皆さん、こんにちは。

株式会社スペースライブラリの飯野です。

この記事は「このビルを“知っている人”が、もういない―記憶の消失と築古の賃貸オフィスビルの未来」のタイトルで、2026年1月15日に執筆しています。


少しでも、皆さんにお役に立てる記事にできればと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

第1章:ある日、“誰も知らないビル”になっていた

ある日、テナントから漏水の連絡が入った。
上階からの水が天井をつたって落ちているという。現地に急行したビル管理会社の担当者は、すぐに図面を開き、可能性のあるルートを確認した。だが、設備業者と一緒に点検しても、対応する配管も水の通り道はなかった。
図面は形式的には整っている。過去の点検記録も残っている。にもかかわらず、「なぜ水が出たのか」が、わからなかった。
翌週になってようやく、20年前の改修で移設された給水管が、現場で発見される。図面には載っていなかった。施工業者はすでに廃業しており、関係者は誰も、その改修を“知らなかった”。

ここでの説明は架空の想定であるが、こうした出来事は、築古の賃貸オフィスビルの運営において決して珍しいものではない。
建物自体が老朽化しているというよりも、「この賃貸オフィスビルのことを知っている人がいなくなっている」ことが、深刻なリスクになりつつある。
図面、台帳、仕様書、点検記録――形式上の“記録”はあっても、それをどう読めばいいのか、なぜこうなっているのかを語れる人間がいない。
結果として、現場では「判断できない」場面が頻出する。修繕ひとつ、仕様変更ひとつ、すべてが曖昧になる。

記録と記憶のあいだには、大きな違いがある。
記録は書いてあれば残る。だが記憶は、「誰かが知っている」ことを前提としてはじめて効力を持つ。
築古の賃貸オフィスビルの管理において、図面にない知識、言語化されない手順、根拠のない判断の勘所――そうした“記憶”によって維持されてきた部分は、想像以上に多い。

たとえば

  • 「この部屋は夜間に照明を落としすぎるとクレームが出る」
  • 「このフロアだけは空調のバランスが不安定だから、設定を少し変えてある」
  • 「昔、水漏れがあったので、共用部の荷物は壁から離して置くようにしている」

こうした“使われ方の履歴”は、図面に残らない。

けれども、それを知っている誰かがいたからこそ、実務はスムーズに流れていた。

しかし、その誰かは、いずれいなくなる。
長年の担当者が退職したとき、ベテランの営繕が異動したとき、委託業者を入れ替えたとき――
それまで「当たり前」のように運営されていたことが、急にうまくいかなくなる。
設備が壊れたわけではない。図面が間違っていたわけでもない。
けれど、このビルを“知っていた人”がいなくなったことで、現場が迷い始める。

この「誰も知らないビル」になるという状況に陥ることで、
築古の賃貸オフィスビルにおける“価値の揺らぎ”が、物理的な劣化よりも先に起き得るということを、静かに突きつけている。
そしてこのとき、私たちははじめて気づく。
この賃貸オフィスビルの価値とは、「残っている書類」ではなく、「覚えている誰か」によって支えられていたのだと。

だが、「覚えている誰か」がいなくなった賃貸オフィスビル管理の現場で、私たちは、なにを手がかりに、どんな判断を積み重ねていけるのか。
すべてを知ろうとすることは、本当に可能なのか――。
“知らない”現場とどう向き合い、どんなやり方で築古の賃貸オフィスビルの管理・運営を続けていくべきなのか。
その問いを携えて、次章から考えてみたい。

第2章:築古の賃貸オフィスビルの価値は、“知っている人”に宿っていた

築古の賃貸オフィスビルの管理・運営において、図面や台帳、仕様書が完璧に揃っていることは、まずない。

また、たとえ、あったとしても、「どこに何があるのか」「どこが要注意ポイントなのか」を即答できる人がいなければ、実務の現場ですぐに役立つわけではない。


なぜ“人に宿る記憶”がビルの価値を支えるのか

築古の賃貸オフィスビルでは、建物自体の老朽化が進む一方で、日々、使われ、調整され、折り合いをつけながら“運営”が続いていく。

ただし、その日常は、「現場の歴史を知る人」「テナントの事情を知る人」「設備の癖を知る人」――つまり“知っている人”の存在があってこそ、かろうじて現場に絶妙なバランスが保たれている。

1.トラブルの“芽”を事前に摘む力

たとえば設備点検の現場では、
「毎回この配管の音を気にしている」
「去年の夏、この空調だけが止まった」
「この階の照明は、ときどきブレーカーが落ちる」
――そんな、書類には残らない細かな注意点や違和感が、現場を長く見てきた担当者のなかに自然と積み重なっていく。
こうした蓄積があるからこそ、定期点検や日常巡回の精度が上がり、突発的な故障や事故を未然に防げる。
実際、「前の担当者のときは、トラブルが少なかった」と後から気づく場面も多い。
それは、長年現場を見てきた担当者による、“自然に身についた感覚”や“経験に裏打ちされた対応力”があったからだ。

2.柔軟なテナント対応力

築古の賃貸オフィスビルは、得てして、長期入居のテナントが多い。
彼らは時に“イレギュラーなお願い”をしてくるが、これを機械的に「契約外」として断るだけでは、関係が悪化し退去につながることもある。
ベテラン担当者は、「○○さんは毎年この時期、郵便物の受け取りを工夫する」
「このテナントは○曜日だけ残業が多いので、空調を延長する」
といった“クセ”を把握し、ルールの枠内で最大限柔軟に運営する。
この蓄積が、「なんとなく居心地がいい」「管理が行き届いている」というテナント満足度につながり、長期にわたって安定して入居を継続する要因になり得る。

3.管理の現場の“歴史”を知ることで、問題発生を防ぐ

たとえば

  • 以前、工事で問題が発生した場所では、必ず立会いをつける
  • 雨の日だけ床にタオルを敷く“暗黙のルール”がある
  • かつて苦情が続いた区画を念頭に置いて、説明用の資料がストックされている

こうした「なぜ、そうしているのか?」、“知っている人”によって語られ、現場の判断に活かされている。

この情報が途絶えた途端、「重大な事故につながるリスク」や「スリップ事故とテナントからのクレーム」「同じようなクレームが繰り返される」といった問題が起こりやすくなる。

人の記憶がビル運営を“なめらかにする”

賃貸オフィスビルの管理・運営とは、「一見同じことの繰り返し」に見えて、実際は“例外対応”と“微調整”の連続だ。

新しい設備を入れても、マニュアルを整備しても、

「現場を知っている人がいなければ、イレギュラーには対応できない」

現場の“なめらかさ”を作るのは、管理担当・営繕・設備業者――

それぞれが持つ「自分なりの注意点」「工夫」の積み重ねだ。

それでも人は、いなくなる

だが、この“知っている人”がいなくなった途端に、ビルの運営は急にぎこちなくなる。これまで気にも留めていなかった「段取り」や「気配り」が抜け落ち、トラブルやクレームが増える。
そして、「誰も知らない」「なぜこうしていたのかわからない」という事態が、じわじわと広がる。

築古の賃貸オフィスビルの価値を支えているのは、“その場を知る人”に宿った記憶の積み重ねだった。
そうした記憶は、一朝一夕で書類に記録できるものではなく、日々の現場で、人を介して静かに受け渡されてきた。

次章では、この「人に宿る記憶」が消えていくとき、どんな問題が起きやすくなり、具体的にどんな損失が発生するのかを深掘りしていく。

第3章:“記録”の限界と、“記憶”の消失が引き起こす問題・損失

設備台帳、図面、仕様書、マニュアル――

ビル管理の現場では、形式的な記録を「取り揃えておくこと」が重視されてきた。

こうした「書類」がすべてのビル管理の基礎となり、必要不可欠なものであることになんら異論はない。

しかし現実には、書類がそろっているだけでは現場を回しきれない

特に築年数が古い賃貸オフィスビルほど、「過去の変更」「場当たり的な改修」「担当者ごとの慣例」などが積み重なり、

“書かれていない運用”が多く存在している

1.「図面と違う」現場が日常になる

築古の賃貸オフィスビルでは、何十年ものあいだに設備更新やレイアウト変更、テナント工事が繰り返される。

そのたびに「図面や台帳も更新されるはず」だが、全てが正確に反映されることは稀であると言えよう。

  • 改修時の工事内容が、正確に図面に追記されていなかった。
  • たとえば、配管ルートが、途中で“仮設”のまま固定化され、どこにもその経緯が記録されていないケース
  • 空調や照明が、現場判断で“臨時結線”され、そのまま使われていたり
  • テナント工事の一部を、その場の判断で、現状復旧の対象からハズして、そのまま使われていた。その部分は図面には反映されていない。

その結果、図面と現場の食い違いが増えていく。

【実例:漏水時の混乱】

コラムの冒頭で紹介したエピソードの流れに沿って説明すると。

  • 上階からの水漏れトラブルが発生した際、管理者はまず図面で配管ルートを確認しようとする
  • ところが、図面上、給水配管は存在しない場所から水が漏れている
  • 現場を開けて確認してみて初めて「現状と図面の不一致」に気付く
  • 20年前の改修で配管ルートが変更されていたが、その当時の施工担当は既に退職し、その経緯を知る人もいない上、図面も記録もない。

「なぜ、ここから水が出るのか」

「この配管はどこにつながっているのか」

誰も答えられない。

「図面では対応できないので、一度、調査し直さないと、復旧判断ができない」状況になり、調査は広範囲に及び、復旧に時間も費用も想定以上に膨らむ。

2.「理由」が消えた瞬間に、現場判断が止まる

図面、台帳、手順書に、“やり方”は書かれていても、

  • 「なぜその順番で作業するのか」
  • 「なぜその場所だけ鍵が二重になっていて、その状態が残してあるのか」

その“運用の理由”や“経緯”が引き継がれていない場合、現場の担当者は、とりあえず「前任者がやっていたから…」、そのやり方をなぞる。

もしくは、理由が分からないから、「前任者のやり方」を否定して、

  • 意味がわからないままルールを変更し、トラブルが再発する。
  • 本当は続けるべき例外運用が“面倒だから廃止”され、後で大きな問題になることもあり得る。

記憶が消えると、「現場の判断」が鈍くなり、運営がぎこちなくなりがちである。

3.“記憶の空白”でコストもリスクも膨らむメカニズム

「詳細がわからない」や「理由が不明」な部分が増えると、設備のトラブル対応にあたって、調査が長引き、責任も曖昧になり、過剰な工事や無駄なコストが発生、現場の混乱が膨らみ、ひいては、テナントの不満へと直結する。

  • 本来の現場知が残っていれば

―「この症状なら、まずここを見ればいい」「毎年同じ場所が壊れやすい」など、経験の蓄積により、修繕の判断が的確になり、最短ルートの点検・修理ができる。

―原因箇所をすぐに特定、必要な修理をコンパクトに実施し、対応。


  • ・現場の“記憶”や経験の蓄積が途絶えると、設備のトラブル対応は「手探り」や「全部当たる」やり方になりがち。
  •  ①手順が複雑化する
  •   ・どこを調べればいいか分からず、「図面やマニュアルを最初からチェックして、順番にすべて開けてみる」という手探りの対応になりやすい。
  •   ・現場のクセや定番の故障箇所が共有されていないため、「全部当たる」やり方しか選べない。
  •  ②調査範囲が際限なく広がる
  •   ・どの部位が原因なのか目星がつかず、「配管・電気系・制御盤」など全分野を調査。その結果、設備会社・管理会社・元請け・専門業者など関係者が増えて、現場での混乱も拡大しやすい。
  •  ③責任の所在が曖昧になる
  •   ・「どの部位が原因なのか特定が難しい」「前回修理対応にミス?」「元の業者でないと分からない」など、現場で責任の押し付け合いが発生し、判断や調整が遅れる。
  •  ④過剰対応/場当たり対応
  •   ・「部分修理で大丈夫か不安」「リスクを避けたい」と、ユニットまるごとの交換等、コストの大きな解決策を選びやすくなる。
  •   ・故障やトラブルに対して、原因がわからないまま、都度、一時的な応急処置が繰り返され、結果的にコストが嵩むケース。

4.“知らない”ことで、トラブルの“再発”が日常になる

賃貸オフィスビルの管理の現場では、「記録」や「記憶」が途絶え、担当者が現場の“本当の経緯”を知らないまま対応することが少なくない。

この“知らなさ”が積み重なることで、一度解決したはずのトラブルやクレームが、再び繰り返される――そんな悪循環が日常になる。

たとえば

  • 過去の騒音トラブルや苦情、事故などが「どのように対応したか」が後任者に引き継がれておらず、今の担当者が同じ状況に遭遇しても、適切な対応策を知らない。
  • 前任者が長年の経験で築いてきた“注意ポイント”や現場のクセが、マニュアルや記録に残っていない。後任者にはその“勘どころ”が伝わらない。
  • 清掃等の担当業者が入れ替わるたびに、「同じミス」「同じクレーム」が繰り返される。現場の“要注意ポイント”や過去の失敗例がリセットされ、現場全体の学習が進まない。

これらのトラブルを、担当者の資質、管理体制の個別の問題に帰するのは無理がある。

蓄積された知識や経験が、記録や仕組みとして十分に引き継がれにくいという、

築古の賃貸オフィスビル管理・運営そのものが抱える構造的な弱点とも言えよう。


長年続く現場の知恵や工夫が“人とともに消える”ことで、

一度解決したはずのトラブルが再発し続ける悪循環――

それは、多くの築古の賃貸オフィスビル管理の現場が避けがたく直面してしまう現実といえる。


現場の担当者は、その断絶の只中で――

  • 「なぜ自分は今こんな苦労をしているのか」
  • 「どうして手順や図面が現場の実態と合っていないのか」
  • 「なぜまた同じクレームが出てしまうのか」

――そんな問いに直面しながら、日々の運営に奔走することになる。


“知らない”ことでトラブルの再発が日常化するというのは、築古の賃貸オフィスビル運営の歴史の必然とも言える現象。その根底には、記録/記憶の断絶という、管理の現場にとって避けがたい構造的課題が横たわっている。

5.なぜ“記憶”を記録で置き換えきれないのか

築古の賃貸オフィスビルの“記憶”は、その時々の“人”が、現場で感じ、判断し、工夫しながら受け継いできた“知の流れ”。それを完全な記録・ドキュメントで置き換えるのは困難なので、“知っている人”がいなくなれば、「空白」や「抜け」が生まれるのは、避けられない運命とも言える。

①築古の賃貸オフィスビル管理の現場は“例外”と“暗黙知”の集積体

築古の賃貸オフィスビル管理の現場には、

「こうするのが本来のルールだが、この物件では例外になっている」

「なぜか昔からこうしてきた」

といった、“現場特有のルール”や“その場しのぎの工夫”がたくさん存在します。

  • たとえば「週に一度、なぜか決まった時間だけ水圧が下がるので、○○を閉じて対応」
  • 「この廊下は、雨の日だけモップを2回かける。理由は説明しにくいが、経験上その方が安全」
  • 「この部屋は空調を入れる順番を変えることで、全体の効きが良くなる」
  • など、マニュアルでは説明しづらい、“現場の知恵”や“経験則”が大量にある。


②「全てをマニュアル化」は物理的にも心理的にも無理がある

物理的限界

  • 築古の賃貸オフィスビル管理の長い歴史のなかで、現場で繰り返されてきたすべての例外・工夫・特別な運用を文字に起こしてまとめるには、膨大な時間と手間がかかる。
  • そもそも「言葉にしにくいこと」「いちいち説明しにくいこと」も多く、完璧なドキュメントを作ることは現実的ではない。

心理的限界

  • 現場担当者には「自分の工夫やコツを、わざわざ細かく書き残すのは面倒だ」「そこまで教えなくても現場に来ればわかる」と感じる人も多い。
  • しかも、一度言語化したとしても、それを更新し続ける“動機”や“余裕”が現場にないことも多い。
  • 暗黙知というのは、「体感」「ちょっとしたクセ」「場の空気」「小さな違和感」など、そもそも文章化しにくい性質を持っている。


③たとえ書いてあっても、読まれない・現場で反映されない」現実

  • いざマニュアルやドキュメントが存在しても、新しい担当者や現場の業者が、その分厚い資料を最初から最後まで丁寧に読むことは極めて稀である。
  • 人は、往々にして「今すぐ困っていること」「目の前の問題解決」に直結しないと、記録を後回しにしがち。
  • 実際、マニュアルに書いてあるからといってそれを現場で忠実に再現するより、前任者の“やり方”や“空気”を参考に動くことが圧倒的に多い。


④現場は「状況の変化」に即応し続ける世界

  • マニュアル化された手順が“時代遅れ”になっている場合もある。
  • (例:10年前の設備更新に合わせて変わったルールが、現場でうまく更新されていない)
  • しかもビルごとにテナント構成や利用状況、外部環境も変化していくため、
  • 現場担当者が、その都度調整しながら“最適解”を上書きしていくしかない場面も多い。


⑤“知っている人”がいなくなった時点で、「空白」「抜け」が必ず生じる構造

  • どれだけ記録を残そうとしても、「本当に必要な知恵や対応力」は、その場その場の“人の判断”や“実感”に宿っているため、完全な引き継ぎは不可能。
  • 「ここは何度も問題が起きているから、この順番で点検している」など、“なぜか”に即答できるのは、長く関わった人だけという現実がある。
  • そうした人がいなくなれば、どうしても現場知識は“飛び石状”に抜け落ち、
  • 「記録があったとしても、なぜそうしていたかが伝わらない」「個別のケースに対応して微調整された対応が途切れる」ことになる。


⑥現場感覚でいう「“抜け”が生じる」瞬間

  • 前任者の引き継ぎ資料を見ても、「この点検は“念のため”としか書いていない。その点検の理由・背景までは分からない」
  • 「現場のクセ」「肌感覚でわかる微妙なトラブルの兆候」が、資料に残っていない/伝わらない
  • 結果として、「とりあえず全部やってみる」や「一度全部調査し直す」という、非効率で高コストな判断につながりやすい。

第4章:完結しないマニュアルと、継承されるリズム

「記憶が消えていく」現実を受け入れるなら、築古の賃貸オフィスビルの管理・運営は「すべてを記録しておけば安心」という幻想を手放すところから始まる。

実際には、どれだけマニュアルや台帳を整えても、すべてを一冊にまとめきることはできない

では、どうやって“知の断絶”を和らげ、賃貸オフィスビルの管理・運営を持続可能にしていくべきなのであろうか。

1.「完璧なマニュアル」を目指さず、“穴”の存在を前提にする

まず重要なのは、「マニュアル=完全な手順書」だと考えないことだ。

築古の賃貸オフィスビル管理には例外が多すぎる。

  • 突発的・例外的な対応が生まれやすい
  • 設備の老朽化に伴い、最新設備の標準的な仕様からズレが生じ、特殊な使い方でカバーしている例も多い
  • テナントごとにローカルルールが存在する

全てを1つのドキュメントに詰め込もうとするほど、読まれない・使われないマニュアルが生まれる。

むしろ、「わからないことがあるのは当たり前」「抜け落ちが起きる前提で、対応策を用意する」ことが、築古の賃貸オフィスビルの管理においては“現実的な知の態度”だ。

2.“作業手順”ではなく“判断基準”を残す

個別具体的な手順をマニュアル化するのは限界がある。

むしろ、

  • どういう場合に相談するか
  • どのタイミングで上司やオーナーにエスカレーションするか
  • 何を優先すべきか

といった「判断基準」や「判断の分かれ目」こそ、記録しておくべき重要なポイントになる。判断基準が共有されていれば、担当者が変わっても、最低限“考え方”を共有できる。

たとえば、

「定期点検時、異音がした場合は必ず●●業者に即連絡」

「夜間トラブルはテナントに影響がなければ翌朝対応で可」

など、運用に“幅”を持たせる工夫が、属人的なノウハウの一部を共通知に変える。

3.“運営リズム”そのものを記録する

築古の賃貸オフィスビル管理においては、“日常の流れ”そのものが知識の宝庫だ。

  • 朝一番に何を確認するか
  • ゴミ出しや清掃のタイミング
  • 週末や特定曜日にだけ行う習慣的な作業

これらは単なる作業手順ではなく、建物の「リズム」として長年の運用で築かれてきたもの。

新しい担当者がそのリズムをなぞることで、現場の違和感やトラブルが大幅に減る。

「月曜は共用部の備品補充を多めに」

「金曜はエレベーターホールの掲示物を再点検」

こうしたリズムの記録は、チェックリストや週次ルーティン表として簡易に残すだけでも大きな意味がある。

4.「わからない」を記録し、「調べ方」も一緒に残す

完璧な情報を目指すのではなく、

  • わからないこと
  • 未確認の仕様
  • 現在調査中の事項

も正直に記録し、「この部分は誰に・どうやって聞けばいいのか」「調べるときの連絡先・方法」まで含めて残す。

“曖昧さを明記すること”が、後任者の混乱や誤った判断を防ぐ最良の方法になる。

たとえば

「この配管は詳細不明。過去の担当は○○工業の●●氏に聞いていた」

「このテナントの特殊契約は、管理会社経由で確認が必要」

といった、“調べ方”のヒントを残すだけで現場対応が格段にやりやすくなる。

5.「現場で継承される会話」「OJT的な場」を大切にする

ドキュメントだけでは伝わらない“肌感覚”や“現場のコツ”は、

  • 形式的にではなく、実際のポイントをまとめた引き継ぎ資料を作成し、引き継ぎの打合せをきっちり行って、情報量、コミュニケーション量を確保
  • オーバーラップ期間を設け、ベテラン担当者による現地同行OJT
  • 清掃・設備等の業者を交えた情報共有

など、“人から人への口伝”や「場の体験」を通じてこそ残る。

「直接話す」「一緒に見る」時間を業務設計に組み込むことが、知識や判断の「生きた継承」に直結する。

まとめ:完結しないマニュアルを「運用の土台」にする

築古の賃貸オフィスビルの管理・運営では、「完全な記録」を諦め、

  • 抜けやすい“ポイント”に目を向け
  • 判断の拠り所を明確にし
  • 日々の“リズム”を見える化し
  • 「知らない」「わからない」も記録しておく

こうした“完結しないマニュアル”を「土台」として回していく。

それが、「記憶」の断絶と「記録」の限界を乗り越える唯一の実務フレームになる。

第5章:現場の“知”の断絶と、当社のビル管理へのこだわり

1.“人”頼みで回してきた現場―中小規模の賃貸オフィスビル管理のリアリティ

●時代背景とオーナー層の特性

1980年代末から1990年代前半――

不動産バブルとともに中小規模の賃貸オフィスビルが大量に建設された。

この時期の中小ビルオーナー層の特徴は、大規模ビルのデベロッパー型とは大きく異なる。

  • 地主型:先祖代々の土地を持ち、その有効活用としてオフィスビルを建てた地元地主・資産家
  • 相続・節税型:バブル期の金融商品として“節税”や“相続対策”のために建設された家族所有物件
  • 中小企業オーナー型:本業とは別に、不動産収入を副業・事業安定化の柱とした中小企業経営者
  • 地場建設会社/工務店型:地元の建設会社が自社の施工能力・人脈を使い、自ら保有・運営

このような「個人・家業・地場企業」による所有・運営が、中小規模の賃貸オフィスビルの主流だった。


●現場運営は「組織」よりも「人の顔」で成り立つ

従前、中小規模の賃貸オフィスビル管理においては、大規模オフィスビルのように、

  • PM・BMサービスのシステム化・分業体制
  • 細かなマニュアル、引き継ぎ書、評価シート
  • ビル管理会社の専担スタッフによる“仕組み管理”

…といった“システム”はあまり導入されておらず、少数派。

むしろ――

  • オーナー本人や親族が現場に日参し「何でも自分で判断」「自分で見て回る」のが日常
  • 長年付き合いのある清掃・設備業者や地元管理人が“顔パス”で出入り。地場のネットワークや「困ったら馴染みの業者」「現場の管理人に任せる」のが当たり前
  • 運営体制や管理コストに“組織化”や“マニュアル化”の意識が乏しく、
  • テナントも中小企業や個人事業主が多く、困りごとは現場で“融通”して解決

このように、人間関係と属人的ノウハウ、

つまり「○○さんに聞けば分かる」「昔からいる△△さんが全部知っている」――

という“顔が見える管理”が当たり前だった。

  • 鍵や備品の管理:
  • 「本棚の引き出しにスペアキーがある。場所は管理人しか知らない」
  • 清掃やごみ出し:
  • 「A社(テナント)は火曜だけ多めにゴミが出る。○○さん(清掃)がその日は早めに回収」
  • 設備や点検:
  • 「雨の日だけ共用部の排水口を確認する。理由は昔、浸水事故があったから」
  • クレーム・トラブル対応
  • 「苦情が来たら“いつもの業者”に直接電話」「テナントの“お願い”はオーナー判断で即時対応」

こうした現場知は、書類や仕組みとして残ることはほぼなく、現場に“居続ける人”の記憶と人間関係によって支えられていた。

“仕組み”による管理ではなく、「現場に人がいる」こと、

「その人が知っている・判断できる」ことで、すべてが維持されてきた――

これが現場運営のリアリティ。

2.なぜ「人」頼みが危うくなったのか

前節でも説明したように、中小規模の賃貸オフィスビルでは、長年、現場を知る管理人や地元の業者が要となり、日々の運営が維持されてきた。

だが、時の流れとともに、その現場の構造自体が大きく変わってきた。管理人が高齢化で現場を離れたり、オーナーの相続で経営主体が代替わりしたり、長年付き合いのあった地元業者が廃業・撤退するケースが重なっている。結果として、「知っている人が突然現場からいなくなる」事態が急速に現実化している。

  • 管理人が急な病気や事情で現場を離れると、代わりの人間にはゴミ置き場のルールも、共用部の換気方法も、何も伝わっていない。
  • 設備会社の若手が、図面どおりに配管を追っても、実際のルートが全く違う。前任のベテランしかその“例外”を知らなかった。
  • 担当者が替わって、引き継ぎがされなかったので、テナントは毎年恒例だった工事連絡が急に途絶えた。

これまで自然にできていたことが、「やり方が分からない」「なぜかうまくいかない」という現場の混乱となって表面化する。


●困惑・混乱・迷いが「小さな継承ミス」から一気に表面化する

  • 配管から水漏れが起きたとき、図面を見ても分からず、原因を知っていた業者ももういない。
  • 夜間照明が消えずに近隣からクレームが入る。その背景には、管理人が交代したことで、いつもの対応ができなくなっていたことがある。
  • 清掃会社の担当が新任で、ゴミ出し・ゴミ収集の連携に混乱。前の担当者はどうしていたのかと電話を繰り返しても、誰も要領を得ない。テナントからは「前任担当なら分かるんだけど…」と困惑の声が上がる。


現場の会話ではこういうやりとりが生まれる。

新担当:「この設備、なんで毎年同じ時期に不具合出るんでしょう?」

古株テナント:「あれはね、前の管理人さんが“雨の日はここを一度拭く”って決めてたんだよ」

新担当:「そんなの、どこにも書いてません…」

こうして現場判断が遅れ、無難な全体更新、余計な調査、必要以上の安全対策が増え、運営コストは膨らむ。


●仕組み・記録だけでカバーできない“現場知”と、その抜け落ちリスク

現場知は、仕組みや記録だけでカバーしきれない領域が広い。

  • イレギュラーな清掃ルールや、古株テナントとの“口約束”
  • 「○号室だけ窓を絶対に開けてはいけない」という謎ルール
  • 数年前の臨時工事の経緯、「このコンセントはブレーカーを落とすと自動復旧しない」などの特殊対応

これらの現場知による対応は、日常のOJTや口伝、現場同行のなかでしか伝わらなかった知識で、ドキュメント化しにくい。もし、ドキュメント化されていたとしても、実際には“読まれない・使われない・更新されない”ことも多い。


大雨で共用部に水が溢れた現場がある。前の管理人は台風の日だけ排水溝のゴミを手で取っていたが、新担当はそのことを知らない。台帳にも記載がなく、事後的に「なぜ事前に気づけなかったのか」と指摘される。

こうして、「人頼み」で支えられていた現場は、知っている人が抜け落ちた瞬間に、そのほころびや危うさが一気に露わになる。

この断絶をどう補い、どこまで受け渡すかが、中小規模の賃貸オフィスビルの管理に突き付けられている課題となっている。

3.PM・BMサービスの現場的な意義――当社のビル管理に対するスタンスと具体的運用

「人頼み」でなんとか回っていた中小規模の賃貸オフィスビルが、管理人や地元業者の高齢化・引退、オーナーの相続・交代などによって“現場知の断絶”に直面している。その現場では、「誰が・どこまで・なぜ判断してきたか」が急に分からなくなり、トラブルやクレームの再発、過剰な安全策や無駄な工事コストが膨らむ現象が目立つ。

こうした状況に対し、当社は中小規模の賃貸オフィスビル管理を専門領域とし、組織的で効率的なPM・BMサービスを現場に根付かせてきた。ビル管理を受託するにあたって、「属人的な経験やノウハウ」を“仕組み”として現場に組み込むことに注力している。


たとえば、月次の管理レポートでは、「今月どこでどんなトラブルがあったか」だけで終わらせない。「なぜそのトラブルが発生したのか」「当時現場でどんな判断が下されたか」「どういう予防や準備をしていたか」「この判断は他の担当者や次世代にも再現できるのか」といった“意思決定の経緯”まで踏み込んで記録している。現場の日常で生まれる例外対応や、ベテラン管理人が口頭で伝えてきた“現場のコツ”も、特別な出来事として管理レポートに積極的に残す。


照明の延長要望が毎年同じ時期に出る場合、その「理由」や「手順」だけでなく、「なぜこの要望が生まれるのか」「現場で実際どんな工夫や調整が行われているか」まで記述する。

共用部排水の“特定担当による事前対応”も、過去の大雨時の失敗や、どのテナントからどんな指摘があったのか、その履歴ごと現場メモとして共有される。

引き継ぎ時は、必ず新旧担当者が“現場同行”を実施し、台帳や書類だけでは伝わらない「現場のクセ」や「気をつけるべき例外事項」をOJTで体感的に手渡す。このOJTは、「昔は誰かの記憶頼みで継承されていたもの」を、意識的に“体験として共有する”場として設計している。


全部をマニュアル化しようとすると、現場の負担が増し、情報の鮮度や実効性も落ちやすい。

そこで当社は、「すべてを記録する」のではなく、「どこが特に危ないか」「ここだけは必ず伝えるべきか」「なにが“現場のブラックボックス”か」という要所を押さえ、部分的な“知の橋渡し”を続けることを重視している

現場レビューや不明点リストなどもその一環。たとえば、「このエリアの設備は図面と実際が違うため、必ず現場で再確認すること」「この配管は図面上不明な分岐あり、過去の修繕履歴を参照してから対応すること」など、ブラックボックスや抜けやすい箇所を“あえて目立たせておく”工夫も取り入れている。


当社ビル管理のPM・BMサービスは、全部を一つなぎにする“完全継承”を目指すのではなく、“抜け”を最小化する。担当者・業者の交代や、管理・運営体制の変化があっても、日常の現場レビューやレポート、OJTの仕組みを活用し、最低限の知識や判断の根拠が継続して受け渡される。属人的なノウハウや“現場感覚”に頼りきりだったビル管理から、現場知の部分継承による運営品質の安定――それこそが、当社が中小規模の賃貸オフィスビル管理において積み重ねてきた独自のノウハウであり、現代的な賃貸オフィスビルの管理・運営の現場力になると考えている。

第6章:「語れるビル」とは何か――現場・経営・市場をつなぐ「物語」の力

築古・中小規模の賃貸オフィスビルが、単なる“古びた資産”で終わるのか、それとも“選ばれ続ける存在”であり続けられるのか。その分かれ目は、「ストーリー=語れるもの」をどれだけ積み重ねられているのかにかかっている。
賃貸オフィスビル管理の現場から、賃貸オフィスビルの経営判断、さらには市場での資産評価に至るまで、「語れる」ことがどのように重要になるのかを見ていこう。

1.現場レベル:「現場の知」の積み重ねが管理力を支える

現場の運営において、「なぜこの運用方法なのか」「なぜこのルートやルールなのか」を説明できることが極めて重要だ。このような「語れる現場」では、設備トラブルや日常管理の問題が発生した際も、迅速で的確な判断ができる。

たとえば、配管や空調設備、照明設定、共用部管理のような日常的な業務やトラブル対応であっても、その背景や経緯、過去の経験を現場スタッフが語れることにより、

  • 問題原因の特定が迅速になり、現場対応の精度が高まる。
  • テナントや業者、管理関係者から理解や納得が得られ、信頼感が向上する。
  • 引き継ぎや担当者交代の際も、経験や判断基準が途切れず、「地続き」の管理が継続される。

逆に、「誰がいつ決めたのか分からない」「理由もわからないまま続けている」という現場では、判断に迷いが生じるため、過剰な修繕や場当たり的な対応になりやすく、テナントや関係者の信頼も損ないやすい。

現場レベルで「語れる知識・履歴」があることが、日々の実務レベルの管理品質を支えるのだ。

2.経営レベル:「語れる理由」が投資判断・資産価値を支える

経営の視点でも、「なぜこの設備になっているのか」「過去にどのような判断がなされたか」「どんな改修やトラブル履歴があるか」を語れることは、経営判断や資産価値に直接的に影響する。

具体的には、

  • 修繕計画や設備投資の判断に、確かな根拠と自信を持つことができる。
  • 物件の魅力を「データ」と「物語」の両面から語ることが可能となり、テナントに対する説得力や安心材料として機能する。
  • 「長年事故が起きていない」「特殊な運用にも理由がある」ことを明確に説明できるため、長期入居やテナント満足度の向上につながる。

さらに、オーナーチェンジや売却の際も、建物の状態や履歴をスムーズに説明できれば、「見えないリスク」が軽減され、物件の資産価値維持や向上に直結する。経営者にとって「語れること」は、自信ある意思決定を支える強力な武器となるのだ。

3.市場レベル:「語れる資産」が差別化・ブランディングを生む

現場と経営の双方で積み重ねられた「語れる」知識や履歴は、市場レベルでのブランディングや差別化を可能にする。

具体的には、次のようなストーリーが市場での強力なPRやリーシング戦略の材料になる。

  • 「長期間、同じ業者・担当者が丁寧に管理を継続している」
  • 「長期入居のテナントが多いのは、現場の柔軟な対応力と経営判断の積み重ねがあるから」
  • 「地域で語り継がれる歴史や、過去の失敗経験を活かした独自の運用ノウハウがある」

こうした物語がある物件は、投資家やテナント、仲介業者にとって安心感や信頼感を与え、「選ばれる資産」となる。一方で、「なぜこうなったのか分からない」「要注意箇所を誰も説明できない」物件は、次のような評価を受けやすくなる。

  • 新規投資家や買い手にとって「リスクが不透明な物件」と見なされ、取引が難航する。
  • テナントや管理会社にとっても「不透明」「不安」という評価になり、入居や管理受託が敬遠される。
  • 物件引き継ぎの際、ゼロから調査や検証が必要になり、余計なコストや手間、トラブルの種となる。

市場レベルでの競争力・差別化という観点からも、「語れる資産」であることが大きなアドバンテージとなるのだ。

4.「語れる」状態をつくるための実務と組織的工夫

現場で蓄積された「語れる知識」が経営判断の確実性を支え、それが最終的に市場における物件の価値向上や差別化につながる。「語れるビル」であるかどうかが、現場から市場までを貫く物件運営の本質的な競争力となっているのである。

「語れるビル」を実現する鍵は、単なる記録の多さではなく、「現場に語りをどれだけ残せるか」にある。具体的な実務としては、以下のような取り組みが効果的だ。

  • 日常管理レポートや年次報告書に、トラブル対応の経緯や判断理由、特例運用が生まれた背景までを丁寧に記録する。
  • 引き継ぎや現場OJTの場で、「なぜこの運用か」を口頭でも具体的に共有し、「語り」を現場担当者に継承する。
  • 業者やテナントが語る現場のエピソードや「昔話」を記録し、メモや報告書の一部として残し、日常的に蓄積する。
  • 「分からない」「経緯が曖昧な部分」もあえて明示し、調査・共有を継続することで、「語れる範囲」を組織全体で徐々に広げる。

物件ごとの「語り」を充実させるには、「すべてが説明されているマニュアル」を作るのではなく、現場や運営の歴史を「編集し、伝える力」を高めることが重要になる。この編集力は、現場の担当者個人に依存するのではなく、ビル管理会社全体で、PM・BM双方のチームを縦断して、組織的に取り組み、次世代へ引継ぐべき実務スキルである。

5.まとめ――「語れる」ことで築古賃貸オフィスビルの未来を守る

新築の賃貸オフィスビルや、リニューアルしたばかりのビルも、時が経てば必ず古くなる。だが、「語れる知識」や「現場の物語」をしっかりと蓄積し、継承しているビルは、古さ自体が「安心感」や「ブランド価値」に転換され、選ばれる理由を保ち続けることができる。
記憶やストーリーが継承されることで、運営品質・資産価値・ブランド力という三つの要素を同時に高められる。築古物件が多いこの時代において特に必要なのは、部分的な継承でもいいから、「語りが絶えないビル」へと運営現場を進化させていく現場力と意識である。
「語れるビル」こそが、競争力を保ち続け、築古賃貸オフィスビルの未来を支える鍵となるのだ。

終章:“誰も知らないビル”で、私たちはなにを始められるのか

築古の賃貸オフィスビルには、かつて「すべてを知っている人」がいた。設備の癖、ルールの由来、過去のトラブル対応まで――現場の運営は、その人の身体と記憶の中でなめらかに回っていた。
だが、時間が経ち、人が入れ替わり、知識は引継がれずに断絶していく。
残されたのは、
「なぜこうなっているのか分からない」
「理由を思い出せない」
という、“抜け”や“空白”に満ちた現場だった。
そんなとき、私たちは問い直さなければならない。
――わからないことを、そのまま放置するしかないのか。
――語れないまま、建物がただ古びていくのを見守るしかないのか。

◆“知らなさ”は、本当にリスクなのか?

これまでの章では、「現場知の断絶」や「語れることの価値」を繰り返し論じてきた。
語れないことは、リスクになる。
語れることは、信頼と価値につながる。
だが、ここで一度立ち止まってみたい。
私たちは本当に、「すべてを知っている状態」だけを望んでいるのだろうか。
あるいは、
「この部分だけは、もう誰にも説明できない」
――そんな“わからなさ”そのものを、築古の賃貸オフィスビルの新しい出発点として受け止めることはできないだろうか。

◆“わからなさ”と“語れること”のあいだにある可能性

現場の空白や知識の断絶は、たしかに不安や判断の迷いを生む。
だが同時に、それは新たな問いの出発点でもある。
「なぜこうなっているのか?」
「このやり方は、本当に妥当なのか?」
“すべてが分かっている”現場では生まれなかった問い。
“知らない”からこそ、違和感が生まれ、意味を探し始める。
それは、マニュアルの通りに管理するのではなく、現場自身が自ら意味を編み直していく、主体的な運営の始まりである。
このとき重要なのは、「語れること」と「語れないこと」をはっきり区別することだ。
語れないことを正直に受け入れ、あいまいさを見つめ、そこから「どのように語り直していけるか」を考える。
その積み重ねが、抜けのある現場に新しいストーリーを編み直す力になる。

◆「語れるビル」は完成形ではない

「語れること」を増やすこと自体を目的にしてしまっては、本質を見失う。

大切なのは、「語れない部分がある」という事実に気づき続けること。

そして、その“抜け”こそが、新しい意味やストーリーが芽吹く土壌になるということだ。

  • 昔の記憶が消え、語り手がいなくなったとき
  • 現場に“わからない”が積み重なってきたとき

私たちは初めて、「いま・ここ」で何を知り、何を意味づけるかが問われる。

「この抜けは、なぜ生まれたのか?」

当に知っておくべきことは、何だったのか?」

ある現場は、どんな小さなストーリーからでも再構築できるのではないか?」たとえ記憶が途切れていても、その“抜け”を起点に、現場のストーリーを紡ぎ直すことはできる。

それは、語れる/語れないという二項対立を超えて、「語れなさ」にも意味を見出す、静かで根源的な営みである。

◆未来への余韻――“抜け”と“曖昧さ”から始まる運営

「すべてを知っていた人」がいなくなった現場は、もう過去には戻れない。
だがそれは、終わりではない。
むしろ今は、「抜け」を認識し、「曖昧さ」を見つめ、それらに問いを重ねていける時代になった。
すべてを知ろうとする焦りから一歩離れて、
「ここは、誰も知らない」
「この部分だけは、語れない」
――そんな“空白”を見つけ、その都度、小さな問いを立て、意味を積み重ねていく。
そして、そこにまた新たな“語り”が生まれる。
“語れるビル”とは、単に情報が蓄積されたビルではない。
“知らなさ”を抱えながらも、それを受け入れ、問い続けることで、静かに、しかし確かに語り継がれていくビルである。

「誰も知らないビル」で、私たちはなにを始められるか。

その問いに、完璧な答えはない。だが、はっきり言えることがひとつある。

“わからなさ”を見つけ、それと共に歩む現場には、かならず新しい知と物語が芽吹く。

この時代に築古ビルを受け継ぎ、運営するということは、

過去の記憶を守ることではなく、「これからの語り」を静かに始めていくことだ。

未来の築古賃貸オフィスビルは、そうして生き延びていく。

“語れなさ”から、また語り直すという営みとともに。


第6章の内容(語れるビル=現場知や歴史を説明できるビル)の流れを踏まえつつ、実際の管理レポート(報告書)にどう「語り」や「記憶の継承」を反映するかというイメージで、具体例としてレポート文を作成します。


「築古の賃貸オフィスビルの月次管理レポート」の体裁で――

  • 通常の点検・対応項目
  • トラブルや対応経緯の記述
  • “なぜそうなったのか”の補足説明
  • 引き継ぎのための「歴史」や「背景」を盛り込んだ“語れる管理レポート”
  • という形を例示します。
【管理レポート(サンプル)】

2025年6月〇〇ビル月次管理レポート(抜粋)

1.巡回点検・定期作業報告
  • ・共用部清掃は特記事項なし
  • ・1階エントランス右側照明の交換対応
  • ・3階女子トイレ:週末に詰まり発生、対応済み
2.トラブル・改善履歴
(1)5階給湯室水漏れ対応
  • ・6/8、テナントより「床が濡れている」との連絡あり
  • ・点検の結果、シンク下の配管ジョイント部からの微細な漏れを確認
  • ・即日、協力業者(△△設備)にてパッキン交換・仮補修を実施
  • ※この給湯配管は、2005年改修時にルート変更されているが、現行図面に反映されていなかった
  • ・2006年・2016年にも同様の水漏れ対応履歴があり、毎回ほぼ同じ部位でのトラブルであることを確認
  • ・担当者間の口頭伝承のみで管理されていたため、本レポートで履歴を明記し、今後の対応時に参照できるよう記録する

(2)エレベーター定期点検/追加調整
  • ・月例点検時、操作パネル反応の遅延が見られたため、追加調整を実施
  • ・担当業者より「築年数により部品劣化が見られる」との助言あり
  • ※2000年代から同じ業者(□□メンテ)が担当、前担当者が2012年時点で同症状を記録
  • ・新担当者より「過去の点検記録が断片的」との指摘があり、今回以降は履歴をまとめて保存・次担当へ共有することとした

3.テナント対応・運営メモ
  • ・2階A社より「夜間の共用部照明について」、定時消灯時間後の延長要望あり(毎年6月のみ繁忙対応)
  • 前任担当より『A社は例年この時期のみ延長希望』との口頭伝承あり
  • ・本年度も同様に1時間延長設定。今後、引き継ぎ時に履歴メモを明記のこと

4.今月の「現場気づき」・語れる情報
    • ・1階裏手ごみ置き場は、以前台風時の浸水リスクが指摘されていた(2014年・2017年)
    • ・現担当者は現場巡回時に「壁際ではなく中央にゴミをまとめる」ルールを維持中
    • ・こうした“暗黙ルール”がテナント・清掃会社間で薄れつつあるため、ルール由来を今月レポートで明記

    5.次月への引き継ぎ・注意点
    • 「5階給湯配管」は今後も要観察。配管ルート不明部は再度現場確認のこと
    • ・エレベーター部品は次回点検時に詳細写真も残すこと
    • 「A社の照明延長」「ごみ置き場の配置」など、例年の“慣習”や“経緯”を次回担当へ伝達すること

    6.管理担当所感(「語り」パート)
      本ビルの運営には現場担当者の“語れる履歴”や“経験知”がトラブル抑止に寄与している面が大きい
      特に設備系・テナント対応では「なぜ今こうしているのか」「これまでどう対応してきたか」を、履歴と一緒に伝えることが現場安定に直結している。
      今後も「不明点」「例外運用」は記録化し、管理会社内外の引き継ぎ時に“語れるレポート”として運用していくことが重要と考える。

      【ポイント解説】
      • 履歴や「なぜ」も明記し、次世代担当者が「このビルの語れる部分」にすぐアクセスできるようにする
      • ・トラブルや運用経緯に「背景・由来」を残し、単なる点検・清掃記録にしない
      • ・“暗黙ルール”も説明付きで言語化、「いつ・誰が・どんな判断で」を付記する
      • ・毎月の“気づき”や“現場メモ”を未来の管理者・オーナーに“語れる資産”として積み上げていく
      このような「語れる管理レポート」の蓄積が、
      “現場知”と“関係性の連続性”を守り、築古の賃貸オフィスビルの未来価値を底上げしていく――
       

執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁

東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。

2026年1月15日執筆

飯野 仁
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①メーカーに委託することが一般的・標準的な理由専門性・独自技術の高さ設備によっては独自の制御システムやソフトウェアが組み込まれており、メーカー以外が対応するにはノウハウが不足しやすい。メーカーがマニュアルや設計図書を独占的に保持しているケースもある。純正部品の供給・交換が容易メーカーによる純正部品の在庫確保や交換体制が整っているため、迅速かつ適切な修理が期待できる。部品が専用品の場合、メーカー以外の業者では調達が難しく、コストや工期が増加する懸念がある。保証や契約上のメリットメーカー保守契約を結ぶことで、長期保証やサービスパッケージ割引などの優遇がある場合が多い。更新工事やリニューアル時にも、同一メーカーとの付き合いがあるとスムーズに進めやすい。トラブル対応・緊急時のサポート体制遠隔監視システムや24時間対応コールセンターなど、メーカー独自のサポート体制が確立されていることが多い。大規模トラブル時にはメーカーのエンジニアが速やかに現地対応できるネットワークがある。特に故障部材の手配はメーカー以外だと時間がかかる場合もあります。権利関係・安全面の理由建築基準法や消防法などに関連する設備(特にエレベーター、エスカレーターなど)は法定点検が義務付けられており、メーカーに保守を委託することで安全基準を満たすための手続きや書類作成がスムーズになる。ソフトウェアや制御システムに関する知的財産権の都合で、メーカー以外が介入すると契約違反や保証対象外となるケースがある。 ②メーカー以外の選択肢が少ない建物設備の例エレベーター・エスカレーターエレベーター(三菱電機、日立、東芝、オーチスなど)やエスカレーターも同様。法定点検・法令基準を満たすための確かな技術力が必要。制御装置・センサー部分がメーカー独自仕様で、外部業者が手を入れにくい。部品交換はメーカー調達が基本となるため、他業者が対応するとコスト面・納期面で不利になりやすい。大規模空調システム・パッケージエアコン(ビル用マルチエアコンなど)ダイキン、日立、東芝、三菱電機などが製造するビル用空調システム。各社が独自の制御プログラムや配管方式、冷媒制御などを採用しており、故障診断もメーカー専用ソフトを使用することが多い。修理には純正部品・特定知識が不可欠で、メーカー系サービス会社を経由しないと入手できる部品もある。中央監視システム・ビル管理システム(BAS:Building Automation System)ビル全体の空調・照明・セキュリティ・防災などを一元的に制御するシステム(オムロン、ヤマト、アズビル、Johnson Controlsなど)。システム全体がソフトウェアと連携しており、メーカー独自のプロトコル(通信規格)を用いることが多い。外部からのカスタマイズや改修が難しく、メーカーに専用ツールやライセンスがある場合が多い。特殊設備(無停電電源装置(UPS)、大型ボイラー、非常用発電機など)特殊メーカー製の大型UPSや非常用発電機など。特殊部品や法定検査を伴い、メーカーかメーカー代理店での点検がほぼ必須。不具合時の原因究明や修理にも高度な専門知識・部品が必要になる。その他(高性能セキュリティ機器、特殊扉など)たとえば、自動ドア(高性能センサー付き)、特注の防火シャッター、防音・防振設備なども、メーカー以外が対応しづらい場合が多い。 ③独立系メンテナンス会社に委託する場合の注意点部品調達ノウハウや専門資格を持った技術者の有無保証や緊急時の対応近年は一部メーカー製品について外部業者が対応可能なケースも増えているため、コストやサービス品質を比較検討する際は、代替手段がないかどうかを確認することも重要です。 2-4.管理会社の料金体系 一般的なBM管理業務を主体とする上場企業の日本管財(現:日本管財グループ/ホールディングス体制)の2023年度3月期決算短信の損益計算書によると売上高700億円に対する役務提供売上原価554億円とあり、売上の79%が人件費です。すなわち、管理会社の売上は人的サービスが規定しており、委託業務の料金はその業務に必要な人件費で定まる、ということを示しています。昨今、不動産管理業界でもDX化の導入を進めていますが、数値的な部分では不動産管理業務は人的サービス商品となります。個々の業務に必要な人的サービスは常に一定でなく、変動があるため、価格の見積は発注者からはわかりづらい部分もあります。管理会社は標準的な業務量や費用テーブルを構築し、それをもとに料金設定をしてあり、料金を算定する場合、当該業務に必要な時間×当該業務に必要なスタッフの時間単価×一定乗率で算出しています。当該業務に必要な時間は仕様で定めることができます。スタッフの時間単価は仕事の質に比例します。一定乗率は会社の定めなので個々の会社ごとに異なります。発注に際しては、料金÷業務時間により時間単価×一定乗率が求められますので、この部分を比較すれば業務品質の目安の評価が可能と思われます。 第3章:管理会社に委託する場合の手順と注意点 ここでは、不動産オーナーが初めて管理業務を委託する流れを、できるだけわかりやすく解説します。本章はあくまで全体の手順を掴んで頂くための説明なので、詳細な手順について後段で説明します。 3-1.委託範囲の明確化 まずは「どこまで管理会社に任せたいのか」を明確にしましょう。以下のように大きく分けて考えると整理しやすいです。BM(ビルメンテナンス)業務のみ委託:清掃や設備保守点検、警備などPM(プロパティマネジメント)業務も含めて委託:BMに加え、家賃回収やテナント対応など運営管理も任せるAM(アセットマネジメント)まで包括委託:BM・PMに加え、不動産価値向上策の立案・実行まで含む 3-2.複数社への見積もり依頼 管理会社はそれぞれ得意分野やコスト構造が異なります。必ず複数社に声をかけ、業務範囲・管理費・実績・対応力などを比較しましょう。管理仕様:適切な管理仕様を指定できるようであれば仕様を定めた形で見積依頼を行うが、仕様について不明な部分があれば管理会社の提案を受ける形とすることも可能業務範囲:規定した仕様で具体的にどこまでやってもらえるのか、数量的な目安を確認することで比較が可能となります見積もりの内訳:清掃費、設備点検費、警備費、人件費など、それぞれの業務ごとに金額が明確か管理実績:対象とする不動産タイプ(賃貸住宅、オフィス、商業施設、物流施設など)の管理実績はどの程度か緊急対応:24時間365日体制で対応可能か、または対応の方法を持っているか 3-3.管理仕様を決める 管理会社を選定したら、実際にどのような仕様で管理してもらうのかを詰めていきます。以下概略を述べますが、詳細は後述の第5章を参照して下さい。清掃回数・実施場所例)エントランスは毎日、駐車場は週1回、廊下は週2回など個別に頻度を設定する場合と、作業時間を決めて日単位・週単位・月単位・年単位などで何をするかを明確にするなど様々なバリエーションと工夫がある設備点検の頻度法定点検だけでなく、予防保守をどこまで行うか報告・連絡の頻度毎月レポートなのか、四半期ごとなのか、必要に応じてリアルタイムで連絡するのか、報告手順として資料の送付のみか、対面での説明はあるか、など具体的な報告方法について予め確認する必要がある夜間・休日の対応警報発生時やクレームの連絡が来たときのフローを事前に決めるこのように仕様を明確にすることで、管理会社とオーナーの間で認識のズレが生じるリスクを減らし、トラブルを防止できます。 3-4.契約締結と運用スタート 管理内容や費用・報告体制などを取り決めたうえで正式に契約を交わします。運用が始まってからも、定期的にコミュニケーションをとり、必要な修正や要望を逐次伝えることが大切です。 第4章:不動産管理費のコスト削減の秘訣 次に、管理費をできるだけ抑えながら、建物の品質を維持するためのポイントをご紹介します。本来は管理仕様の工夫がコスト削減の基本ですが、管理仕様の設定はコスト以外に賃貸不動産としての競争力にも影響があるので、まずは大枠で管理コスト削減について説明し、管理仕様についてはその後に別途説明する構成とします。 4-1.適切な管理仕様の見直し 清掃や警備など、サービスを必要以上に過剰設定していないか見直しましょう。たとえば賃貸住宅では、エントランスやゴミ置き場など入居者の生活に直結する場所は重点的に清掃し、それ以外の共用廊下はやや回数を減らすなど、必要十分なレベルに調整することでコストを削減できます。管理仕様と費用は直接関係するので、最低限の仕様で管理を委託した方が良いと考えることもできます。短期的なコスト削減ではそのような方策もあり得ますが、入居者の満足度や建物の予防保全などの観点を含めて管理仕様をどの水準とするかは極めて高度な知識と経験が必要な項目です。この記事でも具体的な部分について例として言及しますが、唯一無二の適切な管理仕様があるわけでなく、実際には不動産ごとに状況に応じて管理仕様を設定し、見直して行くことがビル運営管理の業務そのものなので、その手順について後述します。具体的商品サービス例清掃ロボット清掃ロボット導入により、清掃コストを抑えつつ品質を維持する商品です。清掃現場のノウハウを活かし、省人化・品質維持・コスト削減を同時に狙う、商業施設での導入事例があります。共用廊下・エントランス・バックヤードなど定型作業清掃頻度や人員配置の“見直し”とセットで実施します。 4-2.設備の予防保守 定期点検・予防保守を怠ると、結果的に大きな修繕費用が必要になる可能性が高いです。設備が故障してから交換・修理する「事後保全」より、計画的な点検・メンテナンスで不具合を未然に防ぐ方が、トータルコストを抑えられます。 4-3.複数業務の一括発注 清掃会社、設備管理会社、警備会社などを個別に契約すると契約窓口が増えるだけでなく、全体コストも高くなりがちです。管理会社に一括でまとめて委託するとスケールメリットが期待でき、コスト削減につながるケースが多いです。具体的商品サービス例遠隔監視・受付無人化・FM提案で人件費・警備費を削減するALSOK「受付案内システム」(無人受付・遠隔対応の活用)があります。これは無人受付、遠隔・駆けつけ対応、ファシリティマネジメント等を「コスト削減」目的で整理して提供。小規模ビルの受付・夜間対応の省人化、“24時間365日体制の一次受け”を外部化して現場負荷を下げる、緊急対応の標準手順(連絡・駆けつけ・報告)を外部サービスで対応などの効果が期待できます。 4-4.エネルギーコストの見直し 照明のLED化や空調・給排水設備の省エネ化、適切な稼働時間管理など、エネルギーコストの削減は長期的に大きな効果をもたらします。管理会社と相談し、電力・水道使用量やエネルギーモニタリングの方法を導入するのも効果的です。具体的商品サービス例BEMSという仕組みの導入事例があり、電力の見える化と自動制御でエネルギー費を削減する仕組みであり、次の目的や効果を挙げることができます。効果①空調・照明・デマンドのピークカット(基本料金の抑制)効果②テナントへの「見せる化」で節電行動を促す効果③現場常駐の“勘の運転”を減らし、運転ルールを標準化BEMSの具体的な商品は次のとおりです。商品例①アズビル「BEMS」~建物設備のエネルギーマネジメント支援として、運用コスト削減や設備安定稼働を掲げるサービス。商品例②NTTファシリティーズ「FITBEMS」~電力使用状況の「見える化」「見せる化」+自動制御で省エネ・節電を支援するクラウド型BEMS。商品例③丸紅ネットワークソリューションズ「BEMSサービス」~センサー計測+制御+見える化で、契約電力や電気料金の削減効果を目指す。ほか、エネルギー設備の一括運用で運用・調達の最適化商品として、商品例④TGES(東京ガス・TGES)「オンサイトエネルギーサービス」~エネルギー調達まで含めた方式(ESP方式等)であり、エネルギー関連の運用をまとめて任せることで効率化を実現、などもあります。※以下の内容は一般的な情報提供を目的としており、具体的な法的アドバイスを提供するものではありません。実際に疑義がある場合には、弁護士など専門家の助言を仰ぐことをおすすめします。 4-5.管理会社による受注調整の可能性 ①受注調整(談合)とは受注調整(談合)とは、複数の企業が競争入札や見積もり合わせの際に、「どこが受注するか」「いくらで受注するか」などを事前に取り決めるなど、競争原理を妨げる行為を指します。これは日本の独占禁止法で禁じられている行為(不当な取引制限)です。②不動産管理業界での談合リスク不動産管理業務には、清掃・設備保守・警備など複数の業者が関わります。管理会社がこれらの業者を取りまとめる形で一括受注・下請け手配をするケースも多く、業務が集中すると「あの管理会社に頼めばある程度相場が決まっている」といった形で実質的に競争が働きにくくなる環境が生まれることがあります。ただし、大手管理会社同士が直接価格を操作し合うような形での談合は表面化しにくく、あくまでも各分野の専門業者との連携の中で調整が起こるケースが想定されます。いずれにせよ、競争原理を阻害する“カルテル”や“談合”は違法であり、発覚すれば公正取引委員会(公取委)から是正を求められたり処分を受けることになります。③発注側が取れる対策複数社からの相見積もり(競合入札)見積もりの透明性・妥当性の確認情報共有や公取委への相談発注方式の工夫契約内容の定期的な評価と改善④まとめ違反行為を完全に防ぐことは難しいものの、発注者としては複数の会社からの見積もりを取り、契約内容をしっかりチェックし、必要に応じて専門家に相談するなどの対策を講じることで、談合リスクを軽減できます。競争環境を整えながら、信頼できる管理会社・工事会社と適切な関係を築いていくことが、結果的に健全なコストと質の両立につながるでしょう。 4-6.まとめと管理費の相場 管理費の相場は一概に説明し切れるものではありません。仕様として作業時間が妥当である場合、2-3で説明したとおり、時間単価の水準を目安とすればそれぞれの業務の相場について数字で把握することは可能なので、その数字が他の水準を逸脱しているようなら確認が必要な場合もあるかもしれません。但し、昨今の傾向として、人件費を含む物価の高騰により管理費も増加傾向にあります。従いまして、同じ管理仕様で切替をした場合のコスト削減は難しい可能性があります。もしくは、管理仕様を向上して不動産の競争力を高めようとしても人手不足で対応が難しい可能性もあります。更に人的なコストや人材確保については、地域により状況が異なるため、あくまで可能性がある、という表現に留めるのが妥当だと思います。そのような状況ということもあり、現在の管理費について、本稿のような全般的な内容のなかで現在の相場を説明するのは誤解を招くおそれがあるので、避けたいと思います。従いまして、いくつかの管理会社に相談し、希望するサービスを提供して頂けそうな管理会社から見積を取得し、それらの見積を比較することが肝要です。 第5章:管理仕様を設定する方法 以下では、「管理仕様を設定する方法」の具体的な手順を中心に解説していきます。前章で説明したとおり、管理費のコストを適切にするための方策として、価格競争にコスト削減は有効に機能しない可能性もあります。不動産のタイプやテナントの種類、建物の構造・設備状況などは千差万別であり、唯一絶対の管理仕様は存在しません。最適な仕様は、建物の特性やオーナーの運営方針、入居者(テナント)ニーズなどによって変動します。したがって、不動産ごとに現状と目標を把握し、管理仕様を段階的かつ継続的に策定・見直ししていくことが求められます。管理仕様の適切な設定が管理コストの合理化や建物競争力の維持改善となるものなので、ある意味で不動産運営における重要ポイントとなります。 5-1.前提条件の整理 まずは、管理仕様を決める際の前提となる情報を整理します。ここで情報が不十分だと、適切な仕様を立案できません。物件の基本情報建物の種類(賃貸住宅、オフィス、商業施設、物流施設など)建築年・階数・延床面積・構造・設備状況(空調、エレベーター、給排水設備、防犯カメラなど)法定点検や行政上の届け出の有無(建築基準法、消防法、労働安全衛生法などの必須点検項目)オーナーの運営方針・目標物件をどのように活用し、どの程度の利益や稼働率をめざすのか資産価値の向上を重視するのか、または早期売却・転貸などの戦略があるのかブランディングやイメージアップ(高級感など)を重視するのか入居者(テナント)の特性・ニーズ賃貸住宅ならファミリー、単身者、高齢者向けなどオフィスなら士業系、IT系、コールセンターなど商業施設なら店舗の業種・営業時間・集客力など物流施設なら荷物の取り扱い量、24時間稼働の有無など現状の課題や希望既にクレームが頻発しているのか、不具合が発生している設備はあるか管理コストをどの程度削減したいのか(短期・長期目標)現状の管理仕様に不足を感じている点は何か 5-2.必要な管理項目の洗い出し 次に、具体的にどのような項目を管理する必要があるのかをリストアップします。建物の種類・規模・設備によって異なりますが、大枠として以下のようなカテゴリに分けると整理しやすいです。清掃日常清掃(共用部のほこり・ごみ回収、玄関・エントランス、トイレなど)定期清掃(フロア洗浄、ガラス清掃、外壁洗浄など)設備保守・点検法定点検(消防設備、エレベーター、空調設備など)予防保守(建物・設備の経年劣化を踏まえた定期点検など)警備・セキュリティ防犯カメラの管理・録画データの保管警備員の常駐や巡回の有無夜間緊急対応(警報発報時の現地対応など)管理人・受付業務常駐管理人の有無(賃貸住宅)受付スタッフの配置(オフィスビルや商業施設)PM(プロパティマネジメント)業務賃料回収、テナント対応、クレーム処理契約更新、退去時の原状回復管理などAM(アセットマネジメント)業務資産価値向上策の検討、長期修繕計画の策定リノベーション提案、リーシング戦略立案など必要な管理項目を一通り洗い出したら、物件の特性とオーナーの方針に照らし合わせて取捨選択を行います。 5-3.重要度と優先順位の評価 管理項目がリストアップできたら、各項目の「重要度」と「優先順位」を評価します。以下のような指標を用いると整理しやすいでしょう。法定必須項目かどうか建物や設備の劣化リスク・入居者への影響度コストと効果(費用対効果)入居者満足度やブランドイメージへの影響このステップでは、1つひとつの項目に対して「なぜ必要なのか」を明確にして、優先度の高いものから確実に管理仕様に組み込むことが大切です。 5-4.管理仕様の具体化とコスト試算 優先度を決定したら、いつ・どの頻度で・どのような内容で実施するかを具体化していきます。その際に、同時にコストの見積もりも行い、仕様と費用のバランスを調整していきます。管理頻度の設定日常清掃:テナント使用状況を鑑みる必要があります。毎日or週○回or月○回定期清掃:日常清掃では対応できない部分や機器類を使用して行う清掃があります。毎月〇回or年〇回設備点検:月次・年次・法定点検のタイミングに合わせる警備・緊急対応:24時間体制か、夜間のみ遠隔監視か管理方法の検討専門業者に外注するか、管理会社による一括手配か巡回や常駐のスタイル、設備点検の報告書作成の有無などコスト試算各項目ごとに必要な人件費・資材費・外注費などを積算管理仕様の高・中・低の3パターンなど、複数のシナリオを比較検討する短期・長期での費用対効果の考察短期的にはコスト削減になるが、長期的に修繕リスクやクレーム対応コストが増える可能性がないかテナントの満足度維持や更新率の向上が見込まれるか仕様変更に伴う価格見直しの検討仕様変更で管理水準の向上を行った場合、それによるテナント負担額の増加ができないかを検討する収入増額のためには、管理仕様単独の変化だけでなく、物件の価値全体を評価して妥当な賃貸条件の見直しも必要となる場合がある 増額を行う場合は一度にすべての増分を転嫁するのでなく、段階的に行うことでテナントの理解を得るように努めることも検討するこの時点で、「もっと安く抑えたいから清掃回数を減らす」「リスク回避のために予防保守を厚くする」といった調整を繰り返し、オーナーのニーズと費用との折り合いをつける一方でテナント満足度も把握しながら仕様見直しを進めます。 5-5.試験運用とフィードバック 策定した管理仕様をすぐにフル稼働させるのではなく、場合によっては試験運用(トライアル)を実施すると、現場のリアルな状況が把握しやすくなります。短期的なテスト導入例)清掃回数を月内で数パターンに分けて実施し、入居者の反応や作業負荷を比較する例)警備体制を常駐から夜間遠隔監視に切り替えてみてトラブル件数を調べるフィードバックの収集入居者やテナントからのクレーム・要望、スタッフからの作業報告を分析クレーム発生頻度や作業負荷が適正かどうかを確認柔軟な仕様修正試験運用で見えた課題を踏まえ、再度仕様を微調整するこのサイクルを繰り返すことで、実態に合った仕様が固まっていく 5-6.本格運用と継続的な見直し 試験運用を経て一定の仕様が固まったら本格運用に移行します。ただし、建物や入居者の状況は時間とともに変化するため、運用開始後も定期的な見直しを行うことが極めて重要です。定期レポート・ミーティング管理会社や業務委託先からの報告書を毎月または四半期で受け取り、清掃品質や設備点検結果、クレーム状況を把握必要に応じて改善要望を伝える入居者アンケート半年や1年ごとに簡易的な満足度調査を実施清掃・警備・設備などに対する評価や要望をヒアリング設備の更新計画との連動長期修繕計画を踏まえて、更新時期が迫っている設備に対する点検強化やリニューアル工事の計画を立案老朽化が進んでいる場合は保守コストが増加しやすいため、管理仕様の組み直しが必要になることも外部環境の変化競合物件の登場、地価や賃料相場の変動法規制の変更(省エネ基準や建築基準法など)需要の高まりによるテナント層の変化(物流施設ならEC需要増加など)収益の変化収入と費用の両面でどのような変化があるかを把握するそれぞれの変化の原因を把握し、トータルの事業としての収益性の変化を把握し、収益改善に向けた検討を重ねるこうした変化に対応しながら、定期的に管理仕様をアップデートするのがビル運営管理の本質です。 5-7.まとめ:状況に合わせた管理仕様の「設定→運用→見直し」が肝 唯一無二の完璧な管理仕様は存在しない物件の状況やオーナーの方針、入居者ニーズによって求められる水準は異なる。法定必須項目やリスク管理は最低限必ず守るコスト削減を最優先すると、長期的な修繕コスト増や入居者離れにつながるリスクがある。短期的なコストカットと長期的な価値維持のバランス清掃や警備を極限まで削減すれば経費は下がるが、結果的にブランドイメージやクレーム対応コストに悪影響を及ぼす可能性がある。試験運用と定期的な見直し一度決めた仕様がベストとは限らない。PDCAサイクルを回し、必要に応じて仕様を修正していく。作業時間と料金は比例身も蓋もない結論に聞こえるかもしれませんが、現在の不動産管理業界の環境では、質の高い管理業務を行うには一定の作業時間は必要であり、その範囲で可能な業務効率化により作業時間も抑制することがコスト削減方法として王道と思われます。ビル運営管理の重要なポイントは、「状況に応じた最適解を継続的に探りながら運営する」というプロセスそのものです。今回ご紹介したステップを踏まえて、ぜひ自分の物件に合った管理仕様を策定し、オーナー・入居者双方が満足できる運営を実現してみてください。 第6章:不動産管理会社の品質を把握する方法 管理業務の品質を確認し、必要に応じて改善要望を伝えるためには、以下のようなポイントを押さえると良いでしょう。 6-1.定期報告書のチェック 月次や四半期で提出される報告書をしっかりと確認し、疑問点があれば管理会社に質問しましょう。清掃実績:清掃箇所や回数、問題点の報告はあるか修繕・点検報告:設備の使用状況、故障の有無や今後の計画はどうなっているかテナント(入居者)対応履歴:クレームや問い合わせの内容と対応結果 6-2.現地確認・立ち会い 定期的に現地を訪問して、以下の点を直接チェックすることも重要です。清掃状態:ごみやほこりが残っていないか、壁や床はきれいに保たれているか設備の稼働状況:エレベーターや空調などの不具合がないか警備体制:防犯カメラが正常に作動しているか、警備員の巡回状況は適切か 6-3.入居者・テナントからの評価 入居者やテナントがいる場合は、定期的にアンケートをとり、管理会社の対応について意見を収集するのも効果的です。クレームや要望が多い場合、管理体制に問題があるかもしれません。 6-4.管理費の内訳の透明性 管理費の明細をしっかり確認し、どの業務にいくらかかっているのかを把握しましょう。不透明な部分が多い場合は、管理会社に説明を求め、納得のいくまで相談することが大切です。 6-5.まとめ 管理業務に関して管理会社に説明を求めた場合の回答内容や説明が適切で納得できる内容であれば、入居者やテナントに対する対応も同様と想定することも可能です。但し、不動産所有者は管理会社の発注主という立場であるため必ずしも異なり、管理会社の窓口が異なる場合もあります。そのような状況を鑑み、管理会社の品質について様々な観点から評価することが望まれ、もし課題を発見したら、管理会社とともに改善に取り組むことも不動産所有者の役割といえます。 第7章:ビルメンテナンス会社の例 本章ではタイプ別にビルメンテナンス会社の例をご紹介します。あくまでビルメンテナンス会社を探す際にどのような特徴があるのかを理解するうえでの一助となることを目的としており、特定の企業の広報を目的とするものではないため、実際の選定についてはご自身で調査されますようお願いいたします。日本のビルメンテナンス業界では、企業ごとに「得意とする物件タイプ」や「強みとする業務分野」が異なります。以下では、施設タイプ別・業務タイプ別にいくつかの主要ビルメンテナンス会社や建物管理会社を例示し、その特徴を簡単に紹介します。あくまで代表例であり、実際には多くの企業が複合的に業務を行っていますので、ご参考程度にご覧ください。 7-1.施設タイプ別 (1)オフィスビル三井不動産ファシリティーズ特徴:三井不動産グループのビルメンテナンス会社。大規模オフィスビルや大規模商業施設の運営管理に強みを持ち、設備管理、ファシリティマネジメントまで幅広く対応。東京ビルサービス株式会社特徴:東京建物グループ。オフィスビルなどのPM・BM(ビルマネジメント)を中心に展開。(2)賃貸住宅(レジデンス・アパートメント)大東建物管理株式会社特徴:大東建託グループの管理会社。賃貸アパート・マンションの一括借上(サブリース)を含めた管理を行い、入居者対応、設備保守、清掃などを総合的に請け負う。主な対象物件:賃貸アパート・マンション。大和リビング特徴:大和ハウスグループの管理会社。賃貸アパート・マンションの管理を行い、入居者対応、設備保守、清掃などを総合的に請け負う。主な対象物件:賃貸アパート・マンション。(3)分譲マンション(区分所有)東急コミュニティー株式会社特徴:東急不動産HD傘下の管理会社。分譲マンションの管理組合運営サポート、清掃・設備点検、長期修繕計画の策定など総合的に対応。主な対象物件:首都圏を中心とした分譲マンション。大京アステージ株式会社特徴:大京グループのマンション管理会社。「ライオンズマンション」シリーズを中心に、管理組合運営サポート、点検・清掃業務、長期修繕計画のコンサルなどを得意とする。主な対象物件:分譲マンション(全国展開)。(4)商業施設(ショッピングセンター・大型商業ビル)イオンディライト株式会社特徴:イオングループの総合ビル管理会社。ショッピングセンター(SC)の清掃・設備管理をはじめ、駐車場運営、セキュリティ、受付案内などワンストップで提供。主な対象物件:イオンモールをはじめとする大規模商業施設。JR東日本ビルテック株式会社特徴:JR東日本グループのビル管理会社。駅ビルや商業施設、オフィスビルの総合管理に強みを持つ。鉄道関連の特殊設備管理にも対応。主な対象物件:駅ビル、商業施設、複合型大規模ビル。(5)物流施設・倉庫星光ビル管理特徴:総合管理会社主な対象物件:倉庫物流施設管理を行う(6)駐車場タイムズ24株式会社(パーク24グループ)特徴:コインパーキングや駐車場運営を主体とした会社。設備保守から料金徴収システムの管理、警備サービスなどを統合的に行う。主な対象物件:駐車場(有人・無人含む)、立体駐車装置。株式会社アズーム主な対象物件:駐車場管理(7)ホテル共立メンテナンス特徴:ドーミーインを展開給食事業なども行う。主な対象物件:ビジネスホテル、リゾートホテル。APAホテルズ&リゾーツ(APAグループ)特徴:APAが自社でホテルの開発・運営を行うケースが多いが、ビルメンテナンスに関してはグループ会社や提携先で設備保守や清掃を担当する。主な対象物件:ビジネスホテル、シティホテル。 7-2.業務タイプ別に強みを持つビルメンテナンス会社の例 (1)清掃業務(ビルクリーニング)東洋テック株式会社特徴:関西を中心に清掃業務や警備業務を得意とする会社。ビル清掃、ガラス清掃、高所作業などの専門技術を有し、警備と合わせて総合管理を行うことも可能。太平ビルサービス株式会社特徴:清掃・設備管理を中心に、全国に拠点を持つ。特に清掃領域ではオフィス・病院・学校など多様な施設対応の実績が豊富。(2)設備保守(電気・空調・給排水・消防など)ビル設備系メーカー系サービス会社例:三菱電機ビルテクノサービス、日立ビルシステム、東芝エレベータ、ダイキンHVACソリューションなど特徴:自社製品(エレベーター、空調設備など)に関する保守点検を中心に、ビルメンテナンス全般に拡大対応している。純正部品・メーカー技術者によるメンテナンスを強みとする。アズビル株式会社(旧:山武)特徴:ビルオートメーションシステム(BAS)など、中央監視・制御設備の保守を得意とし、空調制御・エネルギーマネジメントなど付加価値の高いサービスを提供。(3)修繕工事鹿島建物総合管理株式会社(鹿島グループ)特徴:大手ゼネコン鹿島建設グループ。オフィスビルやマンション等の定期修繕・改修工事の提案・実施を行う。建築知識・施工体制が強み。長谷工コミュニティ(長谷工グループ)特徴:マンション管理と大規模修繕工事で高いシェアを持つ。長谷工コーポレーションの建築ノウハウを生かし、老朽化対策や耐震補強など総合的に対応。(4)ビル運営(テナント管理・運営企画・PM業務)CBRE株式会社特徴:外資系不動産サービス会社。グローバル基準のPM(プロパティマネジメント)、アセットマネジメント、リーシング戦略など幅広いサービスを提供。対象業務:オフィス・商業施設の運営管理、テナント付け、契約交渉・レポーティングなど。 7-3.まとめ 施設タイプ別の得意分野オフィスビル:大手デベロッパー系管理会社賃貸住宅:大東建物管理、レオパレス・パートナーズなど賃貸管理大手分譲マンション:東急コミュニティー、大京アステージなどマンション管理専業大手商業施設:イオンディライト、JR東日本ビルテックなど、SCや駅ビルに強い会社駐車場:タイムズ24など駐車場運営に強い企業ホテル:APAなどホテル運営受託会社業務タイプ別の得意分野清掃:太平ビルサービス、東洋テックなど清掃専門部隊が充実設備保守:三菱電機ビルテクノサービス、日立ビルシステム、アズビルなどメーカー系修繕工事:鹿島建物総合管理、長谷工コミュニティなど建設・ゼネコン系ビル運営(PM業務):外資系不動産サービス企業(CBREなど)、大手デベロッパーグループこのように、ビルメンテナンス会社を選定する際は「対象となる建物の種類や用途」と「必要とする業務の種類・範囲」を明確にし、それに応じて専門性を持つ会社を比較検討することが重要です。大手のグループ会社やゼネコン系、メーカー系、外資系など背景が異なる企業が多いため、コスト・対応スピード・サービス品質など各社の特徴を総合的に踏まえて判断します。 第8章:不動産理論・法律における管理費 以下の内容は、日本における不動産鑑定評価基準や関連する実務の一般的な考え方に基づいてまとめた情報です。個別の案件や契約内容によって扱いが異なる場合があるため、詳細な判断が必要な場合は不動産鑑定士や弁護士など専門家に相談することをおすすめします。冒頭で説明したように管理費の用語は一義的な意味で使われるとは限らないので総括的な知識を持ち、具体的な管理費の議論においてどのような意味合いで使っているのかを把握できるよう補足しています。不動産所有者が管理会社や入居者とのコミュニケーションにおいて、管理費という用語で齟齬が生じないように配慮しています。 8-1.不動産鑑定理論における管理費の位置づけ ①管理費は「オーナーが負担する費用」として捉えられる不動産鑑定評価(特に収益還元法)の考え方では、対象不動産から期待される純収益(Net Operating Income:NOI)を把握するために、賃料収入などの総収益から運営費(管理費や修繕費、固定資産税など)を差し引くという手順を取ります。このとき挙げられる「管理費」は、建物全体の維持管理にかかる費用共用部分の清掃や設備保守・警備などに必要な費用管理会社へ支払う管理委託手数料その他、建物を適正に維持するための一般的な費用といった項目が含まれます。【実務上の扱い】不動産鑑定評価では、賃貸事業を行うオーナー側が負担するべき管理費(=運営側の費用)を前提とします。テナント(入居者)に転嫁できる管理費(共益費)部分があれば、それはオーナーにとって実質的に「収益」になるため、「オーナー負担分」と「テナント負担分」に分けて整理を行うことが多いです。②テナントが負担する「管理費」や「共益費」の扱い一方で、実務の賃貸契約においては、テナントが負担する管理費や共益費が別途設定される場合があります。例えばオフィスやマンションの賃貸借契約書を見ると、「賃料:○○円」「管理費(または共益費):○○円」という形で明記されている入居者は毎月、賃料と管理費(共益費)を合わせて支払うといったケースです。【鑑定評価上の考え方】この「管理費(共益費)」をテナント側が全額負担する契約形態であれば、理論上オーナーが負担する管理費はその分だけ軽減され、オーナーの実質的な収益(NOI)が増加することになります。不動産鑑定の場面では、「テナント負担の管理費相当分を含めた実質的な収入」を把握しつつ、オーナーが直接負担しなければならない管理関連費用(共用部の光熱費や保守費など)がどこまで発生するのかを精査して、最終的な純収益を算出します。 8-2.賃貸不動産における管理費・共益費の法的性質 ①賃貸借契約と管理費の取り扱い日本の民法(債権法)や借地借家法などを見ると、「賃貸借契約でいう賃料」として定義されるのは一般的に使用収益の対価です。一方、管理費や共益費という名称自体は法律上で独立した定義があるわけではありません。賃料:目的物の使用収益に対して支払う対価。管理費・共益費:本来は、共用部の維持管理にかかる費用を入居者が按分して支払う趣旨(と契約で定められることが多い)。しかし、法律上は「賃料の一部」とみなされる場合もあるため、必ずしも賃料と別の法的性質を持つとは限らない。【実務では「賃料+管理費(共益費)」と呼んでも、法的にはひとまとめになりがち】賃貸借契約書の記載次第ですが、裁判例や実務上、「賃料以外の名目で定期的に支払われる金員も含めて、実質的には賃料として扱う」と解される場合があります。例えば、滞納時の賃料回収や契約解除の要件などで「名目が何であれ、入居者が毎月支払う金額は賃料性を有する」と整理されることが少なくありません。②管理費(共益費)は何らかの特別な法律に基づくものか?日本の法律で「管理費」を独立して定義しているものはないといえます。区分所有法でいう「管理費」はマンション管理組合に関する費用(区分所有建物の管理費)を指す場合もありますが、これは区分所有者の負担分であり、賃貸借契約での「管理費」とは別の文脈。一般的な賃貸物件における「管理費」や「共益費」は、あくまで当事者の合意(契約書の定め)により賃料と別枠で設定している金額にすぎません。【管理費の法的性質】賃貸借契約に基づき、当事者同士の合意で定期的に支払われる金員名目上「管理費」や「共益費」と呼ばれていても、法的には「賃料の一部」とみなされる場合がある。 8-3.不動産鑑定における管理費水準の判断 ①市場実態との比較不動産鑑定評価において、管理費の水準が高いか低いかを判断する際は、類似物件の事例(共益費相場など)と照合したり、賃料水準とのバランスを見ながら判断することが多いです。近隣や同種の物件で管理費・共益費がどれくらい設定されているかオーナー側が負担する管理費(運営費)は、規模や管理内容に照らして妥当な金額か②管理費を調整することで賃料総額とバランスをとるまた、テナントが負担する管理費が高めに設定されている場合、逆に賃料がやや低く設定されているなど、いわゆる「賃料+管理費」の総額を見て競合物件と比較する手法もよく行われます。賃料と管理費(共益費)は通算して検討し、「月額トータルでいくら支払うか」がテナントにとっての実質負担不動産鑑定では、実質的な稼働総収益(賃料+共益費収入)を加味しつつ、オーナー負担分の管理費支出を控除する形で純収益を推定③結論:鑑定評価では「市場水準」「賃貸条件の実態」「オーナー実質負担」を確認鑑定士は「賃料+管理費の合計額がマーケットの需給状況と比べて妥当かどうか」を見極めつつ、オーナーが最終的に負担する管理費用の妥当性も併せて調査・算定します。これにより、収益還元法のベースとなる純収益(NOI)をなるべく正確に把握し、最終的な試算価格に反映させるのが一般的なアプローチです。 8-4.取適法(旧:下請法)に関する確認 2026年1月より取適法(正式名称:中小受託取引適正化法)にて下請法で規定されたルールが強化されていますが、本稿では便宜上、作成時点で一般に浸透している『下請法』という呼称も併記します。不動産管理業務の委託は、「役務提供委託」に該当し得るため、不動産所有者が親事業者、管理会社が下請事業者となり、取適法が適用される可能性があります。例えば下請法が適用される場合、(1)支払いサイトの制限(2)発注書面の交付義務(3)不当な減額・追加業務押し付けの禁止などを遵守しなければなりませんでした。特に、旧下請法の運用上、手形等の支払条件(サイト)が60日を超える取引慣行について是正が求められるため、支払方法(手形・電子記録債権等)と支払期日の設計には注意が必要です。実際の適用可否は、「資本金規模の対比」「業務委託が親事業者の“事業の一部”に当たるかどうか」などの要素で判断されます。不動産オーナーが大規模法人で、不動産管理会社がそれよりも小規模な法人であるなど要件を満たす場合は、契約スキーム・支払い条件・契約書類の整備について取適法違反とならないよう注意が必要です。 8-5.理論的な管理費についてのまとめ 不動産鑑定評価における「管理費」は、建物の運営維持にかかる費用として、オーナー側の支出項目に位置づけられる。テナントが負担する管理費・共益費は、法律上独立した概念があるわけではなく、賃貸借契約で当事者間が合意した金額にすぎません。場合によっては実質「賃料の一部」として扱われる場合もある。鑑定評価では、管理費の水準を判断する際に、近隣や類似物件との比較や、賃料+管理費総額とのバランスをチェックする。法的には管理費という言葉自体に特別な定義はなく、あくまで当事者間合意の結果。滞納・契約解除などの局面では、管理費と賃料を分離できずに同じ「賃貸借契約上の金員」とみなされる場合がある。最終的に、「管理費はどう位置づけられるか」は契約や鑑定評価上の考え方に左右されますが、実務的には「テナントが負担する分(共益費)」と「オーナーが負担する分(運営費)」に区分し、収益と費用を正しく整理することが重要です。一方、法律上は「賃貸借契約による賃料等の支払い」という大枠の中で扱われ、名目がどうであれ実質的に賃料性を有する場合が多い点に留意が必要です。そこで、実務的には賃貸事業において、テナントから徴収する賃料、管理費、共益費などは賃貸収入(=賃料)とし、不動産運営管理に必要な管理外注費や管理に必要な経費は賃貸管理原価(=管理費)と用語を区分すると整理できると思われます。 まとめ:最適な不動産管理で資産価値を守る 不動産管理費は、建物や設備を適切に維持するために必要なコストです。一見すると負担に感じるかもしれませんが、ポイントを押さえて管理会社を選び、適切な仕様を設定し、予防保守や一括発注などを駆使することで、費用対効果を高めることが可能です。管理会社に委託するメリット:専門知識の活用、コスト管理や不動産事業の効率化、クレーム対応の負担軽減など委託時の手順:業務範囲・仕様の明確化、複数社への見積もり依頼、仕様のすり合わせ、契約・運用開始コスト削減の秘訣:必要十分な管理仕様、必要に応じた見直し、予防保守の徹底、一括発注の活用、省エネ対策品質チェック:定期報告書や現地確認、入居者アンケートの活用、費用内訳の透明化不動産運営管理の相談先:実績のある不動産管理会社は長年の知識・経験をもとに不動産運営で大きな課題が生じた場合に専門的な知見を踏まえたアドバイスを求めることもできます。物件を管理しているため、外部専門家としてだけでなく、不動産運営のパートナーとして活用しましょう。上記を踏まえ、賃貸住宅やオフィス、商業施設、物流施設などの特性に合わせて、無理のない管理計画を立てることが大切です。最終的には、建物の品質維持や資産価値の向上につながる管理を目指し、管理会社との信頼関係を築いていきましょう。不動産管理は奥が深い分野ですが、きちんと理解して取り組むことで大切な不動産を長く・安全に運営することができます。初めての方でもこの記事を参考に、最適な管理体制を整えてみてください。もし、不動産管理についてご質問等あればお気軽にご連絡下さい。お待ちしています。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ代表取締役 羽部 浩志 1991年東京大学経済学部卒業 ビルディング不動産株式会社入社後、不動産仲介営業に携わる 1999年サブリース株式会社に転籍し、プロパティマネジメント業務に携わる 2022年サブリース株式会社代表取締役就任(現職) ライフワークはすぐれた空間作り 2026年2月10日執筆

“何もしない”ことが最適解になるとき―築古の賃貸オフィスビルの管理・運営における静かな選択肢

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「“何もしない”ことが最適解になるとき―築古の賃貸オフィスビルの管理・運営における静かな選択肢」のタイトルで、2026年1月14日に執筆しています。少しでも、皆さんにお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:「改善するほど空回りする」築古の賃貸オフィスビルの管理の現実第2章:「動く」「待つ」「動かない」を分ける第3章:「あえて何もしない」ことを戦略的な管理として再評価する第4章:「動かさないこと」がテナントの納得感を支える理由第5章:「動かしていないように見える」状態の裏にある小さな実務対応第6章:「“動かさない整え”が成立する物件、しない物件」の見極め方第7章:ビル管理者に求められる「静かな判断力」とは何か第8章:「動かさないこと」を戦略的に位置づける はじめに “何かしたほうがいい”という圧力は、いつだってある。 設備が古い、空室が続く、見た目が垢抜けない――。築古賃貸オフィスビルを運営していると、何らかの「対策」を講じなければならない、という空気に囲まれる場面は少なくない。新しい共用部の内装、新しい案内サイン、新しい素材。何かを変えれば、何か状況が変わるのではないか。その期待に基づいて、投資した結果、かえって物件の印象が悪化したり、予想外のコストが膨らんだりするケースは、決して珍しくない。特に築30年を超えるような中小規模の賃貸オフィスビルでは、「何かをしたことで空室が埋まった」というストレートな成功事例よりも、「何かしたのに、結局決まらなかった」「変えないほうがよかったのではないか」という苦い後味の残るケースのほうが、むしろリアルに思い当たるかもしれない。では、“何もしない”という選択肢は、現実的にあり得るのか。あるいは、「何もしない」というのは、本当に“何もしていない”のだろうか。本コラムでは、築古の賃貸オフィスビルの管理・運営における「動かないこと」の価値を見直す。表向きは何も更新されていないように見えても、じつはきちんと整っている状態――そこにこそ、テナントの納得と価格の安定が生まれているケースは多い。それは、判断を放棄した“手抜き”とはまったく違う。「やらない」ことが検討の末に選ばれているなら、それは立派な戦略になり得る。動かないことで、整っていること。変えないことで、守られているもの。このコラムでは、「あえて、何もしない」という選択肢を、実務の目線から捉え直していく。 第1章:「改善するほど空回りする」築古の賃貸オフィスビルの管理の現実 「何かしないと埋まらない」――。その切迫感から壁を塗り替え、案内サインを刷新し、エントランスの床を張り替える。リニューアル完了の報告書を手にした瞬間は、「これでようやく内見が決まるだろう」と期待を抱く。ところが、実際には内見数がほとんど増えない。たとえ増えたとしても決まらない。しばらくして感じるのは、「これほど手をかけたのに、なぜ?」という言葉にできない違和感だけだ。築30年を超えるような賃貸オフィスビルを管理・運営している人なら、こうした経験に少なからず身に覚えがあるのではないだろうか。では、なぜ「改善」が期待したような「成果」に結びつかないのだろうか。まずは、この理由を整理していきたい。 ①「改善投資の成果が読めない」という根本的な難しさ 本来、投資とは投じた資金に対してリターンが事前にある程度、計算できるからこそ成り立つ仕組みである。しかし、築古の賃貸オフィスビルの場合、その改善投資が「どの程度のリターンを生むか」を見積もることは、実は容易ではない。そこには二重の「読めなさ」(不確実性)が存在するためである。(1)リターン算定自体が困難(=投資効果の不確実性)そもそも、どのような改善内容がテナントの意思決定に効果的に訴求するかは、常にケース・バイ・ケースである。たとえば、あるテナントは内装の一新を評価してくれるかもしれないが、別のテナントにとってはむしろ使いにくさを感じさせるかもしれない。そもそも、将来入居する可能性のあるテナントのニーズを、事前に直接、調査し予測することは不可能である。専門家のアドバイスを仰いだとしても、果たしてその助言が本当に正しいのかを、投資の前に検証する手段は存在しない。(2)改善のタイミングの最適解も分からない(=投資タイミングの不確実性)設備更新を例に挙げてみる。設備はいつか必ず更新する必要がある。しかし、「今すぐに更新すべきか、それとも1年後、2年後で良いのか?」という問いに対して明確な回答を示すことは非常に難しい。特に築古物件の場合、更新が早すぎても資金が浪費されるし、遅すぎればテナント満足度が低下してしまう。この不確実性を前に、多くの運営者は「とりあえず長期的な更新計画を策定して、それに従って淡々と資金を積み立てる」という運営方法に落ち着くことが多い。しかし、そこに明確な必然性があるかと言われれば、やや心許ないのも事実だ。築古の賃貸オフィスビルの改善投資は、改善の効果もタイミングも「よく分からない」という構造的な難しさを抱えているのである。 ②改善が逆効果になる――部分的更新による「違和感の増幅」 しかも、築古の賃貸オフィスビルでは、単にリターンが不確実というだけではなく、「改善がむしろ逆効果になりやすい」という特有のマイナス要因もある。多くの築古物件は、建築当時の設計思想や素材、設備などが時代的な統一感を持っている。これがむしろ全体としての落ち着きや整合を支えている場合がある。しかし、ここに部分的な「今風の改装」を施した場合、次のようなことが起こりうる。・会議室の壁だけをモダンな濃色のアクセントクロスに変えてみた結果、空間が狭く、圧迫感を与えてしまった。・案内サインを新しいデザインのものに刷新したところ、ドアや壁面など「変えなかった部分」の古さがかえって強調されてしまった。これは、「改善したから決まる」のではなく、「改善したからこそ違和感が際立ってしまった」という逆説的な状況である。 ③設備更新や改装自体がテナントにとって「決定要因」にはならないという事実 テナントから「設備は更新済みですか?」と質問されることがある。このような質問を聞くと、「更新しないと入居してもらえないのでは?」と不安になるかもしれない。だが、この問いは「設備が更新されていないと絶対NG」という意味ではなく、「設備が更新されているなら、その設備が空間全体と整合しているか」という安心感を求めているに過ぎない。中途半端な更新が「雑さ」や「一貫性の欠如」を感じさせてしまえば、かえってテナントの信頼を失うことになる。つまり、「改善したかどうか」という事実そのものよりも、「改善の内容や質が、建物全体の雰囲気と調和しているかどうか」が重要なのである。 ④「何もしないほうが良かった」という実務経験の蓄積 こうした状況に遭遇するたび、「何もやらなかったほうが良かったのでは?」という苦い後悔の記憶が蓄積されていく。・エントランスを最新デザインに改装したが、無理な演出感が否めず、かえってテナントから違和感を指摘された。・フロアの一部をリノベーションして、ミーティングスペースを新設したところ、使い勝手が曖昧になり、テナント満足度がむしろ低下した。・ビル内のサインを全面的に刷新したものの、導線が分かりづらくなったとクレームが増えた。これらの事例は、ただ「何かを変えた」という事実だけではテナントにとって価値にはならず、むしろ「やらなかった状態のほうが自然で好ましい整合性が保たれていたと受け止められることもある」という逆説的な現象を示している。 この章のまとめ――「やるべきか・やらないほうが良いか」の判断は紙一重 築古の賃貸オフィスビルの管理において、改善投資をめぐる判断の難しさは、「やるべきこと」と「やらないほうがよいこと」が紙一重だということに尽きる。安易に「改善を実施すること」を成果と見なすのではなく、「その改善が本当に物件の価値や整合に寄与するか?」という視点で丁寧に判断を下すことが求められる。次章以降、この「動かさない(何もしない)という選択」がどのような状況で戦略的に意味を持つのか、その具体的な条件と考え方について掘り下げていきたい。 第2章:「動く」「待つ」「動かない」を分ける ―リスクと不確実性の整理から始める戦略判断 前章で述べたように、築古の賃貸オフィスビルの改善投資は「やれば成果が出る」と単純にはいかない。そもそも、投資の結果が事前に予測可能なら、「成果が出ない投資」などあり得ないはずだ。なぜ予測できないのか?この理由を整理するためには、まず「リスク」と「不確実性」という2つの概念を明確に区別することから始める必要がある。 リスクと不確実性―なぜ「測れる/測れない」を区別する必要があるのか? 経済学者フランク・ナイトは、将来に対する予測を次の2つに分類した。・リスク(Risk)→確率や期待値をある程度測定できる事象(例:設備の故障率、定期的な法定点検コスト、テナントからの典型的なクレーム件数、過去の空室率や平均内見回数など、データや過去の傾向から推測できるもの)・不確実性(Uncertainty)→確率や期待値を測ることが原理的に不可能な事象(例:オフィスでの働き方の転換、都市の企業構成の変化等を背景とした需要構造の不可逆的な変化、隣地再開発によって地域がどのようなテナント層を引き寄せるか等、過去のデータだけでは予測不可能な未来の動向)築古の賃貸オフィスビルにおける投資・改善活動が難しい理由は、まさにこの「不確実性」が大きいからだ。データを集めれば投資が正しくできる、と安易に言えないのは、どれほどデータが蓄積されても、この「本質的な不確実性」が必ず残るためだ。 築古オフィス改善の判断を階層化する―A・B・Cのレイヤー構造 ただし、「測れること」と「測れないこと」はきれいに二分されているわけではない。そのため、より実務的な判断のためには、3つのレイヤーに分けて考えるのが有効である。 レイヤーどんな要素か?実務上の対応A層(リスク)データで測定・予測不可能な範囲。例:修繕費、内見回数、賃料相場(直近)データを活用して合理的に改善判断が可能B層(部分的リスク)一部データはあるが確率計算によるモデル化が困難。例:改装効果の受け止められ方/持続期間、再開発の影響を受けた地域の変化等小口・段階的な試行で不確実性を少しずつ明らかにするC層(不確実性)将来の需要変化や社会トレンドなど予測不可能な範囲。例:新しい働き方の流行、新しい業態のテナントの進出大きな投資は回避し、「待つ(オプションを残す)」戦略で対応 つまり、「投資しても改善効果が分からない」という状況が頻繁に起こるのは、主にB層やC層の領域が大きく影響しているためだ。これを無視して「すべてA層のようにデータで測れる」と誤認すると、投資判断が失敗するリスクが増える。 改めて明確にする3つの戦略オプション では、具体的に築古の賃貸オフィスビルでの判断をどう進めるべきか。ここで戦略的判断を以下のように明確に3つの選択肢に分類することができる。 戦略状況(トリガー)実務的対応①動く(改善)A層リスク/リターンが算定可能、不確実性が小さいと判断改善の効果が合理的に予測されるので実行②待つ(オプション保持)A層が明確でなく、B層・C層の不確実性が大きい場合判断を先送りし、状況の変化を待つ(急ぐ必要はない)③小口試行(小規模投資で様子見)B層のリスクがやや大きく、追加のデータが必要部分的改善・小規模改修を通じて、効果を見極めて次の判断材料を増やす たとえば、隣地の再開発が予定されている場合、地域の賃料が将来上がるだろうという見込み(B層)までは分かっても、その後どんな業種が入居するか(C層)は全く予測不能だ。このようなケースでは、いきなり大きな投資をするのではなく、小規模な仮設や試行的改善を先に行い、確かな手応えがあった段階で本格的な改修を行うのが実務的である。 第3章:「あえて何もしない」ことを戦略的な管理として再評価する 「何かをすれば、きっと改善されるはずだ」という思い込みは、賃貸オフィスビル管理の現場を支配しがちである。特に、築古の賃貸オフィスビルにおいて、目に見える老朽化や競争力の低下が懸念される状況では、改善を早く進めるほうが積極的で正しいと判断されることが多い。しかし前章で指摘したように、築古ビルにおける改善投資のリターンは、確実に予測できるものばかりではなく、「投資しても思うような効果が得られない」といった事例には事欠かない。築古の賃貸オフィスビルの改善において、設備や内装を新しくすることで必ずテナント需要が高まるという単純な因果関係は成り立たないことも多い。そのため、ビル管理者が下すべき戦略的な判断の中には、すぐには「あえて動かさない(何もしない)」という選択肢が十分にあり得るのだ。その点を明らかにするため、前章で戦略オプションとして挙げた「②待つ(オプション保持)」と「③小口試行」という二つの選択肢を、現場で具体的に適用し、築古の賃貸オフィスビル特有のリスクや不確実性をより精緻に管理する視点について説明していきたい。 ①待つ(オプション保持)」を選ぶ状況と具体的運用 改善を即時に実施する条件(リターンとリスクの明確さ)が整わない場合は、「待つ(動かさない)」判断が有効になる。この「待つ」という戦略は、「判断の放置」や「消去法的な対応」ではなく、理由もある戦略的な判断に基づく選択肢である。たとえば次のような状況で考えられる・周辺地域の再開発や賃料相場の変動が予測されるが、まだその影響が具体的に確認できない段階・いま設備や内装を刷新したとしても、将来入居を希望する業種や用途が読み切れない。・周辺の相場動向を1~2年間、定期的にモニタリングすることで、「動くべきタイミング」を精度高く見極められるようになる。・現在のテナントに特に問題や不満がない状態で、設備も問題なく稼働している場合・テナントの退去や更新時期までは無理に設備更新を急ぐ必要がない。・ただし設備の使用年数や故障頻度などを定期的に記録し、計画的に次回更新タイミングを判断する。このように「待つ」という判断には、具体的な根拠と戦略的狙いがある。その間に、必要なデータを定期的に収集・評価し、状況が変化したら速やかに動ける準備を整えることが不可欠になる。 ②「小口試行(小規模投資)」を選ぶ状況と具体的運用 一方、「小口試行」は、ある程度の規模の設備更新や改修を即決できるほどの情報が揃っていない場合に有効な手段だ。これは、特に次のようなケースで使いやすい・競争力回復のために何らかの手を打ちたいが、投資に踏み切るリスクを無視できない場合・一部フロアや共用部の一角など限定的な範囲で、小さなデザイン変更や塗装・仕上げの刷新を行い、内見者の反応や成約率の変化を観察する。・改善前後で内見者の数、成約までの期間、内見後の成約率などを比較データ化して、その効果を客観的に評価する。・設備の一部が古くなっているが、全面更新が過剰と感じられる場合・故障が頻繁な箇所だけを部分的に更新し、残りは維持・保守で対応しつつ、実際にどの程度コストが抑えられ、設備稼働の安定性が保たれるかを定量的に記録して評価する。こうした小規模な試行を積み重ねることで、「大きく動く」べき、タイミングを判断するための実務的なデータを蓄積できる。「小口試行」は、リスクがまだ明確に定義されていないときに有効な判断方法である。ここまで、「②待つ(オプション保持)」と「③小口試行」の選択肢について述べてきたが、実務上は、もちろん、「①即時投資」を選択すべきケースも存在する。 ③「安全性に関わること」は即時対応――最低限の基準 まず絶対に外せない基準は、安全性や法令順守に関わるものである。これは「動かさない選択」が許されない最低限のラインであり、迷う余地はない。たとえば・消防設備の法定更新や定期点検・構造的な補修や、漏水・雨漏りなどの水回りトラブルの修繕・エレベーターや非常階段など避難動線に関わる設備の維持管理これらに関しては、そもそも「動かさない」という選択肢は存在しない。これらの分野に遅れや判断の曖昧さが生じれば、物件のビル管理自体に深刻なダメージが発生する。 ④物理的劣化が「違和感」から「不快感」に変わる境界線 次に重要な基準は、物件の外観や共用部が、テナントの目から見て「劣化している」と感じられる状態の線引きである。ここで言う劣化とは、単に古さを感じることではなく、テナントが日常的に利用する中で、「違和感」から「不快感」へと感覚が変わってしまうような状態を指す。たとえば、次のような例が挙げられる・床材が経年劣化で剥がれてきている、あるいは波打っている・天井や壁面に汚れや変色が広がり、見るたびに不快感を覚える・ドアや窓の建付けが悪く、日常的に開閉が困難または騒音を生じるこれらは単に建物の古さとして済ませられるものではなく、テナントの利用体験そのものを日々損なう要素になり得るため、確実に対応しておくべきポイントになる。その一方で、以下のような状態であれば、まだ「動かさなくてよい」範疇に入る・床材や壁面の色褪せがあるものの、日常使用に支障はなく、テナントから特段の不満も寄せられていない。・ドアノブや鍵の金具に多少の経年感があるが、機能として問題は生じていない。こうしたケースでは、まだ改善を急ぐ必然性が薄いため、積極的に即座に動くよりも現状を維持し、将来的な状態変化に備えて「待つ」または「小口試行」でデータを収集することも現実的な判断になり得る。 第4章:「動かさないこと」がテナントの納得感を支える理由 いままで、築古の賃貸オフィスビルの管理において「あえて動かさない」という選択肢が、戦略的に選ばれる場面とその判断の背景を検討してきた。では実際に、この「動かさない」という判断が、テナントにどのような印象を与え、結果的に物件管理の安定性や収益性にどのような影響を及ぼしているのか。この章では、「動かさない判断」と「テナントの納得感」の関係をより明確に整理しながら、その具体的な構造を掘り下げていきたい。 ①テナントが求めているのは「変化」ではなく「安定」 賃貸オフィスビルの管理会社として、日々物件と向き合っていると、建物の古さや空室が目立つようになるたびに、「何かを変えなければいけない」という焦燥感に駆られやすい。しかし、実際にテナントが賃貸オフィスビルに求めているのは、必ずしも常に新しい変化ではない。たとえば、テナントが日々の業務を行う上で重要視しているのは、意識されないほど当たり前に続いている「安定した状態」である。・共有スペースの音・空気・光といった環境要素がいつも一定していて、ストレスや違和感がないこと・トイレや給湯室の使い勝手に特別な変化や不便さが生じていない。これらはどれも新しさを伴うものではない。しかし、この「何も起きていない」ことがテナントにとっては重要であり、逆に変化が多いことは落ち着きのなさ、不安定さを意識させてしまう可能性すらさえある。こうした日常性に根差した安定感こそが、築古の賃貸オフィスビル管理において「動かさない」という選択肢を戦略的に意味あるものにすると言えよう。 ②「動かさない判断」が“テナントの信頼”を静かに醸成する 前章までに説明した通り、「待つ」や「小口試行」の戦略オプションをとっているとき、外見上はほとんど変化が見えない。これらを一見するとビル管理者による「消極的対応」と否定的に見ているのではという気もするのだが、テナントは以下のようにその「静かな整え」を好意的に受け止めていることも多い・“不快感がない”という静かな評価・設備や仕上げが変わらなくても、「不快がない」「違和感がない」ということ自体が評価になっている。・「変わらない」=「安定した管理」の証拠・テナントにとって「特に問題が起きない」状態は、その物件が適正に管理されていることの証左と受け止められ、ビル管理への信頼感を深める要因となり得る。つまり、「動かさない判断」は、物件に対するテナントの「信頼感」を静かに、しかし着実に支えているとも言えよう。 ③中途半端な改善は、かえって納得感を損なう 一方で、中途半端に「改善」や「更新」を行った場合はどうだろうか?ここで重要なのは、それらの改善が「必ずしも評価に繋がらない」どころか、逆にテナントの納得感を損なう可能性すらさえあるということだ。具体的な例として以下を挙げてみよう・エントランスのデザインを一部だけ新しくした結果、共用部の古びた感じが強調されてしまった。・案内サインを一部更新したものの、旧来のサインとの整合が取れておらず、混乱を生じさせている。・一部分だけ新しい仕上げに変えたことで、改装されていない部分の「放置感」が目立つようになった。これらの状況は、テナントにとっては「むしろやらない方がよかった」と感じさせるものであり、結果的に「費用をかけて信頼感を損なう」ことにもなりかねない。 ④「何もしない」状態が妥当性を支える 築古の賃貸オフィスビルでは、テナントが重視するのは「特別な改善」よりも、「何も気にならない」という日常的な安心感や整合感である。これは一見すると消極的な評価基準に見えるが、実務上、極めて重要なポイントだ。以下の状態が毎日安定して保たれていれば、テナントは、この賃貸オフィスビルを使用していることに無意識に納得していることが多い・床や壁が変に新しくなくても、汚れや破損がなく整っている。・空調や照明などが一定の状態で維持され、いつも安定した使用感が保たれている・清掃や点検などの基本的なメンテナンスが静かに続けられているため、日常的に違和感がない。・トイレや給湯室などが日常的に清潔で、不快感が生じないこれらは、「何もしない」ように見えて実は手間のかかる日常管理によって維持されている。つまり、「動かさない」とは「手を抜いている」こととは全く違い、「日常的にテナントの納得感を維持する」ために選ばれた判断である。 第5章:「動かしていないように見える」状態の裏にある小さな実務対応 前章では、「動かさない」という判断が、テナントにとっての安定感や物件の整合感を生み出していることを確認した。だが、そうした整った状態が、「何もしないこと」で自動的に維持されるわけではない。実際には、表面上「何も変わっていないように見える」その裏で、日々の細やかな調整と注意深い実務対応が積み重ねられている。この章では、「動かさない状態」を現実に保つために行われている、目に見えない小さな実務対応について掘り下げていく。 ①「動かさない」のは、「何もしていない」という意味ではない 築古のオフィスビルで評価される「落ち着き」や「違和感のなさ」は、ただ放置しておくだけで成立するものではない。「動かしていないように見える」状態の裏では、実際には、日々のビル管理において、地道な調整やメンテナンス等の実務対応が積み重ねられている。たとえば・廊下や共用部の床材がわずかに浮いてきた時点で、テナントが気づく前に補修しておく。・トイレや給湯室の換気設備が異音を出し始める前に、定期点検で部品の摩耗を確認し、必要に応じて交換・調整する。こうした作業のほとんどはテナントに知られることなく行われている。だが、それこそが「何も起きていないように見える環境」を支える実務対応である。“何も起こさない”ためには、実は多くの行動が必要なのだ。 ②小さな調整は「変化を起こさない」ために行われている 築古の賃貸オフィスビルにおいてテナントが評価するのは、変化・刷新よりも、むしろ「何も気にならない」空間である。つまり、小さな違和感ですら、日常の快適さを大きく損ねる要因になるということだ。このような感覚に応えるには、「変化を起こさない」ことを主眼に置いたビル管理が求められる。たとえば・定期点検や設備メンテナンスをテナントの業務に支障が出にくい曜日や時間帯に設定し、テナントの「いつも通りの一日」を崩さないようにする。・清掃作業の手順・時間帯を固定し、清掃後の雰囲気や空気感に微妙なブレが出ないように管理している。これらのビル管理における実務対応は、テナントから「評価」されることはほぼない。しかし、まさにそれが目的である。テナントが気にしなくても済む環境を維持することこそ、築古の賃貸オフィスビル管理における「静かな整え」の本質だ。 ③「感度の高さ」が築古の賃貸オフィスビル管理の核心 こうした「何も変化が起きない」状態を実現するには、日常のビル管理の実務の中に潜む微細な異変を察知できるだけの感度が必要になる。点検表やチェックリストだけでは拾いきれない、微妙な変化に気づけるかどうかが分かれ目だ。たとえば・共用廊下の床が、少しだけ踏み心地が変わった。・ドアや窓の開閉時に、ほんの少しだけ“重さ”や“引っかかり”を感じるこのような現場感覚に基づく違和感を見逃さず、小さなうちに実務対応することで、「大きな問題が起きない状態」を先回りして維持することができる。こうした“気づける力”こそが、重要な管理技術となる。 ④目立たない調整が「信用」を積み重ねる 多くのテナントは、日々のビル管理の実務対応の内容についてほとんど意識しない。だが、それは決して無関心という意味ではない。「とくに気になる点がない」「いつ訪れても変わらない」――そうした無意識下の安心感こそが、テナントとの信頼関係の基礎となっている。築古の賃貸オフィスビルの管理者が日常的に行う、見えない微調整や先回りの小さな実務対応は・「いつ来ても同じ状態が保たれている」という継続性・「トラブルがないので、気にする必要がない」という心理的余裕を、テナントにもたらす。それは直接言語化されることはないかもしれないが、確実に“信用”として蓄積されていく。逆に言えば、ビル管理における、こうした小さな実務対応が止まれば、違和感や不信感はあっという間に立ち上がってくる。「何もない状態」を保ち続けるには、ビル管理のおける、静かで緻密な実務対応の継続が不可欠なのである。 第6章:「“動かさない整え”が成立する物件、しない物件」の見極め方 ここまで「動かさないこと」の戦略性やその判断基準を検討してきた。ただし、この戦略がどんな築古物件でも一律に成立するわけではない。「何もしなくても整っている」と感じられる物件が存在する一方で、「何もしない=手抜き」と見なされ、管理評価を下げてしまう物件もある。この章では、「動かさないという判断」が実際に成立するために必要な具体的条件を整理し、「動かさなくてよい物件」と「動かさざるを得ない物件」の見極め方を明確にしておきたい。 ①「動かさなくても整っている状態」を成立させる4つの条件 築古の賃貸オフィスビルにおいて、「動かさない判断」が成立するには、単に見た目や設備の問題だけではなく、次のような実務的条件が前提として揃っている必要がある。 条件説明例示①経年変化が許容範囲内に収まっている物理的な劣化が機能や使用感を損ねず、「古さ」として自然に受け入れられている状態壁紙が古いが破れや汚れはなく、日常使用での違和感もない②物件全体の統一感が保たれている内装や設備、共用部のデザインや仕上げに一貫性があり、無理に変更を加えると逆に違和感が生まれる状態共用部のサインが古くてもほかの要素と揃っていて、全体として違和感がない③機能的に問題がない設備や建具が古くても、日常利用に支障がなく、テナントからも機能的クレームが発生していない空調設備が古くても定期点検で良好な状態が維持されている④安全・法令順守面で問題がない安全性や法的基準に関わる項目について遅れがなく、最低限の基準を満たしている消防・避難設備が法令遵守の範囲で適切に維持されている これら4つの条件が整っていれば、あえて何も手を加えない「動かさない」ことが、合理的な判断として成立する余地があり、実務的に許容されやすくなる。 ②「動かさない」で済まされない、明確な境界線とは? 一方で、以下のようなケースでは「動かさない」ことによるマイナス要因が大きく、対応が不可避となる。・安全性に関する問題・消防設備の更新が遅れており、法令違反の可能性がある・階段・通路の段差や劣化が放置されており、安全性に明らかな懸念がある・設備機能の著しい低下・空調設備が定期的に故障し、テナントの業務に支障をきたしている・給排水設備の老朽化が進み、水漏れなどの問題が頻発している・日常使用で明らかな不快感を与える劣化・壁や天井に目立つシミや変色があり、利用者が日常的に不快感を誘発している・床材の劣化が進んでおり、視覚的にも機能的にも問題が顕在化しているこれらの場合、「動かさない」という判断は「手抜き」や「管理不十分」と受け止められ、テナント離反、物件評価の悪化を招くことになる。 ③「動かすか、動かさないか」の判断軸 では、具体的な物件を前にしたとき、どのように「動かさなくてよい」か「動かすべき」なのかを判断するために、次のようなチェック項目による判断軸を提案する。 観点チェック項目判断の目安安全性法令違反や安全上の危険性が発生していないか1つでも「YES」なら即対応機能性設備や建具が日常利用上、問題を生じさせていないか支障が頻発するなら即対応物理的劣化「違和感」から「不快感」へ変化している状態ではないか「不快感」の水準に達していれば即対応印象の一貫性物件全体のトーンが保たれているか、一部だけの改修が逆に違和感を生まないか統一感が崩れそうなら慎重に検討 これらのチェック項目を基に、「動かさない」か「動かす」かを判断することが求められる。 ④結局、最後はビル管理者の“静かな判断力” もちろん、現実には明確な線引きは難しい。最後の判断は、やはり現場を熟知したビル管理者の“静かな判断力”に依存せざるを得ない。・明らかな問題を抱える物件では「動かさない」ことは許されない。・微妙なラインの場合には、「少しの変化を試して判断材料を得る(小口試行)」、「状況の変化を見守りつつ判断を先送りする(待つ)」という判断を適宜行い、徐々に精度を高めるという方法が現実的である。築古の賃貸オフィスビルの管理・運営の本質は、このような微細な判断の積み重ねにある。「動かさない整え」が本当に成立するかどうかは、現場の目と、感性を合わせ持って、常に状況変化に対応していく“静かな判断力”にかかっている。 第7章:ビル管理者に求められる「静かな判断力」とは何か ここまでの章で、築古の賃貸オフィスビルにおける「動かさないという判断」が戦略的に成立するための条件や、実務的な見極め方法を論じてきた。しかし、これらの判断を現実に機能させるためには、最終的にビル管理者自身が持つ「静かな判断力」の存在が不可欠になる。この章では、これまで議論してきた物件評価や判断基準を、実際の現場で効果的に運用するための「ビル管理者に求められる判断力」について掘り下げていきたい。 ①「動かさない」が戦略として機能する条件―判断力の3要素 「動かさない」という判断が、単なる先送りや放置ではなく、明確な戦略として機能するためには、ビル管理者が以下の3つの判断要素を明確に備えている必要がある。 要素内容具体例①観察力(状態把握)物件の現状を冷静かつ継続的に観察・把握できる能力日常的な微細な劣化や変化にすぐ気づける感度を持つ②判断基準(線引き)動くべきか動かざるべきか、判断の根拠を明確に持っている安全性や機能低下の兆候を明確に判別し、放置しない基準を設定している③責任意識(判断とその先を引き受ける姿勢)判断の背景を説明でき、結果に対して主体的に対応し続ける覚悟がある判断理由を第三者に説明できると同時に、状況の変化があれば速やかに見直し・再判断する柔軟性と責任感を持つ これらを備えたビル管理者は、状況が曖昧なままの「動かさない」を選ばず、明確に意図した「動かさない」を戦略的に選択できる。 ②「静かな判断力」とは何か?―「微細な変化」への感度 ここで特に強調したいのが、「静かな判断力」に不可欠な「微細な変化への感度」である。多くの場合、築古の賃貸オフィスビルでは、小さな違和感や兆候がやがて大きなマイナスや問題を引き起こす。そのため、ビル管理者が備えるべきは「目立つ変化」や「大きなトラブル」を待つのではなく、「日常に埋もれがちな微細な変化や違和感」にいち早く気づける力だ。たとえば・空調設備のわずかな異音や温度ムラに気づくことができるか・共用部の床の微かな劣化や凹凸を日常的に認識できているか・テナントから明確なクレームがなくても、小さな不快感の兆候を敏感にキャッチしているかこうした小さな変化に日常的に気づけるビル管理者は、事前に適切な対応を取ることができる。これが、「動かさない」という判断を、ただの先送りではなく、機会損失を最小化する戦略的な判断として機能させる鍵となる。 ③動かさない理由」を明確に説明できることが必要 また、ビル管理者が「動かさない」という判断を下した際には、それが単なる感覚的判断や現状追認ではなく、「明確な理由」を持っていることが重要だ。たとえば、次のような明快な理由を説明できることが求められる・「床材に古さはあるが、機能性・安全性に問題がないことを継続的に点検で確認しているため、いま動かす理由はない」・「空調設備は旧式ではあるが、毎月の稼働記録と点検報告書から安定性が確認されており、設備更新の費用対効果を現時点で考えると待つべきと判断している」このように、「動かさない」という判断には、それを説明できる明確な根拠が必要であり、その根拠が明確である限り、この判断は戦略としての説得力を持つ。 ④状況変化への柔軟性と再評価の姿勢を持つこと 一方で、一度決めた「動かさない」という判断は、あくまで「その状況において最適」とされたものであり、未来永劫固定されるものではない。物件を取り巻く外部環境やテナントニーズが変化すれば、その都度「動かさないこと」の妥当性も見直される必要がある。たとえば・新規テナントの業種やニーズが大きく変わった場合・周辺環境の変化(競合物件の登場や地域開発など)で賃料相場や市場評価が変化した場合・法的規制や社会的要求(環境配慮や安全基準など)が変化した場合こうした環境変化に気づき、判断の背景を柔軟に再評価できるビル管理者は、「動かさない」ことの恩恵を維持しつつ、その潜在的なネガティブ影響(機会損失や評価低下)を最小限に抑えることができる。過去の判断に固執せず、必要なときに戦略を動的に更新できるかどうかが、ビル経営における実務的な分水嶺となる。 ⑤「静かな判断力」を高めるためにビル管理者ができること ビル管理者がこうした「静かな判断力」を高めるためには、以下のような取り組みが実務的に有効である・日常的な物件状態の定点観測(定期的な巡回、写真記録、点検報告書の活用など)・過去の判断事例の振り返りと評価(過去の改善案件の成否を記録し、経験知として蓄積)・判断根拠をチーム内で共有(「動かさない」と決めた理由を明確化し、チームで共有して属人化を防ぐ)こうした実務上の工夫によって、ビル管理者はより精度高く「動かさない判断」を下すことが可能になる。 第8章:「動かさないこと」を戦略的に位置づける これまで本コラムでは、「何かをしたほうがよい」という漠然とした期待や圧力に対し、築古の賃貸オフィスビルでは「あえて動かさない」という選択肢が、状況によっては合理的かつ実務的に成立することを検討してきた。ただし、「何もしない」ように見える選択は、一見すると、消極的・無責任と捉えられやすい。だからこそ、「動かさないこと」をしっかりと戦略として位置づけ、評価・共有・継続できる運営体制が必要である。この章では、「あえて動かさない」という選択肢の戦略的な意味と妥当性をあらためて整理し、その可能性と実行条件について提示する。 ①改めて確認する:「動かさないこと」の戦略的意味とは何か? 「動かさない」ことが単なる先延ばしや無関心ではなく、戦略的判断として機能するのは、築古の賃貸オフィスビル特有の状況において、次のような合理性があるからである。一貫性と整合性を保つ築古ビルには、建築当時の設計思想や内装仕様に一体感があり、それが物件全体の落ち着きや統一感を生み出していることがある。部分的に手を加えると、逆に違和感が生まれることもあるため、あえて現状を保つことが、空間価値の維持に有効となる。投資リスクを回避する築古の賃貸オフィスビルにおける改善投資は、費用対効果の不確実性が高く、リターンが読みづらい。確証のない改修投資よりも、状態を保ちながら様子を見る「静的な判断」のほうが、結果的にリスク回避として優れている場合がある。テナントの“変わらなさ”への評価に応えるテナントは「常に最新であること」よりも、「いつもと同じ」であることに安心を感じている場合がある。安定した使用感を保つには、むしろ「変えない」ことが有効な選択になることも多い。 ②「動かさないこと」が効果的に機能する前提条件とは? この「動かさない」選択肢が、いつでも、すべての築古の賃貸オフィスビルに当てはまるわけではない。以下のような条件が揃っている場合に限り、「動かさない」ことは戦略として成立しやすくなる。 a.市場・テナント環境が安定している・近隣の賃料水準が変動していない・競合の新規物件が急増したり、既存物件に目立ったリニューアルの予定もない・現在のテナントが長期入居を継続しており、特段の改善要望が出ていないこのように安定した状況では、「動かさない」ことによる機会損失リスクは低いものと判断される。b.物件の物理的状態が「整っている」・設備の老朽化があっても、機能的なトラブルが少なく、継続的な維持管理によって安定稼働が見込まれる・内装に多少の古さはあるが、日常使用に差し障りがなく、不快感を与えるレベルではない・法令や安全性の観点から設備等に問題がないこのように「完全とは言えないが許容範囲」という状態が成立しているとき、「あえて動かさない」という判断の下、コストが抑えられ、効率的な対応になる。 ③「動かさない戦略」を継続的に成立させる運営体制とは? 「動かさないこと」を単発の判断ではなく、持続的な戦略として機能させるには、次のような運営体制が欠かせない。定点観察とデータによるモニタリング・設備や共用部の状態を定期的に観察し、数値・写真・記録などの形で可視化して、データを蓄積する・状況に応じて、「動かすか否か」を定期的に再評価する業務フローを整備、運用判断基準の明文化と共有・「なぜ今は動かさないのか?」という判断根拠を、オーナー・管理会社間で共有し言語化する・「どうなったら見直すか」というトリガー条件(例:テナントの入替/周辺の再開発など)をあらかじめ整理しておく柔軟な運営体制・状況の変化に即応できるよう、「動かさないことに固執しない」柔軟性を確保する・必要があれば素早く方針を転換できる組織的な判断プロセスを持つ ④「動かさないこと」に価値を見出す評価軸を持つ また、オーナー/ビル管理会社が「動かさないこと」の価値を正しく評価するための意識改革も重要になる。「改善=良いこと」という固定観念を見直し、むしろ「静かな整合」や「安定した使用感」といった目に見えにくい価値を積極的に評価する視点を持つことが重要である。たとえば、「テナントの退去率が低く安定している」「内見時の印象が一貫している」といったことを成果として評価することも可能であろう。こうした視点を共有することで、「動かさない」ことが積極的な管理・運営戦略として定着していくことが期待される。 結びに―「動かさないことで守られる価値」と、その戦略的選択 築古の賃貸オフィスビルの運営において、「動かすことで価値を高める」という発想は、これまで常識として語られてきた。設備を刷新し、内装を変え、トレンドを取り込む――そうした変化の先に、価値の向上を求めるのは自然な戦略だ。だが一方で、「動かさない」ことによってこそ守られている価値があるという視点は、十分に共有されてこなかった。ここでいう「守られている価値」とは、空間としての整合性や、日常の安定感、テナントが無意識に感じている“違和感のなさ”といった、数値化しづらいが確実に効いている実感のことだ。重要なのは、それが単なる放置や先送りではなく、「変えないことによって、維持されているものがある」という認識を持つこと。「動かさないこと」は、“何もしない”ことではない。むしろ、何をあえてしないかを選び抜くという、戦略的かつ実務的な判断にほかならない。このような「静かな整え」を成立させるには、現場の感度、柔軟な運営体制、組織的な判断基準の共有が欠かせない。それは、リニューアルの華やかさやスペック更新とは異なる形で、物件の価値を支えるもう一つの知的営みである。動き、変えることで得られる価値がある一方で、動かさないことで保たれる価値も確かに存在する。その対比を正しく理解し、「動かさない」という判断を、状況に応じた戦略的な選択肢として見直す視点は、今後の築古の賃貸オフィスビルの管理・運営においてますます重要になっていくだろう。本コラムが、「動かさない」という選択に含まれる判断の知性と実務的な意味合いに目を向ける一助となり、築古の賃貸オフィスビルにおける価値の維持、あるいは静かな向上を支える選択肢として、この考え方が自然に受け入れられ、実務に根づいていくことを願っている。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月14日執筆

築古の賃貸オフィスビルにおける“水回りの整え方”再考―どこを、どう整えるか―

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古の賃貸オフィスビルにおける“水回りの整え方”再考―どこを、どう整えるか」のタイトルで、2026年1月8日に執筆しています。少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:水回り設備が築古の賃貸オフィスビルの意思決定を左右する理由第2章:「機能的清潔感」とは何か―表層的なリフォームからの脱却第3章:築古ビルの水回りは「対応力」で決まる―トイレと給湯室の実務評価軸第4章:「どこまで整えるべきか」――築古の賃貸オフィスビルの水回り改善における実務的判断軸第5章:「整っている」ことの次へ―水回り整備に“判断の軸”はあるか? はじめに 「内見はトイレで決まる」という言葉を、築古賃貸オフィスビルのビル管理会社の担当者なら一度は耳にしたことがあるだろう。正直に言えば、賃貸オフィスを選ぶ企業がトイレや給湯室といった水回り設備を、なぜそこまで重視するのか、と思った経験もあるのではないだろうか。しかし、現場の実情は驚くほどシンプルだ。「立地は申し分ない、坪単価も魅力的、レイアウトも悪くない。でも、水回りがちょっと…」築30年以上の賃貸オフィスビルを案内するリーシング営業担当者から、このような声が後を絶たない。内見に来た企業の担当者が眉をひそめる瞬間を見逃さず、その後の意思決定に大きな影響を与えているのが「水回りの第一印象」なのである。 オーナーにとって水回りは、どちらかと言えばコストや手間ばかりが目につく箇所という印象だ。老朽化した便器、独特の空気感、薄暗く古びた給湯室……日常的な清掃の手間や、突発的な不具合対応の煩雑さに、頭を悩ませることも少なくない。だが、こうした「なんとなくどんよりした」水回り空間は、内見者にとってもまた、ビル全体の印象を静かに下げる要因となっている。そしてその場面で、多くの内見者が無意識に求めているのは、派手な演出や高級感ではない。重要なのは、視覚的・感覚的に、瞬時に不快感がないと判断できる状態――つまり「機能的清潔感」である。空間の用途に対して、無理のないかたちで整備されていて、使うことに何のストレスもない。そのように整えるだけで、水回りは印象を下げない空間として機能する。本コラムでは、築古の賃貸オフィスビルにおける水回り――とりわけ、トイレと給湯室に焦点をあてる。単なる老朽化設備としてではなく、整え方そのものがビルの信頼性を左右する空間として捉え直し、実務の視点から考える。以下の観点を通して、水回り整備の本質に迫っていくなぜ、今あらためて水回りが問われるのか?単なるリフォームの検討で見落とされがちな、整備と対応体制の設計とは?「どこを、どこまで整えるか」を判断する基準は、どう持つべきか?テナントにとって、水回りは日常的に使われる場所でありながら、最も素の状態があらわれる空間でもある。整っていて当然と思われている空間がゆえに、ほんの少し乱れているだけで、「このビル、大丈夫かな」という印象に変わってしまう。逆に言えば、派手な演出ではなく、考え抜かれた整え方ができているかどうか――そこにこそ、築古の賃貸オフィスビルの実力がにじみ出る。設備を入れ替えるかどうかよりも、その整備方針をどう考え、どう現場に落とし込んでいるか。「水回りで決まる」とは、そうした実務の積み重ねと正面から向き合うことなのかもしれない。このコラムでは、その具体的な視点と整備の考え方を、整理していく。 第1章:水回り設備が築古の賃貸オフィスビルの意思決定を左右する理由 「立地・坪単価・広さ」だけでは決まらない 築古の賃貸オフィスビルのオーナーにとって、テナントに選ばれるか否かは死活問題だ。そのため、多くの場合、オーナーは立地条件や坪単価の競争力、または内装の見栄えといったポイントに注力しがちである。実際、マーケットにおいてこれらが重要なファクターであることに異論を唱える人はほとんどいないだろう。しかし、実務的には「条件はすべてクリアしているはずなのに、なぜか決まらない」というケースが少なくない。その際、営業担当者や管理会社が現場で頻繁に遭遇する落とし穴が、水回りである。特にトイレと給湯室は、物件内見時のわずか数秒でテナントの判断を左右してしまう。 内見担当者が水回りに「過敏な反応」を示す理由 では、なぜテナント企業の担当者は、わずかな内見時間でそれほどまでに水回りの印象を重視するのだろうか?その理由は心理学的・行動経済学的な視点からも説明できる。人間は本能的に、衛生面での嫌悪感を強く持っている。清潔さや衛生状態に関する直感は、生存本能に根ざした深い心理的反応であり、ロジカルな意思決定よりもはるかに瞬間的かつ感情的なレベルで行われてしまうのである。トイレや給湯室のくすんで、古ぼけた感じが与える直感的な嫌悪感は、その後に見る部屋や設備がいかに優れていても、簡単には払拭できない負の印象を生んでしまう。内見後に意思決定プロセスが進むにつれて、担当者の頭の中には「トイレが古い・キレイではない」という負のイメージが無意識に残り続ける。つまり、築古の賃貸オフィスビルの内見では、水回りの印象が決定的な影響を与える瞬間が存在するのである。 意思決定プロセスにおける「瞬間的判断」の力 テナント企業が物件を選ぶプロセスは、必ずしも論理的かつ合理的な判断だけで成り立つわけではない。むしろ、「直感的判断(First Impression)」によって方向性がある程度固まり、その後、合理的にその判断を補強する情報を探す、というプロセスで決定される場合が多い。実際のテナント意思決定においても、内見後の社内会議などで物件評価が行われる際、「何となくトイレがキレイではなかった」という理由は明確なマイナス材料となり、後に「管理体制が不安」「社員の不満につながる」などの合理的理由付けがされるケースが多い。これは行動経済学で言うところの「後知恵バイアス(Hindsight Bias)」とも関連している。人間は直感的に嫌悪感を感じた後、その感覚を正当化するために論理的な理由を後付けする傾向がある。水回りのネガティブな印象は、こうした心理的バイアスによって簡単に強化され、意思決定を覆すほどの力を持ってしまうのである。 築古の賃貸オフィスビルが抱える水回りの構造的課題 築古の賃貸オフィスビルにおいて、内見時の印象形成で最も弱さが出やすいのが水回りだ。築年数を重ねるにつれて、配管設備の老朽化、給排水性能の低下、防水処理の劣化、そして湿気による影響など、構造的な問題が次々と表面化してくる。多くのオーナー/管理会社は、表面的なリフォームで対応しようとするが、大抵の場合、これらの問題は表面的な対処法では解決しない。築古の賃貸オフィスビルにおいて効果をもたらす水回りの改善とは、「瞬間的に感じられる清潔感」=「機能的清潔感」を追求することである。 「機能的清潔感」という視点の導入 築古の賃貸オフィスビルの水回りをどう整えるか――これは、表面的なキレイさを演出することとは少し違う。本コラムで扱う「機能的清潔感」とは、テナントにとって「使ううえで不安や嫌悪を感じない状態」を、過度な投資を伴わずに実現する整備のあり方である。便器やシンクの形状が多少古くても、床や排水口まわりが適切に清掃され、違和感なく使える状態に保たれていれば、内見者はそこで判断を止めてくれる。逆に、見た目を取り繕っても、日常的な清掃・管理が甘ければ、「このビルは大丈夫だろうか?」という不信感につながってしまう。 水回りがきちんと整っていると、それだけで信頼感が生まれる。つまり、「この空間はきちんと扱われている」という印象が、無意識のうちに伝わってくるからだ。そして、人は目に見える部分が整っていれば、見えない部分もきちんと管理されているはずだと感じるものだから。今後の章では、そうした「機能的清潔感」をどう実務に落とし込むか――その際、どこまでをやるべきで、どこからはやらなくてよいのか。現場感のある判断のヒントを、できるだけ具体的に整理していく。 第2章:「機能的清潔感」とは何か―表層的なリフォームからの脱却 「キレイに見せる」と「清潔感」は違う 築古の賃貸オフィスビルのオーナー/管理会社が陥りがちな失敗の典型が、表面的な装飾や部分的な見た目のリフォームだけで内見評価を改善しようとすることだ。例えば、古いトイレの壁紙を明るい色に変えたり、手洗い周りにデザイン性の高い照明やアートパネルを設置したりするなどの方法がよく見られる。確かに、内見時の第一印象としては一見「オシャレ」「キレイ」という評価を得る場合もあるかもしれない。しかし、こうした改善策の多くは、内見後の意思決定を好転させることにはつながりにくい。テナント企業が重視する「清潔感」とは、整えた美観にではなく、「日常的に問題なく使えるという安心感」と共にあって、毎日の「適切な維持管理」によって保たれるものだからだ。見た目だけ整えても、日々の清掃や、トラブル時の迅速な対応力がなければ、テナント側はそのことを敏感に感じ取り、逆に「作られた清潔感」に違和感を覚えるようになる。 表層的な改善が心理的に逆効果となる理由 実務的に重要なのは、内見時の第一印象が持続する「深い納得感」を持っていることだ。人間の認知プロセスは、初見の印象が後の評価を強く方向付ける傾向にあるが、同時に「本質的でない装飾」には非常に敏感である。心理学において「認知的不協和(Cognitive Dissonance)」と呼ばれる状態がある。これは、見た目の印象(キレイ)と実際の状態(古い・使いづらい)にギャップがある場合、そのギャップ自体が不快感を増幅させるという現象である。トイレや給湯室において表面的な改善を施しても、日常清掃や管理体制がおざなりになっていると、この「認知的不協和」が生じ、内見時にマイナスの心理状態をかえって増幅させてしまうリスクが高まるのだ。 「機能的清潔感」という視点の重要性 このコラムで提唱する「機能的清潔感」とは、「日常的な維持管理によって自然に保たれる、実務的かつ現実的な清潔感」のことを指す。それは、表面的な外観を取り繕うことで生まれるものではなく、実務的に言えば、以下のような「管理やメンテナンスがしやすい状態」をつくることを意味している。 ・日常的に問題が起こらないよう、清掃、管理が行き届いている・トラブルが発生した場合でも、迅速かつスムーズな対応ができる体制が整備されているこのように、「機能的清潔感」とは単に表面的にキレイに見せることではなく、日々の清掃、管理とトラブル対応の仕組みまで含めて整備された状態を指すのである。 第3章:築古ビルの水回りは「対応力」で決まる―トイレと給湯室の実務評価軸 「古い=汚い」と思われないために必要なこと 築古の賃貸オフィスビルでは、水回り、とりわけトイレに対する内見者の目は厳しい。一方で、給湯室はあまり目立たない存在ではあるが、「日常的に使われる場所」として、整っていて当然とみなされやすい。つまり、見られ方に違いはあっても、いずれも同じ基準で判断されている。きちんと清掃されているか、そしてトラブル時にすぐ対応できる体制があるか。水回りの評価を左右するのは、この管理の姿勢に尽きる。本章では、築古の賃貸オフィスビルにおける水回りの評価を大きく左右する実務的な対応力について、具体的な視点で整理していく。 ①清掃体制が整っていれば、水回りは嫌われない 内見時に、もし万が一、水回りで「臭いが気になった」「床が汚れていた」と感じたとしたら、後から、なにをしたとしても、その印象を拭うことは難しい。だが、適切な清掃体制と頻度が確保されていれば、そもそも問題は起こり得ない。実務的な現場感覚から言えば、トイレや給湯室の不具合の多くは、清掃不足に起因する。築年数が半世紀を過ぎた飲食雑居ビルじゃあるまいし、排水トラップが正常に機能していれば、下水の臭いが逆流することはまずない。施設面の不備で臭いが問題になることはあり得ない。トイレの便器や床、洗面周り、給湯室のシンクの汚れ・水アカが目につくとしたら、100%、日常清掃の不徹底を意味するだけである。したがって、「古いから清潔に見えない」のではなく、「清掃が足りていないから不潔に見える」という認識が重要だ。 実務ポイント・日次・週次での清掃範囲と手順の明確化(壁・床・便器・シンクまわり等)・清掃チェックリストの導入と巡回点検の仕組み化・内見前のスポット清掃(最低でも床・手洗い・便器・シンク周辺) ②詰まり・水漏れ等のトラブルへの即応体制が信頼につながる 築古の賃貸オフィスビルでの水回りトラブルのあるあるが、トイレの詰まりと、給湯室を含む水漏れだ。どちらも「いつか起きるもの」として、起きた際にいかにスムーズに対応できるかが、テナント満足度に直結する。 トイレの詰まりの実態詰まりの原因は、便器の問題ではなく、配管内部に長年蓄積した尿石などによる通水断面の狭まりが多い。とくに築古の賃貸オフィスビルでは、配管自体の経年劣化も相まって、詰まりやすい傾向がある。対応としては、次のような段階的対応が現場では一般的だ:一次対応:ビル管理会社の社員が、ラバーカップ(すっぽん)で解消できるかを確認二次対応:業者を手配し、薬剤やトーラー(ワイヤー)での貫通作業。更に、対応をエスカレートする必要がある場合のみ、高圧洗浄を実施便器を交換したとしても、配管がそのままなら再発は避けられない。詰まり対策は日常管理+トラブル即応体制の整備が基本である。水漏れトラブルへの備え水漏れの主因は、トイレ、給湯室に共通しているが、配管接続部のパッキン劣化によるもの。数百円~数千円程度の部材交換で対応可能なケースが大半だ。だが、対応が遅れると下階への漏水など大きな損失に発展するリスクがあるため、初期対応力と業者との連携体制が鍵になる。実務ポイント:・ビル管理会社の社員が一次対応(ラバーカップ/止水確認)を担える体制整備・トラブル発生時の連絡・対応フローを掲示・マニュアル化・提携業者と「即日対応」の関係性を構築しておく ③設備更新は「印象を変える切り札」として戦略的に使う 便器・洗面台・シンクなど水回りの設備更新、内装素材の更新は、「劇的に印象を変える手段」である。ただし、これは清掃とトラブル対応という管理体制の基盤が整った上で初めて効果を発揮する。更新の判断基準は、「清掃しても古さの印象が払拭できないか」に尽きる。古いピンクの便器、黄ばみの取れない洗面台、曇ったままのシンクなど、清掃ではどうしようもない状態のとき、更新=印象刷新という意味で効果を発揮することがありえる。空室募集の内見での第一印象を重視する場合や、バリューアップの一環として賃料水準を引き上げようとするのであれば、そうした水回りの刷新は象徴的なサインとして効果的である。ただし、そうした設備更新はあくまで最後の一手として冷静に判断するべきである。 ✦ミニコラム オフィスの「水回り」は、共用部でありながら、もっとも“個人的な”場所かもしれない トイレや給湯室は、あくまで共用部の一部として、ビル側が用意し、管理する空間である。区画ごとに間仕切られた専用部のオフィスとは異なり、それ自体が賃貸契約上でも専用部とは扱いが区別されている。 ところが、そうした制度上の取り扱いとは裏腹に、実際のオフィスで働くテナント従業員にとって、この水回り空間は、 極めて“個人的”な意味を持つ場所なっている。トイレは、業務の緊張から一時的に離れられる、数少ない“孤独な空間”だ。 同僚との会話も、視線のやり取りも、意識しなくて済む。 個室の扉を閉じるあの数分だけは、自分の時間に戻れる。 それが共用部であることなど、日々の使用者にとっては関係ない。 給湯室は、もう少し開かれた、しかしやはりオフィスの “本線”とは少し離れた場所である。 マグカップをすすぐ音、ポットの湯気、漂うコーヒーの香り。 ここでは、たとえば別部署の社員とたまたま会って交わす一言が、業務とは関係のない雑談になったりする。 「ここ、寒いですよね」とか、「あの会議長かったですね」とか。 その会話は、Slackにも議事録にも残らないが、たしかに職場の空気をつくっている。 つまり、給湯室はオフィスの“余白”として、人間関係のバッファを育てている空間とも言える。 こうした水回りの空間性は、オーナー/管理会社側が直接コントロールできるものではない。 だが一方で、その空間が整っているか、整っていないか――それだけで、テナントの従業員が感じる「職場としての快適さ」には差が出てしまう。 「汚れていないこと」「トラブルが起きてもすぐ直ること」は、実務的な信頼の土台だ。 だが、それだけではない。 この空間の持つ“個人的な時間”や“非言語的な関係性”への理解があるかどうかは、実はビルというハードの整備を超えて、ソフトな評価軸として作用しているのかもしれない。      第4章:「どこまで整えるべきか」――築古の賃貸オフィスビルの水回り改善における実務的判断軸 「水回りをきれいにすれば、決まるのか?」 築古の賃貸オフィスビルの空室が長期化しているとき、オーナー/管理担当者のあいだでよく話題に上るのが「水回りの刷新」である。「トイレを新しくすれば印象が変わるのではないか」「給湯室を改装したら空室が埋まるかもしれない」――こうした相談を受ける機会は少なくない。たしかに、水回りは日常的に使われ、かつ印象に直結する空間だ。そこに手を入れることで反応が変わることもあるだろう。しかし実際には、「整っていなくても決まる」こともあれば、「整えても決まらない」こともある。つまり、水回りの整備にはやるべきこととやらなくていいことの線引きが必要であり、その判断を誤ると、投下コスト倒れに終わる危険もある。この章では、築古の賃貸オフィスビルにおける水回り改善について、何をどこまで整えるべきかという判断の順序と軸を整理する。 清掃とトラブル対応こそが「やるべきこと」 水回りに関して、まず確認すべきは「清掃が行き届いているか」「トラブル時の対応が整っているか」である。この2点は、整備の基本であると同時に、評価の前提条件でもある。言い換えれば、どれだけ設備が新しくても、清掃が甘ければ意味はなく、対応が遅ければ信頼は得られない。逆に、多少古くても、「整っている印象」が生まれているならば、更新せずとも十分に評価されうる。水回りに関しては、この基本動作だけで印象が改善する余地が大いにあることを、まず押さえておくべきだ。 設備更新は「整え方の最後の一手」として冷静に判断する 一方で、設備更新が避けられないケースもたしかに存在する。清掃しても取れない黄ばみや水垢、明らかに古さが目立つ陶器の色味や金物の劣化など――こうした状況では、「整っている」という評価自体が成立しないこともある。特に以下のような状態であれば、更新を検討する意味が出てくる:・ピンクやアイボリーの古い便器・洗面台が視覚的に目を引く・鏡や流し台がくすみ、どう清掃しても古びた感じが残る・清掃や補修では印象が改善しないと、現場でも判断されているこうしたケースでは、設備更新=印象刷新の切り札として機能する可能性がある。ただしそれも、日常の清掃・点検・対応体制が整っていることを前提とした話であり、それなしに改修だけを行っても、効果は、ほとんど望めない。 「設備更新すれば埋まる」とは限らないという現実 ここで重要なのは、設備更新をしたとしても、テナントが埋まらない物件が現実に存在するという事実だ。テナントがなかなか決まらない状況に焦ったオーナーが、打開策として水回りに手を入れる――そんな場面は少なくない。だが、その結果として劇的に反応が変わるかといえば、そうとは限らない。そもそも、テナントの判断軸は水回りだけにあるわけではない。更新に踏み切るなら、どこをどう整えるのかという方針を明確にし、戦略的に取り組むべきだ。 設備更新の資金負担と“踏み切るか”の判断材料 以下は、設備更新を検討する際の概算支出額の目安である。これを参考に、「費用をかけるに見合うだけの判断ができているか」を自問しておくべきだ。※以下は、当社が手掛けた場合、オフィス用途としては最高級のブランド・イメージを確立せんと改装した場合の目安であり、個別条件によって変動あり。 項目概算費用(税抜)備考便器の交換(1基)40〜50万円撤去・廃材処分含む洗面台の交換(1台)30〜40万円特注デザイン仕様(配管接続・鏡含む場合は上昇)流し台の交換(給湯室・1台)50〜70万円特注デザイン仕様(既存撤去・壁面補修あり)内装改修(床・壁・天井)5〜10万円/坪材質・範囲により変動 このように、「印象を変えるための更新投資」を行うにはそれなりの資金負担を伴う。期待された効果がリーシング等において目に見えて発揮されなかった場合等、これらの投資支出の回収において不確実性を伴うことについては常に留意が必要である。だからこそ、踏み切るかどうかは、状況を見極め、反応を観察しながら慎重に判断するべき領域である。 まとめ:築古の賃貸オフィスビルの水回り整備は、「順番」を間違えないこと 築古の賃貸オフィスビルにおいて、水回りはたしかにテナントの印象に影響を与える空間だ。ただし、それは「見映えがいいかどうか」ではなく、清潔に保たれ、日常的にきちんと機能しているかどうか――つまり機能的清潔感によって評価される。だからこそ、清掃や簡易な補修といった基本的な整備対応が不十分なまま、いきなり設備更新に踏み切っても、本質的な改善にはつながらない。まずは、今ある人員や管理体制の中で、どこまで整えられるのかを突き詰めるべきだ。それでもなお、「自分たちの整え方として更新が必要だ」と判断できるかどうか――そこが、次の一手を決める本質である。設備更新は、印象を上げるための手段ではあっても、それだけが目的ではない。整える順番を間違えないこと。そこにこそ、築古の賃貸オフィスビル運営のリアリティと戦略が宿る。 第5章:「整っている」ことの次へ―水回り整備に“判断の軸”はあるか? 「清掃してきちんとしている」だけでは足りない時代に 今どき、築古の賃貸オフィスビルであっても、トイレや給湯室の手入れがまったく手入れされていないような物件はほとんど見られない。きちんと定期清掃が入り、基本的な日常管理がされていれば、表面的な汚れや破損は一定水準で抑えられている。水回り整備の評価ポイントは、「やってあるかどうか」ではありえなくて、「どう整えているか」という側面へと移ってきている。ただし、この「どう整えているか」という視点は、単なる清掃のオペレーション・レベルを意味するものではない。清掃や日常管理に始まり、修繕、さらには設備更新まで含めて、どこを・どの水準まで整えるのか、そしてどのタイミングで更新に踏み切るのか――こうした水回り整備に対する考え方や判断の積み重ねが、最終的には物件全体の印象としてテナントに伝わっていく。大切なのは、いま目の前の水回りが「整っているか」ではなく、「どんな方針で整えているのか」。その違いが、築古の賃貸オフィスビルにおいて選ばれる理由になる可能性は、たしかに存在している。 「整備の水準」ではなく、「整備の設計思想」が印象を決める たとえば、トイレの床材が傷んできたときに、それを張り替えるべきか、清掃で様子を見るか。便器の形状が古くなってきたが、まだ機能的には問題がないとき、更新すべきかどうか。給湯室の流し台がくすんできたが、使える状態ではある場合、それをどう判断するのか。こうした場面では、「整っている/いない」という二択では答えが出ない。大切なのは、それらの判断に一貫した考え方や優先順位があるかどうかである。 ・どこにコストをかけ、どこを割り切るのか・何を維持の対象とし、何を更新の対象とするのか・整備の方針は、物件全体の印象とどう連動しているのかこうした設計思想があれば、水回りの整え方は判断の積み重ねとして明確になってくる。そしてその積み重ねは、テナントの受ける印象にも、静かににじみ出ていく。 整備の判断が「場当たり」になっていないか? 築古の賃貸オフィスビルの水回り整備において最も避けたいのは、方針のない場当たりの対応である。たとえば・便器が割れたから、そこだけ最新型に交換・クレームが出たから、特定の箇所だけ照明をLED化・担当者が替わったから、内装テイストが急に変わった個別の判断としてはどれも妥当性があると言えるかもしれない。だが、こうした整備が全体として「何を目指しているのか」が見えない場合、結果として雑然とした印象に流れていくリスクがある。そして、そうした整え方の不一致や整備のちぐはぐさは、テナント側に無意識の違和感として伝わってしまう。「ちゃんと整えようとしている」感覚が持てない空間に、テナントが従業員を安心して送り込めるはずがない。 整え方に「方針」があるビルは、印象がブレない 整え方に「方針」があるビルは、印象がブレない評価の高い築古の賃貸オフィスビルでは、水回りの整備ひとつ取っても、運営の中に一貫した方針が感じられる。たとえば、次のような姿勢が典型的だ。 ・設備の交換までは行わないが、清掃と軽微な補修は徹底する・更新を行う際は、色や素材、意匠を他の空間と調和させる・派手な演出は避けるが、放置感や使いづらさは決して残さないこうしたどこまで手を入れるかという線引きが明確に設計されている物件は、内見者や入居者の目にも「印象がブレない」と映る。そして何より、「このビルは、きちんと考えて運営されている」と感じさせる空気がにじむ。それは、設備が新しいかどうか、デザインが凝っているかどうかといった表面的な話とは、まったく別の次元の信頼感だ。 まとめ:「整っている」は、あくまで手段である 水回りを整えるという行為は、それ自体が目的ではない。本来は、テナントに不快感を与えず、安心して使ってもらうための手段である。だからこそ重要なのは、「何のために整えるのか」を言語化できていること。そして、その目的に照らして、一つひとつの判断が組み立てられていること――。これが、「整え方に判断の軸がある状態」だと言える。整え方に一貫性があるかどうか。その違いは、最終的に「このビルに入って大丈夫かどうか」という、テナント側の根本的な信頼判断に影響してくる。つまり、「水回りで勝てるかどうか」とは、単に見た目を整える話ではない。“整える”という行為に、筋が通っているかどうか――その姿勢そのものが問われている。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月8日執筆

「共益費=管理費」の適正ラインはどこにある?──築古オフィスビルの現実的な「共益費=管理費」の設計戦略

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「「共益費=管理費」の適正ラインはどこにある?――築古の賃貸オフィスビルの現実的な「共益費=管理費」の設計戦略」のタイトルで、2026年1月6日に執筆しています。少しでも、皆さんにお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:そもそも「共益費=管理費」とは何なのか?第2章:「賃料+共益費(管理費)」で決まる“総額の整合感”第3章:築古ビルだからこそ問われる共益費(管理費)の見せ方第4章:「共益費(管理費)の適正ライン」をどう設計するか第5章:説明責任はどう考えるべきか――「聞かれたら答える」の落とし穴第6章:「納得される共益費(管理費)」は、どうやって成立しているのか第7章:「気にされない共益費(管理費)」を支える、管理・運営側の整え方第8章:共益費(管理費)という“あいまいな費目”を、どう戦略的に扱うか はじめに はじめに―「なんとなく払っている費用」への違和感管理費、あるいは共益費。その名称がどうであれ、テナントから見れば「家賃とは別に請求される、なんとなく払っている金額」であることに変わりはない。請求書の明細に並ぶ「3,500円/坪」といった数字を、深く追求するテナントは実はそれほど多くない。だが、「なんとなく納得して払っている」だけに、その内訳が曖昧だったり、建物の状態との釣り合いが取れていないと感じられた瞬間、不満や交渉の火種になる。この構造は、実は飲食店における“チャージ料”や“サービス料”と似ている。テーブルにつくだけで数百円を取られたり、接客とは無関係に一定の料率で上乗せされたりする料金――「このサービス料って、何の対価なの?」と感じたことがある方も少なくないだろう。にもかかわらず、私たちは多くの場合、それらを“慣習”として受け入れている「共益費=管理費」もまた、実費とは必ずしも一致せず、説明責任も明確に果たされないまま“相場価格”として提示されるのが現実だ。特に、築30年を超える中小規模の賃貸オフィスビルでは、共用部の設備やサービス水準が最新ビルに比べて見劣りする中で、「この金額は妥当なのか?」という疑問が浮かびやすい。しかし、だからといって、原価に忠実な金額設計が求められているわけではない。むしろ求められているのは、「このくらいなら、まあ妥当だろう」と思わせる価格の“整合感”である。見えるサービス、わかりやすい運営、そして他の物件との“総額比較”の中で浮かび上がる、「共益費=管理費」の適正水準。その現実的な考え方を、本コラムでは紐解いていきたい。。 第1章:そもそも「共益費=管理費」とは何なのか? 賃貸オフィスビルにおける「共益費」あるいは「管理費」は、ビル運営において当然のように徴収されている費用だが、その意味合いや実務運用は、実のところ曖昧なまま定着している。物件の概要資料にも「賃料:○○円/坪」「共益費/管理費:△△円/坪」と分けて記載されるのが通例だが、これを「共益費=共用部分の維持費」「管理費=管理会社の業務報酬」と区別して説明できるケースは少ない。現実には、この二つはほぼ同義として扱われている。 歴史的には別物だった「共益費」と「管理費」 本来、共益費は「共用部分に関わる実費的な支出の按分」、すなわち廊下・トイレ・給湯室・エレベーターといった共用スペースの清掃や電気、水道、警備などにかかる費用を、入居者で割り勘する形で徴収する仕組みだった。一方、管理費は「ビル全体の管理業務にかかる人的コストやシステム費用」、つまり建物を運営する管理会社によるPM・BM業務に対する対価という位置づけで、共益費とは別に設計されるべきものだった。しかし、この区別は現場レベルでは徐々に形骸化し、特に中小規模の賃貸オフィスビルでは「細かく分けることに意味がない」という判断から、管理費と共益費を一本化して「共益費」という呼称に集約してしまうケースが一般化した。逆に「管理費」という表現を使っていても、それが実質的には共用部維持費であることもある。つまり、今日の実務においては、両者の名称は機能的な違いよりも、言葉の選好や慣習によって使い分けられているだけであり、意味内容としてはほぼ等価になっていると見なして差し支えない。 テナントにとっての「共益費=管理費」は、“説明されない価格” こうした混同は、テナント側の受け止め方にも影響している。多くのテナントは、「共益費=管理費が何のために使われているのか」という説明を受けることなく、「とりあえず請求されている費用」として納得するか、「よくわからないけど払うもの」として受け流す。これは、飲食店での“テーブルチャージ”や“サービス料”と同じ構造だ。客側は、「このチャージの中に、何が含まれているのか?」とは通常問わず、むしろ“チャージが取られる店”か“そうでない店”かという店ごとの慣習の差で受け止めている。同様に、テナントも「共益費=管理費がかかる物件」か「賃料に込みの物件」か、そして「その合計額で割に合うかどうか」という判断をしているに過ぎない。内訳や原価よりも、“見える価値”と“総額水準”の整合感が、「共益費=管理費」の妥当性を左右するのが実態である。 第2章:「賃料+共益費(管理費)」で決まる“総額の整合感” 共益費(管理費)の金額設定にあたって、多くのオーナー/ビル管理会社が見落としがちなのが、「テナントは、共益費(管理費)単体ではなく“賃料との合計額”で物件を判断している」という事実である。つまり、「賃料〇円+共益費△円」という2本立ての価格設定であっても、実際の比較検討の現場では、「合計でいくらになるか」が重要であり、共益費はあくまで“総額バランス”の一要素として受け止められている。 共益費(管理費)は“見せ方”の問題でしかない テナントが賃貸オフィスビルを比較検討するとき、賃料と共益費(管理費)の合計(=賃菅:ちんかん)ベースで「坪単価11,500円の物件」として他物件と横並びにされる。そこに、共益費(管理費)が3,500円であろうと4,500円であろうと、テナントにとっては「全体として割に合うかどうか」の一点が重要であり、共益費(管理費)という区分そのものにはあまりこだわりがない。したがって、共益費(管理費)をいくらにするかは、「原価がどうか」「慣習としていくらか」よりも、「最終的な総額がどう見えるか」という“見せ方の整合性”によって決められるべきだといえる。 「共益費(管理費)ゼロ」や「賃料込み表記」が選ばれる背景 実際、一部のリーシングの現場では、共益費(管理費)を設定せず、「賃料に込み」で提示するケースも増えている。これは、価格のわかりやすさを重視し、「説明責任」を省略する意図もある。とりわけ、築古・中小規模の賃貸オフィスビルでは、「管理費を取っているのに、設備が古いのでは?」というネガティブな印象を回避するため、最初から一本化して“賃料のみ”で勝負するスタイルが有効に機能することもある。こうした価格構造の変化は、賃貸オフィスビル市場において「共益費=管理費」が機能的な意味よりも、心理的な意味――すなわち“値ごろ感”や“信頼感”を演出する部品になっていることを示している。 「相場感」との整合がすべて 結局のところ、テナントが物件に対して「高い」「妥当」「割安」と感じるのは、個別の内訳ではなく、その物件の「総額水準」と、競合物件との相対比較によって決まる。たとえ共益費(管理費)が3,500円であっても、近隣の似たような物件が「賃料+管理費で11,000円」なのに、自物件が12,000円になっていれば、それだけで“割高”という印象がつく。逆に、築古でも共用部がきれいに整備されていて、エントランスや設備の使用感が良好であれば、「管理費込みで11,800円」でも“割安感”が出ることはある。つまり、共益費(管理費)の金額設定は、“市場との整合感”という一種の演出設計に他ならない。賃料をいじるのか、共益費(管理費)を動かすのか――という議論ではなく、最終的にどの水準に「着地させたいのか」から逆算して設計することが、本質的な戦略といえる。 第3章:築古ビルだからこそ問われる共益費(管理費)の見せ方 築30年を超える中小規模の賃貸オフィスビルにおいて、共益費(管理費)という費用項目が与える印象は、ビルの価値そのものに対するテナントの認識と密接に結びついている。新築・大規模の賃貸オフィスビルであれば、共用部のグレードや設備仕様の高さによって自然と「それなりの共益費(管理費)がかかるのは当然だろう」と納得が得られやすい。しかし、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの場合、共益費(管理費)の金額に対して「この状態で本当にこの金額なのか?」という疑念を抱かれるリスクは決して小さくない。そのため、築古の賃貸オフィスビルにおいては、共益費(管理費)の“中身”を詳細に説明するのではなく、説明しなくても違和感を持たれない状態を維持することのほうが重要である。本章では、そうした“見せ方”の具体的ポイントを整理していく。 説明をしない前提で、納得を成立させる 共益費(管理費)の内容について詳しく説明する機会は、通常ほとんどない。にもかかわらず、テナントの側で「なんとなく払っている」ことに納得感が生まれているのは、物件の状態が“それなりに整っている”という印象を裏切っていないからだ。このとき求められるのは、特別な演出や明示的なアピールではない。あくまで、日常的な管理の中で、“荒れていない状態”が安定して保たれていることが重要になる。たとえば共用部の壁面に掲示物が乱立していたりしないので、共用部が視覚的に整然としている共用部の床の掃除はきちんとされており、照明の色調や照度にムラがないテナントの来訪者から「なんとなく、きちんとしている」と思われる空間感覚が保たれているこうした要素が“現れている状態”において、空間の印象が共益費(管理費)に対する納得感を静かに支える構造になっている。 掲示をしない運営でも、情報は過不足なく伝える 掲示板による案内や点検情報の貼り出しは、視覚的にわかりやすい一方で、空間を煩雑に見せてしまうリスクがある。当社では掲示物による情報提供を行わず、必要な情報はすべてメールでテナントに送付している。これは、空間としての静けさや整理された印象を優先する判断によるものだ。点検や修繕がある場合、メールでの通知を原則としているが、停電等、業務への影響が大きい場合は個別連絡(電話)で補足することで、“気づいたら工事が始まっていた”といった不信感を未然に防ぐ対応も合わせて徹底している。このように、“知らせるべき情報は過不足なく届けるが、空間には余計な痕跡を残さない”という運営方針は、掲示板での情報共有よりも、確実性が高く、有効である。このような実質的な管理責任をまっとうする姿勢は、共益費(管理費)の納得形成において重要な意味がある。 「よく分からないけど、きちんとしている」こという評価が理想 共益費(管理費)というのは、「こういう内容なら払います」と事前に明確に合意される性質のものではない。むしろ、入居後の体験の中で、「特に不満がない」「支障がない」という印象が続いていれば、それがそのまま納得の形として定着していく。そのために必要なのは、「高品質な管理」ではなく、“気になるポイントがない”という低刺激の状態である。特別な加点はなくてもいいマイナス評価につながる要素が見当たらないこと見慣れた共用部に不安や違和感が生まれないことこうした状態が続いていれば、共益費(管理費)に対して追加的な説明や根拠提示を求められることはない。築古の賃貸オフィスビルにおいては、「よくわからないけど、まぁ妥当だろう」と思われる状態こそが、最も安定した共益費(管理費)運用の形である。 第4章:「共益費(管理費)の適正ライン」をどう設計するか 築古オフィスビルにおいて、共益費(管理費)費が「高い」「安い」と判断されるかどうかは、管理原価や業務内容の実体というよりも、その価格が“相場の感覚”と合っているかどうかにかかっている。どんなに細かく積算しても、金額に対する納得感が伴わなければ、テナントには響かない。逆に、多少の曖昧さがあっても、「まあ、そんなものだろう」と思われれば、それで成立するのが共益費(管理費)の実務的リアリティである。では、その“相場の感覚”とは何か。ここでは、共益費(管理費)の適正ラインを見極めるうえで押さえておくべき、現実的な考え方を整理していく。 原価ではなく、“賃菅”での整合を重視する 共益費(管理費)単体で価値評価されることは、実はほとんどない。テナントが重視するのは、「賃料+共益費(管理費)」=“賃菅(ちんかん)”ベースでの総額比較である。たとえば、賃料が8,000円/坪で、共益費(管理費)が3,500円/坪であれば、実質的には「坪11,500円の物件」として評価されているということだ。このとき、周辺エリアの競合物件が「賃料7,500円+共益費(管理費)3,000円=10,500円」といった水準で出ていれば、自ビルの「賃菅」が割高に見える可能性がある。一方で、築年数や設備、立地の違いから、多少の価格差があっても「その価値はある」と思われるケースもある。つまり、「共益費(管理費)の適正ライン」とは、「共益費(管理費)」という単独価格の妥当性ではなく、総額の中での“バランス感”として設計されるべきであり、「原価」よりも「市場との整合感」を基準にすべきである。 相場と“見た目”の距離を測る 実務上、「適正な共益費(管理費)はいくらか?」という問いに明確な答えを出すのは難しい。なぜなら、共益費(管理費)の設定は、同じエリア・同じ築年数の賃貸オフィスビルでも、運営体制やリーシング方針によってばらつきがあるからだ。そのため、自ビルの共益費(管理費)が適正かどうかを判断する際は、次の2点をセットで見ておくとよい①周辺の築年数・規模・仕様が近いビルの“賃菅相場”と比較し、突出していないか②その金額に対して、“見た目”として納得感のある運営状態が保たれているか要するに、「このビルで、月額11,500円/坪は高くないか?」と問われたときに、現場で感じられる印象がそれを支える状況になっていれば、それは適正と言える。逆に、「どこを見ても劣化が目立ち、特にサービス感もない」となれば、それはたとえ価格が平均的でも“高く見える”。この「額面の数字」ではなく、「金額に対してテナントが抱く印象、値ごろ感」が、築古の賃貸オフィスビルにおける共益費(管理費)の妥当性を左右している。 賃料と共益費(管理費)の“比率”にも注意 近年、一部のオフィスでは、共益費(管理費)を高めに設定して賃料を抑える「共益費(管理費)積極型」の料金設計が見られる。これは、表面上の賃料を安く見せたい場合や、リーシング戦略上の見せ方として用いられる手法だ。ただし、あまりに共益費(管理費)が突出して高いと、「実態のわからない金額」に対する警戒感を招く。特に築古ビルでは、共益費(管理費)が賃料の40〜50%以上になるような設定は、「中身を聞きたくなる水準」に達してしまう可能性がある。そのため、価格構成を見直す際は、「賃料と共益費(管理費)の比率」も、見た目の印象として意識しておくとよい。同じ賃菅総額でも、比率が極端であれば不自然さが生じる。 “安すぎる”ことのリスクもある 意外かもしれないが、共益費(管理費)が安すぎることも問題になることがある。テナント側が「こんな価格で、本当にきちんと管理されているのか?」と不安を抱くことがあるからだ。特に、雑居ビルや管理状況のバラつきが大きい築古ビル群の中では、価格があまりに低いと、かえって“何かをしていないのではないか”という疑念につながる。つまり、適正な共益費(管理費)の水準とは、相場と合っていることに加えて、「やるべきことをやっていると思わせる」価格帯である必要がある。安さを前面に出すよりも、「それなりの管理がされていると思われる価格」を維持することが、結果的に信頼の維持につながる。 第5章:説明責任はどう考えるべきか――「聞かれたら答える」の落とし穴 共益費(管理費)という費目は、あいまいである。原価積算に基づく価格設定がなされているわけでもなく、項目ごとの使途が明示されているわけでもない。にもかかわらず、「これはいったい何に使われているのか?」という疑問を、ある日ふとテナントから投げかけられることがある。このような問いに対して、どこまで答えるべきか。あるいは、そもそも答えられる前提があるのか。本章では、「共益費(管理費)の説明責任」に対する実務的な構え方と、対応の基本原則を整理していく。 共益費(管理費)に“原価の積み上げ”は存在しない そもそも、共益費(管理費)というのは本来、「賃貸オフィスビルの共用部にかかる費用をテナントで按分する」ことを目的として設計されていたはず。照明や清掃、水道、エレベーター、消防点検、警備など、共用部の維持に必要な支出を、利用面積に応じて公平に分担する――これが、共益費(管理費)の基本的な考え方だった。しかし現在、賃貸オフィスビルの管理実務において、こうした実費按分の仕組みはほぼ形骸化している。実際には、共益費(管理費)は「月額3,000円/坪」「3,500円/坪」といった定額制で設定され、原価と連動しない“定型項目”として扱われている。そのため、「この共益費(管理費)は何に使われているのか?」と問われたとしても、原理的に「これとこれに使っています」と明確に答えることはできない。実費精算ではなく、包括的な管理・運営費用として広くテナント全体から徴収しているという性格があるからだ。 「一部を答える」は、むしろ疑念のきっかけになる この点を理解せず、「清掃や点検などに使っています」と答えてしまうと、逆に次のような疑念を誘発することがある。「それ以外は何に使っているのか?」「点検と言っても、実際には何をどこまでやっているのか?」「それにしては高くないか?」つまり、「答えること」が信頼構築に直結するわけではない。むしろ、説明によって疑問が増えてしまう構造があることを、オーナー/ビル管理会社は理解しておく必要がある。 対応の基本姿勢は「包括性と公平性」を示すこと 実務上の対応としては、詳細に踏み込むのではなく、共益費(管理費)の基本的な性格を“ブレずに、丁寧に”伝えることがもっとも効果的である。「『共益費(管理費)』は、共用部の維持や設備点検、清掃、緊急時の対応を含め、賃貸オフィスビル全体の管理を安定的に行うための包括的な費用として、定額でご負担いただいております。すべてのテナントに公平に適用しており、エリアの賃貸水準との整合性もふまえて設定しております。」このように、細かい中身を“答えない”のではなく、“構造として丁寧に説明する”ことが、現場での納得感につながる。 質問のきっかけは、“運営上のズレ”にあることが多い 実際に共益費(管理費)についての問い合わせが発生する場面は、往々にして何らかの“小さな違和感”がテナントに生じた後である。価格そのものへの関心というよりは、管理の不備や情報伝達のミスが引き金になることが多い。たとえば設備の不具合が放置されたままになっている予定されていた点検の連絡が来ていなかった清掃品質に波があり、汚れが目立つ日があるトラブル対応が遅れ、連絡も不足していたこうした場面で、「そういえば共益費(管理費)って、何に使われているのか?」という問いが自然と湧いてくる。つまり、共益費(管理費)の説明対応は、価格や中身の話ではなく、管理・運営上の不整合への反応として出てくるものであり、日常運営の精度がそのまま“共益費(管理費)の疑問発生率”を左右する。 「聞かれない状態」を維持するほうが本質的 だからこそ、説明の準備よりも、そもそも説明を求められない状態をどう維持するかに注力すべきである。すでに本コラムで述べてきた通り、共益費(管理費)は“整っている状態”が維持されていれば、テナントの関心には上らない。説明されなくても、困っていないことが、最大の納得要因になる。つまり、「『共益費(管理費)』について問い合わせが来ない」というのは、説明が要らないほど信頼されている状態を意味している。この状態が保たれていれば、詳細を語らずとも、価格は成立し続ける。 最低限の「定型回答」は用意しておく とはいえ、万が一の問い合わせに備えて、社内での統一的な回答文言を準備しておくことは必要である。現場での対応が属人的にならず、どの担当者でも一定水準の返答ができるよう、以下のような文言を共有しておくとよい「『共益費(管理費)』は、建物の共用部にかかる管理業務(清掃・点検・巡回・緊急対応など)を含む、建物全体の維持費用を広くカバーする定額制の費目として設定されています。個別の実費精算ではなく、すべてのテナント様に公平な形でご負担いただいております。」このような文言をあらかじめ用意しておけば、担当者ひとりひとりが過度に構える必要もなく、冷静に対応できる。 第6章:「納得される共益費(管理費)」は、どうやって成立しているのか 築古の賃貸オフィスビルにおいて、共益費(管理費)という項目がテナントから特に問題視されずに受け入れられている状態――それは、実は非常に高度な“無風の成果”である。その納得は、説明によって得られているわけではなく、日々の運営の中で自然と蓄積された信頼感によって成り立っている。この章では、テナントにとって「気にならない費用」として共益費(管理費)が成立するために、どのような要素が“感覚(知覚)レベル”で機能しているのかを考察していく。 共益費(管理費)は、「感覚としての整合」が成立しているときに、はじめて納得される テナントが共益費(管理費)を「妥当だ」と感じるとき、それは金額に対する明確な計算根拠や明示的なサービス内容があるからということで、ロジカルに導き出すものではない。むしろ、「この物件の状態と、月額●●円/坪という水準が釣り合っているかどうか」、「違和感がない」という言語化されない感覚的な整合感によって、妥当性が判断されている。この感覚は、いわゆる「勘」や「雰囲気」といった曖昧なものではなく、もっと根本的に、人が日常を生きるなかで得ている連続的な知覚の整合性に支えられている。たとえば、フロアに足を踏み入れたとき、照明の明るさや反射の具合に不安がなく、床の素材に段差や浮きがなく、空調の風が極端に強くも弱くもなく――「何も引っかからないままに、そこにいられる」こと。スピノザが述べたように、感覚(知覚)とは心と身体を分けることなく、「存在の様態として感受される経験」であるとすれば、共益費(管理費)への納得感もまさに、論理を超えた身体性と整合する感覚の中にある。それは、「頭で理解する」のではなく、「全体として受け止めている」状態であり、非言語的に“調和している”と感じることそのものが納得を生んでいる。 「特に問題がない」という体験の蓄積こそが、共益費(管理費)を成立させている この整合する感覚は、単発的事象としは成立しえない。たまたま清掃が行き届いていた日、偶然トラブルがなかった一週間というだけでは生まれえない。むしろ、「何も起きなかった」「いつも通りだった」という、継続した時間の経過の中でしか形成されない体験の蓄積である。ここで重要なのは、“何かがある”ことではなく、“何も気にならない”状態が続いていることそのものが、無言の評価になっているということだ。テナントは、いちいち清掃頻度や点検内容をチェックしているわけではない。それでも、以下のような状況が“当然のように続いている”とき、共益費(管理費)への疑問は起きない。フロア内の空気環境に違和感がない(風の吹き出し音や温度ムラが気にならない)エレベーターがいつもスムーズに動いている共用部の照明が統一され、光のちらつきや色ムラが生じていない廊下や壁面の傷や補修跡が端正に処理されており、清潔感が保たれているトイレや給湯室の備品が切れていたことがないつまり、「納得される共益費(管理費)」とは、個別の出来事や項目に分解できるものではなく、“何も引っかからないという知覚が、連続的に更新されている状態”にほかならない。逆に言うと、小さな不整合が積み重なると、テナント側の心理的な違和感が募り、「共益費(管理費)の内容がよく分からない」「説明してほしい」という声につながるということである。 「何も言われない」ことは、最高のフィードバックである “何も引っかからないという知覚が、連続的に更新されている状態”である限り、共益費(管理費)について、テナントから、不満なり、なにがしかのコメントが寄せられることは少ない。しかし、それ以上に重要なのは、何も言われないまま、更新が行われ、請求が滞りなく処理されていくという事実である。これは、管理運営としての成果が「可視化されていない」からといって、無視されているわけではない。むしろ、「言われない状態が、最も深く肯定されている状態」であるとも言える。それは、「何がいくらかかったのか」といった分解可能な根拠ではなく、「この金額なら特に文句はない」という身体的・経験的納得によって支えられている。この納得は、ロジックではなく、整合する知覚として、感覚のなかに棲みついている。 共益費(管理費)の価値は、「いつも通り」の中に潜んでいる “いつも通り”という言葉には、形式としての繰り返し以上の意味がある。そこには、違和感のない時間が積み重ねられてきた結果としての“自然さ”があり、それが共益費(管理費)の妥当性を静かに保証している。共益費(管理費)が成立するとは、価格と項目の合理的な整合がとれているという意味ではない。それは、日々の体験が言葉になることなく、「問題がなかった」と身体的に記憶されているということだ。この、語られない納得の構造こそが、築古ビルにおける“気にされない価格”をつくり出している。 第7章:「気にされない共益費(管理費)」を支える、管理・運営側の整え方 前章で述べたとおり、共益費(管理費)はその内容が説明されることなく、また、分析的に評価されることもないまま、「納得されている状態」が自然に成立している。この構造を支えているのは、個々の管理業務のパフォーマンスを包括して、全体として“気にならない状態”が持続していることにある。本章では、そうした「気にされない共益費(管理費)」を成り立たせている、管理・運営側の視点と具体的な整え方について掘り下げていく。 「質を上げる」のではなく、「ばらつきを抑える」 共益費(管理費)の納得感は、特別なサービスの追加によって得られるものではない。むしろ、築古の賃貸オフィスビル管理においては、狙った演出よりも、“日々の業務がいつも通り行われている”ことの一貫性のほうが重要である。たとえば:清掃の仕上がりに日によってムラがない照明器具/給湯設備の修繕対応に、担当者による差が出ない巡回頻度や点検の実施タイミングが、安定しているこうした“小さなばらつきの不在”こそが、テナントの不信感を未然に防ぎ、共益費(管理費)を価格として成立させている。“いつもそれなりに整っている”という一貫性のある管理が、テナントの心理的な安心感を生み、結果として共益費(管理費)への無関心=納得という状態につながっている。 「気づかれない変化」をどう設計するか 築古の賃貸オフィスビル管理において、設備の老朽化や外注業者の契約更新、仕様変更など、どうしても管理・運営の内容に変化が生じるタイミングがある。しかし、この“変化”が意識されてしまうと、それまで成立していた“気にならない状態”が揺らぎ、テナントの納得感を損なう引き金になり得る。たとえば:清掃業者の交代で、床の仕上がりや匂いがわずかに変わる巡回頻度を週5日から週3日に変えた結果、対応の遅れが出始める点検後の養生撤去や張り紙が雑になり、管理体制に疑念を抱かれる個々の更新・変更そのものは不可避であり避けがたいケースも多かろう。重要なのは、“更新・変更されたことが意識されない”ように、調整の過程をなめらかに運営できているかどうかである。この“段差のない更新・変更”ができることこそが、実務的な共益費(管理費)運用の鍵を握る。 違和感を「未然に察知する」姿勢・体制づくり 「共益費(管理費)が高いのでは?」という疑問は、突発的に出てくるのではない。多くの場合、日常の管理・運営のどこかで「これはおかしい」と思わせる出来事が蓄積した結果として現れる。だからこそ、“何かが起きてから動く”のではなく、“起きそうなことに事前に気づく”ための姿勢・体制づくりが重要になる。現場スタッフが「いつもと違う」と感じる感度を持てるようにしておく巡回時に設備や共用部の変化を“形式的チェック”で終わらせない清掃・補修・警備などの業者報告を、形だけでなく“内容ベース”で確認するこれは、点検の回数を増やすことではない。“静かな異変”に先に気づく視点、違和感への感度を、現場の運営の中に織り込んでいく姿勢であり、管理・運営力の問題である。 言葉にならない運営が、「価格をいじらずに信頼を保つ」 共益費(管理費)という費目は、一度設定されると、そう簡単に見直したり変更したりできるものではない。しかも、共益費(管理費)は、説明すればするほど納得されるとは限らない。むしろ、説明の過程で新たな疑問が生まれたり、「だったらこれはどうなんだ」と別の指摘につながったりすることも少なくない。その構造を踏まえれば、共益費(管理費)とは「語られないまま、納得されている」状態が、最も安定した形だと言える。この納得感を長く保ち続けるために、ビル管理会社として、また現場の担当者が行っているのは、目立つ改善策や大胆な改革ではない。 むしろ、誰からも注目されることのない部分での微調整や観察――つまり、“何も起きていない”状態を裏で静かに維持し続ける日常の調律である。たとえば、清掃ルートの見直し、備品補充のタイミングの最適化、共用部の照度や温湿度への反応、業者とのコミュニケーションの質のコントロール。それらはテナントに意識されることのない小さな判断の積み重ねだが、「この賃貸オフィスビルはちゃんとしている」という印象を、静かに支える要素になっている。特別なことはしない。ただ、特に問題が起きないように“細部を微調整し続ける”。この“見えない調律”こそが、共益費(管理費)という曖昧な価格を、動かすことなく崩さずに成立させるための、実務的かつ職人的な技術なのだ。 第8章:共益費(管理費)という“あいまいな費目”を、どう戦略的に扱うか ここまで見てきたように、築古の賃貸オフィスビルにおいて共益費(管理費)という費目は、説明のしやすさや計算の明快さを欠いた、ある意味では“語りにくい価格”である。何にいくらかかっているのかを項目立てて語ることは難しく、相場水準との整合や納得感の形成も、数字よりも「違和感のなさ」「日々の整い」といった感覚的な要素に依存している。一見すれば、それは経営上の不確実性や不安定さにつながる弱点のようにも思える。だが、本コラムで見てきたとおり、この“あいまいさ”こそが、実は共益費(管理費)を柔軟に設計し、運営の安定を支えるための余地を与えている。そして、この性質を正しく理解すれば、共益費(管理費)は、単なるコスト回収のラインとしてではなく、むしろ「このビルはきちんと整っている」という印象を静かに維持する、信頼形成の装置として戦略的に設計されるべきものとして位置付けることができる。 共益費(管理費)は「収支説明」ではなく、「納得感の設計」である 共益費(管理費)を「管理コストの按分」や「実費の積算」として捉えると、どうしても説明責任と原価の開示が重くのしかかる。だが現実には、共益費(管理費)はそうした原価連動の費目ではなく、あらかじめ設定された“一定の金額で、整っている状態を保つ”という実務運用のための外枠=静かな枠組みである。共益費(管理費)は、状況に応じて上下させる「可変パーツ」ではなく、「この範囲で整え続ける」という枠組み=前提条件として設定されるものだ。オーナー/ビル管理会社が求められるのは、その価格が“問われない”状態を、日常業務でどう維持し続けるかという視点である。 「疑問が出ない」ことこそ、最大の肯定 共益費(管理費)の扱いで最も避けるべきなのは、「この費用は何に使われているのか?」という問いが浮かび上がる状態だ。この問いは、費用対効果に対する不信の兆候であり、運営のどこかでズレやばらつきが発生しているサインである。だからこそ、「説明がなくても、気にならない」こと――すなわち、価格と状態が“暗黙の了解”として成立している状態を目指すことが、もっとも現実的で有効な共益費(管理費)運営のあり方である。 あいまいさを支える日常の調律 築古の賃貸オフィスビル管理において、共益費(管理費)は「何も言われない価格」であることが理想だ。その実現のためには、あらかじめ設定された一定の価格の外枠の下、テナントとの適切な距離感を保ちながら、印象を乱さず、整え続ける―そのための静かな調律を、日々の業務のなかで積み重ねていくしかない。それは、設備更新や新サービスの導入のような「目に見える改善」とは異なる、見えないところで印象を支える静かな実務力である。 おわりに 共益費(管理費)は、確かにあいまいな費目である。だが、そのあいまいさを“悪くないかたちで維持できている”ということ自体が、管理の質そのものを表している。共益費(管理費)のような費目においては、“わかりやすい説明”が誠実さの形とは限らない。問われずとも納得されている状態を維持することもまた、一つの誠実な姿勢といえる。語られずとも受け入れられているものを、丁寧に保ち続けるという態度――それこそが、築古ビルにおける共益費(管理費)運用の本質であり、オーナー/ビル管理会社が持つべき、もっとも実践的で静かな戦略なのかもしれない。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月6日執筆

原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「原状回復工事は“舞台のバラシ”に似ている―目立たないけれど欠かせない仕事の本質」のタイトルで、2025年12月22日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果” はじめに 原状回復工事は、舞台のバラシに似ている――そんな言葉を聞いたことがあります。舞台が終わり、観客が去ったあと、照明が落ちた空間で、誰にも注目されないまま、解体と撤収が静かに進んでいく。原状回復工事もまた、テナントの退去にともない、さして記憶にも残らない工程として、淡々と実施されていきます。テナントの退去は、ある日突然決まるものではありません。オフィス移転の意思決定には、その会社の将来的な事業戦略、組織再編、予算方針といった中長期的なテーマが絡みます。実際、多くの企業では、解約通知の6か月前よりもさらに前から、・今の賃料や条件が見合っているか・会社の今後はどうなっていくのか、オフィスの面積を拡大・縮小すべきか・リモートワークや再編成の影響にどう対応するかといった議論が、水面下でスタートしています。この段階では、契約更新の条件交渉や解約の可能性を含めた複数の選択肢が検討されており、まだテナント側の意思が確定していないことも少なくありません。そしてある時、テナントから「解約通知」が正式に届きます。ここから先は一転して、定められた工程に沿って退去対応がスタートします。原状回復工事の範囲は契約条項で明示されており、多くの場合、オーナー側が主導して、実務的にはビル管理会社が差配して、工事を手配し、テナントの保証金で精算を行う仕組みなので、揉める要素はほとんどなく、粛々と処理が進んでいきます。ただ、そこには時折、ほんのわずかな温度差のようなものが残ります。「払いますけど……高い気がしますね」「まあ、仕方ないです。すでに移転先のこと考えてるんで」誰も声を荒げることはありませんし、トラブルにもなりません。それでも、ごくまれにそうした言葉が交わされることがあります。仕組みは整い、運用は安定している。工事もきちんと実施され、請求も適正に処理されている。それでも、なぜ原状回復工事は「高く感じられやすい仕事」になっているのでしょうか。本コラムでは、原状回復工事という業務が担う静かな仕上げのプロセスを、仕組み、運用、そして心理の観点から整理しながら、「問題は起きていないのに、すこしだけ納得されにくい」という構造を、様々な視点から読み解いてみたいと思います。 第1章:原状回復工事の仕組みは明確なのに“高い”と感じる3つの理由 1-1.まず土俵をそろえる──原状回復工事は契約で決まる 賃貸オフィスビルにおける原状回復工事の取り扱いについては、業界標準の契約書ひな形(日本ビルヂング協会連合会)が存在し、実務上も広く参照されています。そこでは、以下のように、工事の主体や費用負担、範囲、精算方法などが体系的に整理されています。・工事主体:オーナーの指定業者(通常はビル管理会社が差配)・費用負担:テナント(借主)負担。・原状回復工事の範囲:テナントが設置した造作・設備・備品の撤去、汚損・損傷箇所の修復、壁・天井・床仕上材の塗装・貼替え等が明示されている。・精算方法:テナント(借主)が差し入れた敷金により精算され、不足があれば追加請求される。このように、退去にあたっての原状回復工事の範囲や進め方、そして費用の精算方法は、賃貸借契約書の段階で明確に定められており、「退去確定後に原状回復工事を巡って揉めることは稀」というのが、現代の賃貸オフィスビル市場における実務の標準です。日本ビルヂング協会連合会の発表しているオフィスビル標準賃貸借契約第8条(敷金)敷金の額は、契約要項記載のとおりとし、乙は、契約締結と同時に、甲に預託するものとする。(中略)6.本契約が終了したときは、乙が本契約に基づく原状回復工事義務を履行し本物件の明渡しを完了した後、乙の甲に対する本契約に基づく債務その他の一切の債務に充当した後の敷金の残額を、甲は乙に返還するものとする。第24条(明渡し)賃貸借期間の満了、解約、解除その他の事由により、本契約が終了したときは、乙は、次の各号の定めるところにより、本物件を明渡すものとする。一.乙は、乙の費用により新設又は付加した諸造作、設備等及び乙所有の備品等を乙の費用負担により撤去するとともに、乙による本物件の変更箇所及び汚損、損傷箇所を修復し、壁・天井・床仕上材の塗装、貼替を行った上で本物件を引渡当初の原状に復して甲に明渡す。二.前号の原状回復工事は、甲又は甲の指定する者が実施し、その費用は乙が負担する。 1-2.工事費用が継続的に上昇傾向──データで読む10年曲線 ただし、前項で説明した整理が行われているにもかかわらず、近年、実務現場では「原状回復工事費が高い」という不満が感じられるケースが目立つようになっています。その最大の要因は、工事費用の上昇です。建設物価調査会が公表している「内装仕上げ工事費指数」によれば、2015年から2025年にかけて、この指数は約35%上昇しています。つまり、同じような内容の内装工事であっても、10年前と比べて3割以上の費用増が生じているということです。この背景には、複数の要因が重なっています。第一に、資材価格の高騰です。石膏ボードや合板、軽量形鋼といった内装の基礎資材は、円安や国産材の供給減などの影響を受けて、過去10年で2~4割の値上げが続いています。第二に、人件費の上昇です。職人の高齢化と新規入職者の不足により、内装仕上げに従事する技能労働者は慢性的に不足し、その結果として、実勢賃金は約20~25%上昇しています。第三に、短納期対応によるコスト増です。オフィス移転のスケジュールが年々タイトになっており、工期が4~5週間と短縮されるなかで、夜間や週末の工事、追加人員の投入が必要となり、これがコストを押し上げる要因となっています。仕上げ工事費指数(建設物価調査会)は2015→2025で+35% 1-3.保証金漸減──原状回復工事費用が精算しきれない こうした工事費用の上昇と並行して、もう一つ大きな構造変化が起きています。それが、テナントが差し入れる保証金(敷金)の水準の低下です。かつて、オフィスビルの契約における保証金は「家賃6か月分」が一般的な相場とされていました。しかし足元では、4~5か月が実務上の平均に近づいており、家賃3か月+償却費1か月負担といった条件も珍しくなくなってきています。この背景には、2020年から2022年にかけてのコロナ禍による空室率の急上昇があります。ビルオーナー側は空室を埋めるため、初期コストを抑えた条件提示を行い、保証金の水準を引き下げました。一方で、テナント側にも資金効率や会計上の観点から、保証金額の圧縮を求めるニーズが強く、両者の思惑が一致するかたちで、保証金の慣行水準は切り下がってきたのです。そして、原状回復工事費用が上昇する一方で、保証金が縮小すれば、当然ながら、敷金で全額を精算できないケースが増えてきます。追加請求は、いまや例外ではなく、むしろ日常的な対応となりつつあります。 1-4.退去テナントの総務もヒマじゃない──入居対応で手一杯 さらに近年、テナントの移転業務を担う総務部門の意識にも変化が見られます。CBREが実施した「JapanOfficeOccupierSurvey」によれば、「移転時に最も時間を割くタスク」として、・2017年:入居対応58%/原状回復工事42%・2024年:入居対応6%/原状回復工事19%というように、明らかに原状回復工事への関心・工数投入が減ってきています。背景としては、新しいオフィスでの勤務環境が高度化していることが挙げられます。ABW(アクティビティ・ベースド・ワーキング)やハイブリッド勤務への対応、ICTインフラ整備、ウェルビーイング配慮設計など、入居時に調整すべき要素が急増しています。結果として、総務は情シス、HR、ESG、BCPなど社内外の多様な関係者と連携しながら入居工事を進めることになり、その対応に追われています。一方、原状回復工事は契約上の義務として「オーナー指定業者が行う」「費用は借主が負担」と定型化されており、スケジュールや仕様について交渉や判断を求められる場面がほとんどありません。そのため、退去テナントから見ると、原状回復工事は「金額だけ確認して終わる」性格のタスクとして扱われがちです。こうした制度的な枠組みやコスト構造の変化を踏まえた上で、次章では、実際に現場でどのように原状回復工事が進められているのか、その段取りの中身に目を向けてみたいと思います。 第2章:原状回復工事は“工程がすべて”――淡々と進み、正確に終わるしくみ 原状回復工事について、退去テナントがちょっと高いかなって感じられることがあったとしても、実際の現場でトラブルに発展することはほとんどありません。原状回復工事は、賃貸借契約に定められた基本的な権利・義務関係を土台にしつつ、社内ルールや業者対応の標準手順を通じて、工程全体が安定的に運用されています。つまり、「契約が枠を決め、ルールが運び方を整え、工程がそれを実行する」という構造がきちんと組まれているからこそ、原状回復は揉めないようになっているのです。本章では、原状回復工事がどのようにして“揉めない”“滞らない”、そして、“記憶に残らない”ほど自然に運用されているのか──その舞台裏を、工程・判断・対応の流れに沿って整理していきます。解約通知から退去、工事の完了、そして請求まで――一連の段取りが確実に積み重ねていくからこそ、現場には混乱がなく、退去したテナントの後、次の入居テナントを迎える準備へと自然につながっていくのです。 2-1.解約通知から段取りは始まっている 賃貸借契約においては、退去の6か月前までに解約の通知を行うことが原則として定められています。この通知が届いた段階で、ビル側の原状回復に向けた準備はすぐに動き出します。まず管理状態を把握し、原状回復工事の対象範囲を正確に整理するためのプロセスです。貸室を標準仕様に戻すためには、どの部分にどれだけの工事が必要かを明確にする必要があり、そのための前提となる調査です。当社は、現地確認を実施します。これは、入居時およびそれ以降にテナントが実施した工事の履歴をもとに、現在の内装や設備の状況を確認した上で工事項目を洗い出し、工事ボリュームを把握しておくことは、正確な見積作成のためにも不可欠な工程です。適切な初動をとることで、退去までの限られた時間の中でも、工程を滞りなく進めることが可能になります。 2-2.“壊す”のではなく“整える”ための工事 原状回復工事とは、単に「造作を壊して元に戻す」作業ではありません。その本質は、貸室を次のテナント募集や内見に耐えうる状態へと整えることにあります。あえて言えば、「使われた痕跡をきちんと整える」ことに近い仕事です。原状回復工事の主な内容は、以下のとおりです。・壁クロスの貼替え・床カーペットの張替え・天井の塗装(破損がある場合はボードの貼替えも含む)・ブラインドボックスや鉄部の塗装補修・専用部の二次配線(電気・LAN・電話線等)の撤去・機械警備カードの更新・鍵の撤去・火災報知器の撤去・照明管球の交換・照明器具、空調設備、サッシ・ガラスの清掃、およびテナント持込備品の廃棄処分これらのうち、壁クロス・床カーペットの貼替え、天井仕上げの補修などは、どの退去案件でも必ず実施される工事です。そこに加えて、テナントが独自に手を加えた箇所や、現場確認の際に見つかった破損・劣化の状況をもとに、追加で必要な補修項目の有無を判断し、最終的な工事内容とボリュームが確定されます。なお、空調や照明器具の更新工事は原則として原状回復の対象外ですが、照明のLED化などを同時に行うケースもあります。その場合は、原状回復に合わせて実施する貸主都合の更新工事として扱われます。いずれにしても、最終的に目指すべき状態は、「不要なものが一切残っておらず、使われた痕跡を感じさせない空間」。それが、原状回復工事における完成形です。 2-3.テナントの独自造作も、定められた手順に従って粛々と処理される 退去するテナントが会議室や間仕切りなどの独自造作を施していた場合、原則としてそれらは原状回復工事において撤去対象となります。ただし、次のテナント募集時に会議室や間仕切りといった造作が一般的に利用価値が高く、次テナントの募集条件の魅力度を上げられると判断された場合には、造作を残置・引き継ぐこともあります。もっとも、こうした判断が現場ごとにアドホックに行われているわけではありません。実務の運用としては、あらかじめ定められた契約条項と社内ルールに則って、整然かつ一貫性のある形で処理されています。たとえば、テナントとの契約書には、「貸室内又は本建物内に借主の費用をもって設置した諸造作・設備等の買取りを貸主に請求できない」と明記されています。また、残置された備品等の取扱いも含めて、それらの最終的な処分判断はすべてオーナー側・管理会社側の裁量に基づいて行われることが前提となっています。仮に一部の造作を残す場合であっても、それらは明確に「原状回復工事の対象外」として整理され、他の工事対象と混同されることはありません。こうした線引きは、現地確認の初期段階において明確に定められるため、工事工程の中で現場が混乱するようなことはほとんど発生しません。住宅における原状回復では、借主が設置した造作に関して「造作買取請求権」(借地借家法第33条)の適用可否をめぐり、判断が分かれることも多く、グレーゾーンになりがちな領域です。しかし、賃貸オフィスビルにおいては、この点も含めて契約上の取り決めや運用ルールが明確に整備されており、実務ではトラブルの火種にならないよう、あらかじめ制御されています。 2-4.トラブルのない原状回復工事には、理由がある 賃貸オフィスビルにおける原状回復工事は、テナントとの間でトラブルになることが非常に少ない領域です。それは偶然ではなく、契約条件の明確さと、実務フローがしっかり整備されていて、計画的に運用されていることによるものです。たとえば、実務上の典型的な進行フローは以下のとおりです。・解約通知を受けたら、すぐに現地確認を実施→工事対象範囲や造作の有無を確認し、契約内容と照合する・遅くとも退去の3か月前までに工事見積を提示→テナントが工事内容を確認し、保証金での精算の想定も可能になる・原状回復工事は、退去の約1.5か月前から着工→通常業務に支障が出ないよう、スケジュールを調整・工期はおおよそ1か月程度を想定→見積時点で工期も明示され、工程に余裕を持たせてある・すべての工事は「入居期間内」に完了することが契約条項に明記されている→工事遅延による賃料発生や、明渡し遅延リスクを未然に排除このように、解約通知から明渡しまでの間に何を・いつまでに・誰が・どのように行うかが契約と実務の両面で明文化・定型化されているため、不要なやりとりや感情的な齟齬が起きる余地はごく限られています。原状回復工事というのは、「目立たないが正確な仕事」の代表格とも言える分野です。だからこそ、現場では特別に目立つこともなく、静かに淡々と進められるわけですが、その背後には、積み上げられた実務の知見と、精緻な段取り設計があります。関係者から信頼を得ているのは、こうした整っている実務の蓄積があるからにほかなりません。 第3章:原状回復工事の価格は適正でも、“印象のズレ”は起こりうる 原状回復工事は、契約に基づいた枠組みのなか、手順も定型化されている業務であり、工程や費用もあらかじめ整理された仕組みの中で進行します。工事内容は一定の基準に照らして判断され、過去事例も踏まえて、施工業者の見積に基づいて、退去テナント向けの見積が作成されるため、費用設定においても大きな逸脱は起きません。それにもかかわらず、退去テナントからは時折こんな声が漏れることがあります。「……ちょっと高かった気もしますけど、もう済んだことですしね。」工事の内容に誤りはなく、費用も契約に基づいた正当なもの。それでも、「納得できない」というほどではないものの、「少し引っかかる」といった微妙な価格印象のズレが生じることは、決して珍しいことではありません。この章では、そうした印象のズレがなぜ起こるのかを、「契約」や「請求根拠」といった形式論に留まらず、テナントとオーナーそれぞれの立場や時間感覚の違いに注目しながら、整理していきます。 3-1.退去時に見ているものが違う テナントが退去を決断する背景には、事業拡大、レイアウト変更、本社移転など、前向きな戦略判断があることが多く、退去は未来志向の変化として位置づけられます。退去が近づくと、退去テナントの総務や移転担当者は、新拠点での内装工事やICT移設、什器の発注、社内周知など、膨大な実務タスクに追われていきます。その中で、旧オフィスの原状回復はもう終わる場所としての扱いになり、どうしても優先順位が下がりがちです。一方で、オーナーや管理会社にとって退去は「次の募集開始に向けたスタート」です。通知を受けた時点から現地確認、見積、工事手配、空室期間の調整など、逆算思考で業務が動き出します。原状回復工事もその一環として、滞りなく遂行されなければなりません。つまり、テナントは次を見る、オーナーは現場に戻すというように、目を向けている方向がそもそも違うのです。この視点の違いこそが、原状回復費用に対する感覚のズレを生みやすくする最大の要因です。 3-2.コストを「見慣れている」か、「突然向き合うか」 近年、原状回復工事の単価はじわじわと上昇しています。資材価格の高騰、人件費の上昇、工期短縮要請への対応といった要因が複合的に影響しており、これはオーナーやビル管理会社にとっては日常的に把握されている変化です。しかし、退去テナントが原状回復工事に接するのは、たいてい数年に一度。テナントの総務担当者が数年前の移転時に把握していた坪単価と、現在の見積金額に差がある場合、その間の値上がり事情を知らないまま突然の値上げと感じてしまうことが多いのです。つまり、印象のズレは「説明が足りないから」ではなく、退去テナントがそもそも構えていなかったことに起因するケースが大半なのです。 3-3.ズレがあっても、整った仕事は揺るがない このような印象の違いは、あくまで感覚的なものであり、契約的な正当性や施工品質の評価とは別の次元にあります。どれだけ丁寧に対応し、見積も透明に提示し、工程を正確に遂行しても、「少し高い気がした」と思われてしまうことはある。それは、説明のミスではなく、当事者の立ち位置の違いが自然と生む、温度差のようなものです。したがって、無理にその印象を打ち消そうとするよりも、あらかじめそのギャップが存在しうることを前提に、業務の精度と透明性を保ち続けることのほうが、よほど現実的で効果的です。 小結 原状回復工事の費用が「高く感じられる」ことがあるのは、見積ロジックや契約内容の問題ではなく、テナントとオーナーがいつ・何に向き合っているかの違いに由来する、感覚のズレです。この印象を完全に排除することはできません。しかし、だからこそ、業務そのものを丁寧に、正確に、あらかじめ整えておくことが、最終的に「信頼される現場」となるためのもっとも確かな道筋なのです。 第4章:“きちんと仕上げる”がすべて――原状回復工事の静かな完成度 原状回復工事は、工程としては明確で、運用としても安定しています。それでも、退去したテナントの印象には、ときおり「ちょっと高かったかもしれない」「もう少し説明がほしかった」といった言葉が残ることがあります。しかし、そうした印象があったとしても、原状回復工事が大きなトラブルに発展することは、実務上ほとんどありません。むしろ、きちんと完了し、きちんと請求され、何ごともなかったかのように終わっていく――この静けさこそが、この業務の完成されたかたちとも言えるのではないでしょうか。本章では、原状回復工事がなぜ「揉めないのか」、そして「印象に残らないまま完了していくのか」を、運用実態をもとに読み解いていきます。 4-1.“いつ何をするか”が決まっている 原状回復工事の工程は、賃貸借契約に基づいて、6か月前の解約通知を起点に始まります。解約通知を受けたビル管理会社は、テナントの窓口であるPM(プロパティマネジメント)とBM(ビルマネジメント)の工事担当が現地を確認し、入居工事および過去のテナント工事の資料と照合しながら、撤去すべき造作や補修箇所、原状回復工事の対象範囲を整理していきます。当該現地調査の確認内容に基づいて、工事の担当業者に確認を取りながら、退去テナント宛てに見積を作成します。この現地確認作業は、遅くとも退去の3か月前までには完了するようスケジューリングされています。作成された見積書(明細付き)は、退去テナントに提示されます。その後、ビル管理会社から退去テナントに対して「工事をいつから開始するか」が通知され、それまでに退去を完了してもらうという段取りになります。テナントとの賃貸借契約には「契約期間中に原状回復工事を完了すること」が明記されており、工程がこの流れから逸れることはほとんどありません。ちなみに、原状回復工事の工期はおおむね1か月。通常、退去時期は解約の1.5か月前に設定されます。こうした流れは物件ごとに若干の差はあるものの、現地調査、見積、業者手配、退去スケジュール設定等、工程の詰め方が毎回同様に組み立てられており、非常に安定した実務運用となっています。 4-2.“確認されないことを前提としているかのように、流れていく” 原状回復工事の見積が退去テナントで細かく確認されることは、実務上ほとんどありません。これは「説明が足りない」からでも、「透明性がない」からでもありません。単純に、退去テナント側――とくに総務や移転担当者――が、退去の時期にそこまで手が回らない状況にあるからです。退去の時期には、新オフィスでの入居工事が佳境を迎えており、ICT環境の整備、電話回線の移設、什器やレイアウトの調整、契約書まわりの最終調整など、目の前の業務に時間も意識も吸い取られています。原状回復工事の見積書は、退去テナントに届いたらそのまま了承され、工事が粛々と実施されます。工事完了後の立ち会い確認は省略されることが多く、結果的にそのまま請求フェーズに移行し、処理されていく傾向にあります。つまり、工程全体が、確認されないまま進んでも滞らない程度によくできているからこそ、安定した運用が成立しているのです。たとえば次のような実務体制が、それを支えています。・見積書は、よく見てみると、「主要工事項目・小計・消費税」の3階層構成で整えられており、造作など特異な項目も別立てとなって整備されている・現地調査と見積作成の流れが定型化されており、工程管理のルールも明確・着工日・退去日・請求タイミングが、すべて「運用としての流れ」の中に組み込まれている 4-3.印象を変えるのは、説明ではなく結果 原状回復工事に関して、テナントから「少し高い気がした」「内容をよく見られなかった」といった声が出ることはあります。ただし、そうした印象は、問題がなければすぐに忘れられます。工事は予定どおり完了し、請求・精算も適正に行われ、現場に混乱は残りません。そして、完了時に何も言われないこと、見積書や請求書に対して問い合わせが発生しないこと――それこそが、原状回復工事における最大の成果といえるのではないでしょうか。工事の仕上がりが整い、精算が一発で済み、テナントからの後追いもない。関係者すべてが、あらかじめ「もう終わったこと」であるかのように前に進んでいく。そんな状況だからこそ、「ちょっと高かったかもしれない」という一言は、それ以上の意味を持ちません。原状回復工事という仕事の価値は、きちんとやっていることを、粛々と積み上げていくことで伝わっていくものだと思います。 第5章:記憶に残らなくても、信頼は残る――原状回復工事という“静かな成果” 原状回復工事は、内装デザインや演出性を伴う入居工事とは異なり、テナントの記憶に強く残るような場面があまりありません。退去が完了し、請求が済み、話題にもならないまま静かに終わっていく――そんな「印象に残らない仕事」として位置づけられることが少なくありません。しかし、その印象に残らないという事実こそ、トラブルが起きず、工程も崩れず、業務が正しく仕上がった証でもあります。この章では、原状回復工事という業務が持つ「目立たないが確かな価値」について、あらためて見つめ直してみたいと思います。 5-1.“何も起きなかった”という完成度 原状回復工事に関して、退去したテナントから問い合わせや指摘を受けることは、実際にはほとんどありません。それは、説明の巧拙によるものではなく、そもそも問い合わせを要するような問題が生じていないからです。工事内容は現地確認に基づいて整理され、見積書として提示されます。着工日も事前に案内され、スケジュールに沿って淡々と進行。完了後に特別な立ち会いや追加連絡がなくても、予定どおりに工事が終わり、請求が精算されていく。こうした一連の流れが滞りなく完了しているという事実こそが、業務の完成度を何より雄弁に物語っています。つまり、原状回復工事における「理想的な成果」とは、何も問題が起きなかったという状態そのものなのです。 5-2.“印象を残さない”という、もうひとつの誠実さ 退去テナントにとって、原状回復工事はすでに「完了していく話」であり、会社としても次のオフィス運用へと意識が向かっています。移転準備に追われる総務担当にとって、もはや過去の拠点に時間をかける余裕はありません。こうした状況下で、ビル管理会社側があえて踏み込んだ説明や詳細な対応をすることは、退去テナントも特段求めていません。むしろ、工程どおりの着実な進行と淡々とした精算処理が、自然な納得感を生んでいるのです。「細かくは覚えていないけれど、請求はきちんとしていた」「特に話題にはならなかったけど、何も問題なかった」そうした記憶に残らない納得のかたちは、不満ではなく、成熟した対応への無言の肯定と言えるのではないでしょうか。 5-3.“淡々と、正確に”が積み上げるもの 原状回復工事という業務を下支えしているのは、派手な演出や目立つ成果ではなく、段取りと精度の蓄積です。以下のような一連の流れが、抜けなく、乱れなく実行されることが、信頼の基盤をつくっています。・解約通知を起点とした逆算型の工事スケジュール・現地調査に基づいた明確な工事項目と見積書の提示・ビル管理会社による施工調整と連絡の継続性・工期の遵守と、期日までに完了する精算処理これらすべてが、「揉めない」「引きずらない」「残らない」退去処理を支えており、退去テナントから特に感謝されることはなくとも、“信頼の空白が残らない”という状態を静かに実現しています。目立たなくても、確かに仕事はなされている。その「静かな信頼の積み重ね」こそが、原状回復工事という業務が持つ本質的な価値ではないでしょうか。 終章のことば 本コラムの冒頭で、原状回復工事を「舞台のバラシ」にたとえました。演者が去り、客席が静まり、舞台が何も語らないままリセットされていく――。誰も見ていないようでいて、確かに価値が残されていく、そんな仕事です。原状回復工事とは、記憶には残らないけれど、間違いなく信頼を残していく仕上げの仕事。この静けさの中にこそ、賃貸オフィスビルの運営における、真のプロフェッショナリズムが宿っているのかもしれません。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月22日執筆
 
 
 
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