このビルを“知っている人”が、もういない―記憶の消失と築古の賃貸オフィスビルの未来
皆さん、こんにちは。
株式会社スペースライブラリの飯野です。
この記事は「このビルを“知っている人”が、もういない―記憶の消失と築古の賃貸オフィスビルの未来」のタイトルで、2026年1月15日に執筆しています。
少しでも、皆さんにお役に立てる記事にできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
第1章:ある日、“誰も知らないビル”になっていた
ある日、テナントから漏水の連絡が入った。
上階からの水が天井をつたって落ちているという。現地に急行したビル管理会社の担当者は、すぐに図面を開き、可能性のあるルートを確認した。だが、設備業者と一緒に点検しても、対応する配管も水の通り道はなかった。
図面は形式的には整っている。過去の点検記録も残っている。にもかかわらず、「なぜ水が出たのか」が、わからなかった。
翌週になってようやく、20年前の改修で移設された給水管が、現場で発見される。図面には載っていなかった。施工業者はすでに廃業しており、関係者は誰も、その改修を“知らなかった”。
ここでの説明は架空の想定であるが、こうした出来事は、築古の賃貸オフィスビルの運営において決して珍しいものではない。
建物自体が老朽化しているというよりも、「この賃貸オフィスビルのことを知っている人がいなくなっている」ことが、深刻なリスクになりつつある。
図面、台帳、仕様書、点検記録――形式上の“記録”はあっても、それをどう読めばいいのか、なぜこうなっているのかを語れる人間がいない。
結果として、現場では「判断できない」場面が頻出する。修繕ひとつ、仕様変更ひとつ、すべてが曖昧になる。
記録と記憶のあいだには、大きな違いがある。
記録は書いてあれば残る。だが記憶は、「誰かが知っている」ことを前提としてはじめて効力を持つ。
築古の賃貸オフィスビルの管理において、図面にない知識、言語化されない手順、根拠のない判断の勘所――そうした“記憶”によって維持されてきた部分は、想像以上に多い。
たとえば
- 「この部屋は夜間に照明を落としすぎるとクレームが出る」
- 「このフロアだけは空調のバランスが不安定だから、設定を少し変えてある」
- 「昔、水漏れがあったので、共用部の荷物は壁から離して置くようにしている」
こうした“使われ方の履歴”は、図面に残らない。
けれども、それを知っている誰かがいたからこそ、実務はスムーズに流れていた。
しかし、その誰かは、いずれいなくなる。
長年の担当者が退職したとき、ベテランの営繕が異動したとき、委託業者を入れ替えたとき――
それまで「当たり前」のように運営されていたことが、急にうまくいかなくなる。
設備が壊れたわけではない。図面が間違っていたわけでもない。
けれど、このビルを“知っていた人”がいなくなったことで、現場が迷い始める。
この「誰も知らないビル」になるという状況に陥ることで、
築古の賃貸オフィスビルにおける“価値の揺らぎ”が、物理的な劣化よりも先に起き得るということを、静かに突きつけている。
そしてこのとき、私たちははじめて気づく。
この賃貸オフィスビルの価値とは、「残っている書類」ではなく、「覚えている誰か」によって支えられていたのだと。
だが、「覚えている誰か」がいなくなった賃貸オフィスビル管理の現場で、私たちは、なにを手がかりに、どんな判断を積み重ねていけるのか。
すべてを知ろうとすることは、本当に可能なのか――。
“知らない”現場とどう向き合い、どんなやり方で築古の賃貸オフィスビルの管理・運営を続けていくべきなのか。
その問いを携えて、次章から考えてみたい。
第2章:築古の賃貸オフィスビルの価値は、“知っている人”に宿っていた
築古の賃貸オフィスビルの管理・運営において、図面や台帳、仕様書が完璧に揃っていることは、まずない。
また、たとえ、あったとしても、「どこに何があるのか」「どこが要注意ポイントなのか」を即答できる人がいなければ、実務の現場ですぐに役立つわけではない。
なぜ“人に宿る記憶”がビルの価値を支えるのか
築古の賃貸オフィスビルでは、建物自体の老朽化が進む一方で、日々、使われ、調整され、折り合いをつけながら“運営”が続いていく。
ただし、その日常は、「現場の歴史を知る人」「テナントの事情を知る人」「設備の癖を知る人」――つまり“知っている人”の存在があってこそ、かろうじて現場に絶妙なバランスが保たれている。
1.トラブルの“芽”を事前に摘む力
たとえば設備点検の現場では、
「毎回この配管の音を気にしている」
「去年の夏、この空調だけが止まった」
「この階の照明は、ときどきブレーカーが落ちる」
――そんな、書類には残らない細かな注意点や違和感が、現場を長く見てきた担当者のなかに自然と積み重なっていく。
こうした蓄積があるからこそ、定期点検や日常巡回の精度が上がり、突発的な故障や事故を未然に防げる。
実際、「前の担当者のときは、トラブルが少なかった」と後から気づく場面も多い。
それは、長年現場を見てきた担当者による、“自然に身についた感覚”や“経験に裏打ちされた対応力”があったからだ。
2.柔軟なテナント対応力
築古の賃貸オフィスビルは、得てして、長期入居のテナントが多い。
彼らは時に“イレギュラーなお願い”をしてくるが、これを機械的に「契約外」として断るだけでは、関係が悪化し退去につながることもある。
ベテラン担当者は、「○○さんは毎年この時期、郵便物の受け取りを工夫する」
「このテナントは○曜日だけ残業が多いので、空調を延長する」
といった“クセ”を把握し、ルールの枠内で最大限柔軟に運営する。
この蓄積が、「なんとなく居心地がいい」「管理が行き届いている」というテナント満足度につながり、長期にわたって安定して入居を継続する要因になり得る。
3.管理の現場の“歴史”を知ることで、問題発生を防ぐ
たとえば
- 以前、工事で問題が発生した場所では、必ず立会いをつける
- 雨の日だけ床にタオルを敷く“暗黙のルール”がある
- かつて苦情が続いた区画を念頭に置いて、説明用の資料がストックされている
こうした「なぜ、そうしているのか?」、“知っている人”によって語られ、現場の判断に活かされている。
この情報が途絶えた途端、「重大な事故につながるリスク」や「スリップ事故とテナントからのクレーム」「同じようなクレームが繰り返される」といった問題が起こりやすくなる。
人の記憶がビル運営を“なめらかにする”
賃貸オフィスビルの管理・運営とは、「一見同じことの繰り返し」に見えて、実際は“例外対応”と“微調整”の連続だ。
新しい設備を入れても、マニュアルを整備しても、
「現場を知っている人がいなければ、イレギュラーには対応できない」
現場の“なめらかさ”を作るのは、管理担当・営繕・設備業者――
それぞれが持つ「自分なりの注意点」「工夫」の積み重ねだ。
それでも人は、いなくなる
だが、この“知っている人”がいなくなった途端に、ビルの運営は急にぎこちなくなる。これまで気にも留めていなかった「段取り」や「気配り」が抜け落ち、トラブルやクレームが増える。
そして、「誰も知らない」「なぜこうしていたのかわからない」という事態が、じわじわと広がる。
築古の賃貸オフィスビルの価値を支えているのは、“その場を知る人”に宿った記憶の積み重ねだった。
そうした記憶は、一朝一夕で書類に記録できるものではなく、日々の現場で、人を介して静かに受け渡されてきた。
次章では、この「人に宿る記憶」が消えていくとき、どんな問題が起きやすくなり、具体的にどんな損失が発生するのかを深掘りしていく。
第3章:“記録”の限界と、“記憶”の消失が引き起こす問題・損失
設備台帳、図面、仕様書、マニュアル――
ビル管理の現場では、形式的な記録を「取り揃えておくこと」が重視されてきた。
こうした「書類」がすべてのビル管理の基礎となり、必要不可欠なものであることになんら異論はない。
しかし現実には、書類がそろっているだけでは現場を回しきれない。
特に築年数が古い賃貸オフィスビルほど、「過去の変更」「場当たり的な改修」「担当者ごとの慣例」などが積み重なり、
“書かれていない運用”が多く存在している。
1.「図面と違う」現場が日常になる
築古の賃貸オフィスビルでは、何十年ものあいだに設備更新やレイアウト変更、テナント工事が繰り返される。
そのたびに「図面や台帳も更新されるはず」だが、全てが正確に反映されることは稀であると言えよう。
- 改修時の工事内容が、正確に図面に追記されていなかった。
- たとえば、配管ルートが、途中で“仮設”のまま固定化され、どこにもその経緯が記録されていないケース
- 空調や照明が、現場判断で“臨時結線”され、そのまま使われていたり
- テナント工事の一部を、その場の判断で、現状復旧の対象からハズして、そのまま使われていた。その部分は図面には反映されていない。
その結果、図面と現場の食い違いが増えていく。
【実例:漏水時の混乱】
コラムの冒頭で紹介したエピソードの流れに沿って説明すると。
- 上階からの水漏れトラブルが発生した際、管理者はまず図面で配管ルートを確認しようとする
- ところが、図面上、給水配管は存在しない場所から水が漏れている
- 現場を開けて確認してみて初めて「現状と図面の不一致」に気付く
- 20年前の改修で配管ルートが変更されていたが、その当時の施工担当は既に退職し、その経緯を知る人もいない上、図面も記録もない。
「なぜ、ここから水が出るのか」
「この配管はどこにつながっているのか」
誰も答えられない。
「図面では対応できないので、一度、調査し直さないと、復旧判断ができない」状況になり、調査は広範囲に及び、復旧に時間も費用も想定以上に膨らむ。
2.「理由」が消えた瞬間に、現場判断が止まる
図面、台帳、手順書に、“やり方”は書かれていても、
- 「なぜその順番で作業するのか」
- 「なぜその場所だけ鍵が二重になっていて、その状態が残してあるのか」
その“運用の理由”や“経緯”が引き継がれていない場合、現場の担当者は、とりあえず「前任者がやっていたから…」、そのやり方をなぞる。
もしくは、理由が分からないから、「前任者のやり方」を否定して、
- 意味がわからないままルールを変更し、トラブルが再発する。
- 本当は続けるべき例外運用が“面倒だから廃止”され、後で大きな問題になることもあり得る。
記憶が消えると、「現場の判断」が鈍くなり、運営がぎこちなくなりがちである。
3.“記憶の空白”でコストもリスクも膨らむメカニズム
「詳細がわからない」や「理由が不明」な部分が増えると、設備のトラブル対応にあたって、調査が長引き、責任も曖昧になり、過剰な工事や無駄なコストが発生、現場の混乱が膨らみ、ひいては、テナントの不満へと直結する。
- 本来の現場知が残っていれば
―「この症状なら、まずここを見ればいい」「毎年同じ場所が壊れやすい」など、経験の蓄積により、修繕の判断が的確になり、最短ルートの点検・修理ができる。
―原因箇所をすぐに特定、必要な修理をコンパクトに実施し、対応。
- ・現場の“記憶”や経験の蓄積が途絶えると、設備のトラブル対応は「手探り」や「全部当たる」やり方になりがち。
- ①手順が複雑化する
- ・どこを調べればいいか分からず、「図面やマニュアルを最初からチェックして、順番にすべて開けてみる」という手探りの対応になりやすい。
- ・現場のクセや定番の故障箇所が共有されていないため、「全部当たる」やり方しか選べない。
- ②調査範囲が際限なく広がる
- ・どの部位が原因なのか目星がつかず、「配管・電気系・制御盤」など全分野を調査。その結果、設備会社・管理会社・元請け・専門業者など関係者が増えて、現場での混乱も拡大しやすい。
- ③責任の所在が曖昧になる
- ・「どの部位が原因なのか特定が難しい」「前回修理対応にミス?」「元の業者でないと分からない」など、現場で責任の押し付け合いが発生し、判断や調整が遅れる。
- ④過剰対応/場当たり対応
- ・「部分修理で大丈夫か不安」「リスクを避けたい」と、ユニットまるごとの交換等、コストの大きな解決策を選びやすくなる。
- ・故障やトラブルに対して、原因がわからないまま、都度、一時的な応急処置が繰り返され、結果的にコストが嵩むケース。
4.“知らない”ことで、トラブルの“再発”が日常になる
賃貸オフィスビルの管理の現場では、「記録」や「記憶」が途絶え、担当者が現場の“本当の経緯”を知らないまま対応することが少なくない。
この“知らなさ”が積み重なることで、一度解決したはずのトラブルやクレームが、再び繰り返される――そんな悪循環が日常になる。
たとえば
- 過去の騒音トラブルや苦情、事故などが「どのように対応したか」が後任者に引き継がれておらず、今の担当者が同じ状況に遭遇しても、適切な対応策を知らない。
- 前任者が長年の経験で築いてきた“注意ポイント”や現場のクセが、マニュアルや記録に残っていない。後任者にはその“勘どころ”が伝わらない。
- 清掃等の担当業者が入れ替わるたびに、「同じミス」「同じクレーム」が繰り返される。現場の“要注意ポイント”や過去の失敗例がリセットされ、現場全体の学習が進まない。
これらのトラブルを、担当者の資質、管理体制の個別の問題に帰するのは無理がある。
蓄積された知識や経験が、記録や仕組みとして十分に引き継がれにくいという、
築古の賃貸オフィスビル管理・運営そのものが抱える構造的な弱点とも言えよう。
長年続く現場の知恵や工夫が“人とともに消える”ことで、
一度解決したはずのトラブルが再発し続ける悪循環――
それは、多くの築古の賃貸オフィスビル管理の現場が避けがたく直面してしまう現実といえる。
現場の担当者は、その断絶の只中で――
- 「なぜ自分は今こんな苦労をしているのか」
- 「どうして手順や図面が現場の実態と合っていないのか」
- 「なぜまた同じクレームが出てしまうのか」
――そんな問いに直面しながら、日々の運営に奔走することになる。
“知らない”ことでトラブルの再発が日常化するというのは、築古の賃貸オフィスビル運営の歴史の必然とも言える現象。その根底には、記録/記憶の断絶という、管理の現場にとって避けがたい構造的課題が横たわっている。
5.なぜ“記憶”を記録で置き換えきれないのか
築古の賃貸オフィスビルの“記憶”は、その時々の“人”が、現場で感じ、判断し、工夫しながら受け継いできた“知の流れ”。それを完全な記録・ドキュメントで置き換えるのは困難なので、“知っている人”がいなくなれば、「空白」や「抜け」が生まれるのは、避けられない運命とも言える。
①築古の賃貸オフィスビル管理の現場は“例外”と“暗黙知”の集積体
築古の賃貸オフィスビル管理の現場には、
「こうするのが本来のルールだが、この物件では例外になっている」
「なぜか昔からこうしてきた」
といった、“現場特有のルール”や“その場しのぎの工夫”がたくさん存在します。
- たとえば「週に一度、なぜか決まった時間だけ水圧が下がるので、○○を閉じて対応」
- 「この廊下は、雨の日だけモップを2回かける。理由は説明しにくいが、経験上その方が安全」
- 「この部屋は空調を入れる順番を変えることで、全体の効きが良くなる」
- など、マニュアルでは説明しづらい、“現場の知恵”や“経験則”が大量にある。
②「全てをマニュアル化」は物理的にも心理的にも無理がある
物理的限界
- 築古の賃貸オフィスビル管理の長い歴史のなかで、現場で繰り返されてきたすべての例外・工夫・特別な運用を文字に起こしてまとめるには、膨大な時間と手間がかかる。
- そもそも「言葉にしにくいこと」「いちいち説明しにくいこと」も多く、完璧なドキュメントを作ることは現実的ではない。
心理的限界
- 現場担当者には「自分の工夫やコツを、わざわざ細かく書き残すのは面倒だ」「そこまで教えなくても現場に来ればわかる」と感じる人も多い。
- しかも、一度言語化したとしても、それを更新し続ける“動機”や“余裕”が現場にないことも多い。
- 暗黙知というのは、「体感」「ちょっとしたクセ」「場の空気」「小さな違和感」など、そもそも文章化しにくい性質を持っている。
③たとえ書いてあっても、読まれない・現場で反映されない」現実
- いざマニュアルやドキュメントが存在しても、新しい担当者や現場の業者が、その分厚い資料を最初から最後まで丁寧に読むことは極めて稀である。
- 人は、往々にして「今すぐ困っていること」「目の前の問題解決」に直結しないと、記録を後回しにしがち。
- 実際、マニュアルに書いてあるからといってそれを現場で忠実に再現するより、前任者の“やり方”や“空気”を参考に動くことが圧倒的に多い。
④現場は「状況の変化」に即応し続ける世界
- マニュアル化された手順が“時代遅れ”になっている場合もある。
- (例:10年前の設備更新に合わせて変わったルールが、現場でうまく更新されていない)
- しかもビルごとにテナント構成や利用状況、外部環境も変化していくため、
- 現場担当者が、その都度調整しながら“最適解”を上書きしていくしかない場面も多い。
⑤“知っている人”がいなくなった時点で、「空白」「抜け」が必ず生じる構造
- どれだけ記録を残そうとしても、「本当に必要な知恵や対応力」は、その場その場の“人の判断”や“実感”に宿っているため、完全な引き継ぎは不可能。
- 「ここは何度も問題が起きているから、この順番で点検している」など、“なぜか”に即答できるのは、長く関わった人だけという現実がある。
- そうした人がいなくなれば、どうしても現場知識は“飛び石状”に抜け落ち、
- 「記録があったとしても、なぜそうしていたかが伝わらない」「個別のケースに対応して微調整された対応が途切れる」ことになる。
⑥現場感覚でいう「“抜け”が生じる」瞬間
- 前任者の引き継ぎ資料を見ても、「この点検は“念のため”としか書いていない。その点検の理由・背景までは分からない」
- 「現場のクセ」「肌感覚でわかる微妙なトラブルの兆候」が、資料に残っていない/伝わらない
- 結果として、「とりあえず全部やってみる」や「一度全部調査し直す」という、非効率で高コストな判断につながりやすい。
第4章:完結しないマニュアルと、継承されるリズム
「記憶が消えていく」現実を受け入れるなら、築古の賃貸オフィスビルの管理・運営は「すべてを記録しておけば安心」という幻想を手放すところから始まる。
実際には、どれだけマニュアルや台帳を整えても、すべてを一冊にまとめきることはできない。
では、どうやって“知の断絶”を和らげ、賃貸オフィスビルの管理・運営を持続可能にしていくべきなのであろうか。
1.「完璧なマニュアル」を目指さず、“穴”の存在を前提にする
まず重要なのは、「マニュアル=完全な手順書」だと考えないことだ。
築古の賃貸オフィスビル管理には例外が多すぎる。
- 突発的・例外的な対応が生まれやすい
- 設備の老朽化に伴い、最新設備の標準的な仕様からズレが生じ、特殊な使い方でカバーしている例も多い
- テナントごとにローカルルールが存在する
全てを1つのドキュメントに詰め込もうとするほど、読まれない・使われないマニュアルが生まれる。
むしろ、「わからないことがあるのは当たり前」「抜け落ちが起きる前提で、対応策を用意する」ことが、築古の賃貸オフィスビルの管理においては“現実的な知の態度”だ。
2.“作業手順”ではなく“判断基準”を残す
個別具体的な手順をマニュアル化するのは限界がある。
むしろ、
- どういう場合に相談するか
- どのタイミングで上司やオーナーにエスカレーションするか
- 何を優先すべきか
といった「判断基準」や「判断の分かれ目」こそ、記録しておくべき重要なポイントになる。判断基準が共有されていれば、担当者が変わっても、最低限“考え方”を共有できる。
たとえば、
「定期点検時、異音がした場合は必ず●●業者に即連絡」
「夜間トラブルはテナントに影響がなければ翌朝対応で可」
など、運用に“幅”を持たせる工夫が、属人的なノウハウの一部を共通知に変える。
3.“運営リズム”そのものを記録する
築古の賃貸オフィスビル管理においては、“日常の流れ”そのものが知識の宝庫だ。
- 朝一番に何を確認するか
- ゴミ出しや清掃のタイミング
- 週末や特定曜日にだけ行う習慣的な作業
これらは単なる作業手順ではなく、建物の「リズム」として長年の運用で築かれてきたもの。
新しい担当者がそのリズムをなぞることで、現場の違和感やトラブルが大幅に減る。
「月曜は共用部の備品補充を多めに」
「金曜はエレベーターホールの掲示物を再点検」
こうしたリズムの記録は、チェックリストや週次ルーティン表として簡易に残すだけでも大きな意味がある。
4.「わからない」を記録し、「調べ方」も一緒に残す
完璧な情報を目指すのではなく、
- わからないこと
- 未確認の仕様
- 現在調査中の事項
も正直に記録し、「この部分は誰に・どうやって聞けばいいのか」「調べるときの連絡先・方法」まで含めて残す。
“曖昧さを明記すること”が、後任者の混乱や誤った判断を防ぐ最良の方法になる。
たとえば
「この配管は詳細不明。過去の担当は○○工業の●●氏に聞いていた」
「このテナントの特殊契約は、管理会社経由で確認が必要」
といった、“調べ方”のヒントを残すだけで現場対応が格段にやりやすくなる。
5.「現場で継承される会話」「OJT的な場」を大切にする
ドキュメントだけでは伝わらない“肌感覚”や“現場のコツ”は、
- 形式的にではなく、実際のポイントをまとめた引き継ぎ資料を作成し、引き継ぎの打合せをきっちり行って、情報量、コミュニケーション量を確保
- オーバーラップ期間を設け、ベテラン担当者による現地同行OJT
- 清掃・設備等の業者を交えた情報共有
など、“人から人への口伝”や「場の体験」を通じてこそ残る。
「直接話す」「一緒に見る」時間を業務設計に組み込むことが、知識や判断の「生きた継承」に直結する。
まとめ:完結しないマニュアルを「運用の土台」にする
築古の賃貸オフィスビルの管理・運営では、「完全な記録」を諦め、
- 抜けやすい“ポイント”に目を向け
- 判断の拠り所を明確にし
- 日々の“リズム”を見える化し
- 「知らない」「わからない」も記録しておく
こうした“完結しないマニュアル”を「土台」として回していく。
それが、「記憶」の断絶と「記録」の限界を乗り越える唯一の実務フレームになる。
第5章:現場の“知”の断絶と、当社のビル管理へのこだわり
1.“人”頼みで回してきた現場―中小規模の賃貸オフィスビル管理のリアリティ
●時代背景とオーナー層の特性
1980年代末から1990年代前半――
不動産バブルとともに中小規模の賃貸オフィスビルが大量に建設された。
この時期の中小ビルオーナー層の特徴は、大規模ビルのデベロッパー型とは大きく異なる。
- 地主型:先祖代々の土地を持ち、その有効活用としてオフィスビルを建てた地元地主・資産家
- 相続・節税型:バブル期の金融商品として“節税”や“相続対策”のために建設された家族所有物件
- 中小企業オーナー型:本業とは別に、不動産収入を副業・事業安定化の柱とした中小企業経営者
- 地場建設会社/工務店型:地元の建設会社が自社の施工能力・人脈を使い、自ら保有・運営
このような「個人・家業・地場企業」による所有・運営が、中小規模の賃貸オフィスビルの主流だった。
●現場運営は「組織」よりも「人の顔」で成り立つ
従前、中小規模の賃貸オフィスビル管理においては、大規模オフィスビルのように、
- PM・BMサービスのシステム化・分業体制
- 細かなマニュアル、引き継ぎ書、評価シート
- ビル管理会社の専担スタッフによる“仕組み管理”
…といった“システム”はあまり導入されておらず、少数派。
むしろ――
- オーナー本人や親族が現場に日参し「何でも自分で判断」「自分で見て回る」のが日常
- 長年付き合いのある清掃・設備業者や地元管理人が“顔パス”で出入り。地場のネットワークや「困ったら馴染みの業者」「現場の管理人に任せる」のが当たり前
- 運営体制や管理コストに“組織化”や“マニュアル化”の意識が乏しく、
- テナントも中小企業や個人事業主が多く、困りごとは現場で“融通”して解決
このように、人間関係と属人的ノウハウ、
つまり「○○さんに聞けば分かる」「昔からいる△△さんが全部知っている」――
という“顔が見える管理”が当たり前だった。
- 鍵や備品の管理:
- 「本棚の引き出しにスペアキーがある。場所は管理人しか知らない」
- 清掃やごみ出し:
- 「A社(テナント)は火曜だけ多めにゴミが出る。○○さん(清掃)がその日は早めに回収」
- 設備や点検:
- 「雨の日だけ共用部の排水口を確認する。理由は昔、浸水事故があったから」
- クレーム・トラブル対応
- 「苦情が来たら“いつもの業者”に直接電話」「テナントの“お願い”はオーナー判断で即時対応」
こうした現場知は、書類や仕組みとして残ることはほぼなく、現場に“居続ける人”の記憶と人間関係によって支えられていた。
“仕組み”による管理ではなく、「現場に人がいる」こと、
「その人が知っている・判断できる」ことで、すべてが維持されてきた――
これが現場運営のリアリティ。
2.なぜ「人」頼みが危うくなったのか
前節でも説明したように、中小規模の賃貸オフィスビルでは、長年、現場を知る管理人や地元の業者が要となり、日々の運営が維持されてきた。
だが、時の流れとともに、その現場の構造自体が大きく変わってきた。管理人が高齢化で現場を離れたり、オーナーの相続で経営主体が代替わりしたり、長年付き合いのあった地元業者が廃業・撤退するケースが重なっている。結果として、「知っている人が突然現場からいなくなる」事態が急速に現実化している。
- 管理人が急な病気や事情で現場を離れると、代わりの人間にはゴミ置き場のルールも、共用部の換気方法も、何も伝わっていない。
- 設備会社の若手が、図面どおりに配管を追っても、実際のルートが全く違う。前任のベテランしかその“例外”を知らなかった。
- 担当者が替わって、引き継ぎがされなかったので、テナントは毎年恒例だった工事連絡が急に途絶えた。
これまで自然にできていたことが、「やり方が分からない」「なぜかうまくいかない」という現場の混乱となって表面化する。
●困惑・混乱・迷いが「小さな継承ミス」から一気に表面化する
- 配管から水漏れが起きたとき、図面を見ても分からず、原因を知っていた業者ももういない。
- 夜間照明が消えずに近隣からクレームが入る。その背景には、管理人が交代したことで、いつもの対応ができなくなっていたことがある。
- 清掃会社の担当が新任で、ゴミ出し・ゴミ収集の連携に混乱。前の担当者はどうしていたのかと電話を繰り返しても、誰も要領を得ない。テナントからは「前任担当なら分かるんだけど…」と困惑の声が上がる。
現場の会話ではこういうやりとりが生まれる。
新担当:「この設備、なんで毎年同じ時期に不具合出るんでしょう?」
古株テナント:「あれはね、前の管理人さんが“雨の日はここを一度拭く”って決めてたんだよ」
新担当:「そんなの、どこにも書いてません…」
こうして現場判断が遅れ、無難な全体更新、余計な調査、必要以上の安全対策が増え、運営コストは膨らむ。
●仕組み・記録だけでカバーできない“現場知”と、その抜け落ちリスク
現場知は、仕組みや記録だけでカバーしきれない領域が広い。
- イレギュラーな清掃ルールや、古株テナントとの“口約束”
- 「○号室だけ窓を絶対に開けてはいけない」という謎ルール
- 数年前の臨時工事の経緯、「このコンセントはブレーカーを落とすと自動復旧しない」などの特殊対応
これらの現場知による対応は、日常のOJTや口伝、現場同行のなかでしか伝わらなかった知識で、ドキュメント化しにくい。もし、ドキュメント化されていたとしても、実際には“読まれない・使われない・更新されない”ことも多い。
大雨で共用部に水が溢れた現場がある。前の管理人は台風の日だけ排水溝のゴミを手で取っていたが、新担当はそのことを知らない。台帳にも記載がなく、事後的に「なぜ事前に気づけなかったのか」と指摘される。
こうして、「人頼み」で支えられていた現場は、知っている人が抜け落ちた瞬間に、そのほころびや危うさが一気に露わになる。
この断絶をどう補い、どこまで受け渡すかが、中小規模の賃貸オフィスビルの管理に突き付けられている課題となっている。
3.PM・BMサービスの現場的な意義――当社のビル管理に対するスタンスと具体的運用
「人頼み」でなんとか回っていた中小規模の賃貸オフィスビルが、管理人や地元業者の高齢化・引退、オーナーの相続・交代などによって“現場知の断絶”に直面している。その現場では、「誰が・どこまで・なぜ判断してきたか」が急に分からなくなり、トラブルやクレームの再発、過剰な安全策や無駄な工事コストが膨らむ現象が目立つ。
こうした状況に対し、当社は中小規模の賃貸オフィスビル管理を専門領域とし、組織的で効率的なPM・BMサービスを現場に根付かせてきた。ビル管理を受託するにあたって、「属人的な経験やノウハウ」を“仕組み”として現場に組み込むことに注力している。
たとえば、月次の管理レポートでは、「今月どこでどんなトラブルがあったか」だけで終わらせない。「なぜそのトラブルが発生したのか」「当時現場でどんな判断が下されたか」「どういう予防や準備をしていたか」「この判断は他の担当者や次世代にも再現できるのか」といった“意思決定の経緯”まで踏み込んで記録している。現場の日常で生まれる例外対応や、ベテラン管理人が口頭で伝えてきた“現場のコツ”も、特別な出来事として管理レポートに積極的に残す。
照明の延長要望が毎年同じ時期に出る場合、その「理由」や「手順」だけでなく、「なぜこの要望が生まれるのか」「現場で実際どんな工夫や調整が行われているか」まで記述する。
共用部排水の“特定担当による事前対応”も、過去の大雨時の失敗や、どのテナントからどんな指摘があったのか、その履歴ごと現場メモとして共有される。
引き継ぎ時は、必ず新旧担当者が“現場同行”を実施し、台帳や書類だけでは伝わらない「現場のクセ」や「気をつけるべき例外事項」をOJTで体感的に手渡す。このOJTは、「昔は誰かの記憶頼みで継承されていたもの」を、意識的に“体験として共有する”場として設計している。
全部をマニュアル化しようとすると、現場の負担が増し、情報の鮮度や実効性も落ちやすい。
そこで当社は、「すべてを記録する」のではなく、「どこが特に危ないか」「ここだけは必ず伝えるべきか」「なにが“現場のブラックボックス”か」という要所を押さえ、部分的な“知の橋渡し”を続けることを重視している。
現場レビューや不明点リストなどもその一環。たとえば、「このエリアの設備は図面と実際が違うため、必ず現場で再確認すること」「この配管は図面上不明な分岐あり、過去の修繕履歴を参照してから対応すること」など、ブラックボックスや抜けやすい箇所を“あえて目立たせておく”工夫も取り入れている。
当社ビル管理のPM・BMサービスは、全部を一つなぎにする“完全継承”を目指すのではなく、“抜け”を最小化する。担当者・業者の交代や、管理・運営体制の変化があっても、日常の現場レビューやレポート、OJTの仕組みを活用し、最低限の知識や判断の根拠が継続して受け渡される。属人的なノウハウや“現場感覚”に頼りきりだったビル管理から、現場知の部分継承による運営品質の安定――それこそが、当社が中小規模の賃貸オフィスビル管理において積み重ねてきた独自のノウハウであり、現代的な賃貸オフィスビルの管理・運営の現場力になると考えている。
第6章:「語れるビル」とは何か――現場・経営・市場をつなぐ「物語」の力
築古・中小規模の賃貸オフィスビルが、単なる“古びた資産”で終わるのか、それとも“選ばれ続ける存在”であり続けられるのか。その分かれ目は、「ストーリー=語れるもの」をどれだけ積み重ねられているのかにかかっている。
賃貸オフィスビル管理の現場から、賃貸オフィスビルの経営判断、さらには市場での資産評価に至るまで、「語れる」ことがどのように重要になるのかを見ていこう。
1.現場レベル:「現場の知」の積み重ねが管理力を支える
現場の運営において、「なぜこの運用方法なのか」「なぜこのルートやルールなのか」を説明できることが極めて重要だ。このような「語れる現場」では、設備トラブルや日常管理の問題が発生した際も、迅速で的確な判断ができる。
たとえば、配管や空調設備、照明設定、共用部管理のような日常的な業務やトラブル対応であっても、その背景や経緯、過去の経験を現場スタッフが語れることにより、
- 問題原因の特定が迅速になり、現場対応の精度が高まる。
- テナントや業者、管理関係者から理解や納得が得られ、信頼感が向上する。
- 引き継ぎや担当者交代の際も、経験や判断基準が途切れず、「地続き」の管理が継続される。
逆に、「誰がいつ決めたのか分からない」「理由もわからないまま続けている」という現場では、判断に迷いが生じるため、過剰な修繕や場当たり的な対応になりやすく、テナントや関係者の信頼も損ないやすい。
現場レベルで「語れる知識・履歴」があることが、日々の実務レベルの管理品質を支えるのだ。
2.経営レベル:「語れる理由」が投資判断・資産価値を支える
経営の視点でも、「なぜこの設備になっているのか」「過去にどのような判断がなされたか」「どんな改修やトラブル履歴があるか」を語れることは、経営判断や資産価値に直接的に影響する。
具体的には、
- 修繕計画や設備投資の判断に、確かな根拠と自信を持つことができる。
- 物件の魅力を「データ」と「物語」の両面から語ることが可能となり、テナントに対する説得力や安心材料として機能する。
- 「長年事故が起きていない」「特殊な運用にも理由がある」ことを明確に説明できるため、長期入居やテナント満足度の向上につながる。
さらに、オーナーチェンジや売却の際も、建物の状態や履歴をスムーズに説明できれば、「見えないリスク」が軽減され、物件の資産価値維持や向上に直結する。経営者にとって「語れること」は、自信ある意思決定を支える強力な武器となるのだ。
3.市場レベル:「語れる資産」が差別化・ブランディングを生む
現場と経営の双方で積み重ねられた「語れる」知識や履歴は、市場レベルでのブランディングや差別化を可能にする。
具体的には、次のようなストーリーが市場での強力なPRやリーシング戦略の材料になる。
- 「長期間、同じ業者・担当者が丁寧に管理を継続している」
- 「長期入居のテナントが多いのは、現場の柔軟な対応力と経営判断の積み重ねがあるから」
- 「地域で語り継がれる歴史や、過去の失敗経験を活かした独自の運用ノウハウがある」
こうした物語がある物件は、投資家やテナント、仲介業者にとって安心感や信頼感を与え、「選ばれる資産」となる。一方で、「なぜこうなったのか分からない」「要注意箇所を誰も説明できない」物件は、次のような評価を受けやすくなる。
- 新規投資家や買い手にとって「リスクが不透明な物件」と見なされ、取引が難航する。
- テナントや管理会社にとっても「不透明」「不安」という評価になり、入居や管理受託が敬遠される。
- 物件引き継ぎの際、ゼロから調査や検証が必要になり、余計なコストや手間、トラブルの種となる。
市場レベルでの競争力・差別化という観点からも、「語れる資産」であることが大きなアドバンテージとなるのだ。
4.「語れる」状態をつくるための実務と組織的工夫
現場で蓄積された「語れる知識」が経営判断の確実性を支え、それが最終的に市場における物件の価値向上や差別化につながる。「語れるビル」であるかどうかが、現場から市場までを貫く物件運営の本質的な競争力となっているのである。
「語れるビル」を実現する鍵は、単なる記録の多さではなく、「現場に語りをどれだけ残せるか」にある。具体的な実務としては、以下のような取り組みが効果的だ。
- 日常管理レポートや年次報告書に、トラブル対応の経緯や判断理由、特例運用が生まれた背景までを丁寧に記録する。
- 引き継ぎや現場OJTの場で、「なぜこの運用か」を口頭でも具体的に共有し、「語り」を現場担当者に継承する。
- 業者やテナントが語る現場のエピソードや「昔話」を記録し、メモや報告書の一部として残し、日常的に蓄積する。
- 「分からない」「経緯が曖昧な部分」もあえて明示し、調査・共有を継続することで、「語れる範囲」を組織全体で徐々に広げる。
物件ごとの「語り」を充実させるには、「すべてが説明されているマニュアル」を作るのではなく、現場や運営の歴史を「編集し、伝える力」を高めることが重要になる。この編集力は、現場の担当者個人に依存するのではなく、ビル管理会社全体で、PM・BM双方のチームを縦断して、組織的に取り組み、次世代へ引継ぐべき実務スキルである。
5.まとめ――「語れる」ことで築古賃貸オフィスビルの未来を守る
新築の賃貸オフィスビルや、リニューアルしたばかりのビルも、時が経てば必ず古くなる。だが、「語れる知識」や「現場の物語」をしっかりと蓄積し、継承しているビルは、古さ自体が「安心感」や「ブランド価値」に転換され、選ばれる理由を保ち続けることができる。
記憶やストーリーが継承されることで、運営品質・資産価値・ブランド力という三つの要素を同時に高められる。築古物件が多いこの時代において特に必要なのは、部分的な継承でもいいから、「語りが絶えないビル」へと運営現場を進化させていく現場力と意識である。
「語れるビル」こそが、競争力を保ち続け、築古賃貸オフィスビルの未来を支える鍵となるのだ。
終章:“誰も知らないビル”で、私たちはなにを始められるのか
築古の賃貸オフィスビルには、かつて「すべてを知っている人」がいた。設備の癖、ルールの由来、過去のトラブル対応まで――現場の運営は、その人の身体と記憶の中でなめらかに回っていた。
だが、時間が経ち、人が入れ替わり、知識は引継がれずに断絶していく。
残されたのは、
「なぜこうなっているのか分からない」
「理由を思い出せない」
という、“抜け”や“空白”に満ちた現場だった。
そんなとき、私たちは問い直さなければならない。
――わからないことを、そのまま放置するしかないのか。
――語れないまま、建物がただ古びていくのを見守るしかないのか。
◆“知らなさ”は、本当にリスクなのか?
これまでの章では、「現場知の断絶」や「語れることの価値」を繰り返し論じてきた。
語れないことは、リスクになる。
語れることは、信頼と価値につながる。
だが、ここで一度立ち止まってみたい。
私たちは本当に、「すべてを知っている状態」だけを望んでいるのだろうか。
あるいは、
「この部分だけは、もう誰にも説明できない」
――そんな“わからなさ”そのものを、築古の賃貸オフィスビルの新しい出発点として受け止めることはできないだろうか。
◆“わからなさ”と“語れること”のあいだにある可能性
現場の空白や知識の断絶は、たしかに不安や判断の迷いを生む。
だが同時に、それは新たな問いの出発点でもある。
「なぜこうなっているのか?」
「このやり方は、本当に妥当なのか?」
“すべてが分かっている”現場では生まれなかった問い。
“知らない”からこそ、違和感が生まれ、意味を探し始める。
それは、マニュアルの通りに管理するのではなく、現場自身が自ら意味を編み直していく、主体的な運営の始まりである。
このとき重要なのは、「語れること」と「語れないこと」をはっきり区別することだ。
語れないことを正直に受け入れ、あいまいさを見つめ、そこから「どのように語り直していけるか」を考える。
その積み重ねが、抜けのある現場に新しいストーリーを編み直す力になる。
◆「語れるビル」は完成形ではない
「語れること」を増やすこと自体を目的にしてしまっては、本質を見失う。
大切なのは、「語れない部分がある」という事実に気づき続けること。
そして、その“抜け”こそが、新しい意味やストーリーが芽吹く土壌になるということだ。
- 昔の記憶が消え、語り手がいなくなったとき
- 現場に“わからない”が積み重なってきたとき
私たちは初めて、「いま・ここ」で何を知り、何を意味づけるかが問われる。
「この抜けは、なぜ生まれたのか?」
当に知っておくべきことは、何だったのか?」
ある現場は、どんな小さなストーリーからでも再構築できるのではないか?」たとえ記憶が途切れていても、その“抜け”を起点に、現場のストーリーを紡ぎ直すことはできる。
それは、語れる/語れないという二項対立を超えて、「語れなさ」にも意味を見出す、静かで根源的な営みである。
◆未来への余韻――“抜け”と“曖昧さ”から始まる運営
「すべてを知っていた人」がいなくなった現場は、もう過去には戻れない。
だがそれは、終わりではない。
むしろ今は、「抜け」を認識し、「曖昧さ」を見つめ、それらに問いを重ねていける時代になった。
すべてを知ろうとする焦りから一歩離れて、
「ここは、誰も知らない」
「この部分だけは、語れない」
――そんな“空白”を見つけ、その都度、小さな問いを立て、意味を積み重ねていく。
そして、そこにまた新たな“語り”が生まれる。
“語れるビル”とは、単に情報が蓄積されたビルではない。
“知らなさ”を抱えながらも、それを受け入れ、問い続けることで、静かに、しかし確かに語り継がれていくビルである。
「誰も知らないビル」で、私たちはなにを始められるか。
その問いに、完璧な答えはない。だが、はっきり言えることがひとつある。
“わからなさ”を見つけ、それと共に歩む現場には、かならず新しい知と物語が芽吹く。
この時代に築古ビルを受け継ぎ、運営するということは、
過去の記憶を守ることではなく、「これからの語り」を静かに始めていくことだ。
未来の築古賃貸オフィスビルは、そうして生き延びていく。
“語れなさ”から、また語り直すという営みとともに。
第6章の内容(語れるビル=現場知や歴史を説明できるビル)の流れを踏まえつつ、実際の管理レポート(報告書)にどう「語り」や「記憶の継承」を反映するかというイメージで、具体例としてレポート文を作成します。
「築古の賃貸オフィスビルの月次管理レポート」の体裁で――
- 通常の点検・対応項目
- トラブルや対応経緯の記述
- “なぜそうなったのか”の補足説明
- 引き継ぎのための「歴史」や「背景」を盛り込んだ“語れる管理レポート”
- という形を例示します。
2025年6月〇〇ビル月次管理レポート(抜粋)
- ・共用部清掃は特記事項なし
- ・1階エントランス右側照明の交換対応
- ・3階女子トイレ:週末に詰まり発生、対応済み
- ・6/8、テナントより「床が濡れている」との連絡あり
- ・点検の結果、シンク下の配管ジョイント部からの微細な漏れを確認
- ・即日、協力業者(△△設備)にてパッキン交換・仮補修を実施
- ※この給湯配管は、2005年改修時にルート変更されているが、現行図面に反映されていなかった
- ・2006年・2016年にも同様の水漏れ対応履歴があり、毎回ほぼ同じ部位でのトラブルであることを確認
- ・担当者間の口頭伝承のみで管理されていたため、本レポートで履歴を明記し、今後の対応時に参照できるよう記録する
- ・月例点検時、操作パネル反応の遅延が見られたため、追加調整を実施
- ・担当業者より「築年数により部品劣化が見られる」との助言あり
- ※2000年代から同じ業者(□□メンテ)が担当、前担当者が2012年時点で同症状を記録
- ・新担当者より「過去の点検記録が断片的」との指摘があり、今回以降は履歴をまとめて保存・次担当へ共有することとした
- ・2階A社より「夜間の共用部照明について」、定時消灯時間後の延長要望あり(毎年6月のみ繁忙対応)
- ・前任担当より『A社は例年この時期のみ延長希望』との口頭伝承あり
- ・本年度も同様に1時間延長設定。今後、引き継ぎ時に履歴メモを明記のこと
- ・1階裏手ごみ置き場は、以前台風時の浸水リスクが指摘されていた(2014年・2017年)
- ・現担当者は現場巡回時に「壁際ではなく中央にゴミをまとめる」ルールを維持中
- ・こうした“暗黙ルール”がテナント・清掃会社間で薄れつつあるため、ルール由来を今月レポートで明記
- ・「5階給湯配管」は今後も要観察。配管ルート不明部は再度現場確認のこと
- ・エレベーター部品は次回点検時に詳細写真も残すこと
- ・「A社の照明延長」「ごみ置き場の配置」など、例年の“慣習”や“経緯”を次回担当へ伝達すること
- ・履歴や「なぜ」も明記し、次世代担当者が「このビルの語れる部分」にすぐアクセスできるようにする
- ・トラブルや運用経緯に「背景・由来」を残し、単なる点検・清掃記録にしない
- ・“暗黙ルール”も説明付きで言語化、「いつ・誰が・どんな判断で」を付記する
- ・毎月の“気づき”や“現場メモ”を未来の管理者・オーナーに“語れる資産”として積み上げていく
-
本ビルの運営には現場担当者の“語れる履歴”や“経験知”がトラブル抑止に寄与している面が大きい。
特に設備系・テナント対応では「なぜ今こうしているのか」「これまでどう対応してきたか」を、履歴と一緒に伝えることが現場安定に直結している。
今後も「不明点」「例外運用」は記録化し、管理会社内外の引き継ぎ時に“語れるレポート”として運用していくことが重要と考える。
“現場知”と“関係性の連続性”を守り、築古の賃貸オフィスビルの未来価値を底上げしていく――
執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁
東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。
2026年1月15日執筆