なぜ空室が埋まらない?──行動済学で読み解く「オーナーの盲点」と実務的処方箋
皆さん、こんにちは。
株式会社スペースライブラリの飯野です。
この記事は「なぜ空室が埋まらない?──行動経済学で読み解く「オーナーの盲点」と実務的処方箋」のタイトルで、2025年12月12日に執筆しています。
少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
第1章:平均に惑わされるな──“空室ナゾ”の正体
1.東京の賃貸オフィスビル全体で見れば「順風」のはず
2025年4月、三幸エステートが公表した都心5区オフィス空室率は3.70%。
足元、下げ止まっているようにも見えますが、コロナ禍後に付いたピーク(2022年10月・5.13%)からは着実に水準を切下げて推移しています。
こうした数字を目にすると、
「もう空室は心配する局面ではない。需要は戻った──」
と感じるオーナーは少なくありません。しかし実際の現場では、違う景色も広がっています。
出典:三幸エステート「東京オフィスマーケット」エリア別時系列データ
2.“置き去り”になりかねない築古・中小規模ゾーン
三幸エステートは同じレポート内でビル規模別の空室率も公表しています(基準階面積による区分)。
フロア面積200坪以上=大規模ビル空室率3.55%。
発表されている空室率の数字だけで見ても1%程度の格差が存在します。
さらに、現場の声を仲介会社にヒアリングすると、大規模ビルは平均4か月程度でリーシングの目途が立つ一方、「半年どころか1年以上動かない30-100坪区画」が都心でも散発している─という声が複数挙がっています
つまり“平均”が示す順風ムードの裏で、築古・中小規模ビルが取り残されるる構図が浮かび上がります。
3.統計の落とし穴──“厚い尻尾”という盲点
月次統計はサンプルが広いため、極度に稼働率が低い物件(築年数が古い・設備が旧式など)が平均値に埋もれやすい──これが“厚い尻尾”問題です。
行動心理学で知られる
•可用性ヒューリスティック:目立つ「平均値=順風」報道が意思決定を支配
•正常性バイアス:自ビルもそのうち平均へ回帰すると信じ込む
が、オーナーの判断を鈍らせがちです。
「都心平均が4%割れなら、うちもすぐ決まるはず…」
しかし実際のリーシング成否は、築年数・耐震性・空調年式・天井高・区画サイズ・賃料水準・駅距離・募集タイミング…といった個別要因の掛け算で決まります。平均値だけを拠り所に判断を先送りしている間に、競合物件の改善は進み、自ビルの競争力は相対的に低下しがちなのです。
第2章:認知バイアスが賃料設定を歪める
1. アンカリング効果──「言い値」が心を縛る
賃貸市場では、最初に提示した募集賃料(アンカー)がその後の交渉レンジを強く決定づけます。実験研究によると、不動産のプロである不動産鑑定士や仲介担当者でさえ、最初に提示された価格からほとんど離れられなくなることが確認されています。これは「アンカリング効果」と呼ばれる心理的現象です。
たとえば、あるオーナーが市場相場より高めの賃料を設定して募集を開始すると、それが基準となり、実際の成約価格への調整を行うことが難しくなります。その結果、市場の動きから取り残されて、空室が長期化するリスクが高まります。
実務への示唆
・「まず高く設定し、後から値下げを検討する」という戦略は、交渉範囲を狭め、結果として市場適正価格からの調整が遅れる。
・定期的(30日毎)にマーケットの最新成約事例と比較して、募集賃料を柔軟に調整するためのチェックポイントを設ける。
2.損失回避──「値下げは損」という錯覚
心理学的に人間は、利益を得ることよりも損失を避けることに強い動機を持つ傾向があり、これを「損失回避」といいます。MSCIによるグローバルな不動産市場調査でも、物件の市場価格が取得価格を下回ると見込まれる場合、所有者が売却を躊躇するため市場の流動性が最大50%も低下する事例が報告されています(取上げられたのは、2023年のロンドンと香港での事例)。
賃貸オフィスビル市場においても同様の現象が見られます。オーナーが設定した賃料を「値下げ」する行為自体が心理的に「損失」と感じられるため、価格を適切に調整できず、空室期間が延びるケースが頻繁に起こります。
実務への示唆
・賃料の見直し時には、「想定空室損失額×想定空室期間」を計算し、賃料値下げによる「機会損失」の方が大きいことを数値的に可視化する。
・値下げを提案する際は「期間限定」や「段階的な賃料設定」とすることで、心理的負担を軽減し、永続的な損失という認識を緩和する。
3.ステータス・クオバイアス──「現状維持」が生む先延ばし
人間は、変化を嫌い、現状維持を選びやすい性質があります。長年同じ賃料設定を維持している物件では、この「ステータス・クオバイアス」によって賃料改定や設備更新、インセンティブ導入が先送りされがちです。これは一見、コストゼロの選択のように見えますが、実際には市場での競争力を徐々に失わせるという「見えないコスト」を生んでいます。
実務への示唆
・半年ごとに競合物件の設備やサービス状況を比較・評価し、保有物件との仕様の差を把握する。
・賃料改定案を提示する際には「据え置き」「インセンティブ追加」「段階的賃料設定」の複数の選択肢を併記し、現状維持以外の選択肢と比較し検討する。
4.サンクコスト効果──“改修費を回収したい”執着
過去に多額のリニューアル費用を投じたビルオーナーほど、高い賃料設定を維持しようとする傾向があります。これは「サンクコスト効果」と呼ばれる心理的傾向で、過去の投資を回収したいという心理が働くために、現実の市場価格と乖離してしまうことがよくあります。
しかし、テナントが評価するのはあくまで現在から未来にかけての効用であり、過去の投資額を考慮して高賃料を設定することは成約率を低下させる要因となります。
実務への示唆
・過去の改修費用は耐用年数と稼働率を基準に、客観的な収支シミュレーションに基づいて価格設定の根拠とする。
・投資後には「プロジェクト後評価」を導入し、投資効果の客観的評価を習慣化することで、サンクコストに引きずられることなく合理的な意思決定を行う。
5.処方箋:バイアスを外すための三つのプロセス
認知バイアスの影響を最小限にするためには、以下のようなプロセスを定着させることが重要です。
・第三者による客観的視点の導入、リファレンス・レンジの可視化:
ビル管理会社とも相談し、客観的視点も取り入れながら、継続的にアップデートされている、周辺の対抗物件の成約情報に基づき、市場のレンジを把握できるシステムを作る。
・ダイナミックプライシングの導入:
空室期間や問い合わせ数などの指標を定量化し、それに基づいて賃料を月次で柔軟に調整できる仕組みを構築する。
これらを通じて、バイアスの影響を受けにくい客観的なデータに基づいた合理的な賃料設定が可能になります。次章では、内覧時の印象に影響を与える「ハロー効果」と「帰属エラー」に焦点を当て、具体的な改善策を解説します。
第3章:内覧者の第一印象を読み取り、“整える”
1.ハロー効果──“入口7秒”で勝負は決まる
心理学でいうハロー効果(Halo Effect)は、ひとつの際立った特徴が全体の評価を決定づけてしまう現象です。特にオフィスビルの内覧では、内覧者はビルに足を踏み入れてからわずか約7秒で、「ここを借りるかどうか」を無意識的に判断すると言われます。この極めて短い時間内に感じ取る照明の明るさ、空気のにおい、壁や床の汚れ、雑多な掲示物などが、内覧者の第一印象を大きく左右します。
例えば、暗くくすんだ照明や嫌なにおいは「古い」「管理が行き届いていない」という印象を即座に与えてしまいます。逆に、明るく清潔感がある環境は、その後の内覧評価に大きなプラスの影響を与えます。
実務への示唆
・共用部の照明は、少なくとも照度300lx以上、色温度は昼白色5,000K前後を目安に調整し、清潔で明るい印象を作る。事前に照度測定の上、器具清掃で対応しきれない場合、交換対応。
・アロマなどによる香りの追加よりも、換気設備の改善や排水管の定期的なメンテナンスで無臭環境を維持することが重要。加えて、室内CO₂濃度を測定し、1,000ppmを超えていたら換気計画を再構築
・掲示物はシンプルに整理し、視覚的な雑音を減少させ、空間の印象をすっきりと整える。
・床・壁の黒ズミ・欠けは事前に確認の上、リスト化し、清掃を徹底し、必要に応じて塗装・改修対応。
2.帰属エラー──“原因”を取り違えるテナント心理
帰属エラー(Fundamental Attribution Error)とは、何らかのトラブルや不備の原因を「内部要因(ビルの管理能力や運営姿勢)」に誤って帰属させる心理的傾向のことです。オフィス内覧時に設備や清掃の問題が一つでも目に入ると、内覧者はそれを「管理が杜撰」と短絡的に捉えてしまいます。
実際には偶発的な問題であっても、一度形成された負の印象を取り消すのは非常に困難です。内覧時にエレベーターの待ち時間が長いだけで、「このビルは設備が古くて使いにくい」という評価を受けやすくなります。
実務への示唆
・騒音対策:屋上機械音・近隣工事音が内覧中に響くと、「全天候でうるさい」と決めつけられがち。静かな時間帯を選んで内覧を設定。避けられない場合は、騒音源の稼働・作業スケジュールを掲示して、悪印象の低減を図る。
内覧動線上の扉開閉音・床鳴りを実測(dB)し、基準値60dB以下に抑制
・エレベータ待ち時間の心理補正:待機が30秒を超えると“不具合”と解釈されやすい。混まない時間帯を選んで内覧を設定。内覧に対応して、プレリコール設定で待機させておく。
・清掃・設備点検の透明化:当日清掃箇所や設備点検中エリアは、掲示で「改善プロセス」を明示。排水トラップ交換・ダクト清掃の実施履歴を掲示。管理プロセスを開示して信頼感向上。
3.ミニマル・リニューアルで最大効用を得る打ち手
予算や演出の制限を踏まえ、最小限の改善で最大限のハロー効果を引き出すための具体的な施策を以下に挙げます。それらの施策は、既存テナントの満足度を高める上でも有効です。
| 打ち手 | コスト感 | 具体的ポイント |
|---|---|---|
| LED照明交換 | 1.2万円/本 | 色ムラ・暗所を解消し床/壁を明るく見せる |
| 床タイルの部分的張替え | 6,000円/㎡ | 張替入口3×動線を重点補修し印象を集中強化 |
| 配電盤や給湯扉の塗装 | 3万円/扉 | 色調を統一して、“汚れポイント”をフラット化して視線を散らさない |
| ビル内サイン刷新 | 30万円 | フロア案内を刷新して、印象を一新 |
第4章:エンドウメント・エフェクト(保有効果)の罠──「わが子ビルは特別」症候群を克服する
1.保有効果とは何か──愛着が価格を歪める
行動経済学におけるエンドウメント・エフェクト(保有効果)とは、自分が所有する資産や物件を、市場で客観的に評価される価値よりも高く見積もってしまう心理現象です。
特に賃貸オフィスビルのオーナーは、自らが長年運営し管理してきた物件に強い心理的な愛着を感じているため、市場価格と比べて過大評価をしやすい傾向があります。
心理学者のダニエル・カーネマンらが行った著名な研究によると、人は所有している物を手放す時には、その物の市場価格よりもはるかに高い価格を要求することが分かっています。
実際、コロンビア大学の研究では、不動産資産に関して人々は平均で市場価値よりも11~23%高い評価をすることが明らかになっています。また、テナントとの賃料交渉の場面では、この保有効果によってオーナーが値下げに約30%以上も強い抵抗を示すことが報告されています。
2.「わが子ビルはプレミア」という錯覚──実際の評価ギャップ
特に築年数が古い中小規模のビルでは、この評価ギャップが顕著に現れます。
2024年の首都圏を対象にした調査では、オーナーが自ら設定した希望賃料と実際に市場で成約する賃料との間に、平均して12.8%の差が見られました。これは築年数が長くなればなるほど拡大し、特に築40年以上の物件では15.6%もの差がありました。さらに、オーナー自身が以前テナントとして入居していたような物件では、その評価ギャップは18.1%まで拡大することもあります。
こうした実態は、「自分が大切にしてきたビルは特別である」という感情的な評価が、実際の市場評価を大きく上回ってしまうことを明確に示しています。
3.過大評価が招く経済的損失
このような保有効果による評価ギャップが存在すると、以下のような経済的な負担を引き起こします。
・リーシング損失:市場の相場よりも高い賃料を設定することで、潜在的なテナントから敬遠され、空室期間が長引く傾向にあります。具体的なデータでは、相場より高めの設定をすると、空室期間が平均で3〜4か月伸びることが報告されています。年間ベースで見れば、本来得られたはずの賃料の約25〜30%を失うことになります。
・資本効率の悪化:賃料収入の遅延は、ビル管理・メンテナンス、ローン返済などに必要なキャッシュフローを圧迫し、設備投資のタイミングを逸する原因になりかねません。結果的にビルの競争力をさらに低下させる悪循環を招いてしまう可能性があります。
4.保有効果を克服するための具体策
この心理的なバイアスを克服するために、以下の具体的な施策が有効です。
| 視点 | 実務的施策 | 具体的成果 |
|---|---|---|
| 第三者評価の導入 | ビル管理会社を介して、仲介業者へのヒアリング/不動産鑑定士による査定を実施し、市場価格を意識する | 市場との評価ギャップを5%以内に抑える |
| 市場データの可視化 | 地域の賃料相場をマッピングなど視覚的に把握できるツールを活用する | 自物件の相対的な価値を客観的に認識できる |
| 逆オークション方式の導入 | 賃料をやや低めに設定し、入札方式で市場適正価格まで競り上げる | 平均成約賃料を5~10%上回る実績 |
5.意思決定を合理化するための5つの具体的ステップ
感情的・アドホックな意思決定から脱却し、より合理的な判断を可能にするために想定されるプロセスは以下の通りです。
①賃貸オフィスビルの市場データの収集と更新:定期的に競合ビルや地域の賃料動向を収集し、客観的なデータベースを構築する。
②価値ギャップ分析:保有物件の仕様・賃料を、前項で収集した競合物件のデータに基づき比較し、明確なギャップ分析を実施する。
③複数シナリオでのキャッシュフロー試算:賃料下げ、設備更新、売却といった複数のシナリオで収益性をシミュレーションし、経済的合理性を判断する。
④第三者機関によるレビュー:ビル管理会社のサポートの下、必要に応じて、外部の不動産鑑定士の評価を取るなどして、第三者の視点からの提言・提案を受け取ることで主観を補正する。
⑤意思決定ルールの設定:事前に、IRR(内部収益率)や市場との乖離幅などの具体的な基準を決定し、それに基づいて意思決定を行う。
第5章:先延ばしバイアスが空室連鎖を生む──“今は様子見”の高すぎる代償
1.先延ばしバイアスとは何か
行動経済学における先延ばしバイアス(Procrastination Bias)とは、すぐに行動することの利益を過小評価し、将来的な行動を「後でも間に合う」と考え、行動を遅らせてしまう心理的傾向を指します。不動産のリーシング業務においても、このバイアスは頻繁に見られます。
具体的には、オーナーが「退去の知らせが入ってからでも十分対応できる」と判断し、事前に準備や対策を怠ることが該当します。このような心理的な遅延が発生すると、結局は空室期間が延びてしまうという事態につながります。
米コーネル大学が行った調査によると、オフィス物件が空室になった際の1ヵ月あたりの機会損失を提示されても、46%のオーナーが「2ヵ月程度の空室期間なら許容範囲」と回答しました。しかし、実際には3ヵ月以上空室が続くと市場価値が平均で約5.4%下落するというデータがあります。このように、オーナーは損失が発生しても、その実感が遅れるため、行動が後回しになりがちなのです。
2.空室連鎖メカニズム──“1→3→6ヵ月”のドミノ現象
一つでも空室を放置すると、連鎖的に状況が悪化します。具体的には、次のようなプロセスを経て負の連鎖が生じます。「1→3→6ヵ月」のプロセスは、“心理+統計”で裏打ちされています。また、この負の連鎖は隣接区画にも波及しやすく、「空室→印象劣化→紹介減→賃料下落」というドミノを早期に断ち切る必要があります。
| 経過 | 主な現象 |
|---|---|
| 1か月 | 美観劣化が始まる – 照明間引き/清掃頻度を週1以下に落とすと共用部の雰囲気が“空きビル感”に転じる |
| 3か月 | 紹介頻度が低下 – 仲介は「長期化リスク帯」と見なし、他物件を優先し始める 不動産系総研の調査によると、募集終了区画の中央値は5か月 →3か月経過で「折返しを過ぎる分岐点」 |
| 6か月 | 業界慣行で、賃貸条件の悪化が不可避 – 募集180日超の区画は、賃料▲5–10% フリーレント6ヵ月以上の付与率が2割以上 |
3.退去予兆を捉える「3つのシグナル」と72時間ルール
テナント退去は「決まってから動く」のでは遅い──。
濃厚な退去シグナルが出た瞬間から72時間の時間軸で“引き止め交渉と募集準備”を並行処理することで、1)退去の引止め 2)引止め失敗時の空室期間:ダウンタイム最小化の両立を図る仕組みが72時間ルールのアクションプランです。
退去を示す「3つのシグナル」とアクションプラン
| シグナル | 確認データ | 24h以内 | 48h以内 | 72h以内 |
|---|---|---|---|---|
| 更新交渉の停滞(更新・賃料改定案にレスが無い/遅い) | 契約更新交渉履歴 | テナントに意思確認/増床・改装の打診 | 条件シートを再提示 | 募集準備へ(“水面下相談”) |
| 空調・電気使用量の急減 | 空調・電気使用量の急減 BEMS/テナント別メーター | テナントと情報共有・事情のヒアリング | 減床提案の余地を確認 | 退去濃厚なら募集準備へ |
| 入退館数の急減(従業員入館が平常比▲30%超) | ICカード/顔認証ログ | 最新1週間の人数推移を可視化 | 人員計画・組織変更の確認 | 減床提案or募集準備へ |
- *更新停滞・光熱費急減・入館減少の3点セットが同時に発生した場合は、退去確度「高」とみなし24時間以内に募集準備:フェーズ❷へ移行
テナントの引止めから、募集準備、募集開始に至るフェーズ別タスクの整理
退去予兆を捉えることで、退去確定後、即日募集開始が可能な運用。
| フェーズ | オーナーの目的 | 主なタスク |
|---|---|---|
| ❶退去“予兆”検知(解約通知なし) | テナントの引止め/意思を判定 | ①利用実態ヒアリング ②減床・賃料条件など選択肢提示 |
| ❷退去決意が濃厚(正式通知前) | 募集準備 | ③図面・写真・設備一覧をアップデートして、水面下相談 ④募集条件案(賃料・FR)の作成 |
| ❸正式通知後 | 即日募集開始 | ⑤内々リスト(一部仲介にソフトマーケッティング) ⑥公開募集(メーリングリスト仲介サイト掲載) ⑦募集条件の調整 |
運用の要点
・引止めが成功して、残留が決まった場合は、募集準備を中止。
・引止め失敗が確定した場合、退去決定「即日募集開始」が可能とする運用。
第6章:価格の「参照点」を設計する──デコイ効果とフレーミングで競争力を演出
1. 参照点とは何か──人は“比較”で価値を決める
人が価格を評価する際、絶対的な金額ではなく、何らかの基準となる価格(参照点)を持ち、それを基準に「高い」「安い」を判断する傾向があります。この心理的な基準を参照価格(Reference Point)と呼びます。
賃貸オフィスビル市場では、参照価格は次の要素を踏まえて無意識的に形成されています。
・周辺エリアの平均坪賃料
・同じビル内の他区画の賃料
・内覧者が検討中の他の競合物件の賃料
つまり、価格を提示する際には、これらの参照点の存在を意識、テナントの「相対的な価格判断」を的確に導く工夫が必要となります。
2. デコイ効果──“おとり価格”が選択を誘導する
デコイ効果(Decoy Effect)とは、複数の選択肢を提示する際に、本来選んでほしい選択肢をより魅力的に見せるために、意図的に劣った選択肢(デコイ)を追加する手法です。顧客を騙しているわけではなく、お勧めできる選択肢の「相対的な魅力度」を際立たせて、選択の後押しをします。
オフィス賃料プラン提案の具体的な例を以下に示します。
| プラン | 坪単価 | 会議室 | 整備負担 | コメント |
|---|---|---|---|---|
| A:スタンダード | 18,500円 | なし | - | 最安・最短入居可 |
| B:プラス(推奨) | 20,000円 | オーナー主導で整備済 | オーナー負担 | 入居時点で即使用可/仕様相談も対応 |
| C:デコイ(調整型) | 19,500円 | 要望に応じて設置協議 | テナント一部負担 | 設計施工調整型 |
プランAとBだけを比較すると、「Bは少し割高」と感じるかもしれません。ですが、Cという「多少安いが、会議室の整備についてはテナントとの協議・一部負担が必要なプラン」を提示することで、内覧者の視点は変わります。「工事負担や調整の手間を避け、完成済みの設備をすぐ使えるなら、月額わずかな差で済むBプランの方が安心で効率的」と直感的に判断されやすくなります。
3. フレーミング技術──“高いのにお得”を伝える3つの切り口
フレーミング効果とは、同じ内容でも表現や見せ方を変えることで印象を大きく変化させる心理的なテクニックです。価格設定においても、以下の方法で効果的に活用できます。
①時間単位の再構築
賃料の坪単価、総額だけではなく、「1人あたり1日あたりのコスト」などに換算して提示すると、テナントは日常的な支出との比較が可能になり、コストを現実的で手頃なものとして認識します。
②総コストのバンドル化
賃料だけでなく、電気料金、清掃費、共益費などを一括した「オールインクルーシブ」な料金として提示すると、テナントの煩雑さ回避バイアスに刺さります。
③損失回避フレームの活用
人は「利益を得ること」よりも「損を避けること」に強く反応する傾向があります。この心理を活かし、「わずかな価格差で“手間”や“将来の不確実な負担”を避けられる」というメッセージに変換することで、テナントにとっては価格が高くても“得”ではなく“安心”に感じられるようになります。
4. 価格メニューの提示方法(レイアウト)を工夫する
価格を提示する際の順番や表現方法にも心理的影響があります。たとえば「中間価格→高価格→低価格」の順に提示すると、中間価格が安定した安全な選択肢に見えやすくなり、選択率が向上します。
また、特典の価値を「会議室設営のコスト=最大100万円相当」のように明確な金額に変換することで、テナントがその価値を直感的に理解しやすくなります。
さらに、提案資料やウェブサイトなど複数の媒体でデザインや表現を統一し、情報の伝達時に生じる誤解や歪みを防ぐことで、意図したフレームが確実に伝わります。
5. 人の心理を尊重する──決して「騙す」のではなく「わかりやすく伝える」
最後に、デコイ効果やフレーミング技術を用いることは、単純に人を「騙す」手段ではありません。人は日々多くの選択肢に囲まれており、選択には多大な認知的負荷がかかります。これらの手法は、その負荷を軽減し、「選択の価値」を直感的かつ明快に伝えることで、テナントが納得して自発的に適切な判断を下せるように手助けするものです。従って、こうした心理的テクニックを用いる場合でも、あくまでテナントの利益と安心を第一に考え、「顧客の立場に立った情報提供」を心掛けることが最も重要です。
第7章:心理バイアスに効く3ステップ対策──行動を変える“仕組み”を実装する
本章では、これまで解説してきたアンカリング、損失回避、保有効果、先延ばしバイアスなどの心理的な障壁を、組織として継続的に克服していくための実践的なプロセス設計について詳しく説明します。ポイントとなるのは、「①データの定点観測」「②第三者の客観的な評価」「③小さな成功体験の積み重ね」という3つのステップを循環的に行い、継続的な改善を行う仕組みを構築することです。
ステップ① データの定点観測──感覚ではなく“数値”に置き換える
心理バイアスを取り除く最も有効な方法の一つは、意思決定を「感覚」ではなく「数値」に基づいて行うことです。このためにはデータの定期的な収集と明確な指標設定が不可欠です。
・ウィークリーダッシュボード:毎週一定のタイミングで、空室日数、問い合わせ件数、内覧から申込みへの転換率、平均成約坪単価など、客観的な数値指標を定期的にモニタリングします。都度データを更新して、毎週決まった時間(例えば月曜日午前9時)に最新のデータを確認できるようにします。
数値が多すぎてダッシュボードが放置されるリスクに鑑みて、KPIを4指標以内に絞り“誰でも読める”設計を心掛けます。
・アラート閾値の設定:データをただ見るだけでなく、空室日数が90日を超えた場合は「赤信号」、60~89日の場合は「黄信号」と設定して、担当者に通知する仕組みを設けます。これにより、問題が大きくなる前に迅速な対応が可能になります。
・トレンドラインの可視化:短期的な変動に惑わされないために、3カ月の移動平均線を用いて改善傾向または悪化傾向を把握します。トレンドが横ばい(フラット)になるタイミングで次の手を打つことが重要です。
ステップ② 第三者の客観視点──“鏡”を置いてバイアスを削る
自分たちの視点だけではなく、第三者による客観的な評価を導入することで、組織内の心理バイアスを効果的に減少させることができます。
●定期的レビュー/ベンチマーク比較/逆ピッチセッション:
ビル管理会社との定期的な打ち合わせの場で、
──競合となる近隣の物件のデータをレビューして、保有物件と比較します。客観的なデータによる競合比較を通じて、保有物件の相対的な強み・弱みを明確化します。
──第三者による保有物件の状況について忌憚のない指摘も交え、組織内の自己満足や現状肯定の心理を防ぎ、改善意識を高めます。
ステップ③ 小さな成功体験──“勝ちグセ”を組織にインストール
心理バイアスを乗り越えるためには、組織が実際に改善できることを繰り返し体験し、自信を持つことが非常に有効です。
・ミニマル改善パイロット:ビル管理会社の提案、サポートの下、小規模な範囲(例えば1区画のみ)でLED照明の導入、サイン表示の刷新といった改善を実施し、効果を定量的に計測します。
・改善ストーリーの伝承・定着:ビル管理会社のサポートの下、改善前後の具体的な変化を組織内で共有し、「動けば変わる」ことを可視化し成功体験を組織内で伝承し、定着させます。
・インセンティブ設計:空室期間短縮に貢献したビル管理会社/仲介担当者には、その成果に応じた報酬制度を設け、現場レベルでの積極的な行動を促します(オーナーとのビル管理会社の業務委託契約に対応条項を具備)。
第8章:ケース・スタディ──“築35年・延床900坪ビル” リーシング・プロジェクトの全記録
本章では、前章までに解説してきた心理バイアス対策・価格設計・オペレーション改善を一括で適用し、空室6か月→1か月で成約を実現したプロジェクトを時系列で検証する。単なる成功談に終わらせず、「どの打ち手がどの数値を変えたのか」をトレースし、再現可能なメソッドへ落とし込むことを目的とする。
1.物件概要と課題整理
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都台東区 駒形エリア |
| 竣工年 | 1990年(築35年) |
| 構造規模 | SRC造 地上8階、延床900坪 |
| 対象区画 | 6階1室(専有30坪) |
| 空室経過 | 募集開始から6か月経過、内覧10件・申込みゼロ |
| 主なネック | 天井高2.40m/築古・リニューアルなし/繁華・ビジネス・エリアから外れる |
- 診断:賃料は周辺相場比+3%とやや割高。加えて照度不足・案内動線の雑多さが第一印象を損ね、問い合わせはあるものの内覧後に競合へ流れるパターンが目立った。
2.介入プラン──3層レイヤーで同時進行
●環境改善(7日間・総額10万円)
・エントランス照度180lx→320lxへLEDを交換
・共用廊下壁面を特別清掃
●価格リフレーミング
・デコイ効果を利用し「Bプラス」プランを追加(坪15,000円/会議室整備)
・既存「スタンダード」は坪13,500円に維持し、参照点をコントロール
●リーシング・オペレーション刷新
・72時間ルール:募集準備を3日で完了
・社内で情報共有しタスク遅延ゼロを徹底
3.タイムラインと数値推移
| 日数 | 主なアクション | 問合せ件数 | 内覧数 | 申込み数 |
|---|---|---|---|---|
| Day 0 | 介入前(空室180日経過) | 0 | 0 | 0 |
| Day 7 | 環境改善完了/新価格プラン公開 | 4 | 2 | 0 |
| Day 14 | 仲介向け現地内覧会 | 9 | 5 | 1 |
| Day 21 | 追加内覧(同業2社比較) | 3 | 2 | 1 |
| Day 28 | Bプラスで申込み→契約 | - | - | 1 |
4.KPI結果
| 指標 | 改善前 | 改善後 | 変化率 |
|---|---|---|---|
| 空室期間 | 6か月 | 1か月 | −83% |
| 成約坪賃料 | 13,500円 | 15,000円 | +11% |
| 内覧→申込み転換率 | 0% | 22% | +22pt |
5.成功要因の分解
①第一印象改善が問い合わせを倍増:照度・清掃で印象が向上し、内覧者の印象改善。
②デコイ効果で“高いが得”を演出:会議室整備を明示し、利便性を訴求。
③72時間ルールが初動を加速:改善情報を3日で配信し、迅速に新しい価格プランで募集開始。
④タスクの可視化と役割明確化:各担当が期限を共有し、遅延ゼロを達成。
第9章:まとめ──「心理を制する者は空室を制す」
本コラム全体のキーメッセージを振り返る
本コラムでは、空室問題が単なる市場動向の問題ではなく、人間が持つ心理的なバイアスに大きく影響されていることを示しました。空室率が下がっていても、自分のビルの空室が埋まらないのは、賃貸オフィス市場全体のデータだけに頼って意思決定をする「心理的な盲点」が原因なのです。
そこで、本コラムで繰り返し強調したのは以下の3つのポイントです。
・数字で“盲点”を可視化する
オーナーは、全体の平均空室率や周辺地域の坪単価といったマクロな指標に安心しがちです。しかし、それら平均値に隠れている個別ビルの特異性(分布の「厚い尻尾」)を正確に理解する必要があります。具体的には、空室日数や賃料の市場乖離率など、個別ビルのリアルな状況を数値で把握することが重要です。
・心理バイアスに“仕掛け”で対抗する
本コラムでは特に、アンカリング(最初の提示額に縛られる)、損失回避(値下げが心理的に難しい)、保有効果(自分のビルを過大評価する)、先延ばしバイアス(対策を後回しにする)など、人間の心理的な癖(バイアス)について掘り下げました。これらのバイアスは意識的な努力だけでは克服が難しいため、意図的な仕組み(フレーミング技術や72時間ルールなど)で補正することが肝要です。
・ハード×ソフト×価格の三位一体で動く
単独の改善施策ではなく、ハード面(照明交換などの物理的改善)、ソフト面(リーシング・オペレーション)、価格設定(デコイ効果やフレーミング)を同時に進めることで、相乗効果が生まれ、空室改善の効果は着実に向上します。
未来への展望──空室対策から「賃貸オフィスビルのブランド化」へ
本コラムの各施策は、空室解消を超え、長期的なビルの価値向上や競争力の強化へとつながります。心理バイアスをコントロールする仕組みづくりは、空室の短期的な改善だけでなく、中長期的な「保有賃貸オフィスビルのブランド化」に繋がっていきます。
データ活用とストーリー設計を強化することで、「築古賃貸オフィスビル」ではなく、「選ばれる築古賃貸オフィスビル」として市場での競争力を確立するべく、一緒に目指しましょう。
執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁
東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。
2025年12月12日執筆