インフレとオフィス賃料――東京のオフィス賃料を以て、都市の『循環』を取り戻す試論(前編)
皆さん、こんにちは。
株式会社スペースライブラリの飯野です。
この記事は「インフレとオフィス賃料――東京のオフィス賃料を以て、都市の『循環』を取り戻す試論(前編)」のタイトルで、2026年1月23日に執筆しています。
少しでも、皆さんに新たな気づきをもたらして、お役に立てる記事にできればと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
本コラムは「インフレとオフィス賃料――東京のオフィス賃料を以て、都市の『循環』を取り戻す試論」の前編です。
前編では、まず、「なぜ今、賃料の“据え置き前提”が限界に来ているのか」を、事実として押さえます。
インフレの定着、賃料と物価の関係、普通借家契約という制度の壁、指数連動の試行事例、そしてテナント側の負担能力――。ここまでを整理して、前提条件を押さえておきます。
その後、後編では、その前提を踏まえて「では、どのように動かすのか」というところに踏み込みます。値上げの是非の話ではありません。都市のオフィスという基盤を、どう持続させるか。そのための制度設計と実務手順の話です。
第1章:インフレは“当たり前”になった―日本の金融環境の正常化とオフィス賃料の分岐点
賃貸オフィスビルの「賃料」って、不思議な存在かもしれない。
いつの間にか、“空気のような前提”になっている。そこにあるのが当たり前で、誰も疑わない。
でも、その空気、実はけっこうな違和感を含んでいる。
人手は足りず、ブラック残業もご法度。清掃も警備も、バイトが集まらない。
管理コストはしれっと上がってる。水光熱費も、業務委託費も、資材価格も、全部じりじり効いてきている。
なのに、「オフィス賃料は据え置き」が大前提。現場で口に出さずとも、そういう空気が支配している。
言ってしまえばこれは、「コストは上がっているのに、オフィス賃料は変わらない」という、ねじれた均衡だ。
だが、この均衡、いつまで保てるのだろうか――。
日本の不動産市場は長らく、デフレとゼロ金利の環境下で、“オフィス賃料は固定であること”を前提に成立してきた。更新も、再契約も、大きな波は立てない方がスムーズだった。それが合理的な運用方法だった。
だが、前提が変われば、合理性も変わる。
この数年、じわじわとではあるが、日本経済はインフレとともに、「当たり前」自体の更新期に入りつつある。
それは、物価の上昇という形で現れ、金利の見通しを変え、企業の行動にも波紋を広げている。
果たしてこの中で、オフィス賃料だけが例外であり続けられるのか。
あるいは、これまで通りの、オフィス賃料が、次の時代にも通用するのか。
このコラムでは、そうした問いを念頭に置きつつ、オフィス賃料とインフレの“ずれた関係”をあらためて読み解いていく。
「物価が上がっている」。それ自体がニュースになる時代は、もう終わった。いま起きているのは、インフレが“定着しつつある”という現象だ。しかも、それを前提に、企業も人も、そして制度も、ゆっくりと動き始めている。
実際、2025年6月25日に開催された日銀の金融政策決定会合では、以下のような前向きな経済認識が共有された。
「(一部に弱めの動きもみられるが、)景気は緩やかに回復している」
「法人企業統計をみると、企業の稼ぐ力と賃上げ余力は改善している」
「物価は一時的な下振れリスクはあっても、その後は成長率が高まり、見通し期間内には『物価安定の目標』と概ね整合的な水準で推移する見通し」
「経済・物価情勢の改善に応じて、引き続き政策金利の引き上げ、金融緩和の度合を調整していくことになる」
2%というインフレ率は、かつては“達成すべき目標”だった。いまでは“前提条件”になりつつある。そして、次の政策対応は利上げ――というのが、コンセンサスだ。
企業の側も、この前提にすでに適応しつつある。賃上げが連続して実現され、法人企業統計でも経常利益は堅調。資金繰りが逼迫するような状況ではない。むしろ、価格転嫁の余地が広がりつつあるというのが、足元のトレンドだ。賃上げ・サービス価格の底上げが、物価の「質」を少しずつ変え始めている。
このように、金利・物価・企業収益が揃って、永らく続いてきたデフレの世界から正常な世界に移行している状況において、改めて問うべきは、「オフィス賃料はどうあるべきか」という論点だ。
日本の賃貸オフィスビルの賃料は、契約上も商慣習上も“固定賃料”が前提であった。一定期間ごとの見直し条項や、賃貸契約の更新時の改定交渉はあるにせよ、あくまでも、貸主・借主間の協議による改定であり、欧米で見られるような、オフィス賃料が物価や金利と“自動的に連動する”仕組みは長らく導入されてこなかった。
このようなオフィス賃料を契約期間中固定とするモデルでは、経済情勢によってテナント(借主)と賃貸オフィスビルのオーナー(貸主)の受けるメリット・デメリットの関係性が変動する。
まず、インフレ局面(物価上昇期)においては、固定賃料の仕組みはテナントに有利に作用する。時間の経過とともに物価や他のコストが上がってもオフィス賃料は据え置かれるため、テナントにとってオフィス賃料の負担の実質的な目減り効果が生じるからだ。逆にビルオーナー側から見ると、インフレによって貨幣価値が下がる分、受け取るオフィス賃料の実質的な価値が目減りし、資産から得られるリターンが相対的に削られる不利な状況となる。
そのため高度経済成長期〜インフレが続いた1960〜70年代には、賃料固定の契約慣行はテナントを利する一方、オーナーにとってはインフレの分だけオフィス賃料収入が割安になる構造だった。とはいえ当時の日本は経済成長とともに不動産価値が年々高騰し、「土地の価格は必ず上昇する」という土地神話が広く信じられた時代でもあった。
特に1980年代後半のバブル期には地価が異常なまでに跳ね上がり、多くの人々が不動産投機に熱狂した。このような環境下では、多少、オフィス賃料収入の実質価値が目減りしても、賃貸オフィスビルの資産そのものの含み益(キャピタルゲイン)への期待が大きく、オーナーにとっても明るい未来が見えていたと言えよう。
一方、デフレ局面や低インフレ期(物価停滞期)においては、賃料固定モデルは相対的にビルオーナーに有利な構造となる。物価や金利が横ばいもしくは下落傾向にある場合、固定されたオフィス賃料収入の実質価値はむしろ維持・向上しやすく、インフレ期のような目減りリスクに晒されないからだ。
実際、1990年代初頭のバブル崩壊以降、2000年代から2010年代にかけて日本経済は長期停滞とデフレ傾向が続いた。この「失われた30年」と呼ばれる低成長期には、オフィス賃料を固定して安定収入を確保できるモデルはオーナーにとって合理的で安定的なビジネスモデルと評価できる側面があった。オフィス賃料の水準自体も景気低迷に伴い下落圧力が強かったため、物価連動で自動的に増減する仕組みより、据え置きや必要に応じた個別交渉で減額に応じる従来型の方が経済実態にも合致していたのである。テナント側から見ても、デフレ期には市場相場の下落に合わせて契約更改時にオフィス賃料の引き下げ交渉を行える余地があり(実際に多くの賃貸オフィスビルで空室増加に対処するためオフィス賃料の値下げやフリーレント提供が行われた)、テナント・オーナー間で実勢に即した調整がなされてきた。
要するに、賃料固定契約は、インフレリスクはオーナー側が負担し、デフレリスクはテナント側が負担する構造と言えるが、長らく日本では顕著なインフレもなく両者の利害対立が表面化しにくい環境が続いたため、このモデルが大きな不都合なく受け入れられてきたのである。
だが、前提が変われば、合理性もまた変わる。
しかしそれでも、「固定賃料」という前提が、今後も普遍的に続くとは限らない。インフレが“当たり前”になり、金融政策が“引き締め”に向かい、企業が“価格転嫁”に動き始める今、オフィス賃料だけが静止していていいはずがない。
この章では、あくまでその「前提の変化」を確認するにとどめるが、次章では、物価とオフィス賃料がどのように動いてきたのか、実際のデータを使い、東京都心Aクラスのオフィス賃料とCPIの関係を統計的に検証する。
第2章:東京都心Aクラスのオフィス賃料とCPIの時系列分析結果
本章では、三幸エステート・ニッセイ基礎研究所が共同開発した東京都心Aクラスビルのオフィス賃料指数(成約賃料ベース)と、総務省統計局の東京都区部消費者物価指数(持ち家の帰属家賃および生鮮食品を除く総合指数)との時系列データを用い、両者の関係性を分析した結果を報告する。データは主に四半期ベースで整理されており、賃貸オフィス市場の実勢を反映する成約賃料指数、CPIは一般物価の基調を示す指標(持ち家の帰属家賃や生鮮食品等の価格変動要因を除去)である。持ち家の帰属家賃は実支出を伴わない仮想的家賃であり、短期の市場動向を鈍化させうるため除外した。生鮮等の短期変動要因の影響も抑え、賃料やサービス価格といった基調的な物価にフォーカスする狙いである。
分析手法として、まず両者の相関係数を算出し、時系列の先行・遅行(ラグ)関係を検証した。さらに、グレンジャー因果性分析(Granger causality test)を実施し、一方の変動が他方の将来の変動を統計的に予測可能かどうかを確認した。グレンジャー因果性検定は、ある時系列の過去値が別の時系列の将来値の予測精度を高めるかどうかを検証する手法であり、「原因」が「結果」を時間的に先行して予測可能であれば、グレンジャーの意味で因果関係があると判断する。以下、相関分析・ラグ分析および因果性検定の結果について、検証手順を踏まえながら丁寧に読み解いていく。
オフィス賃料とCPIの相関関係とラグ分析
まず、東京都心Aクラスのオフィス賃料指数と東京都区部CPI(持ち家の帰属家賃・生鮮除く)の相関関係を概観した。両者の同時点(ラグ0)での相関係数はそれほど高くなく、中程度の正の相関に留まりました(分析期間全体を通じて、どちらか一方のみが継続的に上昇・下降する関係ではなかったためと考えられる)。実際、2000年代以降の日本では基調的な物価上昇率が極めて低く、コアCPIがほぼ横ばいだった2000〜2022年の間、名目賃料と物価変動調整後の実質賃料には大きな差が生じなかった。
過去のオフィス賃料上昇局面は主としてオフィス需給の改善(空室率の低下など)による市場要因で説明でき、必ずしも物価全体の上昇(インフレ)によって引き起こされたわけではないと考えられる。したがって、この期間においてオフィス賃料とCPIの同時的な連動は明確ではなく、相関係数も限定的な値となった。
次に、時差を考慮した相関(クロス相関)分析を行い、どちらの系列が先行して変動しているかを検証した。具体的には、オフィス賃料指数の時間系列を前後にシフトさせてCPIとの相関係数を比較することで、オフィス賃料が先行する場合とCPIが先行する場合の関係性を調べた。その結果、オフィス賃料の変化が数四半期程度先行した場合に、CPIとの相関が最も強くなることが確認された。例えば、オフィス賃料指数の変化(前年比変化率など)がある四半期に発生した後、数四半期遅れてCPIの変化率が追随するようなパターンが見られ、オフィス賃料→CPIの方向で正の相関が顕著になった。一方で、CPIの変化を先行させてオフィス賃料との相関を見ると、有意な相関の強まりは観察されず、CPIが先に変動してオフィス賃料が後から反応するという明確なパターンは確認できなかった。これらの結果は、オフィス賃料の変動がCPIの変動に先行して発生している可能性を示唆するものである。言い換えれば、オフィス賃料指数の上昇局面の後になってCPIも上昇する傾向が見られるのに対し、CPIが上昇した後でオフィス賃料がそれに引きずられて上昇する傾向は見られなかったということである。こうしたリード・ラグ関係の分析によって、両者の時間的な動き方には非対称性があることが示唆された。
グレンジャー因果性の検証
上記の相関およびラグ分析で示唆された関係性を定量的に検証するため、グレンジャー因果性検定を行った。グレンジャー因果性分析では、例えば「CPIの過去の動きがオフィス賃料の将来の動きを予測するのに寄与しているか(CPI⇒オフィス賃料)」と「賃料の過去の動きがCPIの将来の動きを予測するのに寄与しているか(オフィス賃料⇒CPI)」の二方向について仮説検定を行う。本分析では適切なラグ長(過去何期分まで遡って影響を与えるか)を設定したVARモデルのもとで因果性検定を実施した。その結果、「CPIのラグ(遅行項)はオフィス賃料の変動を予測しない」という帰無仮説を棄却できず、CPIがオフィス賃料をグレンジャーの意味で因果(先行)している証拠は得られなかった。平たく言えば、過去のCPIデータを使っても、将来のオフィス賃料を有意に改善して予測することはできなかったという結果だ。これは先の相関分析で見たように、CPI側が先に動いてオフィス賃料を動かすようなパターンが見られなかったことと一致する。
一方で、「オフィス賃料のラグがCPIの将来変動を予測しない」という仮説については、統計的有意水準で棄却された。つまり、過去のオフィス賃料の動きを説明変数に加えることで、将来のCPIの予測精度が改善することが確認され、オフィス賃料からCPIへの一方向的な因果性(グレンジャー因果性)が示唆された。グレンジャー因果性の考え方に沿えば、オフィス賃料はCPIに対して先行的・予測的な情報を持っていると言える。なお、グレンジャー因果性はあくまで「予測に有用な先行性」を示すものであり、必ずしも直接的な経済メカニズム上の因果(原因と結果の関係)を意味するものではない点には注意が必要である。本分析でも、オフィス賃料がCPIを「直接に引き上げる」メカニズムが証明されたわけではなく、統計的な検定の結果として「オフィス賃料の動きが先に起きており、その情報がCPIの将来の動きを説明する力を持っている」という事実が確認された、という位置づけになる。
分析結果の要約
以上の検証結果を踏まえると、本分析で得られた知見は以下の通り。
- CPI上昇がオフィス賃料を引き上げてきたという明確な証拠は見当たらない。過去約20年のデータでは、物価(インフレ)上昇が先に起こり後からオフィス賃料が上昇するパターンは統計的に確認されず、むしろオフィス賃料は需要・供給など独自の要因で変動してきた。
- むしろオフィス賃料の変動が先行し、それがCPIに影響を及ぼしている可能性が示唆される。オフィス賃料指数が上昇した後でCPI(持ち家の帰属家賃除く総合)が上昇するケースが多く、オフィス賃料の変動が将来の物価上昇に寄与しているとの分析結果が得られた。特に、オフィス賃料の上昇が持続する局面では遅れて家計消費面の価格指数にも波及しうることが示唆される。
考察と今後の展望
本章の結果は、東京のオフィス賃料と物価の関係に関する従来認識と整合的である。日本は長期にわたり低インフレ〜デフレが続き、2000年代から2020年代前半までコアCPI(持ち家の帰属家賃を除く総合)の伸びはゼロ近傍で推移してきた。この間、都心部の賃料は主として景気・企業行動・空室率といった需給要因で動いており、「一般物価が先に上がり、後からオフィス賃料が引きずられる」という局面は乏しかったと解釈できる。
CPI側の構造も、その非連動性を裏づける。消費者物価における「家賃」項目(持ち家の帰属家賃を除く民間賃貸)は既存契約のストックを積み上げる指数であり、変化は緩慢である。新規契約の賃料(フロー)が上がっても既存は据え置きが多く、家賃指数は時差を伴ってじわりとしか上がらない。結果として、オフィス賃料が先に動き、CPIは遅れて追随するというパターンが統計的に観察されやすい。今回のラグ分析と因果性検定の示唆とも整合する。
もっとも、足元は環境が変わりつつある。2022年以降、コアCPIが明確に上昇に転じ、名目賃料が横ばいであれば実質賃料の目減りが拡大している。仮にインフレが定着すれば、米国などで見られるように、景気循環で上下しつつもトレンドとして物価上昇に沿う賃料という新たなサイクルが日本でも形成されうる。その局面では、従来弱かった「CPI→賃料」方向の影響が立ち上がる可能性を否定できない。ゆえに、両者の関係は継続的なモニタリングと手法アップデート(ラグ長の再評価、構造変化の検定、サブサンプル分析)が不可欠である。
総括すると、本分析が示したのは次の二点である。第一に、過去データからは「CPIが先行して賃料を押し上げる」明確な証拠は得られない。賃料は需給主導で動き、CPIはその後を緩やかに追う。第二に、賃料からCPIへの一方向の予測性(グレンジャー因果性)が示唆された。ただしこれは統計的な先行性であって、経済メカニズム上の直接因果を断定するものではない点は強調しておきたい。手法・前提・データ窓の違いによって結果は変わりうるため、結論は控えめに解するのが妥当である。
数字が示すメッセージは明快だ。少なくとも過去、日本では「CPIがオフィス賃料を引き上げる世界」は一般的でなかった。では、なぜ賃料は動きにくかったのか。答えの一部は、契約と法にある。次章では、普通借家契約という制度の壁を正面から検証する。
第3章:オフィス賃料の改定を阻む普通借家契約の壁
東京の賃貸オフィス市場では、借地借家法に基づく普通借家契約が主流であり、テナントの権利が極めて強く保護されている。
この普通借家契約では、借地借家法26条において法定更新が規定される。
契約期間が満了しても、期間満了の1年前から6か月前までに貸主から正当事由のある更新拒絶通知が出されない限り、契約は自動的に従前と同一条件で更新されたものとみなされる。賃料増額に同意しないという理由だけでは「正当事由」には該当しないため、貸主が更新を拒絶することはできない。つまり、借主は、提示された賃料アップを拒否しても従前の家賃を支払い続ければ契約を存続させる権利がある。このため、貸主は、借主が同意しない限り一方的に賃料を上げることも、契約を終了させて退去させることも極めて困難である。
賃料増額の厳格な法定要件
借地借家法は賃料増減請求(32条)について厳しい要件が規定される。
賃料は、当事者間の合意で決められる原則であるが、借主の合意が得られない場合において、以下の事情によって現行賃料が不相当となった場合に限って、将来に向かって賃料の増額請求が認められる
- 租税その他の負担の増減:固定資産税など貸主の負担増減がある場合
- 経済事情の変動:不動産価格や物価の上昇(インフレ)など経済情勢の大きな変化がある場合
- 近隣同種物件の賃料との比較:周辺の類似物件と比べて現行賃料が低すぎる(または高すぎる)場合
- その他の事情:当初契約時に特殊事情で低く設定された場合など、個別契約に固有の事情
以上の事情により現在の賃料が客観的に不相当と認められることが必要で、しかも最後に賃料を決定してから相当長期間が経過している場合でなければ、裁判所は、賃料増額を認めない。また、契約書に一定期間賃料を増額しない特約があれば、その間は増額請求できない点にも注意が必要だ。実務上も、周辺市況と比べ現行賃料が明らかに低水準となり、長年据え置かれていたようなケースでない限り、借主の同意なしに賃料を上げるのは難しく、「増額に応じなければ退去させる」といった貸主の要求も法的には通用しない状況だ。
判例に見るオフィス賃料増額紛争の実情(東京都内中心)
東京都内の賃貸オフィスビルにおける賃料増額紛争の判例も、借主有利の傾向を示している。借主の同意なしにオフィス賃料を上げようとして訴訟になったとしても、裁判所は大幅な増額には慎重であり、多くのケースで貸主の主張通りの増額は認められていない。例えば、東京高等裁判所平成20年4月30日判決では、商業ビルの賃貸借で従前賃料58万3800円を89万2000円(約53%増)に増額することが認められたが、これは契約当初に貸主が借主事情に配慮して他より低額な賃料を設定し、3年後に増額要請していたという特別な事情があったためである。特殊事情によって当初賃料が不当に低かったケースではこのように大幅増額が認められることもあるが、通常の契約では極めて例外的だ。実際、同じ商業用不動産でも、不動産鑑定結果に基づいて増額自体が認められなかった判例もあり、裁判所は弱い立場にある借主の事情に配慮して安易な賃料アップを許容しない傾向がある。
さらに直近の例では、東京地裁平成26年4月17日判決(東京都内オフィスビルの賃料増額請求事件)がある。この判例では、賃貸人の増額請求に対し、継続賃料の算定手法として「差額配分法」が採用された。裁判所は現行賃料と鑑定による適正賃料との差額を貸主・借主間で按分し、交渉力や契約期間経過、建物老朽化度合いなどを考慮して按分割合を6対4(貸主60%:借主40%負担)と判断している。その結果、一度に周辺相場の新規賃料水準まで引き上げることは許されず、従前賃料との差額の一部だけを反映した適度な増額にとどめる形で判決が下されている。同様に、東京地裁平成29年4月19日判決でも、商業ビルの賃料を約15%増額(30万8571円→35万6670円)するにとどめており、鑑定による差額配分方式の試算結果を妥当と認めた上で相当賃料額を算定した。一方で、契約当初から異常に低い賃料が設定されていたわけでもない通常のケースでは、貸主の期待する大幅アップは認められにくく、場合によっては貸主の増額請求自体が棄却される(現状維持となる)例も見られる。
このように判例上、貸主が訴訟で完全勝利して大幅賃料アップを勝ち取るケースは稀であり、増額が認められてもごく一部の増加に留まるのが実情である。借主が賃料増額に応じない以上、貸主としては正当事由のない更新拒絶もできず、訴訟に持ち込んでも時間と費用がかかる割に得られるリターンは限定的である。この構造的なジレンマゆえ、貸主側はテナントとの日頃からの関係構築や小幅な増額での合意を図る努力、場合によっては立退料を伴う明け渡し交渉等の現実的解決策を模索せざるを得ない状況にある。結果として、東京都心のオフィス賃貸市場ではオフィス賃料の上昇局面でも既存テナントに対する賃料改定は難航しやすいという構造が継続している。
判例リスト(東京都内オフィスビル関連)
- 借地借家法(平成3年法律第90号)第26条・第32条
- 東京高判平成20年4月30日(賃料増額請求事件)
- 東京地判平成26年4月17日(平成24年(ワ)28185号)
- 東京地判平成29年4月19日(賃料増額等請求事件)
裁判に訴えたとしても、オフィス賃料アップは難しく、そもそも勝率も低い。
では、賃貸オフィス市場での工夫はどこまで進んだのか。次章では、日本でも動き始めた指数連動の試行事例を拾い、メリット・デメリットを検証して、限界も見据える。
第4章:インフレ連動型賃料の導入事例–オフィス賃料を物価に連動させる試み
日本では長らく、オフィス賃料は契約期間中に変動しない「岩盤品目」とされ、物価が上昇してもオフィス賃料へ反映されにくいのが通例でした。しかし近年、消費者物価指数(CPI)の伸びが3%を超えるインフレ傾向の中で、オフィス賃料を物価上昇に連動させる新たな契約形態が注目されている。大手デベロッパー各社はリスクヘッジと収益確保を狙い、欧米で一般的な「毎年賃料を見直す変動制契約」の試験導入に踏み出し始めている。以下に、日本の不動産賃貸市場で進みつつあるインフレ連動型賃料(CPI連動賃料)の主な導入事例を紹介する。
- GLP投資法人(物流施設特化型のJ-REIT)–日本の物流施設分野では先行してインフレ連動型賃料の導入が進んでおり、GLP投資法人では契約期間中にCPIに応じて賃料を改定できる条項を多くの賃貸借契約に組み込んでいる。実際、同リートが保有する物流施設の約6割が物価連動型契約となっており、直近の契約更新時には平均5.3%の賃料増額を実現した。インフレ環境下でも安定した内部成長を図る戦略の一環であり、約3年以上の長期契約の8割にこのCPI連動条項を導入した結果、過去3年間の賃料増加率は平均+6.8%に及んだと報告されている。
- ジャパン・リアルエステイト投資法人(JRE)–三菱地所グループのオフィス特化型J-REITであるJREでは、大手テナントとの10年超の長期賃貸契約においてCPI連動型賃料を導入しました。これは、従来契約期間中に賃料を上げにくかったオフィス賃貸において、初めてインフレを賃料に転嫁する本格的な試みと位置付けられる。JREの資産運用会社であるジャパンリアルエステイトアセットマネジメント(JRE-AM)は「今回の契約をモデルケースとして、インフレ対応策として同様の契約をできるだけ広げていきたい」と述べており、物価上昇局面で実質収益が目減りしないよう安定配当を維持する狙いがある。もっとも、オフィス市場ではCPI連動契約の前例がほとんどないため急速な普及は難しいとの見方も示されており、まずは大口テナントとの間で慎重に試験導入しながら様子を見る段階にある。
- 野村不動産–総合デベロッパーの一角、野村不動産も、自社が開発・運営する一部のオフィスビルや大型物流施設において、長期賃貸契約の一部にCPI連動型賃料を導入し始めている。契約更改時だけでなく期間中にも賃料を調整できる選択肢を持つことで、インフレ下でも資産価値を守る狙いだ。野村不動産はテナント企業との賃料交渉において物価連動条項を提案する動きを強めており、貸主・借主双方にメリットがある契約形態として模索を進めている。例えば物流施設ではテナントとの関係性を踏まえつつ契約期間短縮や変動賃料の導入を進め、将来のインフレ局面でも収益成長を確保しようという戦略だ。
以上のとおり、賃貸オフィス用途におけるCPI連動型賃料契約の導入は、現状ではごくわずかである。ただし、その少数事例は都心のハイグレード物件や大手デベロッパー/REITによる大型案件に集中し、「定期借家×CPI連動」という形で試行されている点に意味がある。
いまのところ多くの賃貸オフィスビルのオーナー・テナントにとっては馴染みが薄いが、インフレが常態化しつつある局面では、オフィス賃料の実質的な価値を維持して、将来に亘って賃貸オフィスビルを安定的に運営していく手段として着目すべき選択肢になりつつある。
ここでCPI連動型の中身をもう一歩、具体的に見ておく。
前提となる器は定期借家契約である。2000年導入の定期借家は、期間満了で更新なく終了するため、満了時に「改定受入れか退去か」を明確に提示できる。インフレ局面ではこれ自体が強力なカードになり得る。また、借地借家法38条により、定期借家では賃料増減請求権を排除する特約も可能で、期間中は合意条件で固定、満了時に主条件を再設計という運用が取りやすい。
もっとも、普及率は高くない。都心Aクラスでも採用は2〜3割程度にとどまり、依然として普通借家が主流である。移転コストや業務リスクを嫌うテナント側の要請で普通借家が選ばれやすく、定期借家への置き換えが進みにくいことが背景にある。
その上で、賃料連動条項の代表形を整理する。実務の主指標はCPI(とくにコアCPI)である。他の指数(PPI・建設コスト指数)に連動させる設計も理論上は可能だが、国内外とも採用は少なく、日本の実態はほぼ「物価連動=CPI連動」である。
設計の要点は次のとおり。
- 賃料の改定幅の算定:典型は「直近1年のCPI上昇率=翌年改定率」。変形として「2〜3年の累積率で定期改定」「反映率50%などの部分転嫁」もあり得る。誤解を避けるため数式で明文化する。
- 賃料の改定頻度・タイミング:年1回が基本。低インフレ期は「一定年数ごとまとめて改定」「当初○年固定→以降は毎年」といった段階設計も現実的。タイムリーな追随と予算の安定のバランスを取る。
- 賃料の変動幅の制限(キャップ&フロア):年あたりの上限(例+3〜5%)と下限(例0%=据置、または−1%まで)を置き、急騰・急落への耐性を持たせる。双方のリスクヘッジとして機能する。
- 自動改定か協議か:基本は指数に基づく自動改定が望ましい。ただし「年±3%以内は自動、それ超は協議」などの再交渉トリガーを併記しておくと運用が滑らかになる。改定通知のリードタイム(例:60〜90日前)も条項化する。
なお、CPI連動ではないが、欧米では固定レート方式(年2%等)も一般的である。日本でも誘致目的の段階賃料は従来からあるが、性格はインフレ対応というより、テナント誘致を念頭に置いたテナントの賃料負担の平準化である点は区別しておきたい。
以上の試みは、硬直的とされてきたオフィス賃料に物価変動を織り込む導管を通す動きとして位置づけられる。ただし現在はあくまで黎明期の部分導入であり、一般慣行化には至っていない。
【参照】日本経済新聞(2025年7月7日朝刊・経済面)「オフィス賃料にもインフレ連動契約登場」(本文は筆者による要約・考察)
現実には、こうした試行はまだ“兆し”にすぎない。他方で、インフレ・コスト・金利の三重苦が続く限り、オフィス賃料を動かせない賃貸オフィスビルのオーナーの窮乏化は避けがたい。では、テナントは上がった賃料に耐え得るのか。次章では、オーナーの合理的利益の確保とテナントのアフォーダビリティを両立させるための現実解を詰める。
第5章:インフレ下のオフィス賃料:オーナーの苦境とテナントの対応 インフレで目減りするオーナー収益とオフィス賃料引上げの必要性
現状主流である普通賃貸借契約のもと、賃料が契約期間中ずっと固定されている場合、インフレが進むほど賃貸オフィスビルのオーナー収益は確実に目減りする。2022年以降、日本のCPI(消費者物価指数)は年間2〜3%台の上昇を示し、2025年4月時点でも前年比3%を超える伸びを記録している。仮に名目賃料(水準)が横ばいであれば、実質賃料(物価変動を考慮した賃料価値)は毎年約3%ずつ減価する計算になる。つまりインフレが続く中で賃料を据え置けば、オーナーが受け取るオフィス賃料の実質的な価値は年々減少していくわけである。
一方で賃貸オフィスビルの運営コストは昨今急騰しており、オーナーの収益をさらに圧迫している。オフィスビルの清掃・警備・設備管理など委託先の人件費は人手不足や賃上げ圧力によりここ数年で約20%近い上昇を強いられ、修繕工事費用の単価も資材価格高騰などで約30%上昇しているとされる。こうした収入の実質目減りと費用の大幅増加が重なった結果、中規模・築古(築30年以上)のビルでは営業純利益(NOI)が5年間で15〜20%縮小した例も出てきている。さらに金融環境の変化も追い打ちをかけている。日本銀行の長年にわたる超低金利政策が転換局面を迎えつつあり、仮に政策金利が現在のマイナス圏から0.25%、0.75%へと利上げされれば、ローン借り換え時の利息負担は増大し、DSCR(債務返済履行率)の低下は避けられない。要するに、インフレ+コスト高+金利上昇という三重苦の中で、オフィス賃料の据え置きが続けばオーナー側の収益は細る一方なのである。
このような状況に対し、賃貸オフィスビルのオーナー側には強い危機感が広がり始めている。「このままオフィス賃料の改定(値上げ)ができなければ資産価値を守れない」という共通認識が芽生えつつあり、オフィス賃料設定の見直しは避けられないとの見方が一般的になりつつある。実際、東京23区の大規模オフィスでは2023年末以降、空室率低下に伴って募集賃料の上昇傾向が見られるものの、その伸び率は物価上昇や建設コストの上昇と比べ限定的であり、インフレ対応の賃料設定や契約慣行の見直しが模索され始めているとの指摘もある。建設コストや人件費の高騰分を十分にオフィス賃料へ転嫁できず、開発計画の延期・中止が増えているとの報道もあり、現行水準のオフィス賃料ではオーナー側の採算が取れずマーケット全体の持続性が損なわれかねない。
以上の背景から、オフィス賃料を引き上げざるを得ない状況が生まれている。名目賃料の上昇そのものは需給環境の改善を反映して近年ようやく起こり始めたが、実質ベースでは依然として低水準に留まっている。オーナー側としてはインフレ下で資産価値と収益を維持するため、たとえCPI連動型の契約導入が一般化していないにせよ、何らかの形で賃料水準を底上げしていく必要に迫られていると言える。
テナント企業のオフィス賃料負担能力とその限界
もっとも、オーナーがオフィス賃料引き上げを望んでも、それを支払えるテナント(借り手)が存在しなければ値上げは実現しない。オフィス賃料引上げを正当化する鍵は、「テナント企業にその支払い余力・意思があるかどうか」にかかっている。ここではテナント側のオフィス賃料負担能力に影響を与える要因と、オフィス賃料上昇への対応姿勢について整理する。
まず企業の収益配分上の制約として労働分配率の問題がある。日本企業(特に東証プライム上場企業)では、付加価値に占める人件費の割合、すなわち労働分配率が概ね50〜60%程度とされる。近年は物価高騰を背景に政府や労働組合が賃上げを強く要求しており、実際に2023〜2025年の春闘では大手企業で5%前後の賃上げが2年連続で実現するという高水準となっている。例えば経団連の集計によれば、2025年春闘における大手企業の賃上げ率(定期昇給+ベースアップ)は平均5.39%に達し、2024年に続いて5%台を記録したとのことである。限られた企業の収益(付加価値)の中で、人件費とオフィス賃料の双方に配分を振り向けるのは容易ではない。物価高に対応した賃上げに多くを充てれば、それだけオフィス賃料に充当できる余力は削られる。したがって、賃金上昇圧力が強い局面では企業がオフィス賃料の増額に慎重になるインセンティブが働きやすい。
しかし現在のところ、オフィス賃料が企業支出に占める割合自体はそれほど大きくないケースも多い。一般的なオフィス利用企業では、人件費や製造原価などと比べればオフィス賃料は総コストの数%〜一桁台後半程度に留まることが多いため、直ちに経営を揺るがす水準ではないとも言える。とはいえ、インフレ下で労務費・原材料費など様々なコストが増大する中、企業がコスト削減策としてオフィス関連費用を抑制しようとする動きが強まる可能性は否定できない。実際「賃料負担増に直面した際、他のコスト項目を見直して対応する」と回答する企業経営者も少なくない。総じて、テナント企業側にもインフレ環境への適応として支出配分を見直す圧力があり、オフィス賃料は固定費ゆえに削減対象となりうるという認識も共有されていると言えよう。
業種によるオフィス賃料上昇に対する耐性の差
オフィス賃料上昇を吸収できるかどうかは業種によって大きく異なる。「賃料負担増を吸収しやすい業種」と「賃料増が直接的に経営圧迫につながりやすい業種」が存在する点に注意が必要である。具体例として以下が挙げられる。
- 高付加価値・高利益率の業種:金融、IT、コンサルティング、専門サービスなど利益率が高く付加価値額の大きいセクターでは、人件費や諸経費全体に占めるオフィス賃料の割合が低いため、多少のオフィス賃料上昇は全体コストへの影響が小さい。このため値上げに対する受容度は比較的高めである。例えば東京の都心一等地の高額オフィスでも、外資系金融機関や大手IT企業などは立地や設備の充実を優先して入居を決めるケースがあり、高めのオフィス賃料を支払ってでも優れたオフィス環境を選ぶ傾向が見られる。優秀な人材の生産性が付加価値の源泉となっている業種では、オフィス環境もその生産性を支える投資と位置付けられるため、オフィス賃料は単なるコストではなく許容すべき戦略的支出と考えられる。
- 低マージン・労働集約型の業種:小売業、飲食業、コールセンター業務、人材派遣・BPOなど労働集約度が高く利益率の低いビジネスでは、オフィス賃料の上昇は収益への打撃が大きい。こうした企業は人件費の比重が高く、自社コスト増を製品価格やサービス料金に転嫁しづらい傾向があるため、賃料増分がそのまま利益圧迫要因となりやすい。したがってオフィス賃料上昇局面では、オフィススペースの縮小、郊外・地方へのオフィス移転、あるいはリモートワーク活用によるオフィス面積削減などで対応し、なんとか総支出を抑えようとする傾向が強まる。この結果、オーナー側にとっては空室リスクの増大として跳ね返る可能性が高い。
さらに付け加えれば、同じ企業・業種内でも部門や業務内容によってオフィスにかける価値は変わりうる。例えば製造業であっても、研究開発拠点やデザイン・クリエイティブ部門は優秀な人材を集めるため都市部の一等地に構え、高いオフィス賃料を払う価値があると判断されるかもしれない。一方で総務・経理などバックオフィス業務やコールセンター業務は、郊外や地方に分散配置してコストを抑える、といったケースも見られる。企業は部門ごとの付加価値生産性を見極め、オフィス賃料をかけるべきところにはかけ、削れるところは削る戦略をとっているのである。結局のところ、高いオフィス賃料負担を正当化できるかは単に「業種名」だけで決まるものではなく、その企業・部門が生み出す付加価値がどれだけ人材やコラボレーション環境に依存しているかが本質的なファクターと言えるだろう。
人材戦略としてのオフィス環境投資
近年、「オフィス環境への投資が優秀な人材の確保・定着に繋がる」とする議論が重要視されている。オフィス賃料は単なる経費ではなく、「人への投資(人的資本への投資)」という側面があるとの考え方だ。魅力的な立地や高品質なオフィス空間を用意すること自体を福利厚生や採用戦略の一環と捉える企業が増えている。単にコスト削減の観点でオフィス支出を圧縮するのではなく、敢えて賃料コストをかけてでも良いオフィスを構えることで人材面でのリターンを狙う動きである。
例えば新卒採用・中途採用の場面では、応募者が面接や会社説明会で訪れたオフィスから受ける印象は侮れない。自社オフィスを見学に訪れた候補者に洗練された快適な職場環境を示すことで企業イメージや志望度が向上し、結果的に採用競争を有利に進める効果を狙う企業も多い。ある調査によれば、企業選びにおいてオフィス環境が魅力的だと志望度が上がると回答した求職者は83%にも上ったとされ、7割近くの求職者が「企業選びでオフィス環境の良さを重視する」と答えている。これは企業側が考える以上に候補者が職場環境を重視していることを示しており、オフィス環境の良さが採用の競争優位を左右する一因ともなりうる。また別の調査では、経営者の過半数が「オフィス環境の見直しが優秀な人材の確保・育成につながる」と期待しているとの報告もあり、社内外へのアピールを含めた職場環境整備への関心が高まっている。
加えて、社員のエンゲージメントや生産性向上の観点からもオフィス改善への投資意欲が見られる。実際、「これまで人事戦略と不動産戦略は別物とみなされてきたが、オフィス環境が社員のエンゲージメント向上に大きく影響することが理解され、人事戦略の一環としてオフィス移転・改修を行う企業が増えている」という指摘もある。日本政策投資銀行(DBJ)の「オフィスビルに対するステークホルダー意識調査」(2024年)によれば、多くのテナント企業が「チームの生産性向上」や「人材確保」につながるオフィスの設備や空間であれば追加のオフィス賃料負担を許容すると回答しており、この傾向は特に成長企業(従業員が増加傾向にある企業)で顕著だという。言い換えれば、成長意欲の高い企業ほど生産性や人材確保に資する快適な職場環境にお金をかける価値があると認識しているのである。オフィス賃料コストを「人材投資」と捉える企業文化が定着しつつあるとも言えよう。
もっとも、こうしたオフィス環境向上の効果は定性的・間接的な要素が強く、具体的な数値指標で因果関係を示すのは容易ではない。オフィスを刷新したからといって直ちに離職率や業績が劇的に改善するとは限らず、企業文化や働き方、マネジメント手法など複合的な要因が絡むためだ。しかし上述の通り、多くの企業経営者や求職者が「良いオフィスは重要だ」と感じている事実は見逃せないポイントである。職場環境を整備し向上させる戦略は、少なくとも人的資源の確保・定着にプラスに寄与しうるとの合理的な期待感が広く共有されていると言えよう。優秀な人材をめぐる競争が激化する中、オフィスへの投資を将来への布石と捉える企業が増えているのである。
まとめ:インフレ時代のオフィス賃料見直しと今後の展望
インフレ環境下において賃貸オフィスビルの賃料見直し(上方修正)は不可避だというのが本章の論旨である。固定賃料のままではオーナー側が一方的に疲弊し、ビル維持や新規開発が滞ればオフィス市場全体の健全な発展が阻害されかねない。幸い現在のところ、日本企業にとってオフィス賃料は総コストの中で致命的な比率を占めるわけではなく、インフレ調整的なオフィス賃料上昇に対して耐性を持つ業種・企業も多い。しかしながら、テナントのオフィス賃料負担意欲・能力には業種ごとの差異が大きく、画一的な値上げが許容される状況ではないのも事実である。低収益体質の業種ではオフィス賃料上昇分がそのまま経営圧迫要因となり、テナントの縮小・退去リスクが高まるため、オーナー側も慎重な対応が求められる。
その一方で、オフィス賃料を相応に払ってでも良質なオフィスを確保しようとする動きも確実に存在する。高付加価値セクターや成長企業を中心に、オフィス環境への投資を人的資本への投資と捉え、優れた立地・設備を備えたビルへの入居ニーズは根強い。またポストコロナの流れの中で「質への逃避(Flight to Quality)」とも言うべき現象が進み、交通至便で高品質なオフィスビルほど空室率が低下しオフィス賃料も堅調に推移している。企業は自社の事業特性と人材戦略に応じて、オフィス賃料支出の優先順位を決めている。オーナー側としてはテナントの業態やニーズを見極め、付加価値創造に資するオフィスサービスや環境を提供することで、適正なオフィス賃料水準への理解を得ていく努力が必要になるだろう。
総括すれば、インフレによるコスト増に苦しむオフィスビルオーナーが持続的にビジネスを営むには、何らかの形でオフィス賃料を引き上げることが避けられない。他方でテナント企業側も旧態依然とした借地借家法の保護に安住するばかりではなく、自社の成長や人材確保のために支払う価値のあるオフィス賃料には前向きに応じる姿勢が求められている。オフィスは単なる箱ではなく企業活動と働き方を支えるプラットフォームであり、その価値に見合ったコスト負担をどう分かち合うかが、インフレ時代のオフィス市場における新たな課題と言える。オフィス賃料交渉は従来以上にオーナーとテナント双方のパートナーシップが問われる局面に差し掛かっており、最終的には「持続可能なオフィス賃料水準」を模索する協調関係の構築が、ウィンウィンの市場を実現するカギとなるだろう。
ここまで、前編で見えてきた構図はこうだ。
インフレとコスト高が続く以上、「オフィス賃料を動かさない」という運用は、オーナー側の体力を削り、更新投資を遅らせ、結果としてテナントにも不利益が返ってくる。
一方で、オフィス賃料を上げれば何でも解決するわけでもない。テナントの負担能力には差があり、オフィスは部門配置や働き方とセットで最適化される。つまり、このテーマは「値上げ vs 据え置き」の二択では終わらない。
必要なのは、賃料改定を個別交渉の消耗戦にしないことだ。算式と手続に落とし、予見可能な仕組みに落とすことだ。
後編では、ここから踏み込む。オフィス賃料が固定されたままインフレが続くと、都市にどんな劣化が連鎖するのか。その見取り図を先に描いた上で、契約の設計(算式・キャップ/フロア・共益費の切り分け)、手続(通知・ADR)、そして普及のロードマップ(試行→標準→ルール化)まで、一気に詰める。
執筆者紹介
株式会社スペースライブラリ プロパティマネジメントチーム
飯野 仁
東京大学経済学部を卒業
日本興業銀行(現みずほ銀行)で市場・リスク・資産運用業務に携わり、外資系運用会社2社を経て、プライム上場企業で執行役員。
年金総合研究センター研究員も歴任。証券アナリスト協会検定会員。
2026年1月23日執筆
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