キャッチコピーは要らない―ミニマル・メディアとしての賃貸オフィスのテナント募集チラシ
皆さん、こんにちは。
株式会社スペースライブラリの飯野です。
この記事は「キャッチコピーは要らない。―ミニマル・メディアとしての賃貸オフィスのテナント募集チラシ」のタイトルで、2026年1月16日に執筆しています。
少しでも、皆さんに新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
序章:賃貸オフィスのテナント募集チラシが、いまも機能している理由
朝いちから、ビル管理会社のリーシング担当の受信トレイにPDFが届く。
差出人は、馴染みの不動産仲介会社。件名は物件名そのまま。「○○ビル空室情報」――開いてみると、レイアウトはどこか見覚えがある。
中央に図面、右上に交通、左下にスペック、写真は上段または右に寄せて3〜4枚。どこかで何百回と見た気がする配置だ。変わったのは写真の画質とPDFになったことくらいで、“図面文化”の骨格は、今もほとんど変わらず生きている。
かつて「マイソク」と呼ばれたその形式は、FAX文化の中で育った。
誰にでも送れる/誰でも開ける/どの会社でも理解できるという三拍子を武器に、不動産業界における“共通語”として定着した。今では白黒からカラーへ、紙からPDFへと形を変えているものの、その機能は変わっていない。とにかく、情報が決まったフォーマットで整然と一枚にまとまっていること、それが重要なのだ。
当社が管理している賃貸オフィスのテナント募集チラシを眺めてみると、“共通仕様”のなかにあって、いかにして個々の物件が選ばれようとしているのかが見えてくる。
駅“実歩1分”を前面に押し出すもの、生体認証や制振装置など“セキュリティ”を訴えるもの、更新料なし・償却なしを提示するものなど。チラシのなかで並べられているそれらの情報自体は、いわば共通言語であり、他の物件と共通していて比較可能であるが、そのチラシを契機とした組織内での“決裁への導線”を意識していることが窺われる。
一方で、住宅の世界は別の進化を遂げた。いまやマンション広告の主戦場はポータルとSNSだ。SUUMOのキャッチコピーに代表されるように、「駅が、街が、未来が変わる」「風が通り抜けるリビング」……そんな詩的で抽象的なコピーが、PCのスクリーンや立派なパンフレットのページの中で、“暮らしの物語”を語る。いわゆる“マンション・ポエム”と呼ばれるそれは、憧れを煽り、内見予約へと誘導するための“物語の入口”として機能している。
だが、賃貸オフィスのテナント募集チラシは、それとはまったく違う道を歩んできた。
ここで主語になっているのは、夢を追う個人ではない。テナント企業の現場担当であり、組織内での決定をコーディネートしたい総務担当だ。だから必要なのは、「ときめき」ではない。“組織内で決定可能な根拠”だ。
物件の値段である賃料に加えて、駅からの実歩、EVの基数、OA床の有無、電気容量、空調方式、更新料、償却費の有無、そしてビル管理の透明性……実際の使用価値、実効コストに影響するそれらの“具体的な条件”こそ、組織内での決定を左右する。
しかし、ここに問題がある。
フォーマットが共通化すればするほど、差別化は埋もれる。
どのチラシもレイアウトは似ていて、似たような言葉が並ぶ。「駅近」「24時間利用可」「OAフロア」……正しい。でも、同じに見えてしまう。しかも、どれもそれなりに魅力的だからこそ、差は紙面の“置き場所”と“言い切り方”でしか立てられない。
このコラムでは、こうした賃貸オフィスの“テナント募集チラシ文化”の独自性と可能性を掘り下げていく。
住宅と対照的に語ると、チラシの役割が、「物語の入口」としてまだ定まらない個人の気持ちに訴えかけるのではなく、「組織内決定の入口」として確定された情報を以てプロセスを整然と進めていくツールであることを明らかにする。
第1章:マイソクの誕生と図面文化
1.1マイソクの名前の由来
いま「物件資料」と聞くと、頭に浮かぶのはA4一枚にぎゅっと情報が詰まったチラシ。間取り図、写真、交通アクセス、契約条件――それらが“一体”になって、営業の場で使われている。その呼称も、ただ「マイソク」として、業界に完全に定着している。実はこれ、個人の英語綴りではなく、昭和44年創業の「毎日速報センター」という会社名が略されたものが語源なのだ。
もともと毎日速報センターは、不動産元付業者から依頼を受け、図面付き物件概要チラシを印刷して仲介業者に配る事業をしていた。物件資料が必要な営業場面の定番になり、やがて「それ=マイソク」と言葉が置き換わるほど深く根づいたわけ。
マイソクという言葉は資料の名称ではなく、チラシ文化そのものを指す業界の共通言語となっている。
1.2図面文化としてのチラシ
マイソクという言葉が単なる会社名を超えて、「一枚にまとまった物件資料」を指すジャンル名として定着した背景には、日本の不動産取引における“図面文化”の強さがある。
そもそも日本の賃貸オフィス市場では、住居に比べてテナントの業務適合性が圧倒的に重視される。どれだけ立地や外観がよくても、オフィスレイアウトが合わなければ「使えない物件」となる。だからこそ、図面は単なるイメージではなく“業務の可否を左右する仕様書”として機能してきた。
具体的には――
- 柱の位置:島型デスクを組むのか、フリーアドレスかで重要になる。
- トイレと給湯室の位置:男女別かどうか、共用か専有か、来客導線と交差しないか。
- エレベーターと階段の配置:搬出入・避難経路・入退室動線に影響。
- 空調の区画:天井カセットか、個別か、ゾーン分けができるかどうか。
こうした情報は、写真や文字ではなく“線と面”で示されるからこそ、瞬時に理解できる。建築図面に近い「区画図」が、物件判断の第一フィルターになる構造だ。
結果的に、チラシの構成は自然と“図面中心”になった。図面を軸に、補足的にスペックと写真が配置される構成は、住居の「間取り図」よりもさらに機能重視。今のPDFチラシでも、図面を左・中央・右下など目立つ位置に置く設計が多数派だ。これは、単なる慣習ではなく、情報処理コストを最も下げる合理的レイアウトとして生き残っている。
そして、そうした図面付きチラシをベースに、人と人が会話する現場構造そのものが設計されてきた。担当者は資料を片手に、「この物件、島型でいけそうです」「執務エリアと会議室をこのラインで分けられますね」といった言葉を交わす。マイソク型チラシは、営業ツールであると同時に“会話の図面”でもある。
1.3チラシは「使われる」ために整えられる
賃貸オフィスのテナント募集チラシを、広告と呼ぶには少し違和感がある。
魅力を語るためのコピーや物語性は控えめで、感情を動かす装飾もない。
それでも、この紙一枚は実務の現場で確かに機能している。
このメディアが担っているのは、“比較検討”の土俵を提供することだ。
いくつかの候補のなかで、どれが現実的か、コストと条件が見合っているか。
担当者が上司や経営層と会話を進めるうえで、共通の基盤となる情報パッケージ――
それが、賃貸オフィスのテナント募集チラシである。
この媒体に求められるのは、「読みやすく、比較しやすく、話を進めやすいこと」。
図面が大きく、条件が一覧できて、写真の主張は控えめ。
「一目で全体像がわかる」ことが、見た目以上に価値を持つ。
誰が見ても、同じ物件像が立ち上がる。だからこそ、使われる。
図面が整い、スペックが揃い、条件が確定して、賃貸オフィスのテナント募集チラシは作成される。
- 仲介営業にとっては、提案の起点となる「比較資料」
- テナントにとっては、組織内検討のための「判断材料」
- オーナー・ビル管理会社にとっては、物件のリーシングの準備が整ったという「営業開始の合図」
このように、誰にとっても“使える”状態であること。
派手さよりも、整っていること。目立つよりも、説明しやすいこと。
それが、チラシが選ばれ、回覧され、いまでも機能している理由なのだ。
1.4“FAXでも届ける前提”は、今も残っている
FAX送信の文化は、もはやほとんどの現場で廃れてきている。だが、「FAXで送っても誤読されない設計」というフォーマット思想そのものは、現在のPDFにも引き継がれている。
かつての白黒マイソクでは、
- フォントサイズは小さすぎず
- 図面は正対図が明快で、柱や梁の位置が示され
- 物件名・面積・賃料などは左上か中央にまとめられていた
これは、「送られて、即見られて、即わかる」ことを目的としたレイアウトだった。そしてその思想は今もなお、
- 「紙で出してそのまま会議に持ち込める」
- 「複数のチラシを並べて比較できる」
- 「どのチラシもレイアウトが似ているから違いがすぐわかる」
- という運用上の強みとして継続されている。
いわば、紙であってもデジタルであっても破綻しない設計。この頑強なフォーマットの堅牢さこそが、“マイソク”がPDFチラシのカタチで生き残っている理由だ。
第2章:住宅広告と“マンション・ポエム”の進化
――「らしさ」から始まる住まい選び
賃貸オフィスのテナント募集チラシが、図面と数値を中心に据えた“合議の道具”として磨かれてきたのに対して、住宅の広告はまったく異なる文脈で進化してきた。そこでは、物件スペックや間取りよりも、まず「感情の引き金」が必要とされてきた。住宅広告において主語となるのは、会社や組織ではなく、個人=生活者だ。彼/彼女は、転勤でも起業でもなく、暮らしの理想像を手がかりに物件選びを始める。情報収集も、検討も、意思決定も、感覚ベースで始まる。
その起点となるのが、マンション・ポエムという存在である。
「空のひらけた丘で、時をほどくように暮らす。」
「都市の躍動と、緑の静寂。そのあいだにある日常。」
「人生をリセットする、南向きの窓。」
――こうした詩的なコピーは、不動産情報の精度とは一見無縁に思える。しかし、実はこのポエムこそが、売り手と買い手の想像を同期させる最初の接点なのだ。
2.1なぜ住宅には“ポエム”が必要なのか
住宅とは「使う空間」である前に、「属する空間」だ。購入や賃貸の意思決定においては、合理的な条件比較よりも、「この場所に暮らしたいかどうか」という感情が強く作用する。
実際、住宅購入や住み替えはライフイベントとセットで訪れることが多い。
- 子育て期の家探し
- 結婚後の新居選び
- 離婚後の再出発
- 独立・起業によるライフスタイル変更
こうした局面で人々が探しているのは、単なる「広さ」や「価格」ではない。むしろ、“生き方にフィットする場所”という輪郭のない何かを探している。そのとき、ポエムは情報ではなく自己投影のスイッチとして機能する。つまり、「ここに住んだら、自分はどんなふうになるのか」を仄めかし、まだ言語化できていないニーズを喚起するトリガーになるのだ。
2.2住宅広告は「主観ベースの発火装置」
住宅広告におけるポエム的コピーは、「憧れ」「癒し」「誇り」「余白」などの抽象的価値を先に提示することで、感情的な足がかりを作ることを目的としている。これはマーケティングで言うところの「エモーショナル・ベネフィット」に相当する。
たとえば、
- 「武蔵小杉駅徒歩3分・3LDK・専有面積78㎡・7,480万円」だけでは、スペックの比較に終始するが、
- 「都市の躍動と、緑の静寂。そのあいだにある日常。」というコピーが添えられると、そこに世界観が宿る。
これはつまり、「数値に意味を与えるための感情の前置き」であり、スペックを自分ごと化するための“補助線”としての役割を担っている。
2.3情報ポータル時代におけるポエムの必然性
SUUMOやHOME’S、アットホームなどの住宅ポータルが台頭して以降、住宅広告の世界はサムネイル+キャッチコピーの競争に突入した。スクロールされる物件一覧の中で、いかに目を留めてもらうか。その入口に最適化されたのが、視覚インパクト+ワンフレーズの訴求だった。
これにより、住宅広告は単なる「条件通知」から、「世界観の発信装置」へと性質を変えた。
- 写真は“映え”重視
- 間取りは“生活の想像力”の下支え
- ポエムは“主観の接続”を担う
この3点セットが、クリックされるかスルーされるかを左右する構造になった。そしてポエムは、共感・憧れ・承認といったSNS時代の感情回路とも親和性が高く、住宅選びにおける「シェアしたくなる気持ち」にも直結している。
2.4マンション・ポエムは、なぜ“機能”しているのか?
「空のひらけた丘で、時をほどくように暮らす。」
「都市の躍動と、緑の静寂。そのあいだにある日常。」
――こんなコピーが添えられた住宅広告を、いまや誰もが一度は目にしている。
これは単なる“うたい文句”ではない。
むしろマンション・ポエムは、「なにを買うのか」ではなく、「なぜこれを選ぶのか」に対して、最初の“意味づけ”を与える装置として機能している。
人は家を買うとき、単なる立地や間取り以上に、「この場所に住む自分」というイメージと向き合っている。
ポエムは、言語化されていない期待や願望を、あらかじめ言葉として先取りする。
それは、買い手の妄想を煽るものではなく、妄想に整合性を与えるフレームだ。
「この物件は、自分の未来の風景にフィットしている」
――そう思わせる瞬間のスイッチになっている。だからこそ、多くのコピーが実際に記憶に残る。スペックではなく、“あのフレーズの物件”として人の印象に残り、比較と検討のテーブルに載る。ここで語られているのは、情報ではなく、記号としての物語の単位なのだ。
そしてこの記号は、「客観・実在の言葉」ではない。
むしろ、“客観・実在ではないからこそ”、余白を残して個々の感情に接続する力を持っている。
曖昧さこそが、翻訳可能性の幅となり、主観の中に入り込む。これが、ポエムの“言葉の制度”としての強さだ。
2.5賃貸オフィス広告との“非対称性”
では、こうしたマンション広告の制度なり構造は、オフィスの広告にも応用できるのだろうか?
――答えは、ほぼノーだ。
住宅広告と賃貸オフィス広告は、出発点からして非対称だ。
決定者が個人か法人か、主観か合議か、感情か論理か。広告が果たすべき役割の全てが違っている。
| 項目 | 住宅広告 | 賃貸オフィス広告 |
|---|---|---|
| 主語 | 個人/家族 | 法人/部門 |
| 検討プロセス | 感情発火→条件確認 | 条件確認→稟議→決裁 |
| コア要素 | 写真・ポエム・雰囲気 | 図面・数値・法定条件 |
| 判断軸 | 好きかどうか/人生と合うか | 業務が回るか/コストに見合うか |
| コピーの役割 | 自己投影を誘うための情緒導線 | 合議を前に進める機能記述 |
住宅広告が「感情のスイッチを入れるもの」だとすれば、
賃貸オフィスのテナント募集チラシは「情報を並べて、合議を進めるためのツール」だ。
ポエムのような抽象的な言葉で煽ることは、かえって疑念を招きかねない。
必要なのは、「この物件は、誰にとって、なにが、どう良いのか」が即座に読み取れる言語設計だ。
目を引く必要はない。
ただ、比較に耐え、説明に使える構成であること。
その意味で、住宅広告における“ポエム”が主観の発火装置だとすれば、賃貸オフィスのチラシに求められるのは、判断プロセスを前に進める「構成的な明快さ」である。
次章では、その点を踏まえて、「USP(独自の強み)」というマーケティングの概念が、賃貸オフィス広告でどこまで通用するのかを見てみる。
第3章:賃貸オフィス広告における“USP”の誤解と限界
―「差別化がすべて」とは言い切れない、現場の論理
3.1「アピールすれば決まる」という幻想
「競合と違う“強み”を打ち出せ」――このコピーは、どんなビジネスでもマーケティングの教科書に必ず登場する。
とくに賃貸オフィスの空室が埋まらないとき、不動産広告の現場でもすぐにこの発想に行き着く。
「何かアピールポイントが足りないんじゃないか?」
「このビルの“ウリ”をもっと前面に出したらどうだろう?」
「よそのビルより目立つ工夫が必要だ」
という具合に、“USP(Unique Selling Proposition)を立てること”が成約への近道だという前提が、関係者のあいだで共有されてしまう。
だが、賃貸オフィスのテナント募集広告においては、この“マーケティング的差別化論”は一部でしか機能しない。むしろそれがズレた打ち手を誘発するリスクさえある。なぜなら、賃貸オフィスのテナント募集には、住宅や一般的な消費財とはまったく異なる、意思決定プロセスと関与者構造があるからだ。
3.2会社の組織で動く「消去法」
賃貸オフィスを借りるか否かの意思決定には、例外なくテナントの会社内で組織的に検討される。
オフィス移転検討は経営者個人の一存では進まず、
- 総務/ファシリティ担当が複数物件を比較
- 現場部門の意見を取りまとめ
- 社内手続きに必要な資料を揃え
- 最終判断までに複数段階を踏む
そのプロセスの中では、「どれに決めたいか」よりも先に、「どれを候補に残せるか」=ふるいにかける視点が優先される。
つまり選び方の実態は「好きか嫌いか」ではなく、「ダメな要素がないか」の確認に近い。ここで重視されるのは、標準から外れていないこと/誰にも反対されにくいこと/汎用性があること、なのだ。
ゆえに、過度な差別化がむしろ検討落ちの要因になる。
- 「内装付きでおしゃれ」→原状回復/維持コストが高そう
- 「天井が高くて開放的」→空調効率・照明コストが気になる
- 「専用EV付き」→その分共益費が高いのでは?
どんな“強み”も、それを不要とする企業にとってはマイナス要因になり得る。
この構図を無視して「ウリを打ち出せ」と言っても、空振りのコピーを量産するだけになる。
3.3“尖り”ではなく、“整合性のある情報構成”が価値になる世界
では、賃貸オフィスのテナント募集(リーシング)における「伝えるべき価値」とは何か?
それは、尖った魅力ではなく、むしろ、整合性のある情報構成がもたらす安心である。
この“整っている感”は、以下のような細部から生まれる
- 図面が見やすく、柱や寸法が正確に記載されている
- 区画が長方形でレイアウトしやすい
- 共用部の構成が直感的にわかる
- 写真が明るく、導線がイメージできる
- 賃料や諸条件が不自然に“安すぎない”
- 備考欄に余計な注意書きがなく、要点が明快
こうした不安を起こさない紙面は、組織内の合意形成で引っかかりにくい。つまり、「選ばれる」以前に“落とされない”構成を最優先するのが、賃貸オフィスの実務合理性だ。
3.4“USP”は、ターゲットが合ったときにのみ生きる
もちろん、すべての差別化が無意味なわけではない。
「内装付き」「リノベ済み」「コンパクト区画」「テラスあり」などの特徴が、明確なターゲット像と一致している場合には、有効に機能する。
たとえば
- 小規模で対面接客を重視する士業向けに、ガラス張りの応接室付きオフィス
- クリエイティブ企業向けに、ラフなスケルトン天井+躯体現しの内装
- 予算の限られたスタートアップ向けに、家具付き・即入居可の小割り区画
このように、「強み」と「誰に向けた提案か」が一致していれば、USPは武器になる。
しかし、ほとんどの中型〜大規模区画では、“業種を選ばない”こと自体が最大の強みになっている。そのときに下手な差別化をすると、むしろ使い勝手の悪い印象を与えてしまうリスクが高い。
3.5「横並びフォーマット」の背景にある暗黙の合理性
賃貸オフィスビルのテナント募集チラシが、図面・物件概要・写真・賃料条件という似た構成に収束しているのは、単なる惰性ではない。それは、「見慣れた形式の安心感」と「比較のしやすさ」という合理的ニーズへの最適化の結果だ。
- 仲介営業にとっては、複数物件を一度にプレゼンしやすい
- 総務担当にとっては、社内回覧資料としてまとめやすい
- 経営者にとっては、数値を並べて条件比較がしやすい
このように、「横並びの体裁」そのものが、情報共有と意思決定の潤滑油として機能している。
だからこそ、奇抜なレイアウトや言葉遊びよりも、「わかりやすく、突っ込まれにくい情報の構成」こそが現場で重宝されるのだ。
3.6差別化ではなく、「説明可能性」を磨く
マーケティングで語られる“USP”とは、本来「競合と比べて、自社を選ぶ明確な理由を提供するもの」だ。だが、賃貸オフィス市場では、「この物件を選んでも誰も異議を唱えなかった」という構成のほうが、成約を生みやすい。
だからこそ、チラシが果たすべき役割は、
「説得」ではなく、「合意の素材」である。
- 突っ込まれにくい構成
- 数値的裏付けが明快
- 写真が“説明しやすい”素材になっている
- 図面に余白がなく、質問されそうな点が潰されている
――こうした“説明可能性”の高さこそが、現場で「使えるチラシ」と評価される条件なのだ。
第4章:組織内意思決定を“通す”ためのチラシ
――稟議プロセスに最適化されたメディア構造
4.1チラシは「物件を魅せる」より「社内を納得させる」
賃貸オフィスのテナント募集チラシは、見た目の華やかさや演出力を競う広告ではない。
それはむしろ、社内の意思決定を着実に進めるための“証拠書類”に近い。
物件を探すテナント企業の現場では、最初に物件情報を収集・検討するのは、総務部門/ファシリティマネジメント担当が多い。だが、意思決定されるためには、経営者の決裁、あるいは本社決裁ルートを経る。
このとき求められるのは、「この物件が良いかどうか」ではなく、「この物件を選ぶのが妥当であることを、関係者全員が納得できるように説明できるかどうか」である。
そこに、A4一枚のPDFチラシが圧倒的な効力を発揮する。
それは情報のパッケージであると同時に、社内・グループ内決裁プロセス=”稟議”を“通すための媒体=メディア”として設計されているからだ。
4.2稟議とは、情報の納得性を問う合意形成プロセス
社内での賃貸オフィスの物件選定には、一般的に以下のような段階がある:
- 現場担当(総務)が物件をピックアップ
- 候補物件を部署内で比較検討
- 経営者あるいは本社の意思決定プロセスに諮るために提出
- 内容精査・合意を経て決裁
このプロセスにおいて、チラシは、単に「候補の提示」ではなく、「選定根拠の提示」「合意形成のための下敷き」として機能する。
つまり、社内で求められるのは「この物件でいい」ではなく、「この物件でいく理由を、誰が見ても納得できる形で説明できる資料」なのだ。
4.3稟議を通す資料の条件
①情報の網羅性
「足りない項目」があるだけで、即座に稟議は止まる。
よって、以下のような最低限の記載は不可欠だ
- 所在地・最寄駅・徒歩分数
- 面積・賃料・共益費・保証金・償却・更新料
- 築年数・階数・空調・トイレ位置・天井高
- 図面(特にレイアウト判断に耐えるレベル)
これらの情報が揃っていて初めて、「比較対象」としてチラシが成立する。不完全なチラシは、それだけで“落とされる”のである。
②形式の共通性=比較可能性
複数物件を並べて検討するとき、形式がバラバラだと、単純に「比べにくい」。
その点、マイソク由来のレイアウトは非常に優れている。情報配置の順序が予測可能で、視線移動も最小限に抑えられている。
“見慣れたフォーマット”というだけで、読む側のストレスは劇的に下がる。
この“ストレスの少なさ”こそが、合意形成における武器になる。逆説的だが、「他と似ている」ことが、比較の場ではむしろ長所になるのだ。
③回覧・転送・添付のしやすさ
ネット上のURLをメールで送っても、プリントして使えない/稟議に添付しづらい/閲覧権限でブロックされる――といったトラブルは実に多い。
その点、A4一枚のPDFは万能だ。メール添付で送れるし、プリントも即可能。スマホで拡大表示しても、必要情報がほぼ読める。
「とにかくすぐ使える」ことが、現場では最も強い。
4.4盛っても尖っても伝わらない。情報の整合性があるから通る
「魅せるチラシ」への誘惑は常にある。色を加え、フォントを遊び、写真を増やし、メッセージ性を加味する――。だがそれは、見せる先が“顧客”であることを前提にしたアプローチだ。
しかし、賃貸オフィスのテナント募集チラシにおける“顧客”は、最終意思決定者=社内の稟議ルートである。
つまり、納得されるかどうかが全て。
演出よりも、情報の整合性を踏まえて説明できる状態なのかどうか。ここが問われる。
情報の整合性とは何か?
- 写真よりも図面が優先されている
- キャッチコピーよりも仕様が明記されている
- 空白が多くても、視線の流れがスムーズになっている
- 見比べられるために「余白と構成」を確保している
これらは、派手さや独自性とは真逆に位置する価値だ。だが、実務の現場では、“異彩を放つより、異議が出にくいこと”のほうが重要なのだ。
仮に、見栄えだけを重視した華美なチラシを添付したとしよう。写真は多く、色合いも凝っていて、一見するとオシャレだ。だが、実際に稟議にかけると、こうした反応が返ってくる可能性がある:
- 「これ、改装コスト込みの内装写真じゃないの?」
- 「レイアウト図が小さすぎて読みづらい」
- 「仕様がわからない、スペック表はないの?」
- 「この坪単価の根拠はどこに?」
これでは、むしろ提案者の評価が下がってしまう。
尖った表現は、かえって“情報の整合性の不備”を露呈してしまうのだ。
4.5情報を“語らせない”ために、構成がある
稟議プロセスの最終段階では、チラシが「社内説明ツール」として機能するかどうかが問われる。
たとえば、担当者が上司にチラシを見せながらこう言う場面を想像してほしい
上司「で、どこがいいの?」
担当「この立地で、この賃料で、このスペックなので、コスパが良いと思います」
上司「ふむ、図面もわかりやすいし、条件も網羅されてるな。OK、他と比べてみてくれ」
この会話が成立するのは、チラシに余計なノイズがなく、視線を誘導する設計と、必要な情報が網羅された構成が整っているからだ。
逆に、情報が分散していたり、見せ方に凝りすぎていたりすると、説明はこうなる:
担当「えーっと、図面は裏面で……あ、条件は写真の下に小さく書いてあって……」
上司「なんか、わかりづらいな。このビル、大丈夫?」
こうなったらアウトだ。情報の構成ミスは、内容の評価以前に“伝わらない”という致命傷をもたらす。
それが、賃貸オフィスのテナント募集チラシにおける、実務の“本質的な構成力”なのである。
終章:チラシはメディアだ
――最小限の構成が、最大限の判断を動かす
賃貸オフィスのテナント募集チラシは、広告のようでいて、広告ではない。
その目的は、物件の魅力を感情に訴えることではなく、「この物件で問題ない」と社内の合意形成を通すための実務的な媒体=メディアだ。
目立ったキャッチ・コピーはない。余計な演出もない。イメージを膨らませる文言もない。
それでもこのチラシ一枚が、現実にテナント企業の意思決定を動かしていく。
なぜならこの紙面は、“伝える”というよりも、“通す”ことに最適化されているからだ。
そして、それを可能にしているのが、その構成=フォーマットそのものだ。
判断・意思決定を設計する「構成」
マーシャル・マクルーハンが言った「メディアはメッセージ」という言葉は、情報の内容よりも、その形式が社会に与える影響を決定づけるという意味で使われる。
テナント募集チラシもまさにその類で、情報をどう並べ、どう見せているかで、読む側の判断プロセスを先回りして設計されている。
たとえば――
- 図面の位置と大きさ
- 賃料や面積の配置と強調
- 条件表の並び順
- 紙面の余白と視線の流れ
これらの項目がただ並べられているだけに見えて、「この資料は、こう読まれ、こう比較され、こう判断される」ことを前提にして、「話が通じる」ように最適化された構成なのだ。構成が語り、形式が判断・意思決定を導く。
チラシは、使われる場面で機能することを前提に作られたメディアなのである。
削ぐことで立ち上がる“用の美”
このチラシが辿ってきた歴史を思い返すと、それはFAXや紙媒体という、技術的制約のなかから生まれ、不動産業界の熾烈な競争を適者生存で生き残ってきた進化だった。
ページ数は増やせない。通信速度も遅い。だからこそ、「A4一枚」にすべてを詰め込まなければならなかった。
だが、その制約こそが、このメディアに研ぎ澄まされた構成の強度をもたらした。
- 「削れるだけ削る」という設計思想
- 装飾を避け、可読性と比較性を最優先する構成
- 意思決定を妨げないように、整然と整理された情報
これは単なる実用ではない。機能に徹することが、美しさに転化するという、「用の美」に通じる領域であり、「削ることで、構造が立ち上がる」――そんな道具としての完成度が、この一枚に宿っている。
語らないメディア
この1枚のPDFを、テナント企業の担当者がメールに添付し、決裁者に送る。
すると、特にプレゼンも説明もないまま、こういう会話が交わされる
「ふむ、この物件、悪くないな。条件もわかりやすい。図面も見やすい」
「OK。他と比べて検討してみてくれ」
この間に、説明も、プレゼンもない。「説明しなくても判断が下せる」ように構成されたチラシが、そこにある。
使われることに徹した構成が、「語らないメディア」としての完成度を高めている。
“伝える”よりも社内意思決定を“通す”のに最適化された削ぎ落とされたフォーマット。
それが、この賃貸オフィスのテナント募集チラシというメディアの、本質的な姿である。
執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁
東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。
2026年1月16日執筆