相場追従ではなく“時間”で決める賃料―高輪ゲートウェイ後、周辺相場は上方シフトか二極化か
皆さん、こんにちは。
株式会社スペースライブラリの飯野です。
この記事は「相場追従ではなく“時間”で決める賃料―高輪ゲートウェイ後、周辺相場は上方シフトか二極化か」というタイトルで、2026年2月3日に執筆しています。
少しでも、皆さんに新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
序章:“相場”の外側から始まる――高輪ゲートウェイが投げる問い
2025年3月、高輪ゲートウェイ駅前の「TAKANAWA GATEWAY CITY」が街びらきを迎え、2025年9月、「NEWoMan 高輪」が開業し、お披露目されている。
オフィス・商業・ホテル・レジデンス・文化機能を束ねた、都心でも稀少なスケールの複合開発だ。9.5haの再開発、複数棟構成、駅直結の都市機能――この“塊”は、周辺の賃料ゾーンにとって明らかに外力になる。施設群は今も段階的に立ち上がっており、今後、テナントが入居していって、街の重心はこれから数年をかけて定着していくことになろう。
注目は賃料だ。詳細な募集単価は広く開示されていないが、業界関係者の間では周辺の“従来ゾーン”とかけ離れた水準での設定が織り込まれつつある、という“観測”が共有されている。もともと高輪ゲートウェイ周辺は、都内では利便性のわりに賃料が比較的低位で安定してきたエリアだ。そこに“新築・大規模・駅直結・複合”的な上位仕様が面で出てくる。ではこの賃料ポジションは、どこまで周辺に波及するのか。エリア平均は上に引っ張られるのか。あるいは“階層分化”が進み、同じ駅圏でも賃料帯が二極化していくのか。街の“新しい基準”づくりが、まさに始まっている。
ここで、ひとつ確認しておきたい。
私たちが普段「相場」と呼んでいる数字は、ほとんどが募集賃料という“希望値の平均”に過ぎない。実際の成約、インセンティブを差し引いた実効賃料(NER)、そして空室期間という“時間コスト”まで含めた収入水準――これらは可視化されにくく、平均のテーブルには載りにくい。だから“街のニュース”が相場表に反映されるより先に、意思決定の現場では時間差の歪みが生じる。上振れ期待に寄せて粘れば、空室が伸びる。守りに寄せれば、機会を落とす。数字ではなく“時間”で読む力がないと、どちらにも外す。
今回の高輪ゲートウェイは、その練習問題として最適だ。
――“上に合わせる”のか。
――“自分の物件の文脈”で読み替えるのか。
同じ駅圏でも、立ち方・動線・管理品質・更新の通しやすさで、上げられるビルと上げられないビルははっきり分かれる。希少ストック化が進む都心では、「安く貸して長く」はもはや戦略ではない一方で、“強気に出して時間を失う”のも愚策だ。鍵は回す力――賃料・更新・改修・募集のリズムを自分で設計し、相場を“素材”として使いこなす運用にある。
高輪ゲートウェイの“新しい基準”は、いずれ相場表にも反映されるだろう。
だが、そこで勝ち負けを分けるのは数字の追随ではない。
先に時間を読めるかだ。
相場は、待っていれば上がるものではない。使いこなすものだ。
第1章:「相場」って何を指すのか?
オーナーが賃料設定を考えるとき、不動産仲介会社に相談すると、「このあたりは坪○○円くらいです」と相場の数字が返ってくるし、ポータルサイトを見れば、対抗と目する物件の募集賃料の相場が並んでいる。
では、この「相場」ってのは、何なのだろうか。
数字の不透明さ:募集賃料・成約賃料・実効賃料
世の中で見かける「相場」は、大抵、募集賃料──つまり「希望条件」の平均である。ポータルやマイソクに出ている数字は、言わば“言い値”。そこから交渉を経てまとまった成約賃料とは必ずしも一致しない。
さらに、成約賃料すら「表面の数字」であって、フリーレント、段階賃料や、貸主側の工事負担などのインセンティブを差し引けば、オーナーの実入りはもっと低い。これがいわゆる「実効賃料」である。
しかも、実効賃料は公開されることが少なく、当事者間でしか把握できない。
つまり、「相場」と呼ばれている数字は、実際の収入水準を反映していない不完全な情報であることを前提にすべきなのである。
- 募集賃料:ポータルやマイソクに出てくる“希望”。
- 成約賃料:契約書上の坪単価。公開されづらい。
- 実効賃料(Net Effective Rent):フリーレントや貸主工事(Tenant Improvement)等のインセンティブを控除した“実入り”。
NERの簡易式(月額)
NER ≒ {(成約賃料×(契約月数-FR月数)-TI等の金銭換算)}÷ 約月数
※厳密には金利の影響や時点のズレがあるが、オーナー意思決定ではこの近似で十分“方向性”が出る。
さらに現実のキャッシュフローは「空室期間」でさらに薄まる。なので、意思決定は“時間調整NER”で見るのが理想的。
時間調整後のNER≒{(表面賃料×(契約月数-FR月数)-TI)}÷(契約月数+想定空室月数)
ポイント:強気設定ほど「想定空室月数」が伸びがち。ここを勘定に入れない比較は幻想。
第2章:「場所性」と「個別性」を補正する
オフィスビルの賃料は「駅徒歩○分」というシンプルな表記では測り切れない。
なぜなら不動産は「場所」に根ざした商品であり、そこには様々なファクターが複雑に絡み合っているからだ。実際の評価に効いてくる要素を分解すると
- 街としての立地
- 対象ビルの個別性(ロケーション由来)
- 対象ビルの個別性(建築・設備・管理由来)
という三層に整理できる。この三層を順に確認していこう。
2-1.街としての立地
まずは“街そのもの”が持つ力である。ここには四つの主要因がある。
- 住所としてのブランド価値
- 丸の内、青山、渋谷といった地名は、それ自体がブランド資産だ。名刺に印字したときの印象や、採用・営業での「説明力」といった、企業が外部に示したい価値に直結する。ブランド価値は短期には動かないため、立地が持つ基盤的な強みとなる。
- エリア特性(街の実態)
- ただし、住所が立派でも街の実態が伴わなければ評価は下がる。
- 用途地域指定だけでは割り切れない街の実態。ビジネス街の中核なのか、雑居・飲食が混在するエリアか、あるいはフリンジか。さらに、再開発の進捗といったダイナミックな都市計画な進捗も、エリア特性を変化させていく。
- 人流のパターン
- 街の実態をつかまえる上で、人流のパターンは重要な要素である。
平日昼間にオフィスワーカーが溢れる街は、来客や営業型業態に向く。夜、そして、休日に賑わう街は、クリエイティブ系には好まれる場合もあるが、事務系にはマイナス。業種によって「望ましい人流のパターン」は変わる。
- ビジネス拠点へのアクセシビリティ
これも、エリア特性として街の実態をつかまえる上でのサブ・ファクター。鉄道駅、バスの利便性も踏まえて、広域で捉えたエリア特性とも言えるかもしれない。官公庁、顧客、協力会社へのアクセシビリティは重要なポイントである。
- ハザード(リスク)
- 河川の氾濫、内水氾濫による浸水・地盤の脆弱性などのリスクは、BCPを想定する上で確認必須のポイント。総務部門がハザードマップを確認するのは当然として、住所のブランド価値を打ち消す場合すらある。
2-2.対象ビルの個別性(ロケーション由来)
同じ街の中にあっても、歩行動線の体感なり、面している道路条件、車両のアクセス、視認性など、ビルの立ち方で印象はまるで違ってくる。
- 歩行動線の体感
- ひとつの信号がテンポを変え、一本の坂が疲労を生む。
- 雨の日に傘を差して歩く距離感、アーケードの有無、曲がり角の数。
- たったそれだけで「同じ徒歩5分」の意味はまったく違う。
- 物件図面に“徒歩5分”と記されても、体感では「行きやすいビル」と「わざわざ行きたくないビル」がはっきり分かれる。
- 道路条件と街との“接点”
- 前面道路の幅や歩道の状態は、通る人の目線と関係する。
- 大通り沿いは視認性と安心感があるが、雑踏や騒音も抱える。
- 一方、裏通りは静かで落ち着くが、発見されにくい。
- どちらが“良い”ではなく、その街でどう使われるかの設計で評価が変わる。
- 車両アクセスと搬入動線
- タクシーが横付けできるか、車寄せが取れるか。
- 一方通行で停めづらければ、来客や荷物搬入のストレスは想像以上に大きい。
- 特に小規模オフィスでは、共用部を兼ねた搬入経路の設計次第で“使いやすい/使いにくい”が決まってしまう。
- 視認性とアプローチの印象
- 同じ立地でも、角地に建つか、通りに埋もれているか、前面道路の幅如何で、接近していく際、どの距離、角度でエントランスが見えるかによって、印象が異なってくる。
結論:ロケーション由来の個別性とは、「街との接し方のデザイン」である。
街の流れに沿って入口が見えてきて、歩道から自然に吸い込まれる──そんな“街に馴染む立ち方”ができていれば、築年数を超えて“今も機能している建物”に見える。
街の動線からずれて、通り過ぎられるビルは、それだけで“時間が止まったように見える”。
2-3.対象ビルの個別性(建築・設備・管理由来)
ビルの魅力は、築年数やスペック表には出てこない、「建築の思想」と「積み重ねてきた維持の姿勢」に宿る。
同じ築30年でも、“古びたビル”と“古くても整っているビル”の差は、建築と運営の合わせ技で生まれる。
- 造りと空間のランク
- エントランスの天井高、仕上げの素材、照明の当たり方。
- たったそれだけで、訪問者の第一印象が変わる。
- 小規模ビルで車寄せを取れなくても、間口と奥行きのバランス、床と壁の素材の落ち着き方で、グレード感は十分に出せる。
- “高級感”ではなく、整え方の質が問われる。
- 敷地形状とレイアウト効率
- 平面の整形度、梁や柱の位置、奥行とスパンのバランス。
- これらの“目に見えない寸法のロジック”が、使い勝手と実効賃料を決める。
- レイアウトが素直に組めるフロアは、それだけで内見時の印象が違う。
- 基本性能とバックヤード
- 空調容量や電気インフラなど、古いビルほど差が出る部分。
- 配管経路やサービスヤードの配置によって、メンテナンスコストや入退去時の工事負担も変わる。
運営と管理の一貫性
清掃が行き届いているか、故障時の対応が早いか。
入退館ルールが煩雑すぎないか。
こうした日常の小さな体験の積み重ねが、「このビルはちゃんとしている」という信頼感を作る。
管理品質は、見た目以上に退去理由を減らすコスト対効果の高い要素である。
第3章:「相場に寄せる」は安全策ではない――“正しさ”の先にあるリスク
オーナーにとって「相場に合わせる」ことは、もっとも安全とも思える判断だ。
周辺の募集事例を見て、同じか少し低い水準で設定しておけば、
「相場から外れていない」「誰にも責められない」設定にできる。
だが、それこそが最もリスクの高い意思決定とも言える。
なぜなら、“相場”とは誰かが過去に出した「平均的な希望値」に過ぎず、そこに寄せることは、自分の物件固有の条件を手放すことを意味するからだ。
3-1.「正しい価格」ではなく「安心できる価格」
多くのオーナーは、賃料設定を「正しさ」よりも「安心感」で決めている。
「他もこのくらいだから」「仲介もそう言っていたから」──
この“みんなと同じ”という感覚が、最も根強い。
だが、そもそも、市場において“正しい価格”など存在していない。
存在するのは、「今、どんな条件であれば動くか」という、常に変化し続ける実需のラインだけだ。
同じ相場水準を提示しても、決まるビルと決まらないビルがあるという現実は、“平均値としての相場”がどれだけ空虚なものかを示している。
にもかかわらず、多くの場合、オーナー心理的傾向は、“正しい判断”をしたいという意思ではなく、“間違いと言われない位置”にいて、判断の責任を分散させるための“平均”を選んでいる。
安心感の正体は、自信ではなく、リスクを薄めているという錯覚に近い。
他と同じであれば、仮に空室が長引いても「市場が悪い」と言える。
そうやって、自らの判断を検証する機会を手放してしまう。
この“誰のせいにもならない安心感”こそ、相場依存の根源であり、結果的に、価格設定の解像度を下げていく。
3-2.「他と同じ」で、なぜ決まらないのか
では、なぜ相場水準と同じ水準で賃料を提示していても決まらないビルが生まれるのか。
理由は単純で、相場が「誰の基準か」を考えていないからだ。
賃料相場は、設備更新にも順次対応している大型ビルも、照明が暗めで、天井高が2.4m以下の築古ビルも、“同じエリアのオフィス”として一括りにされてしまう。
しかし、テナントが選ぶのは、どこにも存在していない“平均”ではない。
判断の基準は、もっと具体的で個別的なものだ。
自社の従業員の働き方に合うか。
来客の導線がわかりやすいか。
外観やエントランスで、企業としての信頼感が伝わるか。
照明や空調、共用部の管理状態が「使いやすそう」と思えるか。
こうした要素は、物件案内の仕様の一覧表には表れにくい。
だが、実際に「内見で決まる」瞬間は、こうしたディテールが左右している。
つまり、相場に寄せるという行為は、テナントの具体的な判断プロセスを無視することでもある。
「他と同じ水準だから問題ない」という設定は、裏を返せば「自分の物件が選ばれる具体的な理由を考えていない」ということなのだ。
3-3.「相場に寄せる」だけだと、判断のタイミングを失う
よくある誤解のひとつに、“相場に寄せれば早く決まる”という幻想がある。
だが、実際には相場通りに出しても、決まらない期間が長くなる傾向がある。
なぜなら、“相場”は過去の平均値であって、“いま”の実需の熱量とはズレているからだ。
募集賃料を強気に出せば、当然ながら内見数は減る。
そして、成約に至るまでに値下げ交渉が入り、結果的に想定よりも低い賃料で決まることも多い。
一方で、最初から現実の動きに合わせて柔軟に調整した物件は、早期にテナントが決まり、稼働率を維持しながら次の判断に移れる。
つまり、「強気に粘る」ことの問題は、安くなることよりも、“判断のタイミングを逃す”ことにある。
ここで言いたいのは、“安く貸せ”ではない。
「市場が動いているタイミングを捉える感度」を持つことだ。
同じ一か月でも、反応のある時期とない時期がある。
テナントが動く波に合わせて価格を設計できるかどうかが、空室期間と収益効率を大きく分ける。
短期的な値付け判断と、長期的な賃料水準の戦略は別物だ。
いまの東京中心部では、“安く長く貸す”戦略は確かに成立しがたい。
しかしそれでも、「動かすタイミングを誤らない」ための柔軟性は必要だ。
その調整力を欠いた“相場依存”こそが、空室リスクを長引かせる。
“相場を守る”という目的が先に立った瞬間、オーナーは時間という最大のコストを見落としてしまう。
いま求められているのは、価格を下げる勇気ではなく、“相場の中で動ける瞬間”を見極める意思決定力である。
3-4.“相場”を使うのではなく、“相場を越えて使う”
相場は、出発点としては有効だ。
だが、それを「基準」ではなく「素材」として扱うべきである。
街としての立地、ロケーションの個別性、建物の造りと運営品質──
これらを踏まえて補正し、“自物件の個別性を踏まえたの価値の文脈”を組み立てる。
それが本来の「相場を読む」という行為だ。
“相場に寄せる”とは、他人の判断に自分の意思を預けること。
“相場を越えて読む”とは、自分の物件を、時間・場所・質の軸で再定義すること。
相場を読む力とは、数字を覚えることではなく、
数字の裏にある人の動きと、意思決定の流れを読み取る力だ。
テナントが何に価値を感じているのか、何を避け、どこで妥協しているのか。
そのリアルを反映させて、初めて「相場を越える価格設定」が成立する。
結論:「相場に寄せる」だけだと、判断をやめることになりかねない。
相場に寄せるという行為は、合理的に見えて、実は思考停止の始まりだ。
“相場を越えて読む”ことができるオーナーだけが、
自物件の価値を再定義し、長期空室の罠から抜け出せる。
第4章:“収支で見る”賃料判断――数字の裏にある実効バランス
「相場に寄せる」ことをやめたとき、オーナーが直面するのはもう一つの問いだ。
――では、自分のビルはいくらが“妥当”なのか。
この答えを見出すには、感覚ではなく収支で見る視点が欠かせない。
募集賃料の高さよりも、実際にどれだけの期間で、どれだけの収入が確保できるか。
これを基準に判断することで、初めて“強気”と“現実的”の線引きが見えてくる。
4-1.「見かけの賃料」と「実際の収入」は違う
契約書に記載された“坪単価”は、実際のオーナー収入を正確には表していない。
なぜなら、その裏には次のような控除が常に発生しているからだ。
- フリーレント(賃料免除期間)
- 貸主工事(TI:Tenant Improvement)
- 成約までの空室期間
これらを差し引いた「実効賃料(NER)」こそが、実際の手取りに近い値であり、
オーナーの経営判断はこの“NERベース”で行うべきである。
たとえば表面上の募集賃料を上げても、決まるまでに半年かかれば、
フリーレント1か月を付けた物件と収入は大差がない。
つまり「高く出して粘る」戦略は、収益の実効値をむしろ削ることになる。
4-2.“時間”がキャッシュを薄める
賃貸経営では、時間=コストだ。
空室である期間も、共用部の電気・清掃・警備などの費用は変わらない。
したがって、強気に設定して“待つ”ほど、実質的な利回りは落ちていく。
言い換えれば、「どのくらいの期間で決まるか」も賃料設定の一部である。
もし月1,000円強気に出した結果、決まるまで2か月余計にかかるなら、
その間の損失を含めて計算すれば、むしろ“弱気設定”のほうが得をしているケースも多い。
この「時間調整」を入れずに賃料を考えると、机上では利益に見えても、
実際のキャッシュフローでは赤字に転落することがある。
4-3.OPEXとCAPEXを含めた“収支構造”で見る
オーナーの懐に残る収益は、賃料だけでは決まらない。
OPEX(運営費)とCAPEX(資本的支出)がどの水準にあるかによっても、
実効利回りの印象は大きく変わる。
- OPEX(運営費):警備・清掃・点検・共用電力などのランニングコスト
- CAPEX(資本支出):空調更新・防水・外装改修などの周期的支出
仮に賃料が平均より高く取れても、OPEXが高止まりしていれば意味がない。
逆に、設備が整理され維持費が抑えられていれば、
同じ賃料でも実質の収益率は高くなる。
要するに、「賃料を上げる努力」だけでなく、
「支出を整える努力」も含めて初めて“収支バランス”が成立する。
4-4.“強気”と“早期決定”のバランスを読む
ここで重要なのは、どこまで粘るかという判断である。
賃料を下げることは“妥協”ではなく、“スピードによる利益確保”の手段でもある。
実効賃料(NER)は、成約時点の単価よりも、決まるまでの速度に大きく依存する。
例えば、
- 坪あたり+200円高く設定して3か月空室
- 坪あたり-200円で即決
この2つをNERで比べると、後者の方がキャッシュは上回るケースが多い。
市場が読みにくい時期ほど、“早く決めて、長く入ってもらう”戦略の方が強い。
4-5.収支で見れば、“早く決まる”が強い
結局、オーナーにとっての本当の指標は、「どれだけの期間で、どれだけの賃料を回収できたか」である。
表面賃料にこだわるよりも、空室期間を短縮し、更新を重ねていく方が総収入は安定する。
賃料設定は“金額の勝負”ではなく、“回転の設計”だ。
強気に見える設定が、実はもっとも収益を削ることがある。
慎重に見える一歩引いた設定が、最終的に最も収益を守る。
この逆説を理解できるオーナーだけが、市場の波に飲まれずに立ち続けることができる。
第5章:“高く貸す”か“長く貸す”か――希少ストック時代の賃料判断
5-1.「安く貸して定着」は、いまや戦略ではない
かつて、賃貸オフィスビルの賃料判断で最初に考えるべきは、
「いくらで貸せるか」ではなく、“どのくらいの期間、安定して入ってもらえるか”だった。
賃料が長期的に上昇を継続する状況でもなければ、
“やや低めでも長く続く賃料”のほうが収益の安定度は高く、
「長く使ってもらうこと」が最適解とされてきた。
しかし、いまの東京中心部では、その前提が崩れている。
フロア100坪前後の中規模・賃貸オフィスを新たに建てる余地はほとんど残っておらず、仮に用地があっても、土地価格と建築コストの上昇を踏まえれば、
新築で採算の合うオフィス投資はもはや成立し得ない。
この状況下、既存の中規模オフィスビルは再現できない希少ストックになりつつある。
立地そのものが再現不能である以上、
“安く貸して長く使ってもらう”ことは、収益機会の放棄を意味する。
テナントが退去しても、すぐ次が決まるようなエリア──
たとえば、東京の都心5区では、「高く貸して入れ替える」戦略のほうが合理的になっている。
つまり、「この場所にこの規模で存在する」ということ自体が、すでに経済的価値を持っている。
では、希少ストックの時代に、オーナーは“高く貸す”か“長く貸す”か──。
問われているのは、利回りではなく、時間の読み方である。
5-2.“高く貸す”判断のリスクは「運用損失」にある
「高く貸す」戦略のリスクは、運用上の損失にある。
それは、退去から再入居までの間に生じる、経済的な摩擦のことだ。
原状回復費用は退去テナントの負担、入居工事も基本、入居テナント負担と、契約上、整理しておけば、オーナーが負うのは、空室リスクに限定できるが、この「空白の時間」が収益を確実に削る。
募集経費、仲介手数料、フリーレント、そして何よりも、
希望賃料で決まらないかもしれない」という不確実性──。
これらはすべて、空室期間中のコスト、機会損失としてオーナーの実入りを減らす。
つまり、“高く貸す”判断のリスクは、価格そのものではなく時間にある。
決まるまでの1か月、2か月という「待ち時間」が、実効賃料(NER)を確実に薄めていく。
- 賃料を強気に出すほど、空室期間が伸びる
- 空室期間が伸びるほど、NERは下がる
これは単純な関係式だ。
賃料を守るために待つ時間が、結局は収益を削っている。
目安として、同じフロアで1〜2か月の空室が出るだけで、NERベースでは坪あたり100〜200円分の収益が消える。
この「待ち時間コスト」を可視化しない賃料設定は、見た目は強気でも、実質的には弱気な運用といえる。
“高く貸す”戦略は、マーケットの厚みと照合して初めて意味を持つ。
入れ替え時の空室リスクを吸収できる需要層が明確にあるか、フリーレントを付けずに希望単価で決まる見込みがどれほどあるか。
この見極めを怠ると、強気の設定は「待ち損」に終わりかねない。
5-3.賃料を“上げられるビル”と“上げられないビル”は別物
「場所が良い=賃料が上げられる」わけではない。
たとえば同じ中央区でも、
- 駅前で再開発の波に乗るビル
- 裏通りで細長い敷地に建つ築30年の中小型ビル
この二つが同じ相場感で動くことはあり得ない。
再開発エリアでは、大規模新築との比較で質の勝負になる。
一方、裏通りではアクセス性と入居コストの合理性の勝負だ。
したがって、賃料を“上げられるビル”とは、上げても離脱しにくい条件を持つビルである。
その条件は次のとおりだ。
- 来客・社員双方にとって動線が良い
- 建物管理が安定している
- 内装更新が柔軟(再利用しやすい)
- 更新時の抵抗が少ない(増床・減床の相談が通る)
これらが揃って初めて、“相場を超える賃料”が維持できる。
単に「場所が良い」だけでは足りない。
賃料を“上げられる構造”を持つかどうかが、ビルの競争力を分ける。
5-4.“長く貸す”戦略の再定義
「長く貸す」とは、決して“安く貸す”ことではない。
本来の意味は、更新リスクを減らし、機会損失を抑える運営戦略である。
更新率が高いビルは、単に賃料が割安だからではなく、
日常の安定感──トラブルの少なさ、対応の速さ、清掃や設備の安定性──で信頼を得ている。
賃料が多少割高でも、“納得できる運営品質”があればテナントは残る。
つまり、“長く貸す”とは価格競争の話ではなく、運営の精度で機会損失を抑える経営である。
この発想を欠いた「値下げによる定着」は、長期的には収益を蝕むことにしかならない。
5-5.希少ストックの時代に問われるのは、「回す力」
東京の賃貸オフィス市場は、
これから「増える」より「回す」フェーズに入る。
新規供給が止まるなかで、オーナーの競争力は“回せるかどうか”で決まる。
“高く貸す”と“長く貸す”の選択は二択ではない。
どちらの局面でも、回す力を持つビルこそが強い。
それはつまり、
- 機会損失を抑えながら、
- 相場を読み、
- 更新をつなぎ、
- 建物の寿命と収益のリズムを合わせること。
“希少ストックを回す”とは、そういう経営の話だ。
単にテナントを入れ替えることではない。
賃料、運営、改修のリズムを自分の手で設計すること。
次章では、その“設計”をどう描くかを考えたい。
第6章:“時間で読む賃料”──強気・弱気を決める現実のライン
6-1.募集賃料の設定は、その“瞬間”ではなく“期間”で決まる
賃料は「いくらで貸すか」ではなく、「いつ決まるか」で決まる。
募集賃料は、マーケット価格というより、マーケットの時間感覚を反映した値付けだ。
たとえば、同じ募集賃料の坪単価でも、1か月で決まる物件と3か月かかる物件では、
オーナーの手に残る収益はまったく違う。
この“決まるまでの時間”が、実効賃料(NER)を左右する。
つまり、募集賃料の判断を誤らせるのは数字の誤差ではなく、
「決まるまでの時間をどう読むか」という時間認識のズレである。
強気か弱気かを分けるのは単価ではなく、“想定空室月数”をどれだけ現実的に設定できるかだ。
(1)募集〜成約のリードタイムを読む
賃料判断の第一歩は、自ビルの決まり方を時間で把握することである。
都心主要エリアの中規模オフィス(1フロア80〜150坪)の平均リードタイムは、概ね次の通りだ。
- 千代田・港・中央の駅近主要エリア:1〜2か月
- 新宿・渋谷・品川の周縁エリア:2〜4か月
- 城東・城南・城北などの周辺エリア:4〜6か月
この「リードタイム」を無視して“1か月で決まる想定”を置くと、
NERの計算は簡単に10%以上ズレる。
同じ募集単価でも、決まるまで4か月かかるなら、
“月あたり4か月分の空白”が収益を確実に薄める。
つまり、強気に出すということは、その時間を吸収できる体力を持つという意思決定だ。
「強気」の本質は、単価ではなく待てる時間にある。
(2)募集単価と空室期間の相関を可視化する
実務的には、「この単価なら何か月待てるか」を逆算するのが合理的だ。
- 坪あたり+200円で出すなら、最大で何か月まで待てるのか。
- 坪あたり-200円で出すなら、どれだけ早く決まるのか。
このように単価と時間をトレードオフで把握することで、
“強気設定”の意味が初めて定義できる。
数字上の目安として、1〜2か月の空室はNERベースで
坪100〜200円の収益減に相当する。
強気に出すというのは、「この差を時間で取り戻す」という意思決定に等しい。
リーシング担当とオーナーがこの「時間換算」を共有していないと、賃料会議は永遠に平行線になる。
(3)提示賃料を「下げる」タイミングを設計しておく
一度提示した賃料をどこで見直すか。
これを感覚やタイミング任せにしてはいけない。
あらかじめルール化しておくと、判断がブレなくなる。
例としては次のような設定が想定される。
- 3か月で内見ゼロ→-2〜3%下げ
- 6か月で成約ゼロ→-5%+フリーレント1か月付与
このように、「修正ルールを前提に出す」ことで、賃料の値下げが“負け”ではなく“運用の一部”になる。
築古の賃貸オフィスビルの運営で重要なのは、最初の単価よりも、どのタイミングで柔軟に切り替えるかの制度設計である。
6-2.契約更新時の賃料改定――「上げる」ことの正当化
リーシングの時間設計が“入るまで”の話だとすれば、賃料改定交渉は“続けてもらう”ための時間設計である。
賃料改定交渉は、価格の話に見えて、実は時間の調整である。
テナントが更新を決める理由の多くは、
「この先、どれだけ安心して使えるか」という将来の見通しに関わっている。
だからこそ、賃料改定交渉は「いくら上げるか」ではなく、
“どのタイミングで・どの根拠で・どの幅で”上げるかを整理して臨む必要がある。
(1)賃料改定の「根拠」を可視化する
賃料改定交渉の出発点は、“なぜ上げるのか”を論理的に説明できることにある。
感情的な訴えではなく、時間の経過に基づく合理的な説明が必要だ。
まず、建物の維持管理費や設備更新費が上昇しており、賃貸オフィスビルの経営を安定的に継続するためには、一定の賃料改定が避けられないという経営上の前提を明示する。
これはオーナー側の事情として丁寧に説明しつつも、一方的な“値上げのお願い”にならないように留意したい。
本質的には、テナントがそのロケーションやビルのクオリティをどう評価しているかを確認し、その“利用価値”とオーナー側の“経営合理性”を市場という共通言語で折り合わせるプロセスである。
その際には、周辺の対抗物件──
フロア規模、設備水準、管理品質が近い賃貸オフィスビルを複数ピックアップし、比較可能な形でマーケット水準を提示する。
「相場と同額に引き上げる」ことを目的とするのではなく、
たとえば相場水準の半分程度に寄せるなど、一定の配慮を前提にした「継続賃料」としての提示が現実的である。
(2)賃料改定の「幅」を設計しておく
交渉に入る前に、賃料改定の幅をあらかじめ設計しておくことが重要である。
賃料改定幅を「交渉の結果」として後付けで決めようとすると、現場では感情的なやり取りになりやすく、ややもすると、交渉の主導権を失い、落としどこを見失い易い。
実務的には、あらかじめ次の3つのラインを設定しておくと整理しやすい。
- 希望ライン(ターゲット):+3〜5%程度
理想的な改定幅。市場水準との乖離を一定程度縮める水準。
- 許容ライン(妥協値):+1〜2%程度
コスト上昇分を吸収でき、かつテナントが受け入れやすい範囲。
- 防衛ライン(据え置き):0%
関係性維持を優先し、収益よりも安定を重視するケース。
この3段階を持つことで、
「どの条件までなら調整できるか」をオーナー・管理会社側で共有できる。
結果として、交渉の基準が感覚ではなく制度に変わる。
さらに、単年度の値上げだけでなく、
「今回は据え置き、次回更新時に+2%」という時間差の設計も有効だ。
テナントにとっての負担感を抑えつつ、将来的な補正の余地を残せる。
賃料の改定幅は金額だけでなく、“期間を含めた調整幅”として設計するのが現実的である。
(3)賃料改定交渉の進め方──“共有”を起点にする
賃料改定交渉は、駆け引きではなく“共有のプロセス”である。
テナントにとって、突然の値上げは納得の余地を失わせる。
交渉をスムーズに進める最大のポイントは、時間的な予告だ。
①事前の予告と段取り
更新の半年前には、「更新に際して改定のご相談をさせていただく可能性がある」と伝える。
この一言があるだけで、テナントの心理的ハードルは大きく下がる。
準備の余地が生まれ、話し合いの場が“交渉”ではなく“確認”になる。
②書面と口頭のバランス
改定内容は書面で正式提示するが、初動は口頭での説明が望ましい。
「数字の前に意図を伝える」ことで、交渉は防衛的なものにならず、
共通の現実認識をもって臨むことができる。
③賃料据置きも、戦略的な選択肢
長期入居のテナントに対しては、妥当な賃料水準が設定されているという前提があれば、賃料据置き=更新リスクの回避という見方もできる。
退去後の空室リスク、再募集コスト、原状回復とのタイムロス──
これらを金額換算すれば、「据え置き」は十分合理的な経営判断である。
更新率の高さは、安定収益そのものであり、
安定を維持することが結果的に最も高い利回りを生む場合もある。
(4)結論:改定交渉は、価格の調整ではなく、時間の整合である
賃料改定交渉の本質は、価格の上げ下げではなく、時間の整合を図ることにある。
ビルの維持コストが時間とともに上昇し、
テナントの利用価値が時間とともに変化する。
その二つの時間をどう重ね合わせるか──そこに交渉の本質がある。
賃料改定とは、“数字を動かす交渉”ではなく、
“時間をすり合わせる対話”である。
更新のたびに疲弊する関係をつくらず、むしろ「次もここで働こう」と思わせる更新交渉こそ、築古ビル経営における最大の競争力になる。
第7章:時間をデザインするオーナーが、市場を超える
7-1.「市場を読む」とは、“時間”を読むこと
賃料の判断において、「市場を読む」とは、相場表を見比べて数字を当てはめることではない。
それは、“時間の構造”を読むことである。
どのくらいで決まるか。どのくらいで機会損失が生じるのか。
どのくらいで更新が巡り、設備の寿命がくるか。
市場とは、価格ではなく時間の分布でできている。
そして、その時間を自らの手でデザインできるオーナーは、市場価格の変動の波に振り回されない。
7-2.「安定」と「機会」は、対立しない
オフィス運営を考えるとき、“高く貸すか、長く貸すか”という二項対立は、もはや古い。求められるのは、その二つを両立させる時間の編集力だ。
更新リスクを抑えながら、空室リードタイムを短縮する。
一見、相反するように見えても、時間の層を正確に設計すれば、両立は可能になる。
高く貸す局面では、時間を“攻めて使う”。
長く貸す局面では、時間を“守って積む”。
この二つを自在に切り替えることが、運用の柔軟性であり、
「市場を外から読む力」ではなく「市場とともに生きる力」へとつながる。
7-3.“築古”とは、時間を蓄積しているということ
築古の賃貸オフィスビルは、経年劣化した建物ではない。
時間を蓄積した建物である。
立地の成熟、テナント層の安定、建物構造の信頼性。
それらは、時間を経なければ手に入らない資産だ。
「古さ」をマイナスではなく、安定の記録として再定義できるかどうか。
建物の改修も賃料の改定も、その延長線上にある。
時間を敵ではなく味方にする。
それが、“築古の賃貸オフィスビルを再定義し再生産する”という経営の新しいかたちである。
7-4.“回す力”が、経営力の本質になる
これからの賃貸オフィス市場では、大手のデベロッパーであればいざ知らず、新規開発よりも既存不動産を回す力が問われる。
賃料をどう上げるかより、時間をどうつなぐか。
- 空室を短く回す
- 更新を長くつなぐ
- 賃料改定を滑らかに合意を取り付ける
- 改修のタイミングを見極める
これらすべてが、“時間の設計”という一点に収束する。
市場が動いても、建物が古くなっていっても、時間の流れを味方につけられるオーナーは、市場の波を越えていく。
7-5.結語:いくらで貸したかではなく、どう回したか
賃料とは、価格の話ではなく、時間の翻訳である。
「いくらで貸したか」ではなく、「どのように回したか」。
その問い方こそが、これからの賃貸オフィス経営の中核になる。
希少ストックの時代において、建物の価値を決めるのは建築物としてのビルのスペックでも、マーケッティング上のブランドでもなく、時間に対する解像度の高さである。
市場を読むオーナーは、価格を追う。
時間をデザインするオーナーは、市場を超える。
築古の賃貸オフィスを、
「古い資産」から「時間を生かす装置」へ。
その転換こそが、
東京の賃貸オフィス市場という成熟した市場で、まだ勝てる経営のかたちである。
執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁
東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。
2026年2月3日執筆