皆さん、こんにちは。

株式会社スペースライブラリの飯野です。

この記事は「築古の賃貸オフィスビルにおける“水回りの整え方”再考―どこを、どう整えるか」のタイトルで、2026年1月8日に執筆しています。


少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

はじめに

「内見はトイレで決まる」という言葉を、築古賃貸オフィスビルのビル管理会社の担当者なら一度は耳にしたことがあるだろう。正直に言えば、賃貸オフィスを選ぶ企業がトイレや給湯室といった水回り設備を、なぜそこまで重視するのか、と思った経験もあるのではないだろうか。
しかし、現場の実情は驚くほどシンプルだ。
「立地は申し分ない、坪単価も魅力的、レイアウトも悪くない。でも、水回りがちょっと…」
築30年以上の賃貸オフィスビルを案内するリーシング営業担当者から、このような声が後を絶たない。
内見に来た企業の担当者が眉をひそめる瞬間を見逃さず、その後の意思決定に大きな影響を与えているのが「水回りの第一印象」なのである。

オーナーにとって水回りは、どちらかと言えばコストや手間ばかりが目につく箇所という印象だ。老朽化した便器、独特の空気感、薄暗く古びた給湯室……日常的な清掃の手間や、突発的な不具合対応の煩雑さに、頭を悩ませることも少なくない。

だが、こうした「なんとなくどんよりした」水回り空間は、内見者にとってもまた、ビル全体の印象を静かに下げる要因となっている。そしてその場面で、多くの内見者が無意識に求めているのは、派手な演出や高級感ではない。

重要なのは、視覚的・感覚的に、瞬時に不快感がないと判断できる状態――つまり「機能的清潔感」である。

空間の用途に対して、無理のないかたちで整備されていて、使うことに何のストレスもない。そのように整えるだけで、水回りは印象を下げない空間として機能する。


本コラムでは、築古の賃貸オフィスビルにおける水回り――とりわけ、トイレと給湯室に焦点をあてる。単なる老朽化設備としてではなく、整え方そのものがビルの信頼性を左右する空間として捉え直し、実務の視点から考える。

以下の観点を通して、水回り整備の本質に迫っていく

  • なぜ、今あらためて水回りが問われるのか?
  • 単なるリフォームの検討で見落とされがちな、整備と対応体制の設計とは?
  • 「どこを、どこまで整えるか」を判断する基準は、どう持つべきか?

テナントにとって、水回りは日常的に使われる場所でありながら、最もの状態があらわれる空間でもある。整っていて当然と思われている空間がゆえに、ほんの少し乱れているだけで、「このビル、大丈夫かな」という印象に変わってしまう。

逆に言えば、派手な演出ではなく、考え抜かれた整え方ができているかどうか――そこにこそ、築古の賃貸オフィスビルの実力がにじみ出る。

設備を入れ替えるかどうかよりも、その整備方針をどう考え、どう現場に落とし込んでいるか。

「水回りで決まる」とは、そうした実務の積み重ねと正面から向き合うことなのかもしれない。

このコラムでは、その具体的な視点と整備の考え方を、整理していく。

第1章:水回り設備が築古の賃貸オフィスビルの意思決定を左右する理由

「立地・坪単価・広さ」だけでは決まらない

築古の賃貸オフィスビルのオーナーにとって、テナントに選ばれるか否かは死活問題だ。そのため、多くの場合、オーナーは立地条件や坪単価の競争力、または内装の見栄えといったポイントに注力しがちである。実際、マーケットにおいてこれらが重要なファクターであることに異論を唱える人はほとんどいないだろう。
しかし、実務的には「条件はすべてクリアしているはずなのに、なぜか決まらない」というケースが少なくない。その際、営業担当者や管理会社が現場で頻繁に遭遇する落とし穴が、水回りである。特にトイレと給湯室は、物件内見時のわずか数秒でテナントの判断を左右してしまう。

内見担当者が水回りに「過敏な反応」を示す理由

では、なぜテナント企業の担当者は、わずかな内見時間でそれほどまでに水回りの印象を重視するのだろうか?その理由は心理学的・行動経済学的な視点からも説明できる。
人間は本能的に、衛生面での嫌悪感を強く持っている。清潔さや衛生状態に関する直感は、生存本能に根ざした深い心理的反応であり、ロジカルな意思決定よりもはるかに瞬間的かつ感情的なレベルで行われてしまうのである。
トイレや給湯室のくすんで、古ぼけた感じが与える直感的な嫌悪感は、その後に見る部屋や設備がいかに優れていても、簡単には払拭できない負の印象を生んでしまう。内見後に意思決定プロセスが進むにつれて、担当者の頭の中には「トイレが古い・キレイではない」という負のイメージが無意識に残り続ける。
つまり、築古の賃貸オフィスビルの内見では、水回りの印象が決定的な影響を与える瞬間が存在するのである。

意思決定プロセスにおける「瞬間的判断」の力

テナント企業が物件を選ぶプロセスは、必ずしも論理的かつ合理的な判断だけで成り立つわけではない。むしろ、「直感的判断(First Impression)」によって方向性がある程度固まり、その後、合理的にその判断を補強する情報を探す、というプロセスで決定される場合が多い。
実際のテナント意思決定においても、内見後の社内会議などで物件評価が行われる際、「何となくトイレがキレイではなかった」という理由は明確なマイナス材料となり、後に「管理体制が不安」「社員の不満につながる」などの合理的理由付けがされるケースが多い。
これは行動経済学で言うところの「後知恵バイアス(Hindsight Bias)」とも関連している。人間は直感的に嫌悪感を感じた後、その感覚を正当化するために論理的な理由を後付けする傾向がある。水回りのネガティブな印象は、こうした心理的バイアスによって簡単に強化され、意思決定を覆すほどの力を持ってしまうのである。

築古の賃貸オフィスビルが抱える水回りの構造的課題

築古の賃貸オフィスビルにおいて、内見時の印象形成で最も弱さが出やすいのが水回りだ。築年数を重ねるにつれて、配管設備の老朽化、給排水性能の低下、防水処理の劣化、そして湿気による影響など、構造的な問題が次々と表面化してくる。
多くのオーナー/管理会社は、表面的なリフォームで対応しようとするが、大抵の場合、これらの問題は表面的な対処法では解決しない。築古の賃貸オフィスビルにおいて効果をもたらす水回りの改善とは、「瞬間的に感じられる清潔感」=「機能的清潔感」を追求することである。

「機能的清潔感」という視点の導入

築古の賃貸オフィスビルの水回りをどう整えるか――これは、表面的なキレイさを演出することとは少し違う。
本コラムで扱う「機能的清潔感」とは、テナントにとって「使ううえで不安や嫌悪を感じない状態」を、過度な投資を伴わずに実現する整備のあり方である。
便器やシンクの形状が多少古くても、床や排水口まわりが適切に清掃され、違和感なく使える状態に保たれていれば、内見者はそこで判断を止めてくれる。
逆に、見た目を取り繕っても、日常的な清掃・管理が甘ければ、「このビルは大丈夫だろうか?」という不信感につながってしまう。

水回りがきちんと整っていると、それだけで信頼感が生まれる。

つまり、「この空間はきちんと扱われている」という印象が、無意識のうちに伝わってくるからだ。そして、人は目に見える部分が整っていれば、見えない部分もきちんと管理されているはずだと感じるものだから。

今後の章では、そうした「機能的清潔感」をどう実務に落とし込むか――その際、どこまでをやるべきで、どこからはやらなくてよいのか。

現場感のある判断のヒントを、できるだけ具体的に整理していく。

第2章:「機能的清潔感」とは何か―表層的なリフォームからの脱却

「キレイに見せる」と「清潔感」は違う

築古の賃貸オフィスビルのオーナー/管理会社が陥りがちな失敗の典型が、表面的な装飾や部分的な見た目のリフォームだけで内見評価を改善しようとすることだ。
例えば、古いトイレの壁紙を明るい色に変えたり、手洗い周りにデザイン性の高い照明やアートパネルを設置したりするなどの方法がよく見られる。確かに、内見時の第一印象としては一見「オシャレ」「キレイ」という評価を得る場合もあるかもしれない。
しかし、こうした改善策の多くは、内見後の意思決定を好転させることにはつながりにくい。テナント企業が重視する「清潔感」とは、整えた美観にではなく、「日常的に問題なく使えるという安心感」と共にあって、毎日の「適切な維持管理」によって保たれるものだからだ。
見た目だけ整えても、日々の清掃や、トラブル時の迅速な対応力がなければ、テナント側はそのことを敏感に感じ取り、逆に「作られた清潔感」に違和感を覚えるようになる。

表層的な改善が心理的に逆効果となる理由

実務的に重要なのは、内見時の第一印象が持続する「深い納得感」を持っていることだ。人間の認知プロセスは、初見の印象が後の評価を強く方向付ける傾向にあるが、同時に「本質的でない装飾」には非常に敏感である。
心理学において「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」と呼ばれる状態がある。これは、見た目の印象(キレイ)と実際の状態(古い・使いづらい)にギャップがある場合、そのギャップ自体が不快感を増幅させるという現象である。
トイレや給湯室において表面的な改善を施しても、日常清掃や管理体制がおざなりになっていると、この「認知的不協和」が生じ、内見時にマイナスの心理状態をかえって増幅させてしまうリスクが高まるのだ。

「機能的清潔感」という視点の重要性

このコラムで提唱する「機能的清潔感」とは、「日常的な維持管理によって自然に保たれる、実務的かつ現実的な清潔感」のことを指す。
それは、表面的な外観を取り繕うことで生まれるものではなく、実務的に言えば、以下のような「管理やメンテナンスがしやすい状態」をつくることを意味している。

  • ・日常的に問題が起こらないよう、清掃、管理が行き届いている
  • ・トラブルが発生した場合でも、迅速かつスムーズな対応ができる体制が整備されている



このように、「機能的清潔感」とは単に表面的にキレイに見せることではなく、日々の清掃、管理とトラブル対応の仕組みまで含めて整備された状態を指すのである。

第3章:築古ビルの水回りは「対応力」で決まる―トイレと給湯室の実務評価軸

「古い=汚い」と思われないために必要なこと

築古の賃貸オフィスビルでは、水回り、とりわけトイレに対する内見者の目は厳しい。一方で、給湯室はあまり目立たない存在ではあるが、「日常的に使われる場所」として、整っていて当然とみなされやすい。

つまり、見られ方に違いはあっても、いずれも同じ基準で判断されている。

きちんと清掃されているか、そしてトラブル時にすぐ対応できる体制があるか。

水回りの評価を左右するのは、この管理の姿勢に尽きる。

本章では、築古の賃貸オフィスビルにおける水回りの評価を大きく左右する実務的な対応力について、具体的な視点で整理していく。

①清掃体制が整っていれば、水回りは嫌われない

内見時に、もし万が一、水回りで「臭いが気になった」「床が汚れていた」と感じたとしたら、後から、なにをしたとしても、その印象を拭うことは難しい。だが、適切な清掃体制と頻度が確保されていれば、そもそも問題は起こり得ない。
実務的な現場感覚から言えば、トイレや給湯室の不具合の多くは、清掃不足に起因する。
築年数が半世紀を過ぎた飲食雑居ビルじゃあるまいし、排水トラップが正常に機能していれば、下水の臭いが逆流することはまずない。施設面の不備で臭いが問題になることはあり得ない。
トイレの便器や床、洗面周り、給湯室のシンクの汚れ・水アカが目につくとしたら、100%、日常清掃の不徹底を意味するだけである。
したがって、「古いから清潔に見えない」のではなく、「清掃が足りていないから不潔に見える」という認識が重要だ。

実務ポイント

  • ・日次・週次での清掃範囲と手順の明確化(壁・床・便器・シンクまわり等)
  • ・清掃チェックリストの導入と巡回点検の仕組み化
  • ・内見前のスポット清掃(最低でも床・手洗い・便器・シンク周辺)

②詰まり・水漏れ等のトラブルへの即応体制が信頼につながる

築古の賃貸オフィスビルでの水回りトラブルのあるあるが、トイレの詰まりと、給湯室を含む水漏れだ。どちらも「いつか起きるもの」として、起きた際にいかにスムーズに対応できるかが、テナント満足度に直結する。

トイレの詰まりの実態

詰まりの原因は、便器の問題ではなく、配管内部に長年蓄積した尿石などによる通水断面の狭まりが多い。とくに築古の賃貸オフィスビルでは、配管自体の経年劣化も相まって、詰まりやすい傾向がある。

対応としては、次のような段階的対応が現場では一般的だ:

  1. 一次対応:ビル管理会社の社員が、ラバーカップ(すっぽん)で解消できるかを確認
  2. 二次対応:業者を手配し、薬剤やトーラー(ワイヤー)での貫通作業。更に、対応をエスカレートする必要がある場合のみ、高圧洗浄を実施

便器を交換したとしても、配管がそのままなら再発は避けられない。詰まり対策は日常管理+トラブル即応体制の整備が基本である。


水漏れトラブルへの備え

水漏れの主因は、トイレ、給湯室に共通しているが、配管接続部のパッキン劣化によるもの。数百円~数千円程度の部材交換で対応可能なケースが大半だ。

だが、対応が遅れると下階への漏水など大きな損失に発展するリスクがあるため、初期対応力と業者との連携体制が鍵になる。

実務ポイント:

  • ・ビル管理会社の社員が一次対応(ラバーカップ/止水確認)を担える体制整備
  • ・トラブル発生時の連絡・対応フローを掲示・マニュアル化
  • ・提携業者と「即日対応」の関係性を構築しておく

③設備更新は「印象を変える切り札」として戦略的に使う

便器・洗面台・シンクなど水回りの設備更新、内装素材の更新は、「劇的に印象を変える手段」である。ただし、これは清掃とトラブル対応という管理体制の基盤が整った上で初めて効果を発揮する。

更新の判断基準は、「清掃しても古さの印象が払拭できないか」に尽きる。

古いピンクの便器、黄ばみの取れない洗面台、曇ったままのシンクなど、清掃ではどうしようもない状態のとき、更新=印象刷新という意味で効果を発揮することがありえる。

空室募集の内見での第一印象を重視する場合や、バリューアップの一環として賃料水準を引き上げようとするのであれば、そうした水回りの刷新は象徴的なサインとして効果的である。ただし、そうした設備更新はあくまで最後の一手として冷静に判断するべきである。

✦ミニコラム

オフィスの「水回り」は、共用部でありながら、もっとも“個人的な”場所かもしれない
トイレや給湯室は、あくまで共用部の一部として、ビル側が用意し、管理する空間である。区画ごとに間仕切られた専用部のオフィスとは異なり、それ自体が賃貸契約上でも専用部とは扱いが区別されている。
ところが、そうした制度上の取り扱いとは裏腹に、実際のオフィスで働くテナント従業員にとって、この水回り空間は、 極めて“個人的”な意味を持つ場所なっている。トイレは、業務の緊張から一時的に離れられる、数少ない“孤独な空間”だ。
同僚との会話も、視線のやり取りも、意識しなくて済む。
個室の扉を閉じるあの数分だけは、自分の時間に戻れる。
それが共用部であることなど、日々の使用者にとっては関係ない。
給湯室は、もう少し開かれた、しかしやはりオフィスの “本線”とは少し離れた場所である。
マグカップをすすぐ音、ポットの湯気、漂うコーヒーの香り。
ここでは、たとえば別部署の社員とたまたま会って交わす一言が、業務とは関係のない雑談になったりする。
「ここ、寒いですよね」とか、「あの会議長かったですね」とか。
その会話は、Slackにも議事録にも残らないが、たしかに職場の空気をつくっている。 つまり、給湯室はオフィスの“余白”として、人間関係のバッファを育てている空間とも言える。
こうした水回りの空間性は、オーナー/管理会社側が直接コントロールできるものではない。
だが一方で、その空間が整っているか、整っていないか――それだけで、テナントの従業員が感じる「職場としての快適さ」には差が出てしまう。
「汚れていないこと」「トラブルが起きてもすぐ直ること」は、実務的な信頼の土台だ。
だが、それだけではない。
この空間の持つ“個人的な時間”や“非言語的な関係性”への理解があるかどうかは、実はビルというハードの整備を超えて、ソフトな評価軸として作用しているのかもしれない。
    

第4章:「どこまで整えるべきか」――築古の賃貸オフィスビルの水回り改善における実務的判断軸

「水回りをきれいにすれば、決まるのか?」

築古の賃貸オフィスビルの空室が長期化しているとき、オーナー/管理担当者のあいだでよく話題に上るのが「水回りの刷新」である。

「トイレを新しくすれば印象が変わるのではないか」「給湯室を改装したら空室が埋まるかもしれない」――こうした相談を受ける機会は少なくない。

たしかに、水回りは日常的に使われ、かつ印象に直結する空間だ。そこに手を入れることで反応が変わることもあるだろう。

しかし実際には、「整っていなくても決まる」こともあれば、「整えても決まらない」こともある。

つまり、水回りの整備にはやるべきことやらなくていいことの線引きが必要であり、その判断を誤ると、投下コスト倒れに終わる危険もある。

この章では、築古の賃貸オフィスビルにおける水回り改善について、何をどこまで整えるべきかという判断の順序と軸を整理する。

清掃とトラブル対応こそが「やるべきこと」

水回りに関して、まず確認すべきは「清掃が行き届いているか」「トラブル時の対応が整っているか」である。

この2点は、整備の基本であると同時に、評価の前提条件でもある。

言い換えれば、どれだけ設備が新しくても、清掃が甘ければ意味はなく、対応が遅ければ信頼は得られない。

逆に、多少古くても、「整っている印象」が生まれているならば、更新せずとも十分に評価されうる。

水回りに関しては、この基本動作だけで印象が改善する余地が大いにあることを、まず押さえておくべきだ。

設備更新は「整え方の最後の一手」として冷静に判断する

一方で、設備更新が避けられないケースもたしかに存在する。

清掃しても取れない黄ばみや水垢、明らかに古さが目立つ陶器の色味や金物の劣化など――こうした状況では、「整っている」という評価自体が成立しないこともある。

特に以下のような状態であれば、更新を検討する意味が出てくる:

  • ・ピンクやアイボリーの古い便器・洗面台が視覚的に目を引く
  • ・鏡や流し台がくすみ、どう清掃しても古びた感じが残る
  • ・清掃や補修では印象が改善しないと、現場でも判断されている

こうしたケースでは、設備更新=印象刷新の切り札として機能する可能性がある。

ただしそれも、日常の清掃・点検・対応体制が整っていることを前提とした話であり、それなしに改修だけを行っても、効果は、ほとんど望めない。

「設備更新すれば埋まる」とは限らないという現実

ここで重要なのは、設備更新をしたとしても、テナントが埋まらない物件が現実に存在するという事実だ。

テナントがなかなか決まらない状況に焦ったオーナーが、打開策として水回りに手を入れる――そんな場面は少なくない。

だが、その結果として劇的に反応が変わるかといえば、そうとは限らない。

そもそも、テナントの判断軸は水回りだけにあるわけではない。

更新に踏み切るなら、どこをどう整えるのかという方針を明確にし、戦略的に取り組むべきだ。

設備更新の資金負担と“踏み切るか”の判断材料

以下は、設備更新を検討する際の概算支出額の目安である。
これを参考に、「費用をかけるに見合うだけの判断ができているか」を自問しておくべきだ。
※以下は、当社が手掛けた場合、オフィス用途としては最高級のブランド・イメージを確立せんと改装した場合の目安であり、個別条件によって変動あり。

項目概算費用(税抜)備考
便器の交換(1基)40〜50万円撤去・廃材処分含む
洗面台の交換(1台)30〜40万円特注デザイン仕様
(配管接続・鏡含む場合は上昇)
流し台の交換(給湯室・1台)50〜70万円特注デザイン仕様
(既存撤去・壁面補修あり)
内装改修(床・壁・天井)5〜10万円/坪材質・範囲により変動

このように、「印象を変えるための更新投資」を行うにはそれなりの資金負担を伴う

期待された効果がリーシング等において目に見えて発揮されなかった場合等、これらの投資支出の回収において不確実性を伴うことについては常に留意が必要である。

だからこそ、踏み切るかどうかは、状況を見極め、反応を観察しながら慎重に判断するべき領域である。

まとめ:築古の賃貸オフィスビルの水回り整備は、「順番」を間違えないこと

築古の賃貸オフィスビルにおいて、水回りはたしかにテナントの印象に影響を与える空間だ。

ただし、それは「見映えがいいかどうか」ではなく、清潔に保たれ、日常的にきちんと機能しているかどうか――つまり機能的清潔感によって評価される。


だからこそ、清掃や簡易な補修といった基本的な整備対応が不十分なまま、いきなり設備更新に踏み切っても、本質的な改善にはつながらない。

まずは、今ある人員や管理体制の中で、どこまで整えられるのかを突き詰めるべきだ。


それでもなお、「自分たちの整え方として更新が必要だ」と判断できるかどうか――そこが、次の一手を決める本質である。

設備更新は、印象を上げるための手段ではあっても、それだけが目的ではない。

整える順番を間違えないこと。

そこにこそ、築古の賃貸オフィスビル運営のリアリティと戦略が宿る。

第5章:「整っている」ことの次へ―水回り整備に“判断の軸”はあるか?

「清掃してきちんとしている」だけでは足りない時代に

今どき、築古の賃貸オフィスビルであっても、トイレや給湯室の手入れがまったく手入れされていないような物件はほとんど見られない。

きちんと定期清掃が入り、基本的な日常管理がされていれば、表面的な汚れや破損は一定水準で抑えられている。水回り整備の評価ポイントは、「やってあるかどうか」ではありえなくて、「どう整えているか」という側面へと移ってきている。

ただし、この「どう整えているか」という視点は、単なる清掃のオペレーション・レベルを意味するものではない。

清掃や日常管理に始まり、修繕、さらには設備更新まで含めて、

どこを・どの水準まで整えるのか、そしてどのタイミングで更新に踏み切るのか――

こうした水回り整備に対する考え方や判断の積み重ねが、最終的には物件全体の印象としてテナントに伝わっていく。

大切なのは、いま目の前の水回りが「整っているか」ではなく、「どんな方針で整えているのか」。

その違いが、築古の賃貸オフィスビルにおいて選ばれる理由になる可能性は、たしかに存在している。

「整備の水準」ではなく、「整備の設計思想」が印象を決める

たとえば、トイレの床材が傷んできたときに、それを張り替えるべきか、清掃で様子を見るか。
便器の形状が古くなってきたが、まだ機能的には問題がないとき、更新すべきかどうか。
給湯室の流し台がくすんできたが、使える状態ではある場合、それをどう判断するのか。
こうした場面では、「整っている/いない」という二択では答えが出ない。
大切なのは、それらの判断に一貫した考え方や優先順位があるかどうかである。

  • ・どこにコストをかけ、どこを割り切るのか
  • ・何を維持の対象とし、何を更新の対象とするのか
  • ・整備の方針は、物件全体の印象とどう連動しているのか


こうした設計思想があれば、水回りの整え方は判断の積み重ねとして明確になってくる。

そしてその積み重ねは、テナントの受ける印象にも、静かににじみ出ていく。

整備の判断が「場当たり」になっていないか?

築古の賃貸オフィスビルの水回り整備において最も避けたいのは、方針のない場当たりの対応である。

たとえば

  • ・便器が割れたから、そこだけ最新型に交換
  • ・クレームが出たから、特定の箇所だけ照明をLED化
  • ・担当者が替わったから、内装テイストが急に変わった


個別の判断としてはどれも妥当性があると言えるかもしれない。だが、こうした整備が全体として「何を目指しているのか」が見えない場合、結果として雑然とした印象に流れていくリスクがある。

そして、そうした整え方の不一致整備のちぐはぐさは、テナント側に無意識の違和感として伝わってしまう。

「ちゃんと整えようとしている」感覚が持てない空間に、テナントが従業員を安心して送り込めるはずがない。

整え方に「方針」があるビルは、印象がブレない

整え方に「方針」があるビルは、印象がブレない
評価の高い築古の賃貸オフィスビルでは、水回りの整備ひとつ取っても、運営の中に一貫した方針が感じられる。
たとえば、次のような姿勢が典型的だ。

  • ・設備の交換までは行わないが、清掃と軽微な補修は徹底する
  • ・更新を行う際は、色や素材、意匠を他の空間と調和させる
  • ・派手な演出は避けるが、放置感や使いづらさは決して残さない


こうしたどこまで手を入れるかという線引きが明確に設計されている物件は、内見者や入居者の目にも「印象がブレない」と映る。

そして何より、「このビルは、きちんと考えて運営されている」と感じさせる空気がにじむ。

それは、設備が新しいかどうか、デザインが凝っているかどうかといった表面的な話とは、まったく別の次元の信頼感だ。

まとめ:「整っている」は、あくまで手段である

水回りを整えるという行為は、それ自体が目的ではない。

本来は、テナントに不快感を与えず、安心して使ってもらうための手段である。

だからこそ重要なのは、「何のために整えるのか」を言語化できていること。

そして、その目的に照らして、一つひとつの判断が組み立てられていること――。

これが、「整え方に判断の軸がある状態」だと言える。

整え方に一貫性があるかどうか。

その違いは、最終的に「このビルに入って大丈夫かどうか」という、テナント側の根本的な信頼判断に影響してくる。

つまり、「水回りで勝てるかどうか」とは、単に見た目を整える話ではない。

“整える”という行為に、筋が通っているかどうか――その姿勢そのものが問われている。

執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁

東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。

2026年1月8日執筆

飯野 仁
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はじめに―「なんとなく払っている費用」への違和感管理費、あるいは共益費。その名称がどうであれ、テナントから見れば「家賃とは別に請求される、なんとなく払っている金額」であることに変わりはない。請求書の明細に並ぶ「3,500円/坪」といった数字を、深く追求するテナントは実はそれほど多くない。だが、「なんとなく納得して払っている」だけに、その内訳が曖昧だったり、建物の状態との釣り合いが取れていないと感じられた瞬間、不満や交渉の火種になる。この構造は、実は飲食店における“チャージ料”や“サービス料”と似ている。テーブルにつくだけで数百円を取られたり、接客とは無関係に一定の料率で上乗せされたりする料金――「このサービス料って、何の対価なの?」と感じたことがある方も少なくないだろう。にもかかわらず、私たちは多くの場合、それらを“慣習”として受け入れている「共益費=管理費」もまた、実費とは必ずしも一致せず、説明責任も明確に果たされないまま“相場価格”として提示されるのが現実だ。特に、築30年を超える中小規模の賃貸オフィスビルでは、共用部の設備やサービス水準が最新ビルに比べて見劣りする中で、「この金額は妥当なのか?」という疑問が浮かびやすい。しかし、だからといって、原価に忠実な金額設計が求められているわけではない。むしろ求められているのは、「このくらいなら、まあ妥当だろう」と思わせる価格の“整合感”である。見えるサービス、わかりやすい運営、そして他の物件との“総額比較”の中で浮かび上がる、「共益費=管理費」の適正水準。その現実的な考え方を、本コラムでは紐解いていきたい。。 第1章:そもそも「共益費=管理費」とは何なのか? 賃貸オフィスビルにおける「共益費」あるいは「管理費」は、ビル運営において当然のように徴収されている費用だが、その意味合いや実務運用は、実のところ曖昧なまま定着している。物件の概要資料にも「賃料:○○円/坪」「共益費/管理費:△△円/坪」と分けて記載されるのが通例だが、これを「共益費=共用部分の維持費」「管理費=管理会社の業務報酬」と区別して説明できるケースは少ない。現実には、この二つはほぼ同義として扱われている。 歴史的には別物だった「共益費」と「管理費」 本来、共益費は「共用部分に関わる実費的な支出の按分」、すなわち廊下・トイレ・給湯室・エレベーターといった共用スペースの清掃や電気、水道、警備などにかかる費用を、入居者で割り勘する形で徴収する仕組みだった。一方、管理費は「ビル全体の管理業務にかかる人的コストやシステム費用」、つまり建物を運営する管理会社によるPM・BM業務に対する対価という位置づけで、共益費とは別に設計されるべきものだった。しかし、この区別は現場レベルでは徐々に形骸化し、特に中小規模の賃貸オフィスビルでは「細かく分けることに意味がない」という判断から、管理費と共益費を一本化して「共益費」という呼称に集約してしまうケースが一般化した。逆に「管理費」という表現を使っていても、それが実質的には共用部維持費であることもある。つまり、今日の実務においては、両者の名称は機能的な違いよりも、言葉の選好や慣習によって使い分けられているだけであり、意味内容としてはほぼ等価になっていると見なして差し支えない。 テナントにとっての「共益費=管理費」は、“説明されない価格” こうした混同は、テナント側の受け止め方にも影響している。多くのテナントは、「共益費=管理費が何のために使われているのか」という説明を受けることなく、「とりあえず請求されている費用」として納得するか、「よくわからないけど払うもの」として受け流す。これは、飲食店での“テーブルチャージ”や“サービス料”と同じ構造だ。客側は、「このチャージの中に、何が含まれているのか?」とは通常問わず、むしろ“チャージが取られる店”か“そうでない店”かという店ごとの慣習の差で受け止めている。同様に、テナントも「共益費=管理費がかかる物件」か「賃料に込みの物件」か、そして「その合計額で割に合うかどうか」という判断をしているに過ぎない。内訳や原価よりも、“見える価値”と“総額水準”の整合感が、「共益費=管理費」の妥当性を左右するのが実態である。 第2章:「賃料+共益費(管理費)」で決まる“総額の整合感” 共益費(管理費)の金額設定にあたって、多くのオーナー/ビル管理会社が見落としがちなのが、「テナントは、共益費(管理費)単体ではなく“賃料との合計額”で物件を判断している」という事実である。つまり、「賃料〇円+共益費△円」という2本立ての価格設定であっても、実際の比較検討の現場では、「合計でいくらになるか」が重要であり、共益費はあくまで“総額バランス”の一要素として受け止められている。 共益費(管理費)は“見せ方”の問題でしかない テナントが賃貸オフィスビルを比較検討するとき、賃料と共益費(管理費)の合計(=賃菅:ちんかん)ベースで「坪単価11,500円の物件」として他物件と横並びにされる。そこに、共益費(管理費)が3,500円であろうと4,500円であろうと、テナントにとっては「全体として割に合うかどうか」の一点が重要であり、共益費(管理費)という区分そのものにはあまりこだわりがない。したがって、共益費(管理費)をいくらにするかは、「原価がどうか」「慣習としていくらか」よりも、「最終的な総額がどう見えるか」という“見せ方の整合性”によって決められるべきだといえる。 「共益費(管理費)ゼロ」や「賃料込み表記」が選ばれる背景 実際、一部のリーシングの現場では、共益費(管理費)を設定せず、「賃料に込み」で提示するケースも増えている。これは、価格のわかりやすさを重視し、「説明責任」を省略する意図もある。とりわけ、築古・中小規模の賃貸オフィスビルでは、「管理費を取っているのに、設備が古いのでは?」というネガティブな印象を回避するため、最初から一本化して“賃料のみ”で勝負するスタイルが有効に機能することもある。こうした価格構造の変化は、賃貸オフィスビル市場において「共益費=管理費」が機能的な意味よりも、心理的な意味――すなわち“値ごろ感”や“信頼感”を演出する部品になっていることを示している。 「相場感」との整合がすべて 結局のところ、テナントが物件に対して「高い」「妥当」「割安」と感じるのは、個別の内訳ではなく、その物件の「総額水準」と、競合物件との相対比較によって決まる。たとえ共益費(管理費)が3,500円であっても、近隣の似たような物件が「賃料+管理費で11,000円」なのに、自物件が12,000円になっていれば、それだけで“割高”という印象がつく。逆に、築古でも共用部がきれいに整備されていて、エントランスや設備の使用感が良好であれば、「管理費込みで11,800円」でも“割安感”が出ることはある。つまり、共益費(管理費)の金額設定は、“市場との整合感”という一種の演出設計に他ならない。賃料をいじるのか、共益費(管理費)を動かすのか――という議論ではなく、最終的にどの水準に「着地させたいのか」から逆算して設計することが、本質的な戦略といえる。 第3章:築古ビルだからこそ問われる共益費(管理費)の見せ方 築30年を超える中小規模の賃貸オフィスビルにおいて、共益費(管理費)という費用項目が与える印象は、ビルの価値そのものに対するテナントの認識と密接に結びついている。新築・大規模の賃貸オフィスビルであれば、共用部のグレードや設備仕様の高さによって自然と「それなりの共益費(管理費)がかかるのは当然だろう」と納得が得られやすい。しかし、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの場合、共益費(管理費)の金額に対して「この状態で本当にこの金額なのか?」という疑念を抱かれるリスクは決して小さくない。そのため、築古の賃貸オフィスビルにおいては、共益費(管理費)の“中身”を詳細に説明するのではなく、説明しなくても違和感を持たれない状態を維持することのほうが重要である。本章では、そうした“見せ方”の具体的ポイントを整理していく。 説明をしない前提で、納得を成立させる 共益費(管理費)の内容について詳しく説明する機会は、通常ほとんどない。にもかかわらず、テナントの側で「なんとなく払っている」ことに納得感が生まれているのは、物件の状態が“それなりに整っている”という印象を裏切っていないからだ。このとき求められるのは、特別な演出や明示的なアピールではない。あくまで、日常的な管理の中で、“荒れていない状態”が安定して保たれていることが重要になる。たとえば共用部の壁面に掲示物が乱立していたりしないので、共用部が視覚的に整然としている共用部の床の掃除はきちんとされており、照明の色調や照度にムラがないテナントの来訪者から「なんとなく、きちんとしている」と思われる空間感覚が保たれているこうした要素が“現れている状態”において、空間の印象が共益費(管理費)に対する納得感を静かに支える構造になっている。 掲示をしない運営でも、情報は過不足なく伝える 掲示板による案内や点検情報の貼り出しは、視覚的にわかりやすい一方で、空間を煩雑に見せてしまうリスクがある。当社では掲示物による情報提供を行わず、必要な情報はすべてメールでテナントに送付している。これは、空間としての静けさや整理された印象を優先する判断によるものだ。点検や修繕がある場合、メールでの通知を原則としているが、停電等、業務への影響が大きい場合は個別連絡(電話)で補足することで、“気づいたら工事が始まっていた”といった不信感を未然に防ぐ対応も合わせて徹底している。このように、“知らせるべき情報は過不足なく届けるが、空間には余計な痕跡を残さない”という運営方針は、掲示板での情報共有よりも、確実性が高く、有効である。このような実質的な管理責任をまっとうする姿勢は、共益費(管理費)の納得形成において重要な意味がある。 「よく分からないけど、きちんとしている」こという評価が理想 共益費(管理費)というのは、「こういう内容なら払います」と事前に明確に合意される性質のものではない。むしろ、入居後の体験の中で、「特に不満がない」「支障がない」という印象が続いていれば、それがそのまま納得の形として定着していく。そのために必要なのは、「高品質な管理」ではなく、“気になるポイントがない”という低刺激の状態である。特別な加点はなくてもいいマイナス評価につながる要素が見当たらないこと見慣れた共用部に不安や違和感が生まれないことこうした状態が続いていれば、共益費(管理費)に対して追加的な説明や根拠提示を求められることはない。築古の賃貸オフィスビルにおいては、「よくわからないけど、まぁ妥当だろう」と思われる状態こそが、最も安定した共益費(管理費)運用の形である。 第4章:「共益費(管理費)の適正ライン」をどう設計するか 築古オフィスビルにおいて、共益費(管理費)費が「高い」「安い」と判断されるかどうかは、管理原価や業務内容の実体というよりも、その価格が“相場の感覚”と合っているかどうかにかかっている。どんなに細かく積算しても、金額に対する納得感が伴わなければ、テナントには響かない。逆に、多少の曖昧さがあっても、「まあ、そんなものだろう」と思われれば、それで成立するのが共益費(管理費)の実務的リアリティである。では、その“相場の感覚”とは何か。ここでは、共益費(管理費)の適正ラインを見極めるうえで押さえておくべき、現実的な考え方を整理していく。 原価ではなく、“賃菅”での整合を重視する 共益費(管理費)単体で価値評価されることは、実はほとんどない。テナントが重視するのは、「賃料+共益費(管理費)」=“賃菅(ちんかん)”ベースでの総額比較である。たとえば、賃料が8,000円/坪で、共益費(管理費)が3,500円/坪であれば、実質的には「坪11,500円の物件」として評価されているということだ。このとき、周辺エリアの競合物件が「賃料7,500円+共益費(管理費)3,000円=10,500円」といった水準で出ていれば、自ビルの「賃菅」が割高に見える可能性がある。一方で、築年数や設備、立地の違いから、多少の価格差があっても「その価値はある」と思われるケースもある。つまり、「共益費(管理費)の適正ライン」とは、「共益費(管理費)」という単独価格の妥当性ではなく、総額の中での“バランス感”として設計されるべきであり、「原価」よりも「市場との整合感」を基準にすべきである。 相場と“見た目”の距離を測る 実務上、「適正な共益費(管理費)はいくらか?」という問いに明確な答えを出すのは難しい。なぜなら、共益費(管理費)の設定は、同じエリア・同じ築年数の賃貸オフィスビルでも、運営体制やリーシング方針によってばらつきがあるからだ。そのため、自ビルの共益費(管理費)が適正かどうかを判断する際は、次の2点をセットで見ておくとよい①周辺の築年数・規模・仕様が近いビルの“賃菅相場”と比較し、突出していないか②その金額に対して、“見た目”として納得感のある運営状態が保たれているか要するに、「このビルで、月額11,500円/坪は高くないか?」と問われたときに、現場で感じられる印象がそれを支える状況になっていれば、それは適正と言える。逆に、「どこを見ても劣化が目立ち、特にサービス感もない」となれば、それはたとえ価格が平均的でも“高く見える”。この「額面の数字」ではなく、「金額に対してテナントが抱く印象、値ごろ感」が、築古の賃貸オフィスビルにおける共益費(管理費)の妥当性を左右している。 賃料と共益費(管理費)の“比率”にも注意 近年、一部のオフィスでは、共益費(管理費)を高めに設定して賃料を抑える「共益費(管理費)積極型」の料金設計が見られる。これは、表面上の賃料を安く見せたい場合や、リーシング戦略上の見せ方として用いられる手法だ。ただし、あまりに共益費(管理費)が突出して高いと、「実態のわからない金額」に対する警戒感を招く。特に築古ビルでは、共益費(管理費)が賃料の40〜50%以上になるような設定は、「中身を聞きたくなる水準」に達してしまう可能性がある。そのため、価格構成を見直す際は、「賃料と共益費(管理費)の比率」も、見た目の印象として意識しておくとよい。同じ賃菅総額でも、比率が極端であれば不自然さが生じる。 “安すぎる”ことのリスクもある 意外かもしれないが、共益費(管理費)が安すぎることも問題になることがある。テナント側が「こんな価格で、本当にきちんと管理されているのか?」と不安を抱くことがあるからだ。特に、雑居ビルや管理状況のバラつきが大きい築古ビル群の中では、価格があまりに低いと、かえって“何かをしていないのではないか”という疑念につながる。つまり、適正な共益費(管理費)の水準とは、相場と合っていることに加えて、「やるべきことをやっていると思わせる」価格帯である必要がある。安さを前面に出すよりも、「それなりの管理がされていると思われる価格」を維持することが、結果的に信頼の維持につながる。 第5章:説明責任はどう考えるべきか――「聞かれたら答える」の落とし穴 共益費(管理費)という費目は、あいまいである。原価積算に基づく価格設定がなされているわけでもなく、項目ごとの使途が明示されているわけでもない。にもかかわらず、「これはいったい何に使われているのか?」という疑問を、ある日ふとテナントから投げかけられることがある。このような問いに対して、どこまで答えるべきか。あるいは、そもそも答えられる前提があるのか。本章では、「共益費(管理費)の説明責任」に対する実務的な構え方と、対応の基本原則を整理していく。 共益費(管理費)に“原価の積み上げ”は存在しない そもそも、共益費(管理費)というのは本来、「賃貸オフィスビルの共用部にかかる費用をテナントで按分する」ことを目的として設計されていたはず。照明や清掃、水道、エレベーター、消防点検、警備など、共用部の維持に必要な支出を、利用面積に応じて公平に分担する――これが、共益費(管理費)の基本的な考え方だった。しかし現在、賃貸オフィスビルの管理実務において、こうした実費按分の仕組みはほぼ形骸化している。実際には、共益費(管理費)は「月額3,000円/坪」「3,500円/坪」といった定額制で設定され、原価と連動しない“定型項目”として扱われている。そのため、「この共益費(管理費)は何に使われているのか?」と問われたとしても、原理的に「これとこれに使っています」と明確に答えることはできない。実費精算ではなく、包括的な管理・運営費用として広くテナント全体から徴収しているという性格があるからだ。 「一部を答える」は、むしろ疑念のきっかけになる この点を理解せず、「清掃や点検などに使っています」と答えてしまうと、逆に次のような疑念を誘発することがある。「それ以外は何に使っているのか?」「点検と言っても、実際には何をどこまでやっているのか?」「それにしては高くないか?」つまり、「答えること」が信頼構築に直結するわけではない。むしろ、説明によって疑問が増えてしまう構造があることを、オーナー/ビル管理会社は理解しておく必要がある。 対応の基本姿勢は「包括性と公平性」を示すこと 実務上の対応としては、詳細に踏み込むのではなく、共益費(管理費)の基本的な性格を“ブレずに、丁寧に”伝えることがもっとも効果的である。「『共益費(管理費)』は、共用部の維持や設備点検、清掃、緊急時の対応を含め、賃貸オフィスビル全体の管理を安定的に行うための包括的な費用として、定額でご負担いただいております。すべてのテナントに公平に適用しており、エリアの賃貸水準との整合性もふまえて設定しております。」このように、細かい中身を“答えない”のではなく、“構造として丁寧に説明する”ことが、現場での納得感につながる。 質問のきっかけは、“運営上のズレ”にあることが多い 実際に共益費(管理費)についての問い合わせが発生する場面は、往々にして何らかの“小さな違和感”がテナントに生じた後である。価格そのものへの関心というよりは、管理の不備や情報伝達のミスが引き金になることが多い。たとえば設備の不具合が放置されたままになっている予定されていた点検の連絡が来ていなかった清掃品質に波があり、汚れが目立つ日があるトラブル対応が遅れ、連絡も不足していたこうした場面で、「そういえば共益費(管理費)って、何に使われているのか?」という問いが自然と湧いてくる。つまり、共益費(管理費)の説明対応は、価格や中身の話ではなく、管理・運営上の不整合への反応として出てくるものであり、日常運営の精度がそのまま“共益費(管理費)の疑問発生率”を左右する。 「聞かれない状態」を維持するほうが本質的 だからこそ、説明の準備よりも、そもそも説明を求められない状態をどう維持するかに注力すべきである。すでに本コラムで述べてきた通り、共益費(管理費)は“整っている状態”が維持されていれば、テナントの関心には上らない。説明されなくても、困っていないことが、最大の納得要因になる。つまり、「『共益費(管理費)』について問い合わせが来ない」というのは、説明が要らないほど信頼されている状態を意味している。この状態が保たれていれば、詳細を語らずとも、価格は成立し続ける。 最低限の「定型回答」は用意しておく とはいえ、万が一の問い合わせに備えて、社内での統一的な回答文言を準備しておくことは必要である。現場での対応が属人的にならず、どの担当者でも一定水準の返答ができるよう、以下のような文言を共有しておくとよい「『共益費(管理費)』は、建物の共用部にかかる管理業務(清掃・点検・巡回・緊急対応など)を含む、建物全体の維持費用を広くカバーする定額制の費目として設定されています。個別の実費精算ではなく、すべてのテナント様に公平な形でご負担いただいております。」このような文言をあらかじめ用意しておけば、担当者ひとりひとりが過度に構える必要もなく、冷静に対応できる。 第6章:「納得される共益費(管理費)」は、どうやって成立しているのか 築古の賃貸オフィスビルにおいて、共益費(管理費)という項目がテナントから特に問題視されずに受け入れられている状態――それは、実は非常に高度な“無風の成果”である。その納得は、説明によって得られているわけではなく、日々の運営の中で自然と蓄積された信頼感によって成り立っている。この章では、テナントにとって「気にならない費用」として共益費(管理費)が成立するために、どのような要素が“感覚(知覚)レベル”で機能しているのかを考察していく。 共益費(管理費)は、「感覚としての整合」が成立しているときに、はじめて納得される テナントが共益費(管理費)を「妥当だ」と感じるとき、それは金額に対する明確な計算根拠や明示的なサービス内容があるからということで、ロジカルに導き出すものではない。むしろ、「この物件の状態と、月額●●円/坪という水準が釣り合っているかどうか」、「違和感がない」という言語化されない感覚的な整合感によって、妥当性が判断されている。この感覚は、いわゆる「勘」や「雰囲気」といった曖昧なものではなく、もっと根本的に、人が日常を生きるなかで得ている連続的な知覚の整合性に支えられている。たとえば、フロアに足を踏み入れたとき、照明の明るさや反射の具合に不安がなく、床の素材に段差や浮きがなく、空調の風が極端に強くも弱くもなく――「何も引っかからないままに、そこにいられる」こと。スピノザが述べたように、感覚(知覚)とは心と身体を分けることなく、「存在の様態として感受される経験」であるとすれば、共益費(管理費)への納得感もまさに、論理を超えた身体性と整合する感覚の中にある。それは、「頭で理解する」のではなく、「全体として受け止めている」状態であり、非言語的に“調和している”と感じることそのものが納得を生んでいる。 「特に問題がない」という体験の蓄積こそが、共益費(管理費)を成立させている この整合する感覚は、単発的事象としは成立しえない。たまたま清掃が行き届いていた日、偶然トラブルがなかった一週間というだけでは生まれえない。むしろ、「何も起きなかった」「いつも通りだった」という、継続した時間の経過の中でしか形成されない体験の蓄積である。ここで重要なのは、“何かがある”ことではなく、“何も気にならない”状態が続いていることそのものが、無言の評価になっているということだ。テナントは、いちいち清掃頻度や点検内容をチェックしているわけではない。それでも、以下のような状況が“当然のように続いている”とき、共益費(管理費)への疑問は起きない。フロア内の空気環境に違和感がない(風の吹き出し音や温度ムラが気にならない)エレベーターがいつもスムーズに動いている共用部の照明が統一され、光のちらつきや色ムラが生じていない廊下や壁面の傷や補修跡が端正に処理されており、清潔感が保たれているトイレや給湯室の備品が切れていたことがないつまり、「納得される共益費(管理費)」とは、個別の出来事や項目に分解できるものではなく、“何も引っかからないという知覚が、連続的に更新されている状態”にほかならない。逆に言うと、小さな不整合が積み重なると、テナント側の心理的な違和感が募り、「共益費(管理費)の内容がよく分からない」「説明してほしい」という声につながるということである。 「何も言われない」ことは、最高のフィードバックである “何も引っかからないという知覚が、連続的に更新されている状態”である限り、共益費(管理費)について、テナントから、不満なり、なにがしかのコメントが寄せられることは少ない。しかし、それ以上に重要なのは、何も言われないまま、更新が行われ、請求が滞りなく処理されていくという事実である。これは、管理運営としての成果が「可視化されていない」からといって、無視されているわけではない。むしろ、「言われない状態が、最も深く肯定されている状態」であるとも言える。それは、「何がいくらかかったのか」といった分解可能な根拠ではなく、「この金額なら特に文句はない」という身体的・経験的納得によって支えられている。この納得は、ロジックではなく、整合する知覚として、感覚のなかに棲みついている。 共益費(管理費)の価値は、「いつも通り」の中に潜んでいる “いつも通り”という言葉には、形式としての繰り返し以上の意味がある。そこには、違和感のない時間が積み重ねられてきた結果としての“自然さ”があり、それが共益費(管理費)の妥当性を静かに保証している。共益費(管理費)が成立するとは、価格と項目の合理的な整合がとれているという意味ではない。それは、日々の体験が言葉になることなく、「問題がなかった」と身体的に記憶されているということだ。この、語られない納得の構造こそが、築古ビルにおける“気にされない価格”をつくり出している。 第7章:「気にされない共益費(管理費)」を支える、管理・運営側の整え方 前章で述べたとおり、共益費(管理費)はその内容が説明されることなく、また、分析的に評価されることもないまま、「納得されている状態」が自然に成立している。この構造を支えているのは、個々の管理業務のパフォーマンスを包括して、全体として“気にならない状態”が持続していることにある。本章では、そうした「気にされない共益費(管理費)」を成り立たせている、管理・運営側の視点と具体的な整え方について掘り下げていく。 「質を上げる」のではなく、「ばらつきを抑える」 共益費(管理費)の納得感は、特別なサービスの追加によって得られるものではない。むしろ、築古の賃貸オフィスビル管理においては、狙った演出よりも、“日々の業務がいつも通り行われている”ことの一貫性のほうが重要である。たとえば:清掃の仕上がりに日によってムラがない照明器具/給湯設備の修繕対応に、担当者による差が出ない巡回頻度や点検の実施タイミングが、安定しているこうした“小さなばらつきの不在”こそが、テナントの不信感を未然に防ぎ、共益費(管理費)を価格として成立させている。“いつもそれなりに整っている”という一貫性のある管理が、テナントの心理的な安心感を生み、結果として共益費(管理費)への無関心=納得という状態につながっている。 「気づかれない変化」をどう設計するか 築古の賃貸オフィスビル管理において、設備の老朽化や外注業者の契約更新、仕様変更など、どうしても管理・運営の内容に変化が生じるタイミングがある。しかし、この“変化”が意識されてしまうと、それまで成立していた“気にならない状態”が揺らぎ、テナントの納得感を損なう引き金になり得る。たとえば:清掃業者の交代で、床の仕上がりや匂いがわずかに変わる巡回頻度を週5日から週3日に変えた結果、対応の遅れが出始める点検後の養生撤去や張り紙が雑になり、管理体制に疑念を抱かれる個々の更新・変更そのものは不可避であり避けがたいケースも多かろう。重要なのは、“更新・変更されたことが意識されない”ように、調整の過程をなめらかに運営できているかどうかである。この“段差のない更新・変更”ができることこそが、実務的な共益費(管理費)運用の鍵を握る。 違和感を「未然に察知する」姿勢・体制づくり 「共益費(管理費)が高いのでは?」という疑問は、突発的に出てくるのではない。多くの場合、日常の管理・運営のどこかで「これはおかしい」と思わせる出来事が蓄積した結果として現れる。だからこそ、“何かが起きてから動く”のではなく、“起きそうなことに事前に気づく”ための姿勢・体制づくりが重要になる。現場スタッフが「いつもと違う」と感じる感度を持てるようにしておく巡回時に設備や共用部の変化を“形式的チェック”で終わらせない清掃・補修・警備などの業者報告を、形だけでなく“内容ベース”で確認するこれは、点検の回数を増やすことではない。“静かな異変”に先に気づく視点、違和感への感度を、現場の運営の中に織り込んでいく姿勢であり、管理・運営力の問題である。 言葉にならない運営が、「価格をいじらずに信頼を保つ」 共益費(管理費)という費目は、一度設定されると、そう簡単に見直したり変更したりできるものではない。しかも、共益費(管理費)は、説明すればするほど納得されるとは限らない。むしろ、説明の過程で新たな疑問が生まれたり、「だったらこれはどうなんだ」と別の指摘につながったりすることも少なくない。その構造を踏まえれば、共益費(管理費)とは「語られないまま、納得されている」状態が、最も安定した形だと言える。この納得感を長く保ち続けるために、ビル管理会社として、また現場の担当者が行っているのは、目立つ改善策や大胆な改革ではない。 むしろ、誰からも注目されることのない部分での微調整や観察――つまり、“何も起きていない”状態を裏で静かに維持し続ける日常の調律である。たとえば、清掃ルートの見直し、備品補充のタイミングの最適化、共用部の照度や温湿度への反応、業者とのコミュニケーションの質のコントロール。それらはテナントに意識されることのない小さな判断の積み重ねだが、「この賃貸オフィスビルはちゃんとしている」という印象を、静かに支える要素になっている。特別なことはしない。ただ、特に問題が起きないように“細部を微調整し続ける”。この“見えない調律”こそが、共益費(管理費)という曖昧な価格を、動かすことなく崩さずに成立させるための、実務的かつ職人的な技術なのだ。 第8章:共益費(管理費)という“あいまいな費目”を、どう戦略的に扱うか ここまで見てきたように、築古の賃貸オフィスビルにおいて共益費(管理費)という費目は、説明のしやすさや計算の明快さを欠いた、ある意味では“語りにくい価格”である。何にいくらかかっているのかを項目立てて語ることは難しく、相場水準との整合や納得感の形成も、数字よりも「違和感のなさ」「日々の整い」といった感覚的な要素に依存している。一見すれば、それは経営上の不確実性や不安定さにつながる弱点のようにも思える。だが、本コラムで見てきたとおり、この“あいまいさ”こそが、実は共益費(管理費)を柔軟に設計し、運営の安定を支えるための余地を与えている。そして、この性質を正しく理解すれば、共益費(管理費)は、単なるコスト回収のラインとしてではなく、むしろ「このビルはきちんと整っている」という印象を静かに維持する、信頼形成の装置として戦略的に設計されるべきものとして位置付けることができる。 共益費(管理費)は「収支説明」ではなく、「納得感の設計」である 共益費(管理費)を「管理コストの按分」や「実費の積算」として捉えると、どうしても説明責任と原価の開示が重くのしかかる。だが現実には、共益費(管理費)はそうした原価連動の費目ではなく、あらかじめ設定された“一定の金額で、整っている状態を保つ”という実務運用のための外枠=静かな枠組みである。共益費(管理費)は、状況に応じて上下させる「可変パーツ」ではなく、「この範囲で整え続ける」という枠組み=前提条件として設定されるものだ。オーナー/ビル管理会社が求められるのは、その価格が“問われない”状態を、日常業務でどう維持し続けるかという視点である。 「疑問が出ない」ことこそ、最大の肯定 共益費(管理費)の扱いで最も避けるべきなのは、「この費用は何に使われているのか?」という問いが浮かび上がる状態だ。この問いは、費用対効果に対する不信の兆候であり、運営のどこかでズレやばらつきが発生しているサインである。だからこそ、「説明がなくても、気にならない」こと――すなわち、価格と状態が“暗黙の了解”として成立している状態を目指すことが、もっとも現実的で有効な共益費(管理費)運営のあり方である。 あいまいさを支える日常の調律 築古の賃貸オフィスビル管理において、共益費(管理費)は「何も言われない価格」であることが理想だ。その実現のためには、あらかじめ設定された一定の価格の外枠の下、テナントとの適切な距離感を保ちながら、印象を乱さず、整え続ける―そのための静かな調律を、日々の業務のなかで積み重ねていくしかない。それは、設備更新や新サービスの導入のような「目に見える改善」とは異なる、見えないところで印象を支える静かな実務力である。 おわりに 共益費(管理費)は、確かにあいまいな費目である。だが、そのあいまいさを“悪くないかたちで維持できている”ということ自体が、管理の質そのものを表している。共益費(管理費)のような費目においては、“わかりやすい説明”が誠実さの形とは限らない。問われずとも納得されている状態を維持することもまた、一つの誠実な姿勢といえる。語られずとも受け入れられているものを、丁寧に保ち続けるという態度――それこそが、築古ビルにおける共益費(管理費)運用の本質であり、オーナー/ビル管理会社が持つべき、もっとも実践的で静かな戦略なのかもしれない。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月6日執筆

原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質」のタイトルで、2025年12月22日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果” はじめに 原状回復工事は、舞台のバラシに似ている――そんな言葉を聞いたことがあります。舞台が終わり、観客が去ったあと、照明が落ちた空間で、誰にも注目されないまま、解体と撤収が静かに進んでいく。原状回復工事もまた、テナントの退去にともない、さして記憶にも残らない工程として、淡々と実施されていきます。テナントの退去は、ある日突然決まるものではありません。オフィス移転の意思決定には、その会社の将来的な事業戦略、組織再編、予算方針といった中長期的なテーマが絡みます。実際、多くの企業では、解約通知の6か月前よりもさらに前から、・今の賃料や条件が見合っているか・会社の今後はどうなっていくのか、オフィスの面積を拡大・縮小すべきか・リモートワークや再編成の影響にどう対応するかといった議論が、水面下でスタートしています。この段階では、契約更新の条件交渉や解約の可能性を含めた複数の選択肢が検討されており、まだテナント側の意思が確定していないことも少なくありません。そしてある時、テナントから「解約通知」が正式に届きます。ここから先は一転して、定められた工程に沿って退去対応がスタートします。原状回復工事の範囲は契約条項で明示されており、多くの場合、オーナー側が主導して、実務的にはビル管理会社が差配して、工事を手配し、テナントの保証金で精算を行う仕組みなので、揉める要素はほとんどなく、粛々と処理が進んでいきます。ただ、そこには時折、ほんのわずかな温度差のようなものが残ります。「払いますけど……高い気がしますね」「まあ、仕方ないです。すでに移転先のこと考えてるんで」誰も声を荒げることはありませんし、トラブルにもなりません。それでも、ごくまれにそうした言葉が交わされることがあります。仕組みは整い、運用は安定している。工事もきちんと実施され、請求も適正に処理されている。それでも、なぜ原状回復工事は「高く感じられやすい仕事」になっているのでしょうか。本コラムでは、原状回復工事という業務が担う静かな仕上げのプロセスを、仕組み、運用、そして心理の観点から整理しながら、「問題は起きていないのに、すこしだけ納得されにくい」という構造を、様々な視点から読み解いてみたいと思います。 第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由 1-1.まず土俵をそろえる──原状回復工事は契約で決まる 賃貸オフィスビルにおける原状回復工事の取り扱いについては、業界標準の契約書ひな形(日本ビルヂング協会連合会)が存在し、実務上も広く参照されています。そこでは、以下のように、工事の主体や費用負担、範囲、精算方法などが体系的に整理されています。・工事主体:オーナーの指定業者(通常はビル管理会社が差配)・費用負担:テナント(借主)負担。・原状回復工事の範囲:テナントが設置した造作・設備・備品の撤去、汚損・損傷箇所の修復、壁・天井・床仕上材の塗装・貼替え等が明示されている。・精算方法:テナント(借主)が差し入れた敷金により精算され、不足があれば追加請求される。このように、退去にあたっての原状回復工事の範囲や進め方、そして費用の精算方法は、賃貸借契約書の段階で明確に定められており、「退去確定後に原状回復工事を巡って揉めることは稀」というのが、現代の賃貸オフィスビル市場における実務の標準です。日本ビルヂング協会連合会の発表しているオフィスビル標準賃貸借契約第8条(敷金)敷金の額は、契約要項記載のとおりとし、乙は、契約締結と同時に、甲に預託するものとする。(中略)6.本契約が終了したときは、乙が本契約に基づく原状回復工事義務を履行し本物件の明渡しを完了した後、乙の甲に対する本契約に基づく債務その他の一切の債務に充当した後の敷金の残額を、甲は乙に返還するものとする。第24条(明渡し)賃貸借期間の満了、解約、解除その他の事由により、本契約が終了したときは、乙は、次の各号の定めるところにより、本物件を明渡すものとする。一.乙は、乙の費用により新設又は付加した諸造作、設備等及び乙所有の備品等を乙の費用負担により撤去するとともに、乙による本物件の変更箇所及び汚損、損傷箇所を修復し、壁・天井・床仕上材の塗装、貼替を行った上で本物件を引渡当初の原状に復して甲に明渡す。二.前号の原状回復工事は、甲又は甲の指定する者が実施し、その費用は乙が負担する。 1-2.工事費用が継続的に上昇傾向──データで読む10年曲線 ただし、前項で説明した整理が行われているにもかかわらず、近年、実務現場では「原状回復工事費が高い」という不満が感じられるケースが目立つようになっています。その最大の要因は、工事費用の上昇です。建設物価調査会が公表している「内装仕上げ工事費指数」によれば、2015年から2025年にかけて、この指数は約35%上昇しています。つまり、同じような内容の内装工事であっても、10年前と比べて3割以上の費用増が生じているということです。この背景には、複数の要因が重なっています。第一に、資材価格の高騰です。石膏ボードや合板、軽量形鋼といった内装の基礎資材は、円安や国産材の供給減などの影響を受けて、過去10年で2~4割の値上げが続いています。第二に、人件費の上昇です。職人の高齢化と新規入職者の不足により、内装仕上げに従事する技能労働者は慢性的に不足し、その結果として、実勢賃金は約20~25%上昇しています。第三に、短納期対応によるコスト増です。オフィス移転のスケジュールが年々タイトになっており、工期が4~5週間と短縮されるなかで、夜間や週末の工事、追加人員の投入が必要となり、これがコストを押し上げる要因となっています。仕上げ工事費指数(建設物価調査会)は2015→2025で+35% 1-3.保証金漸減──原状回復工事費用が精算しきれない こうした工事費用の上昇と並行して、もう一つ大きな構造変化が起きています。それが、テナントが差し入れる保証金(敷金)の水準の低下です。かつて、オフィスビルの契約における保証金は「家賃6か月分」が一般的な相場とされていました。しかし足元では、4~5か月が実務上の平均に近づいており、家賃3か月+償却費1か月負担といった条件も珍しくなくなってきています。この背景には、2020年から2022年にかけてのコロナ禍による空室率の急上昇があります。ビルオーナー側は空室を埋めるため、初期コストを抑えた条件提示を行い、保証金の水準を引き下げました。一方で、テナント側にも資金効率や会計上の観点から、保証金額の圧縮を求めるニーズが強く、両者の思惑が一致するかたちで、保証金の慣行水準は切り下がってきたのです。そして、原状回復工事費用が上昇する一方で、保証金が縮小すれば、当然ながら、敷金で全額を精算できないケースが増えてきます。追加請求は、いまや例外ではなく、むしろ日常的な対応となりつつあります。 1-4.退去テナントの総務もヒマじゃない──入居対応で手一杯 さらに近年、テナントの移転業務を担う総務部門の意識にも変化が見られます。CBREが実施した「JapanOfficeOccupierSurvey」によれば、「移転時に最も時間を割くタスク」として、・2017年:入居対応58%/原状回復工事42%・2024年:入居対応6%/原状回復工事19%というように、明らかに原状回復工事への関心・工数投入が減ってきています。背景としては、新しいオフィスでの勤務環境が高度化していることが挙げられます。ABW(アクティビティ・ベースド・ワーキング)やハイブリッド勤務への対応、ICTインフラ整備、ウェルビーイング配慮設計など、入居時に調整すべき要素が急増しています。結果として、総務は情シス、HR、ESG、BCPなど社内外の多様な関係者と連携しながら入居工事を進めることになり、その対応に追われています。一方、原状回復工事は契約上の義務として「オーナー指定業者が行う」「費用は借主が負担」と定型化されており、スケジュールや仕様について交渉や判断を求められる場面がほとんどありません。そのため、退去テナントから見ると、原状回復工事は「金額だけ確認して終わる」性格のタスクとして扱われがちです。こうした制度的な枠組みやコスト構造の変化を踏まえた上で、次章では、実際に現場でどのように原状回復工事が進められているのか、その段取りの中身に目を向けてみたいと思います。 第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ 原状回復工事について、退去テナントがちょっと高いかなって感じられることがあったとしても、実際の現場でトラブルに発展することはほとんどありません。原状回復工事は、賃貸借契約に定められた基本的な権利・義務関係を土台にしつつ、社内ルールや業者対応の標準手順を通じて、工程全体が安定的に運用されています。つまり、「契約が枠を決め、ルールが運び方を整え、工程がそれを実行する」という構造がきちんと組まれているからこそ、原状回復は揉めないようになっているのです。本章では、原状回復工事がどのようにして“揉めない”“滞らない”、そして、“記憶に残らない”ほど自然に運用されているのか──その舞台裏を、工程・判断・対応の流れに沿って整理していきます。解約通知から退去、工事の完了、そして請求まで――一連の段取りが確実に積み重ねていくからこそ、現場には混乱がなく、退去したテナントの後、次の入居テナントを迎える準備へと自然につながっていくのです。 2-1.解約通知から段取りは始まっている 賃貸借契約においては、退去の6か月前までに解約の通知を行うことが原則として定められています。この通知が届いた段階で、ビル側の原状回復に向けた準備はすぐに動き出します。まず管理状態を把握し、原状回復工事の対象範囲を正確に整理するためのプロセスです。貸室を標準仕様に戻すためには、どの部分にどれだけの工事が必要かを明確にする必要があり、そのための前提となる調査です。当社は、現地確認を実施します。これは、入居時およびそれ以降にテナントが実施した工事の履歴をもとに、現在の内装や設備の状況を確認した上で工事項目を洗い出し、工事ボリュームを把握しておくことは、正確な見積作成のためにも不可欠な工程です。適切な初動をとることで、退去までの限られた時間の中でも、工程を滞りなく進めることが可能になります。 2-2.“壊す”のではなく“整える”ための工事 原状回復工事とは、単に「造作を壊して元に戻す」作業ではありません。その本質は、貸室を次のテナント募集や内見に耐えうる状態へと整えることにあります。あえて言えば、「使われた痕跡をきちんと整える」ことに近い仕事です。原状回復工事の主な内容は、以下のとおりです。・壁クロスの貼替え・床カーペットの張替え・天井の塗装(破損がある場合はボードの貼替えも含む)・ブラインドボックスや鉄部の塗装補修・専用部の二次配線(電気・LAN・電話線等)の撤去・機械警備カードの更新・鍵の撤去・火災報知器の撤去・照明管球の交換・照明器具、空調設備、サッシ・ガラスの清掃、およびテナント持込備品の廃棄処分これらのうち、壁クロス・床カーペットの貼替え、天井仕上げの補修などは、どの退去案件でも必ず実施される工事です。そこに加えて、テナントが独自に手を加えた箇所や、現場確認の際に見つかった破損・劣化の状況をもとに、追加で必要な補修項目の有無を判断し、最終的な工事内容とボリュームが確定されます。なお、空調や照明器具の更新工事は原則として原状回復の対象外ですが、照明のLED化などを同時に行うケースもあります。その場合は、原状回復に合わせて実施する貸主都合の更新工事として扱われます。いずれにしても、最終的に目指すべき状態は、「不要なものが一切残っておらず、使われた痕跡を感じさせない空間」。それが、原状回復工事における完成形です。 2-3.テナントの独自造作も、定められた手順に従って粛々と処理される 退去するテナントが会議室や間仕切りなどの独自造作を施していた場合、原則としてそれらは原状回復工事において撤去対象となります。ただし、次のテナント募集時に会議室や間仕切りといった造作が一般的に利用価値が高く、次テナントの募集条件の魅力度を上げられると判断された場合には、造作を残置・引き継ぐこともあります。もっとも、こうした判断が現場ごとにアドホックに行われているわけではありません。実務の運用としては、あらかじめ定められた契約条項と社内ルールに則って、整然かつ一貫性のある形で処理されています。たとえば、テナントとの契約書には、「貸室内又は本建物内に借主の費用をもって設置した諸造作・設備等の買取りを貸主に請求できない」と明記されています。また、残置された備品等の取扱いも含めて、それらの最終的な処分判断はすべてオーナー側・管理会社側の裁量に基づいて行われることが前提となっています。仮に一部の造作を残す場合であっても、それらは明確に「原状回復工事の対象外」として整理され、他の工事対象と混同されることはありません。こうした線引きは、現地確認の初期段階において明確に定められるため、工事工程の中で現場が混乱するようなことはほとんど発生しません。住宅における原状回復では、借主が設置した造作に関して「造作買取請求権」(借地借家法第33条)の適用可否をめぐり、判断が分かれることも多く、グレーゾーンになりがちな領域です。しかし、賃貸オフィスビルにおいては、この点も含めて契約上の取り決めや運用ルールが明確に整備されており、実務ではトラブルの火種にならないよう、あらかじめ制御されています。 2-4.トラブルのない原状回復工事には、理由がある 賃貸オフィスビルにおける原状回復工事は、テナントとの間でトラブルになることが非常に少ない領域です。それは偶然ではなく、契約条件の明確さと、実務フローがしっかり整備されていて、計画的に運用されていることによるものです。たとえば、実務上の典型的な進行フローは以下のとおりです。・解約通知を受けたら、すぐに現地確認を実施→工事対象範囲や造作の有無を確認し、契約内容と照合する・遅くとも退去の3か月前までに工事見積を提示→テナントが工事内容を確認し、保証金での精算の想定も可能になる・原状回復工事は、退去の約1.5か月前から着工→通常業務に支障が出ないよう、スケジュールを調整・工期はおおよそ1か月程度を想定→見積時点で工期も明示され、工程に余裕を持たせてある・すべての工事は「入居期間内」に完了することが契約条項に明記されている→工事遅延による賃料発生や、明渡し遅延リスクを未然に排除このように、解約通知から明渡しまでの間に何を・いつまでに・誰が・どのように行うかが契約と実務の両面で明文化・定型化されているため、不要なやりとりや感情的な齟齬が起きる余地はごく限られています。原状回復工事というのは、「目立たないが正確な仕事」の代表格とも言える分野です。だからこそ、現場では特別に目立つこともなく、静かに淡々と進められるわけですが、その背後には、積み上げられた実務の知見と、精緻な段取り設計があります。関係者から信頼を得ているのは、こうした整っている実務の蓄積があるからにほかなりません。 第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる 原状回復工事は、契約に基づいた枠組みのなか、手順も定型化されている業務であり、工程や費用もあらかじめ整理された仕組みの中で進行します。工事内容は一定の基準に照らして判断され、過去事例も踏まえて、施工業者の見積に基づいて、退去テナント向けの見積が作成されるため、費用設定においても大きな逸脱は起きません。それにもかかわらず、退去テナントからは時折こんな声が漏れることがあります。「……ちょっと高かった気もしますけど、もう済んだことですしね。」工事の内容に誤りはなく、費用も契約に基づいた正当なもの。それでも、「納得できない」というほどではないものの、「少し引っかかる」といった微妙な価格印象のズレが生じることは、決して珍しいことではありません。この章では、そうした印象のズレがなぜ起こるのかを、「契約」や「請求根拠」といった形式論に留まらず、テナントとオーナーそれぞれの立場や時間感覚の違いに注目しながら、整理していきます。 3-1.退去時に見ているものが違う テナントが退去を決断する背景には、事業拡大、レイアウト変更、本社移転など、前向きな戦略判断があることが多く、退去は未来志向の変化として位置づけられます。退去が近づくと、退去テナントの総務や移転担当者は、新拠点での内装工事やICT移設、什器の発注、社内周知など、膨大な実務タスクに追われていきます。その中で、旧オフィスの原状回復はもう終わる場所としての扱いになり、どうしても優先順位が下がりがちです。一方で、オーナーや管理会社にとって退去は「次の募集開始に向けたスタート」です。通知を受けた時点から現地確認、見積、工事手配、空室期間の調整など、逆算思考で業務が動き出します。原状回復工事もその一環として、滞りなく遂行されなければなりません。つまり、テナントは次を見る、オーナーは現場に戻すというように、目を向けている方向がそもそも違うのです。この視点の違いこそが、原状回復費用に対する感覚のズレを生みやすくする最大の要因です。 3-2.コストを「見慣れている」か、「突然向き合うか」 近年、原状回復工事の単価はじわじわと上昇しています。資材価格の高騰、人件費の上昇、工期短縮要請への対応といった要因が複合的に影響しており、これはオーナーやビル管理会社にとっては日常的に把握されている変化です。しかし、退去テナントが原状回復工事に接するのは、たいてい数年に一度。テナントの総務担当者が数年前の移転時に把握していた坪単価と、現在の見積金額に差がある場合、その間の値上がり事情を知らないまま突然の値上げと感じてしまうことが多いのです。つまり、印象のズレは「説明が足りないから」ではなく、退去テナントがそもそも構えていなかったことに起因するケースが大半なのです。 3-3.ズレがあっても、整った仕事は揺るがない このような印象の違いは、あくまで感覚的なものであり、契約的な正当性や施工品質の評価とは別の次元にあります。どれだけ丁寧に対応し、見積も透明に提示し、工程を正確に遂行しても、「少し高い気がした」と思われてしまうことはある。それは、説明のミスではなく、当事者の立ち位置の違いが自然と生む、温度差のようなものです。したがって、無理にその印象を打ち消そうとするよりも、あらかじめそのギャップが存在しうることを前提に、業務の精度と透明性を保ち続けることのほうが、よほど現実的で効果的です。 小結 原状回復工事の費用が「高く感じられる」ことがあるのは、見積ロジックや契約内容の問題ではなく、テナントとオーナーがいつ・何に向き合っているかの違いに由来する、感覚のズレです。この印象を完全に排除することはできません。しかし、だからこそ、業務そのものを丁寧に、正確に、あらかじめ整えておくことが、最終的に「信頼される現場」となるためのもっとも確かな道筋なのです。 第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度 原状回復工事は、工程としては明確で、運用としても安定しています。それでも、退去したテナントの印象には、ときおり「ちょっと高かったかもしれない」「もう少し説明がほしかった」といった言葉が残ることがあります。しかし、そうした印象があったとしても、原状回復工事が大きなトラブルに発展することは、実務上ほとんどありません。むしろ、きちんと完了し、きちんと請求され、何ごともなかったかのように終わっていく――この静けさこそが、この業務の完成されたかたちとも言えるのではないでしょうか。本章では、原状回復工事がなぜ「揉めないのか」、そして「印象に残らないまま完了していくのか」を、運用実態をもとに読み解いていきます。 4-1.“いつ何をするか”が決まっている 原状回復工事の工程は、賃貸借契約に基づいて、6か月前の解約通知を起点に始まります。解約通知を受けたビル管理会社は、テナントの窓口であるPM(プロパティマネジメント)とBM(ビルマネジメント)の工事担当が現地を確認し、入居工事および過去のテナント工事の資料と照合しながら、撤去すべき造作や補修箇所、原状回復工事の対象範囲を整理していきます。当該現地調査の確認内容に基づいて、工事の担当業者に確認を取りながら、退去テナント宛てに見積を作成します。この現地確認作業は、遅くとも退去の3か月前までには完了するようスケジューリングされています。作成された見積書(明細付き)は、退去テナントに提示されます。その後、ビル管理会社から退去テナントに対して「工事をいつから開始するか」が通知され、それまでに退去を完了してもらうという段取りになります。テナントとの賃貸借契約には「契約期間中に原状回復工事を完了すること」が明記されており、工程がこの流れから逸れることはほとんどありません。ちなみに、原状回復工事の工期はおおむね1か月。通常、退去時期は解約の1.5か月前に設定されます。こうした流れは物件ごとに若干の差はあるものの、現地調査、見積、業者手配、退去スケジュール設定等、工程の詰め方が毎回同様に組み立てられており、非常に安定した実務運用となっています。 4-2.“確認されないことを前提としているかのように、流れていく” 原状回復工事の見積が退去テナントで細かく確認されることは、実務上ほとんどありません。これは「説明が足りない」からでも、「透明性がない」からでもありません。単純に、退去テナント側――とくに総務や移転担当者――が、退去の時期にそこまで手が回らない状況にあるからです。退去の時期には、新オフィスでの入居工事が佳境を迎えており、ICT環境の整備、電話回線の移設、什器やレイアウトの調整、契約書まわりの最終調整など、目の前の業務に時間も意識も吸い取られています。原状回復工事の見積書は、退去テナントに届いたらそのまま了承され、工事が粛々と実施されます。工事完了後の立ち会い確認は省略されることが多く、結果的にそのまま請求フェーズに移行し、処理されていく傾向にあります。つまり、工程全体が、確認されないまま進んでも滞らない程度によくできているからこそ、安定した運用が成立しているのです。たとえば次のような実務体制が、それを支えています。・見積書は、よく見てみると、「主要工事項目・小計・消費税」の3階層構成で整えられており、造作など特異な項目も別立てとなって整備されている・現地調査と見積作成の流れが定型化されており、工程管理のルールも明確・着工日・退去日・請求タイミングが、すべて「運用としての流れ」の中に組み込まれている 4-3.印象を変えるのは、説明ではなく結果 原状回復工事に関して、テナントから「少し高い気がした」「内容をよく見られなかった」といった声が出ることはあります。ただし、そうした印象は、問題がなければすぐに忘れられます。工事は予定どおり完了し、請求・精算も適正に行われ、現場に混乱は残りません。そして、完了時に何も言われないこと、見積書や請求書に対して問い合わせが発生しないこと――それこそが、原状回復工事における最大の成果といえるのではないでしょうか。工事の仕上がりが整い、精算が一発で済み、テナントからの後追いもない。関係者すべてが、あらかじめ「もう終わったこと」であるかのように前に進んでいく。そんな状況だからこそ、「ちょっと高かったかもしれない」という一言は、それ以上の意味を持ちません。原状回復工事という仕事の価値は、きちんとやっていることを、粛々と積み上げていくことで伝わっていくものだと思います。 第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果” 原状回復工事は、内装デザインや演出性を伴う入居工事とは異なり、テナントの記憶に強く残るような場面があまりありません。退去が完了し、請求が済み、話題にもならないまま静かに終わっていく――そんな「印象に残らない仕事」として位置づけられることが少なくありません。しかし、その印象に残らないという事実こそ、トラブルが起きず、工程も崩れず、業務が正しく仕上がった証でもあります。この章では、原状回復工事という業務が持つ「目立たないが確かな価値」について、あらためて見つめ直してみたいと思います。 5-1.“何も起きなかった”という完成度 原状回復工事に関して、退去したテナントから問い合わせや指摘を受けることは、実際にはほとんどありません。それは、説明の巧拙によるものではなく、そもそも問い合わせを要するような問題が生じていないからです。工事内容は現地確認に基づいて整理され、見積書として提示されます。着工日も事前に案内され、スケジュールに沿って淡々と進行。完了後に特別な立ち会いや追加連絡がなくても、予定どおりに工事が終わり、請求が精算されていく。こうした一連の流れが滞りなく完了しているという事実こそが、業務の完成度を何より雄弁に物語っています。つまり、原状回復工事における「理想的な成果」とは、何も問題が起きなかったという状態そのものなのです。 5-2.“印象を残さない”という、もうひとつの誠実さ 退去テナントにとって、原状回復工事はすでに「完了していく話」であり、会社としても次のオフィス運用へと意識が向かっています。移転準備に追われる総務担当にとって、もはや過去の拠点に時間をかける余裕はありません。こうした状況下で、ビル管理会社側があえて踏み込んだ説明や詳細な対応をすることは、退去テナントも特段求めていません。むしろ、工程どおりの着実な進行と淡々とした精算処理が、自然な納得感を生んでいるのです。「細かくは覚えていないけれど、請求はきちんとしていた」「特に話題にはならなかったけど、何も問題なかった」そうした記憶に残らない納得のかたちは、不満ではなく、成熟した対応への無言の肯定と言えるのではないでしょうか。 5-3.“淡々と、正確に”が積み上げるもの 原状回復工事という業務を下支えしているのは、派手な演出や目立つ成果ではなく、段取りと精度の蓄積です。以下のような一連の流れが、抜けなく、乱れなく実行されることが、信頼の基盤をつくっています。・解約通知を起点とした逆算型の工事スケジュール・現地調査に基づいた明確な工事項目と見積書の提示・ビル管理会社による施工調整と連絡の継続性・工期の遵守と、期日までに完了する精算処理これらすべてが、「揉めない」「引きずらない」「残らない」退去処理を支えており、退去テナントから特に感謝されることはなくとも、“信頼の空白が残らない”という状態を静かに実現しています。目立たなくても、確かに仕事はなされている。その「静かな信頼の積み重ね」こそが、原状回復工事という業務が持つ本質的な価値ではないでしょうか。 終章のことば 本コラムの冒頭で、原状回復工事を「舞台のバラシ」にたとえました。演者が去り、客席が静まり、舞台が何も語らないままリセットされていく――。誰も見ていないようでいて、確かに価値が残されていく、そんな仕事です。原状回復工事とは、記憶には残らないけれど、間違いなく信頼を残していく仕上げの仕事。この静けさの中にこそ、賃貸オフィスビルの運営における、真のプロフェッショナリズムが宿っているのかもしれません。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月22日執筆

築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:後編

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:後編」のタイトルで、2025年12月18日に執筆しています。「築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:前編」に引き続いて、今回、後編をお送りします。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに5.外注先マネジメントと「責任分界点」の設定6.予防保全を「データドリブン」で最適化する7.ケーススタディ:実際のクレーム対応から学ぶ8.すぐに使えるチェックリスト&テンプレート集9.現場知を組織知に──マニュアルと教育体制の整備最終章 はじめに 築30年を超えるビルでは、空調・給排水・電気・昇降機といったライフライン系設備の故障頻度が急激に高まります。実際に不動産管理会社200名への調査では「故障が多い設備」のトップがエアコン36%、次いで給湯器30%、水道25.5%と“水と空気”を支えるインフラが上位を独占しました。出典:GMO賃貸DX編集部による独自アンケート「故障が多いと思う設備」(2021年/不動産管理業従事者200名対象)こうしたトラブルはテナントの事業継続と満足度に直結します。夏場の空調停止は室温の上昇だけでなく熱中症リスクを招き、エレベーターの長期停止は高層階テナントの移転検討を誘発しかねません。ビル管理会社の調査でも「故障・トラブルへの対応の速さ」は5点満点中4.2と評価が高く、迅速対応が信頼維持の生命線であることが裏付けられています。出典:平成ビルディング「お客さま満足度調査2024年度」経営面への影響も深刻です。ザイマックス総研のオーナー調査では「築古に伴う修繕費の増加」を不安視する声が72%で最多となり、「賃料下落64%」「空室増加62%」を大きく上回りました。さらに2024年調査では、66%のオーナーが「支出が増えた」と回答し、修繕費・資本的支出については6割超が増加を実感しています。資材高騰と人件費上昇が重なれば、突発的な故障対応がキャッシュフローを一気に圧迫するリスクは無視できません。出典:ザイマックス総研「ビルオーナーの実態調査2025①」本コラムでは、こうした“築古オフィスビルの宿命”とも言える設備クレームを〈発生源×緊急度〉で整理し、原因究明からテナント・コミュニケーション、応急処置と恒久改修の費用対効果、外注先マネジメント、データドリブンな予防保全までを体系的に解説します。読み終えたときには・優先順位の誤りを防ぐ判断軸・テナント満足度と修繕コストを同時に最適化する実務ノウハウ・老朽設備を抱えたままでも“選ばれるビル”を維持する戦略的視点を手に入れられるはずです。前編では、「いざという時どう動くか」に焦点を当てて、設備トラブルの初動対応や判断基準、テナント対応の基本などを整理してきました。後編は、そこから一歩進んで「その対応力をどう支えるか」に目を向けていきます。第5章からは、外注先との役割分担の整理、予防保全の考え方、情報の見える化、マニュアル整備といった、実務の仕組みづくりにフォーカスしていきます。 5.外注先マネジメントと「責任分界点」の設定 設備クレーム対応を円滑に進めるためには、ビル管理会社や設備専門業者などの外注先との連携体制を整えることが欠かせません。ところが実際の現場では、「どこまでを管理会社が対応し、どこからを外注先の専門業者に任せるのか」が曖昧になっていることも少なくありません。その結果として、対応の遅れ・二重手配・責任のなすり合いといったトラブルが起きることも。本章では、こうした行き違いを防ぎ、外注先と信頼ある連携関係を築くための実務上の工夫と整理方法を解説します。 (1)なぜ「責任分界点」の明確化が必要か? 責任分界点とは、ビルの設備トラブルが起きた際に「どこまでが自社(ビル管理者)の責任」で、「どこからが外注業者の責任か」を明確に示した境界線のことです。例えば、エレベーターの故障対応を例にとると、●管理会社の責任範囲トラブル発生の受付、一次対応(状況確認、利用停止措置、テナントへの周知)●外注先の専門業者の責任範囲技術的な原因究明、修理作業、部品交換などの二次対応というように、業務の切り分けをあらかじめ決めておきます。この線引きを曖昧にしたままだと、「管理会社は外注業者任せ」「外注業者は管理会社待ち」という無駄な待ち時間が発生し、初動が大幅に遅れるリスクがあります。責任分界点を明確に設定しておけば、トラブル発生時に迷わず役割分担ができ、迅速な対応が可能になります。 (2)実務で役立つ責任分界点の具体例 実際の現場では、以下のように責任分界点を設定するとスムーズです。 設備カテゴリ管理会社(自社)の責任範囲外注業者の責任範囲空調設備初動確認・運転再起動・冷暖房仮設機手配冷媒補充、部品交換、恒久修理給排水設備一次止水措置・漏水状況確認・被害拡大防止配管補修・バルブ交換・ポンプの修理交換電気設備ブレーカー復旧・応急的な仮設配線配電盤改修・漏電箇所特定と修理昇降機設備停止措置・利用者誘導・状況確認閉じ込め救出作業・点検修理・部品交換ICT設備再起動・通信会社への一次連絡配線修理・機器の交換・通信障害の根本調査 このような表を管理室や共有フォルダに掲示・保存し、定期的に見直すことで、初任担当者でも迷わず対応できる体制が整います。また、外注先との契約書や仕様書に明記することまではできなくても、「運用上の目安」として合意しておくことで、現場の混乱を抑えることができます。 (3)外注業者との“期待値のすり合わせ”をしておく 中小規模の築古ビルでは、対応時間や復旧スピードを数値で規定するSLAのような契約を明確に交わすケースは多くありません。それでも、「緊急時はどのくらいで来てもらえるか」「夜間・休日の対応体制はどうなっているか」といった基本的な期待値を、日頃から言葉で共有しておくことがとても重要です。たとえば、下記のようなポイントを口頭やメールで確認・整理しておくと、トラブル時に判断が早くなります。・「原則○時間以内には到着できるか?」・「夜間・休日でもつながる連絡先はあるか?」・「応急処置で済むケースと、恒久修理が必要なケースの切り分け方法」・「修理の可否が現場で即断できるか、メーカー確認が必要か」こうした内容を簡単な備忘録や共有メモとして残しておくだけでも、属人化のリスクが減り、判断スピードが上がります。 まとめ:「責任の見える化」がチーム対応力を高める 外注先とのマネジメントで最も大切なのは、「お互いが何をどこまでやるか」の線引きを、暗黙の了解にしないことです。築古ビルだからこそ、人任せにしない“仕組みとしての対応力”が求められるのです。次章では、こうした対応力を日常的に高めていくための、「予防保全とデータの活用」について詳しく掘り下げていきます。 6.予防保全を「データドリブン」で最適化する 築古オフィスビルにおける設備トラブルは、対応の「速さ」だけでなく、「そもそも未然に防げるかどうか」が大きな差になります。突発的な故障や緊急対応が頻発すると、テナント満足度や更新率に影響が出るだけでなく、修繕費の平準化も難しくなります。こうした背景から、近年ではBEMS(ビルエネルギー管理システム)やIoTセンサーを活用した“予兆保全”という考え方が注目されています。こうした技術的手法が今後の保全手段として有効な可能性があると考え、当社においても検討中です。ここでは代表的な仕組みと実務的な検討視点をご紹介します。 (1)IoTによる予兆保全:トラブルを“起きる前”に見つける IoT機器を活用した予防保全では、空調やポンプ、昇降機といった設備に後付けでセンサーを取り付け、稼働データ(温度、振動、電流など)を常時取得・蓄積。異常傾向が検知されると、早期対応が可能になるという考え方です。代表的な技術サービス例(メーカー事例に基づく):・空調機器:冷媒圧力や電流値の変化を監視し、コンプレッサー故障前に検知・給水ポンプ/モーター:振動センサーで異常振動を把握、部品の摩耗を推定・昇降機制御部:モーターの電流パターンや制御系の応答遅れから不具合の兆候を検知こうした仕組みが構築されていれば、実際に停止・故障が起きる前に「計画停止・早期対応」が可能になり、緊急対応のコストや手間を抑えられるとされています。 (2)BEMSの活用と保全KPIの考え方 BEMSは本来、電気・空調などのエネルギー使用を把握・管理するための仕組みですが、そのログデータは予兆保全にも応用可能です。実際に一部の大規模ビルでは、AIで異常挙動を解析し、機器の負荷や性能低下を早期に抽出するシステムが運用されています。参考事例(大林組などの公表資料より):・空調の電力消費パターンから冷却塔ファンの不具合兆候を検出・フィルター詰まりを推定し、性能低下前に清掃・長期データから設備の異常傾向を「スコア化」して運用判断当社ではこうしたBEMS運用やAI解析体制は導入していませんが、中長期的に省エネと安定稼働を両立させる方策として、こうした先進事例に学ぶ姿勢は持っておくべきと考えています。 (3)KPI管理という視点(考え方の参考) 予防保全の効果を“なんとなくの印象”ではなく、数値で検証・改善につなげる手法として、KPI(重要業績指標)の設定があります。以下は一般的に使われるKPIの一例です。 KPI項目意義改善の指標例設備稼働率(アップタイム)稼働の安定性計画停止の活用で稼働率99%以上へ故障/クレーム件数再発予防空調系のクレーム件数が半減平均修理時間(MTTR)対応スピード初動連絡や部品備蓄で短縮維持コスト/設備コスト平準化緊急出動費が減り、年次計画化へテナント満足度(設備面)更新率に直結定期点検と早期対応で不満率低下 現状ではここまでの数値管理をシステム化していませんが、今後の設備管理体制の改善を考える際の“参考軸”として有用な考え方です。 (4)導入のハードルと段階的な対応策 もちろん、こうした仕組みをすぐに取り入れられるわけではありません。そこには築古物件ならではの“導入障壁”も存在しています。以下ではそれらの課題と、現場で可能な現実的なアプローチについて見ていきます。❶築古オフィスビル特有のハードル①既設設備にセンサーが付いていない築古オフィスビルの多くは、設計当初からIoTやセンサー実装を想定しておらず、運転データを取得する機構そのものがありません。例)空調機に電流計がない、ポンプに温度計がない、エレベーターにモニタリング端末がついていない、など。②BEMSが導入されておらず、ログが一切蓄積されていないBEMSは省エネ観点で導入されるケースが多く、築古オフィスビルでは未導入が一般的。したがって、「どの設備がいつ、どれくらい動いていたか」という情報が残っていない状態です。③データ分析スキルが現場にない/管理会社が対応できないたとえセンサーを導入しても、「そのデータを誰が見て、どう判断するのか」が曖昧だと、システムが“宝の持ち腐れ”になります。とくに中小規模の管理現場では、読み解き・活用の人材が不在という課題があります。④導入コストや予算確保のハードルオーナーが費用対効果に懐疑的だったり、既に限られた修繕予算が割り当てられていたりすると、“実績がないと稟議が通らない”という悪循環に陥りがちです。❷現実的な解決アプローチ:小さく始めて成果を見せるこれらの課題に対しては、「すべてを一気にやろう」とせず、小さな実装→効果検証→段階的拡大というステップで取り組むことが重要です。●後付けセンサーの活用「センサーがないなら、後付けする」というのが最もシンプルな解決策です。現在は、既存設備に簡単に取り付けられる後付け型IoTセンサーが充実しており、数万円レベルから導入可能です。例:・電流センサー:空調機やポンプの過負荷を検知・温度・振動センサー:ポンプ・モーター・昇降機の劣化予兆を検知・水漏れセンサー:給排水設備周辺に設置し、漏水時に通知・エレベーターのドア開閉回数センサー:異常挙動の兆候を検出センサーは電源不要なバッテリー式や、無線通信型もあり、配線工事が困難な築古オフィスビルでも対応可能です。●異常兆候がある機器だけにクラウド遠隔監視サービスの限定的な導入センサーで取得したデータを可視化・アラート管理するには、月額制のSaaS型クラウド監視ツールが便利です。これは、専門業者がデータを常時モニターしてくれるため、管理会社側の人手や分析スキルが不足していても運用可能です。例:・空調の稼働ログに異常あり→異常をメール通知→管理者が判断or修理手配・監視データはレポート化され、KPIや予防保全履歴としてエビデンス化される導入初期は月額数万円で始められ、緊急対応件数が減ることで中長期的には修繕コストの平準化につながるケースも多いです。●段階導入+トライアルから始める「いきなり全館導入」ではなく、まずはトラブルが頻発している設備や、リスクが高い設備に絞って始めるのが現実的です。ステップ例:①空調機2台だけに電流センサー+クラウド監視を導入②月次レポートで負荷変動や故障兆候を確認③効果を確認したらポンプ・昇降機へ拡大このように、「一部から試す」「成果を見せて広げる」という戦略ならば、現場の負担を最小限に抑えつつ、「やってみて分かること」、「改善すべきこと」を共有しながら検討しつつ進めることができます。 まとめ:「まずは情報収集と選択肢の整理から」 予兆保全の技術や仕組みは、現時点では多くの中小規模・築古ビルにとって、“現実味が薄い”と感じられる場面も少なくありません。しかし一方で、「突発トラブルが減ることで、対応がしやすくなる」「クレームが起きにくくなる」といった効果が期待できる仕組みであることも事実です。今すぐ導入を進める段階ではないとしても、・こうした仕組みがどのように機能するのか・同規模他社ではどのように検討・活用されているのか・自社で取り入れるなら、どこから始めるのが現実的かといった観点で情報を整理し、導入の優先順位を検討しておくことは、将来的な判断や業務改善の下地になります。実際、「データで察知し、先手を打つ」という予防的アプローチが機能すれば、・緊急対応の発生頻度が減り、・テナントの安心感が高まり、・修繕費の見通しも立てやすくなり、・担当者も“後追い対応”ではなく、“戦略的な運用”に時間を使えるようになります。情報を持ち、いつでも動ける状態をつくっておくこと。それ自体が、築古ビルにおける「予防保全力」の第一歩だといえるでしょう。 7.ケーススタディ:実際のクレーム対応から学ぶ 設備クレームの実務対応には、マニュアル化されたフローだけでは対応しきれない現場特有の判断力と対応力が求められます。本章では、築古オフィスビルで実際に発生した設備トラブルの中から典型的な3ケースを取り上げ、・発生の背景・初動対応の工夫・恒久的な対策そこから得られた教訓を詳細に解説します。 Case1:空調停止がテナント移転リスクに発展 状況:築30年を超えるオフィスビルにおいて、8月の猛暑日にビル東側フロアの空調機が故障。室温が35度近くまで上昇し、テナント社員から「暑くて業務ができない」とのクレームが集中。原因は老朽化した空調機のコンプレッサーの停止でした。初動対応:管理スタッフはすぐに現場を巡回して謝罪し、スポットクーラーや扇風機を緊急手配。並行して保守業者を手配し、到着後の点検でコンプレッサー故障と確定。即日中に仮設の代替冷房を設置し、テナントには「夕方までに一時復旧を目指します」と報告・実行。恒久対策:翌週末に本格的な部品交換を実施し、恒久復旧。テナントには「今後は同型空調機も含めて順次更新していく」との説明を行い、信頼回復を図った。教訓:真夏の空調停止は最も緊急度・重要度の高いトラブルのひとつであり、対応の遅れはテナントの退去リスクに直結する。本件では、迅速な応急処置とテナントへの丁寧な説明により、最悪の事態は回避できたが、老朽化の兆候を放置していたことが根本原因であり、季節前点検と消耗部品の先行更新の重要性が浮き彫りとなった。 Case2:ガス漏れと安全対応 状況:築40年の雑居ビルに入居する飲食店より、「厨房でガス臭がする」との通報。営業中に発生したため、火災や中毒への不安が拡がった。現場確認により、厨房のガス配管からの微小な漏洩が確認された。初動対応:管理会社は即時出動し、ガスの元栓を閉めて避難誘導を実施。ガス会社の緊急対応班を呼び、30分以内に現場到着。漏洩箇所は接続部の腐食であると判明し、即日配管交換を実施。該当店舗はその夜の営業を休止。恒久対策:ビル全体でガス配管の総点検を実施。接続部品の交換とあわせて、ガス漏れ警報器の追加設置を行い、さらにテナント向けガス使用マニュアルと啓発資料を配布。教訓:人的被害こそ回避できたものの、ガス漏れは人命リスクを伴う重大インシデント。老朽化したインフラに対する計画的な予防保全と、テナントとの情報共有・教育体制の整備が求められる。また、通報→出動→遮断の初動が迅速だったことで、被害を最小限に抑えられた好事例でもある。 Case3:エレベーター停止・閉じ込めによる業務影響 状況:築35年の8階建てビルで、営業中にエレベーターが突然停止。乗客が閉じ込められる事故が発生し、複数テナントから「業務に支障が出ている」「荷物搬送ができない」との苦情が集中。原因は制御基板の故障だったが、交換部品の入手に数日を要した。初動対応:管理会社は保守業者へ即連絡。技術者が到着し、乗客の救出に成功(閉じ込め時間:約20分)。その後、修理には数日を要することが判明したため、「復旧見込み:◯日予定」と書面掲示とメール通知で周知。管理会社は各テナントに対し荷物搬送や接客対応の代替支援を実施。恒久対策:同形式のエレベーター制御盤を全棟調査し、交換部品の事前確保・代替輸送手段の確保(荷物用昇降機や非常階段の改善)をマニュアルに反映。保守契約についても、24時間対応の契約内容への見直しを検討中。教訓:エレベーターは“止まってはいけない設備”の代表格。復旧見込みの明示や、定期点検だけでなく「事前備品確保」や「代替動線設計」などのBCP的視点が必要。また、テナントからの「営業補償」や「賃料減額」要請に発展するリスクを考慮し、法的・契約的整理も今後の課題。 総まとめ:3つのケースが教えてくれるもの これらのケーススタディは、以下の共通した実務的示唆を与えてくれます。 教訓解説初動対応の迅速性状況確認・一次遮断・専門業者手配・テナント説明をいかに早く行えるかが信頼維持の分水嶺になるテナントとの継続的コミュニケーション見通し・進捗・再発防止策の3点をセットで説明し、誠実な姿勢を見せることが、心理的不満の抑制につながる予防保全の重要性老朽化した設備はいつか必ず“壊れる”。事前更新とトラブル傾向のデータ管理こそが最も効果的なリスク対応マニュアル・BCP体制の整備クレーム対応のたびにノウハウを蓄積し、手順化することで、組織的対応力が向上する 8.すぐに使えるチェックリスト&テンプレート集 設備クレーム対応を確実・効率的に行うためには、現場でそのまま使えるチェックリストやテンプレートの整備が欠かせません。属人化しがちな対応を「誰がやっても一定の品質で回せる」ように標準化することで、対応漏れの防止、初動の迅速化、組織全体の対応力強化につながります。この章では、実際のビル管理現場で即活用できる代表的なツールとその運用法、さらに導入のメリットや更新のコツまで解説します。 (1)日常点検チェックリスト──“気付き”がトラブルを未然に防ぐ 築古オフィスビルにおいては、「異常が起きてから対応する」のではなく、「小さな異変に早く気付く」ことが重要です。そのためには、項目が網羅されたチェックリストを活用し、定期的に点検・記録する仕組みが不可欠です。チェックリスト例(空調設備):・異音・異臭がしないか・フィルターの目詰まりがないか・吹出口に風量のムラがないか・冷媒配管に霜・結露が見られないか・コントローラーの誤表示がないか運用ポイント:・最低月1回は記録を残す・異常が見つかった項目には「対応要否」も記載・写真添付可能なスマホアプリやExcel化で共有性を高める日々のルーティン点検をチェックリスト化して習慣にすることで、重大トラブルの予兆を早期に発見できます。 (2)クレーム受付シート──誰でも正確なヒアリングができる 夜間や休日にトラブル連絡が入った場合、電話を受けたのが警備員や当直者など非専門職であることも多く、聞き漏れ・記録漏れが課題になります。その解決策が、「聞くべき項目を並べた受付シート」です。 記載項目例:項目内容発生日時〇年〇月〇日〇時〇分発生場所〇階〇号室/共用部(例:男子トイレ)内容概要「空調が効かない」「異臭がする」などテナント希望対応「すぐ見てほしい」「明日対応でOK」など通報者名・連絡先社員名・携帯番号など現場の安全性ガス漏れ/水漏れ/感電リスクの有無確認 クレーム受付シートがあれば、非専門の担当でも確実に必要情報を取得でき、後工程の引き継ぎもスムーズです。 (3)緊急対応フローチャート──初動の混乱をなくす「地図」 クレーム発生時に「まず何を確認するか」「誰に連絡するか」が明確になっていないと、初動が遅れ、被害が拡大するおそれがあります。そうした場面では視覚的に分かりやすい「フローチャート形式の初動マニュアル」が有効です。例:漏水発生時の初動対応フロー①現場で安全確認(感電・階下漏水等の危険)↓②止水弁の閉鎖→応急措置(バケツ設置・タオル巻き)↓③テナントへ一次連絡+状況説明(いつ対応予定か)↓④業者へ連絡・到着予定確認↓⑤写真撮影・受付シート記入→管理会社・オーナーへ報告このように、「どんなときに、誰が、何をするか」がひと目で分かる構成にすることで、現場の不安を軽減できます。 (4)事後報告書テンプレート──「説明責任」を果たすために クレーム対応が終わった後に、オーナーやテナントへ経緯・原因・対策を報告する必要があります。フォーマットが統一されていれば、報告品質のバラつきもなくなります。標準構成:【概要】発生日時・場所・事象の要約【原因】点検・修理結果を踏まえた分析(写真付きが望ましい)【初動対応】応急処置や現場での判断・連絡履歴【恒久対策】今後の対応・再発防止策【周知状況】テナント/オーナー/関係業者への説明有無と手段【添付資料】写真・点検票・業者報告書などこの報告書は社内レビュー用(技術的詳細含む)と、社外共有用(簡潔な文体・平易な表現)で分けて用意しておくと便利です。 (5)年間予防保全スケジュール──“壊れる前”に計画的対応を 突発トラブルの多くは、「いつかやろう」と後回しにしていた予防点検・改修を逃した結果です。それを防ぐには、あらかじめ設備ごとの保全スケジュールを立て、年単位で管理することが有効です。 年間スケジュール例:月保全項目内容担当4月空調設備の試運転夏季稼働前点検管理会社+空調業者6月給排水設備点検水漏れ・ポンプ圧チェック配管業者9月照明器具・非常灯交換老朽LED更新電気業者11月エレベーター保守制御基板チェック・潤滑昇降機メーカー通年巡回点検チェックリスト対応日常管理 このようにスケジュールを事前に組むことで、「忙しくてできなかった」という属人的な抜けを防ぎます。 (6)テンプレート活用のメリットと運用のコツ 導入のメリット:対応漏れの防止:誰がやっても必要な項目をカバー初動スピードの向上:判断に迷わず、行動が早くなる説明責任の確保:記録が残ることで報告対応も万全品質の平準化:経験の浅いスタッフでも一定水準の対応が可能実務運用のコツ:現場で実際に使ってみて、使い勝手を確認定期的にアップデート(毎回の対応後に「次に活かす」工夫を追記)紙・Excel・クラウドのハイブリッドで共有新人教育に活用し、OJT+テンプレで戦力化を早める まとめ:チェックリストとテンプレートは“実務知の結晶” 築古オフィスビルの設備管理は、人に依存せず、対応の質を組織的に担保する仕組みが求められます。チェックリストやテンプレートはその最たるものであり、日々の点検から緊急対応・再発防止までを一貫して支える実務ツールです。・見逃しをなくす・行動を標準化する・対応を見える化するこの3つの効果を最大限に活かすことで、築古オフィスビルの“クレームに強い現場”づくりが実現します。 9.現場知を組織知に──マニュアルと教育体制の整備 築古オフィスビルの設備クレーム対応は、どうしても属人的になりがちです。「●●さんがいたから対応できた」「あの人がいなければ判断できなかった」──。このような状態では、担当者の異動や外注先の変更などで対応力が著しく低下するリスクがあります。だからこそ、これまで見てきた実践ノウハウやツールをマニュアル化し、組織全体で共有できる仕組み=“組織知”として定着させることが不可欠です。 (1)クレーム対応マニュアルの整備──“経験則”を“再現可能な手順”に マニュアル化の第一歩は、「現場で実際に行われている対応フローを可視化すること」です。たとえば、空調トラブル対応であれば、以下のような構成で整理できます。構成例:「空調トラブル発生時の対応マニュアル」【初動対応】・受付内容の確認項目(気温・範囲・時間帯など)・テナント第一報フォーマット・初期確認・仮対応手順(換気・スポットクーラー等)【技術対応】・業者連絡先・契約内容の整理(緊急対応の可否)・点検依頼書・履歴の記録様式・仮復旧策とその判断基準【事後対応】・復旧完了報告テンプレート(社内・テナント別)・写真の撮り方・文書への添付ルール・再発防止策の検討フロー(5Why分析等)このように一連の対応プロセスを「誰でも」「迷わず」「漏れなく」再現できる形に整備することが、現場力の底上げにつながります。 (2)ローカルナレッジを活かす──“設備ごとの個性”を記録に残す 築古オフィスビルでは、各設備に現場特有のクセや注意点(=ローカルナレッジ)があるのが常です。・「ここのボイラーは冬場の立ち上がりが遅い」・「東側フロアは日当たりで温度ムラが出やすい」・「3階の給水ポンプだけ異音が出やすい」こうした情報は経験者の頭の中にあるだけでは、“暗黙知”のままで再現性がなく、離職と同時に消えてしまいます。✅対応策:・設備ごとの“注意点メモ”を台帳に一元管理・月次会議やインシデントレビューで「今回の学び」を共有・トラブル発生→報告書作成→マニュアルへの反映というPDCAサイクルを明文化地味な蓄積ですが、これが“このビルに詳しい人がいなくても回る”状態を作る鍵になります。 (3)教育体制の整備──「OJT任せ」からの脱却 現場教育が先輩のOJT頼みになっていると、対応レベルは属人化し、質もバラつきます。そこで、あらかじめ定型化された教育カリキュラムを整備することが重要です。 時間内容備考1日目午前築古オフィスビルの設備構成と代表的トラブル講義+点検動画視聴1日目午後チェックリスト実習実地巡回形式2日目午前緊急対応フローと通報訓練ロールプレイ方式2日目午後クレーム報告書の書き方実例を使った演習3日目ケーススタディ発表グループ討議+改善提案 また、年1回の振り返り研修や、テンプレート更新の共有会などを通じて、現場と本部・外注先が同じ温度感を持てるようにすることも大切です。 (4)ナレッジを「更新可能な形」で残す せっかく作ったマニュアルも、1年放置すれば陳腐化してしまいます。・使用中止された設備・廃番になった部品・新しい業者や契約先への変更・法改正による対応義務の変化こうした変更をタイムリーに反映できる体制=ナレッジマネジメント体制が必要です。更新を滞らせないコツ:・担当者を“更新責任者”として指定・毎月のクレーム件数報告と一緒に「テンプレ更新要否」の確認欄を設ける・マニュアル管理用のGoogleDriveやNotionなどのクラウド運用を基本とする「実際の現場で使えるナレッジ」を「誰でも、いつでも取り出せる形」に整えることで、管理品質のばらつきを防ぎ、長期的な運営安定につながります。 まとめ:仕組みで人を支え、知見を積み重ねる 築古オフィスビルのクレーム対応は、知識・経験・対応力のすべてが問われる難しい領域です。だからこそ、そのノウハウを属人化させず、組織で共有し、更新できる仕組みが必要です。●マニュアル化=誰でも再現できる対応力●ナレッジ蓄積=設備特有のクセを共有●教育体制=OJTだけに頼らない人材育成●定期更新=マニュアルを“死蔵”させない工夫この4つを備えた管理体制を築けば、築古オフィスビルでも安定した品質でクレームを抑止・対応できる現場が実現します。 最終章 本コラムでは、築古オフィスビルにおける設備クレーム対応を「単なるトラブル対応」ではなく、テナント満足度と資産価値を守る“経営戦略”として捉える視点から、全9章にわたって実務的な方法論を整理してきました。最終章では、ここまでの議論を振り返りながら、築古オフィスビル管理者・オーナーが実践すべき本質的な考え方を再整理します。 (1)設備クレームは“見えない価値”の喪失につながる 設備クレームが発生すると、目に見える修繕費用だけでなく、・テナントの業務機会損失・担当者の心理的ストレス・他テナントへの悪印象の伝播といった定量化しにくい損失が広がります。そしてそれが続けば、やがて「ここでは長く借りられない」という印象が定着し、空室リスクや賃料減額交渉、更新拒否といった経営課題に発展します。すなわち、設備クレームへの対応力は、ビルの“目に見えない信頼価値”を守るための根幹だといえます。 (2)「備えるビル」が選ばれる時代へ 老朽化は止められませんが、トラブルへの備え方は変えられます。本コラムで取り上げた対応フレーム、点検チェックリスト、予防保全、テンプレート活用、マニュアル整備といった一連の手法は、どれも築古オフィスビルでも“すぐ始められる改善”ばかりです。ポイントは、「壊れるのを待ってから動く」のではなく、・兆候を見逃さない・対応を定型化して迷わない・状況を共有して誠意を伝える・記録を残して次に活かすという地道なPDCAを、全員で回していける体制を整えることにあります。 (3)設備クレーム対応力は“賃貸経営の強さ”を示す 設備が壊れないビルはありません。しかし、「壊れたときにどう対応するか」で、テナントの信頼・満足度・継続意向が決まります。逆に言えば、クレームを通して管理体制の成熟度が問われるということです。そして、その体制を支えるのが、これまで見てきたようなチェックリスト・対応フロー・テンプレート・KPI・教育マニュアルといった仕組みの質です。こうした運用の積み重ねが、結果として・空室率の低下・入居期間の長期化・「信頼できるビル」としての評判を生み出し、築古オフィスビルでも“選ばれる存在”になることが可能です。 (4)最後に:クレーム対応は、資産価値を守る「最前線」 設備クレーム対応というテーマは、一見すると後ろ向きな「消極的業務」に見えるかもしれません。しかし実際には、これほどまでにテナントとの信頼関係や、ビルそのものの価値に直結する業務は他にありません。・一件一件の対応を通じて、「このビルは信頼できる」と思わせる・「困ったときの対応力」こそが、築古オフィスビルに求められる最大の差別化要素それを可能にするのが、「現場の経験知」を「誰でも実践できる仕組み」に落とし込むマネジメント力です。設備は古くても、「対応力」は新しくできる。それこそが、築古オフィスビルにおける“最大の価値再生策”だと言えるのではないでしょうか。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月18日執筆

築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点:前編

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルにありがちな設備クレーム対応術―ビル管理者が押さえるべき要点」のタイトルで、2025年12月15日に執筆しています。コラムの内容が多岐にわたり、長くなったので、前後編に分けてお送りします。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに1.設備クレームを「発生源×緊急度」で分類する。2.原因究明プロセスを“見える化”する3.テナント・コミュニケーション3ステップ4.応急処置vs.恒久改修 費用対効果の見極め はじめに 築30年を超えるビルでは、空調・給排水・電気・昇降機といったライフライン系設備の故障頻度が急激に高まります。実際に不動産管理会社200名への調査では「故障が多い設備」のトップがエアコン36%、次いで給湯器30%、水道25.5%と水と空気を支えるインフラが上位を独占しました。出典:GMO賃貸DX編集部による独自アンケート「故障が多いと思う設備」(2021年/不動産管理業従事者200名対象)こうしたトラブルはテナントの事業継続と満足度に直結します。夏場の空調停止は室温の上昇だけでなく熱中症リスクを招き、エレベーターの長期停止は高層階テナントの移転検討を誘発しかねません。ビル管理会社の調査でも「故障・トラブルへの対応の速さ」は5点満点中4.2と評価が高く、迅速対応が信頼維持の生命線であることが裏付けられています。出典:平成ビルディング「お客さま満足度調査2024年度」経営面への影響も深刻です。ザイマックス総研のオーナー調査では「築古に伴う修繕費の増加」を不安視する声が72%で最多となり、「賃料下落64%」「空室増加62%」を大きく上回りました。さらに2024年調査では、66%のオーナーが「支出が増えた」と回答し、修繕費・資本的支出については6割超が増加を実感しています。資材高騰と人件費上昇が重なれば、突発的な故障対応がキャッシュフローを一気に圧迫するリスクは無視できません。出典:ザイマックス総研「ビルオーナーの実態調査2025①」本コラムでは、こうした築古オフィスビルの宿命とも言える設備クレームを〈発生源×緊急度〉で整理し、原因究明からテナント・コミュニケーション、応急処置と恒久改修の費用対効果までを、前編で解説します。続いて、後編へと展開して、前後編を通して読み終えたときには・優先順位の誤りを防ぐ判断軸・テナント満足度と修繕コストを同時に最適化する実務ノウハウ・老朽設備を抱えたままでも“選ばれるビル”を維持する戦略的視点を手に入れられるはずです。次章から、現場で即使えるフレームワークとチェック・ポイントを詳しく見ていきましょう。 1.設備クレームを「発生源×緊急度」で分類する。 築古オフィスビルの設備クレームは、ときに同時多発的にやって来ます。「空調が止まった」「給水ポンプから異音がする」「テナント専用Wi-Fiが不安定」──それぞれの訴えは緊急度も被害範囲も異なりますが、現場にいると声の大きさに引きずられがちです。そこで役に立つのが、発生源(何が壊れたか)と緊急度(どれほど急ぐか)を二軸で整理するマトリクスです。以下では、現場で迷わず優先順位を決められるよう、考え方と使い方を順を追って解説します。 (1)発生源を7カテゴリに分ける まずはトラブルの入口をはっきりさせます。 発生源カテゴリ代表的トラブル例特記事項(築古オフィスビル特有の注意点)空調冷媒漏れ、室外機停止旧冷媒R22系の部材調達難給排水漏水、ポンプ故障、悪臭鋳鉄管の腐食進行、階下被害リスク電気停電、分電盤焼損、照明不点灯絶縁劣化による漏電火災昇降機異音、停止、かご閉じ込め制御基板の生産終了品が多いICT共用Wi-Fi障害、通信配線損傷テナントのDX推進で要求水準が上昇セキュリティ入退室カードリーダ故障、監視カメラ死角オートロック未設置物件で増設ニーズ共用部環境照度不足、空気質悪化、騒音照明ゾーニング未対応、断熱性能低 その他を作らず、必ずどこかに分類できるよう定義を明確にしておくことが肝要です。これだけで、後の工程で「結局どの担当部署の仕事なのか」が曖昧にならず、初動のスピードが上がります。 (2)緊急度マトリクスを設計する 次に、どれだけ急ぐかを測る物差しを決めます。私は生命安全→営業継続→快適性の順で3層に分け、それぞれを 高・中・低(3・2・1点)でスコアリングする方法を推奨しています。 影響層高(3)中(2)低(1)生命安全昇降機閉じ込め、漏電火災給排水の大規模漏水なし営業継続全館空調停止、停電階層限定の空調停止部分的な通信障害快適性なし共用部の温度ムラ照明球切れ、騒音 最も高い層の点数をそのまま緊急度スコアに採用します。たとえば昇降機閉じ込めは生命安全=3点、営業継続=2点、快適性=1点ですが、最高点の3を取って「緊急度3」と判定します。こうしておけば、誰が判定しても同じ数字が出るため、担当者が変わっても判断が揺れません。また、同スコア案件が複数ある場合は、影響範囲(テナント数、人数)で順位付けします。 (3)4象限マトリクスで優先順位を即断する 発生源と緊急度が分かったら、「緊急度3×空調」「緊急度1×共用部環境」のように2軸マトリクスにプロットします。現場では下図のような4象限チャートを壁に貼り、該当する象限を指さし確認する運用が効果的です。 ・I象限(緊急度3×影響大)例:全館停電、主幹配水管破裂。→ビル管理責任者が即時判断し、専門業者を同時多発的に手配。館内放送と一斉メールで全テナントへ周知。・II象限(緊急度3×影響小)例:一テナント専用空調の停止。→まず応急処置で温度を確保し、恒久改修の見積を並行取得。・Ⅲ象限(緊急度1×影響小)例:個室照明の球切れ。→巡回点検時に交換し、台帳に記録。・Ⅳ象限(緊急度1×影響大)例:共用部LED劣化で照度不足。→年次改修計画に組み込み、補助金適用の可否を検討。象限を決めた瞬間に、「誰が・いつまでに・いくらで」を判断するテンプレートを引き出せるようにしておくと、初動がさらに早まります。 (4)判断ミスを防ぐ3つの運用ルール─「ルールがある」だけでは機能しない ①一次情報を必ず確認するクレーム受付の電話やメールは、どうしても主観が混ざります。たとえば「ビル全体が停電した」と聞いて駆けつけたら、実際には一フロアの分電盤が落ちていただけ――というケースは少なくありません。・写真・動画・計測値を取得:スマホで撮影したブレーカーの状態やBEMSのアラームログを送ってもらうだけで、緊急度の取り違えを防げます。・現場到着前に一次切り分け:設備主任が到着するまでに警備員が漏水箇所を特定し、止水栓を閉めるだけで被害額が数十万円単位で変わることもあります。②マトリクスを半年ごとに更新する築古オフィスビルでは、設備更新やテナント入替えが頻繁に起こります。にもかかわらず、数年前のマトリクスをそのまま使い続けると誤誘導装置になります。・テナント属性の変化:IT企業が入居してサーバールームを設けた場合、空調停止の営業損失は、それ以前よりも何倍にも跳ね上がることがあります。・法改正・技術進化:非常用照明の基準変更やPSE法(電気用品法)改正で、同じ故障でも法的リスクが増す場合があります。③担当と手順をセットで掲示するどの象限に入ったら「誰が」「何分以内に」「どの業者へ」連絡するか――これを一枚のフローチャートにして、管理室の壁とクラウド共有フォルダに掲示します。・夜間・休日シフトの明確化:日中は設備主任が一次判断、夜間は警備会社→オンコール技術者→専門業者の順に連絡といった時間帯別の責任者を明示。・新人教育の即効性:入社初日のスタッフでも、チャートを指させば初動対応ができるため、属人化を防げます。 (5)現場導入のベストプラクティス ・クラウド設備台帳と連動マトリクスをスマホ画面で選択すると、推奨対応フローが自動表示される仕組みを導入すると、新任スタッフでも迷いません。・想定シナリオ訓練四半期ごとに「夏場に空調が止まった」「深夜に昇降機が停止した」といったケースをロールプレイし、象限判定の精度を高める。・テナント共有ポータルマトリクスの考え方を簡潔に説明したPDFを配布し、「なぜこの順番で対応するのか」を可視化すると、クレームの二次発生を抑制できます。 まとめ 発生源×緊急度マトリクスは、設備クレーム対応を「声の大きい順」から「リスクと価値の大きい順」へ転換するための羅針盤です。これを使いこなせば、突発トラブルの嵐の中でも冷静に優先順位を決め、テナント満足度と修繕コストのバランスを最適化できます。次章では、このマトリクスを基盤にした原因究明プロセスの見える化手法を詳しく掘り下げていきましょう。 2.原因究明プロセスを“見える化”する 築古オフィスビルの設備クレームは、表面に現れた「症状」と、その背後に潜む「真因」が食い違うケースが多々あります。――冷却塔の能力不足だと思って部品を交換したのに、実はポンプのキャビテーションが根本原因だった、というように。ここでは「何が本当の原因か」を早く・正確に突き止め、関係者全員が同じ絵を見ながら動ける仕組みを構築するステップを解説します。築古オフィスビルの設備トラブルは一見すると単純に見えますが、実際はその背後に複数の原因が絡み合っています。原因を見誤れば、何度も同じトラブルが再発し、修繕費用やテナントの信頼を損なうことになります。そこで重要なのが、トラブルの原因究明プロセスを「見える化」し、関係者全員が共通認識を持つことです。本章では、その具体的な手法と実務での活用方法を解説します。 (1)「5Why分析」とログデータを併用する 設備トラブルの原因究明で広く使われているのが、トヨタ生産方式でも有名な「5Why分析」です。これはトラブルが起きた際、「なぜ?」を少なくとも5回繰り返すことで、表面的ではない真の原因(真因)にたどり着く方法です。<空調トラブルの例>・1回目の「なぜ?」空調が停止した。なぜ?→「室外機が動いていない」・2回目の「なぜ?」なぜ室外機が動かない?→「ブレーカーが遮断された」・3回目の「なぜ?」なぜブレーカーが遮断された?→「冷凍機の電流が急上昇した」・4回目の「なぜ?」なぜ電流が急上昇した?→「冷媒が不足して冷凍機が異常運転した」・5回目の「なぜ?」なぜ冷媒が不足した?→「配管継手に微細な腐食穴(ピンホール)が生じ、冷媒が漏れた」このように5回掘り下げることで、「配管継手の腐食による冷媒漏れ」という根本原因を特定できます。ただし、5Why分析は担当者の主観に左右されがちです。そこで役立つのが、設備に取り付けられたIoTセンサーやビルエネルギー管理システム(BEMS)によるログデータです。ログデータの活用メリット・トラブル発生の時刻、状況を客観的に記録・人の記憶や主観的判断に頼らず、客観的証拠で原因究明が可能・再発時も過去のデータを即座に参照でき、対応が迅速化ログデータを元に「いつ」「どのタイミングで」「どの設備が異常値を示したか」を可視化すれば、5Why分析の精度とスピードが大きく向上します。 (2)図面・設備台帳・過去修繕履歴を統合管理する 設備トラブルが起きた際、すぐに「その設備がどこにあり、どのような状態か」を把握することは本来非常に重要ですが、現実には図面や設備台帳、修繕履歴が紙ファイルや個別データとして点在しており、現場での対応が遅れる要因になることもあります。こうした状況を踏まえ、近年ではCMMS(設備管理用デジタル台帳)や、BIM(ビルインフォメーションモデリング)と連携した管理手法の整備が進んでおり、特に新築や大規模物件を中心に、設備情報を一元的に管理する動きが広がりつつあります。当社では現時点でこうしたツールの本格的な導入には至っていないものの、今後の設備管理や記録業務の効率化を考える上では、こうした仕組みの導入も選択肢の一つとして視野に入れていく必要があると感じています。特に築年数の経過した中小ビルにおいては、設備台帳や点検履歴の整理・共有が対応品質に大きく関わるため、たとえばPDF図面や点検履歴のクラウド保存、簡易なExcel管理からの脱却といった、小さな改善の積み重ねから始めることが現実的な一歩と言えるでしょう。 (3)「一次対応」と「恒久対策」を明確に切り分けるポイント 設備トラブルの対応には、緊急の「一次対応(応急処置)」と、根本的な「恒久対策(改修・設備更新)」がありますが、これらを明確に切り分けて対応することが求められます。 判断軸一次対応(応急)恒久対策(改修・更新)安全リスク人命・火災を即排除法適合を確保し再発防止ダウンタイム最短で復旧(仮設配管など)業務停止を避けられる時期に計画コスト小額・即決裁CAPEXを資金繰りに組み込む再発可能性許容(要モニタリング)10年スパンで抑え込む ・一次対応(応急処置)とはとりあえず設備を復旧させたり、安全を確保するための暫定的措置。例えば漏水時の仮止水、故障機器の緊急バイパス回路設置など、コストを抑えて即時対応できる内容です。・恒久対策とは問題の根本原因を解消し、トラブルの再発を防ぐ対策。設備の全面更新、配管や配線のルート変更、老朽部品の全面交換など、比較的コストがかかり、計画的な資金調達が必要となります。一次対応と恒久対策を切り分ける判断基準・「安全リスク」:人命や火災リスクは一次対応で即座に排除・「業務停止リスク」:最低限の一次対応をして業務を再開後、恒久対策を計画的に実施・「コスト」:恒久対策は設備更新計画に織り込み、予算を確保した上で行う・「再発可能性」:一次対応では再発を完全に防げない場合、恒久対策を検討し長期的に解決を目指すこの切り分けが明確になることで、限られた予算を有効に活用し、トラブル再発の悪循環を防ぐことができます。 (4)KPIで回すPDCA──“対応が速い”を数字で証明する 設備トラブルの対応力を改善するには、「主観的な評価」ではなく、客観的な指標(KPI)を用いたPDCAサイクルの運用が不可欠です。特に築古オフィスビルでは、クレーム対応のスピードや精度がビルの資産価値やテナント満足度に直結するため、それを「見える数字」に置き換えることに意味があります。以下は、現場で実際に使える代表的なKPIと、それぞれが持つ改善意義・運用イメージです。 KPI目的改善余地の例MTTA(Mean Time to Acknowledge):初動開始までの平均時間トラブル認識から対応着手までのスピードを可視化。対応が遅いと「放置された」と感じられ、クレームを深刻化させる要因に。夜間当番表の見直し、通知ルートの短縮で平均12分短縮した例も。MTTR(Mean Time to Resolve):復旧完了までの平均時間実際のトラブル解決までに要した時間。長期化すると営業損失が発生し、テナントの不信感を招く。予備部品を倉庫に常備することで、復旧時間を25%短縮できた事例あり。再発率同じトラブルがどのくらいの頻度で繰り返されているか。根本原因が解消されていない場合、対応の形骸化が起きている。原因分析の精度を高め、恒久対策の内容を見直すことで再発を防止。コスト/インシデント一件あたりにかかる対応コストを可視化。収支計画の精度や修繕予算の妥当性評価に活用。年次修繕と統合管理し、突発費→予算化された固定費へ平準化。 KPI運用のポイント・「ダッシュボード化」が鍵:これらのKPIは一覧表やグラフとして常時可視化することで、現場スタッフやオーナーが状況を直感的に理解しやすくなります。・レビューの仕組みをセットで運用:KPIは導入して終わりではなく、月次・四半期でレビューする会議体(例:月例設備ミーティング)とセットにして初めて活きます。・改善の「トライ&エラー」を数字で記録:対応時間や再発率の推移を追い、対策の有効性を数値で証明することで、説得力ある改善提案が可能になります。KPIは、ただの管理指標ではなく、「対応の質を言葉ではなく数字で説明できる」ツールです。テナントとの信頼構築にも大きく寄与します。 (5)スモールスタートでも十分効果が出る 「設備対応の見える化」というと、どうしても大規模物件や大手企業向けの話と思われがちですが、小規模な築古ビルにおいても、工夫次第で現実的な形で取り組むことが可能です。むしろ、複雑なシステム導入に頼らず、できるところから一歩ずつ始める“スモールスタート”のアプローチが、かえって効果的なケースもあります。初歩的な見える化:Excel+クラウド共有から始める現場の状況を無理なく整理し、情報共有を進めるだけでも、対応スピードや精度が変わってきます。いきなりCMMSなどの専用システムを導入するのは難しいという前提に立ちつつも、以下のような身近なツールを活用する方法で、徐々に“見える化”の基盤をつくっていくことが可能です。・Excelのインシデント台帳(クラウド共有) 発生日時・場所・内容・担当者・対応履歴などを一覧管理し、色分けやフィルターで進捗を視覚的に把握できます。・無料フォームツール(Google Form など) スマートフォンから現場の不具合報告が簡単に送信でき、自動的に記録が蓄積されます。現場報告の“取りこぼし”を防ぐ仕組みです。・進捗管理ツール(Google Sheets連携やNotionなど) インシデントごとに「未対応→対応中→完了」といった進行状況を一覧表示し、対応漏れや遅れを可視化できます。このような方法であれば、特別なIT知識やコストをかけずに、「今、何が起きていて、誰がどう対応しているのか」が見える状態を作り出すことができます。小さな成功体験が次のステップを後押しするこうした簡易的な仕組みでも、「トラブル対応の抜け漏れが減った」「過去の履歴がすぐに確認できた」など、小さな改善効果が実感できるようになると、次の一歩への説得力も自然に高まっていきます。将来的には、・クラウド型CMMSの導入・一部設備へのIoTセンサーの後付け設置・インシデント管理ツールの導入による自動化・通知連携といった施策も検討しうるかもしれませんが、そうした取り組みも“いきなり導入するもの”ではなく、「まずは現場で感じた不便を少しずつ解消していく中で、必要性が高まっていくもの」と捉えるのが現実的だと思われます。 まとめ:いまできる見える化を、いまできる形で 原因究明や進捗管理の“見える化”は、単に作業を整理するだけではなく、・初動対応の精度向上・対応履歴の蓄積・情報共有の効率化といった、クレーム対応の「質」を着実に向上させる土台になります。当社としても、現時点で特別なシステムを導入しているわけではありませんが、こうした取り組みは今後の管理業務の効率化や信頼構築の観点からも、段階的に考えていくべきテーマのひとつと捉えています。まずはできる範囲で、「現場で起きていることを、関係者全員が同じ視点で把握できる仕組み」づくりから始めることが、築古ビル管理における“持続的な対応力”の土台になります。 3.テナント・コミュニケーション3ステップ 設備クレーム対応において、技術的な処置と同等、あるいはそれ以上に重要なのが「テナントとの丁寧で途切れないコミュニケーション」です。とくに築古オフィスビルでは、「不具合そのもの」よりも「説明不足」や「対応の見通しが見えないこと」への不満が、テナントのストレスや退去検討の引き金になりやすい傾向があります。ここでは、設備トラブル発生から対応完了まで、信頼関係を維持・強化するための「連絡・進捗・報告」の3ステップを、実例を交えて詳しく解説します。 (1)初動連絡:一次報告フォーマットと連絡チャネルを整備する テナントから設備不具合の連絡が入った際、初動での「スピード」と「誠意」が信頼構築の鍵です。初動連絡のポイント:●“いつ報告するか”を先に伝える初動対応:「ご連絡ありがとうございます。すぐに状況を確認し、〇時までに改めてご報告いたします」と伝えることで、安心感を提供します。●一次報告テンプレートを活用:・不具合内容(例:空調が効かない)・発生日時/場所(例:5階テナントA、会議室)・管理会社側の対応予定(例:業者に依頼済み、到着は○時予定)・次回の報告予定時刻(例:○時に改めて進捗を連絡)●連絡チャネルを明確に:原則電話→要点をメールで補足。実例:あるビルで「エアコンが効かない」との連絡を受けた際、管理担当者はまずテナントに謝意を示し、5分以内に現地へ向かう旨を伝達。現場状況確認後、「専門業者の手配が完了し、〇時に到着予定です」と伝えたことで、テナントは「ちゃんと動いてくれている」という安心感を得て、以後のやり取りもスムーズになりました。 (2)進捗共有:復旧ETA(Estimated Time of Arrival)と代替策をセットで提示する 初動対応の次に重要なのが、修理・復旧までの「時間的見通し(ETA)」と「仮措置」の提示です。進捗共有の要点:●復旧までの目安時間(ETA)を明示「コンプレッサーの在庫確認中です。復旧は明日午前を見込んでいます」など、できるだけ正確な見通しを提示。●代替策を案内例:「冷房が効かない間は、ポータブル冷風機を貸し出しします」「エレベーター停止中は非常階段をご利用ください」●継続報告の約束と実行見通しがずれることもあるため、「〇日〇時に再度進捗をご報告します」と事前に約束し、必ず守る。実例:エレベーターが制御装置の不具合で一時停止した際、管理会社は掲示物で「復旧予定:◯日」「業者手配済/原因調査中」と状況を共有。さらに全テナントへメール配信で同内容を通知。代替手段として非常階段の使用を促し、テナントの不満拡大を防ぎました。 (3)事後報告:再発防止策+写真付き完了報告で信頼を確保する トラブルが解決した後も、「ちゃんと直ったこと」「今後どうするか」をきちんと説明することが、テナントの信頼維持につながります。完了報告の鉄則:●その場での報告+書面のダブル対応テナントが現場にいれば口頭+動作確認、いなければメールで報告と写真を添付。●再発防止への取り組みも併記例:「今回故障した冷却ファンは交換済みです。同系統の部品も点検対象に追加します」●ヒアリングとフィードバック活用トラブル対応について、テナントからの声を聞き、改善策を内部にフィードバックして次に活かす。実例:空調の故障対応で、交換部品の到着と取り付け完了後、「原因は劣化によるコンプレッサー故障で、同形式の部品も追加点検します」と報告。完了報告には施工中・完了後の写真を添え、「設備管理を強化して再発を防止する姿勢」が伝わったことで、クレームどころか「丁寧に対応してくれてよかった」という声がテナント側から寄せられました。 (4)テナント対応の実例:連絡受付~進捗報告~完了報告までの一連フロー ▼10:00 テナントから連絡:「5階の会議室の空調が効かない」▼10:02 管理スタッフが折り返し:「現地確認に向かいます」▼10:10 状況確認→応急対応:電源再起動/異常継続▼10:20 専門業者を手配→ETAをテナントに伝達(13:00到着予定)▼11:00 中間報告:「まだ業者到着前ですが、念のため仮設冷風機を設置しました」▼13:30 業者到着→調査・修理開始▼15:30 修理完了→テナントに報告/現場立ち会いで確認▼16:00 写真付き報告書をメール送信/再発防止策と点検強化予定を添えるこのように、対応の流れを時間軸で追いながら、進捗とコミュニケーションの両面を記録・共有しておくことで、管理品質の可視化にもつながります。 まとめ:クレーム対応は「説明力」がすべてを左右する 設備トラブル対応の良し悪しは、「技術力」だけで決まりません。むしろテナントが重視するのは、「不具合時にどれだけ迅速かつ誠実に状況を伝えてくれたか」という説明対応の質です。3ステップ:①初動の迅速な一次連絡②進捗の定期報告と見通しの共有③完了報告と再発防止の姿勢を徹底することで、トラブルを「信頼強化のチャンス」に変えることも可能です。次章では、こうした対応プロセスをさらに強化するために必要な、「応急処置」と「恒久改修」の線引きとその実務判断について、費用対効果の視点から掘り下げていきます。 4.応急処置vs.恒久改修 費用対効果の見極め 築古オフィスビルで設備トラブルが発生したとき、現場が最も悩むのが「応急処置でしのぐか」「恒久的に設備更新するか」という判断です。対応が早ければテナントの安心感を維持できますが、費用や時間をかけすぎると収支に響く。逆に、目先のコストを抑える応急対応だけで済ませてしまうと、将来的により大きなリスクを招くこともあります。ここでは、応急処置と恒久改修の費用対効果をどう見極めるかについて、判断軸・実例・効果測定の観点から解説していきます。 (1)応急処置とは:「今をしのぐ」ための短期対応 応急処置とは、緊急事態をその場で制御・緩和するための一時的な暫定対応です。例えば…・漏水箇所にタオルや防水テープを巻いて止水・故障したポンプを叩いて再起動させる・停止中の空調代替としてスポットクーラーを仮設置するといった、技術的に根本解決には至らないが、その場の影響を抑える手段です。●応急処置の利点・対応までの時間が短い・低コストで済む(業者を呼ばずに自社対応できることも)・被害拡大を防げる●限界とリスク・再発リスクを残す(真因が未解決)・設備へのダメージを悪化させる可能性あり・結果的に“場当たり対応”の繰り返しとなり、コストが累積する応急処置は「やむを得ないときの初動対応」として有効ですが、「それで済ます」ことが目的化してはいけません。 (2)恒久改修とは:「再発を防ぐ」ための中長期投資 恒久改修とは、老朽化・故障した部品や設備を根本から修繕・更新する対応です。一時的な処置ではなく、「この問題を今後起こさないためにどうするか」という視点で投資判断を行います。恒久改修のメリット・設備寿命の延長と機能回復・トラブルの再発防止、管理コストの平準化・テナントの信頼向上と空室リスクの低減ハードル・初期費用が大きい(数十万円〜数百万円)・工事日程やテナント調整が必要・一時的にテナント業務に影響が出ることもある恒久改修を決断するには、中長期の損得を冷静に見積もる視点=ライフ・サイクル・コスト(LCC)が求められます。 (3)ケーススタディ:高圧受電設備の故障と費用対効果 実際の現場から学ぶべき事例です。事例概要:築35年のオフィスビルにて、キュービクル(高圧受電設備)が経年劣化。定期点検で「更新を推奨」とされたが、オーナーが予算難を理由に見送り。→その夏、猛暑日に過熱で絶縁破壊→全館停電・緊急改修→復旧まで3日間。テナントへの損害補償、工事の緊急対応費用、ビル管理会社の信用失墜…。事例比較:事後vs.事前の費用差(数字は例示) 項目予防的改修(事前)緊急対応(事後)機器更新費用約250万円約300万円(緊急手配+休日施工)テナント補償0円約180万円空室リスクなし1社が退去検討に発展評判・信頼維持口コミ・レビューで悪化 →結果的に、事前対応の方がトータルで安価かつ信頼維持にもつながったという典型事例です。 (4)応急vs恒久の判断基準チェックリスト 設備トラブル発生時、「今どうするか」「次にどう備えるか」を判断する際には、以下の軸で費用対効果を見極めます。 判断軸応急処置が適すケース恒久改修が必要なケース安全性人命に関わらない/火災リスクなし漏電・閉込め事故などリスクがある業務影響範囲一部のみ全館空調、昇降機、共用給排水など再発可能性確率が低いor原因不明過去にも同様トラブルが起きているコスト/時間低コストかつ短時間で対応可能コスト長期的に見るとコスト安になる見込みあり設備寿命寿命内or一時的なトラブル耐用年数を大幅に超過、部品入手困難 ※「応急→恒久へ」の段階的対応も現実的な選択肢です。 (5)築古オフィスビル特有の注意点:部材入手・法適合性 築30年以上の物件では、「恒久改修がしたくてもすぐにはできない」という実務的なハードルも存在します。部材の生産終了:古い昇降機の制御基板や冷凍機の部品が製造中止法改正への対応:改修時に建築基準法や消防法の最新基準に適合させる必要が出てくる(付帯コスト増)工事スペースの不足:改修時の搬入経路・作業スペースが確保できない→これらを事前に確認・整理しておくことで、「やるべきときに、できない」という事態を防ぐことができます。 (6)効果測定とオーナーへの説明 恒久改修はオーナーにとって資本的支出となるため、効果を「数字」で示すことが次の意思決定を促します。効果の可視化例:「老朽ポンプを更新後、漏水ゼロを12か月連続で維持」「空調更新により年間電気代を△△万円削減」「トラブル件数が前年比−80%」「苦情件数ゼロ継続中」こうしたKPIをレポートや写真付き報告書で提示することで、オーナーも納得感を持って次の更新を判断できます。 まとめ:「今だけ」か、「将来まで」かの判断を仕組み化する 応急処置は現場対応として不可欠ですが、それが目的化されると危険です。一方、恒久改修はコストも手間もかかりますが、長期的には安心・信頼・収益性を高めるための“投資”です。✔応急か恒久かを「属人的判断」ではなく「判断フレーム」で整理する✔設備の状態を台帳・履歴で管理し、適切な更新タイミングを見極める✔更新効果をKPIで見える化し、次のアクションにつなげるここまでの前編では、築古オフィスビルにおける設備クレーム対応の基本的な視点や、初動対応・原因究明・応急処置と恒久対策の見極めについて整理してきました。後編では、こうした対応力をさらに実務として定着させていくために、「外注先とのマネジメントと責任分界点の整理」を皮切りに、予防保全、情報共有、マニュアル整備までを中長期視点で解説していきます。引き続き、後編もぜひご覧ください。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月15日執筆

既存賃貸オフィスビルのエレベーター改修と混雑緩和の現実的対応

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「既存賃貸オフィスビルのエレベーター改修と混雑緩和の現実的対応」のタイトルで、2025年12月11日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに1.エレベーターの台数が「待ち時間」を決める2.エレベーター改修・性能アップ時に考慮すべきポイント(既存の中型オフィスビルにおける現実的対応)3.朝のラッシュを緩和するための工夫と具体的な事例(中型オフィスビル向け実務対応)4.築古・賃貸オフィスビルのエレベーター改修の実務ポイント5.まとめ―現実的なエレベーター問題解決への提言 はじめに ― 朝、ロビーに溜まる“静かな行列”から 午前8時15分。ビルのガラス張りのエントランスを抜けると、コーヒー片手にスマートフォンをのぞき込む人々が、まるで無言のラリーのようにエレベーターホールへ吸い込まれていきます。だが、ホールに入った瞬間に足は止まり、視線は一斉に天井のランプへ――「▲」「▼」の小さな矢印が、いっこうに自分の番を示さない。ロビーはざわめくでもなく、しかし確実に“溜まって”いく。気づけば背後には十数人、列の最後尾は建物の出入口の自動ドア付近にまで延び、エスプレッソの香りよりも“間に合うか”という焦りの気配が濃くなっていきます。このコラムでは、こうした朝のエレベーター混雑を解決するための実務的なポイントを、エレベーター工学の基礎ロジックと管理現場の視点を交えて整理します。朝一番、ロビーに漂うあの“静かな行列”を少しでも短くするヒントを、ぜひ持ち帰っていただければ幸いです。 1.エレベーターの台数が「待ち時間」を決める (1)賃貸オフィスのモデルケース 今回のコラムでは、ある典型的な賃貸オフィスビルをイメージしながら考えてみます。ビルは都内によくある地上8階建て、オフィスが入っているのは2階から8階までの7フロア。1フロアあたりの面積は約100坪(実際にデスクを並べてオフィスとして使えるスペースはおよそ80坪)。一般的に、オフィスでは一人当たり3坪程度のスペースを要しますから、1フロアあたり約27名が働いている計算になり、7フロアを合計すると約190名。この190名が朝の8時から9時までの間に一斉に出勤すると考えると、その1時間はビルにとって最も「渋滞」が起きやすい時間帯ということになります。さて、ここで気になるのは、エレベーターの待ち時間です。 (2)エレベーターの待ち時間の計算 朝8時台のオフィスビル。たった1時間の間に、190人近い人々が次々とエレベーターに乗って自分の職場へ向かいます。仮にエレベーター1台が往復(ラウンドトリップ)する時間を80秒、実際に乗れる人数を約10人としましょう。ここで、エレベーターが1台しかなかったら、どうなるでしょうか?190人を運ぶには約19往復が必要になります。単純に計算すると、80秒×19往復=1,520秒、つまり約25分もの時間がかかってしまいます。待つ側にとってはとても長い時間です。平均待ち時間は約40秒と理論的には短く聞こえますが、これは理論上の話。現実には、エレベーターホールには「行列」が発生し、利用者にストレスが蓄積されてしまいます。では、エレベーターを2台に増やすとどうでしょうか?2台運用の場合、1往復で合計20人を運べるため、必要な往復回数は約10回。所要時間は10回×80秒=800秒(約13分20秒)となり、1台運用時の半分程度に短縮されます。平均待ち時間も約20秒へと改善されますが、こちらもまた理論上の数字。現実には、タイミングのずれや途中階での停止回数が増えることで若干の遅延が発生し、感覚的にはもう少し長く感じるでしょう。こうしてみると、100人を超える規模になると、エレベーター1台で朝のラッシュを捌くのは現実的ではありません。150人を超えるような規模では、間違いなく2台配置が推奨されます。しかし、ここで忘れてはならないのが、「本当にエレベーターを増やすだけで解決できるのか?」という問いです。また、ビルの階数が8階程度の場合、実はエレベーターの速度を単純に上げたところで、劇的な改善は望めないという現実があります。エレベーターに乗り込む時間、ドアの開閉、各階での停車時間、加速・減速にかかる時間が速度よりも大きな影響を与えているからです。つまり、朝の混雑を解消し、より快適にエレベーターを使えるようにするには、エレベーター自体の台数を増やすのは無理として、エレベーターの速度を上げることの効果が望めないとして、「制御システム」や「乗降効率」、さらに「エレベーターをどの階に待機させるか」といった運用面での工夫が必要になるのです。では具体的に、どのような工夫や改修が有効なのか――次章では、エレベーターの性能アップを考える上での実務的なポイントを掘り下げて解説していきます。 2.エレベーター改修・性能アップ時に考慮すべきポイント(既存の中型オフィスビルにおける現実的対応) 前章までで触れたように、既存の中型賃貸オフィスビルでは、エレベーターを増設したり、昇降路のサイズ自体を変更したりするような大規模な改修は、構造上またコスト的にも現実的ではありません。ここでは、フロア約100坪・地上8階建てでエレベーターが2台設置された既存ビルを想定し、実務上可能で現実的な改修のポイントを整理します。 (1)制御システムの更新(最新の「群管理制御」へ) 築20~30年以上の中型オフィスビルでよく見られるのが、「セレクティブ・コレクティブ制御」と呼ばれる旧式のエレベーター制御方式です。これは単純に各階の行先ボタンが押された順に止まる方式のため、効率的な運行が難しく、待ち時間が長くなる原因となります。近年、中型オフィスビルの改修事例で現実的かつ効果が高いとされるのは「群管理制御」の導入です。エレベーター2台でも群管理制御を適用すれば、ピーク時間帯にそれぞれのエレベーターが異なるフロアに効率よく分散して運行できるため、待ち時間を実質的に短縮できます。※一方で「行先予告方式」や「AIディスパッチ制御」は、エレベーター台数が4~5台以上ある大型ビル向けであり、2台程度の中型オフィスビルでは導入効果が限定的であるため、推奨されません。 (2)エレベーター内装リニューアルによる心理的快適性の向上 エレベーターの速度や物理的な乗降効率を大幅に改善することが難しい中型オフィスビルでは、内装や照明、操作パネルの改善が現実的で有効な対策です。例えば、暗い蛍光灯を明るいLED照明に変えるだけでも、乗車中の心理的ストレスが軽減され、体感待ち時間が短縮されるという効果があります。また、古いボタン式の操作パネルをタッチパネル式の見やすいタイプに変更することで、使いやすさや快適性も向上します。こうした内装の小規模改修は比較的低コストで実現可能であり、テナントの満足度向上にも効果的です。 (3)待機階設定や運行最適化の柔軟な調整 エレベーターが2台ある場合、ピーク時間帯や曜日ごとの利用状況を分析して待機階を柔軟に設定することも有効な改善策です。例えば、朝のピーク時は2台とも1階で待機させる一方、昼間の使用頻度が高い中間階に1台を常時待機させるなど、細かな運用調整で待ち時間の短縮を図ることができます。ただし、古いタイプの制御盤ではこうした細かな調整が難しい場合があります。制御盤更新のタイミングで、柔軟な待機階設定が可能な最新の制御装置への更新を検討するのが現実的です。 (4)速度アップの改修は実務上非現実的 8階建て程度の低層・中型オフィスビルでは、エレベーターの速度を上げても実際の待ち時間短縮にはほぼ効果がありません。加速・減速にかかる時間や各階停止時のドア開閉時間のほうが影響が大きいためです。速度アップを目的としたモーターや巻上機の全面交換は、費用が高額になる一方で、実質的な効果が限定的であるため、費用対効果の面から実務的には推奨できません。設備の老朽化が進んでいる場合には、静音化や省エネ化を目的として最新の機器に交換することは検討に値します。 3.朝のラッシュを緩和するための工夫と具体的な事例(中型オフィスビル向け実務対応) これまで、エレベーターの設備改修や性能向上のポイントについて整理してきましたが、設備自体を変更するには時間もコストも相応にかかります。そこで、既存設備を活用しながら、すぐに取り組める運用面での改善について具体的な事例とともに解説します。 (1)時間帯に合わせた柔軟な運行設定 中型オフィスビルでの混雑緩和に最も有効なのが、エレベーターの運行パターンを時間帯や利用状況に応じて調整することです。特に朝のピーク時には、2台のエレベーターを1階に待機させることで効率的な人員輸送が可能になります。一方、昼休みや帰宅時など利用が偏る時間帯は、1台を上層階や中間階に待機させることで、待ち時間の短縮が期待できます。実際に、東京都内のあるオフィスビル(フロア100坪程度・エレベーター2台)では、ピーク時に待機階設定を変更するだけで朝の待ち時間が体感で20~30%程度短縮したという実績があります。 (2)低層階利用者への階段利用促進 特に朝のピーク時、2階や3階などの低層階勤務の方はエレベーター利用を控え、階段の積極的な利用を促す取り組みが効果的です。階段を明るく整備し、誘導サインを見やすく設置することで、自主的な階段利用が促進されます。実際に、中央区にある中型オフィスビルで低層階(2~3階)の利用者に対して階段利用を推奨する取り組みを行ったところ、ピーク時のエレベーター利用者が約20%減少し、上層階の利用者からも待ち時間短縮の実感が報告されています。 (3)テナント企業への時差出勤推奨 朝のラッシュの根本的な緩和策として最も効果的なのが、テナント企業と連携した「時差出勤」の導入です。始業時刻を15分~30分ずらすだけでも、ピーク時のエレベーター混雑は大幅に軽減されます。ある東京都心の中型賃貸オフィスビルでは、テナント企業に働きかけ、社員の出社時間を複数パターンに分散させました。その結果、エレベーター待ちがほぼ解消され、ビル内の快適性も向上しました。ビル管理会社がテナントと積極的にコミュニケーションをとることで、こうした施策の実現可能性は高まります。 (4)待ち時間情報の伝え方に関する考え方と配慮 完全な混雑解消が難しい場面では、「あとどのくらいでエレベーターが来るのか」が分かるだけでも、心理的なストレスが軽減されるという利用者の声があります。たとえば、到着予測や混雑状況などの情報を、必要に応じてさりげなく提示する工夫は一つの選択肢となり得ます。ただし、エレベーターホール周辺は来訪者の目にも触れやすく、空間の印象を左右する場所でもあります。情報提供の仕方には、美観やブランドイメージへの配慮が求められます。表示を最小限にとどめる、もしくはバックヤードや社内イントラネットなど視覚的ノイズを抑えた形での案内を検討するなど、設置方法や媒体の選定には慎重な判断が必要です。実際に、東京都内のある中型オフィスビルでは、表示を必要最小限のサインにとどめることで、「過剰な演出感を避けつつ利便性は確保できた」という好意的な評価も得られています。 4.築古・賃貸オフィスビルのエレベーター改修の実務ポイント 一般的に、竣工から20年、30年を経過した築古・賃貸オフィスビルでは、エレベーター設備の老朽化が目立ち、機器故障のリスクが高まるとともに運行効率も低下しています。そのため、一定期間ごとにエレベーターの性能を維持するための計画的な改修を検討する必要が出てきます。ただ、実際に改修を検討する際には、費用や改修範囲、現実的な対応可能性など不安な点も多いでしょう。ここでは、実際の事例も踏まえ、既存中小規模のオフィスビルにおけるエレベーター改修の具体的な留意点と、現実的な改修手法を整理します。 (1)エレベーター改修で特に注意すべきポイント 築20~30年が経過したエレベーター改修にあたり特に留意すべき点は、以下の通りです。部品調達の難易度:竣工から一定期間経過すると、部品が製造終了していることが多く、故障が発生した際に修理部品の調達が難しくなります。特に制御装置や巻上機など重要部品は早めの交換を検討する必要があります。制御システムの老朽化:古い制御システムは効率が悪く、特に朝のピーク時などに待ち時間が大きくなる原因となります。新しい制御方式への更新で、運行効率の向上と安全性の確保が期待できます。法令や安全基準への適合性:建築基準法、消防法、昇降機の安全基準などは定期的に更新されます。改修時には、これら最新の規制や基準に適合するように検証し、必要な措置を行う必要があります。 (2)現実的なエレベーター改修の範囲と具体例 実際の中小規模オフィスビルにおけるエレベーター改修では、建物構造に大きな手を加えるのではなく、設備更新によって性能や快適性を向上させます。ここでは、エレベーターの設備更新は、「制御系」と「機械系」を主に対象としていますが、オーナーの希望、状態によっては、「内装(意匠)系」の改修も合わせて実施することがあります。① 制御系(制御盤・操作盤など)改修の中心となるのが制御系の更新です。築20年~30年のビルでは、旧式のセレクティブ・コレクティブ制御が使われていることが多く、これを最新の群管理制御に更新することで、朝のピーク時などの運行効率が大幅に向上します。制御盤を更新する際は、通常、エレベーター内の操作盤(カゴ内)や各階の呼び出しボタンなども一体で交換されます。更新により待ち時間の短縮、ドアの動作改善、停止精度の向上などが期待されます。② 機械系(モーター・巻上機・ドア装置など)制御系と並んで重要なのが、駆動装置やドア機構といった機械系の更新です。老朽化したモーターやドアの駆動部は、騒音・振動・故障の原因となることが多く、安全性と快適性の観点から更新が推奨されます。巻上機については、使用頻度や劣化状況を踏まえた個別判断となり、必ずしも更新が必要とは限りません。機器自体に問題がなければ、更新せず継続使用するケースもあります。③ 内装系(カゴ内の仕上げ・照明など)内装リニューアルは比較的低コストで実施でき、心理的な快適性やビル全体の印象改善に効果的です。照明をLEDに変更したり、カゴの床材・壁材を刷新することで、エレベーター利用時の印象が大きく変わります。また、こうした内装工事は必ずしもエレベーター専門業者に依頼する必要はなく、内装工事を扱う業者に分離発注することも可能です。費用対効果の高い改善ポイントとして、多くのビルで採用されています。※なお、昇降路の拡幅や扉の幅を広げるといった構造に関わる工事は、既存ビルではほぼ実施不可能であり、現実的な選択肢とは言えません。 (3)改修費用の概算(実際の事例) 改修費用は改修範囲や施工方式によって大きく変動しますが、以下は8〜10階建てクラスの中小規模ビル(エレベーター1台)における実際の費用感の目安です。・制御盤・モーター・ドア駆動部など主要機器の更新: 約700万円~1,000万円程度・巻上機も含めたフルセット更新+エレベーターメーカーによるフルメンテナンス契約付き: 約1,500万円~2,000万円程度・内装リニューアル(照明・床・壁など): 約30万円~50万円程度実例として、東京都内の築25年・10階建て賃貸オフィスビルで、制御盤とモーターの更新を行ったケースでは、改修費用は約800万円でした。 (4)エレベーターの方式と種類 中小規模の賃貸オフィスビルで主に採用されているエレベーター方式は以下の2種類です。ロープ式(巻上機式)エレベーター:最も一般的で、築20年以上のビルではほぼこの方式です。モーターと制御盤、巻上機の更新を中心とした改修を行います。油圧式エレベーター:低層(5階程度まで)の小規模ビルで採用されることがありますが、最近は運行効率やエネルギー効率の面で敬遠される傾向があります。改修の際はロープ式へ全面的に変更することもありますが、構造的制約と高額な費用から実務的には少数派です。 (5)まとめ――エレベーター改修は現実的な範囲で段階的に 築古・賃貸オフィスビルにおいては、「全ての改修を一度に完結させるのではなく、優先順位を付けて段階的に改修を進めること」が重要です。特に部品の調達難易度や安全性確保の観点から、制御盤や巻上機などの更新を優先し、内装リニューアルなどはテナント満足度向上やビル競争力向上に寄与するタイミングで実施するのが現実的でしょう。エレベーター改修は、設備投資効果を見極めながら現実的な範囲内で最大限の効果を引き出すことが、賃貸オフィスビルの競争力とテナント満足度向上に最も有効な方法です。 5.まとめ―現実的なエレベーター問題解決への提言 ここまでの章を通じて、低層・中規模の既存賃貸オフィスビルにおけるエレベーター問題の現状と、実務的かつ現実的な解決策について整理してきました。特に竣工から20~30年を経たビルでは、老朽化に伴う機器のトラブルや運行効率の低下が避けられない課題として浮上します。エレベーターの台数増設や昇降路の改修など構造的変更は、既存ビルでは実務的に非常に困難であることから、現実的には既存設備をいかに有効活用するかが鍵となります。具体的には、制御システムの更新や内装リニューアル、さらには運用の最適化(待機階設定やピーク時対応の改善)が有効な方法です。また、設備だけに依存するのではなく、時差出勤や階段利用推奨といったテナント企業と協力した運用改善も重要な取り組みです。こうした施策は、設備の改修に比べれば比較的低コストで実施可能であり、実際の混雑緩和にも大きく寄与します。最後に、エレベーターの改修において重要なのは「現実的な範囲内での段階的な取り組み」です。投資効果を最大化し、テナントの満足度向上とビル競争力の維持・向上につなげることが、オフィスビルオーナーや管理者にとっての最も実務的かつ効果的なアプローチと言えるでしょう。本コラムが、既存オフィスビルにおけるエレベーター課題の現実的な解決策を考えるヒントとなり、皆さまの実務の一助となれば幸いです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月11日執筆
 
 
 
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