原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質
皆さん、こんにちは。
株式会社スペースライブラリの飯野です。
この記事は「原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質」のタイトルで、2025年12月22日に執筆しています。
少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
はじめに
原状回復工事は、舞台のバラシに似ている――そんな言葉を聞いたことがあります。舞台が終わり、観客が去ったあと、照明が落ちた空間で、誰にも注目されないまま、解体と撤収が静かに進んでいく。
原状回復工事もまた、テナントの退去にともない、さして記憶にも残らない工程として、淡々と実施されていきます。
テナントの退去は、ある日突然決まるものではありません。
オフィス移転の意思決定には、その会社の将来的な事業戦略、組織再編、予算方針といった中長期的なテーマが絡みます。
実際、多くの企業では、解約通知の6か月前よりもさらに前から、
・今の賃料や条件が見合っているか
・会社の今後はどうなっていくのか、オフィスの面積を拡大・縮小すべきか
・リモートワークや再編成の影響にどう対応するか
といった議論が、水面下でスタートしています。
この段階では、契約更新の条件交渉や解約の可能性を含めた複数の選択肢が検討されており、まだテナント側の意思が確定していないことも少なくありません。
そしてある時、テナントから「解約通知」が正式に届きます。
ここから先は一転して、定められた工程に沿って退去対応がスタートします。
原状回復工事の範囲は契約条項で明示されており、多くの場合、オーナー側が主導して、実務的にはビル管理会社が差配して、工事を手配し、テナントの保証金で精算を行う仕組みなので、揉める要素はほとんどなく、粛々と処理が進んでいきます。
ただ、そこには時折、ほんのわずかな温度差のようなものが残ります。
「払いますけど……高い気がしますね」
「まあ、仕方ないです。すでに移転先のこと考えてるんで」
誰も声を荒げることはありませんし、トラブルにもなりません。
それでも、ごくまれにそうした言葉が交わされることがあります。
仕組みは整い、運用は安定している。工事もきちんと実施され、請求も適正に処理されている。
それでも、なぜ原状回復工事は「高く感じられやすい仕事」になっているのでしょうか。
本コラムでは、原状回復工事という業務が担う静かな仕上げのプロセスを、仕組み、運用、そして心理の観点から整理しながら、「問題は起きていないのに、すこしだけ納得されにくい」という構造を、様々な視点から読み解いてみたいと思います。
第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由
1-1.まず土俵をそろえる──原状回復工事は契約で決まる
賃貸オフィスビルにおける原状回復工事の取り扱いについては、業界標準の契約書ひな形(日本ビルヂング協会連合会)が存在し、実務上も広く参照されています。そこでは、以下のように、工事の主体や費用負担、範囲、精算方法などが体系的に整理されています。
・工事主体:オーナーの指定業者(通常はビル管理会社が差配)
・費用負担:テナント(借主)負担。
・原状回復工事の範囲:テナントが設置した造作・設備・備品の撤去、汚損・損傷箇所の修復、壁・天井・床仕上材の塗装・貼替え等が明示されている。
・精算方法:テナント(借主)が差し入れた敷金により精算され、不足があれば追加請求される。
このように、退去にあたっての原状回復工事の範囲や進め方、そして費用の精算方法は、賃貸借契約書の段階で明確に定められており、「退去確定後に原状回復工事を巡って揉めることは稀」というのが、現代の賃貸オフィスビル市場における実務の標準です。
日本ビルヂング協会連合会の発表しているオフィスビル標準賃貸借契約
第8条(敷金)
敷金の額は、契約要項記載のとおりとし、乙は、契約締結と同時に、甲に預託するものとする。
(中略)
6.本契約が終了したときは、乙が本契約に基づく原状回復工事義務を履行し本物件の明渡しを完了した後、乙の甲に対する本契約に基づく債務その他の一切の債務に充当した後の敷金の残額を、甲は乙に返還するものとする。
第24条(明渡し)
賃貸借期間の満了、解約、解除その他の事由により、本契約が終了したときは、乙は、次の各号の定めるところにより、本物件を明渡すものとする。
一.乙は、乙の費用により新設又は付加した諸造作、設備等及び乙所有の備品等を乙の費用負担により撤去するとともに、乙による本物件の変更箇所及び汚損、損傷箇所を修復し、壁・天井・床仕上材の塗装、貼替を行った上で本物件を引渡当初の原状に復して甲に明渡す。
二.前号の原状回復工事は、甲又は甲の指定する者が実施し、その費用は乙が負担する。
1-2.工事費用が継続的に上昇傾向──データで読む10年曲線
ただし、前項で説明した整理が行われているにもかかわらず、近年、実務現場では「原状回復工事費が高い」という不満が感じられるケースが目立つようになっています。その最大の要因は、工事費用の上昇です。
建設物価調査会が公表している「内装仕上げ工事費指数」によれば、2015年から2025年にかけて、この指数は約35%上昇しています。つまり、同じような内容の内装工事であっても、10年前と比べて3割以上の費用増が生じているということです。
この背景には、複数の要因が重なっています。第一に、資材価格の高騰です。石膏ボードや合板、軽量形鋼といった内装の基礎資材は、円安や国産材の供給減などの影響を受けて、過去10年で2~4割の値上げが続いています。第二に、人件費の上昇です。職人の高齢化と新規入職者の不足により、内装仕上げに従事する技能労働者は慢性的に不足し、その結果として、実勢賃金は約20~25%上昇しています。第三に、短納期対応によるコスト増です。オフィス移転のスケジュールが年々タイトになっており、工期が4~5週間と短縮されるなかで、夜間や週末の工事、追加人員の投入が必要となり、これがコストを押し上げる要因となっています。
仕上げ工事費指数(建設物価調査会)は2015→2025で+35%
1-3.保証金漸減──原状回復工事費用が精算しきれない
こうした工事費用の上昇と並行して、もう一つ大きな構造変化が起きています。それが、テナントが差し入れる保証金(敷金)の水準の低下です。
かつて、オフィスビルの契約における保証金は「家賃6か月分」が一般的な相場とされていました。しかし足元では、4~5か月が実務上の平均に近づいており、家賃3か月+償却費1か月負担といった条件も珍しくなくなってきています。
この背景には、2020年から2022年にかけてのコロナ禍による空室率の急上昇があります。ビルオーナー側は空室を埋めるため、初期コストを抑えた条件提示を行い、保証金の水準を引き下げました。一方で、テナント側にも資金効率や会計上の観点から、保証金額の圧縮を求めるニーズが強く、両者の思惑が一致するかたちで、保証金の慣行水準は切り下がってきたのです。
そして、原状回復工事費用が上昇する一方で、保証金が縮小すれば、当然ながら、敷金で全額を精算できないケースが増えてきます。追加請求は、いまや例外ではなく、むしろ日常的な対応となりつつあります。
1-4.退去テナントの総務もヒマじゃない──入居対応で手一杯
さらに近年、テナントの移転業務を担う総務部門の意識にも変化が見られます。CBREが実施した「JapanOfficeOccupierSurvey」によれば、「移転時に最も時間を割くタスク」として、
・2017年:入居対応58%/原状回復工事42%
・2024年:入居対応6%/原状回復工事19%
というように、明らかに原状回復工事への関心・工数投入が減ってきています。
背景としては、新しいオフィスでの勤務環境が高度化していることが挙げられます。ABW(アクティビティ・ベースド・ワーキング)やハイブリッド勤務への対応、ICTインフラ整備、ウェルビーイング配慮設計など、入居時に調整すべき要素が急増しています。結果として、総務は情シス、HR、ESG、BCPなど社内外の多様な関係者と連携しながら入居工事を進めることになり、その対応に追われています。
一方、原状回復工事は契約上の義務として「オーナー指定業者が行う」「費用は借主が負担」と定型化されており、スケジュールや仕様について交渉や判断を求められる場面がほとんどありません。そのため、退去テナントから見ると、原状回復工事は「金額だけ確認して終わる」性格のタスクとして扱われがちです。
こうした制度的な枠組みやコスト構造の変化を踏まえた上で、次章では、実際に現場でどのように原状回復工事が進められているのか、その段取りの中身に目を向けてみたいと思います。
第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ
原状回復工事について、退去テナントがちょっと高いかなって感じられることがあったとしても、実際の現場でトラブルに発展することはほとんどありません。
原状回復工事は、賃貸借契約に定められた基本的な権利・義務関係を土台にしつつ、社内ルールや業者対応の標準手順を通じて、工程全体が安定的に運用されています。
つまり、「契約が枠を決め、ルールが運び方を整え、工程がそれを実行する」という構造がきちんと組まれているからこそ、原状回復は揉めないようになっているのです。
本章では、原状回復工事がどのようにして“揉めない”“滞らない”、そして、“記憶に残らない”ほど自然に運用されているのか──その舞台裏を、工程・判断・対応の流れに沿って整理していきます。
解約通知から退去、工事の完了、そして請求まで――一連の段取りが確実に積み重ねていくからこそ、現場には混乱がなく、退去したテナントの後、次の入居テナントを迎える準備へと自然につながっていくのです。
2-1.解約通知から段取りは始まっている
賃貸借契約においては、退去の6か月前までに解約の通知を行うことが原則として定められています。この通知が届いた段階で、ビル側の原状回復に向けた準備はすぐに動き出します。
まず管理状態を把握し、原状回復工事の対象範囲を正確に整理するためのプロセスです。貸室を標準仕様に戻すためには、どの部分にどれだけの工事が必要かを明確にする必要があり、そのための前提となる調査です。
当社は、現地確認を実施します。これは、入居時およびそれ以降にテナントが実施した工事の履歴をもとに、現在の内装や設備の状況を確認した上で工事項目を洗い出し、工事ボリュームを把握しておくことは、正確な見積作成のためにも不可欠な工程です。適切な初動をとることで、退去までの限られた時間の中でも、工程を滞りなく進めることが可能になります。
2-2.“壊す”のではなく“整える”ための工事
原状回復工事とは、単に「造作を壊して元に戻す」作業ではありません。その本質は、貸室を次のテナント募集や内見に耐えうる状態へと整えることにあります。あえて言えば、「使われた痕跡をきちんと整える」ことに近い仕事です。
原状回復工事の主な内容は、以下のとおりです。
・壁クロスの貼替え
・床カーペットの張替え
・天井の塗装(破損がある場合はボードの貼替えも含む)
・ブラインドボックスや鉄部の塗装補修
・専用部の二次配線(電気・LAN・電話線等)の撤去
・機械警備カードの更新・鍵の撤去
・火災報知器の撤去
・照明管球の交換
・照明器具、空調設備、サッシ・ガラスの清掃、およびテナント持込備品の廃棄処分
これらのうち、壁クロス・床カーペットの貼替え、天井仕上げの補修などは、どの退去案件でも必ず実施される工事です。
そこに加えて、テナントが独自に手を加えた箇所や、現場確認の際に見つかった破損・劣化の状況をもとに、追加で必要な補修項目の有無を判断し、最終的な工事内容とボリュームが確定されます。
なお、空調や照明器具の更新工事は原則として原状回復の対象外ですが、照明のLED化などを同時に行うケースもあります。その場合は、原状回復に合わせて実施する貸主都合の更新工事として扱われます。
いずれにしても、最終的に目指すべき状態は、「不要なものが一切残っておらず、使われた痕跡を感じさせない空間」。それが、原状回復工事における完成形です。
2-3.テナントの独自造作も、定められた手順に従って粛々と処理される
退去するテナントが会議室や間仕切りなどの独自造作を施していた場合、原則としてそれらは原状回復工事において撤去対象となります。
ただし、次のテナント募集時に会議室や間仕切りといった造作が一般的に利用価値が高く、次テナントの募集条件の魅力度を上げられると判断された場合には、造作を残置・引き継ぐこともあります。
もっとも、こうした判断が現場ごとにアドホックに行われているわけではありません。実務の運用としては、あらかじめ定められた契約条項と社内ルールに則って、整然かつ一貫性のある形で処理されています。
たとえば、テナントとの契約書には、「貸室内又は本建物内に借主の費用をもって設置した諸造作・設備等の買取りを貸主に請求できない」と明記されています。また、残置された備品等の取扱いも含めて、それらの最終的な処分判断はすべてオーナー側・管理会社側の裁量に基づいて行われることが前提となっています。
仮に一部の造作を残す場合であっても、それらは明確に「原状回復工事の対象外」として整理され、他の工事対象と混同されることはありません。こうした線引きは、現地確認の初期段階において明確に定められるため、工事工程の中で現場が混乱するようなことはほとんど発生しません。
住宅における原状回復では、借主が設置した造作に関して「造作買取請求権」(借地借家法第33条)の適用可否をめぐり、判断が分かれることも多く、グレーゾーンになりがちな領域です。
しかし、賃貸オフィスビルにおいては、この点も含めて契約上の取り決めや運用ルールが明確に整備されており、実務ではトラブルの火種にならないよう、あらかじめ制御されています。
2-4.トラブルのない原状回復工事には、理由がある
賃貸オフィスビルにおける原状回復工事は、テナントとの間でトラブルになることが非常に少ない領域です。
それは偶然ではなく、契約条件の明確さと、実務フローがしっかり整備されていて、計画的に運用されていることによるものです。
たとえば、実務上の典型的な進行フローは以下のとおりです。
・解約通知を受けたら、すぐに現地確認を実施
→工事対象範囲や造作の有無を確認し、契約内容と照合する
・遅くとも退去の3か月前までに工事見積を提示
→テナントが工事内容を確認し、保証金での精算の想定も可能になる
・原状回復工事は、退去の約1.5か月前から着工
→通常業務に支障が出ないよう、スケジュールを調整
・工期はおおよそ1か月程度を想定
→見積時点で工期も明示され、工程に余裕を持たせてある
・すべての工事は「入居期間内」に完了することが契約条項に明記されている
→工事遅延による賃料発生や、明渡し遅延リスクを未然に排除
このように、解約通知から明渡しまでの間に何を・いつまでに・誰が・どのように行うかが契約と実務の両面で明文化・定型化されているため、不要なやりとりや感情的な齟齬が起きる余地はごく限られています。
原状回復工事というのは、「目立たないが正確な仕事」の代表格とも言える分野です。
だからこそ、現場では特別に目立つこともなく、静かに淡々と進められるわけですが、その背後には、積み上げられた実務の知見と、精緻な段取り設計があります。
関係者から信頼を得ているのは、こうした整っている実務の蓄積があるからにほかなりません。
第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる
原状回復工事は、契約に基づいた枠組みのなか、手順も定型化されている業務であり、工程や費用もあらかじめ整理された仕組みの中で進行します。
工事内容は一定の基準に照らして判断され、過去事例も踏まえて、施工業者の見積に基づいて、退去テナント向けの見積が作成されるため、費用設定においても大きな逸脱は起きません。
それにもかかわらず、退去テナントからは時折こんな声が漏れることがあります。
「……ちょっと高かった気もしますけど、もう済んだことですしね。」
工事の内容に誤りはなく、費用も契約に基づいた正当なもの。それでも、「納得できない」というほどではないものの、「少し引っかかる」といった微妙な価格印象のズレが生じることは、決して珍しいことではありません。
この章では、そうした印象のズレがなぜ起こるのかを、「契約」や「請求根拠」といった形式論に留まらず、テナントとオーナーそれぞれの立場や時間感覚の違いに注目しながら、整理していきます。
3-1.退去時に見ているものが違う
テナントが退去を決断する背景には、事業拡大、レイアウト変更、本社移転など、前向きな戦略判断があることが多く、退去は未来志向の変化として位置づけられます。
退去が近づくと、退去テナントの総務や移転担当者は、新拠点での内装工事やICT移設、什器の発注、社内周知など、膨大な実務タスクに追われていきます。その中で、旧オフィスの原状回復はもう終わる場所としての扱いになり、どうしても優先順位が下がりがちです。
一方で、オーナーや管理会社にとって退去は「次の募集開始に向けたスタート」です。通知を受けた時点から現地確認、見積、工事手配、空室期間の調整など、逆算思考で業務が動き出します。原状回復工事もその一環として、滞りなく遂行されなければなりません。
つまり、テナントは次を見る、オーナーは現場に戻すというように、目を向けている方向がそもそも違うのです。この視点の違いこそが、原状回復費用に対する感覚のズレを生みやすくする最大の要因です。
3-2.コストを「見慣れている」か、「突然向き合うか」
近年、原状回復工事の単価はじわじわと上昇しています。資材価格の高騰、人件費の上昇、工期短縮要請への対応といった要因が複合的に影響しており、これはオーナーやビル管理会社にとっては日常的に把握されている変化です。
しかし、退去テナントが原状回復工事に接するのは、たいてい数年に一度。
テナントの総務担当者が数年前の移転時に把握していた坪単価と、現在の見積金額に差がある場合、その間の値上がり事情を知らないまま突然の値上げと感じてしまうことが多いのです。
つまり、印象のズレは「説明が足りないから」ではなく、退去テナントがそもそも構えていなかったことに起因するケースが大半なのです。
3-3.ズレがあっても、整った仕事は揺るがない
このような印象の違いは、あくまで感覚的なものであり、契約的な正当性や施工品質の評価とは別の次元にあります。
どれだけ丁寧に対応し、見積も透明に提示し、工程を正確に遂行しても、「少し高い気がした」と思われてしまうことはある。それは、説明のミスではなく、当事者の立ち位置の違いが自然と生む、温度差のようなものです。
したがって、無理にその印象を打ち消そうとするよりも、あらかじめそのギャップが存在しうることを前提に、業務の精度と透明性を保ち続けることのほうが、よほど現実的で効果的です。
小結
原状回復工事の費用が「高く感じられる」ことがあるのは、見積ロジックや契約内容の問題ではなく、テナントとオーナーがいつ・何に向き合っているかの違いに由来する、感覚のズレです。
この印象を完全に排除することはできません。しかし、だからこそ、業務そのものを丁寧に、正確に、あらかじめ整えておくことが、最終的に「信頼される現場」となるためのもっとも確かな道筋なのです。
第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度
原状回復工事は、工程としては明確で、運用としても安定しています。
それでも、退去したテナントの印象には、ときおり「ちょっと高かったかもしれない」「もう少し説明がほしかった」といった言葉が残ることがあります。
しかし、そうした印象があったとしても、原状回復工事が大きなトラブルに発展することは、実務上ほとんどありません。むしろ、きちんと完了し、きちんと請求され、何ごともなかったかのように終わっていく――この静けさこそが、この業務の完成されたかたちとも言えるのではないでしょうか。
本章では、原状回復工事がなぜ「揉めないのか」、そして「印象に残らないまま完了していくのか」を、運用実態をもとに読み解いていきます。
4-1.“いつ何をするか”が決まっている
原状回復工事の工程は、賃貸借契約に基づいて、6か月前の解約通知を起点に始まります。
解約通知を受けたビル管理会社は、テナントの窓口であるPM(プロパティマネジメント)とBM(ビルマネジメント)の工事担当が現地を確認し、入居工事および過去のテナント工事の資料と照合しながら、撤去すべき造作や補修箇所、原状回復工事の対象範囲を整理していきます。
当該現地調査の確認内容に基づいて、工事の担当業者に確認を取りながら、退去テナント宛てに見積を作成します。この現地確認作業は、遅くとも退去の3か月前までには完了するようスケジューリングされています。
作成された見積書(明細付き)は、退去テナントに提示されます。
その後、ビル管理会社から退去テナントに対して「工事をいつから開始するか」が通知され、それまでに退去を完了してもらうという段取りになります。
テナントとの賃貸借契約には「契約期間中に原状回復工事を完了すること」が明記されており、工程がこの流れから逸れることはほとんどありません。
ちなみに、原状回復工事の工期はおおむね1か月。通常、退去時期は解約の1.5か月前に設定されます。
こうした流れは物件ごとに若干の差はあるものの、現地調査、見積、業者手配、退去スケジュール設定等、工程の詰め方が毎回同様に組み立てられており、非常に安定した実務運用となっています。
4-2.“確認されないことを前提としているかのように、流れていく”
原状回復工事の見積が退去テナントで細かく確認されることは、実務上ほとんどありません。
これは「説明が足りない」からでも、「透明性がない」からでもありません。
単純に、退去テナント側――とくに総務や移転担当者――が、退去の時期にそこまで手が回らない状況にあるからです。
退去の時期には、新オフィスでの入居工事が佳境を迎えており、ICT環境の整備、電話回線の移設、什器やレイアウトの調整、契約書まわりの最終調整など、目の前の業務に時間も意識も吸い取られています。
原状回復工事の見積書は、退去テナントに届いたらそのまま了承され、工事が粛々と実施されます。
工事完了後の立ち会い確認は省略されることが多く、結果的にそのまま請求フェーズに移行し、処理されていく傾向にあります。
つまり、工程全体が、確認されないまま進んでも滞らない程度によくできているからこそ、安定した運用が成立しているのです。
たとえば次のような実務体制が、それを支えています。
・見積書は、よく見てみると、「主要工事項目・小計・消費税」の3階層構成で整えられており、造作など特異な項目も別立てとなって整備されている
・現地調査と見積作成の流れが定型化されており、工程管理のルールも明確
・着工日・退去日・請求タイミングが、すべて「運用としての流れ」の中に組み込まれている
4-3.印象を変えるのは、説明ではなく結果
原状回復工事に関して、テナントから「少し高い気がした」「内容をよく見られなかった」といった声が出ることはあります。
ただし、そうした印象は、問題がなければすぐに忘れられます。
工事は予定どおり完了し、請求・精算も適正に行われ、現場に混乱は残りません。
そして、完了時に何も言われないこと、見積書や請求書に対して問い合わせが発生しないこと――それこそが、原状回復工事における最大の成果といえるのではないでしょうか。
工事の仕上がりが整い、精算が一発で済み、テナントからの後追いもない。
関係者すべてが、あらかじめ「もう終わったこと」であるかのように前に進んでいく。
そんな状況だからこそ、「ちょっと高かったかもしれない」という一言は、それ以上の意味を持ちません。
原状回復工事という仕事の価値は、きちんとやっていることを、粛々と積み上げていくことで伝わっていくものだと思います。
第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果”
原状回復工事は、内装デザインや演出性を伴う入居工事とは異なり、テナントの記憶に強く残るような場面があまりありません。
退去が完了し、請求が済み、話題にもならないまま静かに終わっていく――そんな「印象に残らない仕事」として位置づけられることが少なくありません。
しかし、その印象に残らないという事実こそ、トラブルが起きず、工程も崩れず、業務が正しく仕上がった証でもあります。
この章では、原状回復工事という業務が持つ「目立たないが確かな価値」について、あらためて見つめ直してみたいと思います。
5-1.“何も起きなかった”という完成度
原状回復工事に関して、退去したテナントから問い合わせや指摘を受けることは、実際にはほとんどありません。
それは、説明の巧拙によるものではなく、そもそも問い合わせを要するような問題が生じていないからです。
工事内容は現地確認に基づいて整理され、見積書として提示されます。
着工日も事前に案内され、スケジュールに沿って淡々と進行。完了後に特別な立ち会いや追加連絡がなくても、予定どおりに工事が終わり、請求が精算されていく。
こうした一連の流れが滞りなく完了しているという事実こそが、業務の完成度を何より雄弁に物語っています。
つまり、原状回復工事における「理想的な成果」とは、何も問題が起きなかったという状態そのものなのです。
5-2.“印象を残さない”という、もうひとつの誠実さ
退去テナントにとって、原状回復工事はすでに「完了していく話」であり、会社としても次のオフィス運用へと意識が向かっています。移転準備に追われる総務担当にとって、もはや過去の拠点に時間をかける余裕はありません。
こうした状況下で、ビル管理会社側があえて踏み込んだ説明や詳細な対応をすることは、退去テナントも特段求めていません。むしろ、工程どおりの着実な進行と淡々とした精算処理が、自然な納得感を生んでいるのです。
「細かくは覚えていないけれど、請求はきちんとしていた」
「特に話題にはならなかったけど、何も問題なかった」
そうした記憶に残らない納得のかたちは、不満ではなく、成熟した対応への無言の肯定と言えるのではないでしょうか。
5-3.“淡々と、正確に”が積み上げるもの
原状回復工事という業務を下支えしているのは、派手な演出や目立つ成果ではなく、段取りと精度の蓄積です。
以下のような一連の流れが、抜けなく、乱れなく実行されることが、信頼の基盤をつくっています。
・解約通知を起点とした逆算型の工事スケジュール
・現地調査に基づいた明確な工事項目と見積書の提示
・ビル管理会社による施工調整と連絡の継続性
・工期の遵守と、期日までに完了する精算処理
これらすべてが、「揉めない」「引きずらない」「残らない」退去処理を支えており、退去テナントから特に感謝されることはなくとも、“信頼の空白が残らない”という状態を静かに実現しています。
目立たなくても、確かに仕事はなされている。
その「静かな信頼の積み重ね」こそが、原状回復工事という業務が持つ本質的な価値ではないでしょうか。
終章のことば
本コラムの冒頭で、原状回復工事を「舞台のバラシ」にたとえました。
演者が去り、客席が静まり、舞台が何も語らないままリセットされていく――。
誰も見ていないようでいて、確かに価値が残されていく、そんな仕事です。
原状回復工事とは、記憶には残らないけれど、間違いなく信頼を残していく仕上げの仕事。
この静けさの中にこそ、賃貸オフィスビルの運営における、真のプロフェッショナリズムが宿っているのかもしれません。
執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁
東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。
2025年12月22日執筆