の心理的ストレス・他テナントへの悪印象の伝播といった定量化しにくい損失が広がります。そしてそれが続けば、やがて「ここでは長く借りられない」という印象が定着し、空室リスクや賃料減額交渉、更新拒否といった経営課題に発展します。すなわち、設備クレームへの対応力は、ビルの“目に見えない信頼価値”を守るための根幹だといえます。 (2)「備えるビル」が選ばれる時代へ 老朽化は止められませんが、トラブルへの備え方は変えられます。本コラムで取り上げた対応フレーム、点検チェックリスト、予防保全、テンプレート活用、マニュアル整備といった一連の手法は、どれも築古オフィスビルでも“すぐ始められる改善”ばかりです。ポイントは、「壊れるのを待ってから動く」のではなく、・兆候を見逃さない・対応を定型化して迷わない・状況を共有して誠意を伝える・記録を残して次に活かすという地道なPDCAを、全員で回していける体制を整えることにあります。 (3)設備クレーム対応力は“賃貸経営の強さ”を示す 設備が壊れないビルはありません。しかし、「壊れたときにどう対応するか」で、テナントの信頼・満足度・継続意向が決まります。逆に言えば、クレームを通して管理体制の成熟度が問われるということです。そして、その体制を支えるのが、これまで見てきたようなチェックリスト・対応フロー・テンプレート・KPI・教育マニュアルといった仕組みの質です。こうした運用の積み重ねが、結果として・空室率の低下・入居期間の長期化・「信頼できるビル」としての評判を生み出し、築古オフィスビルでも“選ばれる存在”になることが可能です。 (4)最後に:クレーム対応は、資産価値を守る「最前線」 設備クレーム対応というテーマは、一見すると後ろ向きな「消極的業務」に見えるかもしれません。しかし実際には、これほどまでにテナントとの信頼関係や、ビルそのものの価値に直結する業務は他にありません。・一件一件の対応を通じて、「このビルは信頼できる」と思わせる・「困ったときの対応力」こそが、築古オフィスビルに求められる最大の差別化要素それを可能にするのが、「現場の経験知」を「誰でも実践できる仕組み」に落とし込むマネジメント力です。設備は古くても、「対応力」は新しくできる。それこそが、築古オフィスビルにおける“最大の価値再生策”だと言えるのではないでしょうか。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月18日執筆2025年12月18日 -
プロパティマネジメント
“やったのに決まらない”の正体とは?―築古オフィス改善の判断設計を考える
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「“やったのに決まらない”の正体とは?―築古オフィス改善の判断設計を考える」のタイトルで、2025年12月17日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:なぜ「対応・改善しているのに決まらない」のか?第2章:実務の摩耗がズレを生む第3章:ズレた“改善策”が現場で繰り返される理由第4章:「何から動くか」の優先順位―ズレた判断が成果を遠ざける第5章:「選ばれない」理由が伝わってこない構造第6章:「わかっているのに動けない」――実務の制約と意思決定の限界第7章:「全部はできない」から考える――空間の構成を再設計する第8章:「改善する」から「選ばれる」へ――築古ビルがとるべき次の一手 はじめに 「うちも、やるべきことはやってるんですよ。ただ、なぜか決まらないんです。」築年数を重ねた中小規模の賃貸オフィスビルのオーナーや管理担当者から、そうした声が聞かれることは少なくありません。実際、エントランスの改修、共用部の清掃強化、条件面の見直しなど、一定のコスト、手間暇をかけた対応が行われているビルも多くあります。それでも空室が、なかなかすぐに埋まらない。内見の反応は鈍く、問い合わせの数も伸びない。「やれることはやっているのに、なぜ決まらないのか」という、答えの見えにくい徒労感だけが現場に残る。そうした状況は、いまや築古の賃貸オフィスビルに共通する構造的な課題となっています。そもそも、築古の賃貸オフィスビルの建物は老朽化しており、設備仕様も最新でもなく、現在の賃料水準を維持すること自体、望むべくもないという悲観論に組することもなく、できる限りの対応策を打ってきたのに、決まらない。このような決まらなさの原因を、そもそも、対応策など意味がないということでなく、「選び方」や「優先順位」、「見え方」といった判断の軸が、どこかでズレていたということなのかもしれません。さらに深く見ていくと、判断の支えになるはずの「過去の実務経験」や「他物件との比較」が、かえって意思決定を鈍らせている場面も見られます。つまり、対応したのにうまくいかないのは、「改善が足りない」からではなく、「改善の選び方」そのものがズレているからではないかということです。本コラムでは、築古の賃貸オフィスビルが直面するこうしたズレの実態を読み解きながら、次のような論点を整理していきます:・なぜ対応しても成果に結びつかないのか・過去の実務が、今の改善判断を曇らせている構造・空振りに終わりがちな改善の典型パターン・成果につながる「順番」と選び方の工夫・判断を設計し、選択肢を再構築するための視点どう判断し、どう進めるかという前提そのものを問い直すこと。それこそが、築古の賃貸オフィスビルが選ばれる側に再び立ち返るための出発点になるのではないか――そんな問題意識から、本コラムを始めたいと思います。 第1章:なぜ「対応・改善しているのに決まらない」のか? 「いや、うちも何もしていないわけじゃないんですよ。照明器具はLED化しましたし、トイレも一昨年にリニューアルして。共用部の床材も一部、貼り替えました。でも、それでも内見が増えないんです。」築30年以上の中小賃貸オフィスビルを所有するあるオーナーの言葉です。ビル管理会社と連携しながら、予算の範囲内でできる限りの対応を重ねてきた。それでも空室が長引いてしまう。そうした声は、東京の築古の賃貸オフィスビルの現場で決して珍しくありません。実際、設備や内装にまったく手を加えていない物件の方が、今ではむしろ少数派です。空調、照明、エレベーターなど、あらかじめ計画された設備更新に加えて、トイレ、館内サイン、共用部の床材、掲示物まわりの整理まで、テナントの目に触れる部分を一通りリニューアルしているビルも少なくないのです。それでも「決まらない」。その原因は、対応・改善を「やったか・やらなかった」かではなく、「誰に向けてどのような改善を、どの順番で進めるのか」を選定し、判断するプロセスのズレにあるのかもしれません。 “方向性のズレ”が、決まらなさを生む ある物件では、エントランスに木目調の化粧パネルと間接照明を組み合わせ、床には石目調の長尺シートを使用するなど、落ち着いたトーンで整えるリニューアルが施されていました。小規模なビルながら、清掃状態も良好で、空調設備も修繕計画通りに更新済み。築年数を考えれば、全体としては丁寧に維持管理されている印象でした。この物件を内見の案内をしたリーシング担当から見て、内見したテナント社員のリアクションは、どこか控えめで、明確な手応えは感じられなかったといいます。後日、その企業は別の物件を選びました。先方からの説明は「立地が希望と若干ずれていた」と簡潔なものでした。内見時に感じられた「違和感」は、案内担当者レベルでは確かに残っていたものの、それが「改善の効果の検証材料」として社内で議論されることはありませんでした。社内ミーティングで軽く話題にされた程度で、リニューアル=改善、を担当した部署には届かず、定例のオーナー報告でも空室継続の事実だけが淡々と報告されたにとどまりました。内見時の手応えの薄さは、あくまで主観的なものであり、「たまたま相性が悪かっただけかもしれない」「賃料設定のほうが大きかったのでは」と解釈されやすく、組織の中では判断材料として後回しにされがちです。しかし、こうした「違和感の共有漏れ」や「曖昧なままの感覚のスルー」が積み重なることで、改善の方向性が少しずつ現場の肌感覚とズレていく構造が生まれてしまうのです。この事例でも、改修がそもそも誤っていたとまでは言えません。客観的に、限られた予算の中で実施された、まっとうなリニューアル=改善だったともいえます。ただ、「誰に対して、どのような効果を想定するのか」という視点が、ほんの少しだけズレていた。その微細なズレが、フィードバックとして返ってくることがほとんどなかったので、オーナーや管理者は「改善したのに決まらない」という状況に、理由が見えないまま直面することになります。 「改善」しようとすることで、かえって遠ざかることもある 築年数を重ねた賃貸オフィスビルを改善し見映えをよくしようとすること自体が悪いわけではありません。たとえば、アロマやBGM、エントランス・マット、サイン、観葉植物などを組み合わせて設置し、共用部の印象を整える対応をとったとします。見た目の印象はたしかに向上し、ビル管理の丁寧さも伝わる――そのような意図で実施された改善であったとしても、それがテナントの選定理由になるかどうかは、まったく別の話です。むしろ、こうした見映えの底上げそのものが、テナントによっては次のように受け取られてしまうことすらあります。「築古ビルが無理をしているようで、かえって痛々しい」「過剰な演出によって、むしろ古さが際立ち、ここで働くイメージが湧きにくくなった」――。つまり、丁寧に整えたはずの演出が、逆に現実とのギャップを強調してしまう場合があるということです。また、ビルの外観や共用部の見映えにフォーカスした結果、トイレや空調、セキュリティといった「不満の出やすいポイント」への対応が後回しになっている物件も見受けられます。本来であれば、こうした日常的な接点にこそ優先順位があるべきなのです。つまり、空室対策の本質は何をやったかではなく、どこにどう配分したか。改善の配列や重みづけを間違えることで、対応し、改善しているのに選ばれないという状態が生まれてしまうのです。 「改善疲れ」に陥る前に、選び方そのものを問い直す オーナーやビル管理会社の努力が足りないわけではありません。むしろ、努力を重ねているからこそ、「なぜこれでも決まらないのか」が見えにくくなっているのだと思います。本コラムでは、個々の改修項目の良し悪し以前に、「なぜその改善を選んだのか」「他の可能性は検討されたか」「改善の順番は適切だったか」といった、判断の前提条件そのものを問い直すことをテーマにしています。次章では、このズレがなぜ繰り返されるのか、そしてその背景にある「実務の摩耗」や「慣性の意思決定」について、より構造的に考察していきます。 第2章:実務の摩耗がズレを生む 築古の賃貸オフィスビルの改善をめぐる意思決定の現場では、「やることはやっているのに、なぜ決まらないのか」という問題が、繰り返し起こります。そして、そのたびに「今度はここを直してみよう」「あのビルがやっていたあれを真似してみよう」といった個別の対応が積み重ねられていきます。しかし、こうした対応の多くは、その場しのぎの連続になってしまっているケースが少なくありません。なぜなら、判断の根拠が、蓄積された経験則や過去の成功体験にもとづいているだけで、現状を客観的に再評価する機会が極端に少ないからです。 判断の“繰り返し”が、判断力そのものを摩耗させる 築30年を超える物件であれば、10年、20年単位でテナントの入れ替わりや改修履歴が蓄積されているはずです。そうした履歴は本来、改善の方針を柔軟に導くための材料となるべきものです。ところが、実際には「前回もこの対応で決まったから」「以前、これでうまくいった」という過去の正解に寄りかかったまま、現状に対する目線のアップデートが行われていないケースが目立ちます。たとえば、「うちはトイレを改修すると決まりやすい」という経験にもとづいて、5年おきに内装だけを更新してきた物件。ところが最近は、それでもなかなか決まらない。にもかかわらず、「やるべきことはやっている」と判断し、それ以上の検証を止めてしまう──こうした思考の摩耗が、改善の視野をじわじわと狭めていきます。このように、過去の蓄積がむしろ意思決定の柔軟性を奪ってしまう構造は、築古の賃貸オフィスビル管理の現場では決して珍しくありません。 「物件を知っている人」が、“変化に気づきにくい人”になる 長年にわたって対象物件を見てきたビル管理の担当者や、テナント対応に慣れたスタッフの存在は、賃貸オフィスビルの運営における大きな安心材料です。彼らの経験は、修繕の判断やトラブル対応において欠かせないものです。しかし、こうした「慣れた目線」が、物件の魅力や弱点を“見慣れてしまう”ことによって、かえって改善のポイントを見逃すリスクも孕んでいます。たとえば、共用部の照明器具が更新されずに、少し古びていたとしても、「このビルはもともとこういう雰囲気ですから」と判断してスルーされてしまう、掲示物や注意書きが貼られたままの掲示板も、「入れ替えの時期はいつもこのくらいですし」と見過ごされる、本来であれば、いまこの物件がどう見られているかを、改めて「初見の目線」で再確認すべきタイミングにもかかわらず、既視感がそれを上書きしてしまうのです。 賃貸オフィスビルの管理側にとっての「定例対応」が、テナントにとっての「違和感」になることも さらに厄介なのは、賃貸オフィスビルの管理側にとっては当たり前になっている対応が、初めてビルを見るテナントにとっては、むしろ引っかかりとして残る場合があることです。たとえば、ポストに入りきらない郵便物が一時的に管理室に取り置かれている、エレベーターホールに空きテナントの案内資料が山積みになっている……。こうした状況は、管理側にとっては「よくあること」「特に支障のない運用」かもしれませんが、テナント側から見ると、「本当にここで働くことを前提にしてもいいのか」と感じさせてしまう微細な不信感につながることもあります。このように、賃貸オフィスビル管理の現場実務がこなれていく過程で、かえって細部の見直しが抜け落ちるのは、築古の賃貸オフィスビルの管理・運営においては起こりやすい現象とも言えます。 “慣れた実務”に、問い直しの視点を差し込む もちろん、過去の経験がすべて無効になるわけではありません。大切なのは、「これまでの正解」を一度フラットに見直し、現状と照らし合わせて再構成する視点を持つことです。そのためには、オーナー自身、および、賃貸オフィスビル管理の実務担当者があえて初見の目線に立ち返ること、あるいは別の担当者・別部署・外部の専門家など他者の視点を介在させる仕組みを設けることが有効です。たとえば、リーシングの現場担当者が持つ感覚を、賃貸オフィスビル管理会社のビル・メンテナンスのマネージャークラスの判断に組み込めているか。リニューアル方針の検証に、内見の反応が活用されているか。そうした「共有と再検証」の視点が、改善のズレを防ぐ鍵となります。改善のズレは、失敗の結果ではありません。過去の成功体験に足を取られ、現場の変化に対する再評価が抜け落ちることで生じているのです。次章では、こうしたズレた改善がどのような施策に現れやすいのか、現場でよく見られる改善策の空振りパターンを具体的に見ていきます。 第3章:ズレた“改善策”が現場で繰り返される理由 築古の賃貸オフィスビルの空室対策では、「改善しても決まらない」「どのように整えても反応が薄い」という悩みが繰り返し語られます。そのたびに新たな対応策が提案され、検討されるわけですが、それらの事例をよく見ていると、どこかで見たような施策が、別の賃貸オフィスビルでも繰り返されている光景によく出くわします。それらは「他物件で成果があったから」「提案書のテンプレートに含まれていたから」といった、いわば無難に選択された改善提案を機械的に実施しただけで、それらがその対象物件、その立地、そのテナントのターゲットにとって最適かどうかは、ほとんど検証されていないことも少なくありません。 成功事例の“形式”だけがコピーされていく ある賃貸オフィスビル管理会社では、数年前に実施した物件での「アートと観葉植物による共用部の演出」が成功し、業界雑誌等でも好意的に取り上げられたことをキッカケに、その後、同様の提案を複数物件に展開するようになりました。たしかに、一定の演出効果や印象改善にはつながったケースもあるでしょう。しかしある別物件では、同じように植物とアートを配置したものの、「ちょっと過剰じゃないですか」「うちの業種には合わないかも」といった反応が、一部の内見した企業の担当者の本音めいた反応も仄聞されたといいます。どんな施策も、「何を、なぜ、どこで行うのか」という前提が、ターゲットのテナントと共有されていなければ、単なる演出の上塗りに終わるリスクがあります。成功事例の「形式」だけを取り入れても、単に流行り廃りをなぞっただけなので、その改善の効果が発揮されることはありません。 競合物件との“表層的な比較”が判断を狂わせる 改善策の選定にあたって、「周辺の競合ビルがどこまでやっているか」という視点は重要です。ただし、その比較が表層的な見た目や、いくらコストをかけたのかという点に偏ってしまうと、判断基準が曖昧になりがちです。たとえば、「近くのAビルではエントランスを明るくしたから、うちも照明を変えてみよう」「Bビルは入居が決まったので、あの床材と同じようなデザインにしよう」といった判断。それ自体は根拠もあり一見合理的にも見えますが、それらの改善が対象物件のポジションやテナントのターゲットと整合しているかが検討されていなければ、その改善はうまく機能しません。競合物件で空室がすぐに決まった理由は、改装された床材や照明ではなく、「募集条件の柔軟さ」や「入居時期のマッチング」、あるいは「担当者のクロージング力」といった要素かもしれません。成功事例の見た目だけを模倣しても、「なぜ決まらないか」という本質には届かず、改善コストばかりが嵩んでしまうことになりかねません。 「やっておけば安心」な改善が“決め手”になるとは限らない 現場には「最低限これだけはやっておきたい」という改善項目がいくつか存在します。たとえば、壁クロスや床材の貼り替え、エントランスのサイン更新、古びた照明器具のLED化、トイレの美装などは、どこかでやらなくてはいけないものでもあり、コストを抑えながらも効果のある、実務的な改善として、多くの場面で採用されています。実際、これらの対応は当社の別コラムでも、内装や照明など比較的低コストで実行可能な改善策の一例として紹介していますし、現場での第一歩として有効です。ここで問題になるのは、それらの改善を「やっておけば安心だから」という理由だけで、その目的や、ターゲットとするテナントのことを深く考えずに実施してしまうケースです。たとえ改善の実施内容自体は適切だったとしても、「なぜそれを行ったのか」「どんな効果を与えたいのか」が読み取れない場合、費やした時間やコストの割に空振りに見えてしまうことがあります。ひとつひとつは意味のある対応であったとしても、テナントに「ここに決めよう」と思わせる決定打になるとは限らないのです。逆に言えば、「この物件らしさ」や「この立地だからこそ」という意図を伝える工夫が加えられていなければ、内見時にただ整っているうわべの印象だけが残り、心には届かない―そうしたリスクもあるということです。 「改善したのに決まらない」を繰り返さないために こうしたズレた改善が繰り返される背景には、オーナー側の判断が曖昧なまま、その物件にとって本当に必要なことは何か、誰に向けて何を伝えるべきかといった視点が置き去りにされていることがあります。それぞれの改善が誤っていたというわけではありません。ただ、「このタイミングで、なぜこれを行うのか」「テナントがどのように受け取るのか」という目線が抜けてしまえば、せっかくの改善も狙った効果を発揮できなくなってしまいます。たとえば、賃貸オフィスを「きれいになった」と感じさせることと、「ここで働くイメージが持てる」と感じさせることは、まったく別の話です。テナントが重視しているのは、現実的に自社の働き方や価値観と合っているかどうかであり、空間の印象はその判断における大切な手がかりとなります。だからこそ、改善の目的と内容が、その物件の立地や規模、テナントのターゲットとしっかり結びついていない場合、「なぜこうしたのかがよく分からない」ということになり、ズレた改善として見なされるリスクがあるのです。もちろん、改善の価値は説明や演出だけで決まるものではありません。丁寧な仕上がりや更新された設備、美装された共用部など、施工そのものの価値は確かなものです。ただ、その価値がテナントにきちんと伝わらなければ、「ここに入ろう」という意思決定にはつながりにくいのもまた現実です。大切なのは、その改善が「誰に、どう見られるか」をあらかじめ意識し、「なぜそれが必要なのか」を具体的に考えたうえで取り組むことです。そうした配慮があって初めて、ズレた改善を避けることができ、取り組んだ内容が効果として伝わり、結果として空室の解消にもつながっていくのです。 第4章:「何から動くか」の優先順位―ズレた判断が成果を遠ざける 第3章では、「せっかく改善したのに決まらない」という現象の背景に、ズレた改善がありえることを見てきました。そこでは、改善の内容そのものが間違っていたというよりも、「誰に、どんな効果を与えたいのか」を考えずに形だけ改善しようとしたことが、結果につながらなかった理由として浮かび上がっていました。では、見映えや管理運用まわりの改善をちゃんと考えて実行したとしても、それでも決まらないとしたら、何がズレていたのか。実はそこには、「改善したけれど、肝心なリーシング条件調整の判断が甘かった」という、判断の順番のズレが関係していることがあります。本章では、「やったこと」そのものよりも、「どこから、どの順に、どう動くべきだったのか」という優先順位の組み立てに視点を置いて、改善しても決まらない構造をもう一歩深掘りしていきます。 動けることは複数ある。だからこそ「順番」が問われる 賃貸オフィスビルの空室対策として、現場ですぐに可能なこととして取り上げられがちなのは、たとえば次のようなものです。・床や照明、トイレの内装更新といった、軽めのリニューアル・掲示物の整理、共用部の清掃頻度の見直しなど、日常的な管理運用の見直し・賃料、フリーレントの調整など、リーシング条件の調整いずれも、「効果がありそう」です。問題は、「どれを、どの順番で実行するか」の見立てがズレてしまうと、ひとつひとつの動きは効果があるはずなのに、空室解消という成果にはつながらないことがありえるということです。一方、空調や給排水、換気などの設備の本格的な整備は、費用や工期の規模が大きく、すぐに対応可能かどうか、オーナーごとに置かれた事情に大きく左右されるため、本コラムでは踏み込まず、比較的動きやすい「小さな改善」と「条件調整」の順番判断に焦点を当てます。例①:改善を先に実施したことで、リーシング条件の対応が鈍ったケースある中小ビルでは、エントランス照明と床材の貼り替えを先に実施しました。見映えは改善され、内見数も一定程度は増えましたが、成約にはつながらず、次はどこを直すべきかという議論になっていました。そんな中、内見者からは「もう少しフリーレントがあれば」「周辺の競合物件と比較すると賃菅込みで割高感が残る」といったコメントも聞いてはいたのですが、オーナー側には、「ここまで改善したのに、さらに条件を譲るのは気が進まない」という心理が芽生えていました。改善自体は間違っていなかったとしても、ここで一区切りつけた感覚が生まれてしまったために、リーシング条件交渉の柔軟さが失われて、タイミングを逸してしまいました。こうした判断の硬直が、結果的に機会を逃す原因になることは、実際によく起こりがちです。例②:リーシング条件の調整を先に進めたが、築古ビルのネガティブな印象が先行して失注したケース別の物件では、フリーレントの余地を引上げ、実質的な賃料引下げにまで踏み込んだので、早々に問合せがあり、いくつかの内見のアポを取り付けました。しかし、実際に物件を内見したテナント担当者からは、「床が古く、使用感が気になった」「照明が暗めに感じられて、印象がぼやけた」といった感想があり、最終的に成約には至りませんでした。条件面では前向きだったのに、肝心の築古ビルの印象が先行してしまって、一歩届きませんでした。見映え改善のため、なにかをしておけば、多少なりとも印象を挽回できた可能性があったかもしれません。このように、「どこから手をつけるべきだったか」の順番がズレるだけで、成果を逸することがあるのです。 二者択一ではなく、順番の組み立ての問題 この例から学ぶべきは、「リーシング条件と見映え改善、どちらを先にやるべきか」という正解探しの話ではないということです。空室を埋めるために効果的な対応はどちらか一つでもありませんし、どちらを先にするのかという順番に絶対はありません。大事なのは、その物件の状況、周辺環境、テナントのターゲット像、募集のスケジュール感などを踏まえて、「どこから手をつけるべきか」を組み立てる視点を持っているかどうかです。限られた時間や予算の中で「どこから着手するか」を見極めることが、結果の差につながるのです。ズレた改善の多くは、実は「改善が間違っていた」のではなく、「その改善を今やるべきだったのかという順番の見誤り」に起因しています。「やったのに決まらない」と感じたときこそ、次の問いとして、「順番は正しかったか?」を静かに差し込んでみる。そうした視点の有無が、空室の長期化と早期成約の分かれ道になるかもしれません。 第5章:「選ばれない」理由が伝わってこない構造 空室が長期化している物件に共通するのは、「改善はしているし、管理にも手をかけている。なのに、決まらない」というオーナー・ビル管理会社側の実感です。そしてもう一つ、現場でよく聞かれるのが、「なぜ選ばれなかったのかが分からない」「特に悪いと言われたわけでもないのに、他の物件に決まってしまった」という声です。この理由の見えなさは、テナント側の意思決定の特性だけでなく、情報がすれ違う構造そのものに起因していると考える必要があります。 テナントは「選ばない理由」を語らない テナントが物件を決めるとき、その理由はシンプルなことが多く、「条件が合ったから」「担当者の対応が良かったから」といった前向きな説明で語られます。しかし、逆に「なぜ選ばなかったのか」は、あまり明確に伝えられることがありません。それが「とくに悪くはなかったんだけど…」のような、曖昧な印象の差に帰着してしまうことも多いのです。とくに中小規模の賃貸オフィスでは、テナントの意思決定が少人数でなされることも多く、感覚的な要素が判断に与える影響が大きいにもかかわらず、そうした「印象の引っかかり」が明示的にフィードバックされることは稀です。その結果、オーナー・ビル管理会社側は「悪かったのはここです」とは言われずに、悪くはなかったのに選ばれなかったというモヤモヤした感覚だけが残ることになります。 フィードバックが共有されにくい構造 この理由の不在をさらに見えづらくしているのが、現場の情報が組織内で共有されづらい構造です。内見時のテナントの様子や、何気ない発言のニュアンスから、「少し使いづらそうだったかもしれない」「雰囲気が合わなかったのかもしれない」と感じたとしても、それが担当者の個人的な印象として止まってしまい、オーナーとビル管理会社が情報、認識を共有するには至らないというケースは多く見られます。また、ビル管理会社のリーシング担当とビル・メンテナンス(BM)担当といった縦割り組織の情報断絶も、見逃すべきではありません。実際、「物件の印象は良かったです」という、内見時のテナントの表面的なコメントが社内日報で共有されたとしても、どこがあと一歩足りなかったのかといった本質的な感覚は、ほとんど伝わっていないことがよくあります。 「選ばれなかった理由」は、そもそも記録されていない 構造的な問題は、「選ばれた理由」は、成約レポートのなかでコメントされて残るのに対して、「選ばれなかった理由」は記録されないという点にもあります。テナント側が検討の末に選ばなかったとしても、その選ばなかった理由は、問い合わせのメールのやり取りのなかの1行、電話での一言、現場スタッフの主観的な印象の中に断片的に感じとられる他なく、それがきちんとレポートされることはほとんどありません。この結果、オーナー・ビル管理会社側が「どこを見直すべきだったのか」を判断するデータが蓄積されず、同じようなズレた改善が繰り返される温床にもなっています。 「選ばれなかった理由」をつかむには、言語化されない部分を拾うしかない この構造のなかで、唯一改善のヒントになるとすれば、それは内見時のテナントの微細な反応や、曖昧な感想の行間にある「小さな違和感」です。・どのタイミングで、見学のテンポが変わったか・どこで質問が止まったか・図面に印をつけなかったポイントはどこだったか・なるほど」と言われたあとに、目線が沈んでいた箇所はどこかこうした非言語的な拒否反応をどう拾うかが、次の改善や対応の質を左右する手がかりになります。それは、明確な「ここが悪かった」という批判ではなく、言語化されないまま流されていく不一致の感覚を、現場がどう捉えるかにかかっているのです。 まとめ:「伝えられる理由」に頼らず、「伝わらない違和感」を拾い直す 選ばれない理由が明示されない以上、オーナー・ビル管理会社側がすべきなのは、「選ばれなかったのはなぜか?」という問いに、直接の答えを求めることではありません。むしろ、「この改善は、誰にどう見られ、どう受け止められていたのか」を、伝えられなかったサインの中から逆算していく作業が必要なのです。「とくに悪いとは言われなかった」というのは、何も悪くなかったのではなく、よくするための違和感が共有されなかったというだけかもしれない。その認識の違いこそが、ズレた改善、ズレた順番、ズレた判断につながっていくのです。 第6章:「わかっているのに動けない」――実務の制約と意思決定の限界 ここまでの章では、「なぜ改善しても決まらないのか」「何がズレていたのか」について、多角的に見てきました。どの章でも繰り返し浮かび上がったのは、対応そのものが悪いのではない。ズレていただけだという構造です。改善の方向性を問い直し、優先順位を整理し、感覚的な違和感を拾い上げていくことで、成果につながりやすい判断のあり方が見えてくる。そのような整理ができれば、次は「どう動くか」の段階です。しかし実務の現場では、「それでも実際にはなかなか動けない」という壁にぶつかることも少なくありません。「やるべきことは見えてきた。でも、動けない」。本章では、その動けなさの背景にある構造と、改善の実行可能性をどう捉えるかという論点に目を向けていきます。 わかっていても、動けない。という現実 たとえば、「見映えの改善だけでは足りない。リーシング条件の柔軟な対応が必要だ」「もう少し早くトイレを更新しておけば、テナントの反応が違ったかもしれない」といった振り返りが、ビル管理会社内で共有されたとします。そうした共通認識があれば、「次こそは正しく対応しよう」という前向きな意識が生まれるのが自然です。ところが、いざ「では次に何をやるか」となると、話が止まってしまう。オーナーの意向確認、工期やテナントとの調整といった現実的な手間に加え、「失敗したくない」「動いても成果が保証されないかもしれない」という心理的な迷いもまた、実行判断をためらわせる要因となります。 改善を止める“限界”は二種類ある そもそも、改善に踏み切れない理由の説明には困りません。まず、築古の賃貸オフィスビルには、構造的・法的に避けられない物理的限界があります。・天井高が足りず、照明や仕上げによる印象改善にも限界がある・空調のゾーニングが分かれておらず、柔軟なレイアウト変更に対応しにくい・給排水の位置の関係で、トイレ、水回りの移設や間取りの柔軟化が困難・エレベーターや共用部の位置が構造上、固定され、導線が変えられない・消防法や建築基準法が改修内容を制限しているこうした条件は、「やったほうがいいと分かっていても、そもそもできない」明確な壁として存在します。また、それ以上に動きを止めているのが、戦略的な判断によるブレーキです。これは、物理的に不可能なわけではないが、「やっても回収できない」「費用対効果が読めない」という判断のブレーキです。・この立地・築年数・広さで、どこまで賃料プレミアムを狙えるのか?・100万円以上かけた改善が、どれだけ成約に寄与するのか?・いままで十分に改善してきたのに、さらにコストを投下して、満足なROI(投資収益率)を確保できるのか? “実行しない”ことも判断。ただし、停滞とは違う もちろん、「改善しない」こと自体が、即誤りだとは限りません。上記で説明したように実行が物理的に出来ない限界もありますし、戦略的な判断として動かないこともありえます。検証された根拠と戦略的な狙いが伴えば、判断としての静止であり、十分に合理的です。しかし問題なのは、その判断が明確に言語化されず、結果として“動いていないだけ”になってしまうケースです。・誰も「やらない」とは言っていない・しかし「やる」とも言われない・話は出ているが、進捗がない・判断の責任が明確でなく、話が止まってしまうこうした宙づりの状態では、改善が遅れているというよりも、「止まっていることに慣れてしまっている」と言ったほうが適切かもしれません。この静かな停滞こそが、空室長期化の背景にある構造の一つと言えようかと思います。 まとめ:できることに集中するために、“できないこと”を整理する 改善には限界があります。動かない理由にも、根拠があります。だからこそ、「何ができるか」だけでなく、「何ができないか」も含めて、自分たちの判断軸を明確にしておくことが、空室対策の出発点となります。・どこまでが物理的な制約なのか・どこからが心理的なブレーキなのか・どこまでが戦略的な判断なのか・何をあきらめ、何に集中すべきなのかこうした点を明らかにしないで、「とにかく何かやろう」と闇雲に動いてしまえば、それはそれで、またしてもズレた改善に陥るリスクがあります。本当に必要なのは、「やるか・やらないか」の二者択一の判断ではなく、「どこまでやれるのかを冷静に見極め、そのうえで確実に動く」という判断の質です。動けない理由を言い訳にせず、選びきる力として意思決定を再設計すること。それが、築古の賃貸オフィスビルが再び選ばれる存在へと近づくための、もう一つの条件なのではないでしょうか。 第7章:「全部はできない」から考える――空間の構成を再設計する 築古の中小型オフィスビルでは、「すべてを完璧にすれば選ばれる」という発想自体が、現実的ではありません。物理的な制約、予算、判断力の限界もある。とはいえ、何もしなければ空室は埋まりません。では、「全部はできない」状況の中で、何をどう構成すればよいのか。本章では、その空間の構成の再設計について考えていきます。 「どこをやるか」ではなく、「どこまでにしておくか」 改善の効果は、必ずしも「手をかけた量」と比例するわけではありません。むしろ、どこまで手を加えるか、どこで止めるか――そのバランスの見極めこそが、結果を左右します。・体の佇まいに対して、エントランスだけが妙に華美で浮いてしまっている・古さを打ち消そうとして一部の設備だけを更新した結果、周囲との違和感が目立つこうした「ちぐはぐさ」こそ、テナントが敏感に察知するズレの正体です。これは設備の新旧やスペックの優劣ではなく、「空間全体の構成の問題」そのものです。 「ズレない空間構成」は、足し算よりも引き算に宿る 改めて強調したいのは、「ズレのない構成」とは、派手な演出や目に見える差別化を狙うことではないということです。むしろ、余計なものを削ぎ落とし、建物としてのまとまりを乱さないことのほうが、結果としてテナントに選ばれる物件へとつながります。・ビルの規模や立地と調和した素材を選ぶ・既存の構造や動線を邪魔しない照明・サイン計画・明確な意図が読み取れる、シンプルで過不足のない内装デザインこれは、「目立つ差別化」ではなく、「自然な調和」を重視することが、テナントに安心感や納得感を与えるということでもあります。 ブルーノ・タウトが桂離宮に見た、「構成の美学」 この「空間構成による改善」の考え方を深める上で、ブルーノ・タウトの桂離宮の見方が、意外にも参考になります。タウトは桂離宮を訪れた際、「泣きたくなるほど美しい」と評し、その美の本質を次のように語りました。「趣味が洗練の極致に達し、しかもその表現が極度に控え目である」※ブルーノ・タウト『日本美の再発見』(岩波書店)より。つまり、装飾を削ぎ落とし、空間の関係性と要素同士のバランスにすべてを委ねることこそが、桂離宮の美しさであると指摘したのです。桂離宮には、豪華な装飾や圧倒的なシンボル性は存在しません。しかしその空間には、過不足のない均衡と自然な連続性があり、使い手が何の説明も受けなくとも納得できる、明快な構成が施されています。この姿勢は、築古の中小規模オフィスビルの改装にあたっても、深く通じるものがあるのではないでしょうか。限られた条件の中で、余分なものを足さず、むしろ「空間全体を調律する」こと。それこそが、今改めて求められる実務的な「改善の本質」なのではないでしょうか。 まとめ:「構成する」とは、空間を信じて余白を残すこと 築古の賃貸オフィスビルの改善で迷ったときに求められるのは、「もっと良く見せよう」と付け足すことではなく、「違和感のない状態で止める」という決断です。それは、華やかさやコストをどこまでかさ増しできるのかを追求するのではなく、「建物の文脈に合った素直な空間構成」を選択することです。つまり、「何も説明しなくても意図が伝わる空間」をつくるということです。・手を加えすぎない。・装飾しすぎない。・背伸びしすぎない。それでも「なぜか納得できる」とテナントに感じさせる空間構成には、「設計の精度」と「空間そのものへの信頼」が宿っています。改善の本当の価値は、こうした構成への意識的な見極めと選択の蓄積によってこそ生まれる――「全部はできない」からこそ、選ばれる空間の作り方が徐々に見えてくるのではないでしょうか。もちろん、桂離宮のような完成度を築古オフィスビルにそのまま持ち込むことはできません。しかし、そのような空間を意識して設計を見直すことが、「構成の精度」を高めるための、第一歩になるはずです。 第8章:「改善する」から「選ばれる」へ――築古ビルがとるべき次の一手 ここまで本コラムでは、築古の中小規模オフィスビルにおいて、どのような取り組みが「決まらなさ」につながってしまうのかを検証してきました。・改善の方向性のわずかなズレが、その効果をブレさせる・対策を講じているのに、なぜか選ばれない・判断は繰り返され、なぜか停滞する・やったことが評価されず、やらなかった部分だけが印象に残るこうしたなぜかうまくいかない現象の背後には、改善そのものではなく、その選び方や組み立て方の問題が潜んでいました。本章では、その総まとめとして、「では何が選ばれる結果を生み出しているのか」を、あらためて捉え直してみます。 問題の本質は、“何をしたか”よりも、“どう構成されたか”にある これまで取り上げてきたように、多くの築古の賃貸オフィスビルでは、一定の対応がすでに施されています。・トイレは数年前に更新済み・照明器具はすでにLED化済み・エントランスも改装済で、一応はキレイになっているそれでも、反応が薄い。手応えがない。このときに見落とされているのは、ひとつひとつの施策の良し悪しではなく、それらの「組み合わせ方」「見え方」「伝わり方」です。選ばれなかった理由は、それぞれの施策がダメだったからではなく、「全体として何かがちぐはぐに見えた」から。つまり、結果に影響するのは“判断の構成”そのものなのです。 必要なのは、“意味が通る仕上がり”であること なにがしか改善して、設備を新しくすれば、清掃を強化すれば、効果が上がって、テナントの印象が上が――それは一部では正しいかもしれません。しかし今、テナントが感じ取っているのは、そうした「改善の量」ではなく、場としての説得力や、一貫した背景の見え方です。・ぜこの部分だけ新しく、他はそのままなのか・なぜ余白があるのか、あるいはなぜ埋め尽くされているのか・実際に使う場面を想像したとき、どこに「違和感」が出てくるのかこの「違和感のなさ」こそが、選ばれる理由になりつつあります。それは、個々の部分の出来ではなく、空間全体の構成としての納得感に寄与する要素です。 桂離宮に見る、“構成の精度”という考え方 前章でも触れたブルーノ・タウトによる桂離宮の評価は、まさにこの「構成の精度」への着眼でした。装飾に頼らず、素材の力を引き出し、配置の釣合いによって全体を成立させる――この考え方は、築古ビルにおける改修判断にも通じるものがあります。派手な演出を施さずとも、空間の連続性や要素の呼応がきちんと感じられるかどうか。仕上がりが目立たないことで、むしろ好印象を残すこともある。このような「何も主張しないことで、意味が通る仕上がり」は、これからの賃貸オフィスビルの選ばれ方を考えるにあたっても、ひとつの方向になるでしょう。 重要なのは、どこまでやるかではなく、なぜそうしたのかが説明できるか 築古の賃貸オフィスビルを改善するにあたって、予算や構造上の制約が必ずあります。全部を刷新できるわけではない。けれども、どこを触り、どこを触らないかという選択の精度が高ければ、結果には大きな差が出ます。・あえて手を入れなかった箇所が、空間全体の呼吸をつくっている・目立たない処理が、入居後の安心感を下支えしている・「ここまででいい」と判断された更新が、逆に信頼を生んでいるこうした仕上がり方には、計画と実行のあいだの判断が丁寧に組み立てられていることが共通しています。 まとめ:仕上げるのではなく、“選ばれる構成”を組み立てる 本コラムの冒頭で触れたように、「対応して、改善しているのに決まらない」という悩みは、いまや築古の賃貸オフィスビルにおいて共通する課題となっています。それに対する答えは、単に「もっとやる」「もっと見せる」ことではありません。むしろ、「どこまでで十分か」「どう見せればズレが起きないか」――そうした判断の濃度と構成が、差を生んでいます。選ばれるビルには、目立たないけれど、判断の一貫性と背景の納得感がある。その空気をつくるのは、建材や演出ではなく、計画の構え方です。築古の賃貸オフィスビルが目指すべきは、過剰でも不足でもないちょうどよさを、自分たちなりの構成で言葉にできるようにすること。それが、これからの賃貸オフィスビル市場において「選ばれること」への最短距離ではないでしょうか。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月17日執筆2025年12月17日 -
プロパティマネジメント
「東京の賃貸オフィスビル市場は揺るがない。でも、"決まる"ビルと"決まらない"ビルの差はすでに始まっている。」
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事「東京の賃貸オフィスビル市場は揺るがない。でも、"決まる"ビルと"決まらない"ビルの差はすでに始まっている。」のタイトルで、2025年12月16日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次第1章:なぜ東京の賃貸オフィスビル市場は「揺るがない」と言われ続けるのか第2章:「決まるビル」「決まらないビル」の差はどこに現れるか第3章:目立たない「選ばれない兆候」とは第4章:表面的リノベーションだけでは埋められない差第5章:なぜオーナーは変化に即応できないのか――現場と経営の静かなギャップ第6章:変わり続ける前提に応じた、小さな実務更新を積み重ねる第7章:静かに、しかし着実に備える――安定市場におけるオーナー実務の深化 第1章:なぜ東京の賃貸オフィスビル市場は「揺るがない」と言われ続けるのか 1-1.東京の賃貸オフィスビル市場の「安定神話」 東京の賃貸オフィス市場は、長期にわたり安定という評価を受け続けています。実際、空室率の推移を見ても、世界的な経済危機やパンデミックといった外部ショックにより一時的な上昇はあったものの、主要5区・7区では3〜4%台という比較的低水準で推移しており、致命的な崩壊には至っていません。賃料についても、リーマン・ショック時の一時的な下落を除けば、じわりと上昇し続け、急落する場面はほとんど見られませんでした。過去を振り返れば、コロナ禍により一時的に空室率が急上昇した局面はありました。しかし、その後、需給バランスの回復とともに空室率は低下に転じました。リモートワーク普及によるオフィス需要減少が懸念されたものの、現在の空室水準を見る限り、東京市場はリモートワーク影響を一定程度織り込んだうえで、なお安定を保っていると評価できます。この「堅調さ」は東京という都市の経済規模、企業集積力、情報インフラの優位性など、複合的な強みに支えられています。だからこそ、外部環境が大きく変動しても、すぐには揺らがない市場構造が形成されているのです。 1-2.安定の裏にある「盲点」 ただし、表面上の安定に安心しきるのは危険だ。空室率や賃料単価といった指標には現れにくい、質的変化が確実に進行しているからです。例えば、成約条件の変化。フリーレント(賃料免除期間)が長期化する案件がじわりと増え、内装工事負担を貸主側が一部引き受けるケースも珍しくなくなってきました。こうした実質的な値引きは、表面的な賃料統計には反映されません。また、ビル間競争も水面下で激化している。立地、規模、築年数だけでなく、建物コンディションや管理品質といった目に見えにくい差が、テナントの選定基準として徐々に重みを増しています。いわば、同じ安定市場のなかで、静かな勝ち組・負け組の分化が進んでいるのです。だからこそ、「表面数値だけを見て安心する」という態度は、実務者にとって大きなリスクとなりえます。空室率が数%台と低水準で推移する東京においても、ビルは自然に決まるわけではない。そこに気付けるかどうかが、今後の成否を分けるのです。 1-3.なぜ「揺れ」が目立たないのか 東京の賃貸オフィス市場においてミクロな揺れが目立ちにくい理由は、いくつかあります。第一に、マーケット全体の供給規模とテナント需要のバランスが絶妙に維持されていること。大規模な新規供給が出ても、都心部需要の強さがそれを吸収し、表面的なバランスを保ってしまいます。第二に、中小賃貸オフィスビルの細かな動きがデータに反映されにくい構造がある。空室率や平均賃料などの集計は、大規模賃貸オフィスビル中心に数字を対象として集計する設計になりやすく、築古・中小規模の賃貸オフィスビルで起きている微細な劣化や成約難は、集計された数字上では可視化されにくいのです。第三に、テナント側の行動変容も緩慢であること。オフィス移転は多大なコスト、労力、そしてリスクも伴うため、多少の不満があっても即座に退去には結びつきにくく、結果として、現場レベルでは細かい違和感が積み重なっているにもかかわらず、市場全体としては「安定」に見えるというギャップが生まれています。 1-4.まとめ:安定を疑うのではなく、微差に気づく目を持つ 東京の賃貸オフィスビル市場の「安定」は確かに事実であると言えます。しかし、全体として安定しているからといって、すべてが変わらず順調だというわけではありません。むしろ、全体として安定しているからこそ、微細な変化や兆候に気づきにくくなるリスクが高まっています。表面的に集計された数値に現れないズレ。成約条件の微差。テナントニーズの静かな変容。これらにいち早く気づき、対応できるかどうかが、これからのオーナー・実務者に問われています。安定を信じつつ、同時に「静かな揺れ」に敏感であること。それが、次の10年を乗り切るための実務感覚です。 第2章:「決まるビル」「決まらないビル」の差はどこに現れるか 2-1.成約リードタイムの違い 空室になってから成約に至るまでのリードタイムは、賃貸オフィスビルごとの競争力を映し出す実に重要な指標です。募集開始から成約までのスピードには、立地や賃料水準だけでは説明しきれない要素が潜んでいます。リードタイムが短い賃貸オフィスビルは、物件情報が公開された直後から問い合わせが入り、案内・打診・成約というプロセスが比較的スムーズに進む傾向があります。こうした物件は、立地条件や物理スペックが一定以上であることに加え、エントランスや共用部のコンディション、管理対応の信頼感、入居後を見据えた安心感など、見えにくい付加価値が効いているケースが多いのです。逆に、リードタイムが長引く賃貸オフィスビルには、明確な致命傷こそないが、総合的な評価で後回しにされる微妙な引っかかりが存在しています。例えば、空調の古さ、室内の暗さ、共用部清掃の雑さなど、数字やスペック表には現れにくいが、内見時に確実に印象を左右する要素なのです。重要なのは、こうしたリードタイム差は、募集開始から早い段階で現れるという点です。初動が鈍い場合、条件見直しや物件調整に迅速に動けるかどうかが、最終的な成否を左右します。 2-2.フリーレント・内装負担交渉の有無 次に注目すべきは、成約交渉時の譲歩要請の有無なのです。成約にあたって、テナント側からフリーレントの延長や内装工事費用の一部負担を求められる場面が増えている。これは一見すると、単なる市況対応の一環に見えるかもしれません。しかし、実態としては、貸主側が条件面で歩み寄らなければ成約が難しいという、競争力低下のサインであることが多いのです。フリーレントは、表面的な賃料単価を維持しつつ、実質的に値引きを行う手段なのです。これが長期化・大型化するということは、賃料水準に対する市場の受容度が低下している裏返しとも言えます。また、内装費用負担の要求は、物件自体のスペック(天井高、空調、レイアウト柔軟性等)に不満があることを示唆するサインでもあります。つまり、決まるビルは、こうした譲歩交渉を最小限に抑えながら、スムーズに契約をまとめられます。一方、決まらないビルでは、貸主側の負担コストが水面下で積み重なり、収益性をじわじわと侵食していくのです。 2-3.内見後フィードバックの質 内見後にテナント側から得られるフィードバックは、極めて貴重な市場の声だ。ここにも、ビルの競争力差が如実に表れます。前向きな検討を進めるテナントは、たとえネガティブな要素があったとしても、それを具体的に指摘してくる。たとえば、「レイアウト変更が必要だが、コスト次第で検討したい」とか、「照明の暗さが気になるので改善案を出してほしい」といった具体的コメントが返ってきます。これに対して、検討対象外と判断された場合、フィードバックは曖昧になるか、最悪の場合は無言になる。「一旦持ち帰ります」「また社内で検討します」という形式的な回答が続いた後、自然消滅するパターンです。重要なのは、こうしたフィードバックの質を敏感に読み取り、案件進行の温度感を早期に把握することだ。無言や棚上げのサインが出たら、条件や訴求方法の見直しを迅速に検討すべきです。 2-4.条件以外の要素への目線 賃料や立地だけでは、もはや賃貸オフィスビル選定の決め手にならない時代が到来しています。テナント側の目線は、快適な日常を支える運営品質に鋭く向けられています。たとえば、空調の温度管理が適切か、エレベーター待ち時間が許容範囲か、共用部のトイレ清掃が行き届いているか。こうした細部への配慮が、入居後の満足度を大きく左右することを、実務担当者たちは肌で理解しています。さらに、問い合わせ段階からの対応スピード、内見時の案内品質、契約締結までのレスポンス力も、賃貸オフィスビルの印象形成に直結します。賃貸オフィスの選定は、単なるハードスペック勝負から、ハード×ソフトの総合評価へと確実にシフトしているのです。 第3章:目立たない「選ばれない兆候」とは 空室が長期化する前には、必ず何らかの「兆候」が現れています。しかし、その兆候は大抵、明確なデータや大きな異変として表れるのではなく、問い合わせ内容や案内後の反応といった、微妙なニュアンスに滲む形で現れます。本章では、表面上は変化がないように見えても、静かに「選ばれにくさ」が進行している兆候を、どのように見極めるかを整理します。 3-1.問い合わせ数の変化に潜むサイン まず、注視すべきは単純な問い合わせ件数の増減ではありません。問い合わせ数自体は、季節要因や景気動向によって変動するため、一時的な増減だけで物件力を判断するのは危険です。むしろ重要なのは、問い合わせの「質」です。たとえば、・明確なニーズを持って問い合わせてくる件数が減り、・「とりあえず資料だけ欲しい」「まずは内見だけ」というような、温度感の低い打診が増えている。こうした傾向が見えた場合、物件自体への関心度が相対的に低下しているサインだと捉えるべきです。問い合わせがある=安心、ではありません。問い合わせの質が下がっている=「候補にしてもらうスタート地点」にすら立てなくなりつつある、この危機感を持つ必要があります。 3-2.案内後の反応鈍化 さらに注視すべきは、内見後の反応の変化です。以前であれば、内見後すぐに、・具体的な質問・条件交渉・賃料や入居時期に関する打診といった、積極的な動きが出ていたはずです。しかし、兆候が進行すると、・「社内で検討します」・「上層部に確認します」といった引き伸ばし型のリアクションが増え始めます。これは、表面的には前向きな姿勢を保っているように見えますが、実際には物件選定の優先順位が下がっている状態を示しています。特に注意すべきは、「明確な断りがないまま、フェードアウトを狙うケース」が増えることです。これに気づかずに条件引き下げを持ちかけると、かえって物件の市場価値を毀損してしまうリスクもあるため、反応の「質」を冷静に読み取る力が求められます。 3-3.競合比較時に受ける"消極的な評価" また、競合物件との比較過程でも、消極的な評価が現れることがあります。たとえば、・「駅から若干遠いが、賃料が安いから一応候補にしている」・「設備は古いけど、広さがちょうどいいから検討リストには入れている」といったコメントです。これは、表面的には検討対象に入っているように見えますが、本命として積極的に選ばれているわけではないことを示しています。テナント側の心理として、・少しでも条件の良い競合が出れば、即座に乗り換える・ちょっとした減点ポイントでも、あっさり脱落するというリスクが潜んでいます。消極的な比較評価が目立つ場合、すでに「選ばれにくい物件」としてカテゴライズされつつあると認識すべきです。 3-4.見えない減点プロセスに気づくこと テナントの物件選定プロセスは、加点方式ではなく減点方式が基本です。つまり、・初期段階では候補リストに残すが、・案内中に小さな減点を積み重ね、・最終的には静かに「見送り」と判断する。この「見えない減点」が、成約できない最大の原因となります。そして恐ろしいのは、この減点プロセスが目に見える形では表れないことです。・特に指摘もされない・表面的には検討しているように見える・問い合わせ件数も案内件数も一見悪くないこうした中で、静かに、確実に候補から外されていく、このプロセスに気づかないまま放置すると、やがては「空室長期化」という形で、大きなダメージとなって跳ね返ってきます。だからこそ、・案内時の小さな違和感・ちょっとした反応の鈍さ・非言語的なサイン(微妙な間合い、不自然な引き延ばし)こうしたものに敏感になり、表面だけでなく「水面下の動き」を読む力を養うことが、リーシングの担当者に求められており、また、オーナーも認識を共有する必要があるのです。 第4章:表面的リノベーションだけでは埋められない差 築年数を重ねた賃貸オフィスビルにおいて、リノベーションは重要な打ち手の一つです。しかし、単なる見た目の刷新だけでは、テナントからの評価は得られず、結果として空室解消には結びつかないことが少なくありません。本章では、表層的リノベーションの限界を整理し、大規模投資を避けた、機能性重視の改善策に即した、現実的な対応ポイントを整理します。 4-1.リノベーションの目的と期待値ギャップ 多くのビルオーナーが、ビル管理会社と相談をしながら、リノベーションを実施する際、どうしても「見た目の刷新」を最優先してしまう傾向があります。一方で、テナント側の本質的な期待は、実務上の使いやすさ、日々の快適性、そしてランニングコストの削減にあります。例えば、いわゆるデザイナーズ仕様の導入。確かに目を引き、一時的な訴求力を持ちますが、質感や色彩などのデザイン要素にばかり注力した結果、エネルギー効率や空調性能といった「機能の本質」が後回しにされるケースが目立ちます。実例で見てみましょう。●Aビル事例エントランスに高価な大理石パネルを採用し、視覚的には新築同様の高級感を演出しました。しかし、空調設備は旧態依然のままで、夏季に室内の温度ムラが発生し、テナントからクレームが相次ぎました。入居後の不満が募り、結果的に短期解約が続出してしまいました。Bビル事例一方で、視覚的リフレッシュを最小限に留めながら、空調システム更新と二重窓設置に注力したBビルは、快適性と省エネ性能を地道に改善。その結果、竣工2年後も高い成約率と安定した稼働を維持しています。この違いは単純です。「見た目の演出」ではなく、「使って快適かどうか」という実用レベルでの評価が、テナントの意思決定に直結しているのです。したがって、リノベーションにおいて真に問われるのは、期待値ギャップを埋める「本質機能の強化」であることを肝に銘じるべきでしょう。 4-2.基本性能(光熱費・空調)への対応が評価される 現代のテナント担当者は、単に賃料の額面だけを見ていません。電気代、冷暖房費等の効率性といった要素に対しても敏感になっています。ランニングコストが月額で数千円違うだけでも、テナントにとっては長期的には大きな負担差となるからです。内装工事を施す際、こうした点への配慮がリノベーションの成否を左右します。具体例を挙げます。●LED照明の段階的導入全館一括更新ではなく、共用部・トイレ・階段エリア、テナント入れ替え時の入居工事と合わせて、照明器具のLED化を進める。これにより、消費電力を当該入替部分について約30%削減。年間の電気代の負担も低下し、テナント側には「実質賃料の抑制」として好感される効果をもたらします。●空調フィルター清掃・交換の徹底大規模な空調リニューアルに踏み切らなくても、フィルターの月次清掃・交換をルーティン化することで、運転効率を高め、室温の安定性を確保。結果として冷暖房コストを抑えられる。これらはすべて、派手な設備更新をしなくても可能な「着実な改善」です。 4-3.機能性重視のリニューアル 当社が重視するのは、派手なデザイン刷新ではなく、細部の機能維持・更新です。既存仕様を最大限活用しながら、必要最低限の手を加えることで、コスト効率を高めつつ、現場の満足度を上げていきます。代表的な実務対応例を挙げます。●局所補修と再塗装壁や天井の一部に生じた傷・剥がれに対し、フロア全体の塗装ではなく、部分補修+部分塗装で対応。工期も短縮でき、無駄なコストを抑えつつ清潔感を保つことができます。●部分的な床材貼り替え例えば、執務室入口のマット部や、エレベーターホール前のタイル部分など、損耗が激しい箇所だけを重点的に貼り替え。全面リニューアルよりも格段に安価で、ビル全体の印象をリフレッシュできます。さらに、設備・建物の信頼感を高めるためには、地道な定期点検と清掃が何より効果的です。・エントランス・トイレ等、使用頻度が高い共用部の週次拭き掃除・給排水配管の月次漏水チェックこうした小さな積み重ねが、テナントに対して「このビルはしっかり管理されている」という安心感を与えるのです。 4-4.共用部・動線改善による無意識レベルの差別化 賃貸オフィスビル選定の際、テナント側が重視するのは必ずしも物件のスペック表の数字だけではありません。案内体験時に感じる無意識レベルの「好感度」が、成約の大きな分岐点になります。当社では、小規模ビルでも取り組める改善策として、以下を重視しています。●明快なサイン計画フロアインジケーターや誘導矢印を設置し、訪問者・テナント従業員が迷わない動線を確保します。特に、エレベーターホールから執務室までの動線案内は、最小限のコストで大きな効果を生みます。●動線上の照度維持と清掃強化階段・通路の照明をLED化し、明るさを確保。併せて、手すりや床の拭き掃除を重点的に行い、見えない部分での清潔感を演出します。これにより、案内時にテナント担当者が無意識に感じる「管理状態への信頼感」を高め、成約率向上に直結させる狙いがあります。 第5章:なぜオーナーは変化に即応できないのか――現場と経営の静かなギャップ 賃貸オフィスビル経営において、テナント需要の変化や市場環境の揺らぎは、小さな波のように確実に押し寄せています。市場が安定しているように見える今でも、現場では微細な変化が積み重なり、「ズレ」が発生し、「選ばれるビル」と「選ばれないビル」の差を静かに広げつつあります。その変化に対して、オーナー側の対応が遅れる理由は、単純な怠慢でも、無関心でもありません。むしろ、多くのオーナーは状況を何となく理解しながらも、動けずにいるのが実情なのです。本章では、「なぜ動けないのか」という根本原因を掘り下げ、実務改善へのヒントを整理します。 5-1.「静かな変化」への感度の低下 賃貸ビル運営に携わっていると、どうしても「日常が続く」という感覚に陥りがちです。・いままではこの条件で決まっていた・いままではこの清掃水準で問題なかった・いままではこの程度の案内対応で十分だったこうした「これまでと同じ」感覚は、安定している時期には合理的でもあります。しかし、現実には、市場の揺らぎが着実に進行しています。テナントのオフィスに対する考え方、入居基準の微妙な変化(省エネ志向、快適性重視)といった、「小さな変化」に感度を持てるかどうかが、静かな「ズレ」を生み出す第一歩になります。 5-2.「現場からの情報」に対する受け止め方の歪み たとえ現場から小さな異変の兆候が上がってきても、オーナー側でそれをどう受け止めるかによって、対応の質は大きく分かれます。典型的なパターンはこうです。【現場】:「案内の反応が鈍くなってきた」「フリーレント交渉が前より強気になった」案内時のフィードバック傾向の変化(ちょっとした使い勝手への不満点の指摘が増加)【オーナー受け止め】:「たまたまだろう」「今すぐ動くほどではない」つまり、小さな異変を大きな問題と認識できず、軽視してしまうのです。この「受け止め方の歪み」が、変化への初動を遅らせ、さらにズレを拡大させる原因になっています。・何かが大きく壊れるまで、動かない・気づいた時には手遅れこうした事態を避けるためには、現場から上がる違和感を、「小さいからこそ早く動くべきシグナル」と捉える視点が不可欠です。 5-3.「分かっていても動けない」オーナー心理の正体 では、仮に状況を正しく理解していたとして、なぜオーナーは動けない、あるいは動かないことがあるのでしょうか。そもそも、小さな異変に対する対応は、その場限りのものではありません。たとえ個々の打ち手が小さな改善に過ぎないとしても、小さな異変の正しい認識に基づき、中期的に「ズレ」を修正し、正しい方向へ事態を収束させていくべきものである――この点について、オーナー自身は、たとえ明確に言語化していなくても、直感的には理解しているはずです。にもかかわらず、小さな異変を認識し、その改善の意義も分かっていながら、なぜ動くことができないのでしょうか。その背景には、次のような現実的な内面要因が複雑に絡み合っています。(1)対応するリソース不足時間、人手、予算といったリソースが常に逼迫しており、「分かってはいても、手が回らない」という切実な事情が存在します。優先順位を付ける中で、目先のトラブル対応やコスト管理に追われ、小さな異変に対する小さな改善は、どうしても後回しにされがちです。(2)効果への確信の欠如たとえば、「サインを一枚直しても、成約が決まる保証はない」「募集資料の写真を更新しても、本当に効果が出るか分からない」といった、効果がすぐには可視化されにくい改善に対して、慎重姿勢が強まり、結果として動きを止めてしまう心理メカニズムが働きます。(3)小さなことを軽視する感情バイアスさらに、無意識のうちに、「そんな小さなことに手間をかけるのは無駄だ」「もっと大きなリノベーションや抜本策の方が意味がある」といった感情バイアスに引きずられ、本来であれば重要な「小さな改善」を格下扱いしてしまう傾向も見られます。これらの要因が複合的に絡み合い、状況も理解している、やるべきことも分かっている、にもかかわらず、動けない・動かないという現象が生まれているのです。 第6章:変わり続ける前提に応じた、小さな実務更新を積み重ねる 賃貸オフィスビル経営は、安定しているように見える局面であっても、テナント側のニーズや市場環境の微細な変化によって、静かに地殻変動が進んでいます。こうした変化は、賃貸ビル市場全体のデータには現れにくいものの、確実に蓄積していきます。この静かな変化に対して、オーナーがビル管理会社と連携して実務において、どれだけ柔軟に対応できるか――そこが、これからの競争力を左右します。本章では、派手な改革ではなく、小さな実務更新を着実に積み重ねるための考え方を整理します。 6-1.「今まで通り」では通用しないことを前提にする 賃貸オフィスビル運営において、つい「これまでと同じで問題なかったから、今回も大丈夫だろう」と考えてしまいがちです。しかし、実際には市場環境もテナントの価値観も、目に見えないレベルでじわじわと変化しています。例えば、・賃貸借契約における細かな条件(保証金水準、更新料の有無など)に対する要求がシビアになってきた・オフィスの「使い勝手」への期待水準が上がり、従来より細かい不満が出やすくなったこうした変化は、単発では大きな影響を及ぼしません。しかし、対応を後回しにすると、じわじわと競争力の低下に直結していきます。つまり、「今まで通り」こそがリスクである、という認識に立つ必要があるのです。 6-2.募集条件の微調整と対抗物件比較の地道な積み重ね 空室募集においても、細かな条件設定の見直しが欠かせません。単に以前と同じ条件をコピーするのではなく、最新の競争環境とのズレをきちんと検証する姿勢が重要です。具体的には、・保有賃貸オフィスビルの仕様(面積、設備スペック、共用部整備状況など)を正確に整理し、・同エリア内で競合する対抗物件の賃料水準を、仕様を踏まえての比較・賃料単価、保証金、更新料といった条件が、過不足なく市場水準と整合しているかを確認これらの作業をビル管理会社と連携して進めることによって、保有賃貸オフィスビルのどのポイントに強みがあり、どの点で微修正が必要かを見極めることができます。この地道な調整の積み重ねが、「成約スピードが鈍る前に、食い止める」ための実務基盤になります。 6-3.運営品質の維持と即応の地道な実践 賃貸オフィスビル運営における日常のメンテナンスも、「当たり前のことを、当たり前に続ける」ことが最大の差別化ポイントになります。・ビル管理会社の月次レポートで清掃状況や設備点検の結果を確認する・ビル管理会社の担当が巡回時に発見した小さな修繕ポイント(たとえば、蛍光灯切れや床材の浮きなど)に対する即対応を徹底する・設備不具合が起きた場合には、応急対応だけでなく、再発防止まで視野に入れて措置を検討するよう、ビル管理会社と意思統一するこれらは一つ一つは地味な作業です。しかし、こうした地道な運営管理の積み重ねが、テナントからの信頼感につながり、結果として空室リスクの低減につながっていきます。特別な新施策を打ち出す必要はありません。既存の仕様・水準を、ぶらさずに、きちんと維持していくことこそが、静かな市場変動に耐える実務対応です。 まとめ 変化が大きく見えないからこそ、オーナー自身が「小さな変化を前提とした柔軟な運営感覚」を共有することが求められます。・今まで通りを疑う力・募集条件の微調整を怠らない姿勢・日常管理の地道な即応力これらを丁寧に積み上げていくことが、結果的にビルの競争力を守り抜く力になります。大きな変化を待つのではなく、日々の「小さな更新」を静かに続ける――それがこれからのオーナーにとっても、最も重要な実務基盤となるのです。 第7章:静かに、しかし着実に備える――安定市場におけるオーナー実務の深化 賃貸オフィスビル市場は一見安定しているように見えますが、その内側では、テナントニーズの変化、コスト構造の揺らぎ、競争環境の微妙な変化が、静かに進行しています。これらに対して、大きな改革を打ち出すことだけが対応策ではありません。むしろ、安定市場だからこそ必要なのは、「静かに、しかし確実に備える」オーナー実務です。本章では、その備え方を、具体的に整理していきます。 7-1.「守るべきもの」と「見直すべきもの」を区別する すべてを刷新する必要はありません。ビルの資産価値や運営方針にとって、守るべきものと、見直すべきものを峻別する視点が必要です。建物自体の基本スペック(構造、立地、基本設備)は大きく変わらない一方で、・募集条件の表現・空室募集の初動スピード・日常管理オペレーションこれらの「運用に属する部分」は、時代や市場に応じて柔軟に見直すべき対象となります。安定市場では、守るべきコアと、変えるべきフローを冷静に切り分ける目が求められるのです。 7-2.小さな改善を継続するための実務視点 静かな市場変動に対応するために、必要なのは「特別な施策」ではありません。むしろ、・空室時のリーシング条件レビュー・いつもの共用部・設備点検を踏まえた必要補修のとりまとめ・日常運営における即応型の小修繕対応といった、小さなサイクルを地道に回し続けることが、本質的な備えになります。大きな変化を待ってから動くのではなく、「変わり続けることを前提に、微修正を積み重ねる運営感覚」こそが、長期的な資産価値維持・空室リスク抑制に直結します。 7-3.変化を前提とした「耐性」を静かに育てる 安定しているように見える東京の賃貸オフィスビル市場でも、テナント需要の揺らぎ、コスト構造の変化、法律・制度の改定など、外部環境要因は静かに、しかし確実に変わっていきます。これに対して必要なのは、・「変わらないこと」を前提に運営することではなく、・「変わること」を前提に耐性を育てていくことです。小さな点検、小さな補修、小さな条件見直し――それらを積み上げることで、いざというときに柔軟に対応できる「運営耐性」を築くことができます。これが、安定市場における真のリスクヘッジになります。 まとめ オフィスビル市場の安定は、変化を無視してよいということではありません。むしろ、・小さな変化を前提に、・小さな改善を積み重ね、・静かに耐性を育てる。この地道な実務感覚が、これからのオーナーに求められます。──賃貸オフィスビルの運営は、不動産だと思っているだけでは間違う。本当は、ちょこちょこ動き続けなければいけない仕事なのだ。地味でありながら確実な運営改善の積み重ねこそが、選ばれ続けるビルを育てていくのです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月16日執筆2025年12月16日 -
ビルメンテナンス
築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:前編
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点」のタイトルで、2025年12月15日に執筆しています。コラムの内容が多岐にわたり、長くなったので、前後編に分けてお送りします。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに1.設備クレームを「発生源×緊急度」で分類する。2.原因究明プロセスを“見える化”する3.テナント・コミュニケーション3ステップ4.応急処置vs.恒久改修 費用対効果の見極め はじめに 築30年を超えるビルでは、空調・給排水・電気・昇降機といったライフライン系設備の故障頻度が急激に高まります。実際に不動産管理会社200名への調査では「故障が多い設備」のトップがエアコン36%、次いで給湯器30%、水道25.5%と水と空気を支えるインフラが上位を独占しました。出典:GMO賃貸DX編集部による独自アンケート「故障が多いと思う設備」(2021年/不動産管理業従事者200名対象)こうしたトラブルはテナントの事業継続と満足度に直結します。夏場の空調停止は室温の上昇だけでなく熱中症リスクを招き、エレベーターの長期停止は高層階テナントの移転検討を誘発しかねません。ビル管理会社の調査でも「故障・トラブルへの対応の速さ」は5点満点中4.2と評価が高く、迅速対応が信頼維持の生命線であることが裏付けられています。出典:平成ビルディング「お客さま満足度調査2024年度」経営面への影響も深刻です。ザイマックス総研のオーナー調査では「築古に伴う修繕費の増加」を不安視する声が72%で最多となり、「賃料下落64%」「空室増加62%」を大きく上回りました。さらに2024年調査では、66%のオーナーが「支出が増えた」と回答し、修繕費・資本的支出については6割超が増加を実感しています。資材高騰と人件費上昇が重なれば、突発的な故障対応がキャッシュフローを一気に圧迫するリスクは無視できません。出典:ザイマックス総研「ビルオーナーの実態調査2025①」本コラムでは、こうした築古オフィスビルの宿命とも言える設備クレームを〈発生源×緊急度〉で整理し、原因究明からテナント・コミュニケーション、応急処置と恒久改修の費用対効果までを、前編で解説します。続いて、後編へと展開して、前後編を通して読み終えたときには・優先順位の誤りを防ぐ判断軸・テナント満足度と修繕コストを同時に最適化する実務ノウハウ・老朽設備を抱えたままでも“選ばれるビル”を維持する戦略的視点を手に入れられるはずです。次章から、現場で即使えるフレームワークとチェック・ポイントを詳しく見ていきましょう。 1.設備クレームを「発生源×緊急度」で分類する。 築古オフィスビルの設備クレームは、ときに同時多発的にやって来ます。「空調が止まった」「給水ポンプから異音がする」「テナント専用Wi-Fiが不安定」──それぞれの訴えは緊急度も被害範囲も異なりますが、現場にいると声の大きさに引きずられがちです。そこで役に立つのが、発生源(何が壊れたか)と緊急度(どれほど急ぐか)を二軸で整理するマトリクスです。以下では、現場で迷わず優先順位を決められるよう、考え方と使い方を順を追って解説します。 (1)発生源を7カテゴリに分ける まずはトラブルの入口をはっきりさせます。 発生源カテゴリ代表的トラブル例特記事項(築古オフィスビル特有の注意点)空調冷媒漏れ、室外機停止旧冷媒R22系の部材調達難給排水漏水、ポンプ故障、悪臭鋳鉄管の腐食進行、階下被害リスク電気停電、分電盤焼損、照明不点灯絶縁劣化による漏電火災昇降機異音、停止、かご閉じ込め制御基板の生産終了品が多いICT共用Wi-Fi障害、通信配線損傷テナントのDX推進で要求水準が上昇セキュリティ入退室カードリーダ故障、監視カメラ死角オートロック未設置物件で増設ニーズ共用部環境照度不足、空気質悪化、騒音照明ゾーニング未対応、断熱性能低 その他を作らず、必ずどこかに分類できるよう定義を明確にしておくことが肝要です。これだけで、後の工程で「結局どの担当部署の仕事なのか」が曖昧にならず、初動のスピードが上がります。 (2)緊急度マトリクスを設計する 次に、どれだけ急ぐかを測る物差しを決めます。私は生命安全→営業継続→快適性の順で3層に分け、それぞれを 高・中・低(3・2・1点)でスコアリングする方法を推奨しています。 影響層高(3)中(2)低(1)生命安全昇降機閉じ込め、漏電火災給排水の大規模漏水なし営業継続全館空調停止、停電階層限定の空調停止部分的な通信障害快適性なし共用部の温度ムラ照明球切れ、騒音 最も高い層の点数をそのまま緊急度スコアに採用します。たとえば昇降機閉じ込めは生命安全=3点、営業継続=2点、快適性=1点ですが、最高点の3を取って「緊急度3」と判定します。こうしておけば、誰が判定しても同じ数字が出るため、担当者が変わっても判断が揺れません。また、同スコア案件が複数ある場合は、影響範囲(テナント数、人数)で順位付けします。 (3)4象限マトリクスで優先順位を即断する 発生源と緊急度が分かったら、「緊急度3×空調」「緊急度1×共用部環境」のように2軸マトリクスにプロットします。現場では下図のような4象限チャートを壁に貼り、該当する象限を指さし確認する運用が効果的です。 ・I象限(緊急度3×影響大)例:全館停電、主幹配水管破裂。→ビル管理責任者が即時判断し、専門業者を同時多発的に手配。館内放送と一斉メールで全テナントへ周知。・II象限(緊急度3×影響小)例:一テナント専用空調の停止。→まず応急処置で温度を確保し、恒久改修の見積を並行取得。・Ⅲ象限(緊急度1×影響小)例:個室照明の球切れ。→巡回点検時に交換し、台帳に記録。・Ⅳ象限(緊急度1×影響大)例:共用部LED劣化で照度不足。→年次改修計画に組み込み、補助金適用の可否を検討。象限を決めた瞬間に、「誰が・いつまでに・いくらで」を判断するテンプレートを引き出せるようにしておくと、初動がさらに早まります。 (4)判断ミスを防ぐ3つの運用ルール─「ルールがある」だけでは機能しない ①一次情報を必ず確認するクレーム受付の電話やメールは、どうしても主観が混ざります。たとえば「ビル全体が停電した」と聞いて駆けつけたら、実際には一フロアの分電盤が落ちていただけ――というケースは少なくありません。・写真・動画・計測値を取得:スマホで撮影したブレーカーの状態やBEMSのアラームログを送ってもらうだけで、緊急度の取り違えを防げます。・現場到着前に一次切り分け:設備主任が到着するまでに警備員が漏水箇所を特定し、止水栓を閉めるだけで被害額が数十万円単位で変わることもあります。②マトリクスを半年ごとに更新する築古オフィスビルでは、設備更新やテナント入替えが頻繁に起こります。にもかかわらず、数年前のマトリクスをそのまま使い続けると誤誘導装置になります。・テナント属性の変化:IT企業が入居してサーバールームを設けた場合、空調停止の営業損失は、それ以前よりも何倍にも跳ね上がることがあります。・法改正・技術進化:非常用照明の基準変更やPSE法(電気用品法)改正で、同じ故障でも法的リスクが増す場合があります。③担当と手順をセットで掲示するどの象限に入ったら「誰が」「何分以内に」「どの業者へ」連絡するか――これを一枚のフローチャートにして、管理室の壁とクラウド共有フォルダに掲示します。・夜間・休日シフトの明確化:日中は設備主任が一次判断、夜間は警備会社→オンコール技術者→専門業者の順に連絡といった時間帯別の責任者を明示。・新人教育の即効性:入社初日のスタッフでも、チャートを指させば初動対応ができるため、属人化を防げます。 (5)現場導入のベストプラクティス ・クラウド設備台帳と連動マトリクスをスマホ画面で選択すると、推奨対応フローが自動表示される仕組みを導入すると、新任スタッフでも迷いません。・想定シナリオ訓練四半期ごとに「夏場に空調が止まった」「深夜に昇降機が停止した」といったケースをロールプレイし、象限判定の精度を高める。・テナント共有ポータルマトリクスの考え方を簡潔に説明したPDFを配布し、「なぜこの順番で対応するのか」を可視化すると、クレームの二次発生を抑制できます。 まとめ 発生源×緊急度マトリクスは、設備クレーム対応を「声の大きい順」から「リスクと価値の大きい順」へ転換するための羅針盤です。これを使いこなせば、突発トラブルの嵐の中でも冷静に優先順位を決め、テナント満足度と修繕コストのバランスを最適化できます。次章では、このマトリクスを基盤にした原因究明プロセスの見える化手法を詳しく掘り下げていきましょう。 2.原因究明プロセスを“見える化”する 築古オフィスビルの設備クレームは、表面に現れた「症状」と、その背後に潜む「真因」が食い違うケースが多々あります。――冷却塔の能力不足だと思って部品を交換したのに、実はポンプのキャビテーションが根本原因だった、というように。ここでは「何が本当の原因か」を早く・正確に突き止め、関係者全員が同じ絵を見ながら動ける仕組みを構築するステップを解説します。築古オフィスビルの設備トラブルは一見すると単純に見えますが、実際はその背後に複数の原因が絡み合っています。原因を見誤れば、何度も同じトラブルが再発し、修繕費用やテナントの信頼を損なうことになります。そこで重要なのが、トラブルの原因究明プロセスを「見える化」し、関係者全員が共通認識を持つことです。本章では、その具体的な手法と実務での活用方法を解説します。 (1)「5Why分析」とログデータを併用する 設備トラブルの原因究明で広く使われているのが、トヨタ生産方式でも有名な「5Why分析」です。これはトラブルが起きた際、「なぜ?」を少なくとも5回繰り返すことで、表面的ではない真の原因(真因)にたどり着く方法です。<空調トラブルの例>・1回目の「なぜ?」空調が停止した。なぜ?→「室外機が動いていない」・2回目の「なぜ?」なぜ室外機が動かない?→「ブレーカーが遮断された」・3回目の「なぜ?」なぜブレーカーが遮断された?→「冷凍機の電流が急上昇した」・4回目の「なぜ?」なぜ電流が急上昇した?→「冷媒が不足して冷凍機が異常運転した」・5回目の「なぜ?」なぜ冷媒が不足した?→「配管継手に微細な腐食穴(ピンホール)が生じ、冷媒が漏れた」このように5回掘り下げることで、「配管継手の腐食による冷媒漏れ」という根本原因を特定できます。ただし、5Why分析は担当者の主観に左右されがちです。そこで役立つのが、設備に取り付けられたIoTセンサーやビルエネルギー管理システム(BEMS)によるログデータです。ログデータの活用メリット・トラブル発生の時刻、状況を客観的に記録・人の記憶や主観的判断に頼らず、客観的証拠で原因究明が可能・再発時も過去のデータを即座に参照でき、対応が迅速化ログデータを元に「いつ」「どのタイミングで」「どの設備が異常値を示したか」を可視化すれば、5Why分析の精度とスピードが大きく向上します。 (2)図面・設備台帳・過去修繕履歴を統合管理する 設備トラブルが起きた際、すぐに「その設備がどこにあり、どのような状態か」を把握することは本来非常に重要ですが、現実には図面や設備台帳、修繕履歴が紙ファイルや個別データとして点在しており、現場での対応が遅れる要因になることもあります。こうした状況を踏まえ、近年ではCMMS(設備管理用デジタル台帳)や、BIM(ビルインフォメーションモデリング)と連携した管理手法の整備が進んでおり、特に新築や大規模物件を中心に、設備情報を一元的に管理する動きが広がりつつあります。当社では現時点でこうしたツールの本格的な導入には至っていないものの、今後の設備管理や記録業務の効率化を考える上では、こうした仕組みの導入も選択肢の一つとして視野に入れていく必要があると感じています。特に築年数の経過した中小ビルにおいては、設備台帳や点検履歴の整理・共有が対応品質に大きく関わるため、たとえばPDF図面や点検履歴のクラウド保存、簡易なExcel管理からの脱却といった、小さな改善の積み重ねから始めることが現実的な一歩と言えるでしょう。 (3)「一次対応」と「恒久対策」を明確に切り分けるポイント 設備トラブルの対応には、緊急の「一次対応(応急処置)」と、根本的な「恒久対策(改修・設備更新)」がありますが、これらを明確に切り分けて対応することが求められます。 判断軸一次対応(応急)恒久対策(改修・更新)安全リスク人命・火災を即排除法適合を確保し再発防止ダウンタイム最短で復旧(仮設配管など)業務停止を避けられる時期に計画コスト小額・即決裁CAPEXを資金繰りに組み込む再発可能性許容(要モニタリング)10年スパンで抑え込む ・一次対応(応急処置)とはとりあえず設備を復旧させたり、安全を確保するための暫定的措置。例えば漏水時の仮止水、故障機器の緊急バイパス回路設置など、コストを抑えて即時対応できる内容です。・恒久対策とは問題の根本原因を解消し、トラブルの再発を防ぐ対策。設備の全面更新、配管や配線のルート変更、老朽部品の全面交換など、比較的コストがかかり、計画的な資金調達が必要となります。一次対応と恒久対策を切り分ける判断基準・「安全リスク」:人命や火災リスクは一次対応で即座に排除・「業務停止リスク」:最低限の一次対応をして業務を再開後、恒久対策を計画的に実施・「コスト」:恒久対策は設備更新計画に織り込み、予算を確保した上で行う・「再発可能性」:一次対応では再発を完全に防げない場合、恒久対策を検討し長期的に解決を目指すこの切り分けが明確になることで、限られた予算を有効に活用し、トラブル再発の悪循環を防ぐことができます。 (4)KPIで回すPDCA──“対応が速い”を数字で証明する 設備トラブルの対応力を改善するには、「主観的な評価」ではなく、客観的な指標(KPI)を用いたPDCAサイクルの運用が不可欠です。特に築古オフィスビルでは、クレーム対応のスピードや精度がビルの資産価値やテナント満足度に直結するため、それを「見える数字」に置き換えることに意味があります。以下は、現場で実際に使える代表的なKPIと、それぞれが持つ改善意義・運用イメージです。 KPI目的改善余地の例MTTA(Mean Time to Acknowledge):初動開始までの平均時間トラブル認識から対応着手までのスピードを可視化。対応が遅いと「放置された」と感じられ、クレームを深刻化させる要因に。夜間当番表の見直し、通知ルートの短縮で平均12分短縮した例も。MTTR(Mean Time to Resolve):復旧完了までの平均時間実際のトラブル解決までに要した時間。長期化すると営業損失が発生し、テナントの不信感を招く。予備部品を倉庫に常備することで、復旧時間を25%短縮できた事例あり。再発率同じトラブルがどのくらいの頻度で繰り返されているか。根本原因が解消されていない場合、対応の形骸化が起きている。原因分析の精度を高め、恒久対策の内容を見直すことで再発を防止。コスト/インシデント一件あたりにかかる対応コストを可視化。収支計画の精度や修繕予算の妥当性評価に活用。年次修繕と統合管理し、突発費→予算化された固定費へ平準化。 KPI運用のポイント・「ダッシュボード化」が鍵:これらのKPIは一覧表やグラフとして常時可視化することで、現場スタッフやオーナーが状況を直感的に理解しやすくなります。・レビューの仕組みをセットで運用:KPIは導入して終わりではなく、月次・四半期でレビューする会議体(例:月例設備ミーティング)とセットにして初めて活きます。・改善の「トライ&エラー」を数字で記録:対応時間や再発率の推移を追い、対策の有効性を数値で証明することで、説得力ある改善提案が可能になります。KPIは、ただの管理指標ではなく、「対応の質を言葉ではなく数字で説明できる」ツールです。テナントとの信頼構築にも大きく寄与します。 (5)スモールスタートでも十分効果が出る 「設備対応の見える化」というと、どうしても大規模物件や大手企業向けの話と思われがちですが、小規模な築古ビルにおいても、工夫次第で現実的な形で取り組むことが可能です。むしろ、複雑なシステム導入に頼らず、できるところから一歩ずつ始める“スモールスタート”のアプローチが、かえって効果的なケースもあります。初歩的な見える化:Excel+クラウド共有から始める現場の状況を無理なく整理し、情報共有を進めるだけでも、対応スピードや精度が変わってきます。いきなりCMMSなどの専用システムを導入するのは難しいという前提に立ちつつも、以下のような身近なツールを活用する方法で、徐々に“見える化”の基盤をつくっていくことが可能です。・Excelのインシデント台帳(クラウド共有) 発生日時・場所・内容・担当者・対応履歴などを一覧管理し、色分けやフィルターで進捗を視覚的に把握できます。・無料フォームツール(Google Form など) スマートフォンから現場の不具合報告が簡単に送信でき、自動的に記録が蓄積されます。現場報告の“取りこぼし”を防ぐ仕組みです。・進捗管理ツール(Google Sheets連携やNotionなど) インシデントごとに「未対応→対応中→完了」といった進行状況を一覧表示し、対応漏れや遅れを可視化できます。このような方法であれば、特別なIT知識やコストをかけずに、「今、何が起きていて、誰がどう対応しているのか」が見える状態を作り出すことができます。小さな成功体験が次のステップを後押しするこうした簡易的な仕組みでも、「トラブル対応の抜け漏れが減った」「過去の履歴がすぐに確認できた」など、小さな改善効果が実感できるようになると、次の一歩への説得力も自然に高まっていきます。将来的には、・クラウド型CMMSの導入・一部設備へのIoTセンサーの後付け設置・インシデント管理ツールの導入による自動化・通知連携といった施策も検討しうるかもしれませんが、そうした取り組みも“いきなり導入するもの”ではなく、「まずは現場で感じた不便を少しずつ解消していく中で、必要性が高まっていくもの」と捉えるのが現実的だと思われます。 まとめ:いまできる見える化を、いまできる形で 原因究明や進捗管理の“見える化”は、単に作業を整理するだけではなく、・初動対応の精度向上・対応履歴の蓄積・情報共有の効率化といった、クレーム対応の「質」を着実に向上させる土台になります。当社としても、現時点で特別なシステムを導入しているわけではありませんが、こうした取り組みは今後の管理業務の効率化や信頼構築の観点からも、段階的に考えていくべきテーマのひとつと捉えています。まずはできる範囲で、「現場で起きていることを、関係者全員が同じ視点で把握できる仕組み」づくりから始めることが、築古ビル管理における“持続的な対応力”の土台になります。 3.テナント・コミュニケーション3ステップ 設備クレーム対応において、技術的な処置と同等、あるいはそれ以上に重要なのが「テナントとの丁寧で途切れないコミュニケーション」です。とくに築古オフィスビルでは、「不具合そのもの」よりも「説明不足」や「対応の見通しが見えないこと」への不満が、テナントのストレスや退去検討の引き金になりやすい傾向があります。ここでは、設備トラブル発生から対応完了まで、信頼関係を維持・強化するための「連絡・進捗・報告」の3ステップを、実例を交えて詳しく解説します。 (1)初動連絡:一次報告フォーマットと連絡チャネルを整備する テナントから設備不具合の連絡が入った際、初動での「スピード」と「誠意」が信頼構築の鍵です。初動連絡のポイント:●“いつ報告するか”を先に伝える初動対応:「ご連絡ありがとうございます。すぐに状況を確認し、〇時までに改めてご報告いたします」と伝えることで、安心感を提供します。●一次報告テンプレートを活用:・不具合内容(例:空調が効かない)・発生日時/場所(例:5階テナントA、会議室)・管理会社側の対応予定(例:業者に依頼済み、到着は○時予定)・次回の報告予定時刻(例:○時に改めて進捗を連絡)●連絡チャネルを明確に:原則電話→要点をメールで補足。実例:あるビルで「エアコンが効かない」との連絡を受けた際、管理担当者はまずテナントに謝意を示し、5分以内に現地へ向かう旨を伝達。現場状況確認後、「専門業者の手配が完了し、〇時に到着予定です」と伝えたことで、テナントは「ちゃんと動いてくれている」という安心感を得て、以後のやり取りもスムーズになりました。 (2)進捗共有:復旧ETA(Estimated Time of Arrival)と代替策をセットで提示する 初動対応の次に重要なのが、修理・復旧までの「時間的見通し(ETA)」と「仮措置」の提示です。進捗共有の要点:●復旧までの目安時間(ETA)を明示「コンプレッサーの在庫確認中です。復旧は明日午前を見込んでいます」など、できるだけ正確な見通しを提示。●代替策を案内例:「冷房が効かない間は、ポータブル冷風機を貸し出しします」「エレベーター停止中は非常階段をご利用ください」●継続報告の約束と実行見通しがずれることもあるため、「〇日〇時に再度進捗をご報告します」と事前に約束し、必ず守る。実例:エレベーターが制御装置の不具合で一時停止した際、管理会社は掲示物で「復旧予定:◯日」「業者手配済/原因調査中」と状況を共有。さらに全テナントへメール配信で同内容を通知。代替手段として非常階段の使用を促し、テナントの不満拡大を防ぎました。 (3)事後報告:再発防止策+写真付き完了報告で信頼を確保する トラブルが解決した後も、「ちゃんと直ったこと」「今後どうするか」をきちんと説明することが、テナントの信頼維持につながります。完了報告の鉄則:●その場での報告+書面のダブル対応テナントが現場にいれば口頭+動作確認、いなければメールで報告と写真を添付。●再発防止への取り組みも併記例:「今回故障した冷却ファンは交換済みです。同系統の部品も点検対象に追加します」●ヒアリングとフィードバック活用トラブル対応について、テナントからの声を聞き、改善策を内部にフィードバックして次に活かす。実例:空調の故障対応で、交換部品の到着と取り付け完了後、「原因は劣化によるコンプレッサー故障で、同形式の部品も追加点検します」と報告。完了報告には施工中・完了後の写真を添え、「設備管理を強化して再発を防止する姿勢」が伝わったことで、クレームどころか「丁寧に対応してくれてよかった」という声がテナント側から寄せられました。 (4)テナント対応の実例:連絡受付~進捗報告~完了報告までの一連フロー ▼10:00 テナントから連絡:「5階の会議室の空調が効かない」▼10:02 管理スタッフが折り返し:「現地確認に向かいます」▼10:10 状況確認→応急対応:電源再起動/異常継続▼10:20 専門業者を手配→ETAをテナントに伝達(13:00到着予定)▼11:00 中間報告:「まだ業者到着前ですが、念のため仮設冷風機を設置しました」▼13:30 業者到着→調査・修理開始▼15:30 修理完了→テナントに報告/現場立ち会いで確認▼16:00 写真付き報告書をメール送信/再発防止策と点検強化予定を添えるこのように、対応の流れを時間軸で追いながら、進捗とコミュニケーションの両面を記録・共有しておくことで、管理品質の可視化にもつながります。 まとめ:クレーム対応は「説明力」がすべてを左右する 設備トラブル対応の良し悪しは、「技術力」だけで決まりません。むしろテナントが重視するのは、「不具合時にどれだけ迅速かつ誠実に状況を伝えてくれたか」という説明対応の質です。3ステップ:①初動の迅速な一次連絡②進捗の定期報告と見通しの共有③完了報告と再発防止の姿勢を徹底することで、トラブルを「信頼強化のチャンス」に変えることも可能です。次章では、こうした対応プロセスをさらに強化するために必要な、「応急処置」と「恒久改修」の線引きとその実務判断について、費用対効果の視点から掘り下げていきます。 4.応急処置vs.恒久改修 費用対効果の見極め 築古オフィスビルで設備トラブルが発生したとき、現場が最も悩むのが「応急処置でしのぐか」「恒久的に設備更新するか」という判断です。対応が早ければテナントの安心感を維持できますが、費用や時間をかけすぎると収支に響く。逆に、目先のコストを抑える応急対応だけで済ませてしまうと、将来的により大きなリスクを招くこともあります。ここでは、応急処置と恒久改修の費用対効果をどう見極めるかについて、判断軸・実例・効果測定の観点から解説していきます。 (1)応急処置とは:「今をしのぐ」ための短期対応 応急処置とは、緊急事態をその場で制御・緩和するための一時的な暫定対応です。例えば…・漏水箇所にタオルや防水テープを巻いて止水・故障したポンプを叩いて再起動させる・停止中の空調代替としてスポットクーラーを仮設置するといった、技術的に根本解決には至らないが、その場の影響を抑える手段です。●応急処置の利点・対応までの時間が短い・低コストで済む(業者を呼ばずに自社対応できることも)・被害拡大を防げる●限界とリスク・再発リスクを残す(真因が未解決)・設備へのダメージを悪化させる可能性あり・結果的に“場当たり対応”の繰り返しとなり、コストが累積する応急処置は「やむを得ないときの初動対応」として有効ですが、「それで済ます」ことが目的化してはいけません。 (2)恒久改修とは:「再発を防ぐ」ための中長期投資 恒久改修とは、老朽化・故障した部品や設備を根本から修繕・更新する対応です。一時的な処置ではなく、「この問題を今後起こさないためにどうするか」という視点で投資判断を行います。恒久改修のメリット・設備寿命の延長と機能回復・トラブルの再発防止、管理コストの平準化・テナントの信頼向上と空室リスクの低減ハードル・初期費用が大きい(数十万円〜数百万円)・工事日程やテナント調整が必要・一時的にテナント業務に影響が出ることもある恒久改修を決断するには、中長期の損得を冷静に見積もる視点=ライフ・サイクル・コスト(LCC)が求められます。 (3)ケーススタディ:高圧受電設備の故障と費用対効果 実際の現場から学ぶべき事例です。事例概要:築35年のオフィスビルにて、キュービクル(高圧受電設備)が経年劣化。定期点検で「更新を推奨」とされたが、オーナーが予算難を理由に見送り。→その夏、猛暑日に過熱で絶縁破壊→全館停電・緊急改修→復旧まで3日間。テナントへの損害補償、工事の緊急対応費用、ビル管理会社の信用失墜…。事例比較:事後vs.事前の費用差(数字は例示) 項目予防的改修(事前)緊急対応(事後)機器更新費用約250万円約300万円(緊急手配+休日施工)テナント補償0円約180万円空室リスクなし1社が退去検討に発展評判・信頼維持口コミ・レビューで悪化 →結果的に、事前対応の方がトータルで安価かつ信頼維持にもつながったという典型事例です。 (4)応急vs恒久の判断基準チェックリスト 設備トラブル発生時、「今どうするか」「次にどう備えるか」を判断する際には、以下の軸で費用対効果を見極めます。 判断軸応急処置が適すケース恒久改修が必要なケース安全性人命に関わらない/火災リスクなし漏電・閉込め事故などリスクがある業務影響範囲一部のみ全館空調、昇降機、共用給排水など再発可能性確率が低いor原因不明過去にも同様トラブルが起きているコスト/時間低コストかつ短時間で対応可能コスト長期的に見るとコスト安になる見込みあり設備寿命寿命内or一時的なトラブル耐用年数を大幅に超過、部品入手困難 ※「応急→恒久へ」の段階的対応も現実的な選択肢です。 (5)築古オフィスビル特有の注意点:部材入手・法適合性 築30年以上の物件では、「恒久改修がしたくてもすぐにはできない」という実務的なハードルも存在します。部材の生産終了:古い昇降機の制御基板や冷凍機の部品が製造中止法改正への対応:改修時に建築基準法や消防法の最新基準に適合させる必要が出てくる(付帯コスト増)工事スペースの不足:改修時の搬入経路・作業スペースが確保できない→これらを事前に確認・整理しておくことで、「やるべきときに、できない」という事態を防ぐことができます。 (6)効果測定とオーナーへの説明 恒久改修はオーナーにとって資本的支出となるため、効果を「数字」で示すことが次の意思決定を促します。効果の可視化例:「老朽ポンプを更新後、漏水ゼロを12か月連続で維持」「空調更新により年間電気代を△△万円削減」「トラブル件数が前年比−80%」「苦情件数ゼロ継続中」こうしたKPIをレポートや写真付き報告書で提示することで、オーナーも納得感を持って次の更新を判断できます。 まとめ:「今だけ」か、「将来まで」かの判断を仕組み化する 応急処置は現場対応として不可欠ですが、それが目的化されると危険です。一方、恒久改修はコストも手間もかかりますが、長期的には安心・信頼・収益性を高めるための“投資”です。✔応急か恒久かを「属人的判断」ではなく「判断フレーム」で整理する✔設備の状態を台帳・履歴で管理し、適切な更新タイミングを見極める✔更新効果をKPIで見える化し、次のアクションにつなげるここまでの前編では、築古オフィスビルにおける設備クレーム対応の基本的な視点や、初動対応・原因究明・応急処置と恒久対策の見極めについて整理してきました。後編では、こうした対応力をさらに実務として定着させていくために、「外注先とのマネジメントと責任分界点の整理」を皮切りに、予防保全、情報共有、マニュアル整備までを中長期視点で解説していきます。引き続き、後編もぜひご覧ください。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月15日執筆2025年12月15日 -
プロパティマネジメント
なぜ空室が埋まらない?──行動済学で読み解く「オーナーの盲点」と実務的処方箋
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「なぜ空室が埋まらない?──行動経済学で読み解く「オーナーの盲点」と実務的処方箋」のタイトルで、2025年12月12日に執筆しています。少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次第1章:平均に惑わされるな──“空室ナゾ”の正体第2章:認知バイアスが賃料設定を歪める第3章:内覧者の第一印象を読み取り、“整える”第4章:エンドウメント・エフェクト(保有効果)の罠──「わが子ビルは特別」症候群を克服する第5章:先延ばしバイアスが空室連鎖を生む──“今は様子見”の高すぎる代償第6章:価格の「参照点」を設計する──デコイ効果とフレーミングで競争力を演出第7章:心理バイアスに効く3ステップ対策──行動を変える“仕組み”を実装する第8章:ケース・スタディ──“築35年・延床900坪ビル” リーシング・プロジェクトの全記録第9章:まとめ──「心理を制する者は空室を制す」 第1章:平均に惑わされるな──“空室ナゾ”の正体 1.東京の賃貸オフィスビル全体で見れば「順風」のはず 2025年4月、三幸エステートが公表した都心5区オフィス空室率は3.70%。足元、下げ止まっているようにも見えますが、コロナ禍後に付いたピーク(2022年10月・5.13%)からは着実に水準を切下げて推移しています。こうした数字を目にすると、「もう空室は心配する局面ではない。需要は戻った──」と感じるオーナーは少なくありません。しかし実際の現場では、違う景色も広がっています。出典:三幸エステート「東京オフィスマーケット」エリア別時系列データ 2.“置き去り”になりかねない築古・中小規模ゾーン 三幸エステートは同じレポート内でビル規模別の空室率も公表しています(基準階面積による区分)。フロア面積200坪以上=大規模ビル空室率3.55%。発表されている空室率の数字だけで見ても1%程度の格差が存在します。さらに、現場の声を仲介会社にヒアリングすると、大規模ビルは平均4か月程度でリーシングの目途が立つ一方、「半年どころか1年以上動かない30-100坪区画」が都心でも散発している─という声が複数挙がっていますつまり“平均”が示す順風ムードの裏で、築古・中小規模ビルが取り残されるる構図が浮かび上がります。 3.統計の落とし穴──“厚い尻尾”という盲点 月次統計はサンプルが広いため、極度に稼働率が低い物件(築年数が古い・設備が旧式など)が平均値に埋もれやすい──これが“厚い尻尾”問題です。行動心理学で知られる •可用性ヒューリスティック:目立つ「平均値=順風」報道が意思決定を支配 •正常性バイアス:自ビルもそのうち平均へ回帰すると信じ込むが、オーナーの判断を鈍らせがちです。「都心平均が4%割れなら、うちもすぐ決まるはず…」しかし実際のリーシング成否は、築年数・耐震性・空調年式・天井高・区画サイズ・賃料水準・駅距離・募集タイミング…といった個別要因の掛け算で決まります。平均値だけを拠り所に判断を先送りしている間に、競合物件の改善は進み、自ビルの競争力は相対的に低下しがちなのです。 第2章:認知バイアスが賃料設定を歪める 1. アンカリング効果──「言い値」が心を縛る 賃貸市場では、最初に提示した募集賃料(アンカー)がその後の交渉レンジを強く決定づけます。実験研究によると、不動産のプロである不動産鑑定士や仲介担当者でさえ、最初に提示された価格からほとんど離れられなくなることが確認されています。これは「アンカリング効果」と呼ばれる心理的現象です。たとえば、あるオーナーが市場相場より高めの賃料を設定して募集を開始すると、それが基準となり、実際の成約価格への調整を行うことが難しくなります。その結果、市場の動きから取り残されて、空室が長期化するリスクが高まります。実務への示唆・「まず高く設定し、後から値下げを検討する」という戦略は、交渉範囲を狭め、結果として市場適正価格からの調整が遅れる。・定期的(30日毎)にマーケットの最新成約事例と比較して、募集賃料を柔軟に調整するためのチェックポイントを設ける。 2.損失回避──「値下げは損」という錯覚 心理学的に人間は、利益を得ることよりも損失を避けることに強い動機を持つ傾向があり、これを「損失回避」といいます。MSCIによるグローバルな不動産市場調査でも、物件の市場価格が取得価格を下回ると見込まれる場合、所有者が売却を躊躇するため市場の流動性が最大50%も低下する事例が報告されています(取上げられたのは、2023年のロンドンと香港での事例)。賃貸オフィスビル市場においても同様の現象が見られます。オーナーが設定した賃料を「値下げ」する行為自体が心理的に「損失」と感じられるため、価格を適切に調整できず、空室期間が延びるケースが頻繁に起こります。実務への示唆・賃料の見直し時には、「想定空室損失額×想定空室期間」を計算し、賃料値下げによる「機会損失」の方が大きいことを数値的に可視化する。・値下げを提案する際は「期間限定」や「段階的な賃料設定」とすることで、心理的負担を軽減し、永続的な損失という認識を緩和する。 3.ステータス・クオバイアス──「現状維持」が生む先延ばし 人間は、変化を嫌い、現状維持を選びやすい性質があります。長年同じ賃料設定を維持している物件では、この「ステータス・クオバイアス」によって賃料改定や設備更新、インセンティブ導入が先送りされがちです。これは一見、コストゼロの選択のように見えますが、実際には市場での競争力を徐々に失わせるという「見えないコスト」を生んでいます。実務への示唆・半年ごとに競合物件の設備やサービス状況を比較・評価し、保有物件との仕様の差を把握する。・賃料改定案を提示する際には「据え置き」「インセンティブ追加」「段階的賃料設定」の複数の選択肢を併記し、現状維持以外の選択肢と比較し検討する。 4.サンクコスト効果──“改修費を回収したい”執着 過去に多額のリニューアル費用を投じたビルオーナーほど、高い賃料設定を維持しようとする傾向があります。これは「サンクコスト効果」と呼ばれる心理的傾向で、過去の投資を回収したいという心理が働くために、現実の市場価格と乖離してしまうことがよくあります。しかし、テナントが評価するのはあくまで現在から未来にかけての効用であり、過去の投資額を考慮して高賃料を設定することは成約率を低下させる要因となります。実務への示唆・過去の改修費用は耐用年数と稼働率を基準に、客観的な収支シミュレーションに基づいて価格設定の根拠とする。・投資後には「プロジェクト後評価」を導入し、投資効果の客観的評価を習慣化することで、サンクコストに引きずられることなく合理的な意思決定を行う。 5.処方箋:バイアスを外すための三つのプロセス 認知バイアスの影響を最小限にするためには、以下のようなプロセスを定着させることが重要です。・第三者による客観的視点の導入、リファレンス・レンジの可視化:ビル管理会社とも相談し、客観的視点も取り入れながら、継続的にアップデートされている、周辺の対抗物件の成約情報に基づき、市場のレンジを把握できるシステムを作る。・ダイナミックプライシングの導入:空室期間や問い合わせ数などの指標を定量化し、それに基づいて賃料を月次で柔軟に調整できる仕組みを構築する。これらを通じて、バイアスの影響を受けにくい客観的なデータに基づいた合理的な賃料設定が可能になります。次章では、内覧時の印象に影響を与える「ハロー効果」と「帰属エラー」に焦点を当て、具体的な改善策を解説します。 第3章:内覧者の第一印象を読み取り、“整える” 1.ハロー効果──“入口7秒”で勝負は決まる 心理学でいうハロー効果(Halo Effect)は、ひとつの際立った特徴が全体の評価を決定づけてしまう現象です。特にオフィスビルの内覧では、内覧者はビルに足を踏み入れてからわずか約7秒で、「ここを借りるかどうか」を無意識的に判断すると言われます。この極めて短い時間内に感じ取る照明の明るさ、空気のにおい、壁や床の汚れ、雑多な掲示物などが、内覧者の第一印象を大きく左右します。例えば、暗くくすんだ照明や嫌なにおいは「古い」「管理が行き届いていない」という印象を即座に与えてしまいます。逆に、明るく清潔感がある環境は、その後の内覧評価に大きなプラスの影響を与えます。実務への示唆・共用部の照明は、少なくとも照度300lx以上、色温度は昼白色5,000K前後を目安に調整し、清潔で明るい印象を作る。事前に照度測定の上、器具清掃で対応しきれない場合、交換対応。・アロマなどによる香りの追加よりも、換気設備の改善や排水管の定期的なメンテナンスで無臭環境を維持することが重要。加えて、室内CO₂濃度を測定し、1,000ppmを超えていたら換気計画を再構築・掲示物はシンプルに整理し、視覚的な雑音を減少させ、空間の印象をすっきりと整える。・床・壁の黒ズミ・欠けは事前に確認の上、リスト化し、清掃を徹底し、必要に応じて塗装・改修対応。 2.帰属エラー──“原因”を取り違えるテナント心理 帰属エラー(Fundamental Attribution Error)とは、何らかのトラブルや不備の原因を「内部要因(ビルの管理能力や運営姿勢)」に誤って帰属させる心理的傾向のことです。オフィス内覧時に設備や清掃の問題が一つでも目に入ると、内覧者はそれを「管理が杜撰」と短絡的に捉えてしまいます。実際には偶発的な問題であっても、一度形成された負の印象を取り消すのは非常に困難です。内覧時にエレベーターの待ち時間が長いだけで、「このビルは設備が古くて使いにくい」という評価を受けやすくなります。実務への示唆・騒音対策:屋上機械音・近隣工事音が内覧中に響くと、「全天候でうるさい」と決めつけられがち。静かな時間帯を選んで内覧を設定。避けられない場合は、騒音源の稼働・作業スケジュールを掲示して、悪印象の低減を図る。内覧動線上の扉開閉音・床鳴りを実測(dB)し、基準値60dB以下に抑制・エレベータ待ち時間の心理補正:待機が30秒を超えると“不具合”と解釈されやすい。混まない時間帯を選んで内覧を設定。内覧に対応して、プレリコール設定で待機させておく。・清掃・設備点検の透明化:当日清掃箇所や設備点検中エリアは、掲示で「改善プロセス」を明示。排水トラップ交換・ダクト清掃の実施履歴を掲示。管理プロセスを開示して信頼感向上。 3.ミニマル・リニューアルで最大効用を得る打ち手 予算や演出の制限を踏まえ、最小限の改善で最大限のハロー効果を引き出すための具体的な施策を以下に挙げます。それらの施策は、既存テナントの満足度を高める上でも有効です。 打ち手コスト感具体的ポイントLED照明交換1.2万円/本色ムラ・暗所を解消し床/壁を明るく見せる床タイルの部分的張替え6,000円/㎡張替入口3×動線を重点補修し印象を集中強化配電盤や給湯扉の塗装3万円/扉色調を統一して、“汚れポイント”をフラット化して視線を散らさないビル内サイン刷新30万円フロア案内を刷新して、印象を一新 第4章:エンドウメント・エフェクト(保有効果)の罠──「わが子ビルは特別」症候群を克服する 1.保有効果とは何か──愛着が価格を歪める 行動経済学におけるエンドウメント・エフェクト(保有効果)とは、自分が所有する資産や物件を、市場で客観的に評価される価値よりも高く見積もってしまう心理現象です。特に賃貸オフィスビルのオーナーは、自らが長年運営し管理してきた物件に強い心理的な愛着を感じているため、市場価格と比べて過大評価をしやすい傾向があります。心理学者のダニエル・カーネマンらが行った著名な研究によると、人は所有している物を手放す時には、その物の市場価格よりもはるかに高い価格を要求することが分かっています。実際、コロンビア大学の研究では、不動産資産に関して人々は平均で市場価値よりも11~23%高い評価をすることが明らかになっています。また、テナントとの賃料交渉の場面では、この保有効果によってオーナーが値下げに約30%以上も強い抵抗を示すことが報告されています。 2.「わが子ビルはプレミア」という錯覚──実際の評価ギャップ 特に築年数が古い中小規模のビルでは、この評価ギャップが顕著に現れます。2024年の首都圏を対象にした調査では、オーナーが自ら設定した希望賃料と実際に市場で成約する賃料との間に、平均して12.8%の差が見られました。これは築年数が長くなればなるほど拡大し、特に築40年以上の物件では15.6%もの差がありました。さらに、オーナー自身が以前テナントとして入居していたような物件では、その評価ギャップは18.1%まで拡大することもあります。こうした実態は、「自分が大切にしてきたビルは特別である」という感情的な評価が、実際の市場評価を大きく上回ってしまうことを明確に示しています。 3.過大評価が招く経済的損失 このような保有効果による評価ギャップが存在すると、以下のような経済的な負担を引き起こします。・リーシング損失:市場の相場よりも高い賃料を設定することで、潜在的なテナントから敬遠され、空室期間が長引く傾向にあります。具体的なデータでは、相場より高めの設定をすると、空室期間が平均で3〜4か月伸びることが報告されています。年間ベースで見れば、本来得られたはずの賃料の約25〜30%を失うことになります。・資本効率の悪化:賃料収入の遅延は、ビル管理・メンテナンス、ローン返済などに必要なキャッシュフローを圧迫し、設備投資のタイミングを逸する原因になりかねません。結果的にビルの競争力をさらに低下させる悪循環を招いてしまう可能性があります。 4.保有効果を克服するための具体策 この心理的なバイアスを克服するために、以下の具体的な施策が有効です。 視点実務的施策具体的成果第三者評価の導入ビル管理会社を介して、仲介業者へのヒアリング/不動産鑑定士による査定を実施し、市場価格を意識する市場との評価ギャップを5%以内に抑える市場データの可視化地域の賃料相場をマッピングなど視覚的に把握できるツールを活用する自物件の相対的な価値を客観的に認識できる逆オークション方式の導入賃料をやや低めに設定し、入札方式で市場適正価格まで競り上げる平均成約賃料を5~10%上回る実績 5.意思決定を合理化するための5つの具体的ステップ 感情的・アドホックな意思決定から脱却し、より合理的な判断を可能にするために想定されるプロセスは以下の通りです。①賃貸オフィスビルの市場データの収集と更新:定期的に競合ビルや地域の賃料動向を収集し、客観的なデータベースを構築する。②価値ギャップ分析:保有物件の仕様・賃料を、前項で収集した競合物件のデータに基づき比較し、明確なギャップ分析を実施する。③複数シナリオでのキャッシュフロー試算:賃料下げ、設備更新、売却といった複数のシナリオで収益性をシミュレーションし、経済的合理性を判断する。④第三者機関によるレビュー:ビル管理会社のサポートの下、必要に応じて、外部の不動産鑑定士の評価を取るなどして、第三者の視点からの提言・提案を受け取ることで主観を補正する。⑤意思決定ルールの設定:事前に、IRR(内部収益率)や市場との乖離幅などの具体的な基準を決定し、それに基づいて意思決定を行う。 第5章:先延ばしバイアスが空室連鎖を生む──“今は様子見”の高すぎる代償 1.先延ばしバイアスとは何か 行動経済学における先延ばしバイアス(Procrastination Bias)とは、すぐに行動することの利益を過小評価し、将来的な行動を「後でも間に合う」と考え、行動を遅らせてしまう心理的傾向を指します。不動産のリーシング業務においても、このバイアスは頻繁に見られます。具体的には、オーナーが「退去の知らせが入ってからでも十分対応できる」と判断し、事前に準備や対策を怠ることが該当します。このような心理的な遅延が発生すると、結局は空室期間が延びてしまうという事態につながります。米コーネル大学が行った調査によると、オフィス物件が空室になった際の1ヵ月あたりの機会損失を提示されても、46%のオーナーが「2ヵ月程度の空室期間なら許容範囲」と回答しました。しかし、実際には3ヵ月以上空室が続くと市場価値が平均で約5.4%下落するというデータがあります。このように、オーナーは損失が発生しても、その実感が遅れるため、行動が後回しになりがちなのです。 2.空室連鎖メカニズム──“1→3→6ヵ月”のドミノ現象 一つでも空室を放置すると、連鎖的に状況が悪化します。具体的には、次のようなプロセスを経て負の連鎖が生じます。「1→3→6ヵ月」のプロセスは、“心理+統計”で裏打ちされています。また、この負の連鎖は隣接区画にも波及しやすく、「空室→印象劣化→紹介減→賃料下落」というドミノを早期に断ち切る必要があります。 経過主な現象1か月美観劣化が始まる – 照明間引き/清掃頻度を週1以下に落とすと共用部の雰囲気が“空きビル感”に転じる3か月紹介頻度が低下 – 仲介は「長期化リスク帯」と見なし、他物件を優先し始める不動産系総研の調査によると、募集終了区画の中央値は5か月 →3か月経過で「折返しを過ぎる分岐点」6か月業界慣行で、賃貸条件の悪化が不可避 – 募集180日超の区画は、賃料▲5–10% フリーレント6ヵ月以上の付与率が2割以上 3.退去予兆を捉える「3つのシグナル」と72時間ルール テナント退去は「決まってから動く」のでは遅い──。濃厚な退去シグナルが出た瞬間から72時間の時間軸で“引き止め交渉と募集準備”を並行処理することで、1)退去の引止め 2)引止め失敗時の空室期間:ダウンタイム最小化の両立を図る仕組みが72時間ルールのアクションプランです。 退去を示す「3つのシグナル」とアクションプラン シグナル確認データ24h以内48h以内72h以内更新交渉の停滞(更新・賃料改定案にレスが無い/遅い)契約更新交渉履歴テナントに意思確認/増床・改装の打診条件シートを再提示募集準備へ(“水面下相談”)空調・電気使用量の急減空調・電気使用量の急減BEMS/テナント別メーターテナントと情報共有・事情のヒアリング減床提案の余地を確認退去濃厚なら募集準備へ入退館数の急減(従業員入館が平常比▲30%超)ICカード/顔認証ログ最新1週間の人数推移を可視化人員計画・組織変更の確認減床提案or募集準備へ *更新停滞・光熱費急減・入館減少の3点セットが同時に発生した場合は、退去確度「高」とみなし24時間以内に募集準備:フェーズ❷へ移行 テナントの引止めから、募集準備、募集開始に至るフェーズ別タスクの整理退去予兆を捉えることで、退去確定後、即日募集開始が可能な運用。 フェーズオーナーの目的主なタスク❶退去“予兆”検知(解約通知なし)テナントの引止め/意思を判定①利用実態ヒアリング②減床・賃料条件など選択肢提示❷退去決意が濃厚(正式通知前)募集準備③図面・写真・設備一覧をアップデートして、水面下相談④募集条件案(賃料・FR)の作成❸正式通知後即日募集開始⑤内々リスト(一部仲介にソフトマーケッティング)⑥公開募集(メーリングリスト仲介サイト掲載)⑦募集条件の調整 運用の要点・引止めが成功して、残留が決まった場合は、募集準備を中止。・引止め失敗が確定した場合、退去決定「即日募集開始」が可能とする運用。 第6章:価格の「参照点」を設計する──デコイ効果とフレーミングで競争力を演出 1. 参照点とは何か──人は“比較”で価値を決める 人が価格を評価する際、絶対的な金額ではなく、何らかの基準となる価格(参照点)を持ち、それを基準に「高い」「安い」を判断する傾向があります。この心理的な基準を参照価格(Reference Point)と呼びます。賃貸オフィスビル市場では、参照価格は次の要素を踏まえて無意識的に形成されています。・周辺エリアの平均坪賃料・同じビル内の他区画の賃料・内覧者が検討中の他の競合物件の賃料つまり、価格を提示する際には、これらの参照点の存在を意識、テナントの「相対的な価格判断」を的確に導く工夫が必要となります。 2. デコイ効果──“おとり価格”が選択を誘導する デコイ効果(Decoy Effect)とは、複数の選択肢を提示する際に、本来選んでほしい選択肢をより魅力的に見せるために、意図的に劣った選択肢(デコイ)を追加する手法です。顧客を騙しているわけではなく、お勧めできる選択肢の「相対的な魅力度」を際立たせて、選択の後押しをします。オフィス賃料プラン提案の具体的な例を以下に示します。 会議室設置を前提にした3択プランプラン坪単価会議室整備負担コメントA:スタンダード18,500円なし-最安・最短入居可B:プラス(推奨)20,000円オーナー主導で整備済オーナー負担入居時点で即使用可/仕様相談も対応C:デコイ(調整型)19,500円要望に応じて設置協議テナント一部負担設計施工調整型 プランAとBだけを比較すると、「Bは少し割高」と感じるかもしれません。ですが、Cという「多少安いが、会議室の整備についてはテナントとの協議・一部負担が必要なプラン」を提示することで、内覧者の視点は変わります。「工事負担や調整の手間を避け、完成済みの設備をすぐ使えるなら、月額わずかな差で済むBプランの方が安心で効率的」と直感的に判断されやすくなります。 3. フレーミング技術──“高いのにお得”を伝える3つの切り口 フレーミング効果とは、同じ内容でも表現や見せ方を変えることで印象を大きく変化させる心理的なテクニックです。価格設定においても、以下の方法で効果的に活用できます。①時間単位の再構築賃料の坪単価、総額だけではなく、「1人あたり1日あたりのコスト」などに換算して提示すると、テナントは日常的な支出との比較が可能になり、コストを現実的で手頃なものとして認識します。②総コストのバンドル化賃料だけでなく、電気料金、清掃費、共益費などを一括した「オールインクルーシブ」な料金として提示すると、テナントの煩雑さ回避バイアスに刺さります。③損失回避フレームの活用人は「利益を得ること」よりも「損を避けること」に強く反応する傾向があります。この心理を活かし、「わずかな価格差で“手間”や“将来の不確実な負担”を避けられる」というメッセージに変換することで、テナントにとっては価格が高くても“得”ではなく“安心”に感じられるようになります。 4. 価格メニューの提示方法(レイアウト)を工夫する 価格を提示する際の順番や表現方法にも心理的影響があります。たとえば「中間価格→高価格→低価格」の順に提示すると、中間価格が安定した安全な選択肢に見えやすくなり、選択率が向上します。また、特典の価値を「会議室設営のコスト=最大100万円相当」のように明確な金額に変換することで、テナントがその価値を直感的に理解しやすくなります。さらに、提案資料やウェブサイトなど複数の媒体でデザインや表現を統一し、情報の伝達時に生じる誤解や歪みを防ぐことで、意図したフレームが確実に伝わります。 5. 人の心理を尊重する──決して「騙す」のではなく「わかりやすく伝える」 最後に、デコイ効果やフレーミング技術を用いることは、単純に人を「騙す」手段ではありません。人は日々多くの選択肢に囲まれており、選択には多大な認知的負荷がかかります。これらの手法は、その負荷を軽減し、「選択の価値」を直感的かつ明快に伝えることで、テナントが納得して自発的に適切な判断を下せるように手助けするものです。従って、こうした心理的テクニックを用いる場合でも、あくまでテナントの利益と安心を第一に考え、「顧客の立場に立った情報提供」を心掛けることが最も重要です。 第7章:心理バイアスに効く3ステップ対策──行動を変える“仕組み”を実装する 本章では、これまで解説してきたアンカリング、損失回避、保有効果、先延ばしバイアスなどの心理的な障壁を、組織として継続的に克服していくための実践的なプロセス設計について詳しく説明します。ポイントとなるのは、「①データの定点観測」「②第三者の客観的な評価」「③小さな成功体験の積み重ね」という3つのステップを循環的に行い、継続的な改善を行う仕組みを構築することです。 ステップ① データの定点観測──感覚ではなく“数値”に置き換える 心理バイアスを取り除く最も有効な方法の一つは、意思決定を「感覚」ではなく「数値」に基づいて行うことです。このためにはデータの定期的な収集と明確な指標設定が不可欠です。・ウィークリーダッシュボード:毎週一定のタイミングで、空室日数、問い合わせ件数、内覧から申込みへの転換率、平均成約坪単価など、客観的な数値指標を定期的にモニタリングします。都度データを更新して、毎週決まった時間(例えば月曜日午前9時)に最新のデータを確認できるようにします。数値が多すぎてダッシュボードが放置されるリスクに鑑みて、KPIを4指標以内に絞り“誰でも読める”設計を心掛けます。・アラート閾値の設定:データをただ見るだけでなく、空室日数が90日を超えた場合は「赤信号」、60~89日の場合は「黄信号」と設定して、担当者に通知する仕組みを設けます。これにより、問題が大きくなる前に迅速な対応が可能になります。・トレンドラインの可視化:短期的な変動に惑わされないために、3カ月の移動平均線を用いて改善傾向または悪化傾向を把握します。トレンドが横ばい(フラット)になるタイミングで次の手を打つことが重要です。 ステップ② 第三者の客観視点──“鏡”を置いてバイアスを削る 自分たちの視点だけではなく、第三者による客観的な評価を導入することで、組織内の心理バイアスを効果的に減少させることができます。●定期的レビュー/ベンチマーク比較/逆ピッチセッション:ビル管理会社との定期的な打ち合わせの場で、──競合となる近隣の物件のデータをレビューして、保有物件と比較します。客観的なデータによる競合比較を通じて、保有物件の相対的な強み・弱みを明確化します。──第三者による保有物件の状況について忌憚のない指摘も交え、組織内の自己満足や現状肯定の心理を防ぎ、改善意識を高めます。 ステップ③ 小さな成功体験──“勝ちグセ”を組織にインストール 心理バイアスを乗り越えるためには、組織が実際に改善できることを繰り返し体験し、自信を持つことが非常に有効です。・ミニマル改善パイロット:ビル管理会社の提案、サポートの下、小規模な範囲(例えば1区画のみ)でLED照明の導入、サイン表示の刷新といった改善を実施し、効果を定量的に計測します。・改善ストーリーの伝承・定着:ビル管理会社のサポートの下、改善前後の具体的な変化を組織内で共有し、「動けば変わる」ことを可視化し成功体験を組織内で伝承し、定着させます。・インセンティブ設計:空室期間短縮に貢献したビル管理会社/仲介担当者には、その成果に応じた報酬制度を設け、現場レベルでの積極的な行動を促します(オーナーとのビル管理会社の業務委託契約に対応条項を具備)。 第8章:ケース・スタディ──“築35年・延床900坪ビル” リーシング・プロジェクトの全記録 本章では、前章までに解説してきた心理バイアス対策・価格設計・オペレーション改善を一括で適用し、空室6か月→1か月で成約を実現したプロジェクトを時系列で検証する。単なる成功談に終わらせず、「どの打ち手がどの数値を変えたのか」をトレースし、再現可能なメソッドへ落とし込むことを目的とする。 1.物件概要と課題整理 項目内容所在地東京都台東区 駒形エリア竣工年1990年(築35年)構造規模SRC造 地上8階、延床900坪対象区画6階1室(専有30坪)空室経過募集開始から6か月経過、内覧10件・申込みゼロ主なネック天井高2.40m/築古・リニューアルなし/繁華・ビジネス・エリアから外れる 診断:賃料は周辺相場比+3%とやや割高。加えて照度不足・案内動線の雑多さが第一印象を損ね、問い合わせはあるものの内覧後に競合へ流れるパターンが目立った。 2.介入プラン──3層レイヤーで同時進行 ●環境改善(7日間・総額10万円)・エントランス照度180lx→320lxへLEDを交換・共用廊下壁面を特別清掃●価格リフレーミング・デコイ効果を利用し「Bプラス」プランを追加(坪15,000円/会議室整備)・既存「スタンダード」は坪13,500円に維持し、参照点をコントロール●リーシング・オペレーション刷新・72時間ルール:募集準備を3日で完了・社内で情報共有しタスク遅延ゼロを徹底 3.タイムラインと数値推移 日数主なアクション問合せ件数内覧数申込み数Day 0介入前(空室180日経過)000Day 7環境改善完了/新価格プラン公開420Day 14仲介向け現地内覧会951Day 21追加内覧(同業2社比較)321Day 28Bプラスで申込み→契約--1 4.KPI結果 指標改善前改善後変化率空室期間6か月1か月−83%成約坪賃料13,500円15,000円+11%内覧→申込み転換率0%22%+22pt 5.成功要因の分解 ①第一印象改善が問い合わせを倍増:照度・清掃で印象が向上し、内覧者の印象改善。②デコイ効果で“高いが得”を演出:会議室整備を明示し、利便性を訴求。③72時間ルールが初動を加速:改善情報を3日で配信し、迅速に新しい価格プランで募集開始。④タスクの可視化と役割明確化:各担当が期限を共有し、遅延ゼロを達成。 第9章:まとめ──「心理を制する者は空室を制す」 本コラム全体のキーメッセージを振り返る 本コラムでは、空室問題が単なる市場動向の問題ではなく、人間が持つ心理的なバイアスに大きく影響されていることを示しました。空室率が下がっていても、自分のビルの空室が埋まらないのは、賃貸オフィス市場全体のデータだけに頼って意思決定をする「心理的な盲点」が原因なのです。そこで、本コラムで繰り返し強調したのは以下の3つのポイントです。・数字で“盲点”を可視化するオーナーは、全体の平均空室率や周辺地域の坪単価といったマクロな指標に安心しがちです。しかし、それら平均値に隠れている個別ビルの特異性(分布の「厚い尻尾」)を正確に理解する必要があります。具体的には、空室日数や賃料の市場乖離率など、個別ビルのリアルな状況を数値で把握することが重要です。・心理バイアスに“仕掛け”で対抗する本コラムでは特に、アンカリング(最初の提示額に縛られる)、損失回避(値下げが心理的に難しい)、保有効果(自分のビルを過大評価する)、先延ばしバイアス(対策を後回しにする)など、人間の心理的な癖(バイアス)について掘り下げました。これらのバイアスは意識的な努力だけでは克服が難しいため、意図的な仕組み(フレーミング技術や72時間ルールなど)で補正することが肝要です。・ハード×ソフト×価格の三位一体で動く単独の改善施策ではなく、ハード面(照明交換などの物理的改善)、ソフト面(リーシング・オペレーション)、価格設定(デコイ効果やフレーミング)を同時に進めることで、相乗効果が生まれ、空室改善の効果は着実に向上します。 未来への展望──空室対策から「賃貸オフィスビルのブランド化」へ 本コラムの各施策は、空室解消を超え、長期的なビルの価値向上や競争力の強化へとつながります。心理バイアスをコントロールする仕組みづくりは、空室の短期的な改善だけでなく、中長期的な「保有賃貸オフィスビルのブランド化」に繋がっていきます。データ活用とストーリー設計を強化することで、「築古賃貸オフィスビル」ではなく、「選ばれる築古賃貸オフィスビル」として市場での競争力を確立するべく、一緒に目指しましょう。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月12日執筆2025年12月12日 -
ビルメンテナンス
既存賃貸オフィスビルのエレベーター改修と混雑緩和の現実的対応
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「既存賃貸オフィスビルのエレベーター改修と混雑緩和の現実的対応」のタイトルで、2025年12月11日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに1.エレベーターの台数が「待ち時間」を決める2.エレベーター改修・性能アップ時に考慮すべきポイント(既存の中型オフィスビルにおける現実的対応)3.朝のラッシュを緩和するための工夫と具体的な事例(中型オフィスビル向け実務対応)4.築古・賃貸オフィスビルのエレベーター改修の実務ポイント5.まとめ―現実的なエレベーター問題解決への提言 はじめに ― 朝、ロビーに溜まる“静かな行列”から 午前8時15分。ビルのガラス張りのエントランスを抜けると、コーヒー片手にスマートフォンをのぞき込む人々が、まるで無言のラリーのようにエレベーターホールへ吸い込まれていきます。だが、ホールに入った瞬間に足は止まり、視線は一斉に天井のランプへ――「▲」「▼」の小さな矢印が、いっこうに自分の番を示さない。ロビーはざわめくでもなく、しかし確実に“溜まって”いく。気づけば背後には十数人、列の最後尾は建物の出入口の自動ドア付近にまで延び、エスプレッソの香りよりも“間に合うか”という焦りの気配が濃くなっていきます。このコラムでは、こうした朝のエレベーター混雑を解決するための実務的なポイントを、エレベーター工学の基礎ロジックと管理現場の視点を交えて整理します。朝一番、ロビーに漂うあの“静かな行列”を少しでも短くするヒントを、ぜひ持ち帰っていただければ幸いです。 1.エレベーターの台数が「待ち時間」を決める (1)賃貸オフィスのモデルケース 今回のコラムでは、ある典型的な賃貸オフィスビルをイメージしながら考えてみます。ビルは都内によくある地上8階建て、オフィスが入っているのは2階から8階までの7フロア。1フロアあたりの面積は約100坪(実際にデスクを並べてオフィスとして使えるスペースはおよそ80坪)。一般的に、オフィスでは一人当たり3坪程度のスペースを要しますから、1フロアあたり約27名が働いている計算になり、7フロアを合計すると約190名。この190名が朝の8時から9時までの間に一斉に出勤すると考えると、その1時間はビルにとって最も「渋滞」が起きやすい時間帯ということになります。さて、ここで気になるのは、エレベーターの待ち時間です。 (2)エレベーターの待ち時間の計算 朝8時台のオフィスビル。たった1時間の間に、190人近い人々が次々とエレベーターに乗って自分の職場へ向かいます。仮にエレベーター1台が往復(ラウンドトリップ)する時間を80秒、実際に乗れる人数を約10人としましょう。ここで、エレベーターが1台しかなかったら、どうなるでしょうか?190人を運ぶには約19往復が必要になります。単純に計算すると、80秒×19往復=1,520秒、つまり約25分もの時間がかかってしまいます。待つ側にとってはとても長い時間です。平均待ち時間は約40秒と理論的には短く聞こえますが、これは理論上の話。現実には、エレベーターホールには「行列」が発生し、利用者にストレスが蓄積されてしまいます。では、エレベーターを2台に増やすとどうでしょうか?2台運用の場合、1往復で合計20人を運べるため、必要な往復回数は約10回。所要時間は10回×80秒=800秒(約13分20秒)となり、1台運用時の半分程度に短縮されます。平均待ち時間も約20秒へと改善されますが、こちらもまた理論上の数字。現実には、タイミングのずれや途中階での停止回数が増えることで若干の遅延が発生し、感覚的にはもう少し長く感じるでしょう。こうしてみると、100人を超える規模になると、エレベーター1台で朝のラッシュを捌くのは現実的ではありません。150人を超えるような規模では、間違いなく2台配置が推奨されます。しかし、ここで忘れてはならないのが、「本当にエレベーターを増やすだけで解決できるのか?」という問いです。また、ビルの階数が8階程度の場合、実はエレベーターの速度を単純に上げたところで、劇的な改善は望めないという現実があります。エレベーターに乗り込む時間、ドアの開閉、各階での停車時間、加速・減速にかかる時間が速度よりも大きな影響を与えているからです。つまり、朝の混雑を解消し、より快適にエレベーターを使えるようにするには、エレベーター自体の台数を増やすのは無理として、エレベーターの速度を上げることの効果が望めないとして、「制御システム」や「乗降効率」、さらに「エレベーターをどの階に待機させるか」といった運用面での工夫が必要になるのです。では具体的に、どのような工夫や改修が有効なのか――次章では、エレベーターの性能アップを考える上での実務的なポイントを掘り下げて解説していきます。 2.エレベーター改修・性能アップ時に考慮すべきポイント(既存の中型オフィスビルにおける現実的対応) 前章までで触れたように、既存の中型賃貸オフィスビルでは、エレベーターを増設したり、昇降路のサイズ自体を変更したりするような大規模な改修は、構造上またコスト的にも現実的ではありません。ここでは、フロア約100坪・地上8階建てでエレベーターが2台設置された既存ビルを想定し、実務上可能で現実的な改修のポイントを整理します。 (1)制御システムの更新(最新の「群管理制御」へ) 築20~30年以上の中型オフィスビルでよく見られるのが、「セレクティブ・コレクティブ制御」と呼ばれる旧式のエレベーター制御方式です。これは単純に各階の行先ボタンが押された順に止まる方式のため、効率的な運行が難しく、待ち時間が長くなる原因となります。近年、中型オフィスビルの改修事例で現実的かつ効果が高いとされるのは「群管理制御」の導入です。エレベーター2台でも群管理制御を適用すれば、ピーク時間帯にそれぞれのエレベーターが異なるフロアに効率よく分散して運行できるため、待ち時間を実質的に短縮できます。※一方で「行先予告方式」や「AIディスパッチ制御」は、エレベーター台数が4~5台以上ある大型ビル向けであり、2台程度の中型オフィスビルでは導入効果が限定的であるため、推奨されません。 (2)エレベーター内装リニューアルによる心理的快適性の向上 エレベーターの速度や物理的な乗降効率を大幅に改善することが難しい中型オフィスビルでは、内装や照明、操作パネルの改善が現実的で有効な対策です。例えば、暗い蛍光灯を明るいLED照明に変えるだけでも、乗車中の心理的ストレスが軽減され、体感待ち時間が短縮されるという効果があります。また、古いボタン式の操作パネルをタッチパネル式の見やすいタイプに変更することで、使いやすさや快適性も向上します。こうした内装の小規模改修は比較的低コストで実現可能であり、テナントの満足度向上にも効果的です。 (3)待機階設定や運行最適化の柔軟な調整 エレベーターが2台ある場合、ピーク時間帯や曜日ごとの利用状況を分析して待機階を柔軟に設定することも有効な改善策です。例えば、朝のピーク時は2台とも1階で待機させる一方、昼間の使用頻度が高い中間階に1台を常時待機させるなど、細かな運用調整で待ち時間の短縮を図ることができます。ただし、古いタイプの制御盤ではこうした細かな調整が難しい場合があります。制御盤更新のタイミングで、柔軟な待機階設定が可能な最新の制御装置への更新を検討するのが現実的です。 (4)速度アップの改修は実務上非現実的 8階建て程度の低層・中型オフィスビルでは、エレベーターの速度を上げても実際の待ち時間短縮にはほぼ効果がありません。加速・減速にかかる時間や各階停止時のドア開閉時間のほうが影響が大きいためです。速度アップを目的としたモーターや巻上機の全面交換は、費用が高額になる一方で、実質的な効果が限定的であるため、費用対効果の面から実務的には推奨できません。設備の老朽化が進んでいる場合には、静音化や省エネ化を目的として最新の機器に交換することは検討に値します。 3.朝のラッシュを緩和するための工夫と具体的な事例(中型オフィスビル向け実務対応) これまで、エレベーターの設備改修や性能向上のポイントについて整理してきましたが、設備自体を変更するには時間もコストも相応にかかります。そこで、既存設備を活用しながら、すぐに取り組める運用面での改善について具体的な事例とともに解説します。 (1)時間帯に合わせた柔軟な運行設定 中型オフィスビルでの混雑緩和に最も有効なのが、エレベーターの運行パターンを時間帯や利用状況に応じて調整することです。特に朝のピーク時には、2台のエレベーターを1階に待機させることで効率的な人員輸送が可能になります。一方、昼休みや帰宅時など利用が偏る時間帯は、1台を上層階や中間階に待機させることで、待ち時間の短縮が期待できます。実際に、東京都内のあるオフィスビル(フロア100坪程度・エレベーター2台)では、ピーク時に待機階設定を変更するだけで朝の待ち時間が体感で20~30%程度短縮したという実績があります。 (2)低層階利用者への階段利用促進 特に朝のピーク時、2階や3階などの低層階勤務の方はエレベーター利用を控え、階段の積極的な利用を促す取り組みが効果的です。階段を明るく整備し、誘導サインを見やすく設置することで、自主的な階段利用が促進されます。実際に、中央区にある中型オフィスビルで低層階(2~3階)の利用者に対して階段利用を推奨する取り組みを行ったところ、ピーク時のエレベーター利用者が約20%減少し、上層階の利用者からも待ち時間短縮の実感が報告されています。 (3)テナント企業への時差出勤推奨 朝のラッシュの根本的な緩和策として最も効果的なのが、テナント企業と連携した「時差出勤」の導入です。始業時刻を15分~30分ずらすだけでも、ピーク時のエレベーター混雑は大幅に軽減されます。ある東京都心の中型賃貸オフィスビルでは、テナント企業に働きかけ、社員の出社時間を複数パターンに分散させました。その結果、エレベーター待ちがほぼ解消され、ビル内の快適性も向上しました。ビル管理会社がテナントと積極的にコミュニケーションをとることで、こうした施策の実現可能性は高まります。 (4)待ち時間情報の伝え方に関する考え方と配慮 完全な混雑解消が難しい場面では、「あとどのくらいでエレベーターが来るのか」が分かるだけでも、心理的なストレスが軽減されるという利用者の声があります。たとえば、到着予測や混雑状況などの情報を、必要に応じてさりげなく提示する工夫は一つの選択肢となり得ます。ただし、エレベーターホール周辺は来訪者の目にも触れやすく、空間の印象を左右する場所でもあります。情報提供の仕方には、美観やブランドイメージへの配慮が求められます。表示を最小限にとどめる、もしくはバックヤードや社内イントラネットなど視覚的ノイズを抑えた形での案内を検討するなど、設置方法や媒体の選定には慎重な判断が必要です。実際に、東京都内のある中型オフィスビルでは、表示を必要最小限のサインにとどめることで、「過剰な演出感を避けつつ利便性は確保できた」という好意的な評価も得られています。 4.築古・賃貸オフィスビルのエレベーター改修の実務ポイント 一般的に、竣工から20年、30年を経過した築古・賃貸オフィスビルでは、エレベーター設備の老朽化が目立ち、機器故障のリスクが高まるとともに運行効率も低下しています。そのため、一定期間ごとにエレベーターの性能を維持するための計画的な改修を検討する必要が出てきます。ただ、実際に改修を検討する際には、費用や改修範囲、現実的な対応可能性など不安な点も多いでしょう。ここでは、実際の事例も踏まえ、既存中小規模のオフィスビルにおけるエレベーター改修の具体的な留意点と、現実的な改修手法を整理します。 (1)エレベーター改修で特に注意すべきポイント 築20~30年が経過したエレベーター改修にあたり特に留意すべき点は、以下の通りです。部品調達の難易度:竣工から一定期間経過すると、部品が製造終了していることが多く、故障が発生した際に修理部品の調達が難しくなります。特に制御装置や巻上機など重要部品は早めの交換を検討する必要があります。制御システムの老朽化:古い制御システムは効率が悪く、特に朝のピーク時などに待ち時間が大きくなる原因となります。新しい制御方式への更新で、運行効率の向上と安全性の確保が期待できます。法令や安全基準への適合性:建築基準法、消防法、昇降機の安全基準などは定期的に更新されます。改修時には、これら最新の規制や基準に適合するように検証し、必要な措置を行う必要があります。 (2)現実的なエレベーター改修の範囲と具体例 実際の中小規模オフィスビルにおけるエレベーター改修では、建物構造に大きな手を加えるのではなく、設備更新によって性能や快適性を向上させます。ここでは、エレベーターの設備更新は、「制御系」と「機械系」を主に対象としていますが、オーナーの希望、状態によっては、「内装(意匠)系」の改修も合わせて実施することがあります。① 制御系(制御盤・操作盤など)改修の中心となるのが制御系の更新です。築20年~30年のビルでは、旧式のセレクティブ・コレクティブ制御が使われていることが多く、これを最新の群管理制御に更新することで、朝のピーク時などの運行効率が大幅に向上します。制御盤を更新する際は、通常、エレベーター内の操作盤(カゴ内)や各階の呼び出しボタンなども一体で交換されます。更新により待ち時間の短縮、ドアの動作改善、停止精度の向上などが期待されます。② 機械系(モーター・巻上機・ドア装置など)制御系と並んで重要なのが、駆動装置やドア機構といった機械系の更新です。老朽化したモーターやドアの駆動部は、騒音・振動・故障の原因となることが多く、安全性と快適性の観点から更新が推奨されます。巻上機については、使用頻度や劣化状況を踏まえた個別判断となり、必ずしも更新が必要とは限りません。機器自体に問題がなければ、更新せず継続使用するケースもあります。③ 内装系(カゴ内の仕上げ・照明など)内装リニューアルは比較的低コストで実施でき、心理的な快適性やビル全体の印象改善に効果的です。照明をLEDに変更したり、カゴの床材・壁材を刷新することで、エレベーター利用時の印象が大きく変わります。また、こうした内装工事は必ずしもエレベーター専門業者に依頼する必要はなく、内装工事を扱う業者に分離発注することも可能です。費用対効果の高い改善ポイントとして、多くのビルで採用されています。※なお、昇降路の拡幅や扉の幅を広げるといった構造に関わる工事は、既存ビルではほぼ実施不可能であり、現実的な選択肢とは言えません。 (3)改修費用の概算(実際の事例) 改修費用は改修範囲や施工方式によって大きく変動しますが、以下は8〜10階建てクラスの中小規模ビル(エレベーター1台)における実際の費用感の目安です。・制御盤・モーター・ドア駆動部など主要機器の更新: 約700万円~1,000万円程度・巻上機も含めたフルセット更新+エレベーターメーカーによるフルメンテナンス契約付き: 約1,500万円~2,000万円程度・内装リニューアル(照明・床・壁など): 約30万円~50万円程度実例として、東京都内の築25年・10階建て賃貸オフィスビルで、制御盤とモーターの更新を行ったケースでは、改修費用は約800万円でした。 (4)エレベーターの方式と種類 中小規模の賃貸オフィスビルで主に採用されているエレベーター方式は以下の2種類です。ロープ式(巻上機式)エレベーター:最も一般的で、築20年以上のビルではほぼこの方式です。モーターと制御盤、巻上機の更新を中心とした改修を行います。油圧式エレベーター:低層(5階程度まで)の小規模ビルで採用されることがありますが、最近は運行効率やエネルギー効率の面で敬遠される傾向があります。改修の際はロープ式へ全面的に変更することもありますが、構造的制約と高額な費用から実務的には少数派です。 (5)まとめ――エレベーター改修は現実的な範囲で段階的に 築古・賃貸オフィスビルにおいては、「全ての改修を一度に完結させるのではなく、優先順位を付けて段階的に改修を進めること」が重要です。特に部品の調達難易度や安全性確保の観点から、制御盤や巻上機などの更新を優先し、内装リニューアルなどはテナント満足度向上やビル競争力向上に寄与するタイミングで実施するのが現実的でしょう。エレベーター改修は、設備投資効果を見極めながら現実的な範囲内で最大限の効果を引き出すことが、賃貸オフィスビルの競争力とテナント満足度向上に最も有効な方法です。 5.まとめ―現実的なエレベーター問題解決への提言 ここまでの章を通じて、低層・中規模の既存賃貸オフィスビルにおけるエレベーター問題の現状と、実務的かつ現実的な解決策について整理してきました。特に竣工から20~30年を経たビルでは、老朽化に伴う機器のトラブルや運行効率の低下が避けられない課題として浮上します。エレベーターの台数増設や昇降路の改修など構造的変更は、既存ビルでは実務的に非常に困難であることから、現実的には既存設備をいかに有効活用するかが鍵となります。具体的には、制御システムの更新や内装リニューアル、さらには運用の最適化(待機階設定やピーク時対応の改善)が有効な方法です。また、設備だけに依存するのではなく、時差出勤や階段利用推奨といったテナント企業と協力した運用改善も重要な取り組みです。こうした施策は、設備の改修に比べれば比較的低コストで実施可能であり、実際の混雑緩和にも大きく寄与します。最後に、エレベーターの改修において重要なのは「現実的な範囲内での段階的な取り組み」です。投資効果を最大化し、テナントの満足度向上とビル競争力の維持・向上につなげることが、オフィスビルオーナーや管理者にとっての最も実務的かつ効果的なアプローチと言えるでしょう。本コラムが、既存オフィスビルにおけるエレベーター課題の現実的な解決策を考えるヒントとなり、皆さまの実務の一助となれば幸いです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月11日執筆2025年12月11日 -
プロパティマネジメント
テナントが明かす本音|東京の賃貸オフィスビルに求める条件
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「テナントが明かす本音|東京の賃貸オフィスビルに求める条件」のタイトルで、2025年12月10日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 はじめに: 東京の賃貸オフィスビル経営において、空室を効果的に埋め、テナントの定着率を高めるためには、「テナントの本音」を理解することが不可欠だ。特に都心5区(千代田区・中央区・港区・新宿区・渋谷区)においては、丸の内や八重洲、虎ノ門といった著名なビジネス中心地から少し外れた場所であっても、昨今の大規模ビル開発プロジェクトでは拾いきれない、中小規模オフィスビル特有のテナント層やニーズが存在している。しかし、この「テナントの本音」を考える際、見落としてはいけない大切なポイントがある。企業が東京という都市にオフィスを構える理由は、賃料水準や交通利便性、設備状況といった数値化できる客観的な条件だけでは説明しきれない。その背景には、東京という都市が長い歴史の中で培ってきた文化的・社会的な魅力、都市の多様性、そして独特な安定感が静かに息づいている。企業はなぜ地方や海外都市ではなく、「東京」を選ぶのか。なぜ、リモート勤務が浸透した今でも、実際のオフィスを東京という場所に置き続けるのか。高度経済成長期に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」として世界を驚かせ、やがて「失われた30年」という困難な時期を経てきた東京が、再び世界から注目されるに至ったその過程には、単なる経済的指標や合理性に還元できない、東京特有の「都市の粋」とも言える精神性や寛容性、成熟した都市文化の存在がある。本コラムでは、単に経済的・数値的条件に留まらない、テナントの深層心理や具体的な選択行動にも触れながら、中小規模オフィスを選ぶ企業のリアルな声やさまざまな調査・レポートを参照しつつ、「選ばれる中小規模オフィスビルの条件」を紐解いていく。東京という都市の魅力や価値を意識することで、単なる立地や設備、コストを超えた、中小規模ビルならではのテナントに支持される秘訣が見えてくるはずだ。そしてその先に、東京という都市の本質的な精神性や寛容さに支えられた、現実的かつ堅実なオフィスビル経営の可能性が見えてくるだろう。 第1章:立地・アクセスへの現実的なテナントニーズ 東京で賃貸オフィスビルを検討するテナント企業にとって、立地条件は最も重視される要素の一つである。しかし、一般的に想定される「駅近」「一等地」といった単純な基準だけでテナントの選択が決まるわけではない。特に都心5区の中でも丸の内や八重洲、虎ノ門といったビジネス街の中心部から少し外れた立地にあるビルには、それ特有の魅力やニーズが存在する。実際の企業担当者の声を聞くと、「最寄りはターミナル駅じゃなくても構わない」「駅徒歩圏内であれば、必ずしも最短距離である必要はない」という意見が多い。中小企業や成長中のベンチャー企業にとって、最重要視されるのはアクセスの利便性そのものよりも、「従業員が通勤しやすく、取引先との連携が効率的に行える範囲内であること」である。具体的には徒歩5~10分程度の距離でも、地下鉄や複数路線への接続が良好な立地であれば問題なく受け入れられる。また、丸の内や虎ノ門といった著名なビジネス街の華やかさやブランド性よりも、「地域の特性にマッチした落ち着いた環境」を求める企業も少なくない。特に専門サービス業やクリエイティブ系の企業は、多少賑やかな中心街から距離を置いた閑静なエリアで、自社の業務に集中できる環境を好む傾向がある。さらに、こうした「少し外れた立地」には、単なる交通の利便性やアクセス条件を超えた要素が含まれていることがある。ある企業の担当者からは「都心中心部の喧騒からほどよく離れ、落ち着いて業務に取り組める環境であることに加え、交通網の便利さや通信環境の安定性といったビジネスインフラが整っていることが魅力だった」という声もある。こうした声は、企業が東京での立地を評価する視点が、距離や単純な利便性という表面的な要素だけではなく、安定的な企業活動を支える都市の基盤や信頼感といった要素も含んでいることを示している。つまり、賃貸オフィスビルのオーナーにとって重要なのは、単に「駅に近い」「都心中心部にある」といった分かりやすい条件だけに注目するのではなく、テナント企業が東京という都市での企業活動にどのような意味や価値を見出しているのか、そして、実際の業務環境として具体的に何を求めているのかを丁寧に理解することなのである。 第2章:コストパフォーマンス重視のテナント心理 東京の賃貸オフィスビルを選ぶ企業にとって、賃料を含むコスト面は常に重要な選定基準である。しかし、単に「賃料が安ければ良い」という単純な発想ではなく、彼らが本当に求めているのは「コストパフォーマンス」、つまり支払うコストに見合った価値があるかどうかという視点である。実際、都内の中小企業や成長中のスタートアップ企業の担当者は口をそろえて「安価であることは魅力だが、それ以上に業務効率や生産性に与える影響を考慮する」と述べている。例えば、設備が古い、管理が不十分であると、結果的に従業員の満足度や業務効率が下がり、離職率が高まったり、オフィスの印象が取引先に悪影響を与える可能性がある。そうなると、長期的にはビジネスにとって大きなマイナス要因となってしまう。中小規模のテナント企業は、入居後の追加的なコストにも敏感である。特に管理費や共益費、光熱費といったランニングコストの透明性と予測可能性を重要視する傾向がある。不透明で追加的な費用が後から発生することは避けたいという心理が働く。実際、コストが透明であれば多少割高でも受け入れられるケースが多い。さらに、テナント企業が賃貸オフィスビルを選ぶ際に重視するのは、単なる費用対効果だけでなく「東京という都市に長く安心して根を下ろせるかどうか」という安心感である。企業は東京という都市を選ぶことで、ビジネスチャンスやネットワーク、人材獲得、そして企業のブランド構築において大きなメリットを享受している。そのため、短期的なコスト削減よりも長期的な安定性と継続性がより重要になる。つまり、東京で中小規模の賃貸オフィスビルを提供するオーナー側は、テナント企業が持つこうした心理を深く理解し、ただ「安価な賃料」を提示するだけではなく、設備の充実、管理の質、コストの透明性、そして長期的な安心感という価値を包括的に提供する必要があるのだ。これが真にテナントに選ばれ、安定的に入居率を維持するための重要なポイントである。 第3章:中小規模の賃貸オフィスビルで求められる設備のリアル 中小規模の賃貸オフィスビルを選ぶテナント企業にとって、設備選定は非常に現実的かつ実践的な視点から行われる。特に中小企業やベンチャー企業の場合、必要最低限の設備を効率的に備えていることが重要視される。まず、テナントが必須と考える設備の一つが、安定した通信インフラである。高速インターネット回線や通信設備の整備は現代のビジネス運営において欠かせない要素となっている。特にIT企業やクリエイティブ系企業など、情報通信の質と速度が業務効率に直結する業種では、通信環境の整備は最優先課題として挙げられる。また、テナントが共通して求める設備には、空調や照明設備などの日常的に業務環境に影響を及ぼす要素も含まれる。空調設備については、中央制御型よりも個別制御が可能な空調システムが好まれる傾向があり、これにより従業員の快適性やエネルギー効率が高まる。照明についても、LED照明をはじめとする省エネルギーで目に優しい設備が評価される。OAフロアについては、もはや前提条件とも言える設備となっている。配線の自由度が高く、オフィスのレイアウト変更に柔軟に対応できるため、特に成長中の企業にとっては欠かせない基本要件となっている。LAN環境がWiFiでカバーされる場合でも、電源コードが床を這ったり天井から露出しているような状況は現代のオフィスとしては容認されない。テナント企業は、このような基本的な設備環境が整っていることを当然の前提として考えている。一方で、テナント企業が「過剰設備」と考える要素も明確になりつつある。例えば、豪華なエントランスや過剰な共用施設など、見栄えを重視した設備は、ランニングコストの上昇につながりかねないため、敬遠されるケースが多い。むしろ、ビル全体の清潔さや管理状況の良さ、セキュリティの基本的な充実度の方がテナントには重要である。中小規模の賃貸オフィスビルのオーナーに求められるのは、このようなテナント企業の現実的で具体的な設備ニーズを的確に理解し、設備投資を行うことだ。設備選定においては、投資効果が高く、テナントの業務効率向上に直接貢献する要素を見極めることが重要になるだろう。 第4章:テナントが管理会社に求める具体的な対応力と日常的な快適性の維持 中小規模オフィスビルを賃貸する企業が管理会社に求める対応力は、トラブル発生後の迅速な処理にとどまらない。トラブルを可能な限り未然に防ぐ予防的な管理体制、毎日の業務環境を安定的に保つための日常的配慮、そしてテナント企業の事業特性や成長段階を正しく理解した上での問題解決力やコミュニケーション力など、複合的で総合的な対応力を求めている。 設備トラブル対応に求められる迅速性と明確なコミュニケーション まず、管理会社にとって基本的であり最も重要なのが、設備トラブルへの対応力である。空調、照明、給排水設備などの日常的な設備に問題が生じた場合、迅速かつ正確な修理対応が不可欠だ。加えて重要なことは、管理会社からテナント企業への状況説明や進捗報告が適時的かつ丁寧になされることである。トラブル発生時、テナント企業は自社の業務が混乱するのを避けるため、状況把握と業務調整を迅速に行う必要がある。その際、管理会社が具体的で的確な情報を明快に提供することで、テナント側は安心感を得られる。このような対応が積み重なることで、管理会社とテナントの間には信頼感が醸成される。 日常的な業務環境を保つための細部への配慮 日々の業務環境を良好に保つ細かな配慮も、テナント満足度を左右する重要な要素だ。テナント企業は、共用部や水回りなど、日常業務に直結する細かな部分の管理状態を敏感に評価している。・共用部の清掃管理エントランス、エレベーター、廊下といった共用部分は、日々清潔かつ整理整頓された状態に保たれることが求められる。特に来客の多いテナント企業にとっては、企業イメージや社員の士気に直接的な影響を及ぼす重要なポイントである。・トイレや給湯室の衛生管理トイレや給湯室など、水回りの設備の衛生状態はテナント企業の満足度に直結する。衛生環境が悪いと従業員の不満が増えるため、清掃頻度や衛生用品の適切な補充が不可欠となる。・空調設備の定期的なメンテナンス空調設備の適切なメンテナンスは、オフィスの快適性に大きく関与する。適切な温度・湿度の維持は従業員の業務効率を高めるだけでなく、設備トラブルを未然に防ぐ重要な管理業務の一環でもある。 テナント企業の事業特性や状況を理解した問題解決力とコミュニケーション さらに、管理会社にはテナント企業の業種や成長ステージを適切に把握したうえで、問題に的確なソリューションを提示できる能力も求められている。企業規模や業務内容が変化した際の設備調整やオフィスレイアウト変更について、実務的で透明性のある解決策を提供する対応力が求められる。こうした対応の積み重ねが、管理会社とテナント企業との間に信頼関係を築き、長期的な入居継続につながる。結局、中小規模の賃貸オフィスビルのテナント企業が管理会社に求めるのは、単なるトラブル対応だけでなく、トラブルを予防し、日常的に快適な業務環境を維持し、事業の特性や変化を把握した適切な問題解決力を備えた総合的な対応力である。こうした多面的かつ継続的な対応によって、テナント企業の満足度や信頼感が向上し、賃貸オフィスビルへの長期定着が可能になるのである。 第5章:東京で働く意味を再考──不確実な未来への企業活動の場として 中小規模の賃貸オフィスビルのテナント企業が東京で事業を営む理由は、単に現在の立地や設備条件、経済的合理性だけでは説明し尽くせない。東京という都市が持つ特有の環境や文化、ダイナミックな社会的文脈が、企業活動の未来志向的な特性や、そこで働く個々のワーカーの意識とも深く結びついている。企業活動とは、本来的に未来に向けて不確実なリスクを取る活動である。こうした活動において重要なのは、単なる算式によって弾き出される収益性だけではなく、不透明な未来に向けて機会を見出し、多様な情報や人材と出会える環境を持つことだ。その点において、東京は単一の合理的基準だけでは説明がつかない、非常にユニークな都市と言える。第一に、東京の最大の特徴は「文化的・情報的多様性とアクセス性」である。東京では、共時的・通時的に幅広い文化に触れられる環境が存在する。例えば、共時的な面では、世界各地の本格的な食文化やビジネス文化に容易にアクセスできる一方、通時的には現代的なテクノロジーや先端的なカルチャーに加え、深い歴史の層を感じさせる場所も多く存在する。この文化的な多層性や拡散性は、企業が新たなアイデアを生み出し、多角的な視点を持つための極めて有効な土壌となっている。第二に、東京には都市としての中心が空虚であるという特性がある。フランスの哲学者ロラン・バルトが指摘したように、東京の中心にある皇居は、実質的な強力な求心力を持つ「中心」としては機能しておらず、その結果、都市全体が多元的で相対的な構造を形成している。実際、東京の各地域はそれぞれ独自の特徴や価値観を持って比較的独立しており、こうした緩いゾーニングが偶発的な異文化や異業種との出会いを可能にしている。ビジネスにおいてこうした「緩やかさ」は、異なる領域の人々や情報が予期せず交錯し、イノベーションが生まれやすい環境を提供しているのである。第三に、東京は多様な人材と情報が交錯するハブ都市として、企業活動に不可欠なイノベーションの源泉となっている。特に中小企業やスタートアップにとって、このような人材や情報の流動性が高い環境はビジネス成長に直結する重要な要素となっている。予測できない偶発的な出会いがビジネスの新たな展開やアイデア創出を促進し、企業の競争力や市場対応力を高めることに繋がっている。具体的な事例として、中央区の中小規模の賃貸オフィスビルが立地する日本橋の東側エリアに目を向けてみよう。この一帯は江戸時代より運河の水運を活かした船荷問屋が軒を連ね、明治から戦前にかけて商業の中心として栄えた歴史を持つ。現在では必ずしも都心ビジネスの中心地というわけではないが、かつての繁栄の面影は、今なお街の空気にほのかに漂っている。そんな街並みの片隅に、小さな神社がひっそりと佇んでいる。たとえば、日本橋人形町の小網神社は、入り組んだ細い路地に位置し、控えめながら風格ある木造の社殿が静かな存在感を放っている。仕事の合間に会社員がふらりと立ち寄り、鳥居をくぐって手を合わせる姿は、この街の日常に溶け込んだささやかな祈りの風景である。こうした情景を、単に過去へのノスタルジーと捉えるのは早計だろう。むしろこの神社が街角で果たしているのは、現代の企業活動に対するさりげないメタファーの役割だ。街の歴史や文化が無言のうちに日常空間へと溶け込み、そこで働く人々の意識や思考に静かな影響を与えることで、企業活動に多様で豊かな文脈をもたらしているのである。結論として、企業が東京を選択するということは、単に経済的・設備的合理性の追求に留まらず、むしろ未来に向けた投資とリスクテイクの場として都市を捉えていることを示している。東京という都市が持つ文化的多様性、空間的な緩やかさ、情報と人材の交錯性といった特性を明確に意識し、これらを活用する視点が、今後の中小規模の賃貸オフィスビル運営において不可欠なポイントとなるだろう。 第6章:「東京らしさ」を意識した現実的な賃貸オフィスビル管理の考え方 中小規模の賃貸オフィスビルを管理・運営する上では、「粋(いき)」という概念を心に留めたい。それは過度な自己主張をせず、自然体で淡々と実務をこなす姿勢であり、まさに「東京らしさ」の本質ともいえる。日本の哲学者・九鬼周造は著書『「いき」の構造』において、「いき」とは外面的な洗練と共に、内面的には矜持や「諦め」、そして物事への恬淡な距離感を含む、と指摘している。こうした東京文化の背後にある精神性は、賃貸オフィスビルの管理運営においても有益な示唆を与える。東京という都市は、極めて多面的な魅力を持っている。それらが無意識のうちに、テナント企業が日々感じる心理的な環境を形成している。しかし中小規模の賃貸オフィスビルを選ぶ企業にとって、最も重要なのは「安定した日常業務環境」そのものである。そのため、管理者の果たすべき役割は明快である。まず管理ルールを明確かつ簡潔に提示し、その枠内でテナント企業が安心して事業を進められるよう、自然で安定した管理体制を維持することだ。九鬼のいう「いき」の徴表のひとつに、「意気」つまり江戸児の誇りに根ざした気概がある。それは、自らの信念を鮮やかに示す気概でもある。現代の賃貸オフィスビル管理業務に置き換えると、表面的な華美さや不要なサービスを誇示するのではなく、むしろ管理業務の基本を忠実に遂行するプロフェッショナルとしての姿勢に通じるだろう。設備トラブルへの迅速な対応や共用部の清掃管理、設備の維持・保守など必要なことを着実に行い、余分な自己顕示をせず淡々と業務を果たすことが、結果としてテナント企業の深い信頼感を生む。さらに九鬼は「いき」のもうひとつの徴表として「諦め」を挙げる。これは「運命への理解に基づき、過度な執着を離脱した無関心な態度」と解説されている。賃貸オフィスビル管理実務においても、設備トラブルや突発的な課題が発生した際、過剰に感情的になったり慌てたりすることなく、冷静に客観的に状況を判断し、迅速に対応する姿勢が求められる。トラブルを特別視せず、自然な業務の一環として淡々と処理する管理姿勢こそが、テナント企業に安心感をもたらすのである。実際、中小規模の賃貸オフィスビルを選択するテナント企業は、東京という都市に潜む潜在的なビジネス機会、整備された都市インフラ、そして文化的な多様性という東京の価値を自然に前提としている。その上で、テナント企業が日常的に最も重視するのは、管理者が設備トラブルや日々のメンテナンス、建物維持管理など、現実的かつ日常的な課題に迅速で確実に対応することである。東京という都市でビジネスを営む企業は、日々様々な課題や予測困難な変化に直面する。そのため基盤となるオフィス環境は、余計なトラブルに煩わされず、常に安定していることを強く望んでいる。ここに求められる「東京らしさ」とは、都市の変化や多様性を静かに許容しつつ、自然体で柔軟に受け止める姿勢である。それは決して派手で目立つようなものである必要はない。むしろ、管理者が日常業務を静かに着実に遂行し、細部への配慮をさりげなく示すことで、テナント企業は自然に安心感や信頼感を感じ取るのである。具体的には、共用部の清掃管理を着実に行い、設備トラブルには冷静かつ迅速に対処し、基本的な管理ルールを明確に徹底することが重要である。このような管理を通じて、「意気」と「諦め」の精神が融合した「粋な管理」が実現されるのである。この姿勢こそ、東京という都市の多様で変化に富むビジネス環境において、中小規模の賃貸オフィスビルがテナント企業に長く選ばれ続ける理由となるだろう。また、テナント企業が管理会社に望む「パートナーシップ」とは、決して抽象的な理念ではない。むしろそれは、日常的で実務的な具体的対応の積み重ねによる信頼関係に他ならない。すなわち、管理会社が堅実かつ安定的に日常の設備維持管理や基本的なルール運用を行い、テナント企業が東京という多様でダイナミックな環境下で安心して本業に専念できることこそが、テナントの本当の望みなのである。結局のところ、東京の賃貸オフィスビル管理者に求められるのは、日常の実務を通じてテナント企業のビジネスを支える自然体の姿勢である。「いき」とは派手な自己主張ではなく、確固としたプロ意識と静かな信念に基づく、淡々とした日々の積み重ねのことである。この「意気」と「諦め」の精神をさりげなく実践することによって、テナント企業に安定感と安心感という真の「粋な価値」を提供することが可能になる。このさりげなくも堅実な運営姿勢こそ、中小規模の賃貸オフィスビルがテナント企業から選ばれ続ける重要な要素であり、賃貸オフィスビル管理者に求められる究極の「東京らしさ」なのである。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月10日執筆2025年12月10日 -
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ネガティブイメージを払拭する! 築古・中型・賃貸オフィスビルオーナーのブランディング戦略
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「ネガティブイメージを払拭する!築古・中型・賃貸オフィスビルオーナーのブランディング戦略」のタイトルで、2025年12月9日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章 築古・中型オフィスビルが抱えるネガティブイメージの本質第2章 実は競争力を秘めている―築古・中型オフィスビルの真価第3章 ブランディングとは何か?築古オフィスビルに求められる発想転換第4章 最小限投資で最大効果を生む具体的バリューアップ策第5章 日常管理の「当たり前」を高めるブランディング基盤作り第6章 エリア×業種のマッチングを活かしたテナント戦略第7章 自社メディア・サイトを主軸とした情報発信・コミュニケーション戦略第8章 行政が動かない今、築古ビルオーナー自身が主体的に動くために第9章 まとめ:築古ビルオーナーが主体的に取り組むべきブランディング戦略おわりに ― オーナーの行動が、東京のオフィスビル市場を変える はじめに 東京都心5区(千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区)には、新耐震基準以降に建てられた築20年以上の中型オフィスビルが数多く存在しています。これらのビルはフロア面積100坪以下、延床5,000坪未満といった規模感で、目立つ一等地ではないながらも、古くから地元に根差したビジネスエリアに立地しています。市場の注目はどうしても新築や超大型ビルに集まりがちですが、実際には、築古の中型オフィスビルこそが都心オフィスマーケットを支える重要なストックです。安定した中小企業、士業や専門職、公益団体などの多様な業種ニーズに対応でき、柔軟な賃料設定が可能な点で、都市の経済活動を下支えする存在となっています。しかし、行政や市場関係者は再開発プロジェクトばかりに注目し、築古中型オフィスビルへの明確なビジョンや支援策は乏しい状況です。その結果、「古い」「設備が陳腐」といったネガティブイメージが先行し、オーナーは対応に苦慮しています。本コラムでは、オーナー自身がこの状況を打開するために取り組める「実践的なブランディング戦略」について提案します。管理運営の改善、テナント戦略、情報発信の工夫を通じて、保有オフィスビルのブランド力向上につながる方法を考えていきます。 第1章 築古・中型オフィスビルが抱えるネガティブイメージの本質 都心に根強く残るネガティブな先入観 都心において「築古のオフィスビル」という言葉が持つイメージは、率直に言って決して良いものではありません。「古びた外観」「設備の老朽化」「管理の手薄さ」といった、ネガティブな先入観が根強く市場に定着してしまっているのが現状です。このようなネガティブイメージが、実際にどのような要素で形成され、テナントの選択心理にどう影響を与えているのか。その構造をまず明確に捉える必要があります。 築古ビルに対する市場評価とテナント企業の心理 テナント企業は、ビル選びを単に「空間の確保」としてだけでなく、自社のイメージ形成や社員満足度に直結する重要な経営判断として位置づけています。ここで重要なのは、実際のビルの機能性や安全性よりも、「見た目の印象」や「心理的な快適性・安心感」が大きく評価を左右するという現実です。たとえば、訪問客や社員が毎日出入りする際に、最初に目にするビルの外観が古ぼけていたり、共用スペースが薄暗く清掃が行き届いていない状況では、そのビルに入居すること自体が企業イメージに悪影響を与えると判断されます。テナント企業は「自社のビジネスにふさわしい環境かどうか」「自社のブランディングにプラスになるか」を無意識のうちに見極めています。つまり、実際の使用価値が十分にあったとしても、「古さ」「古びた雰囲気」が入居判断を躊躇させる最大の原因になっているのです。 視覚的な古さ(外観・内装)の具体的問題点 築古のオフィスビルでは、外壁の色褪せや塗装の剥がれ、ひび割れ、老朽化した看板や案内表示などが視覚的なイメージを著しく損ないます。また、内装面でも、古いデザインの壁紙、摩耗が目立つ床材、黄ばんだ照明器具といった要素が、「老朽化したビル」という印象を強めます。一度「古いビル」という印象を抱かれてしまうと、いくら内部を綺麗にしていても、その第一印象を回復するのは極めて困難です。「視覚的な第一印象」の影響力を軽視している限り、築古ビルの価値向上は望めません。 設備の老朽化・機能性低下が引き起こす懸念 テナントがオフィスに求める基本的な条件は、「安全」「快適」「便利」です。空調が効きにくい、エレベーターが頻繁に故障する、給排水設備のトラブルが多いといった設備の問題は、日々の業務遂行を妨げる大きなリスクです。また、インターネット環境や電気容量の不十分さも、現代のビジネスにおいては致命的な弱点となります。こうした問題があると、「このビルでは業務効率が悪化する」と判断され、テナント企業から敬遠される原因となります。 管理不十分が与える負のイメージ 管理体制の問題は、設備の古さ以上に強いネガティブな印象を与えます。共用部の清掃が不十分でゴミや汚れが目立つ、照明が切れたまま放置される、故障やトラブル対応が遅いなどが続くと、「このビルは管理が行き届いていない」「オーナーや管理会社に関心がない」といったイメージが定着します。こうした信頼の欠如がテナントの退去を促し、新規入居の難しさを助長します。 ネガティブイメージ克服による具体的なメリット 逆に、これらのネガティブ要因を明確に把握し、着実に改善していくことで、大きなビジネスチャンスが生まれます。視覚的な改善や設備の更新、管理体制の徹底を進めることで、テナント企業の評価は確実に向上し、物件の稼働率が高まります。「古くても安心できるビル」というブランドイメージを構築できれば、テナントの定着率も高まり、長期的な収益安定化にもつながります。こうした明確なメリットを念頭に置きながら、次章では築古・中型オフィスビルが持つ競争力の本質について掘り下げていきます。 第2章 実は競争力を秘めている―築古・中型オフィスビルの真価 一般的な誤解と隠されたポテンシャル 都心5区の築古・中型オフィスビルは、「古い」「競争力がない」といったイメージを持たれがちですが、実際には明確な魅力と競争力を秘めています。この章では、そうしたビルが持つ本質的な強みと、やや二流立地だからこそ発揮できるポテンシャルについて掘り下げます。 築古・中型オフィスビルの本当の魅力とは? 手頃で安定した賃料設定の魅力築年数の経過した中型オフィスビルは、周辺の新築や大型ビルに比べて賃料が手頃で安定しています。賃料負担は企業経営の安定性や事業継続性に直結するため、適正価格での長期契約は中小企業や公益法人などにとって大きなメリットです。中小企業・専門職・公益団体などの需要にマッチ中型ビルの規模は、中小企業や専門職、公益団体などにとって「ちょうどいい」サイズ感です。士業、コンサルティング企業、財団法人、団体事務所などは大規模なオフィスを必要とせず、合理的な賃料と空間を求める傾向にあります。こうした企業・団体は長期入居する傾向があり、稼働率の安定化に大きく寄与します。中型ならではの柔軟性のあるスペース構成中型オフィスビルの特性として、以下のような柔軟性を持った空間構成が挙げられます。・1フロア1テナント利用がしやすく、独立性を確保できる・構造的制約が少なく、レイアウト変更や内装調整が容易・テナントの成長や組織変更に応じたレイアウト再構成が可能最小限の改修で最大限の効率化を実現できる点が、特定のテナント層にとって大きな魅力となります。「やや二流立地」の持つ可能性築古・中型オフィスビルは、超一等地ではなく「やや二流」と評される立地であることが多いですが、これにも独自のポテンシャルがあります。超一等地にはない魅力超一等地は賃料・管理費が高く、入居企業にとっては大きな負担になる可能性があります。一方、やや二流の立地であれば、・賃料がリーズナブル・都心部へのアクセスが良好・実質的な利便性に問題が少ないなどの理由から、経済的メリットと利便性の両立が可能です。歴史的なインフラや街の成熟度こうした立地は歴史的に業務街として成熟しており、・飲食店、小売店、金融機関が充実・業種の集積によるネットワーク効果といった点で、入居企業にとって利便性の高い環境が整っています。地価・賃料のバランスが良く、事業継続性を支える安定的で負担の軽い賃料は、企業の事業継続性に直結します。無理のないコストで都心に拠点を維持できる点は、テナントの定着率向上と稼働率維持に繋がります。築古・中型オフィスビルの本質的な競争力を再認識することが、ネガティブイメージを払拭し、ブランディングへと繋がる第一歩です。次章では、こうした魅力を市場に伝えるために必要な「ブランディング」という考え方について掘り下げていきます。 第3章 ブランディングとは何か?築古オフィスビルに求められる発想転換 表面的な改修だけでは、選ばれ続けない 築古の中型オフィスビルが市場での競争力を取り戻し、テナントから継続的に選ばれる存在になるためには、単なる設備の更新や清掃の徹底といった「表面的な改善」だけでは限界があります。もちろん、目に見える改善は大切です。しかし、それだけでは“このビルに入居したい”という感情的な納得や共感までは生まれません。そこで重要になるのが、「ブランディング」という視点です。ここでいうブランディングとは、広告的な演出や過度なイメージづくりではありません。築古のビルが持つ歴史、地域との関連性、日々の誠実な管理姿勢といった“実直な価値”をきちんと伝え、物件としての存在意義を再認識してもらうための戦略的なアプローチです。 ブランディングとは「違い」を育て、「共感」を呼ぶこと ブランディングとは、自分が保有している物件の個性や魅力を明確にし、市場において独自のポジションを確立していくための取り組みです。それは単に他と違うという意味ではなく、「その物件がなぜ選ばれるべきか」「どんな価値を持っているのか」を、明確に言葉にして伝える作業です。そして、それを一過性の打ち出しで終わらせるのではなく、日々の運営を通じて誠実に実践していく──その積み重ねこそが、長期的な信頼と共感につながっていきます。そのために、以下のような観点からの整理と発信が求められます。 差別化による独自性の確立:他の物件とは異なる固有の特徴やメリットを見つけ出し、その差別化ポイントを明確に伝える。ストーリーを含めた価値の創造:建物そのもののスペックにとどまらず、その背景にある魅力的なストーリーや価値を創り出し、感情的な共感を呼ぶ。 一貫性のあるメッセージの発信:築古ビルがテナント企業にどう映るべきかというイメージを明確に描き、そのイメージを一貫して訴求し続ける。 テナントとの長期的で安定した関係構築:ブランディングを通じてテナントからの共感と信頼を獲得し、長期的な入居・関係維持を実現する。 築古だからこそ持てる「語れる価値」を言語化する 築古・中型オフィスビルには、新築や大型物件とは違った価値があります。それをしっかり「言語化」し、「語れる状態」にすることがブランディングの第一歩です。たとえば以下のような要素は、築古物件だからこそ打ち出せる“魅力”になります:手頃で安定した賃料体系:新築や大規模ビルよりもリーズナブルで安定した賃料を提供でき、中小規模の企業にとって無理のない事業運営を支えます。柔軟で機能的な空間利用:構造的な制約が比較的少なく、テナントの規模や業態に合わせて間取りやレイアウトを調整しやすいため、入居企業にとって実用的で居心地の良いオフィス空間を提供できます。落ち着いた雰囲気と信頼感:時間を重ねた建物だからこそ醸し出される落ち着き、過去の入居実績が与える信頼など、数字には表れない価値がある。こうした要素を明確かつ魅力的なストーリーに仕立て上げることで、築古ビルの価値を効果的に伝えることができます。 テナント企業の“無意識のニーズ”に応える視点転換 テナント企業は、物件を選ぶときに「合理性」と「安心感」の両方を求めています。築古ビルが持つ“古さ”を単なるマイナスとせず、次のようなかたちで“プラスの価値”として再定義することができます:「古いが、丁寧に維持されている」という印象づくり:共用部の清掃や修繕の状況を具体的に示すことで安心感を与える。過去の入居実績を価値にする:長年にわたって多くのテナント企業が安心して入居し続けてきた実績を示すことで、築古物件に対する信頼性を高める。適切なリニューアルによる価値向上:予算的に大がかりな工事が難しくても、小規模ながら効果的な改修を行い、その過程や成果を魅力的なストーリーとして伝える。こうしたテナントの気づいていないニーズに丁寧に応えていくことが、結果として物件全体の魅力と信頼感につながっていきます。 地に足のついたブランディングへ 「築古」という現実を無理に隠したり覆い隠すのではなく、誠実に受け止め、それでも“このビルなら大丈夫”と納得してもらえるような物件であること。これこそが、築古ビルに求められるブランディングの本質です。次章では、こうしたブランディングの基盤を築くために必要な、具体的な物件改善の方法──“最小限投資で最大効果”を生むバリューアップ策について掘り下げていきます。 第4章 最小限投資で最大効果を生む具体的バリューアップ策 築古・中型オフィスビルの魅力を引き出すためには、多額の投資を行うのではなく、最小限のコストで効果的な改善を図ることが重要です。ここでは、投資効率が高くテナントの評価向上につながるポイントを整理します。 費用対効果を重視した外観リフレッシュ エントランス周りや共用部の部分的な改善:目につきやすいエントランスや共用スペースの目に付く壁の傷を修復し、念入りに洗浄する等により、ビルの印象を手軽に改善できます。外壁全体を改修するような大規模投資は不要であっても、来訪者が最初に目にする部分を丁寧に整えることで、「きちんと管理されている」「印象が良い」と感じてもらえるようになります。サインや表示の改善:案内表示や看板を現代的なデザインで刷新し、視認性や統一感を持たせることで、ビル全体の印象を明るく清潔に演出することが可能です。外部照明の工夫:特に冬場の夕方以降や、曇天時の薄暗さはビル全体の印象に影響を与えます。適切な位置にLED照明を設置するなど、夜間でも安全で快適なイメージを与える演出が有効です。防犯面での安心感にもつながります。 内装・共用部の部分的リニューアル ロビー・エントランスの改善:入居者や来訪者が必ず通過するロビーやエントランスは、そのビルの“顔”とも言える空間です。床材の張り替え、照明の更新など、限られた範囲であっても意図的に整えることで、第一印象の改善につながります。床材や壁紙の部分的更新:すべてを新しくする必要はありません。たとえば汚れが目立つ箇所だけをピンポイントで貼り替える、劣化の激しい部分を目立たない素材に変えるといった工夫で、全体としての清潔感・安心感を演出できます。 設備の最適改善の考え方 優先順位を決めた設備更新:設備のすべてを一度に交換するのは現実的ではありません。そこで、特にテナントが日常的に使用し、快適性に直結する空調・トイレ・照明といった部分に優先順位を置き、段階的に機能性を向上させることが有効です。予算配分の最適化:設備更新の投資には限界がありますが、テナントの業種や働き方に応じてニーズを的確に把握することで、限られた予算でも最大限の満足度を引き出すことができます。設備改善の成果は一見して分かりづらいため、更新した内容やその効果を丁寧に説明し、テナントへの安心感や信頼感につなげるコミュニケーションも重要です。このように、最小限の投資で最大限の効果を引き出す取り組みは、築古ビルの価値を確実に押し上げ、テナントからの評価を高めることができます。次章では、こうしたバリューアップの基盤となる「日常管理」の視点から、築古ビルに求められる管理の質とブランディングとの関係を考えていきます。 第5章 日常管理の「当たり前」を高めるブランディング基盤作り 基本的な管理の徹底がブランディングに重要な理由 日々の管理体制が整っているかどうかは、テナントにとって非常に大きな安心材料になります。特に築古物件においては、「しっかり管理されているかどうか」が、ビル全体の評価や信頼性を左右する重要な要素となります。管理の質が安定すれば、テナントの満足感は自然と高まり、それが長期的な入居や信頼関係の構築につながります。また、退去の抑制にも効果があり、結果として物件の収益性や稼働率の安定化をもたらします。 築古ビルならではの管理ポイント 築古物件においては、新築にはない独特の管理上の配慮が求められます。徹底した日常清掃とメンテナンス体制:古い建物は、汚れや劣化が目立ちやすいため、日々の清掃やメンテナンスを怠らないことが重要です。たとえば共用部の床の汚れ、壁の傷、照明の切れなどは、テナントが「このビルは大丈夫か?」と不安を感じるきっかけになります。逆に、清掃が行き届き、常に清潔で整っている状態を維持していれば、「このビルはしっかりしている」という印象を持ってもらえます。迅速で的確なトラブル対応:水漏れ、空調不良、エレベーターの異常など、突発的なトラブルが起きたときの対応スピードは、テナントの評価に直結します。連絡から対応完了までが早ければ、「信頼できる管理体制がある」と判断され、逆に遅れれば不信感を生みます。管理会社の社内営繕チームによるアドホックで機敏な対応:外部業者に頼るだけでなく、自管理会社の社内に営繕の体制がある場合は、ちょっとした補修や修繕を迅速かつ柔軟に対応できる点で大きな強みとなります。テナントの「今すぐ直してほしい」「ちょっとだけ直してもらえればいい」というニーズに応えられることで、信頼性が一段と高まります。 管理の質を高める外部パートナー選定基準 築古ビルのブランディングを支えるもう一つの鍵は、管理業務を担う外部パートナーとの連携です。信頼できる管理会社の選定:管理業務を委託する際は、実績や担当者の質、対応スピード、トラブル時の柔軟性などを十分に確認する必要があります。単なる価格の安さだけで選ぶと、対応力や品質に課題が残る可能性もあります。定期的なコミュニケーションと連携強化:管理会社との連携を密にし、迅速で的確な対応力を維持。こうした日常管理のクオリティが、築古ビルの価値を底上げし、長く選ばれる物件としての信頼感につながっていきます。次章では、物件の立地と業種ニーズを掛け合わせたテナント戦略について考察していきます。 第6章 エリア×業種のマッチングを活かしたテナント戦略 築古・中型オフィスビルの競争力を最大化するためには、物件の立地するエリア特性とターゲットとなる業種のニーズを的確にマッチングさせることが非常に重要です。この章では、都心5区(千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区)のそれぞれが持つ業種クラスターの特徴を掘り下げ、それに基づいた効果的なテナント誘致の具体的な考え方を整理します。 都心5区エリア別業種クラスターの特徴を踏まえた誘致ターゲット選定 ●千代田区:士業・公益団体・シンクタンク千代田区は皇居や官公庁街に隣接し、落ち着いたイメージと高い信頼性を持っています。弁護士・税理士・公認会計士などの士業や、公益財団法人、調査研究機関(シンクタンク)など、社会的な信用や安定性を重視するテナントにとって理想的なエリアです。【誘致のポイント】堅実な管理運営体制、セキュリティの徹底、落ち着いたオフィス環境を明確にアピールすること。●中央区:金融・商社・人材サービス中央区は古くから日本橋・京橋エリアを中心に金融機関や商社が集中しています。また、人材派遣や人材紹介サービスの企業も数多く集積しており、ビジネスの中心地としての利便性が高く評価されています。【誘致のポイント】交通アクセスの利便性、ビジネスサポート環境の充実を訴求。オフィスレイアウトの柔軟性など、企業が求める効率的な業務環境を提供する。●港区:外資・メディア・広告・情報通信港区には外資系企業やメディア、広告代理店、情報通信系企業が多数存在します。多様な文化や価値観が集まり、新しいトレンドや情報が生まれるエリアとして高い評価を受けています。【誘致のポイント】国際性やクリエイティブなイメージを強調。高速インターネットや情報通信インフラの充実、現代的でスタイリッシュな内装・共用空間を訴求する。●新宿区:教育・出版・専門サービス・バックオフィス需要新宿区は教育関連施設や出版社、専門サービス業、企業のバックオフィスなどが集まり、業務効率を重視した企業ニーズが高いエリアです。また、交通アクセスの良さから地方拠点を置く企業の東京事務所としてのニーズもあります。【誘致のポイント】堅実で効率的な空間設計、リーズナブルで安定したコスト設定、きめ細かいビル管理サービスの提供を明確に訴求する。●渋谷区:IT・クリエイティブ・アパレル・デザイン業渋谷区はITやクリエイティブ関連、アパレル、デザイン事務所など、新しい発想や柔軟なワークスタイルを持つ企業が多く集まります。若い世代を中心に多様な働き方が受け入れられるエリアとして、創造性を活かしたビジネスが活発です。【誘致のポイント】カジュアルで自由度の高いオフィス環境、柔軟な契約条件、クリエイティブな発想を刺激するような共用部や施設を提供する。 実際の成功事例を踏まえたテナントマーケティング戦略 実際に成功している事例を分析すると、次のような要素が共通しています。明確なターゲット設定に基づくマーケティング:特定の業種や企業規模にフォーカスし、そのニーズに沿った具体的なメリットを明示。効果的な情報発信:自社ウェブサイトやSNSなどを活用し、ターゲットに直接響く情報を一貫して発信。細かなニーズに対応する柔軟な運営体制:契約条件や入居後のフォローアップなど、テナントの状況に応じた柔軟な対応を実践。これらの戦略を踏まえてエリア特性と業種クラスターを正しく理解し、ターゲット企業のニーズを的確に把握した上でマーケティング活動を展開することで、築古・中型オフィスビルの競争力は大きく向上します。 第7章 自社メディア・サイトを主軸とした情報発信・コミュニケーション戦略 築古・中型オフィスビルの競争力を維持し向上させるためには、単に物件の改善や管理体制を整えるだけでなく、テナントや市場に向けた効果的な情報発信とコミュニケーションが不可欠です。この章では、当社自身のメディア・サイトを中心に、築古・中型オフィスビルの魅力を伝え、ブランディングを推進するための具体的な戦略を解説します。 自社メディア・サイトを活用したストーリーづくりとSEO強化 築古中型ビルを「魅力的な物語」に変えるコンテンツマーケティング当社が運営するメディア・サイトでは、単なる物件スペックや価格の提示にとどまらず、それぞれのビルが持つ個性やストーリーを魅力的に伝えるコンテンツを継続的に発信します。具体的には、過去のテナントの成功事例や、そのビルで行われたリノベーションや改善事例の裏側を紹介したり、実例の紹介を通じて現場の声や雰囲気を伝えるコンテンツを展開します。たとえば、「ビル管理者が語る、築30年超ビルの魅力と維持管理のポイント」や、「テナント企業が語る、築古ビル選択が事業成功に寄与した理由」など、具体的で共感を呼びやすいストーリーを掲載し、築古ビルへの理解や好感度を高めます。継続的なコンテンツ発信で閲覧数を高める手法SEO(検索エンジン最適化)対策として、定期的かつ計画的な記事更新を行います。エリア別オフィスマーケットのトレンド分析や、築古物件特有の管理運営のポイント、テナント誘致成功事例、業界の最新情報など、ターゲット企業や関係者が検索しやすいテーマを選定し、具体的なノウハウや情報を提供することで、自然な検索流入を増加させます。また、SEO対策としてキーワードの適切な使用、モバイル対応、読みやすい記事構成、内部リンクの最適化なども徹底し、自社メディア・サイトへのアクセス性を向上させます。 ビル管理会社としてのブランド構築との相乗効果 「プロのビル管理者」としてのブランドを表現するコンテンツの考え方当社のビル管理会社としてのブランド構築において、自社メディア・サイトのコンテンツは企業の個性や価値観を明確に表現する重要な手段です。当社が重視する「誠実な管理運営」「まやかしのない本質的な改善」「テナントとの長期的な信頼関係構築」などの理念を、事例紹介、コラム記事を通じて具体的に伝えます。さらに、当社が日頃取り組む地道なビル管理作業やトラブル対応の舞台裏を紹介することで、テナントや見込み客に対し、透明性や信頼性をアピールします。コラムによる具体的なコンテンツ営業戦略定期的に更新するコラムを通じて、業界のトレンドや具体的な管理・運営のノウハウを分かりやすく提供します。これにより、当社の「賃貸オフィスビル・マーケットの専門家」「頼れるパートナー」という位置付けを市場に印象付けます。たとえば、「築古・中型オフィスビルにおける費用対効果の高い管理方法とは?」や、「テナント視点で考える、長期入居したくなるビルの条件」など、テナント企業や仲介会社が興味を持ちやすいテーマでコンテンツを構成し、見込み客の関心を引きます。各種不動産情報サイト、SNS活用のサブ施策としての位置づけと使い分け当社が展開する自社メディア・サイトを主軸としつつ、不動産情報サイトやSNSなども効果的に活用して、自社メディア・サイトへの誘導や市場での情報認知度を高めます。不動産情報サイト:物件のスペック、賃料など客観的で具体的な情報を掲載し、実務的なニーズを持つテナント企業や仲介会社への訴求を図ります。SNS(Facebook、X(旧Twitter)、Instagramなど):リアルタイム性や親しみやすさを重視し、自社メディアの新規コンテンツ更新の告知や、管理・運営の舞台裏など、気軽で身近な情報を発信も検討課題です。SNSを通じた情報拡散やエンゲージメントを高め、自社メディア・サイトへの訪問を促進します。 第8章 行政が動かない今、築古ビルオーナー自身が主体的に動くために 東京都の政策を見ると、大規模再開発や一部の先進的なリノベーション事例への支援は行われていますが、個別の中型・築古ビルへの細かなサポートや具体的な施策展開には限界があります。これは財政的・人的なリソースの制約からもやむを得ない側面があり、築古・中型ビルの価値向上については、最終的にはオーナー自身の主体的な意思に委ねられているのが現実です。東京都においても、老朽化したビルストックの活用に関して近年ビジョンを示し始めています。小池知事の掲げる「未来の東京」戦略では、既存建築物をリノベーションし、新たな需要に応える用途へ転換する方針が明記されています。例えば「老朽化した建築物を改修し、市民から需要の高い住宅へと転換」するといった既存ストック活用策も示され、古いオフィスビルを住宅などにコンバージョンして都市に潤いを与える取り組みが強調されています。また、歴史的・文化的価値のある建物は保存・活用して街のにぎわい創出につなげる方針も示されており、東京都は新築偏重ではなく「成熟都市として魅力を高めるまちづくり」の一環で築古ビル再生を位置づけています。具体策として、東京都は既存ビルの改修を後押しする制度も開始しました。2024年度から「中小規模事業所のゼロエミッションビル化支援事業」を立ち上げ、中小企業等が所有する中小オフィスビルの省エネ改修に対し、調査設計費や断熱・空調設備更新費用の一部を助成しています。さらに報道によれば、東京都は2025年度から民間の既存ビル再生プロジェクトに対する整備費助成制度も検討しており、先進的なリノベーション事例を公募・支援する方針です。こうした東京都の施策からは、築古オフィスビルを含む既存ストックの活用を促進し、安全性・快適性や環境性能を高めつつ都市の競争力維持を図るスタンスがうかがえます。もっとも、都心部では大規模再開発による超高層オフィス計画も推進されており、東京都は大規模再開発による都市更新と、既存中小ビルのリノベ支援の双方を並行して進めている状況です。一方、業界団体である日本ビルヂング協会連合会(JBOMA)も、築古オフィスビルが抱える課題について問題提起し、行政への要望活動を行っています。同連合会は全国のビルオーナー・ビル管理会社約1300社を会員とする組織で、毎年政府に対して税制改正要望などロビー活動を実施しています。例えば令和6年度税制改正に関する要望では、老朽化ビルの建替え・改修を後押しするための税制優遇措置の拡充を国に求める提言を提出しています。具体的には、耐震改修や省エネ改修を行った際の固定資産税減免措置の延長・拡大や、建替え時の譲渡所得税特例(いわゆるビルの立体買換え特例)の要件緩和などを求め、築古ビル更新のインセンティブ強化を図ろうとしています。しかし、これら行政や業界団体の施策には一定の限界があります。行政の補助や支援策は公共的意義が認められる範囲、つまり耐震や省エネ、防災といった公益性の高い分野に限られることが多く、内装や設備更新、ICT環境整備などのテナント誘致に直接関わる改修は原則対象外です。これは、中型オフィスビル・オーナーが実際に市場競争力を高めるために必要な施策が、公的支援ではカバーされにくいことを意味します。また、制度の利用には煩雑な申請手続きや書類整備が必要であり、中小規模のビルオーナーにとって実務的な負担が大きいのも課題です。申請に必要な専門知識や人的リソースが不足している場合、制度の利用自体が困難になります。さらに、行政の財政には限りがあり、助成制度の対象は多くの場合、先進的事例やモデルケースに絞られるため、都内の多くの中型築古ビルがその恩恵を受けることは難しいという現状があります。結局のところ、公的支援は中型・築古ビルの再生においては補完的な役割にとどまり、多くの場合は市場原理に基づいて競争力の有無が試されることになります。そのため、オーナー自身が主体的かつ積極的にビルの価値向上に取り組まざるを得ない状況が続いています。こうした現実を受け止め、築古・中型ビルのオーナーに求められるのは、行政や業界団体の支援を待つのではなく、自らが主体的に動き、自分たちの物件を再評価させるための具体的な行動を取ることです。次章では、このようなオーナー自身が実行可能で効果的な施策を、ブランディングの視点から詳しく掘り下げていきます。 第9章 まとめ:築古ビルオーナーが主体的に取り組むべきブランディング戦略 築古・中型オフィスビルには、どうしても「古い」「設備が遅れている」といったネガティブなイメージがつきまといます。しかし、このネガティブなイメージをただ受け入れるのではなく、むしろ積極的に改善し、ポジティブな特徴として再構築することで、市場において十分な競争力を持つ物件へと再評価される可能性があるのです。そのためには、オーナー自身が主体的かつ戦略的にブランディングに取り組むことが極めて重要です。ここでいう「ブランディング」とは、表面的なリフォームや一時的な話題作りではありません。それは自物件の固有の価値や魅力を見出し、それを明確なメッセージとして市場やテナントに訴求し、長期的な信頼関係を築いていく継続的なプロセスを指します。ブランディング戦略を丁寧かつ計画的に進めることにより、テナントからの共感と信頼を得て、持続的な入居率の安定化と収益向上を図ることが可能になります。では、具体的にオーナーがどのような施策を進めていけばよいのかを見ていきましょう。 ① 日常管理の徹底と効率的な設備改善 ビルの第一印象は、訪れるテナント企業や関係者にとって極めて重要な判断材料です。特に古いビルにおいては、清掃が行き届かない、照明が暗い、設備が不調であるといった小さな問題点がすぐにネガティブな印象として定着してしまいます。そこで、日常の清掃管理を徹底することで建物の清潔感を常に維持し、設備点検を定期的に行い、問題発生前に未然に防ぐ仕組みを作ります。大規模な設備投資が難しい場合でも、既存設備を最大限に活用し、小規模な改善で効果的に価値を向上させることができます。具体的には、エントランスの壁や床のリニューアル、照明のLED化、トイレや給湯室の衛生設備更新など、目に見えて分かりやすいポイントから改善を進めることが効果的です。こうした細やかな対応を着実に進めることで、「しっかりと管理されている」という印象を築き上げ、入居テナントの満足度を向上させることができます。 ② 市場動向の収集・分析とテナントターゲッティングの明確化 築古・中型ビルの競争力向上には、最新の賃貸オフィスビル市場動向や周辺エリアの業種傾向を把握し、適切なテナントを明確にターゲットすることが不可欠です。具体的には、エリアごとの業種集積状況を分析し、自ビルがどの業種のニーズを満たすことができるのかをしっかりと把握することです。例えば、法律事務所や会計事務所といった士業、公益団体やシンクタンク、あるいはIT系やデザイン系企業など、自物件の立地や設備環境に最も適合するテナント層を明確にします。その上で、それらターゲット企業のニーズに即したサービスや空間作りを行い、ピンポイントで魅力的な提案を実施することで、効果的なテナント誘致を図ることが可能になります。 ③ ネガティブイメージの払拭を目指した効果的な情報発信 オフィスビルのブランド価値を向上させるためには、テナントや市場への情報発信が極めて重要な要素です。特に、築古ビルが持つネガティブなイメージを覆すためには、単なる物件情報やスペックを提示するだけでなく、そのビルが持つ独自の魅力やストーリーを伝えることが必要です。具体的には、物件のネーミングやロゴを新しく制作する、ウェブサイトやパンフレットで改修内容や管理運営の舞台裏を積極的に伝える、過去のテナント企業がそのビルを選んだ経緯や成功した事例を紹介するといったアプローチを採用します。これらの情報を魅力的かつ統一されたブランドイメージとして発信することにより、ポジティブな評価を市場やテナント企業から得ることができます。また、専門的なブランディング支援を行う企業をパートナーとして活用し、より効果的かつ効率的にブランド戦略を推進していくことも選択肢の一つです。当社は、このようなブランディング施策を全面的に支援します。ビル管理運営からマーケティング、情報発信までを一貫してサポートすることで、オーナーが築古ビルの持つ真の価値を引き出し、市場競争力を効果的に高めるパートナーとなります。ぜひ私たちと共に、築古ビルの新たな可能性を切り開いていきましょう。 おわりに ― オーナーの行動が、東京のオフィスビル市場を変える 築古・中型オフィスビルは、単に「老朽化した物件」として扱われる存在ではありません。都市のインフラとして、中小企業や専門職、公益団体といった多様な事業主体を支え、ビジネスの多様性と柔軟性を下支えする“都市の土台”とも言える存在です。しかし、現実にはスポットライトが当たりにくく、政策面でも支援の網が行き届かない領域にあります。そのなかで問われているのは、オーナー自身が「自分の物件をどう位置づけるか」「どんな価値を提示するか」という“姿勢”と“構想力”です。行政に期待できることには限界があります。だからこそ今、築古ビルの再評価を進め、物件ごとの個性や地域とのつながりを活かしながら、自ら価値を再定義する行動こそが、最も現実的で力強い選択肢になってきています。都市に求められるのは、ただ新しく建て替えることではなく、「いまある資産を、いかに持続可能なかたちで活かし続けるか」という視点です。そしてそれは、誰かの大規模な投資や革新的なテクノロジーに頼るものではなく、日々の地道な管理と、一つひとつの判断の積み重ねによってこそ実現されていきます。私たちは、そうした“今あるものを活かす力”を信じています。築古・中型オフィスビルの価値を掘り起こし、現代のテナントニーズに丁寧に応えながら、新たなブランドとして再構築していく。そんな持続的で誠実なブランディングの取り組みこそが、これからの東京を支えるオフィスマーケットの“質”を底上げする鍵になると考えています。そして、何よりもそれを可能にするのは、オーナー自身の意思と行動です。私たちはその一歩を、実務と戦略の両面から支え続けていきます。ともに、築古ビルの未来を、東京都心の未来を、つくっていきましょう。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月9日執筆2025年12月09日 -
分譲
ビル分譲ガイド 不動産投資商品の選び方
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの羽部です。この記事は「ビル分譲ガイド 不動産投資商品の選び方」のタイトルで、2025年12月8日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次第1章 不動産投資商品の名称と特徴第2章 投資金額別商品例と対象資産の特徴第3章 投資目的に応じた不動産投資商品例とその説明第4章 不動産投資商品の立地区分の例とその説明第5章 まとめ・不動産投資チェックリスト 第1章 不動産投資商品の名称と特徴 不動産投資の分野では、特にビル投資において多彩な表現が使われます。以下では、特に「ビル分譲」「ビル1棟売り」「投資用不動産」「売りビル」など、不動産投資広告でよく目にするキーワードについて、それぞれの意味・特徴を広告文例とともに分かりやすく整理します。「不動産投資に興味があるのでネットで調べてみようと思うけれど、どのように調べれば良いのかわからない」と感じている方が具体的な物件の情報を調べるうえで必要な基本的な知識としてご覧下さい。 1.ビル分譲(区分所有・1棟全体) 【意味】・「分譲住宅」が良く使われるため、これに準えた「分譲ビル」という表現でビルの「区分所有権」販売を示す。・1棟ビルを「フロア単位」または「区画単位」に細かく分割し、個別に販売する方法。購入者は区分所有権を取得する。・1棟ビル全体を販売する方法。分譲対象がビルという部分に焦点をあてた表現。・建物の分類はビルとなる不動産について、「区分所有権」を含む「所有権」販売全般を意味する。【表現例】・「都心オフィスビルの1区画を区分所有で手軽に購入」・「フロア単位で所有可能な区分オフィス投資」・「少額からのオフィス投資。相続・節税対策にも最適」・「予算に応じた安定資産のビル投資。インフレ対策に最適。」【対象・特徴】・一般投資家向けに投資金額が数千万円~数億円程度から参入可能。・節税対策、相続税対策、資産形成のニーズに対応。・区分所有建物の場合、他オーナーとの共同管理が必要。・分譲不動産は所有形態によらず自己使用または賃貸収益を目的とする。 2.ビル1棟売り(1棟収益ビル・1棟オフィス) ・ビル全体(建物1棟丸ごと)を販売する方法。・ビル分譲が様々な規模の不動産を対象としていることと比較し、1棟は区分所有を除外し、相対的に資産規模が大きい不動産の販売方法。表現例・「駅前好立地、1棟収益ビル」・「人気エリアの1棟オフィスビル。満室稼働中」・「1棟ビル投資で高収益・高利回りを実現」特徴・投資規模が大きく(数億円~数十億円)、比較的富裕層や法人投資家が主対象。・オーナーが単独所有のため、運営方針を自由に決定できる。・キャッシュフローと資産規模拡大に向くが、資金力・リスク許容度が求められる。・収益ビルと表現した場合は賃貸収益を目的とする。1棟オフィスは自己使用が可能な物件も含まれ、自己使用と賃貸収益双方を目的とする場合も含まれる。 3.投資用不動産(収益不動産・オーナーチェンジ物件) ・賃貸収入(インカムゲイン)や売却益(キャピタルゲイン)を目的に取得する不動産の総称。・賃貸不動産を対象とし、区分所有も1棟全体も対象表現例・「投資用区分オフィス、即収益物件」・「利回り〇%のオーナーチェンジ物件」・「賃貸稼働中の収益ビル、安定収入物件」特徴・購入時点でテナント(借主)が既に入居中の場合は、「オーナーチェンジ物件」と呼ばれる。・価格に対して年間賃料収入を示した「利回り」を強調する表現が多い。この利回りはあくまで物件比較のための目安であり、投資家が実際に得られる収益は異なる場合がある。・物件の種類は多様(ビル、マンション、店舗、倉庫など)である。 4.売りビル(販売ビル・売ビル) ・販売目的で市場に出ているビル物件。区分所有ではなく原則として1棟売却を指すことが多い。表現例・「売りビル情報多数あり。未公開物件も」・「都心の売りビル、レア物件につきお早めに」・「1棟ビル売却案件・非公開案件をご紹介します」特徴・区分販売ではなく、1棟まるごとの売却をイメージさせる用語としてよく使われる。・建物の状態・収益状況・立地によって価格や利回りが変動し、資産価値や出口戦略がポイントになる。・分譲不動産は所有形態によらず自己使用または賃貸収益を目的とする。主なターゲットは法人や富裕層の投資家。 5.その他よく使われる不動産投資商品名称 (1)レジデンス・レジ物件居住用マンション・住宅を指し、マンションの賃貸収益を狙った投資。(2)バリューアップ物件リノベーションやリーシング改善により付加価値向上を狙う物件。中古物件を安く買い、改修後に収益性を高める。(3)底地・借地権付き物件土地所有者と建物所有者が別々の物件。権利調整が複雑だが、安価で高利回りを狙える。(4)開発素地物件既存建物と土地が対象の不動産のなかで、建物の築年が経過して経済価値が低くなっている場合や既存不適格などの瑕疵がある場合などですべての賃借人退去後に建物解体のうえ新築建物の建築計画を予定する物件。必ずしも建物解体が必要ではなく、建物リニューアルを行う場合もある。 6.各表現の比較・整理 表現対象不動産投資規模主な投資家収益性投資難易度ビル分譲(区分)オフィス1フロア・店舗1区画中小規模(数千万~数億円)個人・中小法人中程度~高め(立地次第)易しい(管理も外注可)ビル1棟売りオフィス・商業ビル1棟大規模(数億~数十億円)富裕層・法人中程度~高(リスク・規模大)-投資用不動産マンション・オフィス・店舗など全般幅広く小規模~大規模まで個人~法人まで幅広い中程度~高め-売りビル(1棟)主に1棟のオフィス・商業ビル大規模(数億円以上が一般的)法人・富裕層中心- 7.不動産投資商品名称のまとめ(ポイント) ・「ビル分譲(区分所有)」はフロアや区画単位で所有可能で、比較的少額投資。・「ビル1棟売り」「売りビル」は、1棟単位で売却され、法人や富裕層向けの高額投資案件。・「投資用不動産」は収益性を前提とした全般的な不動産を指し、入居中物件(オーナーチェンジ物件)も含まれる。こうした用語を理解しつつ、それぞれの投資目的や規模、資産運用戦略に応じて物件選びを行うことが重要です。 第2章 投資金額別商品例と対象資産の特徴 前章で不動産投資商品の広告等で使われる用語の具体例を説明しました。より具体的な不動産投資商品のイメージを持って頂くため、不動産投資商品・対象資産を投資金額帯ごとに具体的に整理し、代表的な投資例・特徴をまとめます。誰にとっても良い投資商品というものは存在しません。下記の整理を参考に、自身の資産規模や目的に合わせて最適な不動産投資商品を選ぶことが重要です。 1.【数十万円~数百万円】不動産小口化商品(不動産クラウドファンディングなど) ・一口10万円~数百万円程度の少額で都心の商業ビルやマンション等に投資可能。・クラウドファンディング会社が不動産を取得・管理し、出資者は出資金に応じて配当を得る。・物件管理やテナント対応などは業者任せ。投資初心者向き。(具体例)・OwnersBook(ロードスターキャピタル)・CREAL(クリアル)・Rimple(プロパティエージェント) 2.【数百万円~数千万円】区分所有マンション(ワンルームマンション投資) ・分譲マンションの1戸(区分)を購入し、賃貸収入を得る。・都市部で駅近の好立地マンションを中心に需要がある。・個人投資家が比較的少額で参入しやすく、管理が容易。(具体例)・プロパティエージェント・日本財託・FJネクストホールディングス(ガーラマンション) 3.【数百万円~数千万円】区分所有オフィス・店舗 ・ビルの1フロアまたは区画を区分所有権で購入。・オフィスビルや商業施設の1フロア単位で、安定的なテナントが入居する立地の良い物件が多い。・節税・相続対策としても利用される。(具体例)・ボルテックス(区分所有オフィス)・サンフロンティア不動産(バリューアップ物件)・インテリックス(中古区分商業ビル) 4.【数百万円~数千万円】底地投資(借地権が付いた土地の所有権) ・借地権者が建物を所有し、土地の所有権だけを持つ状態。・毎月の地代収入は得られるが、土地利用が制限される。・収益性は低めだが相続税評価減・節税目的で投資される。(具体例)・都市部の底地専門業者(トーセイ、日本土地建物、日本商業開発など) 5.【数百万円~数千万円】借地権付建物(一戸建て住宅や小規模建物) ・土地は他人(地主)が所有し、建物のみ所有権を持つ。・投資額が抑えられる反面、地主との関係性が重要で、土地の利用や建替えに制限あり。・都心の住宅地や商業エリアで多く存在。投資利回りは高めだが流動性がやや低い。(具体例)・都内23区などの借地権付戸建住宅・店舗付き住宅など・下町エリアでの老朽住宅をリフォームして賃貸運用するケースも多い。 6.【数千万円~1億円未満】ロードサイド店舗(所有権土地建物一括) ・土地・建物の完全所有権で、ロードサイド店舗(コンビニ・飲食店・ドラッグストアなど)を所有。・投資額が比較的高いが、安定した賃料収入が見込め、管理負担が少ない。・土地の価値が安定しやすく、中長期的に収益性が高い。(具体例)・コンビニ、ドラッグストア、飲食チェーン店(回転寿司、ファストフード)などの単独店舗物件。・大東建託などが一括借上げ(サブリース)で提供するケースもあり。 7.【数億円以上】オフィスビル1棟・商業ビル1棟 ・1棟丸ごと所有するため投資規模が大きく、法人や富裕層向け。・収益力(利回り)と出口(売却・転売)戦略が重要になる。・管理は管理会社に委託することが一般的。(具体例)・都心の中規模オフィスビル(5億円~10億円)・商業地(駅前・繁華街)の1棟店舗ビル 8.【数十億円~】大型オフィスビル・商業施設(1棟所有権) ・資金規模が大きく、機関投資家やファンド、REITなどが購入主体となるケースが多い。・賃料収入だけでなく、価格上昇(キャピタルゲイン)を狙う投資もある。・一般個人投資家にはハードルが高い。(具体例)・J-REITが取得するような丸の内エリア、虎ノ門エリアのオフィスビル(数十億円以上)・外資系ファンド(ブラックストーン、ケネディクス)等の投資対象 9.投資金額帯別不動産投資商品のまとめ 金額帯投資対象(例)特徴権利形態対象投資家数十~数百万円不動産クラウドファンディング(証券化商品)手軽な金額でリスク分散型投資を実現小口化持分・匿名組合出資初心者個人百万円~数千万円区分所有マンション・区分所有オフィス区分所有マンション・区分所有オフィス比較的低予算で所有しやすく、節税や資産形成が目的区分所有権個人・小規模投資家数百万~数千万円底地・借地権付き家屋制約付きながらも、都心立地を低予算で保有できる底地権・借地権付き建物所有権個人・小規模投資家数千万円~1億円未満ロードサイド店舗(土地建物)など安定的で利回りが良く、土地・建物がセットの完全所有完全所有権(土地・建物)富裕層・中小法人数億円以上ビル1棟・大型オフィス・商業ビルビル1棟・大型オフィス・商業ビルまとまった資金が必要だが、安定的かつ規模の大きな収益を狙える完全所有権(土地・建物)富裕層・法人投資家 10.投資目的に応じた商品例 ●少額からスタートしたい初心者不動産クラウドファンディング・区分所有ワンルームマンション●節税・相続税対策の投資家戸建住宅・区分所有マンション・区分オフィスなど●安定収益重視の投資家ロードサイド店舗・賃貸アパートなど●資金力があり収益性・売却益重視の投資家都心1棟ビルなど完全所有権型 第3章 投資目的に応じた不動産投資商品例とその説明 投資対象となる不動産について、比較的商品の選択肢が多くあるものについて例を挙げ、「投資対象としての特徴」や「投資のポイント」を簡潔かつ整理して解説します。 1.戸建て住宅(賃貸用) 投資特徴:個人の居住需要に対応した賃貸住宅。単身世帯~ファミリー世帯まで幅広いニーズに対応可能。比較的初期投資額が低め(数百万円~数千万円)。利回りは高めだが、入居者退去時の空室リスクがある。メリット・デメリット:【メリット】売却しやすい・自己利用に転用可能。【デメリット】1戸空室で収入がゼロになるリスク。 2.アパート・マンション等の共同賃貸住宅(1棟投資) 投資特徴:複数の住戸をまとめて運営するため、空室リスク分散が可能。安定的な家賃収入を期待でき、初心者~プロ投資家まで広く人気。築浅物件は利回り低め(3~5%)、築古物件は高利回り(7~10%以上)も。メリット・デメリット:【メリット】安定収益・空室リスク分散。【デメリット】修繕コストが大きくなる・管理コスト発生。 3.オフィスビル(1棟・区分所有) 投資特徴:法人がテナントとなるため家賃が高く、安定した収益を見込める。都市部の好立地ほど賃料・稼働率が安定。賃貸契約期間が比較的長い(3~10年)ケースが多い。メリット・デメリット:【メリット】法人テナントによる長期安定収益。【デメリット】景気影響を受けやすく、空室時の収益低下リスク。 4.テナント商業ビル(店舗・商業施設) 投資特徴:商業店舗、飲食店、クリニック、美容室など、多様な業種が入居。ロードサイド店舗は利回り5~8%前後で比較的高収益。立地が極めて重要で、駅前・幹線道路沿いが有利。メリット・デメリット:【メリット】立地次第で収益性が高い。【デメリット】景気変動の影響を受けやすく、テナント入替時の空室リスクがある。 5.オフィスビル(事務所用途) 投資特徴:法人テナント対象で、賃料が安定しやすい。都市中心部でのニーズが高く、区分所有で小口投資も可能。バリューアップ(リノベーション)で資産価値を向上可能。メリット・デメリット:【メリット】長期契約で安定収益が狙える。【デメリット】景気変動による賃料低下・空室リスク、管理費や修繕コストが高い。 6.テナント商業施設(ショッピングモール・複合商業施設) 投資特徴:大規模施設はREITや法人投資家向き。安定テナントを誘致できれば賃料収益は安定するが、規模が大きく投資額も高額。郊外型大型商業施設は集客次第で収益が変動する。メリット・デメリット:【メリット】収益の安定性・知名度向上による資産価値維持。【デメリット】空室発生時の影響大。初期投資が高額。 7.底地(土地のみ所有、借地権建物あり) 投資特徴:地代収入を得る目的で投資。自己利用・建築自由度が低い。相続評価額が低く節税に効果的。メリット・デメリット:【メリット】節税効果・安定収入。【デメリット】土地利用や売却が困難。収益性低め。 8.借地権付き建物(建物のみ所有、土地は借地) 投資特徴:土地は借地のため安く、少額で賃貸用建物を所有可能。比較的利回りが高いが地主との関係性が重要。メリット・デメリット:【メリット】投資額抑制。利回りは高め。【デメリット】土地利用の制限。地主との交渉が必要。 9.土地・建物の完全所有権(ロードサイド店舗・事業用地) 投資特徴:コンビニやファミレス、ドラッグストア等のロードサイド店舗。完全所有のため土地・建物の自由利用や売却が可能。メリット・デメリット:【メリット】所有権自由度高・安定的収益・売却しやすい。【デメリット】初期投資額が大きめ。 10.ホテル 投資特徴:観光需要に応じた宿泊施設への投資。稼働率や景気に左右されやすく収益性変動あり。都市部ホテル、リゾートホテルなど種類は多様。メリット・デメリット:【メリット】観光地立地では高収益可能。【デメリット】運営リスク(稼働率変動)が大きい。 11.倉庫・物流施設 投資特徴:EC需要増加に伴い、物流拠点ニーズが上昇。賃貸期間が長期(5~10年)で安定収益が見込める。メリット・デメリット:【メリット】賃料収益安定性高・管理負担低め。【デメリット】立地の選定次第で稼働率・売却難易度が左右。 12.その他の一般的な投資対象例 ●コインパーキング・月極駐車場初期費用が比較的安価。土地活用での暫定措置としても一般的。都市部で稼働率が高いが、固定資産税対策としての一時利用。●トランクルーム・レンタル倉庫初期投資低め・安定したニーズ。利回り高め(8~12%前後)。個人・小口投資家向けの運営会社による投資商品もある。 13.まとめ(不動産投資対象別の特徴比較) 種類安定性利回り目安流動性投資難易度戸建て住宅△中~高め高易アパート・マンション〇(安定)中~高め中程度-オフィスビル〇(景気敏感)中~高め中~難-商業施設〇(立地次第)中~高め中~難-底地◎(低収益)低め難しい-借地権付建物〇(制約あり)中~高め難-ホテル△(不安定)高め難-物流施設◎(安定)中中程度- 投資対象ごとに特徴やリスクが異なるため、それぞれの目的・資金力・リスク許容度に応じて選択することが大切です。 第4章 不動産投資商品の立地区分の例とその説明 本章では、代表的な立地分類(都心の商業地、オフィス街、近郊住宅地、地方都市、地方山村)を用いて、不動産投資対象としての特徴を整理します。また、代表的分類に一般的な区分を追加・整理し、それぞれの投資上の留意点もあわせて解説します。必ずしも1つだけに分類されるとは限らない場所もありますが、これらの分類を参考に、自分の投資目的や資金規模、リスク許容度、運営手間に応じて、投資対象の立地を選定するとよいでしょう。 1.立地別の不動産投資特性一覧表 立地区分主な投資対象特徴(メリット)注意点(デメリット)都心商業地商業ビル・店舗・オフィス人口・商業集積が高く、需要が安定的。資産価値が高く流動性も高い。土地価格上昇によるキャピタルゲインも期待可。価格が高額で利回りは低め。景気・市場変動の影響を受けやすい。オフィス街オフィスビル・テナントビル安定した法人需要。長期賃貸契約で安定収益。区分所有も可能。企業移転など景気変動に伴う空室リスク。築古物件は維持管理コスト高め。近郊住宅地マンション・アパート・戸建住宅ファミリー層中心の安定的な居住ニーズがあり、空室率低め。購入価格も比較的手頃。競争物件が多く家賃競争が激しい。人口減少エリアでは空室リスク増加。地方都市(中核都市・地方県庁所在地)賃貸住宅・ロードサイド店舗・ビジネスホテル購入価格安価。一定の都市需要が存在し、利回りが高め(6~10%)。人口減少・賃料下落・テナント撤退時の空室リスクが大きい。地方山村(過疎地)別荘・民泊施設・太陽光発電用地土地価格が安く、利回り(表面利回り)が高い。自然資源活用型投資(太陽光・林業など)可能。流動性が低く換金困難。賃貸需要は極めて低い。 2.各エリアの詳細な特徴解説 ① 都心商業地(銀座、新宿、梅田など)人口集中度・消費ニーズが高く、店舗ビルやテナント向け商業ビルとして魅力的。投資対象は高額で利回りは低い(2~4%台)が、キャピタルゲイン(売却益)を狙える可能性もある。地価が安定して高く、流動性も高い(換金性が良い)。【広告表現例】「希少立地!駅徒歩1分の好立地収益ビル」 ② オフィス街(東京の丸の内・大手町、大阪の梅田・淀屋橋)法人がメインターゲットで、安定したテナント需要。区分所有オフィス投資が一般的で、節税・相続対策としても人気がある。景気後退や企業移転で一時的な空室が生じやすい。景気敏感型の資産。利回りは4~6%程度が一般的。【広告表現例】「東京主要オフィス街の区分所有ビル、安定稼働中」「1棟オフィスビル投資、法人テナント契約済み」 ③ 近郊住宅地(東京近郊:三鷹・川崎・横浜・千葉・埼玉のベッドタウン)居住需要が安定し、賃貸住宅・一戸建住宅(賃貸)が人気。投資物件としては賃貸マンション・アパート中心で、中古戸建を賃貸転用も多い。ファミリー向け・単身者向けと多様な物件があり、賃貸ニーズは比較的安定。投資利回りは5~7%程度が一般的で、競争激化のため家賃の維持が難しい地域も多い。【広告表現例】「都心通勤圏、満室稼働中の1棟アパート投資」「利便性良好の中古戸建住宅、リフォーム後即収益可」 ④ 地方都市(地方県庁所在地・中核都市、例:仙台、広島、熊本など)地方都市中心部は人口が安定しているが、周辺エリアは人口減少傾向。投資物件はマンション、商業店舗、ビジネスホテルが主流。購入価格が比較的低いため高い利回り(8~10%以上)を狙えるが、将来の空室リスクがある。【広告表現例】「地方都市中心街で利回り10%以上の収益アパート」「地方都市の駅前テナントビル、満室稼働中」 ⑤ 地方山村(農村・過疎エリア)自然豊かな環境を生かした投資が主流(太陽光発電、別荘、民泊施設など)。投資額は安いが、管理や稼働率に課題が多い。投資としては玄人向き。流動性が低く売却時に苦労することがある。【広告表現例】「地方の別荘地で民泊投資、利回り15%超も可能」「地方山林を活用した太陽光発電投資、安定的な売電収入」 3.その他、投資対象として一般的なエリア分類(補足) 駅前繁華街(地方都市含む)商業テナント需要が高く、空室リスクが低い。1棟ビル投資、店舗区分投資として有効。ロードサイド店舗(郊外エリア)コンビニ・飲食店・ドラッグストアなど、郊外でも安定収入が可能。賃料が安定しやすい長期契約が多い。観光地(リゾートエリア)民泊・ホテル・別荘型施設への投資が有効。観光需要に左右されるため、収益性は変動しやすい。土地・駐車場(都市・郊外問わず)賃貸運営コストが低く、節税にも有効だが、収益性はやや低い。将来の開発を見込んで購入するケースが多い。 4.投資対象としてのポイント整理 ・都市の中心地ほど価格が高く収益率が低め、地方ほど価格が安く利回りは高い傾向。・人口動態、立地特性、テナント・居住ニーズなどを考慮し、資産価値の安定性と流動性をバランスよく考えることが重要。・初心者向き:近郊住宅地(マンション・戸建て)や都心区分所有(マンション)。・経験者・法人向き:オフィスビル・商業ビル・物流施設。・ハイリスク・ハイリターン型:地方山村エリアの民泊・太陽光施設。 第5章 まとめ・不動産投資チェックリスト 以下に、「不動産投資を行う際のチェックリスト」を体系的に構成します。これまでの章でどのような商品があるか、その特徴を述べて参りましたが、具体的な商品を見ることが不動産投資の第一歩です。自分にあった商品を探すために、まずはチェックリストをもとに自分の希望を整理したうえで、具体的な物件を調べてみて下さい。不動産投資について調査を重ねるなかでより具体的な希望条件が明確になれば、実際の物件がその希望条件にどの程度合致するかを判断することができます。そのような手順を進めるうえで、具体的なかつ実用的なチェック項目をまとめました。不動産は同じ物件は2つとないため、個々のチェックリストが全体的に関連し、最終的な価格や収益に影響してきます。網羅的な項目を挙げていますので、初心者には不明な項目があるかもしれませんので、それらはブランクでも大丈夫です。ご自身の希望条件に合致した投資物件をいくつか見つけることができれば、一定の相場観のようなものを掴むことができます。これはこういう部分があるから安いのか、あれはああいう部分が魅力的なので高めなのか、などのご自身なりの判断ができるようなればもう不動産投資家です。 1.不動産投資チェックリスト・フローチャート 以下の順序でチェックを進めていきましょう。✅ STEP1【投資目的の明確化】投資目的を設定(インカムゲイン、キャピタルゲイン、節税・相続対策など)投資期間の設定(短期・中期・長期)投資許容リスク(安定重視 or 高利回り重視)投資予算(自己資金・借入可能額)✅ STEP2【物件種類・権利形態の選定】投資金額に適した物件種類を選定(小口化商品・区分所有・1棟所有・底地等)投資目的に適合する物件種別(居住用・商業用・事務所用・ホテル・物流施設等)権利形態(所有権・借地権・底地・区分所有)を明確化✅ STEP3【エリア・立地の選定】地域区分を明確化(都心・近郊・地方都市・郊外等)立地特性チェック(交通利便性・人口動態・商圏人口・行政施策)周辺環境チェック(競合物件・嫌悪施設・将来の再開発計画の有無など)✅ STEP4【物件現地調査・物理的確認】築年数・構造(RC・鉄骨・木造など)建物の状態(劣化・修繕履歴・リノベーション有無)設備状況(水回り・空調・エレベーター・防犯・防災設備など)耐震性のチェック(新耐震・旧耐震、耐震診断・補強有無)アスベスト(石綿)調査済みの有無(石綿障害予防規則対応状況)✅ STEP5【収益性分析】表面利回り(年間賃料 ÷ 購入価格)実質利回り(実際の諸経費を差し引いた実質収入ベースで計算)周辺の賃貸相場との比較(割高・割安を把握)空室率のチェック(現状および周辺の稼働率)収支シミュレーション(キャッシュフローの安定性を精査)将来の家賃下落・経年劣化・修繕費用上昇リスクの検討✅ STEP6【法務・権利関係の確認】登記簿謄本確認(所有者・抵当権・借地権の権利関係)法令制限チェック(用途地域・建ぺい率・容積率・高さ制限)契約関係書類(賃貸借契約書・管理委託契約書)の内容確認借地権物件・底地の場合の地主・借地人との関係性確認✅ STEP7【資金調達・融資の検討】金融機関の融資評価額(融資可能額・金利・融資期間・担保条件)自己資金と融資のバランス(無理のない返済計画かどうか)借入に伴うリスク(返済計画、金利変動リスク、繰上げ返済条件)✅ STEP8【管理運営体制の確認】管理会社の有無・管理手数料管理会社の実績・信用・対応力テナント対応(募集・クレーム対応)の仕組み確認維持管理・修繕計画の体制(長期修繕計画有無)✅ STEP9【出口戦略(売却時)の確認】売却可能性・流動性の高さの確認(将来的な換金性)近隣エリアの過去売却事例確認(価格推移)売却タイミングの想定・投資期間の再確認✅ STEP10【総合的な最終投資判断】投資目的に対する物件の総合評価投資リスクとリターンのバランス評価投資判断に関する第三者専門家(税理士・不動産鑑定士・建築士)の意見・助言を得る 2.フローチャートで整理する不動産投資プロセス 投資目的・予算設定 ⬇️物件種類・権利選定 ⬇️エリア・立地選定 ⬇️市場調査・物件情報確認 ⬇️現地調査・物件状況確認 ⬇️収益性分析 ⬇️法務・権利関係確認 ⬇️資金調達・融資検討 ⬇️管理運営体制確認 ⬇️出口戦略検討 ⬇️総合的な最終投資判断 3.このチェックリストの活用方法 ・各項目を順番に確認することで、体系的で網羅的な投資判断を行えます。・判断に迷った場合、各項目のチェックを再度振り返り、専門家への相談を挟むことも有効です。・実際の投資判断の際に、チェック項目を印刷・整理して、物件ごとに客観的評価を行いましょう。 4.補足:不動産投資で忘れがちな注意事項 ・景気変動や市場動向を考慮した保守的な収支予測を立てること。・税務・法務・建築の専門家との連携によって投資リスクを低減すること。・不動産市場や関連法令・税制改正の最新情報を定期的に確認し、常に情報アップデートを怠らないこと。以上のチェックリストを活用し、体系的で精度の高い不動産投資判断を行うことができます。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ代表取締役 羽部 浩志 1991年東京大学経済学部卒業 ビルディング不動産株式会社入社後、不動産仲介営業に携わる 1999年サブリース株式会社に転籍し、プロパティマネジメント業務に携わる 2022年サブリース株式会社代表取締役就任(現職) ライフワークはすぐれた空間作り 2025年12月8日執筆2025年12月08日 -
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テナント満足度がぐんと上がる!賃貸オフィスビルの管理会社の神対応5選
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「テナント満足度がぐんと上がる!賃貸オフィスビルの管理会社の神対応5選」のタイトルで、2025年12月5日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次 はじめに1. 待たせない!問い合わせへの“最速レスポンス”2. 問題解決が早い!トラブル時のスムーズな動き3. 担当が替わってもクオリティが揺れない――一貫品質を生む情報共有とバックアップ体制4. 必要以上に踏み込まない――ムダなコミュニケーションの排除5. 条件交渉の落としどころをスッと示す――余計なストレスを生まない調整力おわりに はじめに 賃貸オフィスの管理会社と聞くと、まずは日常的な業務を思い浮かべる人が多いだろう。例えば、定期清掃の手配や共用部の点検、書類のやり取りなど…。こういうルーティンワークがしっかりしていることは、ビルを運営する上で当たり前に重要なこと。でも、正直なところ「毎日の掃除が丁寧」「エレベーターの点検がキッチリ」くらいでは、テナントさんにとっては“これが決め手で契約する!”とまではいかないかもしれない。なぜなら、それらの日常的業務は“最低限クリアしていて当然”とみなされやすいからだ。ところが、大きな差が出る瞬間がある。それが「トラブル対応」だ。賃貸オフィスビル、特に築古のオフィスビルでは不意に問題が起きることが珍しくない。例えば、急な水漏れ、空調が壊れてスタッフの業務がストップ、隣室との騒音トラブル、あるいは契約内容や賃料をめぐるちょっとしたやりとり…。こうした「いつものことではないとき」にこそ、管理会社の真価が問われると言っても過言じゃない。しかも、単に「担当者が優秀だったからラッキー」で終わる話じゃない。その管理会社全体で仕組みやマニュアルが整備されていれば、担当が変わってもトラブルへの向き合い方がブレにくいし、進捗管理や報告もスムーズ。逆に、引き継ぎが行き届いていない会社だと、「担当が休みだから何もできない…」なんて待たされたり、同じ説明を何度も繰り返すハメになったりしがちだ。テナントの立場からすれば、長く安心して仕事を続けられるかどうかは、管理会社のこうした“対応力”に大きく左右される。普段は意識しない部分かもしれないけど、いざトラブルが起きたときに神がかった動きをしてくれる管理会社なら、「このビルならずっと入居していたい」と思うのも自然な流れだろう。そこで本コラムでは、テナント目線で「この管理会社、神対応すぎる…!」と思わず感謝したくなるような具体的ポイントを5つ挙げてみたい。あらゆるビジネスシーンで、日常対応がきちんとしていることはもちろん、決定的な場面で“さすが”と感じさせる要素とは何なのか。そして、それを実現するためには、管理会社としてどんな仕組みづくりや意識が必要なのか。いっしょに考えてみよう。この5つのポイントを押さえている管理会社は、ただ担当の「日々頑張ってます」って意気込みだけじゃなく、いつ誰が担当しても安定したサービスを提供してくれるはず。そういう会社こそ、ビルオーナーだけでなくテナントからも厚い信頼を得られるんじゃないかな。それでは早速、“賃貸オフィスの管理会社の神対応”を見ていこう。 1. 待たせない!問い合わせへの“最速レスポンス” 賃貸オフィスを利用するテナントにとって、問い合わせの“放置”ほどストレスになるものはない。ほんの小さな疑問や要望であっても、何の返事も来ない時間が長引くと、「ちゃんと届いているのか」「この管理会社、大丈夫なのか」と不安が募ってしまう。実際のトラブルであればなおさらで、特にオフィスの設備トラブルは日常業務に直結するため、一刻も早い対応を望むのが当然の心理だ。ここで管理会社が示すレスポンスの速度は、テナントから見た物件の評価を大きく左右する。素早い返信があるだけで「とりあえず状況は把握してくれているんだな」と安心でき、不安やイライラが和らぐ。少し風邪を引いたときにすぐ病院で診てもらえると安心するのと同じような感覚だ。 “あ、ちゃんと見てくれているんだ”という安心感 例えば、空調が止まってしまったとの連絡をテナントから受けたとしよう。猛暑の時期なら「このままでは仕事にならない」と切実な問題だ。そうしたとき、管理会社がすぐに「担当者に共有しました。何時頃までに対処法をお伝えします」と連絡を入れてくれるだけで、テナント側は「ひとまず任せれば大丈夫そうだ」と思える。もしこの第一声が数時間、あるいは翌日になってしまうと、それだけで不満が膨れ上がり、「いっそのこと、もう別のオフィスを検討しようか」といった話に進んでしまうこともあり得る。ここで効いているのは、受付完了の報告、次のアクションの提示、そして回答目安の明示という三つの要素がワンセットになっているという点だ。また、レスポンスの目安時間をあらかじめ決めておくことも有効だ。「営業時間内なら30分以内に返信」「夜間でも翌朝までに報告を入れる」など、明確なルールがあると担当者によって対応速度がブレにくい。こうしたルールが全社員に浸透していれば、担当が替わったとしてもテナントは同じ水準の迅速さを享受できる。 テナントの声:安心と信頼は“待たせない”から生まれる とあるテナントの例では、ちょっとした内装の不具合を問い合わせたところ、わずか15分後には「すぐ確認します。本日中に状況をお知らせしますね」と返信があり、その日のうちに、管理会社の社内営繕チームが対応しての修繕スケジュールまで決まったという。「大きな故障じゃないのに、こんなに早く動いてもらえるとは思わなかった。このビルに入居していて良かった」と言われると、管理会社としても喜びが大きいはずだ。もしこれが1日、2日と返信がなかったら、テナントの不満は募る一方。「やっぱり他の物件も検討したほうがいいかも」という感情を誘発するトリガーにもなる。実際の問題解決のスピードも重要だが、まずは“一言でも返事がある”という事実こそ、テナントにとって非常に大きな安心材料になる。 最速レスで見せる管理会社の“本気度” 問い合わせレスポンスの早さは、管理会社の「本気度」をダイレクトに伝える。テナントにしてみれば、「この会社は丁寧に扱ってくれているんだ」と感じられ、それが物件自体の評価にもつながる。特別なプレゼントや大規模なイベントを用意するより先に、まずは“すぐ返事をもらえる”ことが、最も分かりやすい神対応のひとつだ。 2. 問題解決が早い!トラブル時のスムーズな動き オフィスの利用中に起きるトラブルは、テナントにとってビジネス上の大きな痛手になりやすい。例えば、エアコンの故障や水漏れなどは、直接的に業務効率を落とすだけでなく、職場環境としての快適さを一気に損なうため、テナント社員のモチベーションや健康面にも関わってくる。そうした緊急性の高い問題が発生したとき、管理会社がいかに素早く動いて解決の段取りを組めるかどうかは、テナントにとって「このビルに長く居たいかどうか」を判断するうえで大きな要素となる。 「とにかく早くなんとかしてほしい」切迫感に応える 賃貸オフィス管理で最も喜ばれるシーンの一つが“トラブル対応の的確さ”だ。特にオフィスではクライアントとの打ち合わせや社員の作業環境に直結するため、一刻を争う場面が少なくない。例えば、猛暑の時期に空調が止まった場合、数時間も放置されればテナントは「もう仕事にならない」と切羽詰まった状態に陥ってしまう。このようなとき、“早さ”だけでなく“スムーズさ”が求められる。単に「業者に連絡しておきます」という返答で終わるのではなく、いつ業者が来るのか、作業はどれくらいの時間がかかるのか、費用はどの程度かかりそうかなど、テナントが知りたい情報を早めに伝えるのが理想だ。見通しが立つとテナントも落ち着いて対処できるため、余計な不安を抱えずに済む。 進捗連絡が要 問題解決の“早さ”を支えるのが、こまめな進捗連絡だ。管理会社が修繕業者を手配しても、テナントに何の情報も伝わらないまま放置されると、「今どんな状況なのか」「いつ作業が始まるのか」という疑問が膨らんでいく。この疑問こそがストレスや不安の原因になる。修理日や見積もりの結果、作業完了の目処など、小まめな報告があるだけで、テナント側は「動いてくれているんだな」と安心できる。たとえば、1日のうちに「午前中に見積もりを取りました」「夕方には業者が作業に伺えます」「作業完了は18時ごろで問題なさそうです」というように、都度タイミングを見てメールやショートメッセージで連絡が入るだけで、テナントの心証は大きく変わる。仮に修繕が翌日以降になるとしても、進捗が分かるため、「きっと大丈夫だろう」と前向きに捉えやすい。 緊急時の社内体制が強みになる トラブル対応において個人の力量も大切だが、それ以上に“社内体制”がしっかり組まれている管理会社は、担当者が変わっても対応品質が下がりにくい。緊急時の手配先リストや作業の優先度判定フロー、オーナーへの承認を素早く仰ぐためのルールなどが整備されていれば、誰が対応しても同等のスピードで動ける。こうした仕組みがない会社だと、担当者個人の経験に頼る部分が大きくなり、担当が不在だったり異動したりすると、途端に対応が遅れてしまうケースが少なくない。 テナントの声:ピンチを乗り越えた“安心”が長期入居の決め手に あるテナントは、契約直後の真夏に空調が止まり、業務がストップする非常事態に見舞われた。管理会社に連絡したところ、即座に修理業者を手配し、さらに「仮の冷風機を数台お持ちします」と提案があった。夕方までには空調が復旧し、翌日には通常業務を再開できたとのことだ。そのテナント曰く「ピンチのときに頼りになるのが本当の意味での良い管理会社。この体験があったからこそ、更新時も迷わず契約を続けると決めた」と語っていた。このエピソードは、トラブルを素早く解決するだけでなく、テナントが感じる不安を取り除く工夫(仮の冷房設備の貸し出しなど)を惜しまなかった点が評価を高めている。あくまでビジネスの場であるオフィスにおいて、“困ったときに助けてくれる”実感は、長期入居を後押しする最強の要因になり得る。 “速さ”と“丁寧さ”の両立こそ神対応の秘訣 トラブル時は慌ててしまい、対応の質が雑になりがちだが、ただ速いだけの“雑な対応”ではテナントの不安を解消できない可能性がある。逆に、あまりに丁寧すぎて時間がかかりすぎるのも良くない。最適解は、スピーディーに動きつつ、必要な情報をきちんとテナントに伝えること。修繕業者の手配やオーナーへの承認フローも手早く済ませ、進捗を連絡し、見込みが立ったらすぐ共有する。こうした“速さと丁寧さのバランス”を社内全体で維持できる会社は、テナントにとってはまさに“神対応”に映るはずだ。 3. 担当が替わってもクオリティが揺れない――一貫品質を生む情報共有とバックアップ体制 レスポンスが速く、トラブルにも強い――そこまでは合格点だとしても、担当者が替わった瞬間に対応の質がガタ落ちするようでは、テナントの信頼は長続きしない。総務担当が異動や退職で入れ替わるたびに、同じ説明を最初から繰り返させられたり、人によって回答内容や温度感がまったく違ったりする状況は、テナントにとって大きなストレスだ。長期入居を決めるうえで実は無視できないのが、サービスの“ブレなさ”である。 “説明のやり直し”という隠れコスト あるテナントは、契約から三年の間に管理会社の担当者が三回交代した。交代のたびに社内レイアウトや設備仕様を一から説明し直し、その都度「前の担当者には伝えてあったのに」という食い違いが発生。結果として問い合わせに要する時間が倍増し、「小さな要望を出すのも気が重い」という声が現場から上がったという。こうした“説明のやり直し”は目に見えないコストだが、積もり積もると「そろそろ別のビルを探したほうが効率的では?」という退去検討の火種になりやすい。 履歴共有・SOP・バックアップ――三つの土台が“ブレ”を消す そこで鍵になるのが、会社全体でサービス水準を平準化する仕組みだ。まず、問い合わせ履歴や工事履歴、契約条件などをクラウド上のデータベースに一元管理し、担当が交代しても“続き”から話を始められる状態をつくる。さらに、問い合わせを受けたあとの分類・優先度判定・標準回答例をSOP(標準業務手順書)として明文化しておけば、経験の浅いスタッフでも一定水準の応答が可能になる。そして決定打となるのがバックアップ担当の存在だ。主担当が休暇や出張、あるいは急病で不在になったとしても、副担当がフル権限で対応できる体制を整えておけば、「担当者が捕まらずレスが止まる」という“空白時間”をゼロにできる。テナント側にはあらかじめ「A が不在の際は B が窓口になります」と周知しておくと、不安感はさらに小さくなる。 担当三度交代でもストレスゼロだった事例 IT 企業 B 社(従業員 80 名)は、三年間で担当者が三回入れ替わった。ところが、問い合わせのたびに履歴シートが PDF で共有され、共用メール、社内ワークフローなどから過去のやり取りを検索できたため、新担当は初回の挨拶から具体的な提案を即座に行えた。さらに、主担当が急病で不在になった際も、当番制の窓口が30分以内に一次返信を入れたことで、業務はまったく止まらなかった。B 社の総務担当は「担当が替わるたびに話が早くなっているくらい。ここなら長く入居しても安心」と語っている。 “人”より“仕組み”で信頼を積み上げる 優秀な担当者は大きな財産だが、テナントが求めているのは「誰と話しても同じ品質」という安心感だ。履歴共有データベースで“説明のやり直し”をなくし、SOP で回答のムラをなくし、バックアップ担当でレスの空白をなくす。この三つが揃えば、担当者が何度替わろうともサービスの質は揺るがない。結果としてテナントは「ここなら長期契約を結んでもストレスが少ない」と感じ、更新や増床の相談を前向きに検討しやすくなる。速さと丁寧さに加えて、ブレない一貫品質。この三本柱がそろったとき、管理会社の対応はテナントから“神”と呼ばれる。 4. 必要以上に踏み込まない――ムダなコミュニケーションの排除 管理会社の対応を「神」と感じるポイントの一つに、“ちょうどいい距離感”を保ってくれるかどうかが挙げられる。確かにこまめな連絡や細やかなフォローは大切だが、テナントが望んでいないのに頻繁に雑談やイベントへの参加を求められると、逆に「面倒だ」と感じてしまうことがある。オフィスはビジネスの場なので、テナントは本来の業務に集中したい。それにもかかわらず、管理会社からやたらと訪問や電話が入り、「どうですか最近?」「今度こんな催しがありますがいかがですか?」と営業的なトークが続くとストレスが溜まってしまうケースもある。“コミュニケーションを取る”こと自体を目的化されると、テナントにとっては負担だ。 過不足ない連絡が実は“神対応”になる理由 ●テナントが求めるのは業務に支障のない環境オフィス利用者は自社のビジネスを回すことが最優先。もし管理会社とのやり取りが増えれば、そのぶん時間と手間を取られてしまう。だからこそ、“必要な連絡だけ”で事が済む仕組みがあると、テナントにはありがたい。●情報提供のスピード感と的確さが大事「修繕や点検のスケジュール」といった必要情報は、手短かつ正確に共有してくれる方がテナントも把握しやすい。冗長な説明や不必要な余談を挟まないだけで、コミュニケーションの効率がぐっと上がる。●イベントやキャンペーンの押し付けは敬遠されがち大規模物件での入居者交流会や、管理会社主催のセミナー等を喜ぶテナントもいるかもしれないが、強制参加や過度な勧誘があると、逆に辟易してしまう層も少なくない。告知をして必要な人だけ来てもらう程度のスタンスが、今の時代にはマッチしやすい。 仕組みで実現する“最小限のやり取り”の徹底 必要なときに必要な情報を渡す――これを実現するには、管理会社がマニュアル化やシステム化を図っていることが多い。(1)連絡フォーマット整備・修繕案内や点検スケジュールなど、定期的に発生する連絡事項については、テンプレート化されたメールで簡潔に案内する。・件名やタイトルだけで要点がわかるようにするなど、テナントの目線を意識していると「助かる」と言われることが多い。(2)問い合わせ履歴の一元管理・何度も担当が変わるたびに同じ説明を繰り返さなくて済むよう、テナントごとの問い合わせや過去のやり取り履歴を共有できるシステムを導入している場合がある。・これによって、テナントは不要なやり直し説明をしなくて済み、最小限の接触で問題が解決する。(3)個別の要望に柔軟対応・どうしても対面で話し合いが必要な案件以外は、メールでの連絡で済ませるなど、テナントの都合に合わせて選択肢を用意している。・無駄なアポ取りや営業は省かれ、“用件があるときだけ”で完結できる流れが確立されている。 テナントの声:ほどよい距離感が“オフィス環境の快適さ”につながる あるテナントは、以前入居していたビルで管理会社が頻繁に雑談を振ってきたり、イベントの誘いが相次いだりして、「業務中に対応するのが正直つらかった」と語っていた。移転先のビルでは定期報告や必要事項の案内が非常にシンプルで、「こちらが必要としている情報がパッと届くのでスムーズ」と評価しており、結果的に「仕事の邪魔をしない」という点に心地よさを感じているとのことだ。また別のテナントは、「内装変更の相談をしたときに管理会社と何度もやり取りする必要があるかと思ったら、メールでのやり取りで図面の確認や見積もり調整をさせてくれた。正直、そっちのほうが時短で助かった」と話している。管理会社と顔を合わせること自体が億劫なわけではなく、限られた時間で要点を押さえたいというのがテナントの本音なのだ。 “必要最小限”こそが神対応に映る理由 社交的なやり取りを一切しないわけではないが、テナントの立場からすれば「管理会社と仲良くする」ことより、「手間なく、問題なく、気持ちよくオフィスを使える」ことが最重要だ。過剰な営業や過度な接触はむしろ負担になるので、テナントが望むタイミング・望む方法でコミュニケーションを取れる体制を整えている管理会社は、自然と信頼度が上がり、“神対応”と評価される。結局のところ、テナントにとってはオフィスでの仕事がスムーズに進むかどうかが本質だ。管理会社がそこを理解し、必要な情報や連絡だけを的確に届けてくれるなら、それだけで「このビルを選んで良かった」という気持ちになるものだ。 5. 条件交渉の落としどころをスッと示す――余計なストレスを生まない調整力 賃貸オフィスにおいて、テナントと管理会社の間で最もギクシャクしやすいポイントの一つが、賃料や契約更新、さらには契約内容の微調整などの“条件交渉”だ。契約期間中でも、テナントの事情で「もう少し賃料を下げたい」「レイアウトを変更したい」といった要望が出ることがあるし、逆に管理会社(オーナーサイド)から「今年度から少し条件を見直したい」と提案するケースもある。こうした話し合いの場で、管理会社が「どう落としどころを示すか」は、テナントにとっては大きな関心事だ。 明快さがトラブルを防ぐ 契約や賃料など、お金や契約条件に関わる交渉ごとは、どうしても感情が入りやすい領域だ。テナントにとっては、事業コストに直結する話なので、不透明なまま管理会社がどんどん話を進めてしまうと「押し付けられている」と感じてしまうこともある。そこで管理会社が「この範囲までなら検討可能です」「ここからは正直、厳しいかもしれません」など、具体的なラインをハッキリと示してくれると、テナントは判断材料を得られる形になる。余計な駆け引きに時間を割くことなく、「それなら自社としてはここまで譲歩できます」と交渉の落としどころを探りやすい。 調整力=余計なストレスを生まない心遣い 神対応と言われる管理会社の多くは、単に「NO」と突き返すだけでなく、できる範囲の代替案を示してくれたり、次のステップを明確に案内したりする。・具体的な調整案の提示例えば、賃料値下げの希望に対して「すぐには難しいですが、○年間以上の契約延長が前提ならオーナーも検討できる可能性があります」といった具合に条件付きで譲歩案を示す。テナント側も単なる「ダメ」ではなく「ならばこの路線で交渉しよう」という次の一手を打ちやすい。・判断期限やフローをセット「いつまでにオーナーへ提案し、いつ頃返答できるか」といったタイムラインを提示してくれるだけでも、テナントは「いつまで待てばいいのか」が分かり、イライラを感じずに済む。余計な催促や問い合わせが減るのは管理会社にとってもメリットだ。・調整の背景を簡潔に説明「老朽化した設備を補強するため、これだけのコストが必要で…」など、なぜ条件見直しが必要なのかを、できる範囲で素直に伝えるとテナントも理解しやすい。“根拠のある交渉”に感じられると、不満はだいぶ緩和される。 仕組みで支える“明快な交渉ルール” 賃料などの条件交渉は、担当者個人の交渉力に左右されがちなイメージがあるが、“神対応”を維持するには、会社としての仕組みやルールが欠かせない。オーナー側との調整に時間がかかる場合でも、どの段階でどんな稟議が必要かが明文化されていれば、テナントへの説明が早いし、「この条件ならすぐ承認が下りる」という枠が分かっていれば、話もスムーズに進む。また、契約更新などのタイミングでテナントへのアナウンスを早めに行う仕組みを作っている会社もある。「何カ月前からどんな書類を送って、どのようなヒアリングをして…」と一連の工程を定めておけば、互いにバタバタしないで済む。担当者任せにしていると、忙しさから後手に回ってしまい、テナントに「急に言われても困る」と反発を買う可能性が高まる。 テナントの声:短時間で結論が出ると仕事が捗る あるテナントは「前に利用していたビルでは、契約更新の交渉で先方の言い分がフワッとしていて、『もう少し待ってほしい』を何度も繰り返された結果、1カ月以上引き延ばされた。仕事の見通しが立たなくて、本当に困った」と振り返る。今のビルでは更新時期が近づくと管理会社から早めの連絡が入り、「この時期に賃料の見直しが入る可能性があるので、事前にご相談しましょう」とスケジュールを共有してくれるという。「おかげで会社側の承認も取りやすく、更新のたびに無駄なストレスを感じずに済んでいる」とのことだ。 結果的に“神対応”と呼ばれるのは“先回りの配慮” 条件交渉というセンシティブなテーマであっても、明確なラインと次のステップを“先回りして提示”できる管理会社は、テナントからすれば「ここは仕事がしやすい」と感じられる。何も言わずにただ“突き返す”のではなく、「ここで折り合えれば前向きに進められる」と分かりやすい示唆をすることが、余計な摩擦を防ぎ、長期にわたる円満な関係を築くポイントでもある。交渉のうまさは一種の“調整力”であり、裏ではオーナーとの利害やビルの運営方針など、さまざまな制約を抱えているはずだ。それでもテナントにとって「納得いく形」で提示できるかどうかは、管理会社がどれだけ仕組みを整備し、担当者だけに頼らない体制を築いているかにかかっている。結果として、このようなスマートな調整ができる会社は「神対応だ」と評されるのだ。 おわりに ここまで述べたように、テナントが「神対応」と感じるポイントは、決して派手なサービスや派生的なイベントではない。むしろ、業務の根幹となる部分――問い合わせへのレスポンスやトラブル対応、費用の説明責任、コミュニケーションの適切な距離感、そして条件交渉の調整力――における丁寧さと的確さが評価を左右する。なぜこれが“神”と呼ばれるほど重要視されるのかを、もう少し掘り下げたい。まず、賃貸オフィスの世界ではテナントが入居を続けるかどうかが、ビルの資産価値や収益に直接影響を及ぼす。長期的に空室を出さず安定運営をするには、テナントが安心してビジネスを継続できる環境づくりが不可欠だ。その安心感を支えるのが管理会社の対応力であり、特に突発的な問題や費用負担が生じる際に“誠実さ”が問われる。結果的に、この誠実さが見える管理会社ほどテナントは「ここなら信用できる」と思い、退去リスクも下がる。もう一つ大事なのは、担当者個人のスキルに依存しない体制づくりである。優秀なスタッフが1人いるだけでは、休暇や異動でその人がいなくなった瞬間に品質が落ちてしまう恐れがある。それを防ぐには、日ごろから社内マニュアルや承認フロー、業務報告や問い合わせ対応の履歴管理などを整備し、「誰が担当しても同じ水準で」仕事が進む仕組みが必要だ。この基礎があれば、トラブルが起きたときもバタつかずに済むし、引き継ぎの際にテナントが同じことを何度も説明する負担を強いられることもなくなる。さらに、空気感や距離感も見逃せない。頻繁に顔を出して“親身に寄り添おう”とする管理会社が必ずしも好まれるとは限らない。テナントが一番望んでいるのは業務の円滑化であって、過剰なお世話や不必要な雑談ではない。だからこそ、「必要なときにすぐ動くけど、それ以外は邪魔をしない」ほど良い距離感が保たれると、テナントにとってはストレスが大きく減り、「この会社は信頼できる」と感じやすくなる。また、賃料や契約内容の交渉といったセンシティブな部分をスマートに処理できるかどうかも、テナント側の満足度を左右する重要な要素だ。仮に大幅な条件変更が難しくても、検討可能なラインを率直に示したり、必要に応じて代替案を用意して調整の道筋を示したりするだけで、相手に「自社のニーズに耳を傾けてくれている」と伝わり、余計な衝突を回避しやすい。こうした要素を総合すると、“神対応”とは単なる「親切」や「スピード」だけではなく、組織としての持続力ある対応、そしてテナントの立場を尊重する姿勢がいかに自然に発揮されるか、そこにかかっているといえる。日常業務からトラブル対応、契約交渉に至るまで、管理会社が一貫して“誠実さ”を保てば、テナントは「このビルに長く居たい」「ここでなら安心して業務に集中できる」という気持ちになる。その結果、ビル全体としての稼働率や収益面も安定し、オーナーにとってもプラスに働くわけだ。もし今、テナントとして「何だか問い合わせの対応が遅い」「費用の説明が不透明」「担当者が替わるたびに話がリセットされる」などの悩みを抱えているなら、今回取り上げた5つの視点をチェックポイントにしてみることをおすすめしたい。管理会社にとっても、こうした“当たり前のことを当たり前に”やれる仕組みづくりは、テナントとオーナーの両方を満足させる近道になるだろう。本コラムが、ビル管理会社とテナントのより良い関係構築に少しでも寄与できれば幸いだ。“神対応”を当たり前に実践できる管理会社が増えれば、賃貸オフィスビルの運営の質はさらに向上し、結果として東京全体のビジネス環境を底上げすることにもつながっていくはずだ。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月5日執筆2025年12月05日 -
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築古・中型・賃貸オフィスビルのリアル:「SNSの声」から読み解く都内・賃貸オフィスビル・マーケットの本音と今後の行方
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古・中型・賃貸オフィスビルのリアル:「SNSの声」から読み解く都内・賃貸オフィスビル・マーケットの本音と今後の行方」のタイトルで、2025年12月4日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに:第1章:データで見る都心5区・築古・中小規模オフィスビルの実情第2章:「SNSの声」で見る築古オフィスビルのリアルな入居状況と空室問題第3章:築古オフィスビルのテナント満足度と設備老朽化の本音第4章:リアルな賃料感とテナント交渉余地の現状第5章:「築古でもニーズあり?」~潜在的なテナント需要を探る第6章:東京都の政策の現実的な限界と築古・中小規模・賃貸オフィスビルオーナーが取るべき道筋おわりに: はじめに: 東京都心のオフィスビル市場は今、大きな転換点を迎えている。2020年代に入ってからも、千代田区・中央区・港区・新宿区・渋谷区のいわゆる都心5区では、大規模な新築オフィスビルの供給が続いている。一方で、1970年代後半から1990年代にかけて大量に建設されたオフィスビル群は老朽化が進み、建替えや改修の時期を迎えている。こうした「築古ビル」と呼ばれる古い中小規模のオフィスビルが、今後のオフィスマーケットを左右する存在になりつつある。こうした状況下、SNS上では築古中型オフィスビルに関するテナントの率直な声が溢れている。テナント企業や入居者のリアルな声には、データや統計だけでは捉えきれない現実が映し出されている。本記事では、そうしたSNS上の生の声を通じて、築古ビルの入居動向、テナントの本音、物件に対するニーズや満足度の傾向を探る。そして、それらのリアルな実態を踏まえて、今後のビル経営に役立つ実務的な示唆を提供したい。都心5区において、多数を占める築古ビルが今後どのようなポジションを担い、どのような対策や施策が求められているのか――。その具体的な実態と方向性を検証していく。 第1章:データで見る都心5区・築古・中小規模オフィスビルの実情 広範囲に及ぶオフィスビルストックの老朽化 東京23区には非常に多くの築古オフィスビルが存在している。調査によれば、東京23区に所在するオフィスビルの半数以上が築30年以上であり、築50年を超える物件も決して珍しくない。特に中規模オフィスビルにおいては、平均築年数は34年で、約8割が築20年以上である。これらの多くが改修や再開発をされない場合、2030年までに平均築年数は約44年に達し、2030年代後半には平均50年を超える見込みである。これは、都心にオフィスを構える多くの企業が、施設設備が老朽化した、いわゆる「築古」(数十年前に建てられた)オフィスで働いていることを意味する。都心5区(千代田・中央・港・新宿・渋谷)の賃貸オフィスビルの現状をデータで確認したい。国土交通省や東京都のデータをもとに纏められた調査結果(2022年時点)をもとに、現在のオフィスビルストック状況を整理する。東京都心5区のオフィス市場は、賃貸面積ベースで約1,000万坪。このうち、中小規模ビル(延床面積300〜5,000坪)は5割弱。棟数ベースで見ると、7,000棟弱。中小規模ビルが9割以上と、延床面積5,000坪以上の大規模ビルに比して、中小規模ビルの比率が圧倒的に高いことがわかる。注目すべきは、中小規模ビルの老朽化だ。同データによれば、中小規模ビルの平均築年数は34年に達しているのに対して、大規模ビルの平均築年数は26年である。つまり、中小規模のオフィスビルほど老朽化が著しく、築古ビル問題はまさに「中小規模ビル問題」でもあると言える。さらに詳細に見ると、新耐震基準(1981年以降)で建てられた中小規模ビルでは、築20年以上経過した物件の賃貸面積が5割を超える一方、築20年未満はわずか20%弱に過ぎない(大規模ビルの場合、5割弱)。棟数ベースでも、新耐震基準以降の中小規模ビルで築20年以上が6割弱、築20年未満が15%弱と、圧倒的に築古物件が多い。これは、都心部の賃貸オフィスビルのマーケットが今後、築古の中小規模ビルをどう活用していくかという課題に直面していることを明確に示している。※ザイマックス不動産総研『オフィスピラミッド2024』よりこうした状況を踏まえると、今後の都心のオフィスマーケットにおいて「築古ビル」というカテゴリーはますます特異なポジションを占めることになるだろう。これまでは新築や築浅のビルが市場の主役であり、築古ビルは「廉価な代替オフィス」と位置づけられてきた。しかし、この大量に存在する築古ビルの老朽化が加速する中で、「築古でも選ばれるビル」と「築古ゆえに敬遠されるビル」という二極化が一層進むことが想定される。こうした二極化の中で、各ビルがどういった方向性を選ぶかが今後の競争力を決定づけるだろう。次章以降では、実際に築古ビルに入居するテナントや内見者がどのような本音を持っているのかをSNS上の声をもとに具体的に掘り下げていく。そのリアルな声から、築古ビルの課題と可能性を探っていく。 第2章:「SNSの声」で見る築古オフィスビルのリアルな入居状況と空室問題 都心の築古オフィスビルが抱えるリアルな課題として、SNS上で特に頻繁に指摘されているのが「空室問題」である。近年、東京23区内、とりわけ都心部では、最新の設備を備え広いフロア面積を確保した新築オフィスビルが相次いで竣工している。こうした最新のオフィスビルには大手企業を中心に多くのテナントが集まり、移転していく傾向が強まっている。この結果、退去した企業が残した中小規模の築古ビルでは、新たな入居者が決まらないまま、空室が長期化する「二次空室」と呼ばれる現象が深刻化している。SNS上の投稿でも、「近所の古いオフィスビルが半年以上空きっぱなしだ」「大手企業が新築ビルへ移転した後の古いオフィスがなかなか埋まらない」といった声が頻繁に上がっている。これらの投稿から、築古ビルが次のテナントを見つけるのに非常に苦労している現状が浮かび上がってくる。この背景には、企業がオフィスを選定する際の基準が明らかに変化しつつあることが影響している。企業は、「駅から近い」「築年数が浅い」「フロアが広い」といった要素を最重要視する傾向を強めており、これらの基準を満たさない築古ビルは、当初から検討対象から外されることが少なくない。実際、SNSの内見レビューでは、「築古ビルを見に行ったが、レイアウトが難しく柱が邪魔で、結局見送った」「天井が低くて圧迫感があり、社員のモチベーションに影響が出そうなので借りるのをやめた」「エントランスが薄暗く、企業イメージに合わない」といったリアルで率直な感想が数多く投稿されている。これらの声を具体的に掘り下げると、築古ビルの抱える課題は単に「古さ」という抽象的な要素だけではなく、実際に内見をした段階で感じられる明確なデメリットや設備の不便さに起因することがよくわかる。企業にとってオフィス空間は、社員の働きやすさや生産性に直結するものである。そのため、「天井高が低い」「柱が多くレイアウト自由度が低い」「全体的に暗く、古びた印象がある」といった築古ビルの特徴は、即座に「不便で魅力に欠ける」という評価につながりやすい。この傾向はSNSの口コミを通じて広がり、さらに内見数の減少に拍車をかけている。さらに、専門的な立場からも実務者の厳しい見解が示されている。仲介担当者の実際の報告によると、「築20~30年を超えるオフィスビルは、内見数が顕著に減少し、物件に対する問い合わせ自体が減る」という実務上の困難さが指摘されている。つまり、仲介業者自身が、築古物件をテナントに紹介する段階からハードルを感じており、紹介すら後回しにされる可能性があるという現実が存在しているのだ。こうした厳しい実態を踏まえると、今後の都心オフィスビル・マーケットでは築古ビル市場の二極化が一層進む可能性が高いと推測される。すなわち、「築年数は古いが、設備や内装の改善によって快適性を高め、一定のニーズを維持できる物件」と、「設備改善やリニューアルが十分に行われず、テナントから敬遠されて空室が続く物件」の間で大きな格差が生まれることになるだろう。市場において競争力を維持できるかどうかは、こうした築古ビル特有の使い勝手の問題や内見時の印象を改善できるか否かにかかっていることが明確に示されたと言える。結局のところ、SNS上で日々交わされるテナントのリアルな評価や内見者の具体的なコメントは、単に感情的なものにとどまらず、築古ビル経営者や管理会社が真摯に向き合い、具体的に改善していかなければならない重要なマーケットシグナルとなっている。この「選ばれない理由」を明確に理解し、それらを一つずつ解決していくことが、都心における築古オフィスビルの空室問題を解決するために避けて通れない道筋となるだろう。 第3章:築古オフィスビルのテナント満足度と設備老朽化の本音 築古オフィスビルを利用するテナント企業や従業員が最も気にしているのは「設備の老朽化」である。SNS投稿や各種アンケートを整理すると、以下のような課題が浮き彫りになっている。 【1】設備の老朽化 テナントが頻繁に指摘するのは、トイレや給湯室、カーペット、空調(HVAC)設備、電気設備などが古くなり使いづらいということである。ある調査では「オフィスの設備が古く、使いにくい」という声が多く寄せられている。特に築30年超でその後、設備の更新がなされていないビルでは、設備が故障したり、現代のニーズに対応できていないという指摘も目立ち、それが日常の不便や満足度の低下につながっている。 【2】空間レイアウトの悪さ・使い勝手の悪さ 古い中規模オフィスビルの多くは間仕切りが多く、天井も低いため、現代的なオープンプランに合わない。テナントは「古いオフィスは狭く、自由にレイアウト変更ができない」と感じており、壁やパーティションが多すぎて柔軟性に欠けるという意見もある。あるテナントは、「オフィスが狭く、椅子を引くと後ろの人にぶつかってしまう」と具体的に指摘しており、これは古いオフィス特有の問題をよく示している。最近の企業は広くオープンなフロアを好むため、古いビルではそのニーズに応えるのが難しい。 【3】快適性の問題(温度・空気環境など) 古いビルでは、室温管理や空気環境に関する不満も多い。ある調査によれば、温度調整や快適性はオフィス満足度を左右する重要な要素だが、古い空調システムでは冷暖房が均一でなく、窓際が暑すぎたり寒すぎたりすることが多い。実際にテナントコメントのテキスト分析では、「調整」「困難」「窓際」「ムラ」などの単語が頻出しており、温度管理が難しいことを示している。また、古いビルでは換気設備が古く、不快な臭いや空気のよどみがあるという声も上がっている。 【4】エレベーターの性能不足 築年数が古い中型オフィスビルではエレベーターが古く、遅かったり台数が不足していることが多い。そのため、待ち時間が長くなり、特に朝の通勤時などはテナントの不便につながっている。新築の大規模・高層ビルに設置される高速エレベーターと比較すると、その差は歴然としている。 【5】清潔感・見た目の悪さ 古い設備は入居者にとって「雑然としている」「汚れている」という印象を与えやすい。実際、ある調査でテナントからは「オフィスが乱雑で汚い、設備が古く、カーペットにはシミがついている」といった具体的な声があった。清潔感がないことは、オフィス環境への満足度を著しく下げる要因となる。オフィスビルに関するある調査でも、ビルの清潔感はテナント満足度を左右する最重要要素の一つであると指摘されている。 【6】最新のITインフラ不足 築古のオフィスビルは、現代のITニーズや規制対応に遅れていることが多い。築古オフィスではデータ配線が不足していたり、電力容量や空調が現代のIT機器に対応できていない場合が多く、防災基準の強化やBCP(事業継続計画)のための非常用発電設備、耐震性能強化が不十分なことも多いという。これらはテナントが災害時の備えとして重視する設備であるため、不足するとテナント離れの原因になる。こうした問題はテナントの不満として明確に表れている。2024年に実施されたある調査では、オフィス勤務者の4割が現在のオフィスに不満を抱いており、その最大の理由は「設備が古くて使いにくい、空間が狭い」とされている。具体的なテナントの意見には、「水回り設備が古い」「照明が暗すぎて仕事がしづらい」などがあり、こうした不満が勤務意欲や職場満足度を低下させる要因になっている。こうした不満が、新築ビルへの移転を促す動機にもなっている。 第4章:リアルな賃料感とテナント交渉余地の現状 築古オフィスビルの市場競争力を考えるとき、真っ先に思いつくのは「賃料の安さ」という強みであろう。実際、SNSやテナント向けのアンケートなどを見ると、「新築や築浅ビルは賃料が高すぎるため手が出ないが、築古ビルは比較的安価であり、コストを抑えるにはちょうどよい」という声も確かに散見される。こうした一定のコストメリットを認識し、あえて築古ビルを選ぶ企業も存在しているのは事実である。しかし一方で、ここ数年の都心部における大規模な新築ビルの相次ぐ竣工により、市場全体が供給過多傾向にあるため、築古ビルにおける空室問題は年々深刻化している。特に注目すべきは、「フリーレント(一定期間の賃料無料)」や「賃料の大幅な引き下げ」といった条件緩和策を実施しても、それだけではなかなか空室が埋まらないという現象である。ある都内のオーナー企業は、「3か月のフリーレントを提示したにもかかわらず問い合わせがほとんどない」と嘆いており、別の投稿では「周辺相場よりも坪単価を2割下げているが、それでも空室が埋まらない」という生々しい現状が報告されている。これは、単に賃料の条件を緩和しただけでは、築古ビルに内在する根本的な問題が解決しないため、結果的に競争力が回復しないことを示している。また、テナント側から見たコスト意識には、単なる賃料だけではなく、「共益費」や「光熱費」といったランニングコストも含まれる。SNS上には、「ビルが古いために空調効率が悪く、夏は冷房費、冬は暖房費が想像以上に高額になる」という不満の声が頻繁に投稿されている。「賃料自体は安価だが、共益費や光熱費を含めた総合的なコストで考えると割高感が強い」といった、より現実的な視点からの評価も目立つ。こうしたテナント目線の評価が、結果的に築古ビルを敬遠する要因の一つになっている。さらに実務の現場からは、仲介担当者が築年数と内見数の明確な相関関係を指摘している。SNS上でも仲介業者自身が「築20年以上の物件は露骨に内見数が減る」「築30年を超えた賃貸オフィスビルは内見の依頼すら極端に少なくなる」と述べており、市場における築年数の影響はきわめてシビアである。こうした実態は単なる統計的な話に留まらず、「築古・賃貸オフィスビルが市場から具体的にどのように敬遠されているか」を物語る生々しいエピソードである。つまり、築古オフィスビルは賃料面での一定の強みがあるものの、それだけではもはや競争優位性を維持できなくなっている。条件緩和によるテナント誘致策だけでなく、設備改善や施設更新、運営管理体制の向上など、本質的な要素を改善しなければ、市場において選ばれにくい状況がさらに加速する可能性が高い。このような現状を前提に、より抜本的な対応が求められていると言えよう。 第5章:「築古でもニーズあり?」~潜在的なテナント需要を探る 築古・賃貸オフィスビルにとって厳しい市場環境が続く中、実は一部には「築古物件だからこそ良い」というユニークな需要層が存在していることも、SNS上の声や調査データから明らかになっている。特に、スタートアップ企業やクリエイティブ系企業など、企業規模やビジネススタイルによっては、「築古」という特徴を積極的に評価し、むしろ選択の優先順位を上げるテナントも少なくない。こうした企業が築古オフィスビルを選ぶ動機として特に目立つのは、「物件を自由にカスタマイズできる柔軟性」である。実際の投稿からは、「新築ビルでは原状回復義務が厳しく、自由にオフィスを改装できない。一方で築古ビルなら、内外装に手を入れて自社ブランドに合った空間を作りやすい」と評価する声がある。また、クリエイティブ業界などでは、「築古のレトロ感を好み、自社の世界観にマッチした雰囲気を出したい」という独特の嗜好性を持つ企業もあり、「新しく整った環境より、多少古くても個性のあるビルのほうが社員のモチベーションが上がる」と語る経営者の投稿も見られる。さらに、SNSやアンケートの分析から、「設備の一部を改善すれば築古オフィスビルであっても快適に使える」と考える企業が一定数存在していることも分かる。例えば、テナントが築古オフィスビルに期待する具体的な設備改善としては、まず「空調設備の更新」「防音性能の向上」「セキュリティの強化」といった、日常的な快適性に直結する項目が挙げられる。こうした改善があれば、「古さ」というデメリットが軽減され、むしろリーズナブルな賃料というメリットが前面に出て、魅力的な選択肢となり得るとの評価もある。実際に都内の築古オフィスビルにおけるリノベーション事例を見ると、ハードの古さを活かしつつ、新たな設備導入や共用空間の充実という「ソフト面」を巧みに組み合わせることで、高い稼働率を実現した成功例が複数確認されている。例えば、空調設備の全面刷新や防音ブースの設置などの施策を行った結果、「レトロな外観はそのままに、内部の設備と快適性が大きく向上したことでテナント企業の満足度が急上昇した」というケースが報告されている。このように、築古オフィスビルが持つ潜在的な需要を引き出すためには、「古さを活かしつつ現代的なニーズを取り込む」という視点が不可欠である。物件が抱えるデメリットを認識し、それを逆手にとって魅力に転換する柔軟なアプローチこそが、築古・賃貸オフィスビルが市場で再び競争力を発揮するための鍵となるだろう。 第6章:東京都の政策の現実的な限界と築古・中小規模・賃貸オフィスビルオーナーが取るべき道筋 ここまで見てきたように、築古オフィスビルが抱える課題は、単純な条件緩和や表面的な改善だけで解決できるレベルをすでに超えている。実際、SNS上で交わされるテナントや仲介担当者のリアルな声からも、「家賃引き下げやフリーレント設定程度の緩和策では競争力を回復できない」という厳しい認識が広がっている。ビルオーナー自身も、「抜本的な設備改修や運用ルールの見直しがなければテナント誘致は難しい」という本音を語っているのが現実である。こうした状況に対し、東京都は都心部の老朽オフィスビル更新促進を目的に、都市再生特別措置法に基づく「都市再生特別地区」や「都市再生緊急整備地域/特定都市再生緊急整備地域」を活用している。容積率緩和や用途規制の特例を認め、大規模開発を誘導することで都市競争力を高め、魅力的な都市空間の創出を図っている。この施策により、東京都心では大手デベロッパー主導で高度な土地利用が進み、再開発地区では実際に地域全体の価値向上や雇用創出など、一定の成功事例も出始めている。しかしながら、制度活用には複雑な行政手続きや長期間の計画策定が必要となるため、中小規模ビルの単独オーナーにとってはハードルが高いのも事実である。都市再生特区の認定条件には「資金力や事業遂行能力を持つ提案者であること」などが求められるため、小規模オーナー単独での事業参画が現実的に困難となっている。結果的に、制度は主に大手デベロッパー主導で活用される傾向があり、中小規模ビルオーナーには恩恵が限定的であることが課題として挙げられる。また、都市再生緊急整備地域は都心の特定地域に集中しており、対象外地域の築古ビルに政策効果が及びにくいという偏りも否定できない。中小規模ビルオーナーにとって、建替えや用途転換が現実的でない背景には、資金調達やテナントの立退き交渉、解体コストなどの問題が大きく影響している。特に築40年超のビルでは配管・設備の大規模修繕に多額の費用がかかるが、修繕積立が十分でないケースも多く、オーナーは「資金がない」ために改修を先送りする状況に陥りやすい。さらに、日本の借主保護制度の強さから立退き料が高騰し、金融機関も立退き費用への融資に消極的なため、再開発へのハードルは非常に高い。このため、「建替えたくても何も手を打てない」という状況に直面しているオーナーが多く見られる。また、共同再開発に参加すると、自社の資産運用における主導権を失い、大手デベロッパーや他の地権者の意向に左右される可能性がある。こうした懸念から、多くの中小規模ビルオーナーは建替えより現状維持か売却を選ぶ傾向にあり、結果として老朽ビルの放置につながっている。東京都が奨励する用途転換(コンバージョン)も、決して万能策とは言えず、慎重な検討が求められる。オフィスから住宅やホテルへの用途変更は、短期的には収益確保に有効な手段となり得るが、中野駅北口の再開発事例のように、住宅比率を安易に増やした結果、市場ニーズや採算性が合わず計画の再見直しが発生しているケースもある。コンバージョンは長期的な市場動向や資産価値を正しく見極めないと、一時的な収益改善で終わり、将来的なリスクを招く可能性もあることを、オーナー側も冷静に認識する必要がある。ただし、こうした制度の限界があるからといって、行政の施策がまったく無意味だというわけではない。むしろ、行政施策を適切に理解したうえで、「自助努力」を組み合わせた主体的な再生戦略を取ることが中小規模ビルオーナーにとって現実的な選択肢となる。築古オフィスビルの競争力回復に最も効果的なのは、テナントが求める安全性や快適性を軸に、設備改修や運営ルールの改善を主体的に進めていくことである。実際、2023年に行われた築古オフィスビル・リノベーション調査でも、「空調設備更新でテナント満足度が約6割向上した」「セキュリティ強化により退去率が4割低下した」といった成果が報告されている。東京都自身の調査でも、設備改修を行った築古オフィスビルは、稼働率や賃料水準が明らかに改善されるというデータも示されている。こうした客観的成果をもとに具体的な設備改修を進めることは、資金負担が重い大規模建替えよりも現実的であり、中小規模ビルオーナーが主体的に取り組むべき道筋である。また、動線整理やゾーニング、防犯カメラ配置の最適化、共用スペースの利用ルール改善など、比較的低コストで実行可能な運用改善策と設備改修をセットで提案することで、オーナーの納得感を高め、テナント維持や競争力回復がより確実となる。結論として、東京都の政策には一定の合理性と限界があることを明確に認識したうえで、行政の施策と「自助努力」を適切に組み合わせていくことが重要である。築古オフィスビルの将来は、行政頼みでも市場任せでもなく、オーナーと管理会社が自らの主体的な判断と現実的な努力で築き上げるべきものである。現実的な視点から具体的な施策を進めていけば、築古オフィスビルは再び市場で競争力を取り戻し、新たな価値を見出すことができるだろう。 おわりに: 本稿では、東京都心部における築古中型オフィスビルの実情を、テナント自身がSNSなどで発信するリアルな声や市場データを通じて明らかにした。これまでの議論で明確になったのは、もはや築古オフィスビルが「低賃料」や「表面的な条件緩和」に頼る経営から脱却する必要があるという厳しい現実である。東京都が打ち出している再生施策も一見すると有益だが、実際には個々の中小規模ビルオーナーが取り組むにはハードルが高く、場合によっては資産運営の自由度を狭める可能性さえある。したがって、行政主導の再開発や用途転換に依存するのではなく、オーナーと管理会社が一体となって主体的に現実的な施策を実行していくことが重要だ。具体的には、空調や防犯設備などの設備改善、防音性能向上、運用ルールの明確化など、テナントが本当に求める安全性・快適性を追求した施策を進めることが必要である。こうした現実的な取り組みを通じて、築古・賃貸オフィスビルは市場競争力を再び取り戻すことができるだろう。築古オフィスビルの未来は決して悲観的ではない。現実的かつ主体的な取り組みこそが、新たな価値を創造し、オーナー自身が自ら築古オフィスビルの未来を切り拓く最も効果的な道筋である。その具体的な選択を積み重ねることが、これからの都心賃貸オフィスビル市場における成功の鍵となることを強調して、本稿を締めくくりたい。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月4日執筆2025年12月04日 -
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何もしていない賃貸オフィスビルの屋上に、何ができるか?─太陽光発電・屋上緑化、および防水改修から考える都市の余白
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「何もしていない賃貸オフィスビルの屋上に、何ができるか?─太陽光発電・緑化、および防水改修から考える都市の余白」のタイトルで、2025年12月3日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願い致いたします。 目次第1章:なぜ今、賃貸オフィスビルの屋上に目を向けるのか第2章:物理的制約と現実的なスペース感第3章:築古・中小規模オフィスビルの屋上は“発電所”になるのか? 第4章:「屋上緑化」はロマンか実務か─築古・中小規模オフィスビルにおける屋上緑化の可能性と限界第5章:むしろ見直すべき「屋上防水改修」という実務課題──空間再生は“足元”から始まる第6章:ビル管理者だけが知る「屋上の風景」──誰も見ない場所にある、都市の静けさ第7章:まとめ──屋上は「活用する場所」なのか、「想像する場所」なのか 第1章:なぜ今、賃貸オフィスビルの屋上に目を向けるのか 都市における築30年超の中型賃貸オフィスビル。その屋上は、しばしば「活用されていない空間」として見過ごされている。屋外にありながら視界からは消えており、日常的な会話の中に上ることも少ない。テナントにとっては、上階にあってもアクセスのない“見えない場所”。オーナーや管理者にとっても、定期点検や電気検針のついでに立ち入る「管理の境界」にある場所だ。とはいえ、そうした場所だからこそ、ふとした瞬間に可能性が立ち現れることがある。賃貸オフィスビルの片隅でひっそりと咲く一鉢の草花、夜の静けさの中で見上げる高層ビルのシルエット、そして都市の喧騒から切り離された風の通り道──。屋上は使われていないがゆえに、ある種の余白を残している。そこに「何かできるのではないか?」という感覚を抱いた経験は、ビルオーナーや管理者の多くが一度は持っているのではないだろうか。しかし、屋上を活用するには、さまざまな“現実”が立ちはだかる。安全性や管理負荷、動線確保、構造的制約、コストの問題。だからこそ、このテーマは多くのビルで「アイデア止まり」のまま、棚上げされ続けてきた。特に、都心に多く存在する延床1,000㎡未満、築30年以上の中型ビルにおいては、共有部の再構築やデザイン刷新に比べ、屋上空間へのアプローチは後回しにされがちだ。それでも、ここにきて再び「屋上」に目を向ける理由がある。一つは、再生可能エネルギーの導入や都市緑化といった社会的要請が、かつてないほど現場レベルに浸透し始めていること。もう一つは、ビルの空室対策や維持管理の観点から、屋上という“余白”をどう扱うかが、資産価値の維持にも関わる問いとして浮上してきたことだ。本稿では、東京の築古・中型・賃貸オフィスビルにおける屋上空間の「現実と可能性」を多角的に検証する。収益化や福利厚生の視点ではなく、「使われていないこと」そのものに意味がある──そんな逆説的な視点も含め、屋上をめぐる“問い”を紐解いていく。 第2章:物理的制約と現実的なスペース感 屋上には可能性がある──そう直感したとしても、次の瞬間に浮かぶのは「実際、何ができるのか?」という現実的な疑問だ。特に、都心部に多く見られる延床1,000㎡未満の築古中型オフィスビルでは、屋上スペースの広さそのものが限定的であるうえに、構造的な制約、安全上の対応、他設備との兼ね合いといった“物理条件”が、活用の自由度を大きく左右する。たとえば、1フロア100㎡程度のオフィスビル。屋上もこれとほぼ同程度の面積となるが、実際にフラットで活用可能な面積は、その一部にすぎない。竣工当時から屋上には、空調の室外機や給排気ファン、昇降機の機械室、電気メーター、排水管、避雷針、避難用のタラップやハッチなど、さまざまなインフラ設備が集中しているからだ。特に80~90年代に建てられたビルでは、設備スペースの設計に余裕がなく、パーツ類が雑然と配置されていることも多い。仮に図面上「20㎡程度の空きスペースがある」とされていても、それが均質で、整った矩形の空間であることはほとんどない。実際には段差があったり、配管が通っていたり、隣接機器との距離が近すぎたりして、「物理的には空いているが、使い勝手は悪い」──そんな中途半端なスペースが多いのが現実である。さらに、そもそも屋上は「人が立ち入ることを前提としていない空間」として設計されているケースが多い。避難経路として屋上が使われることは稀であり、出入口もメンテナンス用の鉄扉やハッチのみ。外階段を上ってアクセスする構造や、屋内階段の最上段が施錠されているような構成が一般的だ。テナントの共用空間として使うには、安全性(手すり・滑り止め・転落防止柵など)、労災対策(点検時の立ち入り管理)、防犯管理(施錠・監視体制)など、複数の視点から運用ルールを再設計する必要が出てくる。加えて、屋上が「ビル所有者の手に完全に委ねられていない」ケースも少なくない。たとえば、高圧電力の受電設備が設置されている場合、それは電力会社が所有し、保守権限も電力会社側にある。また、携帯電話会社との基地局設置契約があるビルでは、一定範囲が専有スペースとして占有契約済みとなっており、他用途への転用は契約上制限されている。こうした専用設備が設置されている屋上では、物理的にも法的にも「自由に使える空間」はますます限られてくる。このように見てくると、屋上は「空いているから使える」とは簡単には言えない、“制約の集合体”ともいえる場所だ。しかし裏を返せば、だからこそ、「何もない場所」ではなく「設備の合間にある隙間」として、屋上を見直す視点が必要になる。全面的な改修や大胆なリノベーションではなく、“設備の隙間を縫うように”点的・局所的に空間を整える──。それこそが、築古中型オフィスビルにおける屋上活用のもっとも現実的で、はじめの一歩となるアプローチなのである。 第3章:築古・中小規模オフィスビルの屋上は“発電所”になるのか? 導入節:なぜ今「屋上太陽光発電」なのか? 築30年以上の中小規模オフィスビルの屋上に、あえて太陽光電池パネルを設置する価値はあるのか。これは、単なる「再生可能エネルギーの流行」に乗るかどうかという話ではありません。近年、ビルオーナーがこの問いに向き合う理由は明快です──電気料金の高騰です。東京電力管内でも、燃料価格高騰の影響を受けて2022〜23年にかけて業務用電力の単価は大きく上昇し、2024年以降は落ち着きつつあるものの、依然として高止まり・変動リスクが大きい状況が続いています。こうした背景のなか、屋上という空間を使って少しでも光熱費の軽減に役立てられないかという“逆転の発想”が注目されはじめています。加えて、東京都や国の補助金・支援制度が充実してきたことも、オーナー側の関心を後押ししています。「費用ゼロで始められるPPA(第三者所有)モデルなら、導入リスクは低いのでは?」といった期待も生まれています。しかしながら、築古オフィスビルにおける屋上太陽光発電の導入は、「制度とコストと構造」のすべてが噛み合わなければ成立しない、ハードルの高いプロジェクトでもあります。本章では、そうした現実を丁寧に整理しつつ、活用可能性を具体的に検討していきます。 節1:PPAモデルの基本構造と、なぜ「屋根貸し」が注目されているのか 築古の中小規模オフィスビルに太陽光発電を導入する際、最初に検討されるのが「PPA(Power Purchase Agreement:電力購入契約)モデル」です。これは、太陽光発電設備を第三者(PPA事業者)が所有・設置し、建物所有者や入居テナントがその電力を購入するという仕組みです。設備の初期費用をかけずに、屋上スペースを“貸す”だけで導入できることから、導入ハードルの低さが特徴です。なかでも注目されているのが、「屋根貸し型」PPAです。これは、建物所有者が屋上スペースをPPA事業者に貸し出し、発電された電力は第三者(電力会社や電力プール等)に売電されるというモデルです。建物側は、屋上の遊休スペースを活用することで少額の賃料収入(数千円~数万円/月)を得ることができます。また、自家消費型のPPA(共用部電力の代替)を選択する場合は、建物の電力契約を切り替えたり、分電盤の改修などが必要になることが多く、技術的・制度的ハードルが上がります。これに対し、屋根貸し型であれば、契約主体もPPA事業者で完結し、オーナー側の負担は最小限に抑えられます。ただし、こうしたモデルには当然限界もあります。たとえば、20㎡程度の発電面積では、十分な売電収入は期待できません。パネル1kWあたりの年間発電量は1,000kWh前後とされ、売電価格(FIT制度など)も年々下落しています。結果として、得られる屋根賃料も「副収入」と呼ぶにはごくわずかな規模にとどまります。また、売電による環境価値(再エネ証書等)は事業者側に帰属するため、ビル全体のESG評価や環境ブランディングに直結しにくいという点も理解しておく必要があります。つまり、「屋根を貸すだけだから簡単」とはいえ、得られるメリットも限定的。屋根貸しPPAは、“空いているよりはマシ”という発想に基づくものであり、事業性というより「余剰空間のマネタイズ手段」と位置付けるのが現実的です。 節2:東京都「再エネ電力利用拡大プログラム」の実務影響 築古中小規模オフィスビルでPPAモデルによる太陽光発電を導入するにあたり、2023年から東京都が展開している「再エネ電力利用拡大プログラム」は、注目すべき制度です。これは、再エネ設備を導入したい事業者(ビルオーナー等)と、PPA事業者とのマッチングを都が支援する仕組みで、中小規模オフィスビルにも開かれた「公共的なPPA仲介市場」のような役割を果たしています。この制度の特徴は、設置側(ビルオーナー)に対するハードルの低さです。たとえば、東京都は、PPA事業者との橋渡しだけでなく、補助金情報、設備の仕様標準、契約の留意点などをまとめたガイドラインを提供しており、PPA導入が初めての事業者でも検討が進めやすい環境が整えられています。実際に都の報告書でも、延床面積2,000㎡以下の中小オフィスビルでのPPA導入事例が紹介されるなど、「中規模以下の建物でも可能性がある」ことが明示されています。しかしながら、「制度がある=導入できる」というわけではないのが現実です。たとえば以下のような“対象外になりやすい条件”を抱えている築古オフィスビルは少なくありません:・屋上の耐荷重が不明または不足している(古い建築基準による設計)・既存の防水層の状態が悪く、太陽光電池パネル設置に伴う保証切れリスクがある・電気契約が複雑(例:共用部とテナントで別契約)で、PPA電力の供給対象が明確にできない・建物所有者と利用者(テナント)が異なり、事業スキームを合意形成しづらいさらに、現場では消防法や建築基準法、設備点検の動線確保、避難経路の障害なども要チェック項目として浮上します。実務的には、PPA事業者との打ち合わせ前に「屋上の現況をきちんと把握しているか」が導入成否の鍵となる場面が多いのです。このように、東京都のプログラムは中小規模オフィスビルにとって有効な後押しになりますが、すべての物件が“乗れる列車”ではないことは押さえておくべきポイントです。制度の存在が即ち「簡単に導入できる」ことを意味するわけではなく、むしろ制度を最大限に活かすためには、物件の現況確認・図面の確認・電力契約の整理といった“地味な下準備”が不可欠だと言えるでしょう。 節3:「太陽光発電やるなら今」は本当か? 補助金・制度の変化と注意点 「太陽光発電の導入は今がチャンス」といった声を耳にする機会が増えています。背景には、国や自治体による補助制度の充実や、再生可能エネルギーの社会的関心の高まりがあります。特に東京都や国のZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)補助金は、初期費用のハードルを下げる有力な手段として注目されています。たとえば、東京都の再エネ・蓄エネ設備導入に関する補助制度(例:(公財)東京都環境公社〔クール・ネット東京〕が実施する「地産地消型再エネ・蓄エネ設備導入促進事業」等)では、導入スキームや要件によっては、PPAモデルの場合でも付帯設備(高効率パワーコンディショナー、蓄電池など)が補助対象となることがあります。あわせて、東京都が示す事業者登録や手続き支援の枠組みを活用することで、導入検討を進めやすくなるケースもあります。また、国によるZEB支援事業でも、一定の省エネ性能の達成を前提に補助が行われますが、補助率や対象範囲は公募区分や審査結果によって異なります。しかし一方で、これらの補助制度にはいくつかの注意点と限界が存在します。① 補助金の“要件の壁”制度によっては、以下のような厳格な条件が課されることがあります:・建物全体の断熱性能や気密性の確保(築古オフィスビルでは達成困難)・設備の仕様要件(最新型のパネルや高効率インバータの使用が前提)・長期の運用実績報告義務(5年〜10年分の実績提出など)・テナントを含むビル全体としての省エネ率目標の達成特に、築30年以上の中小規模オフィスビルでは、こうした要件を“物理的に満たせない”場合も多いため、「使えそうで使えない」補助制度があることに留意が必要です。② 申請の煩雑さとスケジュールの制約補助金を受け取るには、事業計画書の提出、現況写真や設計図面の添付、事後報告まで含めた煩雑な事務手続きが必要です。しかも、公募期間は年に1回、予算額の上限に達すれば早期終了という制度が多く、スケジュール管理を誤るとチャンスを逃すリスクもあります。③ 補助金に頼った投資判断の危うさ制度があるうちは導入メリットが見込めても、補助金はあくまで“政策の波”に左右される一時的な措置です。仮に導入から10年後に同様の制度がなくなっていた場合、交換や更新時の費用は全額自己負担となり、収支計画が狂う可能性もあります。特に、ZEB補助などは予算額や対象範囲の変動が激しく、「今年は対象、来年は対象外」といったケースも少なくありません。④ “制度ありき”ではなく、“条件整理ありき”つまり、制度は「追い風」であっても「船そのもの」ではありません。制度の有無で左右されない“導入の意義”や“建物に合った施策”の見極めが第一であるべきです。補助金は、すでに導入条件が整っているビルが“より効率よく始めるための支援策”と捉えるべきであり、制度ありきで不適合な建物に無理な導入を試みることは、かえって将来のリスクを高めかねません。このように、補助金・制度の存在はたしかに太陽光発電の導入の追い風ではありますが、それを「導入すべき絶対的根拠」として扱うのは危険です。むしろ、「制度があるからやる」のではなく、「やる理由が明確だから制度を活かす」という発想こそが、築古・中小規模オフィスビルにおける太陽光発電導入の現実的アプローチだと言えるでしょう。 節4:屋上構造と「防水」「耐荷重」の現実的なハードル 太陽光電池パネルは、導入すればすぐに「屋上が発電所になる」わけではありません。現実には、屋上という空間自体が、必ずしも太陽光発電設備を受け入れられる構造になっていないケースが多々あります。築30年超の中小規模オフィスビルにとって最大の障壁は、「耐荷重」と「防水性能」の2点です。① 想定荷重の限界:屋上に「載せられない」現実多くのビルは、屋上に人や設備を長時間載せることを想定していません。特に1981年以前の旧耐震基準下で建てられたビルでは、屋上スラブ(床)自体の設計荷重が小さいケースが多く、太陽光電池パネル架台+パネル+バラスト(重し)といった構造物の重量に耐えきれない可能性があります。標準的な太陽光電池パネル1枚(1.6㎡程度)でも約20kg。架台や安定用のバラストを含めると1㎡あたり40~60kgの荷重になるケースも。築古のビルでは、屋上の許容荷重が100kg/㎡未満という例もあり、設備配置には厳格な構造計算が求められます。そのため、「パネルを並べればOK」ではなく、「そもそも屋上に載せていいのか?」という段階からの検証が必要です。② 防水層の劣化と再施工リスク太陽光電池パネル架台は屋上スラブにアンカー(固定用の金具)を打つことが多く、その際に防水層を貫通するリスクがあります。これは築古オフィスビルにとって致命的な問題です。なぜなら、防水層は10~15年で改修が必要な設備であり、太陽光電池パネルを後から設置してしまうと、次回の防水改修工事時に設備の撤去・再設置コストが発生します。さらに、施工ミスや想定外の雨水侵入があった場合、漏水による内装被害・テナントトラブルにつながるリスクもあります。防水保証がついている場合でも、太陽光電池パネル設置が原因で防水層に手を加えた場合、その保証が失効する可能性もあるため注意が必要です。③ その他の物理的制限:避難経路、検針動線、点検スペース屋上は、電気設備や給排水設備、空調室外機など多くの機能が集まる場所でもあります。そのため、太陽光電池パネルを敷き詰めることは現実的ではなく、以下のような制約を考慮する必要があります:電気メーターの検針員が立ち入るルートの確保高圧受電設備や避雷針の定期点検スペースの確保防火・避難経路としての屋上動線の維持これらの「パネルが置けない場所」を差し引くと、実際に設置可能な面積は屋上面積の3~5割に留まるケースもあります。④ 屋上の“インフラとしての限界”を見極めるこうした制約を踏まえると、屋上は必ずしも自由に使える未利用空間ではないという現実が見えてきます。特に築古オフィスビルでは、以下のような前提で検討を進めることが重要です:太陽光電池パネルは“点的に”設置する(スカスカでも良い)バラスト方式など“載せるだけ”の非固定設置を優先する防水改修とセットで計画する(改修直後ならベスト)構造設計者による事前の荷重チェックは必須太陽光電池パネルの設置は、屋上という空間に「外部エネルギー装置」という異物を持ち込む行為であり、それゆえに慎重な構造的・設備的検討が不可欠です。可能性の芽は確かにありますが、その前に“屋上のキャパシティ”を正確に測ることが、導入の成否を分ける第一歩となります。 節5:電力契約と「共用部自家消費」実現の難しさ 太陽光電池パネルを設置しても、発電された電力を効率よく活用できなければ、ビルの経済的メリットは限定的です。特に築古の中小オフィスビルでは、「発電した電力をどう使うか」が実務的な壁になります。多くの場合、テナントが電力を個別契約しているため、共用部への自家消費という形でしか電力利用が成立しません。① オフィスビルの電力契約形態:共用部と専有部の分離一般的な賃貸オフィスビルでは、以下のように電力契約が分かれています:共用部(エレベーター、共用照明、空調など):オーナー名義で電力会社と契約専有部(各テナントの照明・空調・PC等):各テナントが個別に契約この契約構造の中で太陽光発電を導入する場合、発電した電気をどこに供給するかがポイントになります。もっとも簡単なのは、オーナー契約の共用部に供給して「電気料金削減」につなげる方法ですが、これではテナント側には直接のメリットが届かないという問題が生じます。② 共用部だけでは“消費しきれない”可能性も小規模ビルの共用部は、消費電力量が限られます。たとえば1フロア100坪未満、エレベーター1基、共用照明も少ないというビルでは、日中の消費電力が1日数kWh程度ということもありえます。一方、晴天時の太陽光電池パネル(例:20㎡で約3~4kW)では、1日20kWh前後を発電する可能性も。これにより、「発電量のほうが消費量を上回ってしまう」=余剰電力が無駄になるという事態も起こりえます。この場合は系統連系(電力会社の電線に逆流させる仕組み)による売電が必要になりますが、売電単価は1kWhあたり10円未満(FIT後期)となることもあり、経済性は大きく下がります。③ 電力系統の整備・更新には費用がかかるもし万が一、共用部以外に電力を供給するとしたら、以下のような技術的整備が必要です:分電盤の改修:太陽光発電の電力を各回路に適切に流すための工事契約種別の見直し:高圧から低圧への切替や、PPA対応の契約設計売電メーター・逆潮流防止装置の設置これらはいずれも数十万円〜数百万円規模の追加費用が発生し、築古・中小規模オフィスビルでは費用対効果が見合わないと判断されることが多いポイントです。④ 一棟貸し vs フロア貸しでの対応の違い一棟貸しのオフィスであれば、電力契約も一括管理されているため、自家消費+売電のスキームが比較的容易に設計できます。ところが、複数テナントが入居するフロア貸しのビルでは、電力契約の再編成には以下のような困難があります:契約主体の変更にテナントの同意が必要工事中の停電リスクや費用負担の所在が不明瞭管理会社・電力会社・施工業者の間で調整負担が大きい結果として、制度上はできても、実務上は困難という例が多く見られます。 節6:テナントは「太陽光発電付きビル」をどう見ているか? 築古・中小規模オフィスビルにおける太陽光電池パネルの導入は、オーナー側の電気代削減や環境対応の意識向上につながる施策です。しかし、その意義がテナント側に届いているかというと、現場では必ずしも評価の対象になっていないという声も多く聞かれます。特に共用部電力としてしか活用されていないケースでは、「太陽光発電があることで、テナントにどんな利点があるのか?」という疑問が明確にされないまま、“付加価値”として機能していない現実があります。①「テナント評価」に繋がらない構造的理由賃貸オフィスビルでは、電力契約がテナントごとに分かれていることが一般的です。これにより、共用部の電気代が太陽光発電で安くなっても、専有部の契約とは関係がなく、テナントがその効果を体感できない仕組みになっています。さらに、売電益や電気代削減によってオーナー側が得られるメリットが、テナント側に還元される仕組みが存在しないことも、認識ギャップを広げています。② ESG配慮=“伝え方次第”の価値環境対応型の不動産が、企業のイメージ戦略や広報活動に資することは間違いありません。しかし、築古中小規模オフィスビルの場合、ZEBやGRESBなどの制度に正式対応しているわけでもなく、「再生可能エネルギー活用中」と記載する以上のアピールが難しいという制約があります。だからこそ、「発電設備があること」自体よりも、それをどのように伝え、物語として構築できるかが重要になります。③ 「可視化」と「還元設計」がなければ、伝わらないこの取り組みの価値をテナントに届かせるには、次のような仕掛けが求められます:発電実績を見える化(例:共用部掲示板やWebでの発電グラフ掲示)共益費の一部還元(例:電気代削減分をテナント負担の一部に反映)環境貢献スコアのテナントへの配布、テナントのCSR報告書への掲載可能な文言の提供(例:CO₂削減量を企業CSRに活用)こうした「還元される設計」があって初めて、テナントの評価対象となるのです。 節7:「発電による収益化」は幻想か?事業モデルの現実 太陽光電池パネルの導入と聞くと、「屋上を活用して収益を生む」という言葉がセットで語られがちです。特に築古中小規模オフィスビルのオーナーにとっては、「空いている屋根をお金に換えられるなら、やらない手はない」と感じるかもしれません。しかし現実は、その期待に素直には応えてくれないのが実情です。① FIT制度の終焉と“売電神話”の変化かつては、固定価格買取制度(FIT)により、太陽光発電した電力を高値で電力会社に売ることで、導入コストを回収し、収益を上げるビジネスモデルが成立していました。事実、2012年頃には1kWhあたり40円近い売電価格も存在し、大型の太陽光発電設備で年間数百万円の収益を上げる例も珍しくありませんでした。しかし、現在のFIT買取価格は10円台まで下落しており、2025年以降はさらに下がる、あるいは買取対象から外れる可能性も出てきています。特に都市部の屋上にある20㎡程度の小規模設備では、仮にフル稼働しても月1万円に満たない収益しか見込めないケースが多いのです。② PPAモデルでも「実益」は限定的前節で触れたPPAモデル(第三者所有による無償設置)では、売電益の大部分は事業者側に帰属します。ビルオーナーに入る金額は、屋根貸し料として月数千円〜数万円程度。この金額が、点検・維持管理の手間、テナント調整の労力、屋上インフラの整備負担に見合うかと問われると、正直に言えば「収益化」と言えるほどのインパクトはないでしょう。とはいえ、空いている屋上をそのまま放置しておくよりは、「多少なりとも定期的な収入が入る」という点で、“何もしないよりはまし”という発想も成立します。③ 中小規模オフィスビルでは「コスト削減」こそ主目的にすべき小規模な築古オフィスビルの場合、パネル設置による電力自家消費に期待するより、共用部電気代の削減を目的とした導入のほうが現実的です。昇降機・共用照明・セキュリティ機器など、一定の電力を安定的に消費する共用部月々数万円規模の電気代に対して、太陽光発電で1〜2割でも賄えれば、年間で数十万円のコスト圧縮が可能このように、「発電で儲ける」のではなく、「使う電気を減らす」ことで間接的に収益性を高める方向に発想を転換すべきフェーズに来ています。④ 金銭的利益以外の“価値”に注目すべきただし、太陽光発電の導入によって得られる“価値”は、必ずしも売電益やコスト削減に限られません。ESG評価向上による投資家・テナントからの評価不動産ポートフォリオの「グリーン度」向上補助金・助成金の対象建物としての優位性中長期での資産価値の安定性(環境適応型建物としての耐性)つまり、発電によるキャッシュフローだけに注目すれば“幻想”かもしれませんが、トータルのビル価値に貢献する「戦略投資」と捉え直すとしたら、導入の意味はまったく変わってきます。結論:「屋上発電=ビジネス」ではなく「資産のリスクヘッジ」として考える売電モデル全盛の時代は終わりました。今、築古・中小規模オフィスビルで太陽光発電を語るなら、「屋上で儲ける」というよりは、「将来の運営コスト上昇リスクを抑える」あるいは「環境適応による市場競争力を維持する」といった防御的・戦略的観点からの評価が求められます。発電はあくまで手段であり、ゴールは「このビルをどう持たせるか」。その問いに対するひとつの選択肢として、太陽光発電は現実解にもなり得るのです。 第4章:「屋上緑化」はロマンか実務か─築古・中小規模オフィスビルにおける屋上緑化の可能性と限界 導入節:なぜ今「屋上緑化」なのか? 都市の中で失われてきた自然を、再び建物の上に取り戻す──。屋上緑化には、単なる“見た目の良さ”や“温熱効果”を超えた思想的な背景があります。特に築30年以上の中小オフィスビルにおいて、更新・再生のきっかけとして「屋上の緑」というテーマにどれだけ現実味があるのか。ここでは、その思想と制度、物理的制約、そして実務面での可能性を多角的に検証していきます。 節1:思想としての屋上緑化──フンデルトヴァッサー的発想とは? オーストリアの芸術家、フリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサーは、屋上緑化の思想的源流ともいえる存在です。彼は「建物を建てることは自然を奪うことだから、奪った分だけ自然を建物の上に返すべきだ」と提唱し、建築と自然の共生をアートの領域で体現しました。実際、彼が設計した「フンデルトヴァッサーハウス」(ウィーン)や「舞洲工場」(大阪)では、建物の屋上・壁面に植栽が施され、まるで森のような建築が実現しています。この発想は、「都市における緑の再生」だけでなく、人間の心の再生にもつながるという考えを内包しています。緑は単なる装飾ではなく、「自然との接続回路」であり、コンクリートに覆われた都市空間に小さな“呼吸の場”を与えるものなのです。築古オフィスビルであっても、たとえ小さなスペースであっても、この思想に倣った緑化が可能かどうか──それがこの章の出発点です。 フンデルトヴァッサー(1928年~2000年)の屋上緑化のイメージ 節2:ESGと制度的な後押し──屋上緑化は“評価される”のか? 近年のESG(環境・社会・ガバナンス)評価において、屋上緑化はEnvironment=環境対応の一手段として注目されています。・緑化による温熱環境の改善(ヒートアイランド緩和)・生物多様性の保全(特に蝶や昆虫などの微小生態系)・雨水流出の抑制によるインフラ負荷軽減これらの効果は、SDGsの目標11「住み続けられるまちづくり」や13「気候変動に具体的な対策を」への貢献としても評価され、中小規模オフィスビルにとっては、直接関係ありませんが、GRESBなど不動産のサステナビリティ指標でも加点対象となっています。また、区市町村などの自治体では、「ヒートアイランド対策助成」などの補助制度が整備され、緑化にかかる初期費用の最大50%が補助される例もあります(例:千代田区ヒートアイランド対策助成)。ただしこれらの制度は、大規模新築ビルや開発案件に最適化された面もあり、築古中小規模オフィスビルでは条件が合致しないことも多い点に注意が必要です。 節3:小さな屋上、鉢植えから始まる“現実的緑化” 大規模な屋上庭園や芝生を敷き詰めるような緑化は、中小規模オフィスビルでは構造的にもコスト的にも非現実的です。しかし、それでも意味のある緑化は可能です。たとえば以下のような“小さな取り組み”が現実的です:耐荷重制限を超えない 軽量プランターによる鉢植え緑化常設構造物にせず、可搬式とすることで防水リスクを回避最小限の設備(例:ジョウロによる手灌水)で管理可能にこれにより得られる効果は意外に多く、屋上表面温度の低減 → 室内の温熱環境改善・省エネESG対応のアピール要素として外部発信が可能千代田区の例では、容量100リットル以上のプランター設置に最大50万円までの補助金が出る制度もあり、鉢植えレベルでも、一応は、“実務化”可能であることがわかります。 節4:防水・荷重・水回り──ビル設備としての現実的課題 一方で、屋上緑化には無視できない物理的・技術的ハードルがあります。防水層の劣化・根の侵入リスク:防根シートや保護層施工が必須荷重負担:土壌含水時には100kg/㎡以上に。古い躯体では荷重計算が不可欠排水・潅水インフラ:落ち葉によるドレン詰まり、夏場の水枯れリスク、給排水設備のコスト増これらは施工時の対策だけでなく、中長期の維持管理計画として組み込む必要があります。また、緑化設備は「建物本体」とは別に減価償却資産(耐用年数20年)として扱われ、税務・会計的な管理にも注意が必要です。施工費の目安としては、1㎡あたり数万円以上となり、仮に20㎡であっても200万〜300万円規模の初期投資が必要になる可能性があります。 節5:ロマンと実務、そのあいだにある選択 屋上緑化は、費用対効果だけを見れば「割に合わない」と判断されやすい施策です。しかし、・環境価値・心理的価値・社会的シグナル・空間的印象の転換といった「数値化しづらいけれど確実に存在する価値」を生み出せる点で、実務的な“副次効果”を多くもたらす選択肢でもあります。築古・中小規模オフィスビルにおいては、過度に理想化せず、「鉢植えから始める現実的な導入」や「補助金を活用した限定的スコープでの導入」など、ロマンと現実をつなぐ柔軟な設計こそが求められるのかもしれません。 結語:屋上緑化は「問いかけ」としての空間装置である 都市空間における屋上は、もっとも無視されがちで、同時に最も可能性に開かれた場所でもあります。築古オフィスビルの屋上に数鉢の植物を置くことで、「このビルは自然とどうつながるのか?」という問いを投げかけることができます。それは事業性やROIでは測れない、“建築の意味”や“都市の呼吸”に関わる問いです。だからこそ、「緑化はロマンに過ぎない」と切り捨てるのではなく、ロマンが実務に寄り添う導入の仕方を探ることこそ、築古オフィスビル再生におけるひとつの鍵となるのです。 第5章:むしろ見直すべき「屋上防水改修」という実務課題──空間再生は“足元”から始まる 導入節:華やかな「活用」の前にある、地味だが重要なメンテナンス 太陽光発電や屋上緑化といった“アクティブな活用策”が語られる一方で、屋上空間のもっとも基本的な機能は、「雨を防ぎ、建物を守る」ことにあります。特に築30年を超える中小オフィスビルでは、屋上防水の劣化がさまざまな建物不具合の起点となるケースが少なくありません。本章では、見落とされがちな屋上防水の実態と、そのメンテナンスがいかに“建物全体の寿命”を左右するかについて実務的な視点から掘り下げていきます。 節1:防水層の寿命と、改修サイクルの現実 オフィスビルの屋上に施工される防水改修工法には、主に以下のような種類があります:アスファルト防水(トーチ工法等):耐用年数 15~20年シート防水(塩ビ・ゴム):耐用年数 10~15年ウレタン塗膜防水:耐用年数 10年程度(定期的なトップコート更新要)これらはいずれも紫外線・温度変化・降雨・風圧などの外的ストレスにさらされ続けるため、経年劣化は避けられません。にもかかわらず、目視での劣化確認が難しく、定期点検を怠っている物件も少なくないのが実情です。 節2:放置の代償──漏水は“屋上だけ”の問題ではない 屋上防水の劣化を放置すると、次のような問題が発生します:漏水による階下への被害(天井材の腐食・漏電)設備機器やテナント什器の損傷カビや湿気による室内環境の悪化テナントからの損害賠償請求・信頼毀損特に共用部や倉庫スペースが多い中小規模オフィスビルでは、誰の責任か曖昧になりやすく、対応が後手に回るケースも多いです。つまり、屋上防水のメンテナンスは単なる「上の問題」ではなく、ビル全体の保守運用に波及する“ボトムライン”の管理なのです。 節3:屋上防水の改修は「空間再生」の第一歩になるか? 一般に、防水改修は次のような工法で行われます:既存層を撤去し、新たに全層施工する「全面改修」既存層の上から重ねる「カバー工法」劣化部分のみを補修する「部分補修」コストや工期、荷重制限などに応じて選択されますが、いずれの場合も「屋上に人が入る」「足元の状態をフラットに整える」ことが前提になります。これは裏を返せば、太陽光電池パネル設置や緑化を検討する際の土台を整える絶好のタイミングでもあるのです。「活用」の前に「整える」──。地味ではありますが、防水改修こそが屋上空間再生の出発点となる実務工程であることを再認識すべきです。 節4:改修の判断基準と費用感 屋上防水の改修判断には、以下のような基準が用いられます:築年数(前回改修からの経過年数)表面のひび割れ、膨れ、色褪せドレン(排水口)周辺の詰まりや水たまりの有無過去の漏水履歴改修費用は工法・面積によって異なりますが、参考値としては:100㎡あたり:150万〜300万円程度(材料費+施工費などを含む)これに加え、太陽光発電や緑化と組み合わせる場合は構造調査やインフラ調整費が上乗せされるケースもあります。結語:「防ぐこと」は価値を守ること──足元のメンテナンスが、未来の可能性を支える築古オフィスビルにおける屋上再生は、派手なコンセプトではなく、地道な整備工事から始まるのが現実です。そしてその第一歩となるのが、防水改修という“足元の仕事”です。華やかな緑化や再生エネ設備が注目される今だからこそ、「何も置けない屋上であっても、漏れない屋上であること」に最大の価値を見出す視点が、ビルの長寿命化と信頼性向上につながります。「活用」ではなく「維持」から屋上を考える。それが築古・中小規模オフィスビルのオーナーにとっての現実的な再生戦略の入り口なのかもしれません。 第6章:ビル管理者だけが知る「屋上の風景」──誰も見ない場所にある、都市の静けさ 導入節:屋上を「語る」前に、屋上を「見る」視点を取り戻す これまでの章では、屋上という空間の活用策(太陽光発電、緑化)および防水改修について、実務的に検討してきた。しかし、実際に屋上に足を運ぶ人のほとんどはいない。テナントも、来訪者も、オーナー自身すら、屋上を“見たことがない”ということも少なくない。この章では、そうした「誰も見ていない場所」に日常的に出入りする管理者の視点を通じて、屋上という空間の別の顔──都市の中の余白、静けさ、時間の蓄積──に目を向けてみたい。それは、活用や収益化とは異なる屋上の“存在価値”を見直す視点でもある。 節1:電気検針や点検のついでに“日常”として立ち寄る屋上 管理者が屋上に上がるタイミングは、多くの場合、ルーティンワークの中にある。電気メーターの検針空調や給排水設備の目視点検ドレンの詰まり確認雨漏りの兆候チェックそうした実務のついでに立ち寄る屋上は、無機質で埃っぽく、何もない空間だ。しかし、そこには風の音しか聞こえない静寂があり、空が広がり、ビルの谷間から見える他ビルの屋上に目を奪われる瞬間がある。都市の中の“隙間”に、自分しか知らない風景が広がっている──それが、管理者にとっての屋上の日常である。 節2:テナントの誰も知らない「静かな時間」が流れる場所 テナントのオフィスワーカーたちは、ビルの屋上の存在をほとんど意識していません。エレベーターの行き先表示に「屋上」の文字はなく、非常階段を登った先にある鉄扉の向こうは、非公開であるがゆえに無関心の対象となっています。けれどもそこには、朝焼けを反射する高層ビル群、季節の移ろいを知らせる風、工事現場の遠い音、鳥のさえずりなど、“都市の縁側”のような光景が広がっています。人の出入りが少ないからこそ、排気音や自動ドアの作動音もなく、ただ空だけが大きくある──そんな空間が都市のど真ん中に残されているのです。 節3:「何もしない場所」に宿る、建物の“記憶” 長年管理を担当していると、屋上に対してある種の“愛着”が生まれる。そこには、建物の歴史が物理的に残っているからだ。老朽化した塗膜に、以前の改修時期の痕跡を見つける錆びた配管の継手に、過去の施工者の技術を想像する今は使われなくなった煙突や突起物から、かつての用途を辿る図面や契約書では拾えない「建物の過去」が、屋上には静かに蓄積されている。管理者にとって屋上とは、点検対象であると同時に、建物の記憶に触れる場でもあるのだ。 結語:都市の“余白”に宿る意味──「活用」の先にあるもうひとつの価値 これまで見てきたように、屋上は「活用する空間」として語られがちだ。太陽光電池パネルを載せる、緑を植える、設備を整える──それらは確かに大切だ。しかし一方で、「何もしていない空間」であることが、都市においてかけがえのない静けさを生み出している側面もある。都市に残された“余白”としての屋上。そこに価値を見出すことは、単なるノスタルジーではない。「建物とは何か」「都市における静けさの居場所とはどこか」を問い直す入り口でもある。次章、最終章では、こうした屋上の多層的な意味を踏まえつつ、「活用」と「想像」のあいだにある屋上の未来像について、あらためて整理していきたい。 第7章:まとめ──屋上は「活用する場所」なのか、「想像する場所」なのか 導入節:収益性だけでは語れない、屋上という存在 築30年を超える中小オフィスビルの「屋上活用」は、今や空室対策やESG対応、再エネ導入といった現代的な経営課題と結びついて語られるようになっています。太陽光発電で電気代を抑える、緑化で環境評価を高める、防水改修で資産価値を維持する──そのいずれも、現実的で重要なテーマです。しかし一方で、「活用すべき」「収益を生むべき」という一方向の視点だけでは捉えきれないのも、屋上という空間の持つ本質です。 節1:屋上は「建物の健康状態」を映す鏡 本コラムで繰り返し登場したのは、防水層の劣化や点検不備が、建物全体に波及するリスクでした。防水改修は、テナントが直接関わらない“裏方”の営みですが、そこで起きるトラブルは、漏水・カビ・構造劣化といったビルの信頼性に直結します。屋上を点検し、整備し、時には更新することは、「空間の活用」以前に、「建物の健康を守る行為」です。それは資産としての建物の維持管理にとって、極めて基本的で、見過ごされがちな“実務の要”です。 節2:「使わない屋上」には価値がないのか? 太陽光発電も、緑化も──すべてのビルに一律に導入できるわけではありません。面積や荷重、電力契約や構造、立地や予算、テナント構成など、現場ごとの前提条件が屋上の姿を大きく左右します。中には「何も置かず、何もせず、ただ風と空に開かれた空間」としての屋上もあるでしょう。それを「未活用」「もったいない」と見るのではなく、都市のなかに残された“余白”としての存在意義を見直すことも、成熟した建物運営の一つの選択肢です。 節3:屋上から考える、築古オフィスビルのこれから 屋上を見直すことは、単に新たな設備を導入する話ではなく、築古オフィスビル全体をどう維持・更新し、価値を再構築していくかという問いの入り口になります。エネルギー負荷をどう抑えるか自然や環境とどう関わるかテナントに見えない管理面で何を優先すべきか無理なく、無駄なく、どこまで手を加えるかそうした問いの一つひとつが、都市のなかで築古オフィスビルが「まだここに在る」ための答えを形作っていきます。 結語:屋上は“何かをする場所”であると同時に、“何かを想像する場所”でもある 東京都心という高密度都市のなかで、屋上は唯一“空”に開かれた空間です。そこには、再エネ設備も置けるかもしれないし、緑のプランターを並べることもできる。けれど、何もしないという選択もまた、価値ある決断です。大切なのは、そのビルにとっての「最適な屋上のあり方」を見出すこと。それは単なる施設活用ではなく、建物とそのオーナーの「姿勢」が問われる場面でもあります。築古オフィスビルの屋上は、未来に向けて何かを想像し、問い直す場所──そうした視点からこそ、「屋上を見直す」という行為が、建物全体の再生へとつながっていくのではないでしょうか。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月3日執筆2025年12月03日 -
ビルリノベーション
その天井、どう見せる?築古オフィスの空間印象を変える設計戦略 前編(歴史編)
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「その天井、どう見せる?築古オフィスの空間印象を変える設計戦略」のタイトルで、2025年12月2日に執筆しています。コラムの内容が多岐にわたり、長くなったので、前後編に分けてお送りします。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次序章――“頭上のゆとり”がキャッシュフローを変える第1章:日本建築における天井高の歴史的変遷第2章:ハリウッド映画に学ぶ「天井を見せる/消す」演出術と「天井高の心理学」第3章:オフィスビルの天井高は“技術・法規・市場”の三すくみで進化した第4章:日本の建築家たちによる天井高の試行錯誤第5章:アメリカ超高層文化がもたらした“天井高フリーダム”以下、後編 序章――“頭上のゆとり”がキャッシュフローを変える 朝一番、仲介会社から届くレポートに「実天井 2.9m」「スケルトン天井 3.1m」という数字が踊っている。―オフィスビルを所有するあなたなら、その行を無意識に目で追っているはずです。いまや、イケてるテナントは、駅近・耐震性・省エネ性能と並んで「天井高」を真っ先にチェックします。働き方改革でクリエイティブな雰囲気のコラボ・スペースを作りたいウェルビーイング経営で“広がり”を打ち出したい―そんなイケてる会社ほど、2.7m以下の天井に首をかしげ、2.8m超には家賃プレミアムを惜しまない。天井は単なる仕切りではなく、賃料単価と入居期間を左右する“頭上の資産”になりました。しかし現実を見渡せば、築40年超のストックが市場に一定数存在しています。梁下 2.3m、配管パンパン、照明をLEDに替えても「低いね」と言われる―そんなフロアは珍しくありません。建て替えるか、リノベで勝負するか。どちらを選ぶにしても、最初に突き当たる壁が「天井をどうする?」という問題です。低い天井こそ合理だった時代実はこの「頭上のゆとり」は、住まいの歴史と切っても切れません。江戸の町家は六尺(約1.8m)、戦後の団地は八尺(約2.4m)。日本人は長らく低い天井と共存してきました。千利休の茶室では、客が自然に頭を垂れるように潜る躙口の天井をわざと落とし、吉田兼好が『徒然草』で「天井高きは冬寒く、燈(ともしび)暗し」と綴ったとき、そこには暖房も照明も心許ない中世のリアリティがありました。低いほど温かく、光が届き、資材も節約できる――低天井は理にかなっていたのです。高さ=豊かさという新しい価値観ところが明治維新を境に、西洋館の高天井が文明開化の象徴として現れます。銀行や官庁の大広間、鹿鳴館の舞踏室。吹き抜けのスケールに目を丸くした当時の日本人は、「高さ=豊かさ」という新しい価値観に触れた瞬間でもありました。昭和の高度成長期には「2.6mの応接間」が豊かさのアイコンとなり、住まいが一段高くなるたびに、オフィスは“さらにもう一段”を目指しました。住宅とオフィスの高さ競争は、実は明治以来のキャッチアップの歴史でもあります。3m時代に現れた新たな逆説そして21世紀――LED照明と高性能空調が「冬寒く燈暗し」という呪縛をほぼ解き放ちました。最新の大規模ビルでは階高4m、実天井高3mが当たり前になりつつあり、リビングを吹き抜けにする戸建ても珍しくありません。いまや「高さ」は快適性だけでなく、企業のブランドや住まい手のライフスタイルを語る言語になっています。しかし本当に「高ければ高いほど良い」のでしょうか。心理学にはカテドラル効果と呼ばれる現象があります。高い天井は抽象的・創造的思考を促し、低い天井は集中や緻密さを高めるという報告です。映画の世界でも、オーソン・ウェルズは『市民ケーン』で低い天井をフレームに入れ、権力者の孤独と閉塞感を演出しました。アルフレッド・ヒッチコックは『ロープ』で天井付きセットを用い、観客を密室の緊張に閉じ込めています。逆にSFやファンタジーは途方もなく高い天井で「人智を超えたスケール」を暗示します。天井は映像のなかでも、私たちの感情を揺さぶる装置として機能しているのです。こうして眺めると、天井は常に「合理」と「憧れ」のはざまで揺れてきました。暖を取るため低く抑えたはずの天井が、やがて豊かさの象徴として高く持ち上がる。その一方で、省エネやサステナビリティが再び「低い方が賢いのでは?」という問いを投げかけ始めています。天井は時代の技術水準と価値観を映すバロメーターであり、人間の心理に静かに語りかける頭上の境界なのです。築古ビルに立ち返る市場の半数を占める築40年超ストック――梁下2.3m、配管でパンパン。建て替えるか、リノベで勝負するか。どちらに進んでも最初に立ちはだかる問いは同じです。・梁やスラブをいじらずに体感天井を底上げできないか?・配管をあえて見せて3mを演出しつつ、空調コストを抑える手は?・そもそも天井の高さは、創造性・集中力・成約率にどこまで効くのか?本シリーズで読み解く“頭上価値”の全貌本コラムでは、1 歴史――古代の梁あらわしから超高層ビルのハイスタッドまで、天井高がどう変遷し何を象徴してきたか。2 技術とコスト――耐震・空調・配線の制約をどう突破し、天井を上げる(あるいは見せる)か。3 心理と演出――カテドラル効果、映画セットの天井なき世界が示す、人間の無意識と高さの関係。という三方向から、賃貸オフィスの競争力を左右する頭上価値を立体的に再点検します。築古ビルのスケルトン化事例から、最新ZEBビルの階高設計まで、数字とストーリーの両面で解説していく予定です。吉田兼好が700年前に残した逆説は、LEDとIoTが席巻する2025年の東京でもなお響くでしょうか。「天井を上げるべきか、見せ方で勝負するか」――その答えを探す旅に、ご一緒ください。 第1章:日本建築における天井高の歴史的変遷 ――低い梁からハイスタッドへ、オフィス天井の原風景を探る―― 1-1.梁(はり)を見上げて暮らした時代――“天井が無かった”日本の原風景 平安貴族の寝殿造をはじめ、古代〜中世の上層住宅には水平な「天井板」という発想がほぼありませんでした。柱と梁、その上に屋根を載せるだけの構成で、室内からは垂木や化粧梁がそのまま見える――いわゆる化粧屋根裏の空間です。夏の湿気を逃がし、可動建具で風を通すことを優先した結果、屋根裏を隠す理由が無かったのです。現代リノベで人気の梁あらわし天井は、じつは千年前の住まい方を再発見したデザインとも言えます。オーナーへの視点梁あらわしは「配管むき出しスケルトン天井」と親戚同士。築古オフィスで天井板を撤去して高さを稼ぐ手法は、気候への合理から生まれた日本の原型と相性が良い、と覚えておくと改修プランの説得力が増します。 1-2.茶室が示した“意図的ロースタッド”――高さ1.7mの精神設計 安土桃山期、千利休が完成させた二畳台目の小間は天井高およそ1.76m(5尺8寸1分)。成人男性が立てば頭が触れるほどの低さです。利休は亭主席側の天井をさらに落とし、客に対するへりくだりを空間で可視化しました。低い天井は視線と動作を制限し、わずかな灯りと相まって静謐と集中を演出します。住宅でもオフィスでも、高さを削って「場のスイッチ」をつくるという発想は、この茶室の逆説に源流があります。オーナーへの視点受付前の低い折下げ天井や、会議室前の垂れ壁で動線を絞るテクニックは、利休のロジックと同根。ハイスタッド一辺倒ではなく、メリハリで印象をコントロールする考え方が、改修コストを抑えつつグレード感を高める鍵になります。 1-3.江戸庶民と“六尺天井”――省エネと規制が生んだ1.8m 江戸町家の居室は梁下おおむね六尺(約1.8m)。火鉢の熱を逃がさず、行灯の光を届かせ、木材も節約できる――低いほど合理だったからです。さらに幕府の「武士を見下ろさない」規制や厨子二階の取り締まりを避ける知恵も重なり、低天井は法的・社会的コンセンサスになりました。古民家リノベ現場で鴨居が1.76m前後に収まるのは、この六尺寸法が今も建具寸法として残っている証です。オーナーへの視点築40年超オフィスの梁下2.3mを「低すぎる」と感じるのは、戦後に平均身長が10cm以上伸びたことも大きい――という歴史的事情を語れると、スケルトン化+演出で体感を底上げする提案に説得力が生まれます。 1-4.明治~昭和初期:「八尺=文化的生活」が生まれるまで 開国後、西洋館の3m超ロビーが文明開化の象徴として上陸します。けれど大量に住宅を供給しなければならなかった政府と大工は、贅沢な高さより材料ロスの少なさを優先しました。・石膏ボードや合板の規格寸法3×8尺(91cm×242cm)が普及し、2.42m前後で切ると端材ゼロになります。・1920~30年代に制定された「標準設計図」では、居室の望ましい天井高を八尺(≒2.4m)と明記。・こうして2.4m=モダンで文化的という神話が定着します。オーナーへの視点現在でも「2.4mの天井はエコノミークラス」という市場感覚は、この材料モジュールが作った歴史的イメージの延長線。改修時に2.5mを超えただけで印象が跳ね上がるのは、2.4mの壁が心理的ベンチマークになっているからです。 1-5.戦後~高度成長期:団地の“8尺固定”とオフィス階高ダイエット 1950年の建築基準法は、居室の最低天井高を2.1mと設定しました。「数を確保せよ」の掛け声で始まった公営・公団住宅は、ほぼ一律に 2.4m。団地の間取り図を開けば、軒並み8尺天井が並びます。一方、オフィスビルでは以下のような設計思想が主流となりました。① 空調ダクトや蛍光灯などを天井裏に収める二重天井方式が一般的に採用され、② さらに、限られた建物の高さ制限の中でフロア数を最大化するために、1階あたりの階高を抑える設計が多く見られました。この結果、築40年以上のオフィスビルでは、実天井高が2.3~2.5m程度と低めな物件が多数を占めています。オーナーへの視点・梁下2.3m問題は、この時代のコスト至上主義の遺産。・戦後70年で日本人男性の平均身長は約10cm伸びました。つまり昔は標準だった2.4mが、現代テナントには体感的に六尺天井並みの圧迫感を与える構造的ハンデになっているわけです。 1-6.平成以降:ハイスタッドvs.スケルトン、二極化の時代 1990年代、日本人の成人男子の平均身長が170cm台に達し、2.4mでは頭上クリアランスが70cmを切る住宅が増えました。1990年代、ハウスメーカーは2.6–2.7mの「ハイスタッド住宅」を商品化。同じ頃、シリコンバレーのITベンチャーは元倉庫をリノベして 配管むき出し3m超のインダストリアル天井をブランド化しました。オフィス新築でも流れは加速し、・執務室2.8m、共用部3m超が新築の当たり前になり。・ZEB(ゼロエネルギービル)では床吹出し空調やLED直付けにより、階高を抑えつつ実天井を上げる 技術が進化しました。オーナーへの視点1 ハイスタッド改修:梁下をいじれない場合でも、折上げ・勾配・光の演出で+200mmの体感は稼げます。2 スケルトン化:天井板を外し、配管を魅せることで3m演出+コスト圧縮。3 空調負荷:2.4m→3mで冷暖房負荷は約25%増という目安。テナントに提示する際は、床吹出し空調や人感センサーでランニングを打ち返すロジックを用意すると交渉がスムーズです。1章のまとめ: 時代代表的天井高主な理由現代リノベに効く学び古代~中世天井なし(梁現し)熱抜き・湿気対策スケルトン天井の原型古代~中世茶室(桃山)1.7m前後謙譲・集中の演出低天井で“場のスイッチ”江戸町家1.8m省エネ・耐震低階高でも機能優先明治~昭和2.4m材料規格・文化的標準8尺=ローグレードの出自1950-70s2.4–2.5m団地量産・階高圧縮築古ビルの低天井課題平成以降2.6–3.0m+スケルトン快適性・ブランド戦略ハイスタッドと配管現しの二極化 第2章:ハリウッド映画に学ぶ「天井を見せる/消す」演出術と「天井高の心理学」 ――スクリーンの密室感は、オフィスづくりのヒントになる―― 2-1.クラシック・スタジオは“天井なき世界”――設備優先が生んだ暗黙のルール ハリウッドが急成長した1920〜30年代、撮影所のステージ(サウンドステージ)は高さ10〜12mの巨大な箱でした。天井付近には格子状のキャットウォークとグリッドが張り巡らされ、数百キロのアークライトやマイクを好きな位置に吊れるようになっていたため、1 光を真上から落とせる(俳優の顔に影が出にくい)2 ブームマイクを画面外ギリギリまで下げられる3 壁を簡単に外してカメラを横移動できる―という実務メリットが絶大でした。結果、「セットに天井を作る=照明と録音の自由度を奪う愚行」という共通認識が定着します。観客がスクリーンで天井を見られないのは当たり前、スタッフは空(くう)を見せない撮り方に熟練していきました。オフィスへの翻訳スケルトン化は“設備優先”という同じ発想・天井板を外せばダクトやケーブルを後付けしやすく、レイアウト変更コストを半減できます。・キャットウォークの代わりに配線ラックを走らせ、照明レールをフレキシブルに配置すれば、テナントは「自分好みに光をデザインできる」自由を手に入れられます。・ビルオーナーにとっては長期入居=原状回復コスト低減という副次効果も期待できます。 2-2.『市民ケーン』が見せた“頭上の衝撃”――たった一枚の布が空気を変えた 1941年、25歳の新人監督オーソン・ウェルズは、新聞王ケーンの栄光と孤独を描く大作でハリウッドの慣例を真っ向から破りました。撮影監督グレッグ・トーランドと組み、①超広角レンズ、②深度の深いフォーカス、③ローアングルの仰角を多用して人物を圧倒的に写そうとしたのです。しかしローアングルでカメラを床スレスレに置くと、どうしても空(くう)がフレームに入る。そこでトーランドは、セット全体にキャンバス布の仮天井を張り、軽量ライトを布越しに当てることで「天井が存在する」ように見せました。・布なので機材は上から吊れる・布なのでマイクの音を拾いにくくしない・布なので“低い圧迫感”をリアルに演出たったこれだけで、観客はケーンのオフィスや私邸で「重くのしかかる権力の空気」を体感したのです。当時の評論家は“映画に天井を持ち込んだ革命”と評しました。オフィスへの翻訳「低いところだけ天井を張る」という可逆的演出・受付ホールの手前3mを布張りの折下げ天井+ウォールウォッシャー照明にすると、訪問客は自然に歩速を落とし、企業ロゴへ視線が集まります。・会議室の中心だけを吸音フェルトの“浮かし天井”にすれば、実際の天井高を削らずに話し声の明瞭度と集中感を両立できます。・施工はボルト+ワイヤで吊る軽量方式にすれば、レイアウト変更時に撤去も再利用も容易――ウェルズの“布天井”と同じ可逆性が、改修費の圧縮に効果的です。ウェルズが証明したのは、「天井の有無と高さは、人の心理を一瞬で書き換える」という事実でした。オフィスでも、3mの解放と2.3mの集中を意図的に混在させることで、空間が語るストーリーを強められるのです。 2-3.ヒッチコック『ロープ』――“完全な天井”が生んだリアル密室 1948年、アルフレッド・ヒッチコックはワンシチュエーション劇『ロープ』で前代未聞の撮影実験に挑みました。テクニカラー・カメラのマガジン容量ぎりぎり10分の長回しを8カットだけ繋ぐ―という“ほぼリアルタイム映画”です。① 天井まで作った一体型セット ・舞台はマンハッタン17階のアパート。ヒッチコックは天井板を含む完全密閉セットを組み、照明を家具や壁面に埋め込むしかない状況をわざと作り出しました。 ・壁と柱はローラー付きで、カメラが通過するときだけ静かに後退し、通り過ぎた瞬間に元の位置へ戻る――舞台裏では30名以上のスタッフが家具や小道具を同期させて“動く迷路”を操っていたといいます。② 1,200㎡(約12,000ft²)の巨大背景当時の技術では現在のような合成処理はできなかったため、窓の外に広がるニューヨークのスカイラインは、実際に巨大な背景画面(サイクロラマ)をスタジオ内に設置して表現していました。その背景画面は、12,000平方フィート(約1,100㎡)ものサイズを誇り、当時としては最大級のスケールでした。夕焼けから夜景まで約80分で変化させるため、雲(スパンガラス製)を8パターン動かし、ビル灯とネオンサインを段階点灯――外の時間までリアルに流れる密室が完成しました。③ 俳優・スタッフ全員が舞台劇を再現俳優は決められた導線をミリ単位で歩き、カメラは床に敷かれたレール上を縫うように移動。天井があるせいで照明バトンは使えず、スタッフはセット外周のキャットウォークから間接光を投げ込むだけ。主演のジェームズ・スチュワートは「ここでリハーサルされているのは役者じゃなくてカメラだ!」と嘆いたと言われます。▸オフィスへの翻訳――“逃げ場のない密室”はこう作る 映画の仕掛けオフィス空間に置き換えると効果・メリット完全な天井で機材を封印小会議室・フォーカスブースの天井を2.3–2.4mに抑え、間接光だけで照度を確保余計な情報を遮断し、集中・緊張を高めるローラー壁でフレキシブル動線可動パーティション+レール照明で、執務室をイベント/研修モードにワンタッチ転換レイアウト変更コストを削減し、テナントの運営自由度を確保時間が流れる窓外サイクロラマガラス面に調光フィルム+LEDラインを組み合わせ、昼夜の色温度を自動演出バイオリズムを整え、生産性と滞在快適度を向上 ポイントは、「高さを下げる」ことそのものではなく、低さが生む心理効果を狙って設計するという姿勢です。ヒッチコックはリスクと手間を承知で天井を付け、観客を部屋ごと飲み込みました。同じようにオーナーは、ハイスタッドの開放感とロースタッドの集中感をシーンごとに切り替えることで、坪単価以上の“体験価値単価”を創り出せます。 2-4.心理学が裏づける「高さと思考」の相関――“カテドラル効果”を正しく使うために ①. そもそも“カテドラル効果”とは2007年、マーケティング研究者 Meyers-Levy & Zhu が発表した一連の実験が出発点です。被験者を10ft(約3m)と8ft(約2.4m)の実験室に振り分け、・創造連想課題(Remote Associates Test)・抽象 vs. 具体ワードの分類課題を行わせたところ、高天井では「自由」を想起し、抽象的・統合的思考が優位「発散(創造・概念化)」、低天井では「拘束」を想起し、具体的・緻密な処理が優位「収束(分析・検証)」という有意差が確認されました。著者はこれを、ゴシック聖堂の高いヴォールト*が敬虔さと創造性を喚起するイメージになぞらえ、Cathedral Effect と命名しています。高さは数字だけでなく、人の頭の中にこそ存在する――それが、カテドラル効果が教えてくれる最大のヒントなのです。*ゴシック聖堂の高いヴォールト:ゴシック建築によく見られるアーチ型で高い天井のこと②. 脳科学が示す裏づけ2015年、トロント大のVartanianらはVRで天井高を2.4m/3.0m/4.5mに操作した空間を提示し、脳の活動状態を調べるためにfMRI(機能的MRI)*という装置を使って実験を行いました。すると、天井が高い空間にいるときの方が、「空間の広がりをイメージする力」に関わる脳の領域(たとえば楔前部や後帯状皮質)がより強く反応することが分かりました。同時に主観評価でも「美しさ」「近づきたい」が上昇。脳レベルでも「開放→アプローチ」「閉塞→回避/集中」という対応関係が確認されました。fMRI(functional Magnetic Resonance Imaging):脳のどの部分がどのくらい活動しているかを画像で可視化できる装置。③. 最新ワークプレイス研究のアップデート2024年に発表された実験的ワークプレイス検証では、CGでオフィス空間を作り替えながら被験者にVR体験をさせ、天井高とパーティション高さ・輪郭形状などを多変量で比較。天井高は「広がり」と「覚醒度(arousal)」を同時に引き上げる一方、低天井は「安心感」と「タスク集中」を高めるという傾向が再確認されています。しかも「実寸より知覚高さ」が決定的で、照明の入れ方や垂直ラインの強調でも効果が変動する、と報告しています。④.数値で見る“高さ×思考”マーケティング研究者 Meyers-Levy & Zhu が手掛けた、実際の心理学実験(Meyers-Levy & Zhu, 2007)では、以下のような結果が報告されています。数値で見る高さ×思考の心理実験(代表例) 実験条件主なタスクパフォーマンス差付随感情3.0m:高天井アイデア発想・図式化+15〜25%創造スコア上昇(Meyers-Levy)自由・解放・わくわく2.4m:標準読み取り・入力-ニュートラル2.4m:壁近接校正・数値チェック+10〜18%エラー減(同上)集中・没頭・やや緊張 ※効果量は代表的実験の中央値を概算。個人差・文化差で振れ幅あり。これは、人間の認知システムが空間の「高さ」や「広さ」を無意識に感知し、それをもとに心理的な行動戦略を切り替えるためとされています。・天井が高いと脳は「広く遠くを見る」モードになり、創造的な問題解決に適した思考が促進されます。・天井が低く近いと脳は「目の前の細部に集中する」モードになり、ミスを減らし緻密な作業に向いた注意力が高まります。 第3章:オフィスビルの天井高は“技術・法規・市場”の三すくみで進化した ――「梁下2.3m問題」からZEB3m時代までの100年を俯瞰する―― 3-1.近代オフィスの出発点――“八尺(2.4m)”がビジネス空間の標準になるまで ■1890-1920年代:欧米3m→日本2.4mへの翻訳作業・輸入モデル・明治後半、丸の内に並んだ赤煉瓦の三菱一号館(1894)や横浜正金銀行本店(1904)は、階高3.5m級・天井高3m超という「ロンドン/シカゴ流オフィス」をそのまま再現していた。ところが国産材と職人技だけで3mを支えるのはコストが跳ね上がる。・材料モジュールの壁・20世紀に入ると石膏ボードや合板が3×8尺(910mm×2430mm)で工業化される。ボードを縦に1枚貼ると天井は約2.4mで端材ゼロ。経済合理性が“高さの物差し”になった。・法令の後押し・大正9(1920)年制定の市街地建築物法は居室の最低天井高を7尺(≒2.1m)と定めるにとどまったが、実務者は「余裕を見て8尺(2.4m)を確保しよう」と解釈。やがて「八尺=文化的で健康な生活」という標語が広がり、住宅もオフィスも2.4mが近代の普通として定着した。 3-2.関東大震災が突きつけた現実――梁を太らせ、階高を削るジレンマ ■1923年9月1日:巨大地震と“耐震の夜明け”関東大震災はレンガ造や木骨石造のオフィスを軒並み倒壊させた一方、早稲田大・内藤多仲らが手がけた耐震RC造の日本興業銀行本店は無傷で残った。「高さより骨太構造」が一夜にして常識となり、以後の設計は梁・柱を大幅に増量する方向へ傾く。■“梁を太く、階高を抑える”という処方箋・耐震性を確保するには部材を太らせるか、階数を減らすしかない。東京・大阪の地価はすでに高騰しており、オーナーは階数を削るより階高を削る道を選びました。・1920年代後半に出回った事務所ビルの実測図を見ると、梁せい600–700mm/階高3.0m前後が散見され、天井裏のクリアランスは 300mm程度しか残っていませんでした。■1931年改正:高さ“100尺(31m)”制限と2.4mの裏づけ市街地建築物法は1931年の改正で「用途地域ごとに絶対高さ100尺(31m)」を導入し、同時に居室天井高2.4m(推奨)を技術基準に盛り込んだ。こうして「梁は太いがフロア枚数は減らせない→実天井を削る」という構図が制度的にも固定化され、昭和初期に建てられた多くのオフィスで梁下2.3m台が当たり前になります。 3-3.戦後復興→高度成長期――“設備が天井を押し下げた”1950-70年代 ■ 1950 年:建築基準法が定めた 「最低 2.1m」 と団地の8尺固定敗戦で焼け野原となった大都市は、とにかく屋根の数をそろえる必要に迫られます。新しく施行された建築基準法は居室の最低天井高を2.1mと明文化し(施行令21条)、自治体は公営・公団住宅を八尺=2.4mモジュールで量産しました。・石膏ボード3×8尺の規格がそのまま現場寸法になるため、端材ゼロ・工期短縮。・住宅市場で2.4mが「文化的生活の水準」というイメージを確立し、オフィスも追随。■1960年代:空調・蛍光灯・OAダクトが“二重天井”を常識に1 パッケージ型空調機の国産化(1961年頃)でオフィス全館冷房がブームに。2 蛍光灯インバータ安定器の普及で、照明器具を天井面にびっしり埋め込む設計が急増。3 電話・タイピスト用配線を天井裏に回すとメンテが楽になる――という設備屋の提案が拍車。結果、戦前は300mm程度だった天井裏クリアランスが500–600mmに膨張。ところが耐震上、階高は簡単に増やせない。ディベロッパーは実天井を2.4m→2.3m前後まで下げ、階数を確保する“ダイエット設計”を選びました。技術メモ・1963年までは絶対高さ31m規制(100尺規制)も残り、階高を伸ばせない法的制約が存在。・1965年時点の新築中規模ビル図面を見ると、梁せい650mm/階高3.0m/天井裏550mm/実天井2.35mが典型値。■1970年代:情報化と省エネで“天井裏700mm”の袋小路・OA化第1波(大型コンピュータと集中配線)が始まり、電話・電源ケーブルをさらに追加。・省エネ法(1979)の制定準備でダクト径を太くし、VAV方式や外気導入量を確保。天井裏はもはや設備のハイウェイ。しかし梁は動かせず、階高は3.0m前後に固定。その結果、「低いのにパンパン」という矛盾が顕在化しました。当時のオフィスビルのオーナーは、1 梁下にさらにチャンネルレールを追加して配線を吊る2 デスク島ごとに天井から電源ポールを垂らすなど苦肉の策を講じますが、圧迫感とメンテ難は解消せず、これがのちの大規模リニューアル需要を生む負の遺産となっていきます。■数字で俯瞰する1950-70年代オフィス(代表値) 竣工年代階高天井裏厚実天井高主な設備トレンド1950s3.0m≈350mm2.45m天井直付け蛍光灯・局所ファンコイル1960s3.0m500–600mm2.35m全館空調+二重天井標準化1970s3.2m-2.4m(梁下2.3m台も)OA配線増、VAVダクト太化 1950〜70年代のオフィス設計は、「設備を詰め込みたい→梁は太い→天井が下がる」という三段論法の結果、低天井で過密な空間ストックを多く残しました。その後の大規模リニューアルや建替えによって、OAフロアが普及し、天井裏に配線が集中するオフィスは、今ではほとんど見かけなくなっています。 3-4.超高層ブーム(1968-1980年代)――「階高3.4m/天井高2.7m」を取り戻すまで 1968年、霞が関ビル(地上36階)が竣工すると、日本のビル開発は一気に縦へと向かいます。以後12年間で高さ100m以上のオフィス棟が30棟超東京に出現しました。 技術イシュー処方箋天井高への影響耐震:建築限界100尺規制(31m)を解除(1963)したが、超高層は地震が最大リスク鋼管入りCFT柱・アウトリガー梁で剛性確保梁せいを抑えられ階高3.4–3.6m/実天井2.6–2.7mが復活大容量空調:延べ10万m²級フロアを均一温度で冷やすフロアコイル+二重ダクト、ダクト厚≈600mm天井裏は肥大したが、階高を増やせたため天井高を確保高速エレベータ:100m超ではコアが太るシャトル+ゾーニング(低・中・高層区分)執務フロアに梁抜け空間が生まれ、局所的に3mも ケーススタディ:新宿三井ビル(1974)・階高3.6m/梁下実天井2.7m・免震は無いが、X字鉄骨ブレースをファサードに露出→コア側の梁せい550mm で済み、天井裏650mm を確保。 3-5.バブル以降のブランド競争――2.8m→3m時代とZEBへの跳躍 ①1980-90年代:外資系テナントの2.7m宣言円高で日本に進出した外資金融は「梁下2.7m未満なら入居不可」と条件を提示。森ビル・三井不動産は実天井2.8mのA-クラス仕様を打ち出し、以後「2.8m=ハイグレード」が共通言語になります。②2000-10年代:働き方改革と2.9m+コラボ空間・ABW(Activity Based Working)・フリーアドレス普及で「視線が遠くまで抜ける空間」が評価指標に。・2014年の虎ノ門ヒルズ森タワーは階高4.0m/実天井2.9m、OAフロア100mm上がり。森ビルの標準仕様でも実天井2.8mが最低ラインに。・ケン・コーポレーションの仲介統計では、築 10 年以内ビルの 7 割が2.8m以上、3m超は15%。③2020-25年:ZEB/ESGが「階高そのまま、天井高アップ」を後押し 技術階高・天井高インパクトオーナー目線のポイント床吹出し空調ダクト厚を150mm→0mmに圧縮。階高そのままで+150mmの実天井天井裏が減り、スケルトン化との相性◎。冷気が足元から立ち上がるため省エネ。LED直付け+センサー制御器具厚100mm→20mm。照度をゾーン単位で可変“見せ梁”の陰影を強調しつつ電力-30%配線ラック+モジュラー家具天井板を外し、ケーブルをトレイ走行レイアウト変更コスト-40%免震・制振ブレースの化梁せい縮小で階高3.8m→3.6mでも実天井維持超高層でもハイスタッドを確保しやすい 最新A-Pランク(丸の内・虎ノ門・渋谷再開発)は階高4.0m/実天井3.0-3.1mが目安。三菱地所の常盤橋タワー(2027予定)は 3.1m+床吹出し+免震 を公表し、ESG レーティングで賃料プレミアムを狙っています。 第4章:日本の建築家たちによる天井高の試行錯誤 ――高さをめぐる構造技術・意匠・設備のせめぎ合い――日本の近代建築は、海外のモダニズムを咀嚼しつつ、地震多発・資源制約・住宅事情といった固有条件を織り込むことで独自の方向へ発展してきました。そのなかで天井の高さをどう確保するかは、多くの巨匠が手を焼き、また新たなアイデアを生み出す源にもなったテーマです。本章では、丹下健三・黒川紀章・槇文彦らの代表的事例を概観し、日本のオフィス建築が「高い天井」へ至るまでの模索を追います。あわせて高度情報化社会が天井裏に与えたインパクトやフロアプレート拡大がどのように天井高の設計を変えたかも整理し、オーナーがリノベや新築を考えるうえでのヒントを探っていきます。 4-1.丹下健三:構造美と大空間の両立をめざす――“合理とダイナミズム”のジレンマ ■ 戦後公共建築を通じた「大屋根」の探求丹下健三(1913–2005)は戦後日本を代表するモダニスト建築家であり、東京カテドラル聖マリア大聖堂(1964)や国立代々木競技場(1964)の大胆な屋根構成で知られます。彼は構造力学を深く理解しつつ、国際水準のモダニズムを日本の文化・都市環境に接合することをテーマとしました。・国立代々木競技場では吊り屋根構造を採用し、内部に支柱のない大空間を実現。観客席の天井高は場所によって大きく変化し、中央部で20m超にもなる圧倒的スケールを確保。一方で周囲の街並みに合わせて外観スケールを調整するなど、高さと環境調和の両立を狙っています。■ オフィス建築への応用と限界丹下の代表作には大手町の東京計画(都庁移転以前の構想)や東京都庁舎(1991)など大規模公共建築が多いですが、オフィスビルにも同じ「構造の合理と空間のダイナミズム」を持ち込みました。・霞が関ビル(当時の新日本ビル計画に関与)では3m近い天井高を取りつつ梁成を抑える設計案を提案。結果的には超高層化とコストの兼ね合いで妥協点が多かったものの、免震・制振の可能性や階高4mの試案など、先駆的なアイデアを示唆していたといわれます。 4-2.黒川紀章:メタボリズムと“変化する空間”――天井裏をどう扱うか ■ メタボリズム運動での試行錯誤黒川紀章(1934–2007)は、1960年代に勃興したメタボリズム運動の旗手の一人。「建築や都市は生命体のように成長・変化すべき」という思想のもと、カプセル化・ユニット化された空間を提案しました。・代表作の中銀カプセルタワービル(1972)では、直方体カプセルを軸に接合し、内部天井高2.1mと極端に抑えることでコンパクト化を図っています。これは住宅用ではあるものの、低天井がもたらす囲まれ感を逆手に取り、空調・電気配線をワンセットで組み込んだ“動的プラグイン空間”を実現しようとした試みでした。■ オフィス設計でのユニット化と天井高黒川は超高層オフィスでも「ユニットごとに将来の変更を容易にする」考えを貫きましたが、実際には天井裏を自由に使える二重天井がユニット化を阻み、現場レベルでは梁下寸法を確保できずに苦労したといわれます。・リバーシティ21(1980s)のオフィス棟計画では、フロアを可変ユニットにする構想があったが、空調・配線の集中管理が壁/天井裏を肥大化させ、結果的に実天井2.4m前後で落ち着いた。メタボリズム理論と日本の設備常識が衝突した例として語られています。 4-3.槇文彦:グリッドと透明性――「2.7m~3m」のオフィス設計美学 ■ ガラスカーテンウォールと整然とした寸法槇文彦(1928–)は国際的に著名な日本人建築家で、シンプル・ミニマルなデザインと厳格なグリッド計画を特徴とします。たとえば幕張メッセ(1989)や東京国際フォーラム(1996)は巨大空間をガラスと鉄骨の美しいリズムで支え、場内の視線の抜けを確保しました。・オフィスビルでは、定型的なモジュール化により2.7m~3.0mの天井高を確保しながら、梁や梁型を極力見せない設計を得意としています。■ 天井裏へのこだわり――梁/ダクトの“すみ分け”槇氏は構造体=主役、設備類=徹底して隠すという方針を掲げ、梁や柱は整然としたグリッドを見せつつ、ダクトや配線は天井裏や壁内で処理するケースが多いです。・ただし、近年は空調ダクトが大口径化、OA配線も膨大化しており、天井裏だけですべてを収める設計が難しくなっているのも事実。槇事務所の近年のプロジェクトでは「梁は美しく見せ、設備は床下や柱周りに逃がす」設計手法が徐々に進んでいます。 4-4.高度情報化がもたらした“天井裏トラフィック渋滞” ■ 1970–90年代:電話・FAX・LANが天井裏を埋め尽くします高度成長期に普及した全館空調と蛍光灯埋込照明ですでに逼迫していた天井裏に、1970年代後半からは通信ケーブルが怒涛の勢いで増えました。・当初は電話回線と専用線が数本。1980年代後半になるとトークンリング/イーサネットケーブルが各デスクまで延び、天井裏ケーブルの束径が200mm超になるオフィスも。・1990年代に入るとISDN・CATV・専用線など多重化でさらに複雑化。配線類を引き込み直すたびに天井パネルを外す必要があり、結局「天井高が下がり、メンテもしにくい」という負のスパイラルが発生しました。■ 床下配線・OAフロアの普及こうした背景からOAフロア(二重床)が1990 年代に本格普及します。もともとコンピュータ室など特定用途向けだった二重床を執務エリア全体に広げたことで、1 天井裏のトラフィックを減らす→実天井に余裕2 配線更新が床面のハッチから可能→工事コストを削減“床に配線を逃がす” 動きが、次なる「天井高確保」への道を切り開いたわけです。 4-5.フロアプレートの大型化――「梁を消す」「柱を外周に追いやる」発想 ■ 超高層ビルの大空間で天井高が上がった理由1960–80年代に進んだ超高層化は、単にフロア数を積むだけではなく「大スパン・大開口」を追求する流れでもありました。・柱を外周に集約すれば、フロア中央がワンルーム化し、梁や柱の出っ張りが減る。天井をフラットにしやすく、実天井2.7mを確保しながら 500–700mm 程度の天井裏を確保できます。・ただし地震国・日本では、大スパン化に伴う梁/トラスの断面拡大が不可避。外周部に制振ブレースを集中配置したり、コアを強固にして梁せいを抑えるノウハウが進化した結果、大床+高天井が同時に可能になりました。■“柱を隠す”構造デザインとスラブ跳ね出し近年の超高層オフィスでは、アウトリガーや張り出しスラブによって柱をファサードラインに溶かし込み、梁型を極力出さずに天井高をフラットに仕上げる手法が多用されています。例えば森ビルや三井不動産の大型プロジェクトでは、免震層や制震ブレースを低層部とコアに集中させ、執務フロアにほぼ柱型を出さない設計。階高4.0m→実天井2.9mをオフィス標準にしながら700mm以上の天井裏を確保するという離れ業を実現しています。 第5章:アメリカ超高層文化がもたらした“天井高フリーダム” ―スチールと低地震リスクが生んだ3m超の常識、そして日本へのフィードバック― 5-1.地震の少なさ×スチール構造=「いくらでも高く取れます」 シカゴ派(1880-1910年)が発明したスチールフレームは、柱梁を細く保ったまま階高を自由に伸ばせる画期的な仕組みでした。加えて米中西部・東海岸は地震リスクが小さく、構造体を太らせる必要がないため、階高4.0m/天井高3m超が20世紀初頭から標準になります。・代表例クライスラービル(1930):階高4.3m、当時の賃貸パンフに「天井10ft(約3.05m)」と明記。・Wilshire Grand Center(LA,2017)でも階高4m台。震度7.4相当を想定しつつショックアブソーバ式制振で梁成を抑え、3m超を維持。 5-2.フィードバックの歴史――日本の高天井化は「アメリカに学ぶ→耐震で翻訳」の繰り返し 年代米国側トレンド日本側の“翻訳”天井高への影響1960sスチール超高層の3m天井が成熟霞が関ビル(1968)で初導入2.6–2.7mを回復1980sAクラスビルが「10ft=3.05m」を広告森ビル・住友三角ビルで2.8mを競う2.8m=ハイグレード”定着2010sニューヨーク再開発で3m+が標準丸の内・虎ノ門再開発で2.9m→3.0mへZEB・ESG文脈で高さプレミアム顕在化 ・One Vanderbilt(NY,2020)はオフィス階 スラブ高15’2″(4.6m)、床‐天井クリア3.0m超を売りにし、テナントが「3m未満は検討対象外」と語ったことが話題になりました。・この北米3m基準が東京A-Pランクビルの設計要件に逆輸入され、常盤橋タワー(2027予定)では階高4m/実天井 3.1mを公表。 5-3.ストモダンと多様化――倉庫リノベ・インダストリアル天井の台頭 ■ シリコンバレー発「倉庫→オフィス」ムーブ1990年代後半、サンノゼやマウンテンビューでは、家電物流倉庫(軒高5–6m)を配管むき出し+ガラス間仕切りのクリエイティブオフィスに転用する動きが加速。・メリット:梁下5mのスケール感、工事コスト40%減(外壁・屋根は既存利用)。・課題:空調負荷1.5倍、遮音・採光の確保。欧米メディアは「スタートアップらしさ=天井が高くて配管が見える」イメージを定着させ、グーグルやメタが巨大倉庫をキャンパス化。インダストリアル天井がブランド化しました。■ 日本への波及と実務的限界「天井を張らずに、構造体と設備配管をあえて露出する」―いわゆるインダストリアル天井(スケルトン天井)は、海外のロフトスタイルやSOHOデザインの影響を受け、日本でも一部で導入が進んできました。東京都内では、五反田・浅草橋などのR&D系リノベーション案件で、梁下4m超の元倉庫物件をオフィスに転用する事例が散見されます。構造体の迫力をそのまま見せ、天井仕上げを省略することで、“余白”や“創造性”を感じさせる空間演出として評価されています。しかし一方で、日本のインダストリアル天井導入には実務上の限界も少なくありません。・元倉庫は、オフィス用途とは防火区画・避難規定が異なるため、→防火シャッターの追加/排煙窓の新設/内装制限(不燃)への対応が必要・このため、坪8〜12万円の追加コストが発生する例も報告されています・空調も、床置きファンコイル+シーリングファン等による補完が必要で、→一次エネルギー消費は標準仕様比+25%と言われるなど、ESG観点での評価には慎重さが求められますそれでもなお、「倉庫的空間をオフィスに活かす」ことの可能性は注目されています。とくに近年は、「BCP対応型ハイブリッドオフィス」として、自社倉庫を“非常時の最小限オフィス”として活用する設計提案も増えてきました。災害時には、倉庫に通信・電源・可搬デスク・パーティションなどを備えておくことで、指令室やサテライト機能を代替するミニマムオフィスとしての活用が可能になります。これまで見てきたように、オフィスの天井が今のような寸法に落ち着いたのは、偶然ではありません。高度成長期の都市開発、建築基準法の制約、設備技術の進化――すべてが絡み合い、梁下2.3〜2.4メートルという現実を形づくってきたのです。つまり、天井が低いことは、単なる設計ミスでも古さの象徴でもなく、歴史と機能の積み重ねによって生まれた、ひとつの合理の結果だと言えるでしょう。けれど、その合理性が今の時代にとっても最適かといえば、話は別です。いくら背景を理解しても、テナントが狭い・暗い・重いと感じれば、それは選ばれない空間になります。では、この制約の中で、私たちは何ができるのでしょうか。高さそのものを変えることが難しいなら、印象を変える。用途や心理に応じて、高さの使い分けを再設計する――それが、築古ビルをもう一度選ばれる場所に変えるための視点です。 以下、後編 この後、お届けるする後編では、実際にどこをいじり、どう見せ、どう活かすかという「天井再設計の実践編」に入ります。制約の中にこそ、設計者とオーナーの戦略眼が問われる。そんな視点で、読み進めていただけたらと思います。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月2日執筆2025年12月02日 -
ビルメンテナンス
築古オフィスビルのセキュリティ管理は後付けでも進化できる
皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルのセキュリティ管理は後付けでも進化できる」のタイトルで、2025年12月1日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに:第1章:オフィスセキュリティの概念を再確認する第2章:築古オフィスビルでなぜ今「物理的セキュリティ」が重要なのか第3章:最低限ここまで。法令・ガイドラインで求められるセキュリティ対策の実務ポイント第4章:物理的セキュリティ管理の対象と限界──築古オフィスビルにおける“現実的リスク”の見える化第5章:築古物件でも“これからできる”予防的セキュリティ対応──現場に即した着手ポイントとその発想転換第6章:ケーススタディで見る築古オフィスビルのセキュリティ対策導入事例第7章:後付けセキュリティ設備の導入実務マニュアル第8章:物理的セキュリティとITセキュリティの融合─ハイブリッドな管理の進め方第9章:将来的な築古オフィスビルにおけるセキュリティのトレンドと展望おわりに: はじめに: 企業にとって「セキュリティ管理」とは、自社の資産や人材を守り、安定的な事業運営を維持するための重要な取り組みです。しかし、セキュリティと一口に言っても、IT・情報セキュリティから物理的セキュリティまで幅広く、それぞれ企業活動に与える影響は異なります。ITやネットワーク関連のセキュリティは多くの企業が独自に管理・運用していますが、物理的なセキュリティ(入退館管理や防犯カメラ設置、設備管理等)に関しては、自社だけで対応できないケースが少なくありません。特に中小規模の企業や賃貸オフィスのテナント企業では、借りているビルの設備や管理体制に依存せざるを得ない状況がほとんどです。近年、企業におけるセキュリティ管理の必要性は急速に高まっています。情報漏えいや不正アクセス事件の増加とともに、社会的にも法的にも企業に求められるセキュリティ基準が厳格化されているからです。特に上場企業は、金融商品取引法(J-SOX)に基づく内部統制の整備や、ISO認証(ISO27001等)の取得を進める中で、厳格なセキュリティ監査への対応が避けられません。これにより、企業は主体的にだけでなく「法令遵守」「外部評価」という面でも、物理的セキュリティの強化が不可避な状況になっています。一方で、築古オフィスビルの実情に目を向けると、設備の老朽化、管理体制の不備などが原因で、セキュリティ管理が不十分なケースが多く存在します。しかし、築年数が古いという理由だけでセキュリティ対策を軽視することは、もはや許されない時代となっています。事実、テナントがオフィスを選ぶ際に物理的セキュリティの充実度を重視する傾向が高まり、セキュリティが不十分な物件は選定対象から外されるケースが増えているのです。本コラムでは、こうした背景を踏まえつつ、築古オフィスビルにおける物理的なセキュリティ管理の現状と課題を明らかにし、オーナー・テナント・管理会社が具体的に後付けでセキュリティを強化できる実務ポイントを解説します。 第1章:オフィスセキュリティの概念を再確認する 現代の企業活動において、オフィスが保有する情報資産を適切に管理・保護することは、経営の根幹を守る上で最優先課題の一つです。特に近年、日本国内では情報漏えい事故が多発しており、その原因も外部攻撃・内部不正・物理的リスクと多様化しています。本章ではまず、守るべき「情報資産とは何か」という基本概念を再確認し、その保護が企業にとってどのような課題につながるのか、実務の視点から整理します。次に、日本国内で企業が遵守すべき主な法令・規格・ガイドラインの要求事項を概観し、実務対応のポイントを明確にします。そして、情報資産を適切に保護することが、企業経営における重要課題に直結していることを明らかにします。さらに、情報漏えいリスクを①外部攻撃、②内部漏えい、③物理的リスクの3つの視点で整理し、近年の動向も踏まえながら、築古オフィスビル特有の課題を交えて実務的な対策の必要性を示します。1-1:企業が守るべき情報資産とは何か企業活動において守るべき「情報資産」とは、「企業にとって価値ある情報とその管理システム」のことを指します。具体的には以下の6つに分類できます。・個人情報(顧客・従業員)・取引情報(契約書・取引履歴)・財務情報(財務諸表・資金計画)・知的財産(特許・技術情報)・業務ノウハウ(マニュアル・手順書)・コミュニケーション記録(メール・議事録)これら情報資産は競争優位を支える重要な経営資源であり、漏えい・消失・改ざんされれば競争力の低下、財務損失、ブランド価値の毀損、法令違反による法的責任を伴うリスクが生じます。情報資産と混同されがちな「IT資産(PC・サーバ・ネットワークなど)」は、情報資産を保管・処理するためのインフラであり、区別して管理する必要があります。1-2:情報資産を保護すべき4つの企業経営課題情報資産を適切に保護することは、企業経営において次の4つの重要課題に直結しています。・競争力の維持・ビジネス価値の保護 情報資産は企業競争力の根源です。技術ノウハウや営業秘密が流出すれば競争優位が失われ、市場での地位が脅かされます。・財務リスクの軽減 情報漏えいは損害賠償や行政処分など直接的な経済損失を伴います。また、復旧対応や信用回復のための追加コストなど間接的な財務負担も重大です。・信頼性・ブランドイメージの保護 情報漏えいは顧客や取引先からの信用を失墜させ、長期的なブランド毀損を引き起こします。社会的信頼を維持するためには情報資産の堅牢な防御が不可欠です。・法令遵守(コンプライアンス) 情報管理には個人情報保護法やJ-SOX法など法的義務があり、違反時の行政処分や法的責任問題が発生します。コンプライアンスの観点からもセキュリティ対策は不可欠です。1-3:情報資産保護に関する法令・規格と企業の対応ポイント(日本国内)日本国内では、情報資産の管理・保護に関わる主要な法令や規格が複数存在します。企業が特に重要視すべきものとして、以下の法令・規格とその主な内容、対応ポイントを整理します。・個人情報保護法個人情報の漏えい防止措置の義務付け、利用目的の明示や制限、第三者提供の規制などが規定されています。2022年の法改正により、漏えい報告義務が強化され、違反時の罰則も厳格化されました。企業は個人情報を適切に管理し、従業員への教育、内部規程の整備、定期的な監査を実施することが求められます。・不正競争防止法営業秘密に関して、秘密管理性、有用性、非公知性という要件を満たす情報の不正取得や漏えい防止措置が定められています。また、2019年に施行された『限定提供データ』制度(その後改正・運用の見直しが続いている)も企業として対応が求められるポイントです。企業はこれらの情報を明確に区別し、適切なアクセス制限や管理措置を講じる必要があります。・サイバーセキュリティ基本法およびサイバーセキュリティ経営ガイドライン経済産業省が策定した「サイバーセキュリティ経営ガイドライン」は、経営層主導によるサイバーセキュリティ体制の構築や、リスク管理の強化を求めています。経営陣が主導して企業全体でセキュリティ管理体制を整備し、PDCAサイクルによる継続的な改善が必要です。・金融商品取引法(J-SOX)に基づく内部統制特に上場企業においては、財務報告に係る情報の正確性・完全性を担保するためのIT統制が義務付けられています。アクセス管理、ログ監視、財務データ保護の内部統制を整備し、定期的に評価しなければなりません。・ISO/IEC 27001(ISMS)情報資産の分類および管理ルールの策定、機密性・完全性・可用性を守るための継続的なPDCAサイクルによる改善を要求する国際規格です。認証取得を目指す企業は、情報セキュリティ管理の方針・手順を明文化し、継続的な改善活動を運用することが重要となります。これらの法令・規格への対応は単に法令遵守に留まらず、企業の情報資産管理体制を高度化し、競争力と信用を高める基盤を構築することにつながります。1-4:情報漏えいリスクの分類と近年のトレンド企業が対策すべき情報漏えいリスクは主に以下の3つに分類されます。(1)外部からの攻撃(サイバー攻撃)ランサムウェア攻撃(特に二重恐喝型が急増)標的型メール攻撃、ビジネスメール詐欺(BEC)による不正送金と情報流出サプライチェーン経由の攻撃(2024年には日本企業にとって脅威の第2位) ※出典:IPA『情報セキュリティ10大脅威 2024』クラウドサービスの設定不備を突いた攻撃の増加(2)内部漏えい(内部不正・事故)内部不正:内部不正:現職者・退職者および委託先社員による情報持ち出し(2023年には前年の約5倍に急増) ※出典:東京商工リサーチ『2023年 上場企業の個人情報漏えい・紛失事故』内部事故:メール誤送信、クラウド設定ミス、USBメモリ等の紛失(例:尼崎市で発生した46万人の個人情報漏えい事件など)内部漏えいの対策として、アクセス権限の管理強化、ログ監視の徹底、秘密保持契約(NDA)の締結、人的セキュリティ教育の実施が重要です。(3)物理的リスク(侵入・盗難・災害)不正侵入(尾行侵入など)、デバイスや紙資料の盗難リスク入退室管理(IDカードやゾーニング)の徹底、机上管理(クリアデスク)地震や火災などの災害対策(特に耐震性の低い築古オフィスビルは注意、別拠点バックアップ必須)特に築古オフィスビルでは、設備の老朽化や入退室管理が不十分であることが多く、不正侵入リスクが高まる傾向にあります。物理的セキュリティ対策の強化が急務です。外部・内部・物理それぞれの観点から情報漏えいリスクを整理すると、技術的なセキュリティ対策のみでは不十分であり、人間の行動や物理的な環境に潜む脅威にも包括的に対処する必要があります。企業は自社のリスクプロファイルを詳細に分析し、重大な脅威から優先的に対策を講じるとともに、定期的なリスク評価を行い継続的に改善を進めることが求められます。 第2章:築古オフィスビルでなぜ今「物理的セキュリティ」が重要なのか オフィスビルのセキュリティ対策には、サイバー攻撃や内部不正といったデジタルな視点に目が行きがちですが、実際には「物理的なセキュリティ」の甘さによって情報漏えいが発生するケースが後を絶ちません。特に築30年を超えるような築古オフィスビルでは、設備の古さや管理体制の弱さから、物理的なリスクが大きくなりやすいのが現状です。本章では、改めて築古オフィスビルにおける物理的セキュリティリスクの実態を整理し、オーナーや管理会社が見落としがちなリスクとその背景を明確にすることで、本コラムで示す対策を理解する土台を作ります。2-1. 物理的セキュリティを「警備会社任せ」にしていませんか?「オフィスの物理的セキュリティ」と聞いて、「それって結局警備会社の仕事だよね。うちは警備会社に任せてるから」と考える管理者やオーナーの方は少なくないでしょう。確かに、警備業務は専門性の高い業務であり、日々の運用を警備会社に委託することは合理的な判断です。しかし、物理的セキュリティをすべて「丸投げ」するという姿勢は、非常に危険です。警備会社が対応できるのはあくまで標準的・一般的な警備業務であり、自社ビル固有のリスクや、テナント企業それぞれの事業特性に完全に対応することは困難です。万が一、情報漏えいや盗難などが発生した場合、その責任を警備会社に完全に委ねることはできません。最終的に責任を負うのは管理会社であり、テナント企業自身です。だからこそ、「セキュリティ=他人事(警備会社任せ)」ではなく、「自分事(自社で主体的に管理する)」として捉える姿勢が不可欠なのです。2-2.築古オフィスビルで頻発する「物理的セキュリティリスク」とは築古オフィスビルに特有の物理的リスクとは、主に以下のようなものです。・入退室管理設備の老朽化・未設置◦ セキュリティゲート未導入、ICカード認証設備がなく、鍵管理も属人的・アナログに運用されている。・防犯カメラの不足・不備◦ 設置台数不足、死角が多い、機器が老朽化し鮮明な画像が残せないなど。・書類や情報資産のずさんな保管・管理◦ 書庫・キャビネットの施錠が徹底されず、情報漏えい・盗難リスクが高い。・第三者による不正侵入や尾行侵入◦ セキュリティが甘い物件ほど、特定企業を狙った侵入や情報の盗難被害が発生している。築古オフィスビルでは、構造的・設備的制約に加え、管理体制自体が旧態依然で、運用面でも甘さが出やすくなっています。このような実態がリスクを拡大させていることを、まず認識すべきです。2-3.「物理的リスク」が経営リスクにつながる背景とは築古オフィスビルにおいて物理的セキュリティが不十分だと、どのような経営上のリスクにつながるかを具体的に整理すると、以下のようになります。・情報漏えいによる賠償・法的責任◦ テナント企業からの信頼失墜、契約解除、訴訟リスク。・テナント離脱による空室率の増加◦ 「安全性が低い物件」と判断され、新規テナントの誘致も困難になる。・ビル価値の低下◦ セキュリティ水準が時代の要求に満たず、物件価値が下がり、資産価値自体が毀損するリスク。・突発的事故によるメディア露出◦ 一度セキュリティ事故が起きれば、SNSやメディアを通じて悪評が広がり、企業の評判にも深刻な影響を及ぼす。オフィスビルの物理的なリスク対策は、単なる設備投資ではなく、「経営リスクマネジメントの一環」として捉えるべきだという認識の転換が重要です。2-4.ビル管理会社・オーナーが今、直視すべき課題とは築古オフィスビルを管理するオーナーや管理会社が直面する課題は、以下の3点に集約されます。・設備投資の遅れとその認識不足◦ 「何も起きていないから」という油断やコスト意識の高さが裏目に出るケースが多い。・運用ルールの属人化・形骸化◦ 従来の運用方法を疑わず、鍵の管理や入退室記録が形式的・属人的になり、リスクへの対応が遅れている。・テナントとの認識ギャップ◦ テナント側の意識は近年非常に高くなっていますが、オーナー側がその重要性を軽視したままでは契約継続が難しくなるリスクが高まります。こうした課題を直視し、設備投資だけではなく管理運用の見直しを同時並行で進めなければ、実効性のあるセキュリティ強化は難しいでしょう。 第3章:最低限ここまで。法令・ガイドラインで求められるセキュリティ対策の実務ポイント 築古オフィスビルにおいて物理的セキュリティを見直すにあたって、まず確認すべきは「法的に何が求められているのか」です。やみくもに設備を新設する前に、法令でどこまでが義務なのか業界の標準的な基準とどこがズレているのかを把握しておくことが、最初の一歩となります。3-1.実は「法令で定められていない」物理的セキュリティの多くまず前提として、物理的セキュリティに関する明確な法律は非常に少ないです。建築基準法や消防法はあくまで「建物の安全性・避難性」にフォーカスしており、不審者の侵入防止や機密情報の保護といった領域は、直接的な法令による義務化はほとんどありません。そのため、多くの築古オフィスビルでは「義務ではないから」として対応を先送りにするケースが目立ちますが、これは非常に危険な判断です。実際にテナントや第三者に被害が出れば、民事責任を問われるケースも十分にあり得ます。3-2.知っておくべき「参考ガイドライン」と民事責任のライン義務ではなくても、「業界標準」として参照される以下のようなガイドラインを無視することはできません。・経済産業省『サイバーセキュリティ経営ガイドライン』◦ 社員・来訪者の入退室管理、情報資産の物理的保護を明確に求めています。・NISC(内閣官房内閣サイバーセキュリティセンター)『政府機関等における情報セキュリティ対策のための統一基準』◦ 物理的管理措置の定義や管理ルールの具体例が記載されており、民間企業でも参照されています。・個人情報保護委員会『個人情報の保護に関するガイドライン』◦ 個人情報を取り扱う企業に対し、物理的な施錠管理やアクセス制限措置を「必要かつ適切に」講じるよう求めています。これらは直接的な法的拘束力こそないものの、実際の事故時に「適切な対策を取っていたか」の判断材料として用いられるケースが多く、無視すると「過失あり」と判断されるリスクが高まります。3-3.見落としがちな「建築基準法・消防法」とのグレーゾーン一方で、設備改修時などに気を付けるべき法令もあります。・オートロックやセキュリティゲートの設置による避難経路の封鎖◦ 消防法違反の可能性があります。改修前には必ず管轄の消防署に相談する必要があります。・防犯カメラの設置場所と「プライバシーの侵害」問題◦ 更衣室やトイレ周辺など、設置場所によっては民事訴訟リスクがあります。「セキュリティ強化」のつもりが別の法令違反を引き起こす可能性もあるため、建築・消防・個人情報保護の観点からの事前確認が不可欠です。3-4.築古オフィスビルにこそ必要な「最低限ルールの明文化」最後に強調したいのは、築古オフィスビルだからこそガイドライン相当の社内ルールや管理基準を明文化しておく必要があるという点です。特に以下の項目は最低限整備しておく必要があります。・入退室管理ルール(業者・来客を含む)・鍵・カードの管理基準(貸出・返却・紛失時対応を含む)・情報資産の保管・廃棄ルール(紙文書、USB、PCなど)・事故発生時の対応フローと責任分担の明文化築古物件では「昔からこうしている」という口伝ルールが残りがちですが、それではトラブル時に説明責任が果たせず、責任が曖昧になります。物件としての信頼性を保つためにも、ルールの可視化と徹底的な運用が求められます。 第4章:物理的セキュリティ管理の対象と限界──築古オフィスビルにおける“現実的リスク”の見える化 築古オフィスビルのセキュリティ課題は、単なる「不安」や「印象」で語られるべきものではありません。重要なのは、「何が実際にリスクとなり得るのか」を冷静に棚卸しし、それに対してどのような現実的対応が可能かを明らかにすることです。本章では、築古オフィスビル特有の制約の中で物理的セキュリティをどう捉え、どう備えるべきかを整理します。ITセキュリティの陰に隠れがちな物理的リスクにも正面から向き合う必要があります。4-1.セキュリティの基本対象:人・物・情報物理的セキュリティが対象とするのは以下の三つです。・人の不正侵入/接触・物品・機器の盗難/破壊・紙書類や端末を介した情報漏えいこれらはいずれも築古オフィスビルでは設備的に脆弱なままになりがちです。IT化が進んでも、「人が入れる空間である以上、物理的な脅威はゼロにならない」という現実は変わりません。4-2.現場で実践可能な対策:築古オフィスビルでも“やれること”はある限界がある中でも、築古物件においてでも今すぐ導入・徹底できる対応策を以下に整理します。(1) 入退室管理とゾーニング・ICカードやテンキー錠などの後付けスマートロック・来訪者管理の徹底(入館記録、退出時のバッジ回収)・サーバールームなどの物理ゾーニングとアクセス制限・人的ルールの徹底(無施錠防止、後追い入室防止)(2) 機器・書類の保管と持ち出し管理・鍵付きキャビネット/金庫の活用・ノートPCにワイヤーロック装着・持ち出し時の上長承認&記録・クリアデスク・クリアスクリーン運動・窓・扉の物理強化(補助錠、防犯フィルム)(3) 監視と警報体制・最小限でも入口カメラ+録画・安価なIoT人感センサーや開閉センサー・警備会社とのオンライン契約で夜間の異常検知(4) 災害リスクへの備え・サーバー・棚類の壁固定・耐火金庫、非常用電源・オフサイトへのバックアップデータ保管4-3.築古ゆえの限界と「仕組み」で補う視点築古オフィスビルでは以下のような制約があります。・セキュリティ設備の初期導入コスト・共用部に手を入れられない専有外の制限・建物自体の物理的耐性の不確実性こうした限界を踏まえつつも、「人の注意力」に依存せず、「仕組み」や「ルール」で補完するという考え方が重要になります。これは「モラル頼み」ではなく、「仕掛けとしてのセキュリティ」という視点です。4-4.セキュリティ対応の発想転換:「事後対応」から「予防」へビルのセキュリティを「何か起きてから対処する」ではなく、「起きないように設計する」方向へ転換することが重要です。築古オフィスビルのような環境では、この予防の視点が差別化要素になります。鍵付き家具を標準装備する、「機密ゾーン」の配置を内装設計で考慮する、入退室履歴が残る仕組みを提供するなど、セキュリティ・デザインを組み込んでいくことが、 築古オフィスビルの価値創出につながります。 第5章:築古物件でも“これからできる”予防的セキュリティ対応──現場に即した着手ポイントとその発想転換 築古オフィスビルにおいてセキュリティ強化を検討するとき、多くのオーナーやテナントがまず思い浮かべるのは、「今さら何ができるのか?」という制約意識です。しかし、その一方で、現場対応の多くは後付け可能なものであり、考え方と手順さえ押さえれば「予防的対応」は十分に実現可能です。本章では、「築古でも、今から始められる現実的なセキュリティ強化策」について、①コスト、②運用負荷、③視認性(印象)の3つの観点から整理し直し、対応の優先順位と判断軸を提供します。5-1.そもそも「予防的対応」とは何か?──“守りの設計”の再定義「予防的対応」とは、文字通り「事件・事故が起きる前に備えること」です。ただし、ここでいう備えは、単なるマニュアル整備や啓発ポスターの掲示ではなく、意図的に被害を発生しにくくする状態を空間や仕組みに組み込むことです。・書類の散乱を防ぐ書庫の統一運用(置きっぱなしリスクの排除)・来訪者記録の明示(見られている意識による抑止)これらはどれも「人間の判断や注意力に依存しない予防策」です。築古オフィスビルこそ、こうしたアナログ空間への予防設計を通じて、セキュリティレベルの底上げを図ることが求められます。5-2.“防ぐべき対象”を具体化することから始める予防的対応を考える際に最もありがちな失敗が、「なんとなく不安だから、とりあえず防犯カメラつける」といった情緒ベースの対応です。実務としては、「誰を・何から・どう守りたいのか」を明確にすることが、対策設計の出発点となります。築古オフィスビルにおける代表的な対象例として以下が挙げられます。・不特定多数の出入りによる盗難・不審者侵入(=来訪管理)・退去時などの情報漏えい・持ち出し(=アクセス制限)・時間外の無断立ち入り・寝泊まり・不法投棄(=物理的封鎖)これらを具体化し、どの時間帯・どの場所で・誰が・何をしてくる可能性があるかが見えてくることで、「リスクの地図」が描けるようになります。5-3.「現場でやれること」はここから始める──後付け可能な施策リスト築古物件でも比較的導入が容易で一定の効果が見込める予防的セキュリティ対応は以下の通りです。以下の表の通り、ビルオーナー・管理会社・テナントが各自の役割を認識し、責任をもって対応することが重要です。なお、賃貸オフィスビルの共通仕様として導入する場合には、ビルオーナーの意思決定・予算承認の下、施策を実施しますが、テナントが専有スペースで導入するケースもあります。 施策ビルオーナーの役割管理会社の役割テナントの役割(1) 入退室・立入りの可視化と履歴化・設備導入の意思決定・ 予算確保・設備導入の調査・検討・設置業者の選定と施工管理・導入後の保守管理・社員に対する利用ルールの徹底・ICカードやIDの管理/退職者のID削除等の運用(2) 機密エリアのゾーニング(専有スペース)―・間仕切りや扉などの工事手配・鍵管理のためのルール作成支援・機密エリアの運用ルール遵守(施錠、入室管理)・入退室の履歴記録(3) 書類・端末の管理ルール徹底――・クリアデスクなどの社内ルールの策定・徹底・個々の端末・機器の管理責任徹底(4) 監視導入と外部運用・防犯カメラ導入の予算承認・防犯カメラ設置工事、警備会社との連携契約・保守管理・監視運用ルールの協力(利用上のルール徹底) ・ビルオーナーは、ビル共通仕様として導入する場合に「投資意思決定と予算承認」に責任を負います。・管理会社は、設備の実際の「設置や保守運用を管理する」役割があります。・テナント企業は「具体的な運用ルールの遵守・徹底」を通じて設備の有効性を実現する役割を担います。つまり、セキュリティは決して一つの立場だけで解決できる問題ではなく、三者の密接な連携・協力と明確な責任分担によって初めて効果を発揮するものなのです。5-4.「予防」であるがゆえの落とし穴──“手を打った感”で満足しない設備導入だけではなく、「技術的対策(モノ)」+「運用設計(ヒト)」のセット化が必要です。特に、テナントが主体となってルール運用を徹底しなければ、設備投資の意味が半減します。例えばスマートロックを入れても、テナント企業が社員のICカード管理を怠れば効果は発揮できません。このため、導入時点からオーナー・管理会社・テナントが協力して、明確な役割分担と継続したチェックを実施する仕組みを作ることが重要です。5-5.「できること」から始めるための判断軸──小さく、でも本気で着手3ステップは以下の通りです。 ・ステップ① 現状調査 管理会社(オーナー)、テナントが合同で現地確認を行い、具体的なリスク箇所を洗い出す。 ・ステップ② 優先順位設定 上記の役割分担表を参照し、それぞれの役割で、コスト・導入容易性・即効性を踏まえて何から優先すべきかを決定する。 ・ステップ③ 仕組みと運用整備 運用ルール整備、責任者決定、管理会社とテナントが協働する定期的な継続管理仕組みを構築。「小さくても確実に取り組む」ことを軸に、三者それぞれが明確な役割を持って実務を進めることで、現実的かつ効果的なセキュリティ強化が実現できます。 第6章:ケーススタディで見る築古オフィスビルのセキュリティ対策導入事例 本章では、実際の築古オフィスビルにおいて実施されたセキュリティ強化の成功事例と失敗事例を具体的に紹介し、その背景や要因を分析します。これらのケーススタディを通じて、実際の現場で起こり得る課題や具体的な対策の実効性を明らかにします。6-1.築古オフィスビルにおける成功事例ある築35年の賃貸オフィスビルでは、以前はセキュリティ設備がほぼなく、入退室管理が属人的に行われていたため、情報漏えいのリスクが非常に高い状態でした。このビルでは以下の施策を実施し、劇的な改善を達成しました。 ・ICカード式のスマートロックシステムを後付け導入 ・クラウド型防犯カメラを主要な出入口および重要エリアに設置導入後、無許可入室や紛失物などのインシデントが激減し、テナント企業の満足度も大きく向上しました。結果として、テナント離脱の抑制や新規テナント誘致にも効果を発揮しています。6-2.築古オフィスビルにおける失敗事例一方、別の築40年のビルでは、セキュリティ向上のために急いで防犯カメラを設置しましたが、十分な事前検討が不足していました。その結果、以下の問題が発生しました。・設置場所の選定が甘く、重要な死角をカバーできていなかった・カメラの管理・運用体制が整っておらず、映像データが有効活用されていなかった・プライバシー保護に関する検討が不十分であり、テナントから苦情や不安が寄せられたこのような問題が発生したことで、導入された設備は十分に機能せず、追加コストや運用の見直しが必要になりました。6-3.成功と失敗から導かれる実践的教訓これらの事例から明らかになった実践的教訓は以下の通りです。・セキュリティ設備の導入には十分な事前確認とリスク分析を行う必要がある・運用面の計画(設備の維持管理、データ管理のルール整備)が伴わないと効果を発揮しない・テナントとのコミュニケーションや意識共有がハード設備の仕様以上に重要であるこれらの教訓を踏まえ、今後築古オフィスビルにおいてセキュリティ強化を進める際には、設備導入だけでなく、運用やコミュニケーションの側面にも十分に注意を払う必要があります。 第7章:後付けセキュリティ設備の導入実務マニュアル 築古オフィスビルにおいてセキュリティ設備を後付けで導入する場合、多くのビル管理会社は警備会社に運用を委託するのが実態です。この章では、その現実を踏まえた上で、管理会社として押さえるべき最低限のポイントや実務的な導入手順について整理します。7-1.警備会社への委託を前提とした設備導入の実態現実には、ビル管理会社が自ら細部まで設備選定や運用ルールを設定することは少なく、ほとんどの場合、警備会社の提案や推奨に従ってセキュリティ設備を導入しています。これは専門的知識や現場運用ノウハウが警備会社に集中しているためです。ただし、「委託=丸投げ」ではなく、導入にあたり管理会社としては以下の最低限のチェックポイントを押さえておき、役割分担の上で協働していく必要があります。・警備会社の提案設備がテナント企業の業態や利用実態に合致しているかを確認する。・複数の警備会社から見積もりを取得し、導入費用や維持管理費用が相場から著しく逸脱していないかをチェックする。・設備導入後の運用体制(監視体制、緊急対応、保守管理)の明確な説明を求め、管理責任範囲を明確化する。7-2.設備導入のための実務的な準備作業設備を実際に導入する際には、以下のような手順で実務を進めます。・現地調査(警備会社と協働)◦ 警備会社と共に現場の現状調査を行い、現状の設備の状態や追加設置が必要な箇所を特定する。・導入設備の検討と選定◦ 警備会社の推奨設備を前提に、他の警備会社からも提案を比較し、設備の費用対効果を判断する。・導入計画と工事手続き◦ 設備設置工事の工程を警備会社と調整し、テナント業務への影響を最小限に抑える。◦ 工事後の点検・動作確認は管理会社も立ち会い、動作の不備や改善ポイントを明確に記録する。7-3.導入後の最低限のモニタリングと評価方法導入後も、警備会社に完全に任せきりにするのではなく、定期的に以下のポイントをモニタリングすることが重要です。・導入設備の正常動作確認を定期的に行い、不具合や動作停止がないかをチェックする。・警備会社から定期報告を受け、トラブル発生時の対応履歴や運用状況を把握する。このように、現実的な委託形態を認めつつも、管理会社として押さえるべき最低限の管理ポイントを明確にして、警備会社と役割分担の上、協働することで、責任あるセキュリティ体制を築古オフィスビルに構築することが可能です。 第8章:物理的セキュリティとITセキュリティの融合─ハイブリッドな管理の進め方 築古オフィスビルのセキュリティ管理において、物理的セキュリティとITセキュリティの融合が理想とされますが、現実的にはコストや管理負担の問題から全面的な最新技術の導入は難しい場合が多くあります。本章では、そうした制約の中でも最低限実施可能で実効性の高いハイブリッドな管理手法を解説します。8-1.ITと物理的セキュリティ融合の現実的な位置づけ実際の現場では最新の高度な統合システムを一気に導入することは非現実的です。そのため、既存設備の活用を基本に、ITを最小限活用して運用の負担を軽減しつつ効果を上げる方法を模索します。・既存の防犯カメラや入退室管理設備をベースに、一部クラウドサービスとの連携を図る。・スマートフォンなどを利用して、管理スタッフがリアルタイムに設備の状況や通知を簡単に確認できるようにする。8-2.低コストで導入可能な現実的なIT・IoT連携事例築古物件でも低コストで導入可能なIT・IoT機器を選定し、最低限の設備強化を図ることが重要です。・比較的安価なスマートロック・システム(ICカード・スマホ連携)を後付けし、簡易的な入退室履歴を残せる仕組みを整える。・クラウド録画型の簡易な防犯カメラを導入し、複数拠点の状況を一元管理する。・IoTセンサーを活用して、異常検知を即時通知するシステムを導入し、緊急時対応力を高める。8-3.現実的な運用体制の構築設備導入後の運用についても過度な負担がかからない現実的な体制を整える必要があります。・セキュリティ運用の一部を警備会社やクラウドサービスプロバイダーに委託し、管理の負荷を低減する。・定期的な設備の動作確認やメンテナンスを効率化し、管理会社の負担を軽減する。このように、現実の制約を踏まえた上で物理的セキュリティとITセキュリティを最小限で効果的に融合させる方法を採用することで、築古オフィスビルにおいても持続可能なセキュリティ体制を構築できます。 第9章:将来的な築古オフィスビルにおけるセキュリティのトレンドと展望 築古オフィスビルのセキュリティ管理において、過度に華々しい未来像を描くことは現実的ではありません。本章では、現場実務に即して、築古オフィスビルにおける現実的かつ具体的な今後のセキュリティトレンドと対応策の展望を整理します。9-1.現実的な範囲で想定できる今後のトレンド実際の築古オフィスビルにおける将来的なセキュリティ強化は、限定的な予算と現状設備を前提に進展するでしょう。以下のような傾向が予測されます。・部分的な設備アップグレードが主流となり、費用対効果の高い箇所から順次進めるケースが増加する。・低価格化したIoT機器やクラウド型の管理システムが一般化し、中小規模のビルでも導入が容易になる。・セキュリティに関する最低限の法令遵守義務が厳格化され、築古オフィスビルでも一定レベルのセキュリティ対応が必要になる。9-2.実務における課題と現実的な対応策築古オフィスビルが直面する現実的な課題と、それに対する予防的かつ実効性のある対応策は以下の通りです。・人手不足や管理負荷の増加に対応するため、管理の効率化を進める(遠隔管理システム導入や簡素化した運用ルール策定など)。・コストが許容できる範囲での簡易な機器の導入や部分的なリニューアルを積極的に行い、段階的な設備更新を実施する。・リスク評価や運用状況のモニタリングを最低限定期的に実施し、現場の問題を迅速に発見・改善する仕組みを整備する。9-3.築古オフィスビルならではの価値創出の可能性今後はセキュリティを単なるコストではなく、築古オフィスビルならではの差別化要素や競争力向上の手段として位置付ける視点が求められます。・テナント企業の安心感を高めることでテナント維持や新規誘致につなげる。・限られた予算内で効果的なセキュリティ対策を講じているという事実をマーケティングやブランド価値向上の材料として活用する。このように、現実的で実務に即した将来展望を示すことで、築古オフィスビルのセキュリティ管理の意識向上と持続的な取り組みを促進できます。 おわりに: 本コラムでは、企業にとっての「セキュリティ管理」の重要性を改めて確認し、特に築古オフィスビルに焦点を当てて、物理的セキュリティの強化を実務的に掘り下げてきました。セキュリティが企業経営の重要課題であることに疑いの余地はありません。ITだけではなく、オフィスの物理的環境そのものもリスクの最前線だからです。築古オフィスビルでは、予算的な制限や設備導入条件、警備会社が提供できるサービス範囲の制約など、さまざまな条件によって、取りうる施策に限界があるのは現実です。しかし、制約があることは必ずしもネガティブな要素ばかりではありません。本コラムを通じて明らかになったのは、限られた予算や制約の中であっても、後付け可能で効果的な対策が数多く存在し、それらを着実に実行することが十分可能だということです。入退室管理の徹底、機密エリアのゾーニング、防犯カメラの効率的な設置・運用など、小さくても着実な対策が実効性を生むことを示してきました。また、こうしたセキュリティ対策は設備導入などの「ハード面」だけで完結するわけではありません。管理会社(オーナー)が設備環境を整え、テナント企業がルールに基づいて運用を徹底し、警備会社が専門性をもってそれらを支援するという三者の役割分担が不可欠です。この役割分担の明確化と円滑なコミュニケーションこそが、真のセキュリティ向上を可能にするのです。最後に改めて強調します。セキュリティの本質とは、決して「誰か任せ」や「設備任せ」ではなく、当事者それぞれが自分事として捉え、継続的に改善を続ける姿勢そのものにあります。一度の設備導入や施策実施で完結することはなく、絶え間ない改善・見直しを伴う取り組みだからです。関係する全ての人が主体的に取り組み、小さくても現実的な一歩を踏み出し、継続していくことで、築古オフィスビルにおいても持続可能で安全な環境を作ることが可能となります。本コラムが、築古オフィスビルに関わるオーナー・管理会社・テナント企業の皆さまにとって、セキュリティ対策を主体的に考え、現実的な一歩を踏み出すきっかけとなれば幸いです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月1日執筆2025年12月01日