皆さん、こんにちは。

株式会社スペースライブラリの飯野です。

この記事は「それでも、私は“このビル”を持ち続ける―賃貸オフィスビル・オーナー千人の本音から見えてきた現実と」のタイトルで、2026年1月7日に執筆しています。


少しでも、皆さんに新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

はじめに

「この賃貸オフィスビルって、あと何年もつのか」
「もう売るべきなんじゃないか」
「でも、手放したら何が残る?」
築年数が30年を超えた賃貸オフィスビルや店舗ビルを運営するビルオーナーたち。彼らは今、「なんとなく続けてきた」経営の、その先にある現実と向き合わされている。
賃貸オフィス市場の空室率が改善したと言われても、帳簿に残るのは増え続ける支出。リニューアルすれば良い、設備を更新すれば良い――それが正論だとわかっていても、「そこに踏み出せない理由」が山ほどあるのが本音だろう。

本コラムは、最近の賃貸オフィスビル・オーナーの動向に関する調査を紹介した記事を見ながら、そうしたビルオーナーたちのリアルな感覚と、そこに潜む“決断の論理”をひもとくことを目的としている。
数字の裏にある葛藤。言葉にされないまま続けられているビル経営。その「静かな選択」を、私たちはもっと真剣に読み解くべきではないだろうか。

第1章:賃貸オフィスビル・オーナーの“顔”が変わらない理由―なぜ60代以上が過半数なのか。事業継承の現実と、“持ち続ける”という選択の背景

千人を超えるビルオーナーを対象にした調査によると、経営者の約6割が60歳以上という結果が示された。

この数字だけを見ると、「不動産オーナーの高齢化が進んでいる」といった、よくある表面的な解釈にとどまりがちだ。

しかし、より本質的な問いは別にある。それは――

「なぜ、その不動産は若い世代に引き継がれていないのか?」

という問題だ。

単なるビルのオーナーが歳を取って、年齢分布がシフトしたという話ではなく、「継承されない構造」がそこにあるのだとすれば、これは今後の賃貸オフィスビル市場にとっても無視できないサインである。

「たった1棟」の重さ

調査によると、全体の6割のオーナーは「1〜2棟」しかビルを持っていない。
その中でも、主要ビルの延床面積は1,000坪未満が約7割、築年数は33年以上が約半数を占めていた。
つまり、いわゆる“中小型の築古ビル”を少数所有しているオーナーが、全体の多数派を形成しているのである。

地元で父の代から続く賃貸オフィスビルを1棟あるいは2棟、相続して、というような。そうした“零細かつ個人経営的な賃貸オフィスビル事業”が、実は東京の都市経済のベースを静かに支えているということは、あまり語られてこなかった。
そしてこの構図の中には、「小規模だからこそ、次の世代に引き継ぎにくい」という側面も浮かび上がってくる。
たとえば5棟10棟と複数のビルを保有する法人オーナーであれば、ビル管理業務を専門の管理会社に任せたりもできるし、事業承継にあたっても、ポートフォリオの組み替えや一部売却など、いくつかのがあり得る。
しかし、ビル1棟2棟しか持たないオーナーの場合、その運営は「事業」としての合理性よりも、「家族の財産として維持されるもの」として扱われがちだ。
家業の一部として、生活と直結するかたちで個人が担っており、意思決定も情緒的・保守的になりやすい。
経営というより、“生活の延長線上で背負う資産”といった方が近いだろう。
そして当然ながら、資産規模が小さいほど、失敗は許されない。
投資判断は慎重になり、収益のブレには神経質にならざるを得ない。その慎重さが、知らず知らずのうちに「誰かに継がせる」という選択肢に、無意識にブレーキをかけていく。

「継がせたい」のに、継がせられない―現場にある静かな断絶

相続を見据えて不動産を持ち続けることは、いまや珍しくない、というか王道の資産運用戦略だ。
賃貸オフィスビルであれば、毎月の賃料収入を得ながらも、相続時の評価額は一定程度圧縮される。現金で保有して相続させるよりも税務上は有利で、「子どもに有利に残すために、賃貸オフィスビルを運営し続けている」という高齢オーナーを、現場ではよく見かける。
しかしその一方で、「相続させた後、息子や娘がこの賃貸オフィスビルの運営を引き継ぐのかどうかは、正直わからない」と語る声も少なくない。
調査結果としては表に出てこない部分だが、実務の現場では、“継がせたいという親の気持ち”と、“継ぎたくないという子の本音”が、噛み合わないまま空中に浮いているケースが多いようにも見受けられる。
それも無理はない。

オーナー自身が日々の経営の中で、「こんなに気を遣って、頑張って、それでも、今後、ビジネスとして伸びていくこともないし、報われることを実感し難い仕事を、子どもにやらせたいか?」と自問してしまうのだ。
ある種の“やらせたくなさ”が、オーナー自身の内側からにじみ出てくる。

現時点での賃貸オフィスビル経営は、必ずしも“悪い”状況ではない。
ただし、じわじわと増えていく支出。強まる「身を削っている」という実感。これらは無視できないリアリティだ。
中小規模のビル経営は、単に管理会社に任せておけばいいようなシンプルな商売ではない。

  • ・修繕のタイミングをどう見極めるか
  • ・設備更新の必要性と費用の兼ね合い
  • ・テナントとのトラブル対応、賃料交渉の方針
  • ・法務・税務にかかわるリスク判断

これらすべての決定が、最終的にはオーナー個人に委ねられる。

たとえ実務を管理会社に任せていたとしても、プリンシパル=エ―ジェント問題を無視できない以上、丸投げはできない。利害がズレれば、対応の質もズレていく。

しかも、それらの判断はマニュアルでは対応できない「個別対応」の連続だ。

数字だけでは測れない“現場の空気”や“相手の温度感”を読み取る力。地域との関係性、長年の経験値。

そういった、マニュアル化できないノウハウを以てこそ、賃貸オフィスビルオーナーんとか維持している実態だ。

だからこそ、いまのオーナー世代は思ってしまう――
「これは自分で終わらせるしかないかもしれない」と。
それは、単に子どもを頼れないという悲観ではない。
むしろ、「面倒をかけたくない」という優しさと、
「誰かに任せるには重すぎる」という冷静な現実認識が交錯した、切実な判断なのだ。

続ける理由は、「辞められない」のではなく「辞めにくい」から

都心部であれば、築古であったとしても立地によっては十分に収益が出ている。
また、たとえ、駅から多少距離があったとしても、「売ろうと思えば売れる」。
それでも、多くのオーナーは売らない。それは、「苦労しているのに、辞められない」ということでもなく、“儲かっているからこそ、辞めにくい”という理屈である。
売ってしまえば、まとまった現金は入る。だがその後の相続税対策は難しくなり、現金の再投資先にも頭を悩ませることになる。

それならば――

  • ・安定的に賃料収入が入る
  • ・含み益がある
  • ・相続評価を抑えられる

こうした理由から、「このまま持っていた方が合理的だ」となる。これはまさに冷静な計算に基づいた“持ち続ける選択”なのだ。

だが、だからといって楽ではない。
築年数が進めば、建物の老朽化とともに「大規模修繕か、建替えか」の判断が求められる。
テナントの立退き、行政との調整、資金調達、相続人の合意、金融機関の査定…。
ビル経営の「終わらせ方」は、“始め方”よりもずっと複雑で、ずっと重い。
しかもその“正しい出口”が、いつ、どこに、どの条件で現れるのかは誰にもわからない。
ゆえに、こう考えるオーナーが多くなる。
「まだ回ってるうちは、自分の手元でやっておいたほうが安全だ」
この姿勢は決して後ろ向きではない。
それは、“なんとなく続けている”のではなく、“責任ある選択として、持ち続けている”という現代のビルオーナー像である。

このあと第2章では、「業況は回復した」とされながらも、多くのオーナーが感じている“違和感”――数字と感覚のズレに踏み込んでいく。

“儲かっているから辞めにくい”というリアル

築年数が古くなっていても、都心部の立地であれば、賃貸オフィスビルは今なお十分な収益を上げている。
仮に駅から少し距離があるとしても、「売ろうと思えば売れる」物件は少なくない。
それでも、多くのオーナーは売却に踏み切らない。
そこにあるのは、「苦労しているのに辞められない」という後ろ向きな事情ではなく、
“儲かっているからこそ、辞めにくい”という、きわめて合理的な構造だ。
たしかに、売却すればまとまった現金は手に入る。
だがその瞬間から、相続税対策が一気に難しくなる。
さらに、その現金をどう再投資するかという、新たな悩みも生まれる。

だからこそ、多くのオーナーはこう判断する。

  • ・安定的な賃料収入がある
  • ・含み益がある
  • ・相続評価を抑えられる

これらを踏まえれば、「このまま持ち続けたほうが合理的だ」という結論に至る。

これは、“なんとなく続けている”のではない。冷静な計算に基づいた、責任ある選択だ。

ただし、だからといって楽ではない。
築年数が進めば、建物の老朽化は避けられず、いずれ「大規模修繕か、それとも建替えか」という重い判断に向き合わなければならない。
そのときには、テナントの立退き交渉、行政との調整、資金調達、相続人間の合意形成、金融機関による資産査定――
さまざまな要素が絡み合い、“終わらせ方”は、始めるときよりもずっと複雑で、ずっと重い。
しかも、その“正しい出口”が、いつ・どこで・どんな条件で現れるかは、誰にも分からない。
だからオーナーはこう考えるようになる。
「まだ回っているうちは、自分の手元でやっておいた方が安全だ」
これは決して後ろ向きな姿勢ではない。
むしろ、“今はまだ出口ではない”と判断した上で、責任を持って続けているという、現代の賃貸オフィスビル・オーナーのリアルな在り方である。

次章では、「業況は回復した」とされる一方で、多くのオーナーが抱えている“ある違和感”――
数字の好転と、実感の乖離に踏み込み、そのギャップの正体を明らかにしていく。

第2章:業況は“回復”した。でも、なぜこんなに不安なのか―「収入が増えた」3割強vs「支出が増えた」3分の2弱。見かけ上の好調と実態のズレ

「ビル経営、今どうですか?」
そう聞かれたとき、「まぁ、悪くはないですよ」と答えるオーナーは意外と多い。
実際、調査では6割強のオーナーが「業況が良い」「やや良い」と答えている。この数字だけを見れば、回復基調にあるように映る。
しかし、その言葉の裏には、どこか言い切れないニュアンスが漂っている。
たしかに「悪くはない」のかもしれない。けれど、なぜか皆が口をそろえて「でもこの先はわからない」と言う。
この“好調のはずなのに、不安が拭えない”という違和感の正体は何なのだろうか。

収入はそこまで上がっていない、むしろ「維持しているだけ」

「業況が良い」という回答の背景を見ていくと、「収入が増えた」と答えたのは、全体の3人に1人程度。
残りの多くは、「変わらない(約3割)」「減った」「わからない」と答えており、自分の収入の伸びを実感できている層は限定的だ。
それでもなお「業況は良い」と答えるのはなぜか。
おそらくそこには、「悪くなっていないことが、むしろ良い」と感じている心理的構造がある。
つまり、“期待値がすでに下がっている”のである。
コロナ禍で空室が一気に増え、「このまま沈むかもしれない」と思っていたあの時期と比べれば、確かに今は落ち着いている。
実際に、空室が減り、募集も徐々に動いているという実感が戻ってきているオーナーも多い。
だが、それはあくまで「元に戻った」だけの話であって、「前より良くなった」わけではないってことなのかもしれない。
それなのに、「良くなったような気がする」。この心理的なズレが、表面的な好調感を生み出しているのではなかろうか。

支出は容赦なく増える。「収入は横這い、コストだけが増加」

さらに深刻なのは、支出の増加である。
調査では、支出が「増加した」と答えたオーナーは全体の3分の2にものぼる。
この割合は、「体感的に多い」というレベルではなく、明確に構造的な問題になりつつあることを示している。

特に増加が目立つのは以下の項目

  • ・公租公課(固定資産税など):約半数が「増加」
  • ・水道光熱費:3分の2が「増加」
  • ・修繕費・資本的支出:3分の2が「増加」

ここで注目すべきは、これらのコストが「価値向上」のための投資ではなく、「現状維持」のための出費であるという点だ。

つまり、何かを改善するためではなく、“悪くならないように守る”ためにコストをかけている。
しかも、インフレやエネルギー価格の上昇、人件費の高騰といった外的要因は、ビル経営とは無関係にやってくる。
そうした“外圧的コスト”に対し、テナントに対して、賃料や管理費を引き上げて、即座に転嫁できるわけがない。結果的に、「実入りは据え置き、コストだけが上がっていく」構造ができあがっている。

「持ち出し前提」の時代へ

あるオーナーはこう語っていた。
「毎年、建物が歳を取る。何もしなければ老朽化する。でも何かするには金がかかる。そして、何をしても収入は増えない」
この言葉は、まさに現代の築古の賃貸オフィスビル経営の縮図である。

実際の現場では、こうした出費が繰り返されている

  • ・電気料金の上昇することを踏まえた、エネルギー効率性向上を見据えた空調設備の更新
  • ・蛍光灯は間もなく製造中止になるので、照明器具のLED化は待ったなし
  • ・水漏れへの緊急対応としての防水補修

どれも「必要な支出」であることは間違いない。だが、どれも「収益を直接押し上げる支出」ではない。

むしろ、「収益を維持するための費用」と言った方が近い。

つまり、持ち出しが前提の経営が常態化しているのだ。

“好調”とは、「想定よりマシだった」という感覚

結局、「業況は良い」と感じている理由は、「想定していたよりはマシだった」という安心感に根ざしている。
コロナ禍という偶発的な悪化フェーズを経た今、「落ち着いている」「前よりまし」という相対的なポジティブ感がにじみ出ているだけとも言える。
だが、これはあくまで“比較の問題”であって、“絶対的な安心感”にはつながっていない。
むしろ、日常が戻ったことで、「次に本当に必要な打ち手をどうするか」が正面から問われ始めている。
オーナーたちは薄々気づいているのだ。「このままでは、またすぐ限界が来る」と。
だからこそ、“好調”という言葉にどこか戸惑いが残る。

次章では、そうした不安の正体に一歩踏み込む。
なぜ多くのオーナーが“価値向上の施策”に踏み出せないのか。
改善が進まないのではなく、「進められない理由」があるとすれば――それはいったい何なのか。

第3章:ビルを整えられない理由

―なぜ価値向上の手が止まるのか。「やらない」のではなく「やれない」実情。

多くの賃貸オフィスビル・オーナーにとって、「整える」「手を入れる」「価値を高める」といった言葉は、常に頭の片隅にあるはずだ。

老朽化が進むにつれ、どこかのタイミングで何らかの手を打たなければならない――そう感じている人は決して少なくない。

しかし現実には、その“手”が止まっている。思ってはいても、踏み出せない。

調査結果を見ても、その実態は明らかだ。

専用部について「特に何もしていない」と答えたオーナーは全体の6割。共用部においても「特になし」が5割弱。

つまり、半数以上の賃貸オフィスビルで価値向上に向けた施策が未着手のままということになる。

これは、単なる怠慢なり、放置ではない。むしろ、「やりたくても、やれない」オーナーの心理的な葛藤と、合理的判断の積み重ねにほかならない。

まず立ちはだかる「投資コスト」

施策が進まない最大の理由は、やはり「お金がかかる」ことである。

調査でも、「多額の投資が必要となる」と回答したオーナーが最も多く、全体の5割強にのぼった。これは、当然の反応である。

たとえば、空調設備の更新、照明のLED化、エントランスのリノベーション、屋上の防水工事など。

いずれも、それなりの規模の工事であり、数百万円から1千万円越え、場合によっては数千万円規模の出費となる。

しかもその投資が収益増加に結びついて、資金が回収できるかどうかが見通せないという問題がある。

「費用対効果が見込めない」「わからない」と答えたオーナーも4割弱

さらに調査の結果を読み解くと、「建物の寿命が近い」として判断を保留している層も3分の1に達している。

つまり、オーナーが直面しているのは“三重苦”である。

  • ・お金をかけるには勇気が要る(コストが重い)
  • ・成果が見通せないから踏み切れない(リターンが不確実)
  • ・そもそも、ビル自体、あと何年使えるかもわからない(老朽化と寿命の問題)

この三重苦が、「整えたい」という気持ちにブレーキをかけて、「整えられない理由」の根底にある。

「正しい打ち手」は、コストだけが“見える化”されている

近年、ESG、ZEB、DX――こうしたキーワードがメディアや業界紙に溢れ、賃貸オフィスビル経営において「整えるべき」課題が目白押しである。

だが、こうした論調に接するたび、オーナーの頭にまず浮かぶのは「いくらかかるのか」という現実的な問いだ。

そして、問題は、その問いに対して「かけた金額は分かるが、得られる効果はよく分からない」という点にある。

たとえば、ある空調設備を最新機種に更新しても、テナントがつくかどうかは別問題。エントランスの床材を高級にしたから賃料を上げられるか?

そうした問いに対して、確実な“見返り”を示すことはほとんどできない

調査でも、「施策をやってみてよかった」「空室が埋まった」といった“確かな手応え”をもって語られる事例はごくわずかにとどまっていた。

「支出は確定しているのに、効果は不確定なまま」。この非対称性が、オーナーの判断をためらわせる原因となっている。

実は“試してみたけど反応がなかった”層もいる

さらに現場では、「一度整えてみたが、ほとんど反応がなかった」というオーナーも少なくない。
たとえば――
エントランスの壁紙を張り替えた。照明をLED化した。外構の一部をちょっといじってみた。
けれど、いざ募集をかけてみても、空室は埋まらない。内見の反応も、仲介業者の評価も変わらない。
そして、こう思ってしまう。
「結局、手を入れても意味がないんじゃないか」
このような小さな失望体験が積み重なり、次の一手を止めてしまう。
「改善しても報われない」。そんな諦めが、静かにオーナー心理に根を下ろしていく。

“ビルの性格”は変えられない

築古の賃貸オフィスビルには、それぞれに“性格”がある。
天井が低い。柱が太い。給排水の配管経路が限られている。窓面が少ない。
それらのビルの性格に加えて、駅からの距離が中途半端……。

オーナー自身が、物件を誰よりもよく理解しているからこそ、こうした限界を日々実感している。そして多くの場合、「この“性格”を抜本的に変えるとしたら、建替えるしかない」ことを知っている。

調査でも、「建物の物理的な寿命」が価値向上の支障要因として3割強のオーナーに挙げられている。
言い換えれば、「限界があることを、誰よりもわかっているから、整えない」という選択もまた、実に理にかなったものなのだ。

だからこそ、“整え方”を問い直すべきとき

価値向上といえば、大規模なリノベーションやフルスペックの改修が連想されがちだ。

だが、本当に今求められているのは、「整え方そのものの再定義」である。

  • ・どこにお金をかけるべきか
  • ・どこはあえて手を入れず、現状のままにしておくべきか
  • ・どの順番で施策を打つか
  • ・効果をどう検証し、継続するかどうかをどう判断するか

こうした視点を持たないまま、“なんとなくリニューアルする”という姿勢は、むしろ危うい。

整えるという行為には、戦略と感性、そして割り切りと判断軸が不可欠である。

次章では、そうした判断を支える「静かに整える」実践例に目を向けていく。
それは、必ずしも“映える改修”ではない。
維持管理の見直し、“できるところから始める”という実務的なアプローチ。
その先にある「続けるための火種」を、見つめ直す。

第4章:それでも、ビルを整えてみた

――リノベーションは“投資”ではなく、“段取り”かもしれない
築年数が進んだ賃貸オフィスビルを「整える」ことの難しさは、多くのオーナーがすでに理解している。
資金、タイミング、入居状況、将来の建て替え可能性、そして手間。それらを天秤にかければ、「いま無理に動く必要はない」と結論づけるのは、ごく自然な判断だ。

それでも、実際には一部のオーナーたちが、静かに、そして現実的に“整えはじめて”いる。

それは大きな改修や派手な演出ではない。数千万円の投資を一気に行ったわけでもない。

むしろ、「この状況下で、自分のビルにいま本当に必要な整え方とは何か?」を丁寧に問い直しながら、できるところから、計画的に、段取りとして進めているのだ。

目立たないけれど、確実に効く――共用部の最小リノベ

たとえば、築30年を超える中規模ビルで、「共用トイレと給湯室」だけをリノベーションした事例がある。

専有部には手を加えず、募集条件も大きくは変えなかった。にもかかわらず、施工後すぐに新たなテナントが決まり、賃料収入が増加したので、投資額600万円に対し、8ヶ月ほどで回収できる算出が成り立った

この改修が成功したポイントは、「映える」見た目の演出ではなく、使い勝手と清潔感の両立に注力した点にある。

  • ・LED照明とミラーで明るさと奥行きを演出
  • ・掃除しやすく汚れが目立たない床材を採用
  • ・女性用洗面台への細やかな配慮
  • ・統一感のある照明と素材選定で、給湯室にも清潔感を付加

どれも派手さはないが、「ここなら安心して借りられる」と感じさせるには十分な“整え”だったという評価ができよう。

一括改修よりも、「構造の整理」と「順序の明快さ」

別の事例では、五反田にあるビルで5フロアとエントランスホールを一括で改修したケースがある。

一見、大規模なリニューアルに見えるが、随所にコストを抑える工夫がなされていた。

  • ・エントランスには白漆喰を使い、光と建具で“上質感”を演出
  • ・床や天井は既存を活かして再利用
  • ・水回りはステンレス製で、耐久性と清掃性を重視
  • ・ガラス建具によって視覚的な抜け感をつくり、面積以上の開放感を実現

費用は5,000万円台半ばと大きいが、当時は5フロア分の空室があり、「一度に整える」判断には十分な合理性があった。

この事例で注目すべきは、「何を変え、何を残すか」の線引きが極めて明確だった点だ。

  • ・すべてを変える必要はない
  • ・だが、手を入れるところには徹底的に注力する
  • ・判断基準は「それが入居につながるかどうか」の一点に集約されている

リノベーションに「正解」はない。

しかし重要なのは、行き当たりばったりではなく、“筋の通った構想”として整えることである。

リノベは「投資」ではなく、「関係の再設計」である

よくある誤解に、「リノベ=投資」という思い込みがある。もちローン、費用が発生する以上は投資であることに違いない。

しかし、実際に起きていることは、「物件との関係を再設計する作業」に近い

  • ・現在の入居者に、自分のビルはどう映っているか?
  • ・内見者が最初に気にするポイントはどこか?
  • ・なぜ空室が長引いているのか、根本原因は何か?

こうした“関係性の棚卸し”を抜きにしてリノベに踏み切っても、効果は限定的で、むしろ的外れな結果に終わることも多い。

リノベは、物件そのものの再評価であり、オーナーとビル、そして入居者との関係を再構築するためのプロセスでもあるのだ。

少しだけ整えて、反応を見るという戦略

何千万円もかけなくても、打てる手はある。たとえば――

  • ・照明の色温度を変更、調整して、雰囲気を一新する
  • ・トイレの壁紙だけを張り替える
  • ・EVホールに案内サインを追加する
  • ・給湯室の古いカーテンを撤去して、スッキリと見せる

こうした“細かく、静かな整え”でも、内見者の印象やテナントの動きが変わることがある。

もちローン、劇的な成果がすぐに現れるわけではない。

だが、「試してみたこと」「小さくても結果が出たこと」が、次の一手を考えるための大事な足がかりになる。

整えることはゴールではない。

整えた先に出てくる“反応”こそが、次の展開を導くヒントになるのだ。

次章(第5章)では、「では、その整えた先に何があるのか?」を見ていく。
売却ではなく“持ち続ける”という選択をとったオーナーたちは、いま何を見ているのか。
「諦めではない継続」の背景にある論理と感覚を、さらに深く掘り下げていく。

第5章:売らない理由、そして“持ち続ける”という決断

―「もう、十分だ」と言える日が来るまで。

築古の賃貸オフィスビルを前にしたオーナーたちは、迷っていないわけではない。

修繕は増える。空室も続く。手間はかかるし、周囲からは「もう売ればいいじゃないか」と言われる。

それでも、多くのオーナーは「持ち続ける」という選択をしている。

合理的に見えないかもしれないこの判断には、感情だけではない、いくつかの“ロジック”が存在する。

「出口がない」のではなく、「出口を選ばない」

「売るに売れない」と言われるが、実際にはそうでもない。

都心のビルなら、買い手はいる。価格もそこまで悪くない。

にもかかわらず、なぜ手放さないのか?

答えはシンプルだ。売っても残らないからだ。

売却益が出ても、そこから税金を引き、ローンがあれば返済し、管理法人を整理して……と手続きを終えた頃には、「あれ?こんなもんか」となる。

それなら、“毎年少しずつでも入ってくる”方を選ぶ。

自分で管理すれば、経費で落とせるし、相続税評価も圧縮できる。

要するに、オーナーは「辞めないこと」が最もローリスクな運営であることを、知っているのだ。

「継がせたくない」は、“やめたい”とは違う

後継者がいない、という声もよく聞く。

しかし、それは「継がせたくない」のであって、必ずしも「辞めたい」という気持ちとは一致しない。

・・この大変さを子どもに味わわせたくない

・・24時間365日の気疲れを引き継がせたくない

・・テナントとのやりとりは人格勝負。それを人に任せるのは難しい

こうした心理の裏側には、“まだ自分がやった方がマシだ”という判断がある。

言い換えれば、ビルを手放す覚悟より、続ける忍耐の方が軽いという状況なのだ。

“辞めどき”は、利益で決まらない

どこまでやったら、このビルを卒業できるのか。
どこまで頑張ったら、「もう十分」と言えるのか。
これは、利益率や満室率では測れない感覚の話だ。

例えば――

・・すべての空室に、想定していたテナントが入った

・・入居者との関係が落ち着き、やるべきことが明確になった

・・自分のやりたかった改修が一通り終わった

そういう「納得のプロセス」を通ったときに、オーナーはようやく「もう手放してもいいかもしれない」と思える。

この意味で、“辞めどき”とは、単なるタイミングではなく、「自分なりにちゃんと着地した」と思える状態なのだ。

“資産”から“生活の一部”へ

築古ビルを長年持ち続けたオーナーにとって、それはもはや単なる不動産ではない。
「所有している」以上に、「暮らしてきた」という実感がある。
毎月の家賃振込、電球交換の手配、設備更新の見積もり、退去連絡の処理。
ビルの呼吸に合わせて暮らしてきた日々が、いつの間にか“生活の一部”になっている。
だからこそ、売るという判断には、資産としての合理性以上の迷いが生まれる。
たとえ数字で見れば十分に“売りどき”であっても、手放すということは、
「これまでの自分の営みをひと区切りつけること」と重なるからだ。
それは、単なる資産整理ではない。
それは、「自分の一部を、そっと閉じる」ような行為なのだ。

最後に

――問いは、まだ終わっていない

このコラムのタイトルは「それでも、私は“このビル”を持ち続ける」だった。

だが、もしかしたら本当に言いたかったのは、こうかもしれない。

「私は“まだ”このビルを持ち続けている」

この「まだ」には、希望も、不安も、未練も、意地も、すべてが含まれている。

決して楽な選択ではないけれど、決して間違った選択でもない。

築古の賃貸オフィスビルは、単なる不動産ではない。

長く続けてきた人にしかわからない“もうひとつの価値”がある。

そしてその価値は、これからの都市の中で、静かに再評価されていくはずだ。

執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁

東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。

2026年1月7日執筆

飯野 仁
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皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「仲介営業に紹介される賃貸オフィスビル、されないビル」のタイトルで、2026年1月9日に執筆しています。少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 第1章:「決まらない賃貸オフィスビル」に共通する“見えない壁” 「条件はそんなに悪くないはずなんだけど、なぜかずっと空いている」 「条件はそんなに悪くないはずなんだけど、なぜかずっと空いている」――こんな“モヤモヤ空室”に悩むオーナーやビル管理会社は、決して少なくない。立地はまずまず、賃料は相場並み、設備もそれなりに整っている。物件情報の数値/図面を見ても、特段の欠点は見当たらない。それなのに、内見案内の問い合わせすら少なく、月日だけが過ぎていく――。まったく無視されているわけではない。データベースにはちゃんと載っているし、物件情報も世の中に出回っている。でも、“紹介されていない”。あるいは、“紹介されても、推されていない”。その背後には、オーナーやビル管理会社の目には見えにくい、けれど確実に存在する“見えない壁”がある。それは、テナントではなく「仲介会社の営業担当」が無意識にその物件を“避けている”こと。もしくは、“推しきれずにスルーしている”という状態だ。 「決まるかどうか」は、仲介営業が握っている どんな物件も、テナントに良し悪しを判断してもらうには、まず誰かがその物件を紹介しなければ話は始まらない。その「誰か」とは、仲介会社の営業担当だ。彼らは日々、膨大な物件情報を捌きながら、「この案件は決まりそうだ」と感じたものに、限られた時間と労力を注ぎ込んでいる。ここで重要なのは、その判断が「この物件は決まりそう」という前向きな直感だけではなく、「これ、紹介したところでどうせ決まらないんじゃないか?」という“微妙な敬遠”にも左右されている、という点だ。この“避け”は、はっきりとダメ出しするものではない。ただ、「ちょっと扱いづらそう」「内見案内しにくそう」といった曖昧な感覚によって、紹介される物件の候補から外されていく。つまり、仲介営業にとって“紹介される物件”かどうか、この暗黙のフィルターを抜けられるかどうかが、実は最初の関門なのだ。ここで振り落とされた物件は、データ検索のリストには載っていたとしても、実際の内見案内の候補としてピックアップされることはなく、知らないうちに、なかったことになってしまっている。 「紹介されない物件」は、空室のブラックホールに落ちる いくら賃料を下げても、いくらトイレをリフォームしても、仲介営業に「紹介されないまま」になっている物件は、永遠に“選ばれない”。この「紹介されない状態」は、テナント募集資料に徴があるわけでもなければ、ビル管理会社のリーシングの月次報告に示されることもない。日常のやりとりのなかでも、問題点として、はっきりと言語化されることはない。だからこそ、オーナーや管理会社にとっては、気づきにくい。けれど、現場の仲介営業は、それを“感覚として”捉えている。──「このビル、ちょっと扱いにくいんだよな」そうした、ささやかな違和感が、紹介されないという個別の出来事として蓄積されていく。それぞれは単発の事象であったとしても、仲介営業の記憶の中で重なり合い、やがて「紹介しづらさ」という空気が、物件にまとわりついていく。明確なNG判断ではなく、いつの間にかみんなの手が伸びなくなっていく。そうなってしまえば、たとえ立地がよくても、物件のスペックが整っていても、紹介されず、内見案内されず、決まらない。“見えないスルー”によって、静かに空室ループに引きずり込まれていく。とはいえ、そのようなメカニズムで「紹介されない物件」があるからといって、それ以外のすべての物件が“積極的に紹介されている”わけではない仲介営業の現場では、「紹介される/されない」の境界線はいつも曖昧だ。ある営業にとっては「まあまあ」な物件が、別の営業には「ちょっと扱いづらい」になる。そしてその差を生み出すのは、物件の仕様や募集条件じゃなくて、ほんの些細な空気感だ。物件情報の図面の見やすさ、写真の印象、ビル管理会社のレスポンスの速度、説明のしやすさ――何気ない要素が、“思い出されやすさ”や“引っかかりやすさ”に影響している。つまり、「紹介される物件」とは、明確な基準で選ばれたものではなく、無数の現場感覚が重なった先に、ゆるやかに“浮かび上がってくる”ものだ。その“紹介される(可能性が高い)物件群”というレイヤーは、誰かが定義したわけでも、リストアップされたわけでもない。けれど、仲介営業たちの頭の中には、確かに存在している。それは、仲介の現場で共有される“空気のような了解”として働いている。このコラムでは、その空気の正体に迫っていく。仲介営業が物件をどう“感じ”、どう“スルーし”、どんなときに“推せなくなる”のか。その“名付けられない違和感”に、実務の現場から静かに向き合っていく。 第2章:仲介営業が“内見案内しづらい”と感じる賃貸オフィスビルの7つの実務ポイント 仲介営業が、物件を「紹介する/しない」を線引きするとき、いちばん先に見ているのは、物件のスペックでも家賃でもない。内見案内時のストレスと段取りの軽さ。ここに引っかかった時点で、その物件は静かに“候補落ち”する。紹介されない理由は、「物件力がない」からじゃない。むしろ、「ビル管理会社の実務対応」のなかに見えてくる。現場の仲介営業が“内見案内したくなる状態”になってるかどうか。答えは、内見案内の最中にちゃんと見えてくる。 ①内見案内の事前対応が遅い 問い合わせしても返事が遅い。もしくは返ってこない。内見案内の調整をお願いしても半日以上音沙汰がない。物件の基本情報を確認したいだけなのに、すぐに折り返しがない。こういう“反応の鈍さ”は、それだけで敬遠される。いまどき、みんなスマホ持ってる。気合があれば、すぐに折り返しくらいできるでしょっていう話。仲介営業の現場はスピード勝負。すぐに動ける物件から優先して紹介されるのが当たり前で、反応が鈍いビル管理会社の物件は、徐々に候補にすら入らなくなっていく。 ② 内見案内のときの対応 最近は、スマートロックやキーボックスを設置して、仲介営業に「勝手に見てきてもらう」スタイルも増えてきた。省力化、効率化ってことなんだろうけど、それって本当に正解なのか?現地に誰もいない内見案内は、印象に残らない。説明もない、伝わらない、記憶に残らない。仲介営業にとっても、テナントにとっても、「ただ見て帰っただけ」になる可能性が高い。ちなみに、当社の管理物件では、原則として、専任のリーシング担当が同道する。鍵を開けるだけじゃない。その場で設備の使い方、ビルの特徴、改修履歴、テナントの動きまで、ちゃんと伝える。内見案内が「場をつくる仕事」になっているかどうか。ここに差が出る。仲介営業にしてみれば、「内見案内しやすい」と感じる物件ってのは、説明のしやすさとセットになってる。だからこそ、「あのビルはちゃんと説明してくれたな」という印象が、あとで推薦されるかどうかを左右する。もちろん、同道が重たく見えたら逆効果。重要なのは、連絡すればすぐ調整できる段取りがあるかどうか。スピード感と“気持ちのいい対応”が整っていれば、同道はむしろ武器になる。 ③エントランスが暗い・入りにくい ビルの構造上どうにもならないケースもあるんだろうけど、仲介営業の感覚ってのは正直で、内見案内の入口で「連れて来づらい」と感じた時点で、そのビルはもう負けてる。だからこそ、エントランスの照明を明るめに設定する、余計な掲示物やよれたマットは外す、視界のノイズを減らす、そういう細かい配慮が効いてくる。大事なのは、「このビル、ちゃんとしてるな」っていう第一印象を、テナントのみならず、仲介営業に持ってもらえるかどうか。たとえ、築古の賃貸オフィスビルだったとしても、“気合い入ってる感”は伝わる。 ④ 執務スペースの室内が暑い/寒い/臭う これ、内見案内の現場で一番冷めるポイントかもしれない。夏はサウナ、冬は冷蔵庫、湿気とタバコの臭いが混ざった室内。内見案内時、執務スペースの室内がそんなだった瞬間、仲介営業もテナントも「うわ……」となる。それだけで、その場で選択肢から消える。でもこれって、内見案内のちょっと前に行って空調をつけておくだけで全然変わる。やるかやらないか。結局、ビル管理会社のリーシング担当の気持ちの問題。 ⑤清掃が甘い 内見案内で見られてるのは執務スペースだけじゃない。エントランスから廊下、給湯室、トイレ、共用部を含めた“内見案内ルート全体”。そこで埃がたまってたり、壁が薄汚れてたり、不要な什器が放置されてたりすると、もうその瞬間に仲介営業の心の中では“ナシ判定”が下る。築古だからこそ、清潔感が勝負になる。同じコストをかけて日常清掃の業務委託をしていたとしても、必要なのは、ちゃんとしておこうという気遣いと日常的な確認。 ⑥物件情報のデータと図面が古い・ズレている・面積が曖昧 物件情報の数値と図面は、仲介営業にとっての“説明の武器”。それが現況と違う、天井高が不明、OAフロアなのかも分からないとなれば、仲介営業はもう紹介しようとは思わない。図面が古いならば、ビル管理会社であれば社内で簡単なCADを使える人はいるでしょうに、頼んで描き直せばいいんじゃないかな。「物件情報の数値と図面が整理されてる」っていうだけで、テナントの仲介営業の印象は変わってくる。 ⑦物件情報の写真が少ない/画角が雑/現況とズレてる 物件情報の写真もまた仲介営業の武器。「これが今の執務スペースの室内です」とちゃんとした写真を見せられるだけでも、テナントの反応はまるで違ってくる。でも、ありがちなのは、外観1枚と暗い室内写真が2枚だけ。しかも、内1枚はピンぼけして、見切れてて、現況とズレてる、そんな状態だったりする。仲介営業は、そういう物件を紹介する物件の候補には入れない。ただそれだけのこと。現況を反映した明るめの写真が数枚あれば十分。新築やリノベ物件なら、プロに撮ってもらってもいい。まじで、それだけで印象が変わってくる。 ビル管理会社が“リーシング対応に慣れてるかどうか”がすべてを決める ここまで挙げた7つの要因、全部突き詰めると、ビル管理会社が「仲介営業の現場感」を分かってるかどうか、って話になる。・問い合わせにすぐ返す・内見案内をスムーズに段取りできる・あらかじめ空調を回しておく・清掃に気を配る・物件情報の数値/図面や写真をちゃんとアップデートして渡せる不思議な気もするが、いずれも、物件のスペックじゃなくて。段取りの話だ。でも仲介営業から見れば、それがすべて。紹介される物件になるか、候補にすら入らないか。その分かれ目は、意外とこういう“地味だけど重要なこと”にある。 第3章:「紹介される物件」には、“内見案内のイメージが湧く”空気がある 「この物件、いけそうか?」で仲介営業は動いている 仲介営業は、物件のスペックを一つひとつ冷静に比較検討してから紹介を決めているわけではない。現場ではもっと直感的に、「今回の案件でこの物件、いけそうか?」という感覚で動いている。そこにあるのは、「勝てそうな空気感」があるかどうか──つまり、仲介営業が“無理なく動けるイメージ”を持てるかどうかが、紹介されるか否かの分かれ目になる。 物件のスペックは“最低限の通過点”それ以上ではない 築年数、空調方式、トイレの仕様、共用部のデザイン──これらを含めた物件のスペックは、仲介営業にとって「見ておくべき前提条件」ではあるが、紹介されるか否かの決定打にはならない。実際、築30年を超えていても即決される物件はあるし、逆に築浅であっても、内見案内すら敬遠される物件もある。その差を分けているのは、「内見案内に踏み切れるかどうか」という仲介営業側の心理的なハードルだ。同じエリア、同じ坪数、同じ賃料水準の物件が3つあったとしても、仲介営業が案内するのは、“無理なく動ける方”である。 仲介営業は、“決まらない内見案内”を最も嫌う 仲介営業にとっての最大のリスクは、「決まらない内見案内」に時間と手間をかけてしまうこと。だからこそ、少しでも不安要素がある物件は、無意識に避けられていく。たとえば以下のような経験があると、その物件については、以降、なんとなく避けられてしまうことになる・内見案内の段取りが面倒(ビル管理会社の連絡が遅い・返信が曖昧)・物件情報の数値や図面と実際の現地にギャップがある・共用部など、現地での印象が説明しづらい・過去に提案したが、決まらなかったことがあるそうした小さな“引っかかり”が重なると、対象物件は仲介営業の記憶のなかで「いけそうにない」として扱われるようになっていく。 空室の原因は、“紹介されないこと”にある場合もある 空室が長引くと、つい「賃料が高いのか?」「設備が古いのか?」と、物件側の条件に原因を探しがちだ。けれど実際には、仲介営業の側で「紹介する対象に入りにくくなっている」ことこそが、最大のボトルネックになっているケースも多い。しかも、空室が長期化しているという事実そのものが、営業にとって説明しにくい要素になり、「今回もやめておこうか」という静かなスルーを誘発する。その結果、また空室が続く──という悪循環に陥ってしまう。 空室対策は、“紹介されやすい状態”を整えることから始まる 本当の空室対策は、物件のスペックをいじることでも、過剰な演出をすることでもない。まず必要なのは、「紹介しやすい状態」を地道に整えることだ。たとえば以下のような準備があると、仲介営業はぐっと動きやすくなる・数値・図面・写真などの物件情報が正確に揃っている・現地の状態が安定している(照明、空調、清掃など)・ビル管理会社のレスポンスが早く、やり取りにストレスがない・「この物件、こういう人なら合うかも」と説明しやすい特徴がある仲介営業が「これは勝てそうだ」「案内のイメージが湧く」と感じた瞬間、その物件は、自然と“紹介される物件”に引き上げられていく。そして、そこに乗れなければ、テナントに選ばれる以前の段階で、勝負は終わってしまう。 第4章:「内見案内される物件」には、気配りとテンポがある 「紹介されない理由」を潰すだけでは、紹介される物件にはならない 多くのビルオーナーやビル管理会社が空室対策としてまず手をつけるのが、共用部の清掃や物件写真の撮り直し、図面やスペック表の更新といった「基本的な整備」だ。それ自体は間違っていない。だが、それだけで仲介営業の記憶に残る“紹介される物件”になれるかというと、話は別だ。仲介営業が本当に内見案内したくなるのは、「このビル、気が利いてるな」と感じたときだ。その評価を左右するのは、紙の上の物件のスペックではなく、内見案内の現場で体験する“動きやすさ”の感触だ。この章では、その感触を生む「内見案内設計のセンス」について掘り下げていく。 「清掃されている」だけでは、必ずしも「ちゃんとしている」とは思われない たとえば、共用部を清掃しておくこと。確かに重要だ。だが、それは“やってあって当然”の話だ。仲介営業が評価しているのは、さらにその先──「あと一歩、気が利いているかどうか」である。たとえば・内見案内前に十分な時間をかけて空調を回し、暑さやニオイを感じさせない・エントランス清掃のタイミングを調整し、余計なものが視界に入らない空間を整える・エレベーターのカゴを1階に戻しておき、スムーズに内見階へ移動できるようにする・ビル管理会社のリーシング担当が玄関で出迎え、すぐに内見が始められる体制にしておくこうした細やかな配慮の積み重ねが、仲介営業に「このビル、内見案内しやすいな」という安心感を残す。これは、築年数でもリノベーションの有無でもなく、内見案内において「現場の気配り」でつくられる感触だ。この気配りは、単なるマニュアル対応でもなく、一方的な営為でもない。仲介営業との間にある、言葉にもならない阿吽の呼吸のようなやりとり――互いの動きや感覚に呼応しながら整えていく、繊細なコミュニケーションの積み重ねである。 “スムーズに終わる内見案内”が、次の紹介を引き寄せる 仲介営業にとってもっとも重要なのは、「内見案内がスムーズに終わるかどうか」だ。1日に複数の物件を回る営業にとって、段取りの読みやすさ・所要時間の予測しやすさは重要な評価軸となる。たとえば・ビル管理会社との連絡がスムーズで、返答も的確・現地に着けばすぐ内見案内が始められ、無駄なく説明できる・所要時間の見通しが立ちやすく、次の予定にも響かないこうしたテンポの良い内見案内は、仲介営業の中に「またこのビル使いたい」という記憶を残す。つまり、“スムーズな現場体験”が、「紹介される物件」の記憶を形成していく。 「説明しやすさ」は、仲介営業にとって最大の安心材料になる 整えられた物件情報(図面・写真・スペック表)は、ただテナントに渡す資料ということだけではない。仲介営業がテナントに説明するときに立つ“言葉の足場”であり、その安定感があるかどうかが、紹介に踏み切れるかの判断基準になる。たとえば・「天井高2,600ありますよ」・「このフロア、士業が入っていて静かです」・「トイレは去年リニューアル済みで照明もLEDです」これらが自然に口をついて出るように整っていれば、仲介営業は安心して内見案内できる。さらに、現地でビル管理会社のリーシング担当がその場で補足できれば、仲介営業は“さらに動きやすく”なる。重要なのは、「どんな風に説明されたいか」まで見越して整えてあること。それが、“説明しやすいビル”と評価される分岐点になる。 「仲介営業の動線」から逆算して設計する 結局のところ、空室が埋まるかどうかの入り口は、「紹介されるかどうか」だ。そしてその鍵を握っているのは、テナントではなく仲介営業だ。だからこそ、すべての整備と準備は「仲介営業の動線」から逆算して考えるべきだ。仲介営業の動きは1.物件情報を見て候補に入れる2.内見案内の段取りを組む3.現地で内見案内し4.内見案内後に説明を補足し5.テナントの反応を踏まえて再提案するこの流れが“つっかえずに流れる”ビルこそが、紹介される。そのために必要なのは、物件のスペックの高さではなく、「段取りと現場の整え方」だ。 空室を埋める前に、“内見案内される条件”を整える 空室が出たとき、すぐにリノベや賃料調整に走る必要はない。その前に問うべきは、「このビル、仲介営業に紹介されているか?」ということだ。仲介営業にとって・“動きやすい”ビルか・“面倒くさい”ビルかこの分岐は、たった数秒のテンポとわずかな段取りの差で決まってくる。だが、そのわずかな差を丁寧に積み上げている物件だけが、現実に“次も紹介される”物件になっている。空室対策の成否は、すでに内見案内の現場で決まっている。 第5章:「決まるビル」とは、仲介営業が“最後に推せる”ビル 「テナントが選ぶ」のではなく、「仲介営業が選ばせている」 テナントが最終的に契約するのは、内見案内された複数の物件のうち、たった1件だけ。だが、その選定を誰がどう後押ししたか──そこを見落としてはいけない。内見案内が終わると、営業担当は必ず聞く。「どうでしたか?」と。返ってくるのはたいてい、曖昧な反応だ。・「まあまあ良かったです」・「他の物件も見てみたいですね」この曖昧なやりとりの裏で、営業担当はすでに判断している。「このビル、決め打ちしていいか?それともやめておくべきか?」この“静かな線引き”が、提案の流れを決めている。つまり、「決まるビル」とは、仲介営業が「選ばせたい」と思ったビルだ。 「推せるか/推せないか」は、自分の仕事のリスクで決まっている 仲介営業がビルを“推す”とき、そこには「この案件、自分が責任を持てるか?」という明確な判断がある。判断の基準はシンプルだ。「あとで面倒にならなそうか?」という一点。たとえば以下のような要素が揃っていると、営業は安心して提案できる・ビル管理会社の対応が的確で速い(質問に即答できる)・内見案内の段取りがスムーズで、現地での補足も破綻がない・物件情報(図面・写真・数値)の精度が高く、現況と整合性がとれている・物件のスペックが明記されていて、テナントの質問にも即答できる・入居後にトラブルになりそうな要因が見当たらない(過去のクレーム事例も少ない)これらは、すべて「自分の仕事にリスクが跳ね返ってこない」ことを確信できる材料であり、“推せるかどうか”は、それをどこまで仲介営業が肌で感じられるかで決まる。 「わからない」は、最大のブレーキ 仲介営業にとっての“ちゃんとしてるビル”とは、「スムーズに説明できるビル」のことだ。逆に言えば、説明に詰まりが出た瞬間に「推せない」側へ傾く。たとえば・物件情報の数値/図面と現地にズレがある・物件のスペック資料に載っていない仕様がある・「この点ってどうなってます?」とテナントに聞かれて、物件情報を見ても、回答しようがない。・「あとでビル管理会社に聞いておきますね」が何度も出てくるこうした些細な「わからなさ」の積み重ねが、仲介営業の判断を鈍らせる。「何かあったらまずいな」という不安が勝った時点で、そのビルは“提案候補”から外れる。 最後の一押しが“自然に出る”ビルだけが残る 最終的にテナントが意思決定をする場面で、「ここで決めませんか?」という一言が自然に出せるかどうか。そこには、仲介営業の中で、確信が育っている必要がある。・ビル管理会社の対応に不安がない・入居後のトラブルやクレームが想定しにくい・提案後、フォローの必要があまりなさそうこれらの「先が読める」「リスクが低い」という安心感が、仲介営業の背中を押す。だから、“決まるビル”には、必ず「安心して推せる空気」が流れている。 第6章:仲介営業の“つま先”が止まるビル ──「内見案内されない理由」は、スペックではなく“足もと”にある 「なんとなく違う」──物件は“頭”ではなく“足”で選ばれている 「今回はやめておきましょうか」「この物件、ちょっと違う気がするんですよね」仲介営業が内見で物件を訪れたとき、物件資料を見返すわけでもなく、募集条件を詳細に比較するでもなく、その場の“空気”を感じ取って、すっと引き返すことがある。その判断は、頭ではなく身体――もっと言えば、「足」がしている。・なんか足取りが重い・立っていて落ち着かない・暑い、臭い、声が響く・どこをどう説明していいかわからない物件情報の数値/図面にもスペック表にも書かれていない、言語化しにくい情報。だがその微細な“ノイズ”が、「この物件はやめようかな」と営業の“つま先”を止めてしまう。 「違和感」とは、理屈よりも先に反応している身体のセンサー たとえば──・エントランスの空気がもたついている・共用部に、空室のよどみが漂っている・ドアノブの手触りが異様に古い・声が反響して落ち着かない「・ここを見せよう」と思える軸がないこうした要素は、必ずしもテナント本人が認識するとは限らない。でも、仲介営業がその空間でうまく動けないと、「やめておこう」という判断が生まれる。「このビル、図面で見たときは良かったんだけど、内見してみるとちょっと違いましたね」──テナントがそう言うとき、その“ちょっと違う”の正体は、仲介営業と共有された言語化されない違和感なのだ。 「ノイズがないこと」が、物件を自然に“通過”させる では、仲介営業がスムーズに案内できる物件には、何があるのか?実は、目立った魅力や演出があるわけではない。むしろ、「邪魔をしない」「拒否されない」状態があるだけだ。たとえば・暑くない/寒くない・臭くない・暗くない・動線に迷わない・共用部に気まずさがないこうした「ノイズのなさ」は、いわば“マイナスの排除”にすぎない。でも、それこそが仲介営業の足どりを軽くし、説明のテンポを崩さず、自然に内見案内ルートを組み立てられる鍵になる。 「選ばれるビル」は、拒否されなかった物件なのかもしれない 成約に至るビルが、必ずしも魅力的とは限らない。仲介営業が止まらず、テナントが違和感なく進んでいった結果、「ここで決めましょうか」と静かに決まることがある。つまり勝負を分けているのは、“推せる魅力”ではなく、“拒否される違和感”がなかったかどうかだ。仲介営業が立ち止まらず、説明が詰まらず、つま先が止まらない状態で動けた物件。それが「決まるビル」の共通点である。必要なのは、「整っている」こと。その整いは、仲介営業の身体が反応しない“静かな正常さ”のことだ。言い換えれば、物件が仲介営業という回路にスムーズに接続される条件が、きちんと揃っているということ。それだけで、紹介も、内見案内も、提案も、流れるように動き出すのだ。 第7章:その賃貸オフィスビルは、“紹介される物件”として認識されているか? ──仲介営業の「世界」からこぼれ落ちた物件たち 「スペックは悪くないのに、なぜか決まらない」 物件情報の数値/図面を見れば、特に大きな欠点は見当たらない。立地も悪くない。賃料も相場通り。設備も古すぎるわけじゃない。──それなのに、内見案内も入らず、問い合わせも続かず、いつまで経っても空室が埋まらない。オーナーやビル管理会社にしてみれば、「なぜ決まらないのか、まったく分からない」と首をかしげるしかない。だが、仲介営業の側から見ると、そうした物件にはある“距離感”が生まれている。それは、物理的な距離ではなく、“紹介される世界”から心理的にこぼれてしまっている物件という距離感だ。 仲介営業の中にある、“紹介される物件”という幻想 仲介営業は、毎日何十、何百という物件情報に目を通している。だが、そのすべてを一物件ずつ比較検討している時間はない。仲介営業の判断は、データ、数値による評価というより、「扱える気がするか/しないか」という感覚で下されている部分が大きい。・「このエリアの物件は大体スムーズに進む」・「このビル管理会社は、現況とのズレが少ない」・「このシリーズの物件は、内見案内しやすい」こうした“感覚的な地図”は、営業個人の経験に加え、同僚や業者間の会話、成功体験・失敗体験の共有のなかで、共有知のようなかたちで形づくられている。つまり、営業担当の頭の中には、「紹介していい(紹介できる)物件」のイメージが、幻想として漂っている。その幻想に映り込めない物件は、物件のスペックに見るべきポイントがあったとしても“存在しないも同然”になってしまう。 「物件情報がある」≠「紹介の対象になっている」 物件情報が届いている、ポータルに掲載されている、メールで案内された――それは物件の情報が“存在している”というだけにすぎない。仲介営業の頭の中で「内見案内候補」として浮上してこなければ、その物件は紹介されない。たとえば、ビル管理会社のリーシング担当が、仲介営業に対してアプローチをしたとしても・物件情報の数値/図面を送ってもスルーされる・内見調整の提案をしても、後回しにされる・現地案内をしても「また今度」と流されるこうして、物件は静かに仲介営業の思考の“視界の外”へと押し出されていく。これは、テナントに「選ばれなかった」物件ではない。「そもそも選ばれてすらいない」紹介されていない物件である。 「紹介される物件」から、こぼれていく過程 仲介営業の中で「紹介される物件」として認識されるには、小さな記憶の積み重ねが必要だ。逆に、その信頼が損なわれるのも、一つひとつの些細な体験から始まる。・現地と物件情報の写真が微妙にズレていた・ビル管理会社との連絡がちょっとかみ合わなかった・内見案内時に少し説明が詰まった・テナントから不満が出たことがある・過去の案件で、何となくスムーズに進まなかったこうした断片的な違和感が、やがて「なんとなく扱いづらいビル」の印象となって蓄積する。さらにやっかいなのは、それが個々のビルだけにとどまらず、ビル管理会社の名前や物件ブランドごとに“印象の連鎖”が起こることだ。いつの間にか「この管理会社の物件、なんかやりづらいんだよな」と、無意識に敬遠されるようになっていく。 選ばれないのではなく、「認識されていない」状態 ここが重要なポイントだ。紹介されないビルは、「選ばれなかった」のではない。“選ばれる以前に、見えていない”のである。・物件のスペックは整っている・募集条件も妥当・物件情報の数値/図面も写真も更新されている──にもかかわらず、案件が動かないのは、その物件が仲介営業の中にある「紹介できる物件」の幻想に映っていないからだ。これは、テナントに「評価されなかった」という問題ではない。そもそも“見えていない、視界に入っていない”という問題なのだ。 空室対策は、「紹介の風景」に再び入り込むことから始まる 空室が埋まるビルは、必ずしもスペックで勝っているわけではない。ただ――紹介されている。それだけだ。物件情報が共有され、案内が組まれ、内見が実施され、候補に上がる。つまり、「紹介される物件」として、日々の営業プロセスの中に位置づけられている。だから空室対策として、・物件情報の図面を更新して、磨くこと・物件情報の写真を演出すること・募集条件を調整することこれらはもちろん有効な手段だ。だがそれらよりも先に、本質的にテコ入れすべきは、「紹介という現実」の中に、再びそのビルを映り込ませることにある。 「紹介される幻想」に、もう一度参加すること 仲介営業は、毎日物件情報を見て、扱っている。そのなかで、誰に言われるわけでもなく、いつしか「紹介していい物件とは何か」という暗黙の了解が形成されていく。それは、誰かが明示的に選んでいるわけではない。でも確かに、「扱える物件の気配」は滲み出ている。・メール対応の早さ・質問への回答の正確さ・現地の内見案内のスムーズさ・雰囲気のノイズの少なさ・物件資料の写真・図面の見やすさそうした小さなやり取りの積み重ねが、「あのビルなら紹介できそうだ」という幻想を静かに育てていく。そしてこの幻想の中に、物件がもう一度参加できたとき、はじめて“空室が埋ま”っていく。 勝負は、「物件のスペック」や「募集条件」だけじゃなく「意識の中に存在しているか」 空室を抱えるビルが、まず意識すべきは、「リノベーションをした方が」「募集条件を合わせた方が」についての検討はさておいて、問うべきは、「このビルは、いま仲介営業の頭の中に存在しているか?」ということだ。わずかな違和感の解消、説明のしやすさ、内見案内のテンポ感、応対の信頼感――そうした繊細な相互作用のなかで、物件は徐々に「紹介される風景」に滲み出していく。このプロセスは、いわば共同幻想の境界線を少しずつ湿らせる作業に近い。乾いて離れてしまったビルを、じりじりと“中”へ引き戻す営みだ。空室対策とは、募集条件調整、リノベーションだけじゃない。「紹介される物件」として、現実のなかにもう一度浮上できるかどうか。その一点にかかっている。 最終章:賃貸オフィスビルは“扱われる”ことで、息を吹き返す ──「紹介される」という現実に、もう一度つながるために いま、賃貸オフィスビルの空室に悩んでいるオーナーの中には、募集条件を見直して。リノベーションも手掛けて、あとは運かタイミングの問題だと感じている人も少なくないかもしれない。だが、本当に問い直すべきなのは、そういった「建物そのもの」なり「条件」ではなくて、そのビルがいま――仲介営業の“日常の風景”に、ちゃんと存在しているかどうかだ。 賃貸オフィスビルは、「紹介される物件」という“流通”の中で初めて存在する どれだけ良い条件で募集を出しても、仲介営業の意識にのぼらなければ、その物件は紹介されない。 紹介されなければ、案内もなく、提案もされず、選ばれることもない。賃貸オフィスビルの情報サイトに掲載されていようと、物件の写真が綺麗だろうと、「流れていない川」に浮かぶだけの存在になってしまう。この現実は残酷だが、正確でもある。空室が埋まるビルと、いつまでも決まらないビルとの差は、仲介営業に扱われて、「紹介される」かどうか、まさに、そこなのだ。 共同幻想は、意図的にはつくれない。けれど、整え、育てることはできる 仲介営業が「あの物件なら扱える」と感じるとき、そこに誰かの指示やルールがあるわけではない。それは、日々のやりとりのテンポ、空間の印象、説明のしやすさ、対応の正確さといった、無数の断片的な経験のなかから、じわじわとにじみ出てくる“気配”のようなものだ。この気配は、強引につくることはできない。だが、整えることはできる。たとえば、不自然な間取りにちょっとした内見案内の導線を足すこと。質問への回答を翌日に回していた内容を、当日中に返すこと。どれも地味だが、そうした小さな対応の積み重ねが、仲介営業の身体と意識の中に「この物件、扱いやすいかもしれない」という感覚を、確実に残していく。そして、その“感覚”が一人だけでなく、複数の仲介営業のあいだで、なんとなく共有され、なんとなく語られ、なんとなく思い出されるようになったとき――それはもう、“共同幻想”として立ち上がっている。誰かがつくるものではない。だが、確かに「そこにある」と皆が思い始める。その幻想の中に入り込めた物件だけが、「紹介されるビル」として再び現実に浮かび上がってくるのだ。 空室対策とは、「存在を取り戻す」ための運用である いったん、仲介営業の記憶からこぼれ落ちたビルを、もう一度“紹介の風景”に戻すには、それなりの時間と丁寧な対応・運用が必要になる。だが、それらの努力によってビルが再び扱われはじめた瞬間、空気は確実に変わる。物件のスペックや募集条件で他を圧倒できないとしても、仲介営業の動線の中に入り、意識にのぼり、身体が自然と動くようになったとき、そのビルは再び“紹介される可能性のある場所”に浮上している。空室対策とは、物件のスペックなり、募集条件の調整だけじゃなくて、仲介営業の記憶への再接続だ。「紹介される物件」という共同幻想に、もう一度接続されるための地道な回復プロセスなのだ。 終わりに:あなたのビルは、もう一度“扱われる側”に戻れるか? いま、この瞬間にも、無数のビルが「存在していない」ものとして日々の営業活動をすり抜けていく。紹介されないビルには、永遠に声がかからない。だからこそ問いたい。そのビルは、いま誰の現場に“存在している”か?いま、誰の手によって“扱われている”か?空室を埋めるとは、誰かの記憶に、身体に、日常に――もう一度“戻る”ことなのだ。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月9日執筆

築古オフィスビルは、なぜ“残る”のか?─東京の再開発と資本能率性の盲点

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古オフィスビルは、なぜ“残る”のか?─東京の再開発と資本能率性の盲点」のタイトルで、2026年1月5日に執筆しています。 少しでも、皆様に新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに──賃貸オフィスビルは、どこまで「場所」で儲かるのか?第1章:資本主義が見落としてきた「場所の特殊性」第2章:「東京」という局所性が築古の賃貸オフィスビルを延命させてきた第3章:「ストック市場」と「フロー市場」の構造的矛盾が築古の賃貸オフィスビルを揺さぶる第4章:ファンド資本主義の隙間で生き延びる、築古の賃貸オフィスビル第5章:ズレを引き受ける空間としての築古の賃貸オフィスビル―資本主義の“余白”に生きる最終章:都市の綻びに宿るもの──築古の賃貸オフィスビルという生存装置 はじめに──賃貸オフィスビルは、どこまで「場所」で儲かるのか? 賃貸オフィスビルの経営って、よく考えてみると、ちょっと不思議なビジネスだと思いませんか。やっていることは、シンプルです。土地の上にオフィスビルを建てる。できるだけ良いビルを建てる。そして、そのビルのオフィス空間をテナントに貸して、賃料という“場所代”をもらう。基本的には、それだけ。でもこの仕組みは、何十年も変わらずに機能し続けています。いったい、賃貸オフィスビルという事業の成立において、「場所」が持つ力は、どこまで大きいのでしょうか。少し立ち止まってみると、これは資本主義にとって、なかなか解けない問いでもあります。市場経済の原則では、すべてのモノやサービスは、需要と供給によってフラットに評価されるべきだとされます。リンゴも、パソコンも、オフィスも、同じルールで価格が決まるはず。けれども、「土地」だけは、どうしてもそうならない。 特に東京を見れば明らかです。日本中にこれだけ広い国土があるのに、経済活動は異様なまでに一極集中し、限られた土地にだけ極端な価値が宿る。そして、ほんの少し郊外に外れただけで、オフィスの賃料や土地の評価は大きく変わってしまう。この局所的な偏りは、「市場の公平な価値付け」では説明しきれません。 むしろ、賃貸オフィスビルというビジネスの根底には、「資本主義がうまく扱えない特殊性」、言い換えれば、「資本主義の外側に残された価値」が、じわりと作用しているのかもしれません。実際、東京の賃貸オフィス市場は現在、空室率の改善、賃料水準の上昇など、いわば「好調」に見える状況にあります。ですが、そうした表面的な回復基調の裏で、築古の賃貸オフィスビルには、別の現実が静かに忍び寄っています。売買価格(=ストックの価値)は上昇を続ける一方で、築古物件の賃料収入(=フロー)は頭打ちに近づいており、「この価格に見合うだけの収益が、本当に得られるのか?」という根本的な矛盾が、じわじわと表面化し始めているのです。もしこの矛盾が臨界点を超えたとき、「築古の賃貸オフィスビルはもう成り立たない」という未来がやってくるのかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか?賃貸オフィスビルが築古になっても、場所としての価値が失われるとは限りません。むしろ、建物の効用や資本の論理では説明しきれない「場所のちから」が、そこに静かに息づいているとすれば──それは、築古の賃貸オフィスビルが“まだ使える”というだけの話ではなく、「資本主義という仕組みそのものに潜むズレ」を映し出す、ひとつの鏡なのかもしれません。ちょっと難しく聞こえるかもしれませんが、大丈夫です。このコラムでは、賃貸オフィスビルが収益を生むうえで、「場所の価値」がどのように作用してきたのかを改めて見つめ直しながら、築古の賃貸オフィスビルの価値をどう再発見し、どう延命していけるのか──その実務と思想の両面から、現実的に考えていきたいと思います。それでは、一緒にその謎を解きに行きましょう。 第1章:資本主義が見落としてきた「場所の特殊性」 市場という仕組みは、そもそもすべての財やサービスを、フラットなルールで交換する場として設計されています。リンゴでも、自動車でも、オフィス空間であったとしても、価格は需給のバランスで決まり、効率のいいものが選ばれて残り、そうでないものは淘汰されていく。そうした新陳代謝によって、資本主義は成長していく──そんな理屈です。 でも、そのロジックに、ぴったり当てはまらない存在がある。それが「場所」、土地や空間です。場所には、モノやサービスにはない「偏り」があります。たとえば、品川駅前の一等地を、青森とか地方都市に“引っ越し”させることはできないし、希少性のある立地は、それだけで特別な価値を持ってしまう。 資本主義の教科書的なロジックに照らせば、こうした“動かせない偏り”は、むしろ制度の歪みとして扱われることが多かった。実際、古典派経済学のリカードは、土地の生産性の差から生まれる「差額」が地代の根拠になると説明しました。つまり、土地はそもそも他の財と同じ市場原理では扱いきれない、特権的な利潤構造を内包しているのです。 そして、いまの東京の賃貸オフィス市場を見渡してみれば、その理論が、思いのほか“生々しいかたち”で現実化していることがわかります。たとえば、千代田・中央・港といった都心3区にある築古の賃貸オフィスビル。築年数が30年を超えて、設備も最新水準とは言いがたい―にもかかわらず、意外に高い賃料水準でテナントが入っているケースは少なくありません。それは、いわゆる「ビル性能」をもとにした市場の効率的な価格形成から、明らかにズレています。このズレこそが、「場所の力」が働いている証です。 企業にとって“立地”とは、単に駅からの距離だけを意味するものではありません。顧客や取引先との心理的な距離感、従業員が“この場所”で働いていることの満足度、そして「このエリアにオフィスを構えている」ということ自体が持つ信用やブランディング効果──そうした複数の価値が複合的に絡み合い、“場所”という一点に集約されます。これらは、坪単価やスペック比較では可視化しにくい、「非数値的な便益」です。にもかかわらず、実際の入居判断には決定的な影響を与えています。「築古だけど、ここにあるから選ばれる」──この構図を見過ごすと、立地が支えるビル価値の実態を読み誤ることになります。 ただし、そうした「場所の特殊性」も、いつまでも続く保証はありません。テレワークの普及、業態の変化、都市計画の転換、人口動態の変化……社会が変われば、場所の“特別さ”もまた変容していきます。築古の賃貸オフィスビルが、いま直面している不安定性は、まさにこの「場所の価値」が、時代の中で揺らぎ始めていることに発するのかもしれません。 言い換えれば、築古の賃貸オフィスビルが生き残っていくに際して問われているのは、設備更新やリノベーション等に対する投資判断だけではなく、資本主義の中でうまく扱い切れなかった「場所の特殊性」とどう付き合い直すかという、根本的な課題なのです。この「資本主義が見落としてきた価値」に、どんなヒントがあるのか?次章では、もう少し具体的に、「東京」という空間を起点に考えてみたいと思います。 第2章:「東京」という局所性が築古の賃貸オフィスビルを延命させてきた 前章では、土地や空間といった「場所」が持つ特殊な価値が、市場原理に基づく資本主義の枠組みでは十分に扱いきれないことを論じました。築古の賃貸オフィスビルが、「東京」という局所性を背景に価値を保ち続けているのも、その延長線上にあります。ここでは、もう少し具体的に「東京」という都市そのものにフォーカスし、その局所性が築古ビルの延命にどう作用してきたのかを掘り下げてみます。あわせて、その局所性に限界が訪れたとき、どのような変化が起きうるのかも想像してみたいと思います。 「東京」という都市が築いた、特別な立地価値 東京の賃貸オフィスビル市場が、日本全国の中でも飛び抜けた特別な存在であることは、誰もが認めるところです。高い賃料水準、集中的なオフィス需要、交通や商業機能の圧倒的集積。それらは東京という都市が時間をかけて積み上げてきたものです。思い返せば、東京は戦後の空襲で一面の焼け野原となった場所でした。そこからの復興期、高度経済成長、バブル経済、そして現在に至るまで、政治・経済・文化の機能が意図的に集中され、「特別な立地価値」をもつ都市へと成長してきたのです。政府機関の集積、大企業の本社機能、金融市場、情報発信拠点としての役割がすべて東京に集められた結果、地方都市では実現できない経済的優位性が形成されました。こうした構造の中で、築古の賃貸オフィスビルもまた、立地という「場所の力」を借りて価値を保ち続けてきました。多少古くても、設備が劣っていても、「東京のど真ん中」にあるという理由だけで、「信頼できる立地」として認められ、一定のテナント需要が保証されていたのです。 局所性に永続性はあるのか? しかし、この「局所性の恩恵」も永続するとは限りません。東京の賃貸オフィス市場は長らく順調に推移してきましたが、すでにその構造に小さな揺らぎが見え始めています。示唆的なのが、アメリカの動向です。ニューヨークやシリコンバレーといった超高地価の都市圏から、企業や若年層がテキサス州のオースティン、ヒューストンへと移動するケースが増えています。背景には、地価の高騰による生活・事業コストの上昇と、それに見合わない経済的リターンへの不満があると言われます。このような現象は、経済活動が特定の場所に過度に集中した結果、「バランスを取り戻す力」が市場から自然に生まれることを示唆しています。立地の特別性が限界まで膨らみ、フロー(賃料)とストック(不動産価格)のバランスが崩れたとき、人や資本は新たな場所へと移動していくのです。出典:CBRE「U.S. Office Market Outlook」U.S. Census Bureau(都市圏別人口統計)Reuters(企業動向に関する報道) 東京でも「変化の力」は動き出している もしも東京がもっと狭い都市で、賃貸オフィスビルの供給余力も小さく、飽和していたとしたら、こうした移動はすでに起きていたかもしれません。けれども、東京は広大で、かつ日本社会の中枢機能が過度に集中しているため、「変化の力」が顕在化するには時間がかかっていると言えるのかもしれません。それでも、近年ではテレワークの浸透や働き方の多様化に伴い、東京の一極集中に対する限界を、多くの企業が少しずつ感じ始めています。都心にオフィスを持つことのメリットが、以前ほど絶対的ではなくなってきている──そうした認識が広まりつつあるようにも感じられます。一部の企業では、非中枢機能を郊外や地方都市に分散し、サテライトオフィスを設けるなど、拠点構成の見直しが始まっています。都心に本社を置き続けるという大きな流れは維持されているものの、「立地の特別性」が相対化される兆しが出てきているのは確かです。 「東京である」だけでは守りきれない価値 だからこそ、築古の賃貸オフィスビルに求められるのは、「東京にあるから価値がある」という発想をいったん疑ってみることです。これからの時代、「東京の立地性」だけに依存した延命戦略は、いずれ限界を迎えるかもしれません。むしろ、「このエリアだからこそできる」「この物件ならではの魅力がある」といった、より具体的で身体性のある価値づけこそが求められるのではないでしょうか。築古ビルの延命において、「場所の力」を過信せず、「場所との付き合い方」をアップデートしていく──その視点が、これからの局所性戦略の核心となるはずです。 ただし、ここでひとつ立ち止まって考えたいのは、「場所の価値」が際立てば際立つほど、それが資本の論理によって“商品”として過剰に評価されてしまうリスクがある、という点です。実際、不動産市場では立地の希少性が評価されるあまり、実態の収益力と乖離した価格形成が進みつつあります。築古の賃貸オフィスビルがもつ「場所の特殊性」は、価値を支える一方で、ファンド資本主義の射程にも取り込まれやすい──。このねじれた構造のなかで、いま何が起きているのか?次章では、「ストック」と「フロー」という二つの市場のズレに注目しながら、築古の賃貸オフィスビルを取り巻く資本主義的矛盾の正体を掘り下げてみたいと思います。 第3章:「ストック市場」と「フロー市場」の構造的矛盾が築古の賃貸オフィスビルを揺さぶる 土地や空間という資源は、本来、資本主義の市場原理が苦手としている「局所的で代替不可能なもの」です。再生産も流通も不可能な「一回性のモノ」である土地は、理論上のフラットな市場とは相性が悪く、その意味では資本主義の“外側”に置かれていたはずでした。ところが、資本主義が成熟し、「ファンド資本主義」とでも呼ぶべき段階に突入すると、この本来“外側”にあったはずの土地・不動産も、資本運動の射程に組み込まれていきます。まさにその点に、築古の賃貸オフィスビルが直面している最大の構造的課題が潜んでいます。 ファンド資本主義が生み出す「資産価格の膨張」 資本主義の仕組みを考えるうえで、少し歴史をさかのぼってみましょう。資本主義が本格化する前──とくに農業を基盤とした封建社会では、土地を耕して得た“余剰”は、領主のもとへ「年貢」や「地代」として吸い上げられていました。この時代の土地は、作物をつくるための生産手段であると同時に、「余剰を吸い取る装置」でもあったのです。現代の不動産賃料も、ある意味ではこの構造の延長にあります。借り手が稼いだ利益の一部が、賃料というかたちで貸し手に吸い上げられていく。その意味で、家賃や地代は、資本主義の「自由競争と価値創造」という原則から見ると、やや異質なしくみ──言うなれば、“封建制のなごり”とも言えます。こうした視点で見ると、GAFAのような巨大IT企業がつくったプラットフォームに、私たちユーザーが自覚のないまま“地代”を払っている構図──いわゆる「テクノ封建制」──もまた、封建的な支配構造の現代版と考えられるかもしれません。土地ではなく、デジタル空間が“場所”になり、そこにいること自体がコストを生む。つまり、時代が変わっても、「場を支配する者が利益を得る」という構造は、かたちを変えて生き残っているのです。 一方で、産業資本主義が成熟していくと、企業が利益として蓄積する資金量は、実際の製造・販売に必要な投資額を上回るようになります。銀行はその余剰資本の受け皿となって産業に貸付を行い、生産効率を高める装置として機能しましたが、余剰資本の膨張とともに、やがて投資先の選別が困難になり、資本は生産と乖離しながら「自己増殖する資本」へと変質していきます。このとき登場するのが「ファンド資本主義」です。株式や債券といった金融商品だけでなく、金(ゴールド)、さらには、土地や不動産のような、本来は資本主義の周縁にある資産にまで、ファンドの資金が雪崩れ込むようになったのです。その典型が1980年代後半の日本のバブル経済であり、あるいは、近年の世界的な超金融緩和のなかでの不動産価格の上昇です。こうして土地や建物の価格は、もはや実用価値では説明のつかない水準にまで引き上げられていきます。当然ながら、その先に蓋然性を以て予見されるのは、バブルとその崩壊という“いつか来た道”です。中央銀行が金融政策でその振幅を制御しようとはしていますが、将来にわたって「完全に抑えられる」のかは不透明と言えるでしょう。 賃貸オフィスにおける「ストック」と「フロー」のズレ こうしたファンド資本主義の影響を最も強く受けている分野の一つが、不動産市場です。東京都内の賃貸オフィスビル市場では、特に売買価格(ストック)は上昇を続けています。ファンドを含む外資、地方の事業会社、中堅の不動産会社などが、収益還元可能な水準を超えた価格でも取得を試み、市場の売買価格はじりじりと切り上がっています。しかし、その一方で、オフィス賃料(フロー)には明確な上限があります。テナントが支払う賃料は、自らの事業によって得られる利益の範囲内に制約されており、それを超える賃料を支払えば、たちまち事業は成立しなくなります。つまり、賃貸オフィスビルのフロー収入は、ファンド資本主義が描く“理想的な収益曲線”ではなく、企業活動の実態や経済の基礎体力という“現実”に律されているのです。この現実とは、極めて当たり前で、しかし忘れられがちな制約です。どれだけストック価値(ビル価格)が市場で高騰しても、それを支えるフロー(賃料収入)が企業活動の実態と乖離すれば、その矛盾はいずれ顕在化します。 築古の賃貸オフィスビルが最前線で受ける“歪み” この矛盾の最前線にあるのが、築古・中小規模の賃貸オフィスビルです。老朽化によってスペックが陳腐化し、天井高や設備仕様に限界がある物件は、たとえ需要があっても賃料単価を上げにくいという現実があります。一方で、都心立地や希少性、将来的な再開発余地などが評価されることで、売買市場(ストック)においては、投資家によって高値で取得されるケースが後を絶ちません。すると、その物件が生むフロー収益と、投資額との間に大きなギャップが生まれる。いわゆる「この賃料水準で本当にこの価格を回収できるのか?」という根本的なズレが表面化してきます。そして問題は、その“ズレ”が単なる投資収益の低下にとどまらない点にあります。期待したキャッシュフローが得られない状況が続けば、オーナーはビルの維持管理や設備更新にコストをかけづらくなり、やがて最低限の管理すら行き届かなくなる可能性がある。空調が壊れたまま、共用部が古びたまま放置される──そんな状態になれば、当然テナント満足度は低下し、結果として空室が増える。つまり、フローとストックの矛盾が、ビルの品質劣化→テナント離れ→稼働率低下という悪循環を引き起こす構造になっているのです。加えて、築古・中小規模の賃貸オフィスビルに入居するテナントは、費用感に対して極めてシビアな企業や個人が多い傾向にあります。したがって、設備やサービスを向上させて賃料を引き上げる余地は限られており、フローの上振れで矛盾を吸収することも難しいというのが実態です。 この矛盾にどう向き合うか こうした構造的な矛盾に対して、オーナーやビル管理会社が個別の努力で抜本的な解決を図るのは、現実的にはきわめて困難です。どれだけ内装を整備し、どれだけ入居条件を工夫したとしても、テナントが実際に支払える賃料には明確な上限があります。つまり、築古の賃貸オフィスビルにおいて収益力を根本から押し上げようとしても、それを受け止められる「市場の許容範囲」自体が限られているのです。 だからこそ重要なのは、この矛盾が構造的なものであり、避けがたい現実として存在していることを、まずは率直に受け止めることです。そのうえで、築古の賃貸オフィスビルの現場において、いま何が可能で、何を諦めざるを得ないのか──限られた条件の中で、どこまで手をかけ、どこで割り切るのかを見極める姿勢が求められます。次章では、こうした制約を前提としたうえで、それでもなお現場で実行可能な「現実的な選択肢」について掘り下げていきたいと思います。 第4章:ファンド資本主義の隙間で生き延びる、築古の賃貸オフィスビル ファンド資本主義が不動産市場を席巻する現在、築古の賃貸オフィスビルは、どのようにしてその居場所を保ち、生き延びていくことができるのでしょうか。 仮定として、もし都市の開発や不動産市場の取引が、摩擦ゼロの条件で進むと仮定すれば、非効率な建物はすべて再開発されてしまうことになるので、古びた中小規模の賃貸オフィスビルはとうに姿を消しているはずだ。だが、現実はそうはなっていません。都市の再開発には、さまざまな制約がつきまとっています。権利関係、法制度、施工リソース、建築コスト──それらはすべて、資本の論理による一斉再開発を現実から遠ざけています。さらに言えば、仮にそうした制約をクリアできたとしても、そこに投下される巨額の資本が、本当に都市の経済活動とバランスするのかという根本的な問いが残っています。ファンド資本主義のプレイヤーたちが「この市場はすでに過熱している」と一斉に判断した瞬間、開発プロジェクトの価値評価は、チューリップ・バブルや南海泡沫のように一気に崩れる可能性すらあります。要するに、この矛盾はどこかで“解消”されることはない。むしろ、整理されきれない余白が都市の随所に残ることで、逆説的に全体のバランスが保たれていると言えるでしょう。都市とは、“ノイズ”や“隙間”を含んだまま機能する構造体なのだ。言い換えれば、再開発され尽くさないことこそが、都市の延命条件であるとも言えます。 さらに、不動産市場では、売買価格(ストック)と賃料収益(フロー)との間に構造的なギャップが生じています。にもかかわらず、築古の賃貸オフィスビルが完全に淘汰されないのは、それが「ファンド資本主義の本流(メインストリーム)からわずかにズレた場所」にあるからではないでしょうか。 この“ズレ”は、単なる不完全性ではなく、「価値の余白」としての可能性を持っています。築古の賃貸オフィスビルのサバイバル戦略とは、必ずしも、新たな投資価値を創出することではありません。むしろ、資本の加速運動から少し距離を取った“非‐資本主義的空間”として、ひっそりと、しかし確かに機能し続けることにあります。それは、都市のなかに点在する“逃げ場”としての役割でもあります。制度や秩序が支配する空間とは異なる、もうひとつの場。哲学者ミシェル・フーコーは、そうした空間を「ヘテロトピア(異空間)」と呼びました。都市の秩序が張り詰めるなかで、そこから一歩引いた“別のリズム”を許容する場所──まさに築古の賃貸オフィスビルは、そうしたヘテロトピア的視点を体現しているのかもしれません。以下では、そうした「ヘテロトピア的な築古ビル」が持つ5つの特殊性について見ていきたいと思います。 特殊性①:小さな局所性が息づく 丸の内や六本木といったランドマーク型の街だけが、東京ではない。神田、日本橋、新橋といった街には、顔のある空気と時間の蓄積がある。築古ビルは、そうした“顔のある街”の一部として存在できる。たとえば神田なら、利便性や賃料の手頃さに加えて、気取らない街並みや老舗の蕎麦屋がオフィス空間に“生活の温度”を添えてくれる。これは大規模再開発エリアでは決して得られない質感だ。ファンド資本主義がスルーしていく細部の価値。それこそが、築古ビルにとってのアイデンティティになり得る。 特殊性②:小ささゆえの即応性と柔軟性 小さなビルは、速く動ける。テナントのニーズに合わせて柔軟に内装や設備を調整できること、対応が早いこと、融通がきくこと──これは大規模ビルには真似できない築古ビルの持ち味だ。今後、オフィスの在り方が流動化し、プロジェクト単位での利用やハイブリッドワークが広がるなかで、この“サイズ感”の良さは好まれる場面が増えている。要するに、小さいことによって「逃げ場」としての機動性を確保し得るのである。 特殊性③:資本の視線から距離を取った空間設計 築古ビルには、使い手の想像力を許容する“余白”がある。派手な演出ではなく、削ぎ落とされた素地。意図的なマーケティングの文脈から離れ、素朴で静かな空間が立ち上がる。たとえば、自然光の入り方を活かしたミニマルな内装や、素材そのものの質感を大切にする設計。そうした空間は、“見せる”ではなく“避ける”ための場所として機能する。資本の視線から少し距離を置く──そのことが、特定の感受性を持ったユーザーにとっては、むしろ信頼できる選択肢となる。 特殊性④:地域の物語を内包した“空間の記憶” 築古ビルには、時間の痕跡が残る。建物そのものが持つ歴史、街とともに歩んできた記憶、そこにあった営み。こうした要素は、新築ではゼロから構築しなければならないが、築古ビルには自然と宿っている。神田や日本橋の周辺の立地において、こうしたストーリーの存在は、物件選びの“最後の一押し”になり得る。過剰な演出を排し、静かな背景を持つこと。それは、地域とともにあるという信頼の証でもある。 特殊性⑤:非中心ネットワークの“点”としての接続性 都市構造がセントリック(中央集権的)からリゾーム(分散接続的)へと変化していく中で、小さな築古ビルはネットワークの“ノード”として機能する可能性を持つ。本社が都心にあっても、郊外や地方に拠点を持つ企業にとって、アクセスしやすく柔軟なサテライト拠点としての価値がある。移動型ワーク、多拠点居住、二拠点ビジネス──そうした流動的な活動にとって、「点としての空間」はかけがえのないピースとなる。 築古の賃貸オフィスビルが持つ可能性は、その“弱さ”、周辺特有のマイノリティ性、のなかにこそあります。ファンド資本主義のメインストリームから少し離れたその場所で、無理せず、過剰に抗わず、しかし確かに息づいています。都市の“端っこ”で生き延びる。そこには、派手さではなく、地に足のついたサバイバルのリアリティがあります。そして、それこそが、築古の賃貸オフィスビルが持つ唯一無二の“希望”ではないでしょうか。 第5章:ズレを引き受ける空間としての築古の賃貸オフィスビル―資本主義の“余白”に生きる 大規模な再開発が進む東京の都市空間。八重洲、日本橋、高輪ゲートウェイ、田町といったエリアでは、デベロッパーが主導し、ファンド資本を背景とした巨大プロジェクトが次々と展開され、地上40階超の超高層オフィスビルが都市の景観と機能を塗り替えつつあります。しかし、そうした「表通りのランドマーク」を一本裏に入るだけで、築年数を重ねた中小規模の賃貸オフィスビルが、静かに、しかし確かに生き残っている光景に出会います。これらの築古ビル群は、資本主義が描く都市の最適化構造にとっては、どこか“異物”のような存在です。最新の設備にも、設計上の効率性にも適合していません。それでもなお、完全に淘汰されることもなく、むしろ「最適化の網から外れた場所」に、頑なにとどまり続けています。 都市の「再開発されなさ」が示す、摩擦のリアル ある特定の築古の賃貸オフィスビルが再開発されずに残っていることに、絶対的な必然性があるわけではありません。相続、権利調整、法制度、工事コスト、近隣対応──そうした動かしがたい事情が複雑に絡み合い、結果として「動かしづらい存在」となり、偶発的に、そのまま都市の中に留まり続けているのです。完全に合理化された都市とは、イマジナリーな概念にすぎません。すべてが最適化され、資本が無駄なく配分され、スペックが標準化された社会は、理論上は正しく、美しいかもしれない。けれど、現実としてはきわめて脆弱です。揺らぎも、逃げ場もない都市は、ひとたび想定外の事態が起これば、一気に臨界点を超えてしまいかねないのです。すべての結論が出揃った都市では、新しい物語はもう始まり得ないのです。だからこそ、都市のどこかに「ズレ」があり続けること―それこそが、現実を実体として成立させるための前提なのです。築古の賃貸オフィスビルは、そのズレを物理的にとどめておく装置として、いまも都市のなかに存在し続けています。 “ズレ”が開く、生き残りの空間 収益性が低く、維持費は重く、今後の改修にも多くの課題が残る、けれど、それでも築古の賃貸オフィスビルが都市から必要とされているのは、そこに「数字に映らない需要」が息づいているからです。たとえば、歴史ある中堅企業、予算に限りがあるスタートアップ、短期利用のプロジェクトチーム、クリエイティブを仕事にする個人事業者──彼らが求めているのは、必ずしも最新スペックでも、充実した設備でもなく、「今、ここで、使える」場所なのです。大規模開発された賃貸オフィスビルでは吸収しきれない、目立たないけれど圧倒的に多数派である中小企業のニーズ。その流動的で多様な需要を、静かに、しかし確実に受け止めているのが、都市の“谷間”に点在する築古の賃貸オフィスビルです。つまり、築古の賃貸オフィスビルとは「なくなっても困らない存在」などではまったくなく、「なくなっていくと都市の基盤が静かに崩れ始める」存在なのです。 観察される構造としての“リゾーム” 築古の賃貸オフィスビルは、どれもが事情を異にし、個別に存在しています。オーナーがいて、管理会社がいて、テナントがいて、入居には仲介会社が関わる──このエコシステムは、あくまでも自然発生的であり、あらかじめ構築されたネットワークというより、それぞれの現場ごとにバラバラに動いているようにも見えます。しかし実際には、築古の賃貸オフィスビルを複数管理している私たちのようなビル管理会社の立場からは、ある特定の価格帯・スペック帯の中で、テナントがビルを“回遊”している構図が、仄かに見えてきます。それは成長とともに広いオフィスへと移動することもあれば、事業縮小により狭い空間へと移ることもある。予測不能でアドホックなこの動きは、事前に計画して意図されたものではないにせよ、確かなリズムをもって都市に存在しているのです。そこには、計画性も連携もない。けれど、都市の構造的なズレが生み出す“予期せぬ接続”が、非公式な回路として静かに機能している。その様相は、あえて言えば「リゾーム的構造が幻視される」とでも言えるでしょう。リゾームとは、戦略的に設計されるものではなく、ズレの中から偶発的に浮かび上がる構造なのです。 都市というシステムのバッファ領域として 築古の中小規模の賃貸オフィスビルは、都市空間のなかで「バッファ」としての役割を果たしています。ここでいうバッファとは、都市経済の表層に現れるメインの活動を直接的に支えるのではなく、その周囲で発生する余剰や不確定性、変動要因を吸収・緩和する“緩衝地帯”のような存在です。都市の経済活動は、常に明確な方向性をもって動いているわけではありません。起業や撤退、拡張や縮小、転居や仮住まいなど、企業や個人の判断は流動的で、計画と現実のあいだには常にズレがあって、「決まっていない」「つなぎ」「様子見」といった判断が日常的に含まれています。こうした曖昧で一時的なニーズに寄り添って、仮の拠点、つなぎの場所、あるいは撤退までの一時的な逃げ場として、築古の賃貸オフィスビルは使われていくことになります。これらの動きは、大規模できちんとした賃貸オフィスビルでは受け止めることは難しいかもしれません。築古の賃貸オフィスビルは、その柔軟さ、手頃さ、規模感によって、都市に生まれる未決定な状態を受容する受け皿となっているのです。A面ではないB面のニーズ、あるいは一時的な商流や拠点の動きに対応できる場所──そうした「定まらないもの」に都市が対応して、動的に機能し続けられているのは、まさに築古の賃貸オフィスビルのような“余白”がそこにあるからなのです。 「ズレ」が残ることで、都市は生き延びている もし都市空間のすべてが最適化され、スペックや収益性だけで評価され、資本の論理に沿って整然と配置されていたなら──それは、効率性の観点からは理想的に見えるかもしれません。しかし、そのような都市は、ほんのわずかな揺らぎにも対応できない、極端に脆いシステムになりかねません。実際の都市には、常に予定外の動きや計画されていない選択が存在します。制度の枠を越えるような人々の営み、企業の突発的な撤退や拡張といった変化は、予期せぬかたちで日々生じています。こうした揺らぎやノイズを、都市のシステムは完全に管理することができません。むしろ、都市で活動する人間や企業そのものが、システムにとっての“外部性”として立ち現れる──そうしたパラドキシカルな状況が、都市という場の本質にはあります。すべてが設計通りに整えられた都市では、計画外の事態が生じた瞬間に、逃げ場はなくなります。都市空間に曖昧に存在しているのが、築古の賃貸オフィスビルです。こうしたビルは、あらかじめ意図された機能ではなく、都市のシステムのスキ間に偶発的に生じた“誤差”であり、“ズレ”なのです。このズレが、その“ゆるさ”によって、外部性による突発的な揺らぎやノイズ──人間や企業の思わぬ動き──を吸収し、局所的な不均衡があっても全体の崩壊を防ぐクッションの役割を果たしているのです。それはまるで、生物における「免疫機能」のようです。都市というシステムが長期的に持続するためには、外部性を完全に排除するのではなく、一部を受け入れ、内側で折り合いをつけていく柔軟性が求められます。つまり、「予測不能な揺らぎを受け止める余地」を空間として持ち続けること──それが都市における“免疫”として機能しうるのです。築古の賃貸オフィスビルは、資本主義の都市設計においては“誤差”や“失敗作”として片付けられてしまうことがあるかもしれません。けれど、この誤差/ズレをあえて許容できる都市だけが、突発的な変化にも耐え、しなやかに立ち直ることができるのです。すべての結論が出尽くし、隙のない構造でできあがった都市には、新たな物語はもはや生まれません。だからこそ、“ズレ”がどこかに残り続けること──それは、単なる老朽や未整備ではなく、都市が都市としての物語を紡ぎ続けるための、根源的な生命線なのです。 最終章:都市の綻びに宿るもの──築古の賃貸オフィスビルという生存装置 都市とは、思い通りにならない場所だ。成長には摩耗がともない、整理すればはみ出し、再開発を進めれば、かならずどこかに歪みが残ります。完全に整った都市など存在しないし、存在するはずもない。人が生きる限り、そこには常に“揺らぎ”が生じます。だからこそ、都市は生きていられるのです。築古の中小型賃貸オフィスビルとは、そうした“揺らぎ”が都市のシステムの中に累積し、結果的に“誤差”として浮かび上がった綻びです。資本が期待する利回りに届かず、再開発の輪からも外れ、建築的にも制度的にも「今の正解」からは大きくはみ出しています。けれど、その不完全さゆえに、都市の中で「揺らぎを受け止める場所」として機能し続けているのです。 都市の計画は合理性で描かれていても、そこで暮らす人間の動きは決して合理だけでは説明できません。制度からはみ出す暮らし、採算に合わない動き、予測不可能な変化。その一つひとつが、都市という巨大なシステムにとっては“外部性”であり、“ノイズ”となります。けれど、そのノイズをすべて排除してしまえば、都市は均衡を失い、壊れやすくなるのです。すべてが最適化された都市では、予定外が起きた瞬間、逃げ道がなくなるのです。築古の賃貸オフィスビルは、その逃げ道として、計算外の外部性やノイズを受け止めるためのバッファとして、都市の片隅にとどまり続けています。そして、こうした誤差の累積は、やがて都市構造の中に“ズレ”を生みます。明示的な意図ではなく、結果として残された隙間。見えない構造線の軋み。きっちり閉じられなかった接合部のにじみ。その“ズレ”こそが、都市のシステムにとっての免疫として機能します。このズレは、都市にとって、欠陥ではありません。むしろその綻びがあることで、都市は柔軟に揺らぎを吸収し、突発的な変化を受け流し、耐える構造を保つことができるのです。正解や完成に向かわないものが、あえて整えられないまま、局所的に「なんとなく」存在し続ける。それは都市にとって、人間的な空間を残すための最後の余白です。 「今ここで、なんとなく機能している」。それは、一時的かつ局所的で、かつ曖昧な状態かもしれません。けれど、その“いびつな”状態があることで、都市は壊れずに済んでいます。完璧でないものが、完璧であろうとする都市全体を、結果的に支えている──このパラドクスを、私たちは見過ごすべきではありません。築古の賃貸オフィスビルとは、いわば「都市が過去からこぼし続けてきた誤差が堆積した空間」なのです。そこでは、計算ではなく、観察が求められています。戦略ではなく、応答が要請される。整えすぎないこと、完成させすぎないこと。つまりは、「それでもなお、人が躊躇いながらも、息をして生きている空間」を、都市のどこかに残しておくこと。その静かな在り方が、今日の都市のバランスを、知らず知らずのうちに守っているのです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2026年1月5日執筆

築古の賃貸オフィスビルのもうひとつのサステナビリティ――ESGの“外側”で考える、都市と個人オーナーが生き残る条件

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「築古の賃貸オフィスビルのもうひとつのサステナビリティ――ESGの“外側”で考える、都市と個人オーナーが生き残る条件」というタイトルで、2025年12月24日に執筆しています。少しでも、皆さんのお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに:ESGの“外側”にある、もうひとつのサステナビリティ第1章:ESGだけじゃない、“もうひとつのサステナビリティ”とは?第2章:中小規模の賃貸オフィスビルだからこそ生み出せる「都市の曖昧な魅力」とは?第3章:“地味な運営術”が築古の賃貸オフィスビルを支える第4章:個人オーナーが「持続可能」な賃貸オフィスビル経営を続けるための戦略第5章:個人オーナーが抱える“リアルな悩み”と東京の賃貸オフィス市場の未来 はじめに:ESGの“外側”にある、もうひとつのサステナビリティ 最近、「環境」「持続可能性」といったキーワードを耳にしない日はない。特に、不動産業界では、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資やグリーンビルディング認証が注目を浴び、大規模なオフィスビルを中心に、環境性能やサステナビリティ基準を満たす建築や設備への投資が盛り上がっている。しかし、その華やかなトレンドの外側で、多くの築古の中小規模ビルの個人オーナーは、やや距離感を感じているのではないだろうか。「ESG投資や認証取得は、大企業や大規模ビル向けの話だろう」「そもそも、大規模な設備投資をする資金的余裕はない」築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーにとっては、日々の賃料収入から必要な設備更新を何とかやりくりしているのが現実だ。当然、もしできるのであれば環境配慮型の最新設備に更新したいという気持ちはなくはないが、そんな余裕はない。賃料の引き上げ自体、難しいし、そもそも空室リスクが常に背後に迫っている状況では、資金を投下して、環境基準を追いかける余裕はないのだ。しかし、ここではっきりさせたいことがある。それは、中小規模の賃貸オフィスビルの個人オーナーが取り組むべき「サステナビリティ」とは、ESG投資や環境認証とはまったく違うということだ。中小規模の賃貸オフィスビルの本当のサステナビリティは、「今ある建物を、無理なく維持し、適度に手入れをし、できるだけ長く利用し続けること」にある。優先されるべきは環境配慮型の設備投資などではなく、「いかに少ない資金で必要最低限の品質を保つ工夫を重ねるか」「空室率を可能な限り低く抑え、安定したキャッシュフローを維持するか」だ。こうした地味な努力を地道に積み重ねることこそが、賃貸オフィスビル経営自体を持続可能(サステナブル)なものにし、その結果として、自然と地球環境にも貢献する真の意味でのサステナビリティを実現するのである。そして、こうしたビルが都市の中に残り続けることには、社会的にも大きな意味がある。都心の大型再開発地区の最新鋭ビルが建ち並ぶオフィス街は華やかだが、そこだけで都市が成り立っているわけではない。昔からの中堅中小企業、ベンチャー、スタートアップが都心で活動し続けるためには、リーズナブルで柔軟な賃貸オフィス・スペースを提供する築古・中小規模の賃貸オフィスビルの存在が欠かせない。これらの築古ビルが都市に点在することで、多様な規模や業態の企業が混在し、互いに交流し、社会のなかで広くイノベーションが生まれる場が形成される。もし、こうした築古・中小規模の賃貸オフィスビルがなくなり、都市が「ピカピカな再開発エリア」と「衰退したエリア」へと二極化してしまえば、都市そのものの活力は失われるだろう。築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーが「無理なく続ける」こと、それ自体が都市にとっても重要な「もうひとつのサステナビリティ」を支えているのだ。本コラムでは、いま注目される華やかなESGの議論から少し距離を置き、築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーが現実的に取れる、地味だけど本質的なサステナビリティ戦略を具体的に紹介していきたい。 第1章:ESGだけじゃない、“もうひとつのサステナビリティ”とは? 「ESG」や「サステナビリティ」という言葉を聞くと、多くの人は、ガバナンス報告書を公表しているような大企業がテナントとして入居している新築の大規模オフィスビルが取得するグリーンビル認証、あるいは省エネ設備の導入や再生可能エネルギー活用といった華々しい取り組みをイメージするかもしれない。確かに、東京都心の新築オフィスビルでは、環境性能を高めるために屋上緑化や太陽光発電、節水システム、BEMS(ビルエネルギーマネジメントシステム)の導入が当たり前になりつつあり、大手デベロッパーの開発する大規模な賃貸オフィスビルは競うように高度な環境認証を取得している。こうした環境認証の取得やエネルギー効率の改善は、もちろん、地球環境的に重要な取り組みであることは言うまでもない。しかし、中小規模の築古オフィスビルの個人オーナーにとって、最新鋭の省エネ設備を導入したり、グリーンビルディング認証を取得するために必要な改修を行うことは、あまり現実的とは言えない。「環境や社会のために何かをしたい気持ちはあるけれど、正直そこまでの投資は難しい」――これが、多くの中小規模の賃貸オフィスビルの個人オーナーの率直な思いではないだろうか。一方で、中小規模の賃貸オフィスビルが果たしている役割として、実は単に「古いままで維持され続けていること」そのものに大きな社会的価値がある。なぜなら、古いビルを丁寧にメンテナンスして長く使い続けること自体が、環境的・社会的な持続可能性を担保しているからだ。例えば、1981年の新耐震基準導入以前に建てられた賃貸オフィスビルが、耐震改修や適度な設備更新をしながらも現役で稼働し続けているとする。仮にこのオフィスビルを解体・新築すると考えると、解体時に大量の産業廃棄物が発生し、新築時には莫大な資源やエネルギーが必要になる。一方、適切なメンテナンスと小規模な更新で古いオフィスビルを維持すれば、こうした環境負荷を大幅に削減できる。また、こうした「慎ましい維持管理」は、ビル経営的にも持続可能だ。大きな負債を抱えてまで大規模リノベーションを行えば、予想外の景気後退や賃料相場の低迷によりキャッシュフローが厳しくなったとしたら、最悪の場合、物件を手放さざるを得ないというリスクに直面する。築古・中小規模の賃貸オフィスビルが目指すべき「サステナビリティ」は、環境型の設備投資や認証取得に依存するものではなく、「無理のない範囲で維持し続けること」それ自体にある。それは、「賃貸オフィスビルの個人オーナー自身が疲弊しない運営」を実現することでもある。具体的に言えば、「どこまでお金を使わず、最小限の投資でテナント満足度を維持できるか」「賃料をなるべく下げないで、空室を長期化させずにキャッシュフローを維持できるか」を意識した運営だ。地味な話だが、例えば、日々の清掃の徹底や、共用部の小さな改修をタイミングよく実施することで、テナントの退去率を下げられるならば、それこそが現実的な「持続可能性」の実践となる。さらに、設備の修繕や更新を必要最低限に抑えつつ、「使えるものは長く使い、設備更新はギリギリまで引き延ばす」といった運営・管理スタイルが、結果的には廃棄物や資源消費の削減にもつながる。このようなもうひとつのサステナビリティは、巷間に喧伝されるSDGs/ESGのような華々しい取り組みとは対照的で、表面的には目立ちにくいかもしれない。しかし、築古・中小規模の賃貸オフィスビルを所有する個人オーナーがこうした堅実な経営を続けていくことが、結果として都市に不可欠な多様性を守り、無理のない経済性を保ちながら環境負荷を抑えることにも貢献しているのだ。都市全体で見れば、こうした中小規模の賃貸オフィスビル群が担う「静かな持続可能性」こそが、東京という巨大な都市の「真の持続可能性」を支えているとも言えるだろう。 第2章:中小規模の賃貸オフィスビルだからこそ生み出せる「都市の曖昧な魅力」とは? 東京都心を歩いていると、大規模再開発エリアに建つ新築の高層オフィスビル群が目立っている一方で、古くて規模がそこまで大きくない賃貸オフィスビルも数多く存在している。これらの築古・中小規模の賃貸オフィスビルが東京の都心部で果たしている役割は何なのだろうか。 曖昧さが「多様性」を生み出す 賃貸オフィス市場において、一般に「大規模なハイグレードビル」と「築古・中小規模ビル」とに二極化していると言えよう。最新設備を備え、グレード感のある大規模ビルは、大企業や外資系企業などの一定の経済力やブランド力のあるテナントを惹きつける。一方、築古の中小規模ビルは設備面でやや見劣りするかもしれないが、比較的手頃な賃料と立地の良さを背景に、多様な業種や規模の小さいテナントを引きつけている。東京都心においては、この両者が都市空間の中で明確に線引きされて、区分されず、曖昧に混在していることこそが、都市の「多様性」を生む基盤となっている。大企業だけが集積した高級ビジネス街だけでも、中小零細企業だけの古びた街でも、都市の活力は生まれにくい。双方が隣り合い、混在することで初めて、刺激的でダイナミックな交流が促される。 「境目」のない都市空間の価値 築古の賃貸オフィスビルが担う役割の一つは、この都市空間の曖昧さを維持することだ。新しい建物と古い建物が入り混じり、大企業と中堅中小企業、スタートアップ企業やクリエイティブな個人事業主たちが同じ地域を拠点とすることで、多様な交流やコラボレーションが自然発生する。都心の再開発が進み、どこにでもあるようなピカピカの街だけになってしまったら、こうした自然な交流や偶然の出会いは大幅に減ってしまう。築古・中小規模の賃貸オフィスビル群があるからこそ、都心には予測不能な魅力が残り、イノベーションや新しい事業の種が生まれる可能性が保たれる。 中小規模の賃貸オフィスビルと都市の持続可能性 近年、ESG投資やサステナビリティといったキーワードが盛んに取り上げられる。賃貸オフィスビル市場においても、大規模な再開発エリアでは最先端の環境性能が強調される。しかし、その一方で、築古・中小規模の賃貸オフィスビルを長く使い続けるという、もう一つの「持続可能性」も考えなければならない。再開発による建替えや大規模リノベーションを何度も繰り返すには、多額の投資が必要であり、都市全体の環境負荷も大きい。それよりも、できる限りコストを抑え、現存する建物を無理なく持続的に活用することのほうが、長期的に都市環境や社会経済システムの安定性を保つうえでは有効であることも少なくない。こうした中小規模の賃貸オフィスビルの持続可能な運営が可能になれば、個人オーナーの経営負担も減り、都市の多様な空間が失われずに済む。結果として、都市全体の持続可能性にも寄与することになる。 個人オーナーの「持続可能性」も重要 都市の多様性を維持するためには、築古・中小規模の賃貸オフィスビルを運営する個人オーナー自身が経済的に持続可能であることも重要だ。ビル経営が苦しくなってしまい、建物を売却せざるを得なくなれば、都心はまた一段と画一化が進んでしまう。そのためにも、築古の賃貸オフィスビルの個人オーナーが無理のないビル経営を続けられるよう、ビル管理会社による現実的な視点でのPM・BMサービス、合理的で実効性のあるリノベーション提案、さらには賃貸オフィスビル市場の変化に対応したリーシング戦略などが必要となる。決して派手な手法ではなく、またすぐに大きな収益改善が見込めるわけでもないが、日々の運営で「小さな改善」を地道に重ねることで、築古の賃貸オフィスビルの魅力が保たれ、個人オーナー自身の経営も持続可能になる。その結果として、都市が本来持つべき多様な魅力や活力が維持されるのだ。 第3章:“地味な運営術”が築古の賃貸オフィスビルを支える 中小規模の築古賃貸オフィスビルが、都市の曖昧な多様性や魅力を生み出し、東京の都市空間そのものの持続可能性にも寄与していることを、ここまで述べてきた。その一方、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの管理・運営において、日々支えている具体的な運営術を、現場での実務経験をもとに整理していきたい。大きな投資や抜本的なリノベーションではなく、小さな積み重ねを続けていくことで、テナント満足度を維持し、結果として経営の安定化を実現できる。そんな「地味な運営術」の実務的ヒントをご紹介したい。 (1)効率的で品質を落とさない管理業務の実践 賃貸オフィスビルの管理において重要なのは、「管理・運営コストの効率化」だ。ただしこれは、「単に管理費用を削る」という意味ではなく、「無駄を徹底的に排除し、品質を維持しながらコストを合理化する」ことである。巡回点検の頻度や項目を最適化し、IoTを活用した遠隔モニタリングの適用可能性も検討して、人的リソースを有効活用する。これにより、人件費その他の費用の最適化を進め、個人オーナーが負担する管理・運営コストを抑えている。清掃品質が築古ビルを救う「基本」の威力築古の賃貸オフィスビルの現場で実感するのは、清掃品質が持つ大きな効果である。設備の老朽化を補うのは大変だ。その一方、日常清掃の徹底で共用部の印象を改善するのは、日常的なビル管理の延長で対応可能である。共用トイレや給湯室は特に重要だ。清掃頻度や手順を細かくマニュアル化し、現場スタッフと徹底的に共有することで、テナントが日々感じる清潔感を維持している。また、清掃スタッフからの「現場の異変や細かな不具合」の情報を迅速に収集し、小さな問題が大きくなる前に対処できる体制を敷いている。 (2)ピンポイントの修繕・更新でテナント満足度を向上 築古の賃貸オフィスビルでは、大規模な設備更新や全面的なリノベーションは、そうそう実施できない。そこで重要になるのが「小規模かつ効果的な修繕」の積み重ねだ。エントランスやエレベーターホールなど、テナントや内覧客が頻繁に目にする部分に限定して、小さな補修や部分的なリニューアルを計画的に実施する。例えば、壁や床の部分補修、共用トイレの設備更新、備品交換などを定期的に行うことで、低コストでもテナントの満足度を保つことが可能だ。「照明の明るさ」は築古ビルの印象改善に不可欠特に共用部の照明については、単なるLED化にとどまらず、「常に明るく清潔な印象を与える」設定を心がけている。照明を最大限明るく保つことで、築古の賃貸オフィスビルの古びた印象をカバーし、明るく印象のよい空間演出を実現している。また、LED照明の導入自体、省エネとランニングコストの削減という実質的メリットも併せ持ち、長期的なランニング費用の低減効果も期待できる。 (3)市場データを活用したリーシングでキャッシュフローを守る テナント入れ替え時のキャッシュフロー管理において最も重要なのは、「空室期間を最短にし、より条件のよいテナントに迅速に入居してもらうこと」である。当社では、その実現のために、独自に収集・分析している賃貸オフィスの市場データも活用して、戦略的で機動的なリーシング活動を展開している。具体的には、テナント退去の意思が明確になった段階から、市場データに即した最適な賃料水準を設定し、ターゲットとなるテナント層を早期に特定する。このプロセスを経ることで、退去後すぐにリーシング活動を開始でき、タイムロスなく次のテナント候補にアプローチできる体制が整っている。さらに、市場データの収集と分析において、エリアごとのトレンドや競合物件のリーシング状況を詳細に把握することもカバーしており、リーシング活動そのものにも活用している。また、原状回復工事についても迅速な手配・施工管理体制を確立し、リーシング活動との連動性を高めている。退去後の空室期間を最小限に抑えながら、新たなテナントに最適なタイミングで入居してもらえる状態を常に維持している。このような迅速かつ的確なリーシング活動の積み重ねが、築古・中小規模の賃貸オフィスビルの安定したキャッシュフローを支え、経営の持続可能性を確保するための戦略的な要となっているのだ。 第4章:個人オーナーが「持続可能」な賃貸オフィスビル経営を続けるための戦略 これまでの章では、日常的な管理運営における具体的なノウハウや工夫について述べてきた。しかし、実際の築古・賃貸オフィスビルの経営においては、日々の運営改善だけでなく、より規模の大きい適切な設備投資やリノベーション、さらには出口戦略の可能性までを視野に入れる必要がある。本章では、これらを包括的に捉え、「個人オーナーが無理なく持続可能な経営を実現するための現実的な戦略」を提示していきたい。 (1)設備投資やリノベーションにおける「現実的な判断基準」 賃貸オフィスビルの経営において、設備の更新やリノベーションは避けて通れない課題である。ただし、築古ビルの場合、大規模な全面改修や設備一新を計画すると、財務的な負担が非常に大きくなり、回収期間も長期化しやすい。そこで、重要となるのが「目的の明確化」と「投資効果の現実的シミュレーション」だ。例えば、「空室対策」「賃料の維持や微増」「競合物件との差別化」など、改善の目的を明確に定めた上で、実際の賃貸オフィスの市場の状況に基づいた投資回収のシミュレーションを行う。大規模なリノベーションに比べて、小規模な設備更新や共用部リフレッシュなど、投資効果が早期に現れ、テナント満足度向上に直結しやすい分野に絞り込むことが現実的である。また、一度に大きな投資をするのではなく、工事の規模やタイミングを分散させることで財務上の負担を抑えつつ、常にテナントに良い印象を与え続けることが可能になる。 (2)効率化された「ビル管理」の実践と重要性の再確認 日常的なビル管理の重要性については前章で詳しく説明したが、投資戦略を成功させるためにも、管理体制の効率化が不可欠である。設備点検や清掃業務、法定点検といった日常的な業務に無駄があると、その分のコストが投資余力を圧迫してしまう。個人オーナーとビル管理会社との日常的なコミュニケーションを通じて、不要な作業や効率の悪い業務を洗い出し、常に「品質を落とさない範囲でコストをコントロールする」姿勢を保ちたい。こうした効率化は、結果として投資の余力を生み出し、より効果的な設備更新やテナント満足度向上につながる改善に回すことが可能となる。 (3)築古の賃貸オフィスビルだからこそ可能な「ブランディング戦略」の効果 築古の賃貸オフィスビルには、新築のハイグレードオフィスにはない魅力があることを再認識することも重要である。歴史性、地域との連続性、趣のある建築スタイルといった要素は、一定のテナント層には大きな訴求力となる。特に、中堅・中小企業、スタートアップ企業やクリエイティブ業界のテナントにとっては、「古いけれど味わいのある空間」そのものが価値であり、それが物件選択の理由にもなる。これらの魅力を明確に打ち出し、マーケティングやリーシング活動に活用することで、競争力を維持し、市場の変動に強いポジションを確保することができる。 (4)リアルな市場データを活かした「適正な賃料設定」とリーシング戦略 賃料設定は築古の賃貸オフィスビル経営のなかでも特にセンシティブな課題である。賃料を高く設定すればテナント離れや空室期間の長期化リスクが生じ、逆に低すぎる設定は収益性を大きく損なう。ここで最も重要なのは「リアルな市場感覚」だ。PMサービスの一環としてリーシング戦略を実施するにあたって、単なる仲介会社からの伝聞にとどまらない、現場のリアルな情報を基にした賃料設定を心掛けている。近隣物件の成約賃料、テナント内覧時の反応、競合物件の具体的な特徴などを細かく分析し、個人オーナーにリアルタイムで共有している。こうした具体的かつ客観的な情報を踏まえることで、現実的で納得性のある賃料設定が可能になる。さらに、フリーレントなどの条件緩和を行う前に、その必要性を再確認し、テナントとの交渉においても根拠をもって交渉できる環境を整えている。 (5)「出口戦略」を視野に入れつつ、長期視点で資産価値を維持する 築古の賃貸オフィスビルを持続的に経営するためには、最終的な出口戦略――すなわち、売却という選択肢を常に意識しておくことも現実的である。ただし、短期的な転売益だけを狙った投資や改修は、かえってリスクを高める可能性もある。現実的な出口戦略とは、「いつでも売却できる魅力ある状態を日々維持する」ことにある。日々の小さな改善、無理のない設備更新、リアルな市場感覚に基づく賃料設定が安定したNOIを生み出し、その結果、売却時の評価額の向上にもつながる。東京の収益不動産マーケットは、国内外のファンドの参入などにより一時的な価格高騰が発生することもあるが、その波に一喜一憂せず、安定的に魅力を維持し続ける運営姿勢こそが、長期的な持続可能性を実現するための最善の道である。 おわりに――全体を通じて持続可能性を追求する 以上に見てきたように、築古の賃貸オフィスビルの経営に求められるのは、「現実的で着実な戦略の積み重ね」である。設備投資の規模を冷静に見極め、日々の管理コストを効率化し、リアルな市場データを活用して適正な賃料設定を行い、常に出口戦略を意識する――。これらを総合的に実践することで、個人オーナーが無理なく築古の賃貸オフィスビルを持ち続け、東京の都市空間における貴重な役割を果たしていけるのだ。 第5章:個人オーナーが抱える“リアルな悩み”と東京の賃貸オフィス市場の未来 はじめに――変わりゆく東京の風景のなかで 東京の街並みは、絶え間なく姿を変えている。新築時には最新の設備を備え、輝きを放っていたビルも、いつしか年月を経て「築古」の仲間入りをする。東京で賃貸オフィスビルを所有し経営することは、そうした変化にさらされ続ける曖昧で不安定な立ち位置を背負うことでもある。1980年代後半から2000年代初頭にかけて、個人オーナーや個人経営の会社が、信託銀行等、金融機関の支援を受けて賃貸オフィスビル経営を始められた時代があった。都心に土地を持つ個人オーナーたちは、当時こんな未来を夢見ていたはずだ。「しっかりしたビルを建ててテナントを集めれば、安定した家賃収入が入ってくる。それを元手にローンを着実に返済し、ゆくゆくは安心して相続できる資産を残そう――」当時の計画通りならば、15年くらいで資金回収は可能だったかもしれない。しかし現実は違った。2000年代以降、マーケットは予測を超えて揺れ動き続けた。「2003年問題」、リーマン・ショック、東日本大震災、そして新型コロナウイルスの感染拡大――約10年に1度以上のペースで訪れた外部ショックのたびに、空室率は上昇し、収入計画は狂うのではないかという危機的な状況。「本来なら15年程度で返済できるはずだったローンが、気づけば30年を超えて引きずっている……」こうした不安を抱えながら経営を続ける個人オーナーは、決して少なくない。2025年現在、大手デベロッパーによる大規模再開発が都内各所で進み、国内外の私募ファンドやREITなどの投資家がマーケットを動かしている。東京都心の賃貸オフィス市場は、ますます高度化・複雑化し、そのなかで個人オーナーが経営を持続する難しさは増すばかりだ。本章では、個人オーナーが抱えるリアルな悩みを深掘りしながら、東京の都市空間が向かう未来と、そこでの個人オーナーのあり方を考えていきたい。 (1)個人オーナーが「築古の賃貸オフィスビル」を持ち続けるリアルな困難さ 多くの個人オーナーは、賃貸オフィスビルの建設資金を銀行など金融機関からの借り入れでまかなっている。仮に、2000年代初頭に建築資金の6割を銀行融資で調達し、都心の一等地に中小規模の賃貸ビルを建てたと仮定して、安定したテナント収入を前提とした返済計画が予定通り進んだ事例はまれである。平時であっても、競合物件とのリーシング競争に苦労し、適正賃料の設定や空室対策で悩む日々が続く。そこに2003年問題、リーマン・ショック、東日本大震災のような突発的で予測不能な事態が起これば、物件によっては、空室が増え、キャッシュフローが滞り、元本返済が厳しくなってしまう。銀行に元本返済の繰り延べを相談し、了承を得ることもある。しかし、そうした措置をとったとしても借入元金が消えるわけではなく、返済期間が伸びれば利息の負担がかさむことになる。こうした綱渡りのような資金繰りを長年続けること自体が、個人オーナーにとって精神的にも財務的にも重い負担となりかねない。 (2)設備更新のタイミングが迫ったときのジレンマ 賃貸オフィスビル経営において避けて通れないのが、設備更新だ。築20年〜30年を経過すると、空調設備や給排水設備、エレベーターなどの更新が必要になる。しかし、これらの設備を一気に全面更新するための資金を、自己資金のみで準備できる個人オーナーは多くない。さらに、銀行をはじめ金融機関は、かつてとは異なり、不動産への追加融資には慎重姿勢だ。仮に設備を一気に更新したとしても、それが賃料上昇に結びつく保証もなく、資金回収には相応のリスクがあると判断されると、どうしても融資の可否、融資金額に影響する。結果として、多くの個人オーナーは「できるだけ投資額を抑え、小規模な更新工事を繰り返しながらテナント満足度を最低限維持する」という現状維持の選択を取らざるを得ないのが現実である。 (3)不動産・金融市場の構造変化がもたらす経営の難しさ 不動産・金融市場自体が、かつてとは構造的に変化していることも個人オーナーには大きなプレッシャーになっている。かつて、個人オーナーによる不動産経営は、金融機関による柔軟なサポートに支えられていた。銀行は、個人オーナーの資産状況や経営方針を理解したうえで、長期的な視点で返済計画を共に考え、持続的な関係を築いていた。しかし、近年の金融環境は大きく変化している。BIS規制の強化や金融庁によるリスク管理の厳格化が進むにつれ、銀行はより安全性の高い短期的な融資や保守的な返済計画を重視するようになり、個人オーナーへの長期的かつ柔軟な支援は、もはや期待できなくなってしまった。銀行の支援姿勢は「長期的な安定」から、「短期的な安全性」へと明確にシフトしたのである。これは個人オーナーだけの問題ではない。大手の不動産デベロッパーでさえ、株主市場や投資家からの資本効率性を求める圧力を受けて、長期保有を前提とした物件の開発を避ける傾向が強まっている。多くのプレイヤーは、竣工後まもなく私募ファンドやREITに売却し、迅速に投資を回収する「イグジット戦略」を採るようになった。このように不動産市場そのものが短期志向に傾斜するなかで、中小規模のビルを長期的な視野で保有し、安定した賃貸経営を維持したいと考える個人オーナーにとっては、きわめて厳しい環境となっている。「じっくりと資産を維持し、次の世代に引き継ぐ」という経営の余地が、急速に失われつつあるのだ。 (4)東京という都市の持続可能性における個人オーナーの重要性 その一方で、東京という街が持つ本当の魅力を考えるとき、個人オーナーが所有する築古の賃貸オフィスビルの存在意義は、決して小さくない。東京の魅力は、最新の再開発地区に象徴されるピカピカの街並みだけにあるわけではない。古いビルと新しいビルが絶妙に混ざり合い、それぞれが多様なテナントを呼び込むことで、独特な都市の個性や活力が生まれている。築古の賃貸オフィスビルが提供する手頃な賃料や自由度の高さがあるからこそ、昔からの中堅企業、個性的なショップや新興企業、クリエイティブな人々が東京の中心に集まり、結果として都市そのものが多様で魅力的な空間となっているのだ。こうした東京の都市的多様性を支えているのが、まさに個人オーナーの地味ながらも堅実な賃貸オフィスビル経営である。個人オーナーが安定的にビル経営を続けられる仕組みや環境を整えることは、東京の持続可能性を守る上でも極めて重要であると言えるだろう。 おわりに――夕暮れの東京で、個人オーナーが静かに選ぶ未来 夕暮れどき、高層ビルの影が伸び、オレンジ色に染まる東京の街を眺めながら、個人オーナーは日々「持ち続けるか、手放すか」という重い問いに直面している。短期的な利益追求が主流となった賃貸オフィス市場環境の中で、築古の賃貸オフィスビルを持ち続けることには勇気が必要だ。私たちはそんな個人オーナーの悩みに対して、実務的な知見や具体的な運営ノウハウを提供しながら寄り添い、無理のない経営を共に支えていきたい。築古の賃貸オフィスビルを所有し続ける個人オーナーの地道な取り組みこそが、結果的に東京という都市の持続可能な未来を描くための重要な鍵となることを、私たちは信じている。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月24日執筆

『契約更新時の賃料アップ交渉術|テナントの納得を引き出す秘訣』

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「契約更新時の賃料アップ交渉術|テナントの納得を引き出す秘訣」のタイトルで、2025年12月19日に執筆しています。少しでも、皆様にお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに:賃料アップ交渉は難しいのか?第1章:なぜテナントは賃料アップを拒否するのか?(心理分析)第2章:「市場環境」を味方にする交渉術第3章:「自然な賃料アップ」を実現する日頃の取り組み第4章:「予告」と「段階的アップ」という交渉テクニック第5章:「関係性維持」を重視したコミュニケーション術第6章:実践ケーススタディで学ぶ「賃料アップ交渉」第7章:チェックリストで見る「賃料アップ交渉」成功要件おわりに:賃料アップ交渉を「怖がらずに向き合える」ために はじめに:賃料アップ交渉は難しいのか? 賃貸オフィスビルのオーナー/管理会社にとって、「契約更新時の賃料アップ」は、頭の痛い問題のひとつです。東京のオフィスマーケットは、空室率の変動、景気の動向、周辺相場の変化など、さまざまな要因に左右されます。とりわけ築年数が経過したビルや中小規模の賃貸物件では、値上げを切り出した途端に、テナントが「退去」をちらつかせるケースも珍しくありません。こうした場面に直面すると、特に担当ベースでは「賃料を上げたいが、テナントの退去リスクが怖くて交渉に踏み込めない」というジレンマに陥りがちです。しかし、果たして本当に賃料アップは、それほどリスクの高い交渉なのでしょうか?実際の現場では、「値上げ=即退去」という構図が常に成立するわけではありません。むしろ、市場より割安な水準の賃料で安易に妥協して更新してしまうことで、その賃貸オフィスビルの資産価値を自ら毀損することになる、という側面も見逃せません。だからこそ、客観的な視点を持ち、冷静に交渉を設計し、テナントに納得感を与えながら、退去を招くことなく契約を維持しつつ、適正な賃料水準への調整を実現していく。そのための現実的なアプローチを、本コラムでは取り上げたいと思います。 「値上げ=退去」の誤解を払拭する交渉術とは? 本コラムの目的は、単に「値上げを成功させるテクニック」を伝えることではありません。むしろ、テナント側の心理を深く理解し、交渉のタイミング、客観的データ活用、合理的な説明方法など、実務の現場で使えるリアルな交渉術を整理して提供することです。交渉術のベースになるのは、「客観性」「合理性」「フェアネス(公平性)」という3つの視点です。これらを押さえることで、テナント側が「納得できる値上げ交渉」を進めることが可能になります。これから述べる章立てを通じて、実際に成功した事例、心理学的アプローチ、市場相場の活用法、そして実務でのコミュニケーション方法まで具体的に解説します。賃料アップ交渉は、やり方次第で「テナントの不満を高めるリスク」にも、「テナントからの信頼を得るチャンス」にもなり得るものです。このコラムを読んでいただくことで、現実的で効果的な交渉手法を身につけ、自信を持ってテナントとの契約更新交渉に臨んでいただければ幸いです。それでは次章から、具体的な内容を順に見ていきましょう。 第1章:なぜテナントは賃料アップを拒否するのか?(心理分析) 賃料アップを嫌がるテナントの心理とは? 賃料アップ交渉の場で、テナント企業の担当者が真っ先に考えるのは「コスト増による損失感」です。特に中小規模のオフィスビルに入居する企業は、大手企業ほど潤沢な経営資源を持たない場合が多く、少しの値上げであっても「コスト圧迫」として敏感に反応します。実際にはわずかな金額の差であったとしても、心理的にはそれ以上の抵抗感を生じてしまうものです。この背景には、「プロスペクト理論」と呼ばれる行動経済学の重要な考え方があります。人は利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛の方を約2倍強く感じると言われています。たとえば、テナントが年間500万円の賃料を支払っているとして、年間20万円(月額約1万6千円)の値上げを求められた場合、金額としては全体の4%ほどに過ぎません。しかしテナント側は、この「年間20万円の支出増」を実際以上に重く感じ、心理的な抵抗感が生まれるのです。 テナントの心理的抵抗を和らげるポイントとは? では、このような心理的抵抗を少しでも軽減するには、どのような対応が効果的でしょうか。ポイントは以下の3つに集約されます。①「値上げの根拠」を明確に示すテナントが最も嫌うのは、値上げが「根拠がない」「納得できない」と感じることです。「周辺相場が上がっている」「継続的に設備投資をしている」など、テナントが納得できる「具体的で客観的な根拠」を示すことが、心理的抵抗感を大きく和らげます。②「納得感」を重視し、唐突感を避ける値上げを突然突きつけられると、テナント側の抵抗感は倍増します。そのため、更新時期の前段階から一定期間の予告をし、心理的な準備期間を与えることで、テナントは感情的な拒否感を軽減できます。例えば、契約更新の半年~3か月前に「次回更新時には市場相場に基づき若干の調整を予定しています」と伝えておくだけでも、テナント側は心の準備を行うことができます。③「協議の結果、譲歩を引き出した」と感じさせることで、テナントに“心理的コントロール感”を与えるテナントが「一方的に値上げを押し付けられた」と感じると、その瞬間に強い拒否反応が生まれます。そこで有効なのが、テナント側に「選択肢があった」「協議の中で自分たちが一定の譲歩を引き出した」と感じさせる工夫です。これは、交渉の主導権を完全に奪うのではなく、一定の“心理的コントロール感”をテナントに持たせるというアプローチです。詳しくは後ほど、説明しますが、たとえば以下のような提示が考えられます。・「周辺相場と比べて控えめな上昇幅にとどめている」・「賃料引き上げの適用を半年後に繰り延べる」・「段階的にアップしていく選択肢を用意している」こうした選択肢を事前に用意し、「ご相談の結果、この範囲で調整できるご提案です」と伝えることで、テナント側は「交渉の中で譲歩を勝ち取った」と自然に感じるようになります。結果として、値上げに対する抵抗感や損失感が和らぎ、「押し付けられた」というネガティブな印象を抑えることができます。 テナントの心理を踏まえた交渉が「成功の第一歩」 テナントが賃料アップを嫌がる理由は、決して単なる金銭的負担だけではありません。心理的な抵抗感や「理不尽さ」「一方的である」という印象が大きな原因となっています。したがって、テナントの心理をしっかり把握し、具体的な根拠を提示しつつ、段階的な告知や選択肢提示による納得感の演出が賃料アップ交渉成功の鍵です。次章からは、具体的にどのように客観的データを交渉に使えば効果的か、具体的なテクニックや事例を解説していきます。 第2章:「市場環境」を味方にする交渉術 賃料アップ交渉の成否を分ける鍵のひとつは、客観的な市場環境データを上手に使えるかどうかです。特に築30年前後の中小型のグレードがさほど高くない賃貸オフィスビルの場合、テナント側から「なぜ値上げするのか?」という明確な根拠を求められることが少なくありません。その際、感覚的な説明ではなく、市場の具体的な数字や指標を提示できると、テナントも納得しやすくなります。本章では、東京の主要5区(千代田区、中央区、港区、新宿区、渋谷区)の築古・中小型・賃貸オフィスビルを想定し、客観的な市場データを活用した賃料交渉のポイントをご紹介します。 ①市場賃料相場データの効果的な使い方 賃料交渉で特に説得力があるのは、市場相場との比較です。まず、対象ビルと同じエリア、規模、築年帯の物件の賃料相場を把握するところからスタートします。例えば、『三幸エステート』のオフィスマーケットレポート(2025年第1四半期)によると、東京の主要5区における築30年程度・Cグレード以下のビルは、市場平均賃料が直近四半期で約4.5%上昇し、坪単価で約18,924円に達しています。特に2024年後半から需給が逼迫し、明確な上昇トレンドが続いています。さらに、『日経新聞』がオフィス仲介大手4社への聞き取り調査を基にまとめたデータによると、以下のエリアの既存ビルの募集賃料は前年と比較して上昇しています。 エリア既存ビル坪単価前年同期比(騰落率)市場コメント神田駅周辺11,000~33,000円△(5%未満の上昇)需要が回復し空室が少ない水道橋・飯田橋・市ヶ谷9,000~35,000円△△△(10%以上の上昇)空室面積が少ない。新築への移転例も八重洲・京橋・日本橋11,000~55,000円△△△(10%以上の上昇)既存ビルの募集が減少、強気の賃料設定八丁堀・茅場町10,000~33,000円△△△(10%以上の上昇)空室消化が進展、需給が引き締まる傾向 当社の場合、公表されている数値に、独自の調査で補足した上で、データを取りまとめています。このように、市場データを提示する際には、「当ビルと同じような既存物件」の相場感を具体的に示すことで、賃料アップの説得力が増します。 ②客観的指標を交渉材料として示すタイミングとテクニック 市場データを示すのに適したタイミングは、契約更新の約半年前です。更新の直前に提示するのではなく、テナント側が予算的に準備をするための時間的余裕を持てるように配慮すると、交渉がスムーズに進みます。また、データ提示時には、いきなり数値を伝えるのではなく、以下のようなストーリー仕立てで説明すると効果的です。「最近、当エリア全体の需給状況が引き締まっています。特に近隣エリアでは、既存ビルの募集賃料が前年と比べて10%以上も上昇していることが報告されています。例えば八重洲・京橋・日本橋エリアでは既存ビルの募集が減少し、賃料が大幅に上昇しています。幸いにも、現在の当ビルの賃料は相場に比べて割安な状態でご提供していますが、市場環境との乖離を適正な範囲内に保つためにも、今回の改定をお願いしたいと思います。」このような丁寧な状況説明の後にデータを示すことで、テナント側が「単なる値上げ」ではなく、「妥当な価格調整」と感じられるようになります。 ③「値上げの根拠」の示し方と事例紹介 賃料交渉では、「なぜ値上げをするのか?」という根拠が最も重要になります。特に築古ビルのテナントからは、「古いのになぜ値上げなのか?」という疑問が出ることも少なくありません。その際に、「市場環境」を中心に客観的な根拠を示すことが有効です。実際の交渉成功事例をご紹介します。東京都中央区(八丁堀)の築約30年のCグレードビルのオーナーは、テナント企業との契約更新交渉に際し、「市場環境を根拠とした交渉」を実践しました。オーナーは日経新聞のデータを使い、「八丁堀エリアでは既存ビルの募集賃料が前年より10%以上上昇している」と提示しました。さらに、三幸エステートのレポートを併用し、「同エリアの空室率が約3%まで低下し、需給が非常に逼迫している」と説明しました。テナント側はこの明確なデータによる説明に対して、「社内稟議を通しやすい明確な根拠が示された」として、値上げを受け入れました。このように、客観的な市場環境データを明確に示すことができれば、テナントも社内で説得がしやすくなり、交渉がスムーズに進むケースが増えます。市場データを味方につけることができれば、オーナー/ビル管理会社はテナントの理解を得やすく、賃料アップを円滑に進められるようになります。客観的な数字を示した説得力ある交渉術を使い、「値上げ=退去」というテナントのマインド・セットを修正していきましょう。 第3章:「自然な賃料アップ」を実現する日頃の取り組み 築30年前後の中小型の賃貸オフィスビルにおいては、日頃から価値を保つための細かな取り組みを淡々と続けることが欠かせません。こうした「日常的な小さな取り組み」が自然に積み重なることで、結果としてビルの価値が維持され、相場に見合った賃料を無理なく得られるようになります。本章では、この緩やかで自然なロジックに基づいた、賃料アップの土台となる日常的な実務について整理していきます。 ①日常的な小さな取り組みが、緩やかに価値を維持する 築古の賃貸オフィスビルにおいて重要なのは、長期修繕計画に基づく大規模な改修・設備更新だけではありません。むしろ、日頃の地道で細かな改善や管理を、ブレずに積み重ねていくことのほうが、テナントにとって“実感”として伝わりやすいものです。たとえば、以下のような日常対応が挙げられます。・老朽化が見え始めた箇所を放置せず、軽微なうちに対応する・日常的な清掃や小修繕を確実に行う・設備の簡易なメンテナンスを定期的に実施するこうした取り組みを日常的に続けることで、「築年数のわりに古さを感じさせない」「どことなく居心地がよい」という自然な評価につながります。その結果、テナント側にも「このビルであれば、この賃料は妥当」と感じてもらえる状態が、少しずつ形成されていきます。 ②賃料アップ交渉は、市場との「自然な調整」に過ぎない 賃料アップ交渉とは、契約更新を利用してテナントに値上げを納得させる“説得”のプロセスではありません。ビルの価値が適切に維持されていれば、交渉自体も単なる「市場相場に合わせた調整」という、極めて自然なやりとりになります。実際の交渉でも、以下のようなシンプルな言葉で十分です:「周辺市場の賃料が上昇していますので、今回の契約更新では市場水準に合わせて適正に調整させていただきます。」テナント側も、日常の利用を通じて感じているビルの印象と、提示された賃料とを照らし合わせ、「そのくらいなら妥当」と自然に納得できる範囲であれば、交渉が無理なく成立する可能性が高まります。 ③「自然な納得」を生むコミュニケーションの姿勢 賃料交渉の場面で、オーナー/ビル管理会社が特別なアピールを試みる必要はありません。むしろ、日頃の管理業務において、誠実で丁寧な対応を積み重ねることこそが、ビルに対する信頼感を育てる土台となります。そうした日常的な信頼の積み重ねが、「このビルであれば、この賃料でも納得できる」という自然な感覚を、テナントの中に育んでいくのです。理想は、「言葉で説明せずとも、日々のやりとりの中で伝わっている状態」です。ビルの手入れが行き届いていること、トラブルがあったときの対応が早いこと、日常のコミュニケーションが誠実であること――。こうした積み重ねが、テナントとの信頼関係の基盤になります。 【この章のまとめ】 築古の中小型・賃貸オフィスビルであっても、日頃の地道な管理や小さな改善の積み重ねによって、ビルの価値は自然と保たれていきます。そしてその積み重ねが、テナントにとっての「納得できる賃料」の土台になります。賃料アップ交渉をオーナー都合の押し付けではなく、価値の維持と適正な相場調整の延長線上で、自然と成立するものとして捉えていく。そんなスタンスが、テナントとの健全な関係を保ちながら、長期的な安定経営を実現する鍵になるのではないでしょうか。 第4章:「予告」と「段階的アップ」という交渉テクニック 賃料の改定交渉をスムーズに進めるためには、「伝え方」や「提示方法」に工夫が必要です。特に、賃料アップを一度に大きく提示すると、テナントが心理的抵抗を感じやすくなります。テナント側の「抵抗感」を和らげ、賃料改定を自然に受け入れやすくするためには、「予告」と「段階的アップ」という二つの交渉テクニックが非常に効果的です。本章では、これらの交渉テクニックを具体的に解説し、賃料交渉の実践的なポイントを紹介します。 ①急な値上げ提示を避ける「予告」の重要性 賃料改定をテナントに提示するときに、避けるべきなのは「突然、大幅な値上げを伝えること」です。人間は予期しない変化に対して大きな抵抗感を持つため、突然の提示は交渉を難しくするだけです。そこで重要になるのが、「予告」というテクニックです。予告は、賃料改定の数か月前(理想的には6か月~1年前)に「市場の状況を踏まえて、次回の更新時には賃料を見直しさせていただく可能性があります」と伝えておくことです。こうすることで、テナントは事前に賃料改定の心積もりができ、社内で予算を調整したり、意思決定の準備を整えたりする余裕を持つことができます。突然提示するのではなく、徐々に情報を開示していくことで、交渉の心理的なハードルを下げることができます。 ②テナントが受け入れやすい「段階的アップ」の手法 一度に大きく賃料を上げるより、段階的に賃料をアップさせる方がテナントにとって受け入れやすくなります。特に、市場との乖離が大きく、一度に大きな賃料改定が必要になるケースでは、段階的アップが非常に有効です。具体的には、以下のような方法が挙げられます。例1:「二段階アップ」:「一定期間猶予後のアップ」・契約更新時に半分の上昇幅で提示し、次回の更新時に残りの半分を調整。・例えば、市場相場との差が坪3,000円なら、次回更新時に1,500円アップし、翌年にさらに1,500円アップを行う。例2:「一定期間猶予後のアップ」・契約更新時には現在の賃料を維持し、一定期間(半年や1年)の猶予期間を設け、その後に相場に調整する。・テナントは予算調整の猶予ができるため、心理的抵抗が少なくなります。段階的アップは、テナント側に「時間的余裕」を与えることで心理的な負担感を軽減し、賃料改定の受け入れをスムーズにします。 ③心理的テクニック:「アンカリング効果」を上手に活用する 賃料交渉において非常に有効な心理テクニックに「アンカリング効果」があります。アンカリングとは、「最初に提示された数字が基準となり、その後の判断に強く影響する」という心理現象です。交渉での具体的な活用例は以下の通りです。・最初に「市場相場との差額」を大きく提示し、最終的な交渉ではその差額をやや緩める。・例えば、最初に「市場との差が坪4,000円ほど開いています」と伝え、最終的な提示では3,000円のアップで交渉を進めると、テナントは「当初より1,000円安くなった」と感じ、受け入れやすくなります。また、段階的アップの提示でもアンカリング効果を応用できます。・例えば「本来であれば今回の更新で一気に坪3,000円の値上げをお願いしたいところですが、今回は半額の1,500円の値上げにとどめ、残りは来年度の更新時に調整させていただきます。」と伝えることで、テナントに心理的な「得をした感覚」を与えやすくなります。こうした心理的テクニックを交渉プロセスに自然に組み込むことで、テナント側の受け入れ意識を高め、賃料アップ交渉を成功させやすくなります。 第5章:「関係性維持」を重視したコミュニケーション術 賃料交渉を成功させる上で最も重要な要素の一つは、テナントとの良好な「関係性」を維持することです。ビル管理会社がどれだけ客観的な市場データを持っていても、普段からのコミュニケーションに難があると、交渉時にテナントは値上げ要請を「対立」と受け取り、受け入れに抵抗を感じるようになります。しかし、「良好な関係性」とは、際限なく、テナントとの距離感を詰めていくことでも、コミュニケーションの頻度を高めることでもありません。「自然で程よい距離感を保ちつつ、日常的なコミュニケーションがごく自然に行われている状態」を指します。本章では、この「自然な関係性」の中で行う賃料交渉術について解説します。 ①テナントとの「自然な関係性」を築くための基本姿勢 良好な関係性とは、テナントに媚びることではありません。親密さを追い求めるのではなく、「自然体で、お互いに一定の距離感を保ちながら信頼感を維持できている」という状態です。具体的には、次のようなポイントを意識します。・普段から、事務的でも丁寧で適切な対応を心掛ける。・テナントから相談があった場合には迅速かつ的確に対応する。・こちらから積極的にコミュニケーションを取るというより、テナントが何か困ったときや要望があるときにスムーズに相談できる関係を作っておく。このように自然体で程よい距離感の関係性を築いておくことで、賃料アップ交渉時の対話が自然な「調整」へとつながります。 ②賃料交渉前に行うべき準備(コミュニケーション施策) 賃料交渉に臨む前には、あらかじめテナントの経営状況や社内事情をある程度把握しておくことが理想です。基礎的な情報としては、帝国データバンクのレポートなどのレファレンス情報に目を通し、上場企業であればIR資料なども確認しておくのが基本です。ただし、特別な調査を行ったり、あからさまな聞き取りをするのではなく、こうした情報は日常的なコミュニケーションの延長で、自然に把握できる状態をつくっておくことが望ましいでしょう。例えば、次のような機会を活用して、自然にテナントの状況を把握します。・日常的な施設点検や管理対応時に、テナント担当者と軽く会話をする。・「何か最近お困りのことはありませんか?」など、管理上の相談ごとをきっかけに、自然にテナント側の近況を聞く。このような自然なコミュニケーションを通じて、テナントの社内状況や業績傾向、移転検討の有無などがそれとなく見えてくることがあります。こうした情報を把握できていると、交渉時における適切なタイミングや伝え方のヒントになります。 ③交渉を「対立」から「自然な調整」へと転換する会話術 交渉時の言葉の選び方や表現の仕方によって、テナントが抱く印象は大きく変わります。ここで重要なのは、交渉を「対立」や「駆け引き」ではなく、「市場に基づく自然な調整」としてテナントに感じてもらうことです。そのためには以下のような表現が効果的です。・「賃料を値上げさせていただきます」ではなく、「市場の状況に合わせて、賃料を適正な水準に調整させていただきます。」・「値上げを受け入れてほしい」という要求調ではなく、「市場とのバランスを考えて、このくらいの水準が妥当ではないかと思いますが、いかがでしょうか?」という協調型の提案調にします。・テナントの抵抗感が強い場合は、「無理なご負担にならない範囲で調整したいと考えていますので、一緒に妥当なラインを探りましょう。」など、あくまで「調整・相談」のスタンスを維持します。このように会話を進めることで、交渉が「対立」ではなく「自然な調整」に近づき、テナント側の心理的抵抗も軽減されます。 第6章:実践ケーススタディで学ぶ「賃料アップ交渉」 本章では、築古・中小型の賃貸オフィスビルにおいて実際に行われた賃料アップ交渉の成功・失敗事例をケーススタディとして取り上げます。各ケースから、どのような交渉の進め方が有効で、逆にどんな対応が失敗につながったのかを具体的に分析し、実務的な改善ポイントを明確にします。 【ケース1:成功事例】「市場データ」と「段階的アップ」の組み合わせが功を奏した例 概要東京都中央区(八丁堀)の築32年・延床約150坪の賃貸オフィスビルで、更新時に坪当たり3,000円の賃料アップを目指した事例です。交渉プロセスビル管理会社は契約更新の約1年前から「賃料の見直し可能性」をテナント企業(材料系商社、従業員数約50名)に対して緩やかに予告しました。そして更新の半年前に、三幸エステートのレポートに加えて、当社独自に調査した市場データ(同エリア既存ビルの賃料が前年比10%以上上昇)を提示しました。一方で、テナント側の担当者が「一度に坪3,000円の値上げは社内稟議が通りにくい」と懸念を示したため、ビル管理会社は「段階的アップ(初年度1,500円アップ、その翌年にさらに1,500円アップ)」の妥協案を提案しました。結果テナント側は「市場状況を客観的に理解できたこと」と「段階的アップで社内説明が容易になった」ことを評価し、この妥協案を受け入れました。成功要因と改善ポイント【成功要因】・市場データを早期から提示し、納得感を形成したこと。・段階的アップによりテナント側の心理的抵抗を和らげたこと。【改善ポイント】・予告の段階で具体的な金額まで踏み込めば、さらに交渉の時間を短縮できた可能性あり。 【ケース2:成功事例】「自然な関係性」が交渉を円滑に進めた例 概要東京都千代田区(神田)の築30年・約200坪の賃貸オフィスビルで、更新時に坪2,000円の値上げを提示したケースです。交渉プロセスこのビルの管理担当者は、日頃から過度に親密なコミュニケーションは取らず、しかし設備の不具合対応などの要望には迅速かつ的確に対応していました。交渉においても、値上げ理由を淡々と「市場動向に基づく適正賃料への調整」として提示しました。テナント企業(専門サービス業、従業員数30名)も、市場環境を理解した上で比較的容易に了承しました。結果ほとんど抵抗感なく値上げを受け入れてもらうことに成功しました。成功要因と改善ポイント【成功要因】・日常の自然で適切な対応によりテナントとの信頼関係が築かれていた。・値上げを「特別なもの」とせず、自然な調整として淡々と提示したことでテナント側がスムーズに納得できた。【改善ポイント】・テナント側から「もう少し事前に細かな資料があると社内調整がさらに容易になる」との声があり、提示資料の充実はさらなる改善点。 【ケース3:失敗事例】「急な値上げ提示」が抵抗感を生み、交渉が決裂した例 概要東京都港区(芝・三田)の築約28年・約100坪の賃貸オフィスビルで、更新時に市場環境に伴う値上げ(坪2,500円アップ)を提示したものの、テナントから拒否され、交渉が決裂したケースです。交渉プロセスビル管理会社がテナント(貿易関連企業、従業員数約40名)に値上げを提示したのは契約更新のわずか2か月前でした。日常的にコミュニケーションも希薄であったため、テナント側は唐突感を強く感じました。ビル管理会社は市場環境の説明をしましたが、テナント企業は予算調整が間に合わず、「急な提示で対応が難しい」として値上げを拒否。双方折り合わず、結局テナントは退去を決定しました。失敗要因と改善ポイント【失敗要因】・値上げの予告をせず、直前での突然の提示となった。・普段のコミュニケーションが不足し、テナント側の事情を理解できていなかった。【改善ポイント】・早い段階(半年~1年前)での予告を徹底すべきだった。・日頃から最低限のコミュニケーションを確保しておくことで、テナントの状況を把握できていれば別のアプローチが可能だった。 第7章:チェックリストで見る「賃料アップ交渉」成功要件 賃料アップの交渉は、テクニックだけでなく「段取り」と「準備」で8割が決まるとも言えます。築古・中小型の賃貸オフィスビルにおいては、交渉の複雑さを最小限にとどめ、必要な準備を一つずつ丁寧に進めることが、交渉を円滑にし、無理なく賃料改定を実現するための王道です。本章では、これまでの実務ポイントを整理し、交渉に向けた準備・提示・フォローの3ステップに分けたチェックリストとしてご紹介します。実際の交渉に臨む前の確認用ツールとして活用してください。 ステップ①:交渉前の準備チェックリスト 項目確認内容市場相場の把握対象ビルと同規模・同築年帯の周辺ビルの賃料相場を調査したかテナント事情の把握テナント企業の業況・直近の在籍人数・社内体制・キーマンなどを把握しているか予告の有無賃料改定の可能性を、テナントに数か月前から伝えているか社内稟議への配慮テナントが社内で稟議を通しやすくなる資料や説明方法を用意したか適正な金額設定市場と対象ビルの状態を踏まえた無理のない上げ幅を設定しているか ステップ②:提示時のポイント確認リスト 項目確認内容タイミング契約更新の少なくとも3か月前には正式に提示しているか表現のトーン「一方的なお願い」ではなく「適正な調整」として落ち着いたトーンで伝えているか資料の整備市場賃料の根拠資料(相場表、エリアデータなど)を添えているか段階的提案一度に大きく上げず、段階的アップ案を用意しているか余地の確保一定の交渉幅(条件の緩和余地)をあらかじめ確保しているかテナントの反応への備え想定される反応(予算懸念・納得感不足など)に対して備えているか ステップ③:交渉後のフォロー体制確認リスト 項目確認内容文書での記録交渉内容と合意事項をメール/書面で明確に残しているか社内共有ビル管理会社・オーナー間での情報共有と方針統一ができているか次回交渉への布石次回の更新交渉を見据えた情報蓄積・フィードバックが整理されているかテナント満足度の観察交渉後のテナント対応(問い合わせ内容や態度変化など)を観察しているか改善点の洗い出し今回の交渉での反省点・改善点を次回に向けて記録しているか 【この章のポイントまとめ】 ●賃料交渉は、交渉時のトーク力よりも「準備と段取り」が勝負を決める。●市場データ・テナント事情・伝え方の整備など、各フェーズで確認すべきポイントを事前に洗い出すことで、交渉の精度が高まる。●一度の交渉で終わらせず、次回に向けた観察と記録を残すことが、長期的な安定収益につながる。このチェックリストを活用しながら、対象ビルの状況やテナントの関係性に合わせた賃料交渉を、実務的かつ丁寧に進めていきましょう。価格調整という行為を「対立」ではなく、「管理業務の一環」として、淡々と誠実に行える体制づくりが、結果的に安定経営につながります。 おわりに:賃料アップ交渉を「怖がらずに向き合える」ために 築古・中小型の賃貸オフィスビルにおける賃料アップ交渉は、一見ハードルが高そうに見えるかもしれません。ですが、事前に正しく準備し、伝えるべきことを丁寧に伝えることによって、粛々と対応していくべきビル管理業務のひとつです。実際、テナント側にとっても、周辺の相場が上昇していることや、ビルの維持管理にきちんと取り組んでいることが日頃から伝わっていれば、必ずしも強い抵抗を示すわけではありません。むしろ、「現状維持が当たり前」という意識にとらわれて過剰に慎重になりすぎることで、市場との乖離が進み、次回以降の調整がかえって難しくなることもあります。本コラムで取り上げた通り、賃料アップ交渉を成功させるための鍵は、特別な交渉術ではなく、以下のような現実的で地に足のついた取り組みにあります:・周辺の市場データを活用し、「値上げ」ではなく「適正化」として位置づけること・築古の中小規模のビルであっても、日頃から価値を維持し、「特別なアピール」をせずとも納得される状態を整えておくこと・「段階的アップ」や「事前予告」など、テナントの心理的抵抗を和らげる工夫を組み込むこと・過度に踏み込みすぎず、かといって距離を置きすぎない、「自然体の関係性」を日々積み重ねていくことつまり、賃料アップ交渉とは、「嫌がられる行為」ではなく、ビルの価値を適正に保ち、テナントと健全な関係を続けるための必要な調整プロセスなのです。そこに求められるのは、感情的な駆け引きや過度な演出ではなく、冷静な準備と実務的な対応力、そして日常的な信頼の積み重ねです。賃料アップ交渉を「リスク」ではなく「前向きな見直し」と捉え、無理のない形で実施していけるオーナー/ビル管理会社こそが、長期的に安定した賃貸経営を実現していくことができる――本コラムが、その一歩を踏み出すためのヒントとなれば幸いです。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月19日執筆

“やったのに決まらない”の正体とは?―築古オフィス改善の判断設計を考える

皆さん、こんにちは。株式会社スペースライブラリの飯野です。この記事は「“やったのに決まらない”の正体とは?―築古オフィス改善の判断設計を考える」のタイトルで、2025年12月17日に執筆しています。少しでも、皆様のお役に立てる記事にできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 目次はじめに第1章:なぜ「対応・改善しているのに決まらない」のか?第2章:実務の摩耗がズレを生む第3章:ズレた“改善策”が現場で繰り返される理由第4章:「何から動くか」の優先順位―ズレた判断が成果を遠ざける第5章:「選ばれない」理由が伝わってこない構造第6章:「わかっているのに動けない」――実務の制約と意思決定の限界第7章:「全部はできない」から考える――空間の構成を再設計する第8章:「改善する」から「選ばれる」へ――築古ビルがとるべき次の一手 はじめに 「うちも、やるべきことはやってるんですよ。ただ、なぜか決まらないんです。」築年数を重ねた中小規模の賃貸オフィスビルのオーナーや管理担当者から、そうした声が聞かれることは少なくありません。実際、エントランスの改修、共用部の清掃強化、条件面の見直しなど、一定のコスト、手間暇をかけた対応が行われているビルも多くあります。それでも空室が、なかなかすぐに埋まらない。内見の反応は鈍く、問い合わせの数も伸びない。「やれることはやっているのに、なぜ決まらないのか」という、答えの見えにくい徒労感だけが現場に残る。そうした状況は、いまや築古の賃貸オフィスビルに共通する構造的な課題となっています。そもそも、築古の賃貸オフィスビルの建物は老朽化しており、設備仕様も最新でもなく、現在の賃料水準を維持すること自体、望むべくもないという悲観論に組することもなく、できる限りの対応策を打ってきたのに、決まらない。このような決まらなさの原因を、そもそも、対応策など意味がないということでなく、「選び方」や「優先順位」、「見え方」といった判断の軸が、どこかでズレていたということなのかもしれません。さらに深く見ていくと、判断の支えになるはずの「過去の実務経験」や「他物件との比較」が、かえって意思決定を鈍らせている場面も見られます。つまり、対応したのにうまくいかないのは、「改善が足りない」からではなく、「改善の選び方」そのものがズレているからではないかということです。本コラムでは、築古の賃貸オフィスビルが直面するこうしたズレの実態を読み解きながら、次のような論点を整理していきます:・なぜ対応しても成果に結びつかないのか・過去の実務が、今の改善判断を曇らせている構造・空振りに終わりがちな改善の典型パターン・成果につながる「順番」と選び方の工夫・判断を設計し、選択肢を再構築するための視点どう判断し、どう進めるかという前提そのものを問い直すこと。それこそが、築古の賃貸オフィスビルが選ばれる側に再び立ち返るための出発点になるのではないか――そんな問題意識から、本コラムを始めたいと思います。 第1章:なぜ「対応・改善しているのに決まらない」のか? 「いや、うちも何もしていないわけじゃないんですよ。照明器具はLED化しましたし、トイレも一昨年にリニューアルして。共用部の床材も一部、貼り替えました。でも、それでも内見が増えないんです。」築30年以上の中小賃貸オフィスビルを所有するあるオーナーの言葉です。ビル管理会社と連携しながら、予算の範囲内でできる限りの対応を重ねてきた。それでも空室が長引いてしまう。そうした声は、東京の築古の賃貸オフィスビルの現場で決して珍しくありません。実際、設備や内装にまったく手を加えていない物件の方が、今ではむしろ少数派です。空調、照明、エレベーターなど、あらかじめ計画された設備更新に加えて、トイレ、館内サイン、共用部の床材、掲示物まわりの整理まで、テナントの目に触れる部分を一通りリニューアルしているビルも少なくないのです。それでも「決まらない」。その原因は、対応・改善を「やったか・やらなかった」かではなく、「誰に向けてどのような改善を、どの順番で進めるのか」を選定し、判断するプロセスのズレにあるのかもしれません。 “方向性のズレ”が、決まらなさを生む ある物件では、エントランスに木目調の化粧パネルと間接照明を組み合わせ、床には石目調の長尺シートを使用するなど、落ち着いたトーンで整えるリニューアルが施されていました。小規模なビルながら、清掃状態も良好で、空調設備も修繕計画通りに更新済み。築年数を考えれば、全体としては丁寧に維持管理されている印象でした。この物件を内見の案内をしたリーシング担当から見て、内見したテナント社員のリアクションは、どこか控えめで、明確な手応えは感じられなかったといいます。後日、その企業は別の物件を選びました。先方からの説明は「立地が希望と若干ずれていた」と簡潔なものでした。内見時に感じられた「違和感」は、案内担当者レベルでは確かに残っていたものの、それが「改善の効果の検証材料」として社内で議論されることはありませんでした。社内ミーティングで軽く話題にされた程度で、リニューアル=改善、を担当した部署には届かず、定例のオーナー報告でも空室継続の事実だけが淡々と報告されたにとどまりました。内見時の手応えの薄さは、あくまで主観的なものであり、「たまたま相性が悪かっただけかもしれない」「賃料設定のほうが大きかったのでは」と解釈されやすく、組織の中では判断材料として後回しにされがちです。しかし、こうした「違和感の共有漏れ」や「曖昧なままの感覚のスルー」が積み重なることで、改善の方向性が少しずつ現場の肌感覚とズレていく構造が生まれてしまうのです。この事例でも、改修がそもそも誤っていたとまでは言えません。客観的に、限られた予算の中で実施された、まっとうなリニューアル=改善だったともいえます。ただ、「誰に対して、どのような効果を想定するのか」という視点が、ほんの少しだけズレていた。その微細なズレが、フィードバックとして返ってくることがほとんどなかったので、オーナーや管理者は「改善したのに決まらない」という状況に、理由が見えないまま直面することになります。 「改善」しようとすることで、かえって遠ざかることもある 築年数を重ねた賃貸オフィスビルを改善し見映えをよくしようとすること自体が悪いわけではありません。たとえば、アロマやBGM、エントランス・マット、サイン、観葉植物などを組み合わせて設置し、共用部の印象を整える対応をとったとします。見た目の印象はたしかに向上し、ビル管理の丁寧さも伝わる――そのような意図で実施された改善であったとしても、それがテナントの選定理由になるかどうかは、まったく別の話です。むしろ、こうした見映えの底上げそのものが、テナントによっては次のように受け取られてしまうことすらあります。「築古ビルが無理をしているようで、かえって痛々しい」「過剰な演出によって、むしろ古さが際立ち、ここで働くイメージが湧きにくくなった」――。つまり、丁寧に整えたはずの演出が、逆に現実とのギャップを強調してしまう場合があるということです。また、ビルの外観や共用部の見映えにフォーカスした結果、トイレや空調、セキュリティといった「不満の出やすいポイント」への対応が後回しになっている物件も見受けられます。本来であれば、こうした日常的な接点にこそ優先順位があるべきなのです。つまり、空室対策の本質は何をやったかではなく、どこにどう配分したか。改善の配列や重みづけを間違えることで、対応し、改善しているのに選ばれないという状態が生まれてしまうのです。 「改善疲れ」に陥る前に、選び方そのものを問い直す オーナーやビル管理会社の努力が足りないわけではありません。むしろ、努力を重ねているからこそ、「なぜこれでも決まらないのか」が見えにくくなっているのだと思います。本コラムでは、個々の改修項目の良し悪し以前に、「なぜその改善を選んだのか」「他の可能性は検討されたか」「改善の順番は適切だったか」といった、判断の前提条件そのものを問い直すことをテーマにしています。次章では、このズレがなぜ繰り返されるのか、そしてその背景にある「実務の摩耗」や「慣性の意思決定」について、より構造的に考察していきます。 第2章:実務の摩耗がズレを生む 築古の賃貸オフィスビルの改善をめぐる意思決定の現場では、「やることはやっているのに、なぜ決まらないのか」という問題が、繰り返し起こります。そして、そのたびに「今度はここを直してみよう」「あのビルがやっていたあれを真似してみよう」といった個別の対応が積み重ねられていきます。しかし、こうした対応の多くは、その場しのぎの連続になってしまっているケースが少なくありません。なぜなら、判断の根拠が、蓄積された経験則や過去の成功体験にもとづいているだけで、現状を客観的に再評価する機会が極端に少ないからです。 判断の“繰り返し”が、判断力そのものを摩耗させる 築30年を超える物件であれば、10年、20年単位でテナントの入れ替わりや改修履歴が蓄積されているはずです。そうした履歴は本来、改善の方針を柔軟に導くための材料となるべきものです。ところが、実際には「前回もこの対応で決まったから」「以前、これでうまくいった」という過去の正解に寄りかかったまま、現状に対する目線のアップデートが行われていないケースが目立ちます。たとえば、「うちはトイレを改修すると決まりやすい」という経験にもとづいて、5年おきに内装だけを更新してきた物件。ところが最近は、それでもなかなか決まらない。にもかかわらず、「やるべきことはやっている」と判断し、それ以上の検証を止めてしまう──こうした思考の摩耗が、改善の視野をじわじわと狭めていきます。このように、過去の蓄積がむしろ意思決定の柔軟性を奪ってしまう構造は、築古の賃貸オフィスビル管理の現場では決して珍しくありません。 「物件を知っている人」が、“変化に気づきにくい人”になる 長年にわたって対象物件を見てきたビル管理の担当者や、テナント対応に慣れたスタッフの存在は、賃貸オフィスビルの運営における大きな安心材料です。彼らの経験は、修繕の判断やトラブル対応において欠かせないものです。しかし、こうした「慣れた目線」が、物件の魅力や弱点を“見慣れてしまう”ことによって、かえって改善のポイントを見逃すリスクも孕んでいます。たとえば、共用部の照明器具が更新されずに、少し古びていたとしても、「このビルはもともとこういう雰囲気ですから」と判断してスルーされてしまう、掲示物や注意書きが貼られたままの掲示板も、「入れ替えの時期はいつもこのくらいですし」と見過ごされる、本来であれば、いまこの物件がどう見られているかを、改めて「初見の目線」で再確認すべきタイミングにもかかわらず、既視感がそれを上書きしてしまうのです。 賃貸オフィスビルの管理側にとっての「定例対応」が、テナントにとっての「違和感」になることも さらに厄介なのは、賃貸オフィスビルの管理側にとっては当たり前になっている対応が、初めてビルを見るテナントにとっては、むしろ引っかかりとして残る場合があることです。たとえば、ポストに入りきらない郵便物が一時的に管理室に取り置かれている、エレベーターホールに空きテナントの案内資料が山積みになっている……。こうした状況は、管理側にとっては「よくあること」「特に支障のない運用」かもしれませんが、テナント側から見ると、「本当にここで働くことを前提にしてもいいのか」と感じさせてしまう微細な不信感につながることもあります。このように、賃貸オフィスビル管理の現場実務がこなれていく過程で、かえって細部の見直しが抜け落ちるのは、築古の賃貸オフィスビルの管理・運営においては起こりやすい現象とも言えます。 “慣れた実務”に、問い直しの視点を差し込む もちろん、過去の経験がすべて無効になるわけではありません。大切なのは、「これまでの正解」を一度フラットに見直し、現状と照らし合わせて再構成する視点を持つことです。そのためには、オーナー自身、および、賃貸オフィスビル管理の実務担当者があえて初見の目線に立ち返ること、あるいは別の担当者・別部署・外部の専門家など他者の視点を介在させる仕組みを設けることが有効です。たとえば、リーシングの現場担当者が持つ感覚を、賃貸オフィスビル管理会社のビル・メンテナンスのマネージャークラスの判断に組み込めているか。リニューアル方針の検証に、内見の反応が活用されているか。そうした「共有と再検証」の視点が、改善のズレを防ぐ鍵となります。改善のズレは、失敗の結果ではありません。過去の成功体験に足を取られ、現場の変化に対する再評価が抜け落ちることで生じているのです。次章では、こうしたズレた改善がどのような施策に現れやすいのか、現場でよく見られる改善策の空振りパターンを具体的に見ていきます。 第3章:ズレた“改善策”が現場で繰り返される理由 築古の賃貸オフィスビルの空室対策では、「改善しても決まらない」「どのように整えても反応が薄い」という悩みが繰り返し語られます。そのたびに新たな対応策が提案され、検討されるわけですが、それらの事例をよく見ていると、どこかで見たような施策が、別の賃貸オフィスビルでも繰り返されている光景によく出くわします。それらは「他物件で成果があったから」「提案書のテンプレートに含まれていたから」といった、いわば無難に選択された改善提案を機械的に実施しただけで、それらがその対象物件、その立地、そのテナントのターゲットにとって最適かどうかは、ほとんど検証されていないことも少なくありません。 成功事例の“形式”だけがコピーされていく ある賃貸オフィスビル管理会社では、数年前に実施した物件での「アートと観葉植物による共用部の演出」が成功し、業界雑誌等でも好意的に取り上げられたことをキッカケに、その後、同様の提案を複数物件に展開するようになりました。たしかに、一定の演出効果や印象改善にはつながったケースもあるでしょう。しかしある別物件では、同じように植物とアートを配置したものの、「ちょっと過剰じゃないですか」「うちの業種には合わないかも」といった反応が、一部の内見した企業の担当者の本音めいた反応も仄聞されたといいます。どんな施策も、「何を、なぜ、どこで行うのか」という前提が、ターゲットのテナントと共有されていなければ、単なる演出の上塗りに終わるリスクがあります。成功事例の「形式」だけを取り入れても、単に流行り廃りをなぞっただけなので、その改善の効果が発揮されることはありません。 競合物件との“表層的な比較”が判断を狂わせる 改善策の選定にあたって、「周辺の競合ビルがどこまでやっているか」という視点は重要です。ただし、その比較が表層的な見た目や、いくらコストをかけたのかという点に偏ってしまうと、判断基準が曖昧になりがちです。たとえば、「近くのAビルではエントランスを明るくしたから、うちも照明を変えてみよう」「Bビルは入居が決まったので、あの床材と同じようなデザインにしよう」といった判断。それ自体は根拠もあり一見合理的にも見えますが、それらの改善が対象物件のポジションやテナントのターゲットと整合しているかが検討されていなければ、その改善はうまく機能しません。競合物件で空室がすぐに決まった理由は、改装された床材や照明ではなく、「募集条件の柔軟さ」や「入居時期のマッチング」、あるいは「担当者のクロージング力」といった要素かもしれません。成功事例の見た目だけを模倣しても、「なぜ決まらないか」という本質には届かず、改善コストばかりが嵩んでしまうことになりかねません。 「やっておけば安心」な改善が“決め手”になるとは限らない 現場には「最低限これだけはやっておきたい」という改善項目がいくつか存在します。たとえば、壁クロスや床材の貼り替え、エントランスのサイン更新、古びた照明器具のLED化、トイレの美装などは、どこかでやらなくてはいけないものでもあり、コストを抑えながらも効果のある、実務的な改善として、多くの場面で採用されています。実際、これらの対応は当社の別コラムでも、内装や照明など比較的低コストで実行可能な改善策の一例として紹介していますし、現場での第一歩として有効です。ここで問題になるのは、それらの改善を「やっておけば安心だから」という理由だけで、その目的や、ターゲットとするテナントのことを深く考えずに実施してしまうケースです。たとえ改善の実施内容自体は適切だったとしても、「なぜそれを行ったのか」「どんな効果を与えたいのか」が読み取れない場合、費やした時間やコストの割に空振りに見えてしまうことがあります。ひとつひとつは意味のある対応であったとしても、テナントに「ここに決めよう」と思わせる決定打になるとは限らないのです。逆に言えば、「この物件らしさ」や「この立地だからこそ」という意図を伝える工夫が加えられていなければ、内見時にただ整っているうわべの印象だけが残り、心には届かない―そうしたリスクもあるということです。 「改善したのに決まらない」を繰り返さないために こうしたズレた改善が繰り返される背景には、オーナー側の判断が曖昧なまま、その物件にとって本当に必要なことは何か、誰に向けて何を伝えるべきかといった視点が置き去りにされていることがあります。それぞれの改善が誤っていたというわけではありません。ただ、「このタイミングで、なぜこれを行うのか」「テナントがどのように受け取るのか」という目線が抜けてしまえば、せっかくの改善も狙った効果を発揮できなくなってしまいます。たとえば、賃貸オフィスを「きれいになった」と感じさせることと、「ここで働くイメージが持てる」と感じさせることは、まったく別の話です。テナントが重視しているのは、現実的に自社の働き方や価値観と合っているかどうかであり、空間の印象はその判断における大切な手がかりとなります。だからこそ、改善の目的と内容が、その物件の立地や規模、テナントのターゲットとしっかり結びついていない場合、「なぜこうしたのかがよく分からない」ということになり、ズレた改善として見なされるリスクがあるのです。もちろん、改善の価値は説明や演出だけで決まるものではありません。丁寧な仕上がりや更新された設備、美装された共用部など、施工そのものの価値は確かなものです。ただ、その価値がテナントにきちんと伝わらなければ、「ここに入ろう」という意思決定にはつながりにくいのもまた現実です。大切なのは、その改善が「誰に、どう見られるか」をあらかじめ意識し、「なぜそれが必要なのか」を具体的に考えたうえで取り組むことです。そうした配慮があって初めて、ズレた改善を避けることができ、取り組んだ内容が効果として伝わり、結果として空室の解消にもつながっていくのです。 第4章:「何から動くか」の優先順位―ズレた判断が成果を遠ざける 第3章では、「せっかく改善したのに決まらない」という現象の背景に、ズレた改善がありえることを見てきました。そこでは、改善の内容そのものが間違っていたというよりも、「誰に、どんな効果を与えたいのか」を考えずに形だけ改善しようとしたことが、結果につながらなかった理由として浮かび上がっていました。では、見映えや管理運用まわりの改善をちゃんと考えて実行したとしても、それでも決まらないとしたら、何がズレていたのか。実はそこには、「改善したけれど、肝心なリーシング条件調整の判断が甘かった」という、判断の順番のズレが関係していることがあります。本章では、「やったこと」そのものよりも、「どこから、どの順に、どう動くべきだったのか」という優先順位の組み立てに視点を置いて、改善しても決まらない構造をもう一歩深掘りしていきます。 動けることは複数ある。だからこそ「順番」が問われる 賃貸オフィスビルの空室対策として、現場ですぐに可能なこととして取り上げられがちなのは、たとえば次のようなものです。・床や照明、トイレの内装更新といった、軽めのリニューアル・掲示物の整理、共用部の清掃頻度の見直しなど、日常的な管理運用の見直し・賃料、フリーレントの調整など、リーシング条件の調整いずれも、「効果がありそう」です。問題は、「どれを、どの順番で実行するか」の見立てがズレてしまうと、ひとつひとつの動きは効果があるはずなのに、空室解消という成果にはつながらないことがありえるということです。一方、空調や給排水、換気などの設備の本格的な整備は、費用や工期の規模が大きく、すぐに対応可能かどうか、オーナーごとに置かれた事情に大きく左右されるため、本コラムでは踏み込まず、比較的動きやすい「小さな改善」と「条件調整」の順番判断に焦点を当てます。例①:改善を先に実施したことで、リーシング条件の対応が鈍ったケースある中小ビルでは、エントランス照明と床材の貼り替えを先に実施しました。見映えは改善され、内見数も一定程度は増えましたが、成約にはつながらず、次はどこを直すべきかという議論になっていました。そんな中、内見者からは「もう少しフリーレントがあれば」「周辺の競合物件と比較すると賃菅込みで割高感が残る」といったコメントも聞いてはいたのですが、オーナー側には、「ここまで改善したのに、さらに条件を譲るのは気が進まない」という心理が芽生えていました。改善自体は間違っていなかったとしても、ここで一区切りつけた感覚が生まれてしまったために、リーシング条件交渉の柔軟さが失われて、タイミングを逸してしまいました。こうした判断の硬直が、結果的に機会を逃す原因になることは、実際によく起こりがちです。例②:リーシング条件の調整を先に進めたが、築古ビルのネガティブな印象が先行して失注したケース別の物件では、フリーレントの余地を引上げ、実質的な賃料引下げにまで踏み込んだので、早々に問合せがあり、いくつかの内見のアポを取り付けました。しかし、実際に物件を内見したテナント担当者からは、「床が古く、使用感が気になった」「照明が暗めに感じられて、印象がぼやけた」といった感想があり、最終的に成約には至りませんでした。条件面では前向きだったのに、肝心の築古ビルの印象が先行してしまって、一歩届きませんでした。見映え改善のため、なにかをしておけば、多少なりとも印象を挽回できた可能性があったかもしれません。このように、「どこから手をつけるべきだったか」の順番がズレるだけで、成果を逸することがあるのです。 二者択一ではなく、順番の組み立ての問題 この例から学ぶべきは、「リーシング条件と見映え改善、どちらを先にやるべきか」という正解探しの話ではないということです。空室を埋めるために効果的な対応はどちらか一つでもありませんし、どちらを先にするのかという順番に絶対はありません。大事なのは、その物件の状況、周辺環境、テナントのターゲット像、募集のスケジュール感などを踏まえて、「どこから手をつけるべきか」を組み立てる視点を持っているかどうかです。限られた時間や予算の中で「どこから着手するか」を見極めることが、結果の差につながるのです。ズレた改善の多くは、実は「改善が間違っていた」のではなく、「その改善を今やるべきだったのかという順番の見誤り」に起因しています。「やったのに決まらない」と感じたときこそ、次の問いとして、「順番は正しかったか?」を静かに差し込んでみる。そうした視点の有無が、空室の長期化と早期成約の分かれ道になるかもしれません。 第5章:「選ばれない」理由が伝わってこない構造 空室が長期化している物件に共通するのは、「改善はしているし、管理にも手をかけている。なのに、決まらない」というオーナー・ビル管理会社側の実感です。そしてもう一つ、現場でよく聞かれるのが、「なぜ選ばれなかったのかが分からない」「特に悪いと言われたわけでもないのに、他の物件に決まってしまった」という声です。この理由の見えなさは、テナント側の意思決定の特性だけでなく、情報がすれ違う構造そのものに起因していると考える必要があります。 テナントは「選ばない理由」を語らない テナントが物件を決めるとき、その理由はシンプルなことが多く、「条件が合ったから」「担当者の対応が良かったから」といった前向きな説明で語られます。しかし、逆に「なぜ選ばなかったのか」は、あまり明確に伝えられることがありません。それが「とくに悪くはなかったんだけど…」のような、曖昧な印象の差に帰着してしまうことも多いのです。とくに中小規模の賃貸オフィスでは、テナントの意思決定が少人数でなされることも多く、感覚的な要素が判断に与える影響が大きいにもかかわらず、そうした「印象の引っかかり」が明示的にフィードバックされることは稀です。その結果、オーナー・ビル管理会社側は「悪かったのはここです」とは言われずに、悪くはなかったのに選ばれなかったというモヤモヤした感覚だけが残ることになります。 フィードバックが共有されにくい構造 この理由の不在をさらに見えづらくしているのが、現場の情報が組織内で共有されづらい構造です。内見時のテナントの様子や、何気ない発言のニュアンスから、「少し使いづらそうだったかもしれない」「雰囲気が合わなかったのかもしれない」と感じたとしても、それが担当者の個人的な印象として止まってしまい、オーナーとビル管理会社が情報、認識を共有するには至らないというケースは多く見られます。また、ビル管理会社のリーシング担当とビル・メンテナンス(BM)担当といった縦割り組織の情報断絶も、見逃すべきではありません。実際、「物件の印象は良かったです」という、内見時のテナントの表面的なコメントが社内日報で共有されたとしても、どこがあと一歩足りなかったのかといった本質的な感覚は、ほとんど伝わっていないことがよくあります。 「選ばれなかった理由」は、そもそも記録されていない 構造的な問題は、「選ばれた理由」は、成約レポートのなかでコメントされて残るのに対して、「選ばれなかった理由」は記録されないという点にもあります。テナント側が検討の末に選ばなかったとしても、その選ばなかった理由は、問い合わせのメールのやり取りのなかの1行、電話での一言、現場スタッフの主観的な印象の中に断片的に感じとられる他なく、それがきちんとレポートされることはほとんどありません。この結果、オーナー・ビル管理会社側が「どこを見直すべきだったのか」を判断するデータが蓄積されず、同じようなズレた改善が繰り返される温床にもなっています。 「選ばれなかった理由」をつかむには、言語化されない部分を拾うしかない この構造のなかで、唯一改善のヒントになるとすれば、それは内見時のテナントの微細な反応や、曖昧な感想の行間にある「小さな違和感」です。・どのタイミングで、見学のテンポが変わったか・どこで質問が止まったか・図面に印をつけなかったポイントはどこだったか・なるほど」と言われたあとに、目線が沈んでいた箇所はどこかこうした非言語的な拒否反応をどう拾うかが、次の改善や対応の質を左右する手がかりになります。それは、明確な「ここが悪かった」という批判ではなく、言語化されないまま流されていく不一致の感覚を、現場がどう捉えるかにかかっているのです。 まとめ:「伝えられる理由」に頼らず、「伝わらない違和感」を拾い直す 選ばれない理由が明示されない以上、オーナー・ビル管理会社側がすべきなのは、「選ばれなかったのはなぜか?」という問いに、直接の答えを求めることではありません。むしろ、「この改善は、誰にどう見られ、どう受け止められていたのか」を、伝えられなかったサインの中から逆算していく作業が必要なのです。「とくに悪いとは言われなかった」というのは、何も悪くなかったのではなく、よくするための違和感が共有されなかったというだけかもしれない。その認識の違いこそが、ズレた改善、ズレた順番、ズレた判断につながっていくのです。 第6章:「わかっているのに動けない」――実務の制約と意思決定の限界 ここまでの章では、「なぜ改善しても決まらないのか」「何がズレていたのか」について、多角的に見てきました。どの章でも繰り返し浮かび上がったのは、対応そのものが悪いのではない。ズレていただけだという構造です。改善の方向性を問い直し、優先順位を整理し、感覚的な違和感を拾い上げていくことで、成果につながりやすい判断のあり方が見えてくる。そのような整理ができれば、次は「どう動くか」の段階です。しかし実務の現場では、「それでも実際にはなかなか動けない」という壁にぶつかることも少なくありません。「やるべきことは見えてきた。でも、動けない」。本章では、その動けなさの背景にある構造と、改善の実行可能性をどう捉えるかという論点に目を向けていきます。 わかっていても、動けない。という現実 たとえば、「見映えの改善だけでは足りない。リーシング条件の柔軟な対応が必要だ」「もう少し早くトイレを更新しておけば、テナントの反応が違ったかもしれない」といった振り返りが、ビル管理会社内で共有されたとします。そうした共通認識があれば、「次こそは正しく対応しよう」という前向きな意識が生まれるのが自然です。ところが、いざ「では次に何をやるか」となると、話が止まってしまう。オーナーの意向確認、工期やテナントとの調整といった現実的な手間に加え、「失敗したくない」「動いても成果が保証されないかもしれない」という心理的な迷いもまた、実行判断をためらわせる要因となります。 改善を止める“限界”は二種類ある そもそも、改善に踏み切れない理由の説明には困りません。まず、築古の賃貸オフィスビルには、構造的・法的に避けられない物理的限界があります。・天井高が足りず、照明や仕上げによる印象改善にも限界がある・空調のゾーニングが分かれておらず、柔軟なレイアウト変更に対応しにくい・給排水の位置の関係で、トイレ、水回りの移設や間取りの柔軟化が困難・エレベーターや共用部の位置が構造上、固定され、導線が変えられない・消防法や建築基準法が改修内容を制限しているこうした条件は、「やったほうがいいと分かっていても、そもそもできない」明確な壁として存在します。また、それ以上に動きを止めているのが、戦略的な判断によるブレーキです。これは、物理的に不可能なわけではないが、「やっても回収できない」「費用対効果が読めない」という判断のブレーキです。・この立地・築年数・広さで、どこまで賃料プレミアムを狙えるのか?・100万円以上かけた改善が、どれだけ成約に寄与するのか?・いままで十分に改善してきたのに、さらにコストを投下して、満足なROI(投資収益率)を確保できるのか? “実行しない”ことも判断。ただし、停滞とは違う もちろん、「改善しない」こと自体が、即誤りだとは限りません。上記で説明したように実行が物理的に出来ない限界もありますし、戦略的な判断として動かないこともありえます。検証された根拠と戦略的な狙いが伴えば、判断としての静止であり、十分に合理的です。しかし問題なのは、その判断が明確に言語化されず、結果として“動いていないだけ”になってしまうケースです。・誰も「やらない」とは言っていない・しかし「やる」とも言われない・話は出ているが、進捗がない・判断の責任が明確でなく、話が止まってしまうこうした宙づりの状態では、改善が遅れているというよりも、「止まっていることに慣れてしまっている」と言ったほうが適切かもしれません。この静かな停滞こそが、空室長期化の背景にある構造の一つと言えようかと思います。 まとめ:できることに集中するために、“できないこと”を整理する 改善には限界があります。動かない理由にも、根拠があります。だからこそ、「何ができるか」だけでなく、「何ができないか」も含めて、自分たちの判断軸を明確にしておくことが、空室対策の出発点となります。・どこまでが物理的な制約なのか・どこからが心理的なブレーキなのか・どこまでが戦略的な判断なのか・何をあきらめ、何に集中すべきなのかこうした点を明らかにしないで、「とにかく何かやろう」と闇雲に動いてしまえば、それはそれで、またしてもズレた改善に陥るリスクがあります。本当に必要なのは、「やるか・やらないか」の二者択一の判断ではなく、「どこまでやれるのかを冷静に見極め、そのうえで確実に動く」という判断の質です。動けない理由を言い訳にせず、選びきる力として意思決定を再設計すること。それが、築古の賃貸オフィスビルが再び選ばれる存在へと近づくための、もう一つの条件なのではないでしょうか。 第7章:「全部はできない」から考える――空間の構成を再設計する 築古の中小型オフィスビルでは、「すべてを完璧にすれば選ばれる」という発想自体が、現実的ではありません。物理的な制約、予算、判断力の限界もある。とはいえ、何もしなければ空室は埋まりません。では、「全部はできない」状況の中で、何をどう構成すればよいのか。本章では、その空間の構成の再設計について考えていきます。 「どこをやるか」ではなく、「どこまでにしておくか」 改善の効果は、必ずしも「手をかけた量」と比例するわけではありません。むしろ、どこまで手を加えるか、どこで止めるか――そのバランスの見極めこそが、結果を左右します。・体の佇まいに対して、エントランスだけが妙に華美で浮いてしまっている・古さを打ち消そうとして一部の設備だけを更新した結果、周囲との違和感が目立つこうした「ちぐはぐさ」こそ、テナントが敏感に察知するズレの正体です。これは設備の新旧やスペックの優劣ではなく、「空間全体の構成の問題」そのものです。 「ズレない空間構成」は、足し算よりも引き算に宿る 改めて強調したいのは、「ズレのない構成」とは、派手な演出や目に見える差別化を狙うことではないということです。むしろ、余計なものを削ぎ落とし、建物としてのまとまりを乱さないことのほうが、結果としてテナントに選ばれる物件へとつながります。・ビルの規模や立地と調和した素材を選ぶ・既存の構造や動線を邪魔しない照明・サイン計画・明確な意図が読み取れる、シンプルで過不足のない内装デザインこれは、「目立つ差別化」ではなく、「自然な調和」を重視することが、テナントに安心感や納得感を与えるということでもあります。 ブルーノ・タウトが桂離宮に見た、「構成の美学」 この「空間構成による改善」の考え方を深める上で、ブルーノ・タウトの桂離宮の見方が、意外にも参考になります。タウトは桂離宮を訪れた際、「泣きたくなるほど美しい」と評し、その美の本質を次のように語りました。「趣味が洗練の極致に達し、しかもその表現が極度に控え目である」※ブルーノ・タウト『日本美の再発見』(岩波書店)より。つまり、装飾を削ぎ落とし、空間の関係性と要素同士のバランスにすべてを委ねることこそが、桂離宮の美しさであると指摘したのです。桂離宮には、豪華な装飾や圧倒的なシンボル性は存在しません。しかしその空間には、過不足のない均衡と自然な連続性があり、使い手が何の説明も受けなくとも納得できる、明快な構成が施されています。この姿勢は、築古の中小規模オフィスビルの改装にあたっても、深く通じるものがあるのではないでしょうか。限られた条件の中で、余分なものを足さず、むしろ「空間全体を調律する」こと。それこそが、今改めて求められる実務的な「改善の本質」なのではないでしょうか。 まとめ:「構成する」とは、空間を信じて余白を残すこと 築古の賃貸オフィスビルの改善で迷ったときに求められるのは、「もっと良く見せよう」と付け足すことではなく、「違和感のない状態で止める」という決断です。それは、華やかさやコストをどこまでかさ増しできるのかを追求するのではなく、「建物の文脈に合った素直な空間構成」を選択することです。つまり、「何も説明しなくても意図が伝わる空間」をつくるということです。・手を加えすぎない。・装飾しすぎない。・背伸びしすぎない。それでも「なぜか納得できる」とテナントに感じさせる空間構成には、「設計の精度」と「空間そのものへの信頼」が宿っています。改善の本当の価値は、こうした構成への意識的な見極めと選択の蓄積によってこそ生まれる――「全部はできない」からこそ、選ばれる空間の作り方が徐々に見えてくるのではないでしょうか。もちろん、桂離宮のような完成度を築古オフィスビルにそのまま持ち込むことはできません。しかし、そのような空間を意識して設計を見直すことが、「構成の精度」を高めるための、第一歩になるはずです。 第8章:「改善する」から「選ばれる」へ――築古ビルがとるべき次の一手 ここまで本コラムでは、築古の中小規模オフィスビルにおいて、どのような取り組みが「決まらなさ」につながってしまうのかを検証してきました。・改善の方向性のわずかなズレが、その効果をブレさせる・対策を講じているのに、なぜか選ばれない・判断は繰り返され、なぜか停滞する・やったことが評価されず、やらなかった部分だけが印象に残るこうしたなぜかうまくいかない現象の背後には、改善そのものではなく、その選び方や組み立て方の問題が潜んでいました。本章では、その総まとめとして、「では何が選ばれる結果を生み出しているのか」を、あらためて捉え直してみます。 問題の本質は、“何をしたか”よりも、“どう構成されたか”にある これまで取り上げてきたように、多くの築古の賃貸オフィスビルでは、一定の対応がすでに施されています。・トイレは数年前に更新済み・照明器具はすでにLED化済み・エントランスも改装済で、一応はキレイになっているそれでも、反応が薄い。手応えがない。このときに見落とされているのは、ひとつひとつの施策の良し悪しではなく、それらの「組み合わせ方」「見え方」「伝わり方」です。選ばれなかった理由は、それぞれの施策がダメだったからではなく、「全体として何かがちぐはぐに見えた」から。つまり、結果に影響するのは“判断の構成”そのものなのです。 必要なのは、“意味が通る仕上がり”であること なにがしか改善して、設備を新しくすれば、清掃を強化すれば、効果が上がって、テナントの印象が上が――それは一部では正しいかもしれません。しかし今、テナントが感じ取っているのは、そうした「改善の量」ではなく、場としての説得力や、一貫した背景の見え方です。・ぜこの部分だけ新しく、他はそのままなのか・なぜ余白があるのか、あるいはなぜ埋め尽くされているのか・実際に使う場面を想像したとき、どこに「違和感」が出てくるのかこの「違和感のなさ」こそが、選ばれる理由になりつつあります。それは、個々の部分の出来ではなく、空間全体の構成としての納得感に寄与する要素です。 桂離宮に見る、“構成の精度”という考え方 前章でも触れたブルーノ・タウトによる桂離宮の評価は、まさにこの「構成の精度」への着眼でした。装飾に頼らず、素材の力を引き出し、配置の釣合いによって全体を成立させる――この考え方は、築古ビルにおける改修判断にも通じるものがあります。派手な演出を施さずとも、空間の連続性や要素の呼応がきちんと感じられるかどうか。仕上がりが目立たないことで、むしろ好印象を残すこともある。このような「何も主張しないことで、意味が通る仕上がり」は、これからの賃貸オフィスビルの選ばれ方を考えるにあたっても、ひとつの方向になるでしょう。 重要なのは、どこまでやるかではなく、なぜそうしたのかが説明できるか 築古の賃貸オフィスビルを改善するにあたって、予算や構造上の制約が必ずあります。全部を刷新できるわけではない。けれども、どこを触り、どこを触らないかという選択の精度が高ければ、結果には大きな差が出ます。・あえて手を入れなかった箇所が、空間全体の呼吸をつくっている・目立たない処理が、入居後の安心感を下支えしている・「ここまででいい」と判断された更新が、逆に信頼を生んでいるこうした仕上がり方には、計画と実行のあいだの判断が丁寧に組み立てられていることが共通しています。 まとめ:仕上げるのではなく、“選ばれる構成”を組み立てる 本コラムの冒頭で触れたように、「対応して、改善しているのに決まらない」という悩みは、いまや築古の賃貸オフィスビルにおいて共通する課題となっています。それに対する答えは、単に「もっとやる」「もっと見せる」ことではありません。むしろ、「どこまでで十分か」「どう見せればズレが起きないか」――そうした判断の濃度と構成が、差を生んでいます。選ばれるビルには、目立たないけれど、判断の一貫性と背景の納得感がある。その空気をつくるのは、建材や演出ではなく、計画の構え方です。築古の賃貸オフィスビルが目指すべきは、過剰でも不足でもないちょうどよさを、自分たちなりの構成で言葉にできるようにすること。それが、これからの賃貸オフィスビル市場において「選ばれること」への最短距離ではないでしょうか。 執筆者紹介 株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム 飯野 仁 東京大学経済学部を卒業 日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。 年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。 2025年12月17日執筆
 
 
 
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